開発・運用
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「SH-5 (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
1960年代末から1970年代前半にかけて開発が開始され、1973年の末に原型機が完成し、1976年4月3日に初飛行した。1984年から生産が開始され、1986年には実戦部隊への配備が開始された。 生産は少数で打ち切られ、試作機も含め7機程度の生産に留まったと見られる。現有数は5機とする資料もある。少なくとも4機が北海艦隊に配備されている他、1機が北京郊外にある中国空軍航空博物館にて展示されている。
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開発・運用
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「M12 155mm自走加農砲」の記事における「開発・運用」の解説
開発作業は1941年6月からロックアイランド工廠にて始められた。翌年1942年2月には試作車が完成、T6の仮正式名称が与えられた。試験結果はまずまずのものではあったが、前述のような理由から機甲部隊は採用には消極的な姿勢を示し、結局、他部局に要求される形で採用を決定した。T6は細部を改修した後、1942年8月、M12 GMCの名称で制式採用され、プレスド・スチール・カー社(Pressed Steel Car Company)(英語版)によって1942年に60両、1943年に40輌の計100両が製造された。 こうして自走カノン砲としては他国に先駆けて開発されたM12であったが、配備先となる機甲部隊からは大口径自走砲に対する要求は低く、アメリカが参戦し欧州方面への陸上兵力の派遣を決定した段階では、本車は訓練車輌として用いられるか、もしくは倉庫で保管されていた。 連合軍の大陸反攻を前に、1944年2月から74輌のM12自走砲がボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(Baldwin Locomotive Works)においてオーバーホールと作戦運用準備のための改装を受け、この際に砲防盾の装着と配備当初に問題とされたエンジンの修正と排気管の問題(排気炎が激しく、兵員室部分に吹き付けてくることがあった)の修正が行われている。 M12は採用から2年を経た1944年に初めて実戦投入され、ノルマンディ上陸作戦の直後から実戦に参加し、機甲部隊関係者の予想に反し活躍した。間接射撃を主として設計されていたものの、強固な防御施設の攻撃のさなかにはしばしば直接射撃任務に投入された。1944年6月下旬から7月上旬にかけて行われた「サン=ロー攻防戦」に於いてはドイツ兵の立て篭もる陣地や建造物に直接射撃を加え、その大威力から兵士たちには“キングコング”の名で呼ばれた。 1944年6月7日、ノルマンディー海岸に上陸するM12部隊戦闘室の周囲には波除のための覆いが立てられており、車体側面の2番懸架装置の後方からは延長された給排気管が伸びている。 ノルマンディー戦における第987野戦砲兵大隊所属のM12。砲に防盾が装備されている。(1944年7月10日、バイユー近郊での撮影) フランスのロレーヌ地方でモーゼル川を越えて砲撃するM12自走砲1944年の撮影 本車は1944年から1945年の終戦までの各作戦を通じ、成功裡に運用された。旧式の砲を転用して開発された暫定的兵器としては非常に成功した存在であったが、開発時はともかく実戦投入時には搭載砲・車体共に旧式であることは否めず、暫定開発ゆえの不十分な点も多かった。数的にはアメリカ軍の主力自走砲は同じくM3中戦車(初期型以降はM4中戦車に変更)にM2 105mm榴弾砲を搭載したM7自走砲であり、M12は非常に有用とされながらもその投入局面は限定されていた。生産も当初生産分の100両のみで追加の生産は行われず、後継のM40 155mm自走砲(155mm GMC M40)が完成し配備された後は早々と姿を消した。 なお、M12はアメリカ軍以外では用いられておらず、戦中、戦後共に諸外国への供与もされていない、アメリカの第二次世界大戦実用兵器としては珍しい存在である。
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開発・運用
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「ティコ・ブラーエ (宇宙船)」の記事における「開発・運用」の解説
コペンハーゲン・サブオービタルズは、2008年からXLR-2, HATV, BabyHEAT などの小型の試作機を用いてロケットエンジンの試験を行ってきた。2010年2月と5月には実際の飛行に使用するのと同型のHEATロケットの地上試験が行われた。 2010年9月6日、バルト海のボーンホルム島沖でティコ・ブラーエとHEATロケットの初飛行が試みられた。この試験飛行では人形を乗せた無人の宇宙船が10kmから30kmの高度に到達する計画だった。カウントダウンの後にエンジンが点火されたが、ロケットは煙を噴射するだけで発射台を離れることができず、打ち上げは失敗に終わった。後に、失敗の原因はヒーターの故障により酸化剤のバルブが凍結し開かなかったためと判明した。 2011年6月3日に再挑戦が行われ、打ち上げは成功し高度3.6kmまで到達した。降下時にパラシュートの展開に失敗しカプセルは海面に叩きつけられたがロケットの飛行データは十分に取得できた。 飛行試験の結果、コペンハーゲン・サブオービタルズはより大型のロケットの宇宙カプセルの開発を決定、ティコ・ブラーエの設計は放棄された。 現在はSpicaの開発が進められる。
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開発・運用
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「MG 151 機関砲」の記事における「開発・運用」の解説
ドイツは、ヴェルサイユ条約によってMG 34機関銃と同じように、それまで航空機関銃も製造が禁止されていた。ラインメタル(Rheinmetall)社は、スイスから輸入したMG 30を改良し、旋回機銃のMG 15や固定機銃のMG 17など7.92mm機関銃が生産され、主力戦闘機を想定していた初期型のBf 109には後者が搭載された。 スペイン内乱での実戦経験のノウハウにより火力の増強が図られ、エリコン(Oerlikon)社製の20mm FFS機関砲を至急購入したが、寸法が大きくDB 601のシリンダーの間に納まらず、代わりにエリコンFFをもとに、給弾ドラムなどに改良を加えた20mm MG FF機関銃がライセンス生産された。しかし、Bf 109 E-2に試験的に搭載したところ、エンジンからの振動によるトラブルが多発、結局主翼に装備せざるをえない事や、初速や弾道性能などの評判がよくなかったことから、ラインメタル社とマウザー社のそれぞれに新型機銃が発注された。ラインメタル社は電気発火式(Electric Priming)によるプロペラ同調式の13mm MG 131機関銃を開発した。 一方、マウザー社ではMG 151(口径15mm)が開発された。これは、より高威力を求めるドイツ空軍の要望を満たすため、小口径機関銃の高初速性能と大口径機関銃の火力を狙ったと思われる。初速が900m/sを突破するという驚異的数値を叩きだすが、15mmという中口径に見合わない重量と反動による航空機の機首強度、部品破損などが問題になったことから次期機関砲の開発が進められた。 そこで、MG 151をベースに開発されたのが、MG 151/20(口径20mm)だった。この時、口径識別のため従来の口径15mmをMG 151/15、20mmをMG 151/20と呼称するようになった。MG 151/20は、MG 151/15と大差ない重量であるにも関わらずMG 151/15の196cmというサイズよりも短く、フランスで開発されたイスパノ・スイザ HS.404機関砲の250cmと比較すると小さかった。ドイツオリジナルの大威力の炸裂弾である薄殻榴弾(英:Mine Shell/独:Minengeschoss)を使用でき、HE(M)と表記されるこの榴弾は、弾丸の外殻にプレス加工を用いたもので、従来の榴弾と比べると弾頭内容積が大きいために炸薬比率が高く、通常の榴弾は弾頭重量に対する炸薬比率は10~25%程度であるのに対し、実に重量比で80%近くもあり、破壊力が大きいものだった。このプレス製外殻の製造には精密なプレス加工技術を要した。 MG 151/15の後継とあって電気発火式も開発され、ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)社製など倒立V型エンジンへのプロペラ軸搭載も考慮された。モーターカノンとして搭載した場合、プロペラ同調装置を必要とせず機首搭載による命中率の向上が期待できる他、強固なエンジンマウントに実装する事で発射反動を吸収でき、小柄な機体でも大口径機関砲を搭載し易く、重量物が機体中心に集中するので慣性モーメント増大を防ぎ運動性に影響を与え難いなどの利点がある。だが、当初に計画された主力機であるBf 109の機首に搭載するには少々大きかった。それでも、ベルト給弾式のスマートで高威力な機関銃としてFw 190Aに翼内銃として搭載され、後にはBf 109でもF-4以降はモーターカノンや両翼下のガンポッドに搭載されるようになった。以降、戦闘機から爆撃機まで幅広く、従来の7.92mm機銃や、MG 151とは名コンビとなる13mm MG 131機関銃などと混載装備された。
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開発・運用
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「LARC (軍用車両)」の記事における「開発・運用」の解説
LARCはまず60トン型のものがBARC(英語: Barge, Amphibious Resupply, Cargo:水陸両用貨物補給艀)の名称で1952年に開発されて採用され、1960年には制式名称はLARC-LXに変更された。 続いて15トン型のLARC-VXが1960年に採用され、最も小型の5トン型、LARC-Vは1956年から開発が行われて1959年に採用され、1963より生産・導入された。 3車種合わせて968両が生産され、アメリカ海軍及びアメリカ海兵隊、アメリカ陸軍によって使用された。LARC-Vはアメリカの同盟国に供与もしくは売却されていくつかの国で用いられた他、軍より払い下げられた車両が民間で観光用その他に用いられている。 1980年代に入るといずれの車両も実戦部隊からは引き揚げが進められ、LARC-VXとLARC-LXは1990年代にはLCAC(エアクッション式揚陸艇)に代替されるものとして退役が決定、LARC-LXは最後の部隊が2001年10月15日に解隊している。LARC-Vは21世紀に入りSLEP(英語: Service Life Extension Program:寿命延長プログラム)により各種の改修が施されて現役に復帰し、再び運用されている。 LARC-LXに搭載された車両及び各種機材 上陸作戦演習時にLARC-LXによって揚陸されるM60A2戦車 水上を航行するLARC-V(SLEP改修車両)(2005年の撮影) アルゼンチン海兵隊のLARC-V 民間で水陸両用車観光(ダックツアー)用バスとして用いられるLARC-V2006年シンガポールにて撮影
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ソビエト連邦では偵察及び暗殺任務にはMSP拳銃(英語版)とS4M拳銃(英語版)を使用していた。この2つの拳銃はその任務の性格上から公表されることはなく、極秘の存在であったが、冷戦真っ只中の1970年代後半になり、ソビエト連邦のKGB要員がアメリカ中央情報局(CIA)を主導とした捜査網に掛かり、逮捕される事態が発生し、その際にS4M拳銃の存在が知られてしまう事態となった。このため、KGBが新たに1979年に暗殺及び偵察等の秘密任務用に開発したのがPSSである。開発は旧ソ連の特殊部隊向け兵器を専門に開発していた、TsNIITochMash(精密機械技術中央科学研究所)のビクトル・レフチェンコが手掛けた。 1983年からKGBやロシア連邦軍参謀本部情報総局の特殊部隊であるOSNAZに配備され、現在でもOSNAZのほか、KGBの後継機関であるロシア連邦保安庁やロシア内務省で使用されている。 21世紀に入り、弾薬をSP-4と同様の構造としつつも改良を加えた7.62x43mm SP-16弾とし、銃本体を改良したPSS-2(ПСС-2)が開発され、2011年よりPSSの後継として配備が進められている。
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開発・運用
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「カプロニ・カンピニ N.1」の記事における「開発・運用」の解説
カンピニはN.1のために、以前に世界初のモータージェット機であるコアンダ=1910を開発した実績のある航空機メーカーのカプロニ社と協力して2機の試作機と1機の地上テスト機を製作した。N.1の初飛行は1940年8月27日にテストパイロットのマリオ・デ・ベルナルディによって行われ、無事に終了した。この結果を受けて当時のファシスト政権は「世界で最初に飛んだジェット機」とN.1を大々的に宣伝した。 しかし実際には、その約一年前にターボジェット機であるHe 178がドイツで秘密裏に初飛行に成功していた。 初飛行後もN.1のテストは続けられたものの、特に有効なデータを残すことなく1942年に開発は放棄された。その後、試作機のうち1機は、機密保持のため撤退するドイツ軍の手によって地中に埋められ、後にイギリス軍により回収されたものの、一通り分析された後にスクラップにされた。他の飛行可能な1機は工場に収容されていたために難を免れて、現在はローマ県のヴィーニャ・ディ・ヴァッレ(Vigna di Valle)航空博物館に展示されている。また地上テスト機も現存しており、ミラノ航空博物館に展示されている。
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開発・運用
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1934年にアメリカ海軍は新しい複座の艦上索敵/爆撃機の試作を航空機メーカー各社に発注したが、1932年に創立されたばかりのブルースター社も1機の発注を受けた。この試作機はXSBA-1と名づけられ、1936年4月に初飛行した。本機がブルースター社にとって初の自社開発機であった。 XSBA-1は全金属製の中翼単葉機で、油圧式の引き込み脚(F2Aと同じ仕組みである)、2翅可変ピッチプロペラ、爆弾倉等を有した、当時としては非常に近代的な機体であった。エンジンは当初750馬力のライト R-1820-4を装備していたが、後に950馬力のR-1820-22に換装して、最大速度は424km/hを記録した。これは、当時の艦上爆撃機の中で最速であった。 試作機が高い性能を示したため、海軍は1938年9月にSBA-1として量産型30機の発注を行った。しかし、この時ブルースターはニューヨーク州とニュージャージー州に小規模な工場があるのみで、航空機の生産設備のある工場を持っておらず、軍の要求する量産能力がなかったため、生産はフィラデルフィアのアメリカ海軍航空機工廠(英語版)で行うことになり、名称は海軍航空機工廠製を表すSBNと改められた。量産型のSBNはエンジンをR-1820-38に換装したため、エンジンカウリングの形状が変わっている。また3翅プロペラに変更され、フラップは細かい穴のあいたダイブブレーキ兼用となった。この他、風防や垂直尾翼の形状も変更された。 しかし、海軍航空機工廠に生産が移された後も本機の生産は遅れ、量産1号機が完成したのは発注から2年も後の1940年11月だった。これは、全金属製という設計に合わせて、新たな生産ラインを一から組み上げなければならなかったためで、更には実際の作業に当たる工員の育成に手間取ったためである。その間に海軍向けの艦上爆撃機としては更に高性能なダグラス社のSBD ドーントレスが開発されて納入されていたため、量産機の完成時には本機の存在意義は失われたものとなっていた。 その後も生産は遅々として進まず、1941年6月から極めて低いペースで生産が行われ、30機目の最終生産機が完成したのは実に太平洋戦争開戦後の1942年3月のことであった。この時には既にSBDはおろか更なる後継である新型艦上爆撃機としてカーチスSB2Cの生産が始まっており、本機は明らかに時代遅れの機体になっていた。 完成した30機は実戦で使われることなく、海軍第3爆撃飛行隊(VB-3)(英語版)の使用機として空母サラトガ(CV-3)に、また海軍第8雷撃飛行隊(VT-8)(英語版)の使用機として空母ホーネット(CV-8)でそれぞれ訓練用に用いられたが、1942年8月にはスペアパーツが枯渇したことを理由に運用が中止され、全機が部隊より引き揚げられた。 XBA-1は採用試験の後、1939年よりNACA(アメリカ航空諮問委員会)に移管され、研究機として用いられた。1942年からは上反角を変更した新型の主翼に換装されて各種のテストに従事している。XBA-1はNACAにおいて1945年9月まで研究機として用いられた。
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開発・運用
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「KC-10 (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
開発はDC-10の貨物専用機型であるDC10-30CFを改設計することで進められ、開発作業は順調に進行し初号機は1980年7月12日に初飛行し、KC-10Aの名称が与えられて同年より生産が開始された。生産は1990年まで行われ、計60機が製造された。 1981年より部隊配備が開始され、KC-10を装備する部隊はニュージャージー州のマクガイア空軍基地とカルフォルニア州のトラヴィス空軍基地に重点的に配置されている。なお、KC-10はコスト面や機体の大きさの面からKC-135を全て代替するものではなく、両機種は並行して装備・運用されている。 KC-10の戦歴としては、1986年に行われたアメリカ軍によるリビア爆撃(エルドラド・キャニオン作戦)が最初である。この時、イギリスのレイクンヒース空軍基地を発進したF-111部隊はフランス領空通過を拒否され、進撃に際しジブラルタル海峡経由の迂回コースを取ることとなったため、この部隊に対し空中給油を行っている。また、湾岸戦争においても中東に集結する航空機に対し空中給油支援等を行い、近年のアフガニスタン戦争(不朽の自由作戦)およびイラク戦争においても空中給油支援任務に就いている。 2020年現在、生産された60機のうち1987年に事故により失われた1機と後述する退役1機を除く58機が現役にあり、一部の機体が空軍予備役軍団に移管されている。 2020年7月13日にはマクガイル統合基地配備の第305AMV所属「86-0036」が退役し、KC-10として初の退役となった。総飛行時間は3万3,017時間で、使用可能な部品はスペア部品として再利用される。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:28 UTC 版)
最初の製造型であるPzB38は1938年に制式採用され、1939年より本格生産と部隊配備が開始されたが、総重量が大きく取り扱いに困難が多い上、構造が複雑で故障が多く、また製造コストも高かったことから制式採用後の製造と配備がはかどらず、1938年には構造を簡略化して各部を軽量化した発展型が開発され、1939年にPzB39として制式採用され、生産体制をPzB39に切り替える指令が出された。 PzB38は1939年9月よりのポーランド侵攻で初めて実戦で用いられたが、生産の遅れから少数が配備されているのみであり、PzB39は先行量産分568挺が完成していたが、ポーランド戦が1ヶ月あまりで終結したこと、またポーランド軍の装備する戦車の数が少ない上に、ドイツ軍の侵攻に対し積極的に活動できなかったこともあり、特筆するべき戦果は挙げていない。翌1940年春からの西部戦線においては、PzB38/39共に英仏の重装甲の戦車に対しては威力は十分とはいえず、目標の後面や側面を狙った射撃で辛うじて戦果を挙げられるに留まり、早くも威力不足が認識されるようになった。 7.92x94 Patr.318弾は炭化タングステンを弾頭に用いた“(H)弾頭型”も開発され、これを用いた場合300mで角度0度の30mmの装甲板を貫通可能となったが、タングステンは希少な戦略資源物資であったため、生産数は少数にとどまり、前線部隊には充分な数が配布されていない。砲身内径が砲口に向って減少することにより威力を増進させる「口径漸減砲(ゲルリッヒ砲)」の研究・開発の一環として銃身内径を15-11mm、もしくは11-7.92mm、あるいは14-9mmとした斬減銃身型も研究されたが、銃身寿命が著しく短いものとなり、また、タングステン製の弾芯が必須なため、研究のみに終わっている。 1940年からは後継となる新型対戦車銃の開発も進められ、“PzB40”の仮名称でドイツの銃器メーカー各社によりいくつかのモデルが試作された。これらはいずれも7.92x94 Patr.318弾を使用する連発式自動火器であったが、どれも威力面で不十分と判断された。1941年の秋より“Panzerbüchse 243”の計画名称でMG151/15航空機関砲用の15x96 mm弾を使用する新型対戦車銃の開発も進められ、グストロフ・ヴェルケ社の「PzB Gustloff Werke Modell 1941」が採用されたが、この口径でも連合軍の新型戦車に対しては威力が不足していると結論され、さらなる口径拡大型としてMG151/20用の20x82mm弾を使用する対戦車銃が計画されたが、パンツァーシュレックやパンツァーファウストといった成形炸薬弾頭を使用する対戦車兵器の開発と生産が進められていることから、いずれも不採用となった。 1941年6月のソヴィエト侵攻の開始時には、生産がはかどらずコストの高いPzB38に代わり、PzB39が主流となっており、総数25,298挺が装備されていたが、ソヴィエトに侵攻したドイツ軍の前に出現したT-34中戦車やKV-1重戦車等に対してはタングステン徹甲弾頭を用いてすら全くの威力不足で、「対戦車兵器」としての有用性を早々に失うことになった。 前線での仕様に適さぬと判断されたPzB38/39は順次予備兵器および訓練機材とされたが、武装親衛隊の二線級部隊や、創設して間もなく装備が行き渡らない部隊など、最前線に投入されない部隊では装備が続けられており、武装親衛隊“ヒトラー・ユーゲント”師団(後の第12SS装甲師団)は1943年に装甲擲弾兵師団として創設された際にはPzB39 72挺が配備されていた。また、1944年9月に行われた“マーケット・ガーデン作戦”では、アーネム(アルンヘム)郊外に所在していた武装親衛隊士官学校分校の生徒が、訓練用に保管されていた6挺のPzB39を装備して臨時編成の戦闘団(シュピンドラー戦闘団)に参加している。この作戦における戦闘では、PzB39は英空挺部隊の装備していた非装甲車両や空挺戦車に対し、一定の戦果を挙げた。 この他、戦争末期には予備兵器として保管されていたものが幾つかの部隊で「員数外装備」として用いられた、また国民突撃隊に配布された、とする書籍などもあるが、戦争末期における正確な使用実態は公式記録や史料がほとんどないこともあり、不明である。
※この「開発・運用」の解説は、「パンツァービュクセ」の解説の一部です。
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開発・運用
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「Su-15 (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
1960年代初めの最新鋭防空戦闘機だったSu-9やSu-11は、エンジンの不調のため稼働率が低く、また機首にエアインテークがあったため高性能のレーダーを搭載することが困難だった。この欠点を解決するために、スホーイ設計局が新たに開発したのがSu-15であった。 T58-Dと呼ばれた試作機は開発期間短縮のため胴体や尾翼部分はSu-11のものをそのまま利用していたが、エンジンを信頼性の高いツマンスキーR21F-300の双発とし、胴体形状にエリア・ルールを採用していた。この機体は速度性能は満足いくものだったが、低速時のエルロンの効きが悪いことと、航続力が低いことが問題とされた。そのため、エリアルールの適用による胴体部のくびれを廃止してその分胴体に燃料タンクを増設した機体が作成され、これが量産型のプロトタイプとなった。燃料タンクを増設しても相変わらず航続距離は短かったが、推力重量比は平均的な重量で1.0を上回り、飛行性能は極めて高い機体であった。 試作初号機の初飛行は1962年5月30日にノヴォシビールスク行われ、1966年3月6日には量産型の生産が開始された。翌1967年からは防空軍に配備されて部隊運用が開始されている。1969年には操縦特性の改良のために翼型を単純な三角翼から二重デルタ翼にして主翼面積を増大させると共に武装の搭載能力を増加させた改修型(NATOコードネーム“フラゴンD”)に生産が切り替えられており、更にはレーダーを高出力のものに換装したSu-15Tが開発され、1971年には各部を改修した改良型であるSu-15TMに生産が移行している。 Su-15シリーズは1970年代のソ連の主力要撃戦闘機であったが、搭載されたレーダーはSu-15の試作型および初期生産型に搭載された"Oryol-D"、Su-15Tに搭載された"Taifun"、そして改良型のSu-15TMに搭載された"Taifun-M"のいずれも高高度での非高機動目標(端的に言えば、大型の戦略爆撃機)に対する遠/中距離のミサイル誘導に特化したもので、機動性の高い移動目標に対する捕捉/追尾能力には乏しく、自機よりも低い高度を飛行する物体を捕捉追尾する能力(ルックダウン/シュートダウン能力)には乏しかった。このため、より能力の高いレーダーを装備した迎撃戦闘機であるMiG-23Pが完成して1977年より配備が開始されると、Su-15シリーズの生産は1979年に練習機型であるSu-15UMの最終号機が完成したことによって終了となり、1980年代になると電子機器の旧式化等により退役する機体も現れた。総生産機数は1,500機以上と見られる(1,290機という資料もある)。 Su-15は高度な防空用機器を搭載したため東側同盟国への供与は行われず、このため長い間西側諸国は本機に関する詳細な情報を入手できなかった。1972年にはエジプトに配備されたことが確認されているが、この際も運用はソビエト本国から派遣されたパイロットと地上要員によってのみ行われた。 ソビエト本国の防空専門の部隊運用であったために、厳密な意味での実戦(敵対的国家の軍隊との戦闘)は経験していないが、1975年にはソビエト領空に侵入した偵察気球を迎撃・撃墜した例があり、また、領空に迷入した民間機を攻撃/撃墜したという事件も発生している。 詳細は「大韓航空機銃撃事件」および「大韓航空機撃墜事件」を参照
※この「開発・運用」の解説は、「Su-15 (航空機)」の解説の一部です。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:34 UTC 版)
人民軍向け兵器製造の責任部門である第1機械工場で開発された。生産が開始された時期は不明だが、1960年代のソビエト連邦製PK機関銃の設計に影響を受けているとされる。 1982年にはベルト給弾のみ可能な82式機関銃が採用され、主力軽機関銃の座を退いたが、以後も73式の使用は続いている。2002年、国連軍停戦監視委員会によって、非武装地帯近辺の北朝鮮兵士が境界線の北方100~400mの位置に73式を配置していることが確認された。2012年3月9日に朝鮮中央通信が報じた映像の中でも、箱型弾倉を装填した73式による射撃訓練の様子が確認できる。 韓国軍では、73式軽機関銃および82式機関銃が使用する7.62x54mmR弾の高い火力と射程を脅威と捉え、国境警備を担当する部隊に対しK3 5.56mm機関銃よりも大口径の7.62mm級機関銃の配備を進める方針を発表している。 北朝鮮以外の国ではほとんど確認されていないが、イランが73式軽機関銃を輸入しており、2015年には対ISIL作戦を展開するイラクの国民動員軍(英語版)(PMF)に供給されたとも言われている。また、韓国軍は少なくとも1丁の73式軽機関銃を鹵獲しているが、その入手方法は明かされていない。 北朝鮮においては先軍政治の一環として、指導者が軍部隊を視察した際に装飾を施した装備品を記念品として贈呈する伝統がある。この伝統の始まりは不明だが、少なくとも1980年代には金日成主席が装飾入り白頭山ピストル(Cz75)を高級将校らに贈っていたことが知られている。現在ではクロムメッキと装飾を施された88式小銃(AK-74)、73式軽機関銃、真鍮製の双眼鏡が標準的な記念品であり、将校の場合は小銃や機関銃の代わりに白頭山ピストルを受け取る。そのほか、パレードにおける儀仗兵などが同様の装飾入りの装備品を使用することもあるという。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/15 22:12 UTC 版)
FHの開発においては、そのアウトラインの策定までに様々な案が検討され、8基の小径エンジン(直径241mmのもの)を使用する案や同じく6基の小型エンジンを使用する案も検討された。これは開発当初は充分な推力を持ったジェットエンジンが開発されていなかったためで、1943年に入るとウェスティングハウス社により開発されたX19Aターボジェットエンジンの推力が充分なものであることが実証され、これにより最終的に2基のエンジンを翼付け根の胴体側面に装備する双発機案が採用された。 機体は、葉巻型の胴体に低翼配置・直線翼の主翼を持つ、黎明期のジェット戦闘機としてはオーソドックスなものである。上記のようにエンジンはウェスティングハウス・エレクトリック社が開発したターボジェットエンジンを2基、主翼付け根に装備している。武装は、機首に12.7mm機関銃4門を搭載している。 試作初号機は1945年1月に完成したが、ウェスティングハウスX19B-2Bジェットエンジンが1基しか届かず、当初は各種地上試験を行うのみであった。しかし、1月26日に1基のエンジンだけを装備して初飛行を行った。1945年3月7日にFD-1として100機の量産機発注を受けたが、戦争が終結したため発注は60機に減少された。その後、二基のエンジンを搭載した完全形として飛行試験は順調に続けられ、1946年7月21日には、アメリカのジェット戦闘機として初めて、航空母艦「フランクリン・D・ルーズベルト」での運用試験に成功している。 1947年1月より量産機の製造が開始され、量産型はウェスティングハウスJ30-WE-20エンジンを使用し、試作型より大幅に出力が向上している。1947年7月よりアメリカ海軍VF-17A航空隊に配備が開始され、アメリカ海兵隊のVMF-122及びVMF-311航空隊でも使用された。 その後はより完成度の高いF9Fパンサーの配備により練習機的な扱いを受け、1949年には実戦部隊からは引き揚げられ、1950年代の半ばまでに全機退役している。
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開発・運用
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M4中戦車が制式化されることに合わせ、M3中戦車改造のM31 戦車回収車の後継としてG-185の計画名称で開発された。1943年にはT5の名称が与えられた試作車の仕様が固まり、基体車両のM4はエンジンの形式の差異により多くのバリエーションがあったため、T5もエンジンの形式の異なる各種の試作車が製作され、1943年12月9日にはM32の名称で制式化された。 1943年12月には最初の量産型であるM32B1の生産(もしくは既存車よりの改造)が開始され、1945年の大戦終結までに各形式を合わせて約1,500両が新造もしくはM4よりの改造により生産された。初期生産車を実戦で運用した結果に基づき、後期の生産車にはいくつかの改良が加えられている。 部隊配備は1944年3月より開始され、M4及びM4の派生型車両を装備する部隊に配備が進められたが、第二次世界大戦中には全ての部隊でM31との更新が完了せず、M31とM32は並行して装備された。現場ではM32よりもM31の方が使い勝手が良い、との評価もあった。 第二次大戦後は朝鮮戦争でも用いられ、アメリカ軍では1950年代初頭に後継のM74 装甲回収車が制式化され、1950年代に順次置き換えられるまで主力装甲回収車として装備されていた。M4が州兵部隊も含めて完全に退役し、併せてM32の全車が退役したのは朝鮮戦争後の1950年代末のことである。 大戦後、M4が世界各国に供与されたのと併せてM32も広く世界各国に供与され、それらの国では長らく使われた。退役後、民間に払い下げられて装軌式のクレーン車や重牽引車として使用されたものも存在する。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 00:40 UTC 版)
「チャレンジャー巡航戦車」の記事における「開発・運用」の解説
設計会社には1942年初めにバーミンガム鉄道車輛会社が選定され、1942年5月に試作車3両の製造に着手した。 1942年8月には最初の試作車「パイロットA」が完成、同月13日に評価試験が行われたが、完成度が低く各部に不具合が多く、原型のクロムウェルに比べて車体を拡大し重量が増加したにもかかわらずエンジンがそのままであったことは機動性の低下が懸念された。さらに、大型の17ポンド砲は砲身が重く、傾斜地では砲塔の旋回が著しく困難だった。砲塔が大型で背が高くシルエットが大きい割に装甲が薄いことも試験側から不評を買い、存在意義にすら疑問が呈された。 これは時期がティーガーI出現以前でもあり、対戦車戦闘能力の重要性がそれほど真に迫っていなかったこともあった。試作での評価が低かったこともあって実戦投入は遅れ、参謀本部が上記の試験後に本車の制式化を認めたものの、量産化に際して200両以上の生産を認めず、また生産自体もアメリカ製のM4シャーマンに17ポンド砲を搭載したシャーマン ファイアフライが大量配備されたために着手されなかった。量産開始は結局1944年3月にずれこんだ。 1944年6月のノルマンディー上陸作戦においても車体の防水対策が不完全で、また31輌しか完成していなかったこともあり参加できず、実戦配備は8月からとなった。ミーティア・エンジンは十分な出力を持ち、懸念されていた重量問題は西部戦線での運用の結果杞憂であった。生産101輌目からは砲塔と車体の前面に25mm厚の増加装甲が溶接された。 チャレンジャーは第11機甲師団、近衛機甲師団、ポーランド第1機甲師団、チェコスロバキア独立機甲旅団などに配備されたが、既にファイアフライが戦車連隊に先行配備されていたため、本車は機動性の求められる機甲偵察連隊(クロムウェル3両につき本車1両の混成)に配備されたが、部隊での評判は意外に悪くなかったという。発注された200輌のうち、試作車を含め175輌(197輌という説もある)が生産されるに止まったチャレンジャーは終戦後退役し、チェコスロバキア軍では1950年代始めまで訓練用の標的などとして使用された。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 05:35 UTC 版)
1960年代初期に、スホーイ、ヤコヴレフ、ツポレフの3設計局に対して、戦略偵察機を兼用するマッハ3級のミサイル搭載高高度爆撃機の開発要求が出された。各設計局はそれぞれT-4、Yak-33、Tu-135の案を提出した。1963年に競合の結果、ヤコヴレフ、ツポレフの案では要求性能を満たせないとしてT-4が選定され、1964年の国家航空機技術委員会の審査をクリアした後は、TsAGIでの風洞実験やSu-7U・Su-9改造機によって30以上の形態が考案され、1966年には空軍にモックアップが発表された。翌年にモックアップ審査会の審査が行なわれたが、1966年の時点でTMZ(ツシノ機械製作工場)にて飛行1号機(101)と強度試験機(100S)の2機の製造が進められていた。 飛行1号機は1971年に完成し、ジュコウスキー飛行場にて数回の走行試験の後翌年8月2日に初飛行した。 動画 https://www.youtube.com/results?search_query=T4+Sotka 機体自体は細かな問題が発生したものの支障は無く2~6号機も発注されており、2号機と3号機の製造、および4号機の製造準備も始まっていたが、1974年1月22日の10度目の飛行試験をもって計画中止となった。空軍が要求した1970年から1975年の5ヵ年計画でのT-4 250機発注とMiG-23大量発注が両立できなかった為と、XB-70同様に低空侵攻に移行できないT-4よりTu-22Mが優先された事が原因であった。 計画中止の後、強度試験機と製造中の2~4号機はスクラップとして処分されたが、飛行1号機は保管され、1976年1月27日をもって正式に退役扱いとなった後、1982年にはモスクワの東にある空軍中央博物館(モニノ空軍博物館)に移され、2017年現在も展示されている。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 20:28 UTC 版)
陸上自衛隊では61式戦車の開発・装備を受け、それまで使用していたM32 戦車回収車に替わる装甲回収車両の開発を決定した。1969年には試作車が完成し、翌年1970年には制式化されて70式戦車回収車の名称が与えられ、生産・配備が開始されたが、陸上自衛隊ではまず正面装備である61式の生産に優先的に予算が割り振られたため支援車両まではなかなか予算が廻らず、更にオイルショックによる防衛費の削減によって調達がままならず、生産は試作車1輌を含めた5輌のみに留まった。 結果、部隊に配備された車両は4輌しか存在していないが、1970年代-1980年代にかけて陸上自衛隊に勤務した隊員には広く知られており、製造数の割には有名な装備である。これは他の陸上自衛隊の少数生産/配備に留まった車両とは異なり、特定部隊のみの配備に終わらず、全国の61式を装備した部隊でたらい回し的に装備されたため、多くの隊員が目にする機会があったためである。 70式の生産数の少なさから、61式を装備する部隊では本部予備車両を戦車の回収・牽引といった作業に用いることが一般的で、一部の部隊では前任のM32を耐用年数の限界まで運用していた。61式の後継車両である74式戦車が開発され、その派生型として78式戦車回収車が開発・配備されると70式は戦車部隊から引き揚げられ、晩年は特科の自走砲部隊で活躍した。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 13:42 UTC 版)
機甲部隊の機動性向上を目的に1961年(昭和36年)、防衛庁(当時)技術研究本部と三菱重工業の共同で開発がはじまった。当初はM4A3E8戦車をベースに開発が始められたが、途中で61式戦車をベースとすることに変更となった。 1966年(昭和41年)に仮制式となり、1967年(昭和42年)に制式採用となり「67式戦車橋」と命名された。 実用試験及び配備後の運用に特に問題のあるものではなかったが、正面装備である61式の生産に優先的に予算が割り振られたために支援車両にまで予算が廻らず、更にオイルショックによる防衛費の削減もあり、生産は試作車1輌を含め4輌のみに留まっている。 その後、陸上自衛隊の架橋装備としては70式自走浮橋を代表とする非装甲の架橋機材が整備されたために追加生産・配備は行われず、61式の後継である74式戦車を始めとして本車の最大通過重量を超える車重の戦闘車両は装備されなかったこともあり、全備重量50tの90式戦車が開発され、それに対応した装備として91式戦車橋が開発・装備されるまで陸上自衛隊唯一の戦車橋として少数ながら長らく使われた。 1991年(平成3年)より91式との置き換えが進められ、1993年(平成5年)には全車が退役した。
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開発・運用
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「OS2U (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
複葉観測機であるO3U[:en]の後継として開発された単葉艦載観測機で、1938年3月に陸上機型が、同年5月に水上機型(陸上機型を改修した機体)が初飛行した。軍による試験結果は良好で、1939年にOS2Uとして制式採用された。1940年から部隊配備され、水上戦闘艦の艦載機として偵察・観測任務に従事した他、近海哨戒飛行隊において対潜哨戒任務や海上捜索救難任務に活躍した。しかし、性能的には同時期の他国の機体と比較すると低性能であり、第二次世界大戦が終結すると急速に退役していった。 イギリス海軍にもレンドリース用に100機供与されたが、全て訓練に使用されている。また、チリ、アルゼンチン、メキシコ等の中南米諸国に若干機が供与された他、ソビエト海軍でもイギリス海軍から引き渡された機体が数機使用された。
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開発・運用
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「Il-10 (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
改称された機体はIl-10と名付けられ、外見こそ前任機のIl-2に似ていたが、実際には全く別の航空機であり、Il-1から受け継いだ高度な空戦能力は、当時のソ連主力戦闘機La-7と互角のものであった。 Il-10は新たな主力シュトゥルモヴィークとなるべく生産が開始されたが、そのペースは遅く、大祖国戦争中にはIl-2ほどは用いられなかった。また、1945年5月の終戦に伴い総生産予定数も大幅に削減された。また、戦後しばらくはソ連軍の主力シュトゥルモヴィークとして使用されたが、1940年代後半のジェット機の台頭によりレシプロ機であったIl-10は旧式機と見られるようになってしまった。Il-10はハンガリー、ブルガリア、ポーランド、チェコスロヴァキアなどに輸出され、特にチェコスロヴァキアではアヴィア社によりB-33の名称でライセンス生産が行われた。B-33は約1200機生産され、この機体も東欧諸国や中東各国に輸出された。また、ソ連本国では主翼形状を改設計するなどしたIl-10M(Ил-10М)が開発され、1951年に初飛行をし、生産・配備された。本機の生産は1955年まで続けられ4966機が生産された。 Il-10は第二次世界大戦ではIl-2の陰に隠れてあまり大きな働きはしなかったように思われているが、戦後はいくつかの戦闘で注目を集めた。イエメンの内戦でもB-33が対地攻撃任務に使用されたが、それより遙かに有名なのは、朝鮮戦争において中華人民共和国義勇軍機や朝鮮民主主義人民共和国軍機として使用されたことである。この戦争では、Il-10は国連軍の戦闘機と互角の空中戦を行うなど対地攻撃任務以外にもいくらかの活躍を見せた。
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開発・運用
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「SU-122-54 (自走砲)」の記事における「開発・運用」の解説
SU-122-54は1949年よりオムスクの第174戦車工場設計局で「オブイェークト600(ロシア語: Объект 600)」の名称で開発され、途中で仕様の変更や開発/生産工場の選定などの混乱もあったものの、1950年には試作車が完成、1951年6月から8月にかけて試験が行われた。翌1952年6-7月にはこの際に発覚した問題点とその改善策を反映した3種類の最終試作車が開発されて比較試験が行われ、1953年に量産仕様の最終試作車が選定されて各種試験の後に採用され、1954年3月15日には大規模生産の開始が決定、1955年には最初の生産車である4両が納入された。 しかし、主砲となる122mm M-49(D-49)の生産が遅延したために供給が遅れたこと、まずは戦車型であるT-54の生産を再優先とする、と決定されたことから生産がはかどらず、また、対戦車兵器として無線もしくは有線で誘導されるロケット弾(対戦車ミサイル)の実用化に目処がついたことから、“対戦車自走砲”として従来のような「大口径長砲身の火砲を戦車を流用した車体に装備する車両」を開発することの意義は急速に失われつつあった。 結果、SU-122-54は1955年から1957年にかけて小規模に生産されたのみで、最終的に完成した車両は約77両から95両程度に留まった。 生産された車両は1954年から1956年にかけて戦車駆逐連隊や旅団に配備されたとされるが、実際の配備部隊や運用状況は定かではない。NATOの情報機関によるものとしては、1968年の“プラハの春”に対するワルシャワ条約機構による武力介入(チェコ事件(チェコ動乱)に際して動員されたソビエト軍機甲部隊の装備として実戦投入されていることが写真で確認されている。なお、NATOでは当初はこの車両について正確な情報を得ておらず、“SU-100M1968”の仮名称を与えていた。 その後、1960年代後半から1970年代前半かけて前線部隊から引き揚げられたと見られ、大多数は武装を撤去して戦車回収車に改造されたのち、親衛戦車師団に再配備されて支援車両として運用された。 主砲をT-10重戦車と同じ122mm M-62戦車砲、及びオブイェークト279重戦車他に搭載されていた130mm M-65戦車砲に換装する計画があったとされているが、実際に搭載された車両が製作されたかについては不明である。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 08:11 UTC 版)
開発 当初はエルジア海軍が保有する艦上戦闘機の更新用の機体として開発が開始されたが、空軍の更新要請と同時期であったため両軍事組織と軍需メーカーの協力で開発が進められた。 1987年1月22日にエルジア航空宇宙局(EASA)が基本設計図を完成させている が、実機の開発には遅延が生じていた模様である。開発開始の時期については諸説あるが、遅くとも1998年には開発が始められていたと見られている。 飛行中に取られる二種類の機体シルエットは大きく異なるため、開発当初からX-02の存在を把握していたユージア大陸諸国に複数の戦闘機を平行開発していると誤認させた。また、上述の通り航続距離の短さから可変翼を廃した空軍型が提案された。 第一次大陸戦争 ※ 文中に登場する固有名詞については『ACE COMBAT 04』の用語集を参照。 2003年夏のサンサルバシオン侵攻で、隕石迎撃用の長距離対空砲ストーンヘンジを接収したエルジア軍は、これを軍事利用することでISAFをユージア大陸から駆逐した。これを受けエルジア政府は、コストのかかる新機種開発ではなくストーンヘンジと在来型の軍用機による防空体制の構築を選択するが、エルジア空海軍と開発に関わったメーカーなどの開発推進派はストーンヘンジへの防空体制の依存を危惧していた。政府と推進派との対立が議会を巻き込むレベルにまで激化したことで、この機体の開発は事実上停止する。しかし、ISAF最後の拠点とも言えるノースポイントへの上陸作戦のために集結していたエイギル艦隊がコンベース港で壊滅したほか、大陸の南東に位置するコモナのロケット打上げ施設を巡る戦い、ISAFの大陸反攻、そしてストーンヘンジの撃破によって戦況が不利となったことを受けて開発が再開された。終戦には間に合わなかったものの、ISAFによる開発施設の接収により、この機体が注目される。その後、ISAFはX-02を完成させ試験飛行を行い、潜在的な能力においてF-22Aをも凌駕する事が明らかとなった。 カティーナ作戦 戦争終結後の武装解除を拒否し、地下に潜伏していたエルジア軍の残存勢力が自由エルジア軍を名乗り武装蜂起。この際兵器の奪取目的で、かつてエルジアのものであった軍需工場の襲撃が行われ、完成していたX-02Aが接収された。ISAFの残存勢力討伐作戦カティーナ (KATINA) で、ISAF側の航空部隊の迎撃に出撃した全ての機体がたった一機のF-22Aとの交戦で失われた。 改修型の国際共同開発 かねてよりX-02Aが抱えていた下記の問題点を解決するため、2010年4月19日にオーシア連邦のノースオーシア・グランダーI.G社が改修を担当し、エルジア王国のEASAと共同で開発を開始。 環太平洋戦争 エルジア王国の友好国であるユークトバニア連邦共和国にX-02Aの図面や生産用の機材が渡っており[要出典]、グランダー社からは敵国ユークトバニアへ機体が密輸されていた。 2010年12月6日、何らかの理由でオーシア側に撃墜されたユークトバニア軍所属のX-02Aが、サンド島の航空機基地に運び込まれ人目を避けるようにシートで覆われ、格納庫の天井から吊り下げられて保管されていた。これは、一部部品にノースオーシア・グランダーI.G.社のロゴが入っており、「ノースオーシア・グランダーI.G.社が敵国ユークトバニアに兵器を密輸している」という事実が告発報道される可能性をベルカによる戦争推進扇動工作の影響を受けていたオーシア政府関係者や軍高官が恐れたほか、事が露見した際に発生する恐れのあるこの事件とは無関係のノースオーシア州出身者への偏見と弾圧による国内情勢の悪化を考慮したためと思われる。 オーシア国防海軍第3艦隊が独自に拿捕した南ベルカのユーク向け密輸船に同機も積載されていた可能性があり、非公式の作戦に使用されたとする説もある。 第二次大陸戦争(灯台戦争) 灯台戦争の混乱に乗じる形で、シラージ自治州など複数の被合併国がエルジア王国に対し2019年10月1日に独立を宣言。EASA実験基地に所属していた第68実験飛行隊「ソル」も「ボスルージ空軍」と名乗り、シラージ側で参戦する。ボスルージ空軍はEASAからX-02Sを含む航空機を接収。10月24日にオーシア空軍長距離戦略打撃群との戦闘に実戦投入するが、オーシア軍機によって撃墜された。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 16:02 UTC 版)
「Massive Ordnance Air Blast bomb」の記事における「開発・運用」の解説
MOABは、デイジーカッターの後継として、2002年に空軍研究所で開発が始まった。その後、航空宇宙・防衛企業であるダイネティクス社が参画。発案から設計図が完成するまで、3カ月程度の短さであったという。その後、2003年3月11日にフロリダ州のエグリン空軍基地(英語版)で実地試験が行われ、11月にも試験が行われた。 しかし、2003年に始まったイラク戦争では、国防総省が「衝撃と畏怖」戦略の一環として対人兵器として使用することを勧め、1発のMOABが実戦配備されたが使用されなかった。 2017年4月13日、アフガニスタンのナンガルハール州アチン地区にあるISILのトンネル施設に、実戦において初めて使用されたことが、アメリカ国防総省によって発表された。この攻撃でISILの戦闘員とみられる90人以上が死亡した。この攻撃は地下要塞を複数持つ北朝鮮への牽制とメディアからは憶測された。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 21:41 UTC 版)
本項では「ストレンジリアル」と呼称される、一連の「エースコンバットシリーズ」共通の世界観における開発史、運用歴について解説する。 前史 詳細は『ADFX-01/02 Morgan』を参照。 1985年1月4日から1995年のベルカ戦争にかけて、ベルカ公国の南ベルカ国営兵器産業廠(後のノースオーシア・グランダー・インダストリーズ)は技術検証機ADFX-01/02の開発を行っていた。戦争時に連合軍が南ベルカ国営兵器産業廠を接収し、さらに終戦後に発生した「国境なき世界」によるクーデターによって南ベルカ国営兵器産業廠と開発中だったADFX-02は国境なき世界に接収され、実戦投入されたADFX-02から実戦データを得た。このデータを元にADF-01の開発へ移行していく。 ユージア大陸紛争(戦士の名誉作戦) 1997年に発生したユージア大陸北部、西部各国による軍事クーデターにおいて、クーデター軍が接収したノースポイントの要塞イントレランスにてADF-01 Z.O.E.を運用。統合軍傭兵部隊スカーフェイス隊によって撃墜される。なお、開発国、開発メーカーは不明とされている。 環太平洋戦争 2010年にオーシア連邦、ユークトバニア連邦共和国の間で発生した環太平洋戦争中、ノースオーシア・グランダーI.G.は敵国ユーク領内の工場にてFALKENのパーツを生産し、計4箇所の格納庫に保管していた。ただしユーク軍が運用している様子は確認できない事から、配備は間に合わなかったと見られる。グランダー社本社のあるオーシア連邦ノースオーシア州スーデントールの工場1箇所でもパーツを生産していた。 また、グランダー社は同時にFALKENから派生した爆撃機ADA-01 ADLERの開発も行っていたが、機体の主力兵装となるSDBMとその格納用コンテナの開発が間に合わず、完成する事なく終戦を迎えた。 ノヴェンバー市平和式典 (2011年) 環太平洋戦争終戦後、2011年に行われたノヴェンバー市の式典にて、ADFX-01、X-02A、ADF-01 FALKENが展示飛行を行った。 その後 ベルカ戦争によって多数の人的財産を失ったベルカ空軍はその後、機体開発を無人機へとシフトし、ADF-11の開発を開始した。 詳細は「ADF-11」を参照。
※この「開発・運用」の解説は、「ADF-01」の解説の一部です。
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開発・運用
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「DShK38重機関銃」の記事における「開発・運用」の解説
ソビエト連邦軍は1929年に対空用大口径重機関銃の開発を開始した。初期開発はデグチャレフが担当し、1930年に完成したこの重機関銃は"DK"と呼称されていた。しかし、DK重機関銃は給弾機構が30連発ドラムマガジンであるが故にすぐに弾切れを起こしたため、1933年-1935年にかけて少数が製造されるに留まった。シュパーギンは、DK重機関銃の給弾機構をベルト式に変更した改良型を設計し、1939年に"DShK1938"として採用された。 一般的なソ連・ロシアのベルト給弾式機関銃は銃の右側から給弾されるように設計されていることが多いが、DShKは西側諸国の機関銃と同様に左側から給弾されるように設計されている。 DShK1938は多目的に運用される。三脚などに搭載したり、GAZ-AA トラックに3丁搭載しての対空任務や、IS-2重戦車やSU-152自走砲・T-40水陸両用軽戦車などに搭載されての歩兵支援などに使用された。 DShKの三脚はPM1910重機関銃の銃架と同様に牽引用の二輪と防盾が付いており、この銃架は車輪を取り外した後に脚を展開して対空用の三脚架として用いることも可能である。 アフガニスタンにおいて防衛陣地に設置されているDShK 対空用照準器と肩当てを装着した54式重機槍(アルバニアが運用していたもの) TR-85M1戦車の砲塔上に搭載されたDShKM リビア反体制派のテクニカルに車載されたDShKM
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開発・運用
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開発は防衛庁(現 防衛省)の技術研究本部と三菱重工業が中心となって行われた。1986年に部内研究が開始され、1988年より試作に入っている。ASM-1からのファミリー開発であり、88式地対艦誘導弾(SSM-1)開発の成果も取り入れられている。開発経費は約118億円。 開発の重点は、長射程化と敵の妨害への対処能力の強化、重要目標へ命中させるための目標選択アルゴリズムの強化である。ASM-1ではエンジンがロケットであったが、射程の延伸を図るために、ASM-2では、エンジンがSSM-1で実用化されたTJM2ターボジェットエンジンに変更された。空中発射方式のため、ロケットブースターは有さないが、カートリッジスタータが設けられている。飛翔の中間段階までは慣性誘導が行われるが、最終段階では赤外線画像イメージによる誘導が行われる。フレア判定などの対妨害能力も有する。 赤外線イメージ誘導は、気象条件の影響を受けやすいが、電波妨害の影響を受けないほか、ASM-2では艦の種別判別による目標選択が可能となっている。また、艦船形状判定より、ミサイル命中点を指定することができ、艦橋への直撃など、より撃破効率を高めることができる。ミサイルは発射後、シースキマー飛翔を行う。また、目標再捜索モードやBOL発射モード(方位のみの設定による発射)など、各種捜索モードも備えている。弾頭部もASM-1より改良され、遅延信管を用い、LOVA性に優れたPBX系炸薬に焼夷材を加えたものとなっている。 外形はASM-1とほぼ同様であり、魚雷型の胴体中央部に主翼となる小型の4枚のフィンがついており、胴体後部に4枚の操舵翼がある。これら翼部品には、電波吸収材を用いたステルス翼も用意されている。また、エンジンのジェット化により、下面に空気取り入れ口が追加されている。 搭載可能な機体はF-4EJ改およびF-2戦闘機であり、航空自衛隊では、F-2戦闘機を有する戦闘機部隊で運用している。F-4EJ改は2発、F-2はASM-2を4発搭載できる。F-1(2006年退役)にも2発搭載可能であったが、運用期間のほか、レーダー・FCSの問題によりASM-2の長射程を生かすことはできず、搭載事例は少なかった。 なお、中間誘導用にGPS誘導方式を追加して誘導精度を高めた改良型の93式空対艦誘導弾(B)(ASM-2B)の開発が2000年から2002年にかけて行われ、調達がなされている。
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開発・運用
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「SO3C (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
1938年にアメリカ海軍は、SOCシーガルの後継機となる艦載観測機の開発を要求した。これに応募したのがカーチス社とヴォート社で、それぞれXSO3C、XSO2Uの名称で試作発注を受けた。原型機は1939年10月に初飛行したが、この機体は陸上機として製作された。後に、胴体下に単フロート、主翼下に補助フロートを装備した水上機型への改修を受けており、生産型はSOCと同じく、フロートと陸上用固定脚との交換が可能であった。エンジンは星型エンジンの供給不足を考慮して空冷倒立V型エンジンを装備しており(これは競争試作されたヴォート社のXSO2Uも同じである)、主翼は後方に折りたためるようになっていた。武装は、7.62 mm機関銃 2丁と爆弾2発または爆雷であった。 海軍のテストの結果はXSO2Uの方がやや優れており、XSO3Cは飛行中の安定不良が指摘されていたが、結果的にSO3C-1として1940年に300機が発注されることとなった。 制式採用決定後も安定性の改善を中心とした本機の改修は続けられた。主な改修点は、垂直尾翼の大型化と尾翼前部に後部風防にまでかかるようなフィンを設けたことと、主翼の上反角不足への対策を大規模な設計変更なしで済ませるため、主翼の翼端だけを上方に折り曲げるとことだった。しかし、これらの改修により機体重量が増加し、性能が著しく低下することになった。部隊配備は1942年の半ばからようやく開始されたが、OS2Uと大差ない性能だった上、陸上用の固定脚の位置や左右の脚の間隔に問題があって着陸事故で多くが失われたため、最初の生産型であるSO3C-1は141機で生産中止になった。 その後、エンジンを強化するなどの改良を施したSO3C-2、SO3C-3が生産されたが、性能的に大幅な向上は見られなかったため1944年には全て退役した。 SO3Cは結局SOCと完全に交替しなかったばかりか、SOCより早く退役することになってしまった。退役した機体の一部は無線操縦式の標的機に改造された。なお、イギリス空軍にもSO3C-2が若干数が供与されたが、性能的な問題から実戦では使用せず訓練に用いた。
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開発・運用
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上述のように急ぎ立ち上げられた開発計画であったが、発動機に1,350馬力という、先行する3機種の2~3倍の出力を持つR-1820-62を選択したことによって本機の開発は順調に進み、試作機XSC-1は1944年2月16日に初飛行し、期待通りの高性能を示した。 本機は、既存の水上観測機とすべて交替すべく、初飛行前の1943年6月にはSC-1として500機が発注され、さらにその後450機の追加発注がなされたが、太平洋戦争の終結により生産は577機にとどまった。 初配備は1944年10月22日、配備先は新造された大型巡洋艦グアム(CB-2)であった。 SC-1は水上機としては十二分に過ぎるほどの性能を持っていた機体ではあったが、第二次世界大戦が終結すると海軍航空の主力は航空母艦搭載の艦上機にほぼ完全に移っており、水上艦艇に搭載する艦載機としてもヘリコプターの実用化によって意義を失い、1940年代の末にはアメリカ海軍における水上観測機の装備廃止と共に全機が退役した。
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開発・運用
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F4D-1戦闘機は、高速性能が優秀であったものの、全天候性能や航続性に欠けていた。そのため、1953年に改良型として、F4D-1を大型化したF4D-2Nがダグラス社より提案され、開発が開始されることとなった。名称は間もなくF4Dと大幅に違いが出てきたことからXF5D-1に変更となった。 1956年4月21日に初飛行し、超音速飛行を行った。初飛行以前に、試作機2機のほか、先行量産型9機・量産型51機の発注が行われたが、試作機2機と先行量産型2機が完成したところで、F-8クルセイダーの採用により、採用はなされたが量産命令は取り消された。 F5Dはその後、アメリカ航空宇宙局(NASA)での試験に供されることとなった。NASAは機体を1961年までに、墜落して失われた2機を除く2機を取得した。BuNo. 139208号機がNASA 212(後にNASA 708と改称)、BuNo. 142350号機がNASA 213(後にNASA 802と改称)と改称されて飛行試験に運用された。超音速輸送機の開発・研究に用いたほか、飛行特性が似ていたことからX-20(ダイナソア)計画の訓練にも用いられた。1963年のダイナソア計画の中止後も、これらはシミュレーターやチェイス機など各種用途に1970年まで使われた。ニール・アームストロングがダイナソア計画中に搭乗したことがあることから、現在は1機がニール・アームストロング航空宇宙博物館に展示されている。
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開発・運用
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M15の開発は「T28対空自走砲」として1941年9月に開始された。当初、軍は12.7mm重機関銃4丁を搭載するT37対空自走砲を採用し、T28の開発は中止されたが、T37は試験の結果、能力が不足していると判断され、開発は再開された。車体をM3ハーフトラックに変更し、37mm機関砲1門と水冷式銃身型の12.7mm重機関銃2丁を装備する旋回式砲座を備えた車両がT28E1として1942年6-8月にかけて80両が先行生産され、北アフリカに上陸したアメリカ陸軍によって使用された。 T28E1が十分な戦果を挙げたため、軍は1942年10月に本車をM15 CGMC(Combination Gun Motor Carriage:複合銃搭載車)として制式採用し、600両の追加発注が行われた。制式採用を受けて追加発注された車両には、防盾を追加する、12.7mm重機関銃を水冷銃身型から空冷銃身型に変更する、など実際に使用するにあたって問題とされた点が改良されたが、追加装備により重量が増加し故障を多発する要因となったため、軽量化を図った新型砲架に換装した改良型が開発され、これは1943年8月12日にM15A1として制式化され、1943年10月-1944年2月にかけて1,652両が生産された。部隊配備後、新型砲塔は水平射撃時に運転席を含めた車体前半部も射角に入ってしまう、という問題が指摘され、運転席後方に射角制限用のガードを装備するように設計を変更し、既存車両に追加装着するための改修キットも製作された。 アメリカ陸軍では本車の運用実績を踏まえ、M1 37mm機関砲をM1 40mm機関砲(スウェーデンのボフォース 40mm機関砲のライセンス生産)とした発展型を計画し、1942年より「T54」の名称で開発を開始したが、40mm機関砲は発射反動が強すぎて安定した対空射撃が行えず、T54E1/T58/T59E1/T60/T60E1と試作車両の改良を繰り返したものの問題を改善することができず、40mm機関砲型の開発は1943年には中止された。 なお、オーストラリア駐留のアメリカ陸軍第99兵器廠では独自にM3ハーフトラックよりM15仕様に改修した車両にボフォース 40mm機関砲を搭載した自走砲を前線部隊により現地製作している。“M15スペシャル(M15special)”と非公式に命名されたこの改造40mm自走型は、戦後も少数が用いられ、朝鮮戦争でも使用された。この改造40mm砲型は専ら水平射撃による対地攻撃に用いられたため、実用に問題はなかったとされる。 1950年に勃発した朝鮮戦争においてもM15は使用されたが、この時点において既に主砲のM1 37mm機関砲の生産は弾薬も含めて終了していたため、弾薬の供給が不足し、1951年には日本のアメリカ軍補給廠において砲座を撤去してボフォース 40mm機関砲を地上用砲架ごと搭載した車両が製作され、これら改造車両は40mm機関砲の砲架の名称から"M34"の仮名称で呼称された。100両余のM15A1がこの"M34"に改造され、少なくとも2個対空大隊で運用された。
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開発・運用
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「Ka-50 (航空機)」の記事における「開発・運用」の解説
Ka-50は、ロシア空軍の主力攻撃ヘリコプターであるMi-24シリーズの後継機として開発された。開発名称はV-80(В-80ヴェー・ヴォースィミヂスャト)で「V」(В)は、ロシア語でヘリコプターを意味する「ヴェルトリョート」(вертолётヴィルタリョート)の頭文字である。1977年に設計が完了して、試作初号機は1982年7月27日に初飛行している。対抗馬であるMi-28が前任機Mi-24譲りの大型の機体であるのに対し、Ka-50は、カモフが得意とする二重反転式ローターを採用した小柄な機体として設計され、乗員も1名のみとされた。1984年夏に西側でもその存在が確認されている。1989年にV-80Sh-1(В-80Ш-1ヴェー・ヴォースィミヂスャト・アヂーン)は、Ka-50という新しい名称を獲得している。 Ka-50は、複合材の3枚ブレードを鋼製プレートを介してローターヘッドにヒンジレスで取付けられたメインローターを上下に配置した、カモフ独特の二重反転式メインローターを採用した単座機で、機体後部には垂直安定板と方向舵、翼端に安定板を備えた水平安定板を装備しており、前任機を上回る高度な運動性を有し、二重反転式メインローターによってもたらされる安定した飛行特性は他の攻撃ヘリコプターにはみられないものである。Ka-50は、対空・対地両方への攻撃能力を有する機体として開発されたため、機体の中央胴体両側面に兵装パイロンが付いた小翼を装備しており、そこにセミ・アクティブ・レーザー誘導の9A4172ヴィクールM対戦車ミサイルを最大で12発搭載可能のほか、23mm機関砲ポッド、R-60・R-73空対空ミサイル、Kh-25h空対地ミサイル、S-80 80mmロケット弾ポッドを搭載できる。また、機体の胴体右側面には油圧駆動式の30mmの2A42機関砲1門を装備しており、下方に30°側方に5-6°の範囲で動かすことか可能である。エンジンはクリモフTV3-117VKターボシャフトエンジン2基を機体の中央胴体両側面にポッド式に搭載しており、空気取り入れ口にダスト・フィルター、上向きの排気口に赤外線抑制装置が装備されている。降着装置(ランディング・ギヤ)は前脚式の3脚であり、離陸後は胴体内に引き込まれる。胴体中央上部にAI-9V 補助動力装置(APU)を搭載しており、エンジン始動と油圧・電力供給に使用されるが、緊急時での凍結防止や自動消火装置の作動、2基あるエンジンの内の1基のエンジンにダメージ発生した時の油圧低下の際には、APUが補助的に作動するようになっている。 機体とメインローターは、アフガニスタン紛争での教訓を元に非常に堅牢な作りで生存性を高めており、機体はスチール装甲と複合材が機体各部に使用されているため、全備重量は9.8tに達しており、NATOでの標準的重機関銃の12.7mm徹甲弾の直撃に耐えることが可能である。操縦席周辺は念入りな防弾装備が施されており、複合材とセラミック防弾板による重量が300kg以上の二重の防弾鋼板で囲まれ、100mからの距離で23mm弾に耐えることが可能であり、風防とキャノピーは厚さ55mmの平面防弾ガラスで12.7mm徹甲弾に耐えられる。メインローターのローターブレードは23mm対空砲弾(HEI)の破裂片に耐えられることが可能であり、小口径弾による30発の孔が開いた状態でも80時間飛行可能である。ローターマストにあるスワッシュプレートは大口径機関砲弾2発を撃たれても飛行できるほか、ローター・ギアボックスのオイルがすべて無くなっても30分間は飛行できる。 燃料タンクは内部に多孔質材が充填され、外部はセルフシーリング機能を持つカバーで覆われた防弾装備が施されている。機体の側面に多数のメンテナンスハッチを設けており、過酷な戦場でのメンテナンスを容易にできるほか、機体の高さが低いため、全てのメンテナンスは成人男性が立って手の届く範囲で可能としている。機内の全てのシステムは12日間メンテナンス無しでも稼働できる設計としており、基地から遠く離れた場所でも任務を遂行することができる。 通常の攻撃ヘリコプター以上に空対空ミサイルなどの運用能力に優れている。なお、対空戦闘は後期型Mi-24にも付与されていた任務で、ソ連・ロシアが西側諸国以上に攻撃ヘリコプターを多目的に使用してきたことはよく知られたことである。それに関連して、Ka-50でもMi-24同様あらゆる地上目標への攻撃能力が付与されており、乗員の操作の負担を大幅に減らすため、操縦席にはHUDと同機とSu-25T向けに開発された昼間テレビ自動追跡装置シュクヴァール(Шквал:「突風」の意味)と自動追跡航法装置ルビコーン(Рубикон)を装備しており、目標の捜索・追尾と目標への照準(ロックオン)・攻撃を自動で行うことができるようになっている。防御用装置は、中央胴体両側面の小翼の翼端にあるスタブウイングに電子戦装置とチャフ・フレアディスペンサー(チャフ・フレアカートリッジ128発×4)が装備されており、胴体後部両側面にフレア放出装置、機首先端・テイルブーム先端・スタブウイング後端にはL-150パステルレーダー警戒装置がそれぞれ装備されており、後者は装備されたL-140オトクリクレーザー警戒装置やL-136マーク赤外線警戒装置とも連動して自動的にチャフ・フレアディスペンサーからチャフ・フレアカートリッジを一定間隔で放出する。また、夜間作戦能力付与型のKa-50Nは前方監視赤外線装置(FLIR)と低光量テレビカメラを装備しており、MiG-29で導入されたヘルメット装着式照準装置(HMD)を装備している。 なお、Ka-50が正式に発表される以前、西側はハヴォック(Mi-28)がハインド(Mi-24)の後継となる攻撃ヘリコプターであり、ホーカム(Ka-50)は対ヘリコプター戦闘を主体とする世界初の空対空戦闘ヘリコプターと想像していた。これはMi-28は西側の攻撃ヘリコプターと比較しても常識的な形態を採用しているのに対し、Ka-50は単座であるなど大きく異なっており、しかも、(カモフでは普通のことだが)二重反転メインローターを採用しているという特徴によるものであるが、実際には、Ka-50はMi-28と旧ソ連陸軍の新攻撃ヘリコプターの座を競い合っており、1987年12月にはKa-50の採用が決定して量産発注も行われたが、その後のミルの巻き返しで決定は白紙となり、有効性を実証するためチェチェン紛争などに投入された。2004年末にロシア空軍はMi-28の採用を決定してKa-50の生産は行わないこととなった。 また、Ka-50は、ヘリコプターとして世界で初めて射出座席(NPP ズヴェズダ製のK-37-800)を搭載している。ただ、そのままではメインローターが障害となるため、上部キャノピーとメインローターを火薬で吹き飛ばしてから射出する仕組みになっている。乗員が1名のみとするのも攻撃ヘリコプターとしては世界初の試みで、カモフではこれをセールスポイントとしていた。結果としてこれは複座機に慣れ親しんできた運用側に不安感を与えてしまい、Ka-50が商業的に失敗する要因となってしまった。そのため、トルコ空軍に売り込みをかけていたKa-50-2は、Ka-50を複座型に改造した発展型となっている。 その後、カモフはKa-50を並列複座にしたKa-52を開発するとともに単座型Ka-50の改良型として夜間作戦能力付与型のKa-50N(50Shとも呼ばれる)を開発した。試作機は1997年3月4日に初飛行しており、1997年8月には、FLIRの取付け位置を機首下に変更され、1998年には計器盤の多目的表示装置の変更とヘルメット装着式照準装置の導入が行われている。同時期にはMi-28の夜間攻撃機型Mi-28Nも開発されており、Ka-50シリーズでもKa-52にも同様に夜間攻撃能力が付与されており、シュクヴァール-V(Шквал-В)の上部に装備されたサムシート-50T(Самшит-Т:самшитは「柘」の意味)システムは温度によって敵の画像を捉えるもので、索敵、追跡、レーザー誘導ミサイルによる攻撃に際し、大きな力を発揮するものと期待された。カモフではKa-52とともにこのKa-50Nをロシア空軍へ売り込んでおり、一度は決定されたとされたMi-28Nの採用が取り消しとなったことから再攻勢をかけたが、結局はMi-28Nが50機の発注を受けている。なお、Mi-28Nの愛称もKa-50N同様「ノチュノーイ・オホートニク」である。しかしKa-52がMi-28を補佐する攻撃ヘリコプターとして装備されるようになると、Ka-50も少数機の導入が先行して行われている。 Ka-50はイメージ戦略として全身漆黒のカラーリングで公開され、その後もいくどかの変更を経ながら「映画スクリーン上の兵器」のような塗装は維持されてきた。それが大きく変更されたのはチェチェン戦争への実戦試験による実戦投入で、Ka-50は実戦仕様の迷彩を施され、8機が前線へ投入された。
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開発・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 21:51 UTC 版)
アメリカ海軍の要求仕様に基づいてアレキサンダー・ソーラが設計を担当し、モデル71 (Model 71) の名称で単発複葉、機体下部に主フロート、翼端下部に副フロートを持つオーソドックスな水上機として設計された。 当初は陸上の基地で運用する際に備えて中央のフロートに車輪を内蔵していたが、後には陸上で運用する際にはフロートを外して脚を取り付けた完全な陸上機とする設計に変更された。これは、アメリカ海軍が発注した艦載水上機に共通した特徴であり、以後開発された機体にも共通する特徴である。 2丁の30口径7.62 mm機関銃を搭載し、1基は前方固定式に、もう1基は後部座席に旋回式に搭載された。底翼に2つの小型爆弾が搭載でき、最大速度266 km/hで1,086 kmの距離を飛行できた。 最初の型であるSOC-1 シーガルは135機が発注され、その後、陸上運用のために脚輪式の降着装置に交換できるように改設計されたSOC-2 シーガル 40機、SOC-3 シーガル 83機の発注が後に続いた。1937年までに総計258機のSOCが開発、生産された。SOC-3は基地での使用のためにSON-1 シーガルの名称で海軍航空廠でも生産され、1940年には44機がSON-1A シーガルとして改めて艦上機として配備された。 シーガルは後継機種と交代するため1938年に生産を終了し、1941年までに戦艦の搭載機はヴォート社のOS2U キングフィッシャーに、巡洋艦の搭載機はSO3C シーミュゥに移行する計画であった。しかし、SO3Cがエンジンと機体の安定性の問題で失敗作に終わってしまったため、機種交換の計画は破棄されシーガルは結局終戦まで使用された。 脚輪式の陸上機型は着艦拘束装置を装備した-A型に改修され、アメリカ海軍初の護衛空母、AVG-1 ロング・アイランドの搭載機としても運用されている。
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