1945年5月
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5月5日 呉市空襲 広地区海軍工作庁を中心に爆撃。B29延べ130機が爆撃、広工廠・11航空廠は大半焼失。軍属の死者112名(軍人除く)。民間死者32名。被災者1,000人以上。 5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。死者500人以上、負傷者約1000人。 5月31日 台北大空襲 B24・117機が日本統治時代の台北市を空襲。死者約3000人。
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1945年5月
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大戦末期、イッター城は逃亡中のSS髑髏部隊の将校らによってしばしば中継地点として使用された。4月30日にはダッハウ収容所所長エドゥアルト・ヴァイターSS中佐が家族や部下を連れてイッター城を訪れたが、彼は5月2日の早朝に拳銃自殺を遂げた。 所長ヴィンマーは5月4日に妻を連れてイッター城を脱出し、看守らもこれに続いた。残された囚人らは看守の武器庫を破るとヴェイガンとガムランの指揮下で武装し、城を管理下に置いた。また、ヴィンマーは逃亡の際に自分の代理として武装親衛隊将校のクルト=ジークフリート・シュラーダーSS大尉(Kurt-Siegfried Schrader)を囚人らに紹介していた。 シュラーダーはフランス戦線での負傷の為に療養中で、年来の知人でもあるヴィンマーの手を借りて先に疎開していた家族と共にイッター村に暮らしていた。長らく模範的なSS隊員として務めていたものの、既に敗戦を確信していたこともあり、彼はリハビリを口実に何度もイッター城を訪れてはフランス人たちとの親交を深めつつ、もはやNSDAPの体制を快く思っていない事を伝えていた。シュラーダーは囚人らの要請を受け、家族を城内に移すと共に収容所の司令官という立場に付いた。また、シュラーダーは後出のガングル少佐とも同じ戦闘団に勤務した友人同士だった。 ヴィンマーが脱出する2日前、チュッコヴィッチが連合国軍に助けを求めるべくイッター城を脱走している。彼はインスブルック近くで米第103歩兵師団(英語版)(師団長:アンソニー・マコーリフ少将)の部隊と出会い、米軍人らにイッター城収容所の捕虜に関する情報を伝えた。 ドイツ陸軍のヨーゼフ・ガングル少佐 (Josef Gangl) は戦争末期のオーストリアにおける抵抗運動に密かに協力していた将校の1人である。彼はロシア及びフランス戦線で戦った歴戦の砲兵将校だが、1945年4月頃ヴェルグルに駐屯する戦闘団に編入された直後から現地抵抗運動への協力を始めていた。1945年5月4日、ヴェルグル駐留ドイツ軍の指揮官という地位についていたガングルの元にクロボットが現れ、囚人らが収容所の状況をアメリカ軍に知らせる為に英語で書いた手紙を手渡した。フランス高官らは連絡の遅れていたチュッコヴィッチが捕まったか殺されたと判断し、2人目の使者としてクロボットを送り出したのである。この直後、ガングルはヴェルグル全部隊の降伏を決断し、部下の将校数名に全てを打ち明けた上で運転手と自分の2人だけでキューベルワーゲンに乗り、アメリカ軍部隊を探す為に前線へと向かった。 同じ頃、ジョン・C・"ジャック"・リー・ジュニア大尉 (John C. "Jack" Lee, Jr) に率いられたアメリカ陸軍部隊はクーフシュタインに進出し、後続の歩兵連隊の到着まで待機していた。騎兵科将校のリーは第12機甲師団第23大隊所属で、大隊の前衛を務める混成任務部隊を率いていた。そして白旗を掲げたガングルの車が彼の前に現れ、ヴェルグルの降伏を伝えると共に囚人から預かった手紙を手渡したのである。
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