軍需産業
軍需
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:59 UTC 版)
「ナチス・ドイツの経済」の記事における「軍需」の解説
1940年3月には軍需省が設置され、トートが軍需大臣となった。戦争開始後には軍事費と軍需生産が増加したが、フランスとポーランドを支配下においてなお、1940年から1941年にかけては軍需物資増産は停滞した。独ソ戦開始後の1941年6月23日にゲーリングは特別軍備計画いわゆる「ゲーリング計画」を発した。空軍力を2年から2年半の間に4倍拡張するほか、軽金属・航空燃料・火薬・爆薬の大増産を行う大規模な計画であったが、空軍偏重に対する陸軍や軍需企業の強い抵抗を招いた。一方で損耗も増加し、軍需生産の先行きが悲観的であると感じた軍需相トートは、早期終戦をヒトラーに進言していた。 独ソ戦が停滞の様相を見せ始めた1942年1月にヒトラーは総統布告を出し、消費生活を犠牲にしてでも軍需、とくにUボートや東部戦線用の戦車に代表される兵器の生産拡大を命令した。2月にトートが航空機事故で死亡すると、後任には建築家アルベルト・シュペーアが任じられた。シュペーアはトートの敷いた軍需省機構改革路線を引き継ぎ、4月には軍需省傘下の中央計画庁が設置された。軍需省への権限集中は進み、3月には航空機を除く空軍兵器と軍艦の生産権限、5月には国防省の経済軍需局を吸収し、国防省の発言力は低下した。シュペーアは兵器生産に関わる戦車をはじめとする13の分野の中央委員会と、ボールベアリングなど部品ごとに産業リングを組織した。シュペーア自身によれば、これによって兵器発注に関する固定価格制度、一工場一製品大量生産の原則が普及し、兵器類の大増産につながったとする。しかし、シュペーアの施策の多くは前任者のトート時代に作られていた。また、シュペーアが改革する前のシステムは戦争初期の大量動員には適したシステムだった。大増産を可能にしたのは弾薬生産用の鋼鉄の配分増加が理由で、合理化ではなかった。中央計画委員会のメンバーはシュペーア方式を破綻させないために国内消費者への石炭割当を減らす方策を取っていた。原材料の供給不足により、シュペーア方式は1942年には破綻しかけていた。イギリス軍がドイツ本土の爆撃を始まると、コークスと鋼鉄・中間部品の供給地だったルール地方も標的となった。1943年のルール地方への爆撃で鋼鉄生産は20万トン減り、部品の不足が起きて軍需産業全てが打撃を受け、シュペーアによる増産計画は予定段階で失敗した。 1942年から1944年の間に工業純生産額が10%伸びたが、軍需物資生産額は3倍に増加し、全体の40%を占めることになった。軍需生産のピークは1944年7月であり、自動車と戦艦が減少したほかはいずれも増大したが、特に戦車の増産が大きかった。1945年の春には石炭不足で稼働する工場が激減したため、ライン川が清流になったという記録がある。
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