はてなキーワード: お別れの会とは
私の両親は放任主義であったので、私は色んな物語の背中を追って成長した。家にある本を対象年齢などお構いなしに片っ端から読んでいたので早いうちからどうやら人間は必ず死ぬらしいということを知った。事故、病、それらに気をつけたところで寿命というので死ぬらしい。幼い私の狭い世界の中では老人といえば父方の祖母と母方の祖父母であった。当時の私は血縁関係など知らず、やたら会う回数が多くて、やたら親しげに話しかけてくる親ではない人間、その程度の認識だったが、それでもこの人たちはもう間もなく死ぬのだと思うと堪らなく悲しくて、祖父母宅に泊まり眠る時の「おやすみ」や、帰宅する際の「さよなら」で別れを強く意識してしまい泣くことがよくあった。
しかしその三名の間というのは私が思ったよりも用意されており、私が初めに対面した死は保育園の友人のものだった。友人と言っても同い年ではなく、私がそう認識しているだけだった給食調理員の女性で、友人と思っていたために意識していなかったが彼女も今考えれば当時の祖母たちとそう変わらない年齢だったように思う。
礼儀作法を知らないので何度も何度も棺の中を覗きに行っては泣いた。いくら泣いたところで目を閉じた彼女が横たわっているだけで何も変わらなかった。
二度目は小学校の2〜3年生の頃、またもや勝手に友人扱いしていた女性の教頭先生だった。
学校の体育館で行われたお別れの会で大きな額縁に入った彼女の写真を見た。遺体があるわけではないので前のように泣きはしなかった。ただ、急だなと思った。
三度目は飼っていた猫だった。私が生まれるより前から家にいた猫の女の子ししまる。
母が譲り受けて、初めは家の中で放し飼いされていたらしいが兄が生まれた時にケージに入れられるようになり、それからは基本ケージの中がししまるの全てになった。
私は私たちのせいで自由を奪われることになったししまるへの罪悪感からあまり積極的に関わろうとはしなかった。
高校の帰り道、同級生数人の本当に心底どうでもいい話に付き合っている最中に母からメールでししまるの危篤が知らされた。どうしてか、私はどうでも良い話を切り上げず最後まで聞いて家に帰った。ししまるは冷たくなっていた。21〜2歳だったと思う。
なぜすぐに帰るという選択をしなかったのか、あんな会話よりもずっと大切な存在だったのに。
私よりも悲しんでいるに違いない母の前で泣くのは躊躇われて、やり場のない怒りと悲しみを階段に座ってやり過ごした。
数年後、くだらない話をしていた内の一人が飼っている猫がもう亡くなるかもしれないというLINEがきた。たしかに写真や映像でうんざりするほど見せられていたが、私はいつも適当に聞き流していたのでどんな猫だったかはこれっぽっちも覚えていなかった。そんな猫が死ぬかもしれないと聞かされたところで正直どうしたものか反応に困ったが、眼前に迫った愛猫の死に動揺して私という藁にまですがる様子に「本当に大切ならこうなるはずだ、お前はどうだった」と問われているような感じがして口の中が苦くなった。
四度目は父方の祖母が亡くなった。同じ家に住んではいたものの特に交流はなく、幼い頃から苦手な祖母だった。
祖母の部屋はニ階にあり、私の部屋は一階にある。あの日、夜、二階の台所で飲み物を手に入れて自室に帰るという時、祖母の部屋からガタッと物音がして「部屋から出てくるかも」と思い微かに開いた扉を横目に逃げるように階段を降りた。少し経ってから帰宅した兄が「婆ちゃんが倒れている」と家中に知らせて、部屋の中で固まる父、父の代わりに各所へ連絡を取る母、救急車やパトカーの音、集まってくる従姉妹たち、その全てを私は凪いだ目で見ていた。
父方の祖母は以前に一度死にかけたことがあり、救ったのは家の鍵を忘れた中学生の頃の私だった。
私は幼い頃から忘れ物常習犯であり、家の周りに民家がないのをいい事に家の前で欲しいものを大声で伝えて家の中にいる人間に取ってもらうというのをよくやっていた。
その日も帰宅したら玄関には鍵がかかっており、また、私は鍵を持っていなかったため外から「鍵開けて」と何度も繰り返し叫んだ。かなり長い間何も反応がなく、どこかに出かけているのかもしれない、帰ってくるまで玄関先で座って待っていようかと思い始めた頃、ようやく階段を降りる音が聞こえてきた。玄関の扉が開いて真っ先に伝えられたのが「病院に連絡して」だった。
諸々が終わった後で聞くには、どうやら意識を失っており、私の声で戻ってきたとの事だった。
以降、祖母はこの話を何度も繰り返しては私に感謝した。「綺麗な真っ赤な空間にいたらあんたの声が聞こえた、だから私は助かった、ありがとう」と。顔を合わせるたびに話されるので話すのをやめるようお願いしたほどだった。
死にかけた祖母はその後何もなかったように生き続け、恐らくボケて、兄と揉めることが多くなった。兄が言うには包丁を持ち出してくることもあったらしいが、 真偽は分からない。
そんな揉め事が起こるたびに私は「あの日、私の帰りがもっと遅ければ」「私が早々に呼びかけを諦めていたら」などと思ったのだ。
ガタッと物音がした時に私が様子を確かめていたら、祖母はまた帰ってきたのだろうか。祖母はあの日のように真っ赤な空間で私の声を待っていたんじゃないだろうか。あんなに嫌っていた祖母である。「あの時死んでいればこんな問題起きなかったな」とさえ思ったことがある祖母である。
そんな祖母の葬式で私は涙をなかなか止められなかった。悲しむ資格も道理もないのにどうして涙が止まらないのか不思議で自分に腹が立ってしょうがなかった。
祖母が亡くなってから父はよく兄妹たちを家に呼び、兄妹たちも呼びかけに応じて気軽に集まる。父も兄妹たちも祖母が生きていた時はそんなことしなかったのに。
五度目はまだ起きていない。
母方の祖母は癌治療中で、祖父はボケが始まっているがまだまだ元気にやっている。出来る限り健康で長く生きてほしい。
いつか絶対に五度目がくる。
何度経験しても慣れない死を悲しんだり、悲しんだふりをしていることに気づけないでいたりを繰り返しながら自分の番を待つ。
みんな死んでほしくないな、死にたくないな。
マイナンバーが書かれた付箋の張ってある保険証を二人分と免許証を一人分受け取る。
たまに免許証がない時もある
そういうときじじいは毎回、全然すまなくなさそうに保険証だけを渡してくる。
改札には大きな登山バッグに、キーホルダーを付けた女が女の子と手をつないで待ってる。
女は20歳ぐらいかな、もうだいぶこの仕事が長いんだけど全然年を取らない。
ちょっと不気味だよ
女の子は毎回年齢が違う。
5歳ぐらいの時もあれば18歳ぐらいの高校生だった時もあった。
正確な年齢なんてわからないけどね。
女の子の歳は幼いほうが楽だな
そう女は毎回言い残すと女の子を置いて帰っていく。
そのあと、総武線に乗って女の子と二人で免許証に書かれた住所に向かうんだ、
その住所に行くと、
そこには俺たちがしばらく住むことになるアパートがある。
アパートには誰かが準備してくれた、俺と女の子のアルバムとかが置いてあって
そういうのを一晩かけて読みながら今回の設定を頭に入れるんだ。
朝になると職場に向かう。
用意された職場は経験とかなくてもできる運送とか現場仕事が多いかな。
しばらく錦糸町の改札の女から電話が来るまでそんな暮らしが続く。
そういう暮らしが続く期間は毎回違う
何年も電話が来ない時もあれば3日ぐらいで終わることもある。
電話が来たらしばらく大変だ。
そんな、こんなを上手にやり過ごすと女の子と一緒に
また錦糸町の改札で女と待ち合わせするんだ。
女の子を引き渡して、しばらくはドヤやらカプセルホテル暮らしだな。
また仕事が始まるまでは何もせずに暮らせる。
そんな暮らしをもう何年もしてる。
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa_jp_5d19a27ee4b082e5536b950d
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/kokubun-taichi_jp_5d1a8fcee4b07f6ca5823d74
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa_jp_5d24a0f7e4b0cfb595fc5435
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d24a464e4b07e698c413711
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa_jp_5d24a2d5e4b0cfb595fc58d3
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa-higashiyama_jp_5d251294e4b07e698c425264
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa-kokubun-taichi_jp_5d251b72e4b07e698c426373
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/weibo-mucun_jp_5d253031e4b07e698c426e52
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnnys_jp_5d25374fe4b07e698c42716f
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-meigen_jp_5d25579ce4b0cfb595fda557
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa-hit-song_jp_5d2561c5e4b0583e482905c8
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d254158e4b07e698c42768d
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/kat-tun_jp_5d258674e4b0583e4829216e
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-kitagawa2_jp_5d24a100e4b0583e4827b0bc
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d2a9585e4b0bd7d1e1d954b
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/atarashii-chizu-johnny-san_jp_5d313ba3e4b020cd99412d5e
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d622d95e4b02cc97c8edac6
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/johnny-san_jp_5d6f1f1ee4b09bbc9ef663b4
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d104102e4b07ae90d9f734a
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/arashi_jp_5d6f6f50e4b011080456ece7
ttps://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e1571acc5b6c7b859d2a23b
ちなみに一番多くジャニーさんの記事を執筆してる生田綾さんは「1989年生まれ。ジェンダー、女性の生き方、人権、ハラスメントの問題、ルッキズム(ボディポジティブ)などに関心があり、取材しています。ドラマや映画、音楽などのエンタメから社会問題について考えることも好きです。」らしい
追記:ごめんよくカウントしたら生田さんは2位で湊彬子さんが一番多かったわ。「ハフポスト日本版ニュースエディター。朝日新聞から出向中です。元テレビ局員。 関心分野は、ジェンダー/メディア/LGBTQ/自己肯定感/エンタメ/ファッション…などなど。今の推しドラマは「スカーレット」です。 Twitter @minato_a1」
成り行きに身を任せる主義の蛍原。"雨上がり決死隊"としての売れっ子芸能人生活においてほぼ全てを宮迫が主導してきた。これまでコンビ同士であまりコミュニケーションを取らず、宮迫の判断を蛍原は全面的に尊重してきた。
宮迫:まぁ、コンビとしてなにか決めるとき、僕はこうしよう!っとデビュー当時からそうなんですけども、それに蛍原さんはついてきてくれたとこがあったんで、今回のことに関しても、逐一説明すべきとこだったと思うんですけども、そういうとこの僕の至らなさが、やっぱりそういうズレを生んでしまったので。
2019年5月の宮迫の嘘をきっかけとした一連の闇営業騒動は半年ほどをかけて一定の決着が付いた。しかし"宮迫の処遇"と"雨上がり決死隊の処遇"については2年経っても終着点が全く見えない状態にあった。
浅薄で自分勝手な宮迫は多くの誤った判断により自分自身や雨上がり決死隊の処遇について宮迫自身では解決できない難題に仕立て上げてしまった。
そして1年半以上が経ち状況の好転が見通せない中で、多くの人々(蛍原自身も含む)が抱えている様々なモヤモヤを晴らすために蛍原は「雨上がり決死隊の解散」と「アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会」を主導した。
蛍原:え〜、もしかしたら、この「雨上がり決死隊」の屋号ですね、外してしまったほうが、みんなすっきりと進むんじゃないかな〜っと。いうことで気持ちがそっちの方へ行っていきました。
解散を決めたりアメトーーク特別編の準備をしたりする中で2人はしっかりとコミュニケーションを取った。アメトーーク特別編で宮迫の短所が昔通りに発揮されていたのは事前に蛍原とコミュニケーションをしっかり取ってきた故に(2年ぶりのアメトーークにも関わらず)リラックスして本番に臨めたからだろう。
「アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会」は雨上がり決死隊という概念を支えている膨大な数に及ぶ様々な立場の人達全員のモヤモヤやしがらみを各々最低限は清算させるための場となった。
出川:びっくりしたのは、ホトちゃんから言ったことにそこに一番最初にびっくりして〜。ホトちゃんは宮迫には言わないとは思うけど、「雨上がりは宮迫のおかげなんです。宮迫がいての雨上がりなんです」って、あなたが(宮迫が)いないとこで裏で言ってた人だから、それが、ほんとにびっくりしたっていうのがある、それが一番最初の感想ですね
つまり、コンビとして初めて蛍原が決断して自発的に主導した行動が雨上がり決死隊の解散であり、コンビとして初めて密なコミュニケーションを取って実現したことが「アメトーーク 特別編 雨上がり決死隊解散報告会」なのだ。
宮迫:これについては、頑固ですから、コンビでやってる番組をすべて降りるって言ってたんですよ。
でも生活もあるからそんなわけにはいかない、そこは家庭でも話したみたいで、解散してやめてくれって言うれたら降りるってお話になったんですが、ただアメトークだけは、「俺はできない。俺は降りる」ってずっと言ってたんです。
蛍原:宮迫さんのおかげで今の僕があるんです。これは、ほんとに僕が思っていることで。別れて僕だけ残るっていうのはあまりに都合が良すぎるんじゃないかって気持ちが。
蛍原 : でもさ、なんか、フジモンも宮迫もさ、「全部宮迫が悪い」みたいなこと言ってたけど、それはまた違う話で。ね、コンビですから。もちろん。コンビのことやから「コンビのどちらかが全部悪い」とかないのよ、これは。それは…俺も悪いし。っていうところは…うん。そこは俺はフジモンの意見はちょっと違うかなと思ってんねんけどね。…それこそ「熟年離婚や」って言ってたけど、夫婦もね、片一方だけ100%悪いですとかなかなかないやろし。
雨上がり決死隊 解散のご報告 https://www.yoshimoto.co.jp/corp/news/media/media210817.html
「雨上がり決死隊の屋号を外す」コンビ揃って解散報告、アメトーーク!は現在の形で継続 - お笑いナタリー https://natalie.mu/owarai/news/441276
雨上がり決死隊の解散会見をほぼ全文文字起こし!アメトーーーク | PECOログ https://pecopeco0721.com/archives/6740
解散報告会収録直後 皆様へメッセージ【期間限定配信】 22日(日)23:59配信終了 https://ametalk-club.tv-asahi.co.jp/movies/60622
テレビドラマ「北の国から」や「新選組!」、映画「学校」など、数々の作品で存在感のある役柄を演じて親しまれた俳優の田中邦衛さんが、先月24日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。
田中邦衛さんは昭和7年に岐阜県で生まれ、昭和30年、劇団「俳優座」の養成所に入りました。
昭和32年に「純愛物語」で映画デビューし、昭和36年から始まった映画「若大将」シリーズでは加山雄三さん演じる主人公「若大将」のライバル「青大将」の役を演じて、存在感あふれるコミカルな演技で人気を集めました。
その後も、映画化もされた民放の人気ドラマ「若者たち」で両親を亡くした5人きょうだいの長男の役を演じたほか、ヤクザ映画の「網走番外地」シリーズや「仁義なき戦い」シリーズでは、悪役としても存在感を見せるなど、幅広い役柄を演じました。
中でも、昭和56年に始まった民放のドラマ「北の国から」のシリーズでは、北海道富良野市の大自然の中で息子と娘の成長を見守る寡黙な父親の役を20年以上にわたって演じ、温かみのある演技で幅広い年代の視聴者をひきつけました。
また、平成5年に公開された山田洋次監督の映画「学校」では夜間学校に通う中年男性を熱演し、日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しました。
このほか、平成16年のNHKの大河ドラマ「新選組!」では近藤勇の養父、周斎の役を演じ、平成17年にNHKスペシャルで放送された終戦60年企画のドラマ「象列車がやってきた」では戦時中の動物園で象を守り続けた飼育員を演じました。
平成11年に紫綬褒章、平成18年には旭日小綬章を受章しています。
田中さんは、平成22年に公開された映画「最後の忠臣蔵」に出演し、平成24年に亡くなった俳優の地井武男さんのお別れの会に姿を見せていましたが、その後、俳優活動から遠ざかっていました。
家族によりますと、田中さんは先月24日、老衰のため、家族に見守られながら息を引き取ったということです。
葬儀は家族葬の形ですでに執り行われ、お別れの会などの予定はないということです。
田中邦衛さんの死去について、30代の会社員の男性は「大往生ではないでしょうか。北海道といえば『北の国から』。『北の国から』といえば田中邦衛さんだというイメージです」と話していました。
また、50代の女性は「とても有名な方なので残念です。それほど年をとられていたなんて、知らなかったので驚いています」と話していました。
田中邦衛さんが出演した民放のドラマ「北の国から」を手がけた脚本家の倉本聰さんは「気持ちの中に大きな穴があきましたね。とにかく人間的にも友人的にも無二の人です」と心境を語りました。
また、このドラマでの配役について「さまざまな候補者がいてその中で誰がいちばん情けないんだろうという議論になって、邦さんになった」と明かしたうえで、「ドラマを通じてとても演技が成長していったと思う。彼の芝居は、本人はとても悲劇的なのに端から見ているとなんともおかしくなる。これが彼の神髄だと思う。情けなさの中に詩がある」と評しました。
そして「邦さんは亡くなったけれど、僕の中で、彼が演じた五郎は厳然と富良野で生きています。またあしたスーパーに行くと、『先生』なんて言われて肩をたたかれるような気がします」と田中さんをしのんでいました。
加山雄三さん「今は何もことばにならない」
映画「若大将」シリーズで田中邦衛さんと共演した加山雄三さんは自身のホームページでコメントを発表し「ショックです。邦さんに連絡をとりたくてとりたくて、ずっと気になってて、不思議なことに、2日前若大将のDVDで邦さんの姿を見たばかりだったんだよ。信じられない。今は何もことばにならない。寂しいよ本当に寂しい。邦さん本当にありがとう」とつづりました。
田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、田中さんが出演した映画「学校」の山田洋次監督は「田中邦衛さんへ 善良が服を着て歩いているような人だった。一緒にいるだけで楽しい気持ちになるようなすてきな人だった。あんな俳優が、あんな日本人がいたことを誇りに思う」とコメントしています。
田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、映画「最後の忠臣蔵」で共演するなど長年親交のあった俳優の役所広司さんは「邦衛さんには大変お世話になりました。ここ数年ずっとお元気なのか気がかりでした。スタッフにもキャストにも愛された、本当にすばらしい俳優さんでした。覚悟はしていましたが、悲しいです。邦さん、お疲れ様でした」というコメントを寄せました。
田中邦衛さんが亡くなったことについて、民放のドラマ「北の国から」の共演者がコメントを発表しました。
息子の役を演じた俳優の吉岡秀隆さんは「いつか、この日が来ることを心のどこかで覚悟しておりました。今は邦衛さんの笑顔しか思い浮かびません。自分の覚悟の小ささとあなたの大きな優しさに涙しかありません」とコメントを寄せました。
また、娘の役を演じた俳優の中嶋朋子さんは「幼い頃から、今まで、何も変わることなく、人として、深く接してくださいました。田中邦衛さんという存在に出会い、見守っていただけたことは、かけがえのない宝ものです。役者として、人として、大切なものをたくさん教えていただきました。本当に本当に感謝でいっぱいです。大好きです。出会う人をみんな幸せにしてしまう少年のように無邪気な笑顔ばかりが胸に浮かびます。天国でも、たくさんの人を幸せにしてくださいね。ありがとうありがとうありがとう」とコメントしています。
へいふく【平服】
とはいえレストランウェディングや社長の通夜にユ●クロのデニム履いて行ったらたぶんぶっ飛ばされますが、いわゆる「平服マナー」というものは常に無条件に適用されるものでありましょうか。
ファンが自由に参列できるような著名人の「お別れの会」の類は、「平服でお越しください」という案内が通例のようです。
(この場で直接お名前を出すのは控えますが)ある偉大な漫画家さんの「お別れの会」でも、「平服でお越しください」とのアナウンスが行われていました。会には、ダウンジャケットにニット帽のお爺さんも、抱っこ紐をつけた子連れのお母さんもいらっしゃいました。リュックサックを背負った若い男性も、スニーカーの若い女性もいらっしゃいました。長年まんがを描き続け、老若男女に愛された氏らしいすばらしい会になったことと思います。
4年ほど前のことですが、当時は特に服装について問題視されることも、疑問を呈されることもなかったと記憶しています。
インターネット上には、色々な方の「お別れの会」の様子をとらえた写真が数多くあります。
(お偲びの場の写真を無神経に撮るのも、それをインターネットに上げるのもいかがなものかという議論はひとまず置いておくことにしましょう)
多くの場合、一般参列者は文字通りの「平服」、普段着で参加していらっしゃいます。学生さんなどのお若い方だけではなく、お子さん連れや、ご年配の方も含めてです。
平服=略礼服は、特定のシチュエーションにおいては確かに正解であるが、常に無条件に適用されるルールではない−−というのが、私の見解です。
とはいえ私は「だから服装なんてやりたい放題でいいじゃん!」と言いたいわけでもありません。
どういう方がなぜ亡くなられたのか、関係者は今どういう心境でいるのか。それによって、参列者が取るべき態度はまた変わってくるのかもしれません。
「主催側がどういう意図で言っているのかはっきりしない以上、失礼のない服装で行けば間違いない」というのも、一つの正解だと思います。
「普段着で来る大多数の人がちょっと非常識なだけで、良識ある大人ならきちんと略礼服を着るべきだ」というのも、また一つの考え方だと思います。
貧民に許された数少ない娯楽のうちの1つが怒りだという言説を、ツイッターで見た。確かにそうだ。
貧民に許された数少ない娯楽の1つに、自分とは切り離された他人の死があると思う。不治の病で若く美しい人間が死んでしまうラブストーリー、沢山の人が無残に死んでいく戦争映画、多くの人に慕われた有名人のお別れの会、有名な死刑囚の死刑執行の知らせ。
これらが一種の娯楽として垂れ流されてきた結果が、今日日のインターネットだ。
車が人間に突っ込んだ現場の写真、歌舞伎町で刺された男の写真、小学生が刺された現場に残る血の写真。どんな人間が人を殺したのか、どんな人間が殺されて死んだのか。
怖いね、可哀想だねという言葉とは裏腹に皆一様にそのことを口にして、写真を共有し、騒ぎ立てる。
怖いね、可哀想だねなんて建前だ。本当はその衝撃的な物語や映像、写真を見たくて見たくて堪らないんじゃないか。
自分とは関係のない人間の死が、凶行が、つまらない日常のスパイスになってはいないか。つまらない日常を共有する周りの人間達との、コミュニケーション道具になっていないか。「インターネットにこんな画像を上げるなんて酷いね」と話しながら、どこかでワクワクしているんじゃないか。
所謂「無敵の人」やその被害者を自分とは遠い存在として捉えることでその娯楽は成立している。しかし、こんな社会に暮らし、そんなことをほんの少しでも楽しんでいるような貴方は、私は、無敵の人と本当に縁遠い存在だろうか?
2ちゃんにあった実況板にあったskypeで知らない人・国に安価で突撃リレーラジオ
DJ名はひろしの嫁で、
繋がりも薄くなってしまったけれど基本はPCを使ってインターネットをする時代で。
2019年の今と違って、youtuberなんかいなくてUstreamがちょっと出てきたくらいで、
今みたいに実名ありきでなくて、
世界中の知り合いでない人とも繋がることができる世界だったのかと思う。
だいぶ長くなるかもしれないけど、今日のことは記しておきたくなった。
2019年3月23日に心不全で亡くなったと彼のお仕事仲間の方から
facebookのメッセージを通して3月28日の夜に連絡がきた。
3月30日の13時から火葬場に行く前に斎場でお別れの会を開催しますと。
12年前のリアルな世界では、プロデューサーとして一流な仕事人と聞いていた。
でも、Skype上では酒、タバコ、女、鉄道、アニメが大好きで
すぐに下ネタに走るし、ド変態だし、セフレいるし、すぐにヤろうとかいうし、
お金持ってるはずなのに、たまに本当に金欠でお金貸してとか言って踏み倒すし、
強引でくずだなあwだと思っていた。
本名も知っている仲で、オフあったのも数える程度だったけど会っても同じ感じで
でもなぜか、嫌いになることができなくて、
猫が好きで、酔っ払ってすぐ仕事とはこういうものとチャットで語り出して
むしろ仕事の姿勢の話はほんと尊敬していて不思議な魅力のあるナイスミドルだった。
ここ5年くらいは全く連絡していなくて、
こないだつい3週間前に偶然facebookで誕生日のポップアップが出てきて
おめでとうとメッセージを入れたぐらいだった。
そんな彼が亡くなったと。
そんな彼の訃報が本当だったら?
12年前に、俺を呼べるくらい仕事で成功するいい女になれよ、と口癖のように
チャットでも、通話でも、オフで会った時も言っていた姿がよぎった。
嘘だったら、嘘でもいいし。
本当に最期なら挨拶したいと思って、今日、3月30日に横浜の斎場に足を運んだ。
もし本人が生きていてちゃんとした喪服で行かなかったら、
怒られるなと思って喪服も昨日急いで10着ぐらい試着して1着買った。
電車の中で、もしかしたら生前葬かもしれないとか考えたりしていたら目的駅に着いた。
話しかけると目的地は一緒で、彼に仕事を頼んでいたクライアントさんだった。
彼女も先日これからお願いしますと挨拶したばっかりで、びっくりなんですと。
そんな話をしていたら、斎場に。
受付して10mもしない先に彼の棺と思い出の品々があった。
お線香の匂いがして、棺の右隣にお母様とご親類の2人立っていて。
女性が2人泣いていて。
お焼香の仕方もおぼつかなくて、きたよと挨拶したけれど本人と顔をあわせるのが怖くて
棺の中は見れなかった。
棺の横にはサッカーのユニフォームの写真や猫を抱っこしている写真もあって、本人だ。と思った。
仕事仲間で今回の会をお手伝いしている方が
時間になったら献花とお見送りに向けて声をかけますと言われて待機することにした。
同じように待機している人20代くらいの2人組に話を聞くと、
4、5年前に知り合ってスポーツ関連の仕事を紹介してもらったんです。
お酒とタバコがだいすきで、仕事のオンオフがはっきりしていて熱い人でしたよ。と。
もう一人同世代の方とも話したら、
仕事に熱く、クライアント先で話し出したら10分ぐらい一人ノンストップなんですよ。と
笑いながら話してくれた。
12年前に私が思った印象とあまりリアルも変わらないんだな。と思った。
私も正直にネットで知り合った友達と伝えると、みんな意外そうな顔をしていたけど、
彼らしくいろんなことに手を出してるね。と笑っていた。
そんなことを話していたら、時間になってお母様のご挨拶があった。
お母様に挨拶させるなんて。
彼のお父様が若くに亡くなって、形見の結婚指輪をはめて大事そうにしていたことを思い出し、
なにやってんだと悲しくなってしまった。
ご親族がお棺を開けてYシャツにネクタイ、上着、彼の苗字が書いてある日本代表の青いユニフォームをかけてあげて。
マルボロだったり、ミニカーだったりを入れて献花の時に最期に顔を見て挨拶した。
昔と比べて白髪やしわが増えていたけれど安らかな顔をしていた。
ぽんさん、
相変わらずスーツが似合うね。
なんでか涙でちゃうなあ。
スカ凸のDJさんたちもきたがっていたよ。
リアルの人の話きいたけど、あいかわらず若い人への応援が熱いね。
喪服6万円のなんだけど、もっとちゃんとしたやつ買ったほうが長く使えてよかったかな?
昔、服を買うなら一流のやつを買って長く使えって言ってたもんね。
ちゃんと仕事できてるかな。ぽんさんがいういい女になれてるかなあ。
そんなことを心の中で思いながら最期のお別れをした。
霊柩車に乗って彼の棺はお母さんと、弟さんと彼女さんの3人と斎場を離れて
お別れの会は終了した。
どういった人選をされたかわからないけど、この場に来れてよかったと思う。
なぜかと言ったら失礼だけど、意外と彼が亡くなったことが悲しくて、
亡くなっても、なお人の死に慣れろよと、勉強させてもらっている気がする。
笑いながら、俺職場でも私生活クズだけど仕事は尊敬できますよねって言われんだよね。と
語っていたのを思い出した。
彼と色々12年前に話した思い出の中で一番印象に残っている言葉がある。
よく聞く「俺は会社の歯車だ」と愚痴るやつは歯車じゃねえ、会社にとっては埃なんだからと。
いま社会人として仕事をしている私の礎になっている言葉でもある。
実行できているかはわからないけど、これからもこの言葉を大切に仕事人として歩んでいこうと思う。
先に逝った飼い猫のポン太を撫でられているかな?
落ち着いたらまた、お墓に会いに行くね。
安らかにねむってね。
きこより。