1941年まで
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「ドーセットシャー (重巡洋艦)」の記事における「1941年まで」の解説
1927年(昭和2年)9月21日に起工、1929年(昭和4年)1月29日に進水し、1930年(昭和5年)9月30日に就役した。大西洋艦隊 (Atlantic Fleet) 所属中の1931年(昭和6年)9月、インヴァーゴードン反乱事件が発生した。その後、アフリカ戦隊に配備された。 1935年(昭和10年)からは中国艦隊 (The China Station) に所属した。10月から11月にかけて、ドーセットシャーを含めイギリス艦隊は大日本帝国を訪問、日本列島各地に寄港する。ドーセットシャーは10月3日から10日まで大分県別府港に滞在する。その後は14日まで広島湾、16日から28日まで横浜港滞在。11月3日、鹿児島を出発して上海市にむかった。なお瀬戸内海所在時には江田島に親善訪問し、乗組員が海軍兵学校を訪れたり、66期生が本艦を見学するなど交流を深めた。 1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦がはじまると、東南アジアからインド洋へ移動した。大西洋ではドイツ海軍 ( Kriegsmarine) のドイッチュラント級装甲艦(通称「ポケット戦艦」)アドミラル・グラーフ・シュペー (Admiral Graf Spee) が通商破壊作戦を開始した。10月初頭、イギリス海軍本部は通商破壊艦対策として複数の任務部隊を編成して各地に配備する。空母イーグル (HMS Eagle) 、重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)はI部隊 (Force I) に所属し、セイロン島を拠点に行動した。 12月、G部隊(指揮官ハーウッド代将)隷下の重巡エクセター (HMS Exeter, 68) が南アフリカサイモンズタウンで修理する間、その代理をドーセットシャーが務めるよう命じられた。ドーセットシャーはインド洋を離れ、フォークランド諸島ポートスタンリーに向かう。12月12日の時点で、本艦はサイモンズタウンで明日の出港に備えていた。翌13日のラプラタ沖海戦によりアドミラル・グラーフ・シュペーがウルグアイのモンテビデオに逃げ込んだ時、ケープタウンにいたドーセットシャーも同地への進出を命じられた。だがモンテビデオ到着予想日時は12月21日であった。本艦がモンテビデオに到着してG部隊(エイジャックス、アキリーズ、カンバーランド)に合流した時、シュペーは既に自沈して残骸になっていた。 1940年(昭和15年)1月より、ドーセットシャーは南大西洋での船団護衛任務に従事した。 2月11日、本艦の水上偵察機が、ブラジル沖でドイツの貨物船Wakamaを発見した。ドイツ船が自沈したので、乗組員を救助した。5月から6月中旬まで、イギリスに戻り修理をおこなう。6月下旬、ダカールからカサブランカに移動しようとしたフランス戦艦リシュリュー (Richelieu) の監視を命じられる。リシュリューがダカールに戻ったあとも、空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) や重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共にダカールのフランス艦隊を監視した。7月上旬、ハーミーズの艦上攻撃機によるリシュリュー攻撃を支援した。 7月28日、仮装巡洋艦「アルカンタラ」がドイツ仮装巡洋艦「トール」と遭遇、交戦。それを受けてフリータウンに居た「ドーセットシャー」は出撃を命じられている。 11月以降、インド洋での船団護衛任務や通商破壊艦対策に従事する。その頃、ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) が大西洋やインド洋で行動していた。12月、イギリス海軍はシェーア(テオドール・クランケ艦長)が大西洋にいることに気付き、K部隊を再編する。さらに多数の巡洋艦を哨戒任務に投入した。本艦と軽巡ネプチューン (HMS Neptune, 20) は、フリータウン西方500マイルの海域を警戒するよう命じられた。だがシェーアもドイツ仮装巡洋艦も捕捉できなかった。
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1941年まで
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「球磨 (軽巡洋艦)」の記事における「1941年まで」の解説
1935年(昭和10年)11月から翌年2月に3年式機砲を(留式)7.7mm機銃に換装した。同時期に友鶴事件による復元性能改善工事と第四艦隊事件による船体補強工事を行い、固定バラスト200トンを搭載した。またボイラーの重油専焼化も行った。この時点(1937年8月5日調査)で公試排水量7,151トン(平均吃水5.670m)、満載排水量7,823トン(平均吃水6.050m)になっていた。 1936年(昭和11年)6月から翌年3月の間に前部マストのトップが短縮された。 1937年(昭和12年)11月から12月に射出機を呉式二号三型に換装した。同時に8cm高角砲2門を25mm機銃連装2基に換装した。 1940年(昭和15年)8月から翌年1月に後部マスト上に装備の90cm探照灯2基を九二式110cm探照灯1基を換装、後部マスト探照灯下にあった見張所が撤去され、その位置に探照灯が下げられた。 1941年(昭和16年)夏に舷外電路が設置された。
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