せいぶ‐せんせん【西部戦線】
西部戦線
西部戦線(ノルマンディーの戦い)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 17:45 UTC 版)
「エルンスト・バルクマン」の記事における「西部戦線(ノルマンディーの戦い)」の解説
1944年2月、ダス・ライヒ師団は補充再編のためにフランスのボルドーへ移動された。G軍集団の隷下におかれた師団は、予想される連合軍の上陸に対する貴重な装甲戦力として軍集団予備の扱いで再編を進めた。この際に、バルクマンはD型の問題点を改良されたパンターA型を受領した。車体番号は424号車である。1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が開始されると、師団は7月初頭サン=ロー付近の戦闘に投入された。7月中の戦闘を通じて、バルクマンと第4中隊は多数のM4中戦車やM5軽戦車、対戦車砲を撃破した。 1944年7月27日、バルクマンのパンターは前日からのエンジンの修理のために中隊から離れていた。この時サン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところでアメリカ軍の戦車部隊と接触、交戦したとされていた。後にバルクマンの曲がり角と呼ばれることとなるこの戦闘で、バルクマンはたった1両のパンターでもってM4シャーマン9両を撃破、1両を中破させ、さらに多数の車両を撃破。戦闘の途中でアメリカ部隊の支援要請を受けたP-47戦闘爆撃機の機銃掃射を受けるがこれにも耐えて戦闘を継続しアメリカ軍の前進を停止させたとされていた。これはバルクマンが参加した戦闘の中でも特に有名なエピソードであった。しかし2015年、この戦いについて調査した歴史研究家のスティーヴン・ザロガ(英語版)が撃破されたはずの連合軍車両の記録と戦闘機の出撃記録が存在しなかったと発表した。それ以後、バルクマンの曲がり角については「武装親衛隊のプロパガンダ」であったとの見方が主流になっている。 7月28日、バルクマンはクータンセに突入、市街を占拠していたアメリカ軍部隊と交戦し、29日から30日にかけて敵戦車14両を撃破した。しかし、強力な連合軍の攻勢により、バルクマンのパンター以外2両が失われた上、バルクマン小隊は敵中に孤立する。31日、バルクマンはみずからのパンター424号車を爆破処分し、小隊員と共に敵中7キロメートルを徒歩で突破、8月5日にアヴランシェに到着して中隊と合流した。8月27日、ノルマンディーでのバルクマンの奮戦に対し騎士鉄十字章の授与が決定され、9月5日に授与された。また、騎士鉄十字章受章と合わせて親衛隊曹長(SS-Oberscharführer)に昇進したバルクマンは、第2装甲連隊第4中隊の小隊長に抜擢された。この時の車体番号は401号車である。
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「西部戦線」の例文・使い方・用例・文例
- 西部戦線で
- (第一次大戦で)西部戦線.
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