1941年までとは? わかりやすく解説

1941年まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 13:49 UTC 版)

ドーセットシャー (重巡洋艦)」の記事における「1941年まで」の解説

1927年昭和2年9月21日起工1929年昭和4年1月29日進水し1930年昭和5年9月30日就役した。大西洋艦隊 (Atlantic Fleet) 所属中の1931年昭和6年9月インヴァーゴードン反乱事件発生したその後アフリカ戦隊配備された。 1935年昭和10年)からは中国艦隊 (The China Station) に所属した10月から11月にかけて、ドーセットシャーを含めイギリス艦隊大日本帝国訪問日本列島各地寄港する。ドーセットシャーは10月3日から10日まで大分県別府港滞在するその後14日まで広島湾16日から28日まで横浜港滞在11月3日鹿児島出発して上海市むかった。なお瀬戸内海所在時には江田島親善訪問し、乗組員海軍兵学校訪れたり、66期生が本艦見学するなど交流深めた1939年昭和14年9月第二次世界大戦がはじまると、東南アジアからインド洋へ移動した大西洋でドイツ海軍 ( Kriegsmarine) のドイッチュラント級装甲艦通称ポケット戦艦」)アドミラル・グラーフ・シュペー (Admiral Graf Spee) が通商破壊作戦開始した10月初頭イギリス海軍本部通商破壊対策として複数任務部隊編成して各地配備する空母イーグル (HMS Eagle) 、重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)はI部隊 (Force I) に所属しセイロン島拠点行動した12月、G部隊指揮官ハーウッド代将隷下重巡エクセター (HMS Exeter, 68) が南アフリカサイモンズタウンで修理する間、その代理をドーセットシャーが務めるよう命じられた。ドーセットシャーはインド洋離れフォークランド諸島ポートスタンリーに向かう。12月12日時点で、本艦サイモンズタウン明日出港備えていた。翌13日ラプラタ沖海戦によりアドミラル・グラーフ・シュペーウルグアイモンテビデオ逃げ込んだ時、ケープタウンにいたドーセットシャーも同地への進出命じられた。だがモンテビデオ到着予想日時12月21日であった本艦モンテビデオ到着してG部隊エイジャックスアキリーズカンバーランド)に合流した時、シュペーは既に自沈して残骸になっていた。 1940年昭和15年1月より、ドーセットシャーは南大西洋での船団護衛任務従事した2月11日本艦水上偵察機が、ブラジル沖でドイツ貨物船Wakamaを発見したドイツ船が自沈したので、乗組員救助した5月から6月中旬まで、イギリス戻り修理をおこなう。6月下旬ダカールからカサブランカ移動しようとしたフランス戦リシュリュー (Richelieu) の監視命じられるリシュリューダカール戻ったあとも、空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) や重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共にダカールフランス艦隊監視した7月上旬ハーミーズ艦上攻撃機によるリシュリュー攻撃支援した7月28日仮装巡洋艦アルカンタラ」がドイツ仮装巡洋艦トール」と遭遇交戦。それを受けてフリータウン居た「ドーセットシャー」は出撃命じられている。 11月以降インド洋での船団護衛任務通商破壊対策従事するその頃ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) が大西洋インド洋行動していた。12月イギリス海軍はシェーア(テオドール・クランケ艦長)が大西洋にいることに気付きK部隊再編する。さらに多数巡洋艦哨戒任務投入した本艦軽巡ネプチューン (HMS Neptune, 20) は、フリータウン西方500マイル海域警戒するよう命じられた。だがシェーアもドイツ仮装巡洋艦捕捉できなかった。

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1941年まで

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球磨 (軽巡洋艦)」の記事における「1941年まで」の解説

1935年昭和10年11月から翌年2月3年式機砲を(留式)7.7mm機銃換装した。同時期に友鶴事件による復元性改善工事第四艦隊事件による船体補強工事行い固定バラスト200トン搭載した。またボイラー重油専焼化も行った。この時点(1937年8月5日調査)で公試排水量7,151トン(平均吃水5.670m)、満載排水量7,823トン(平均吃水6.050m)になっていた。 1936年昭和11年6月から翌年3月の間に前部マストトップ短縮された。 1937年昭和12年11月から12月射出機を呉式二号三型換装した。同時に8cm高角砲2門を25mm機銃連装2基に換装した。 1940年昭和15年8月から翌年1月後部マスト上に装備の90cm探照灯2基を九二式110cm探照灯1基を換装後部マスト探照灯にあった見張所が撤去され、その位置探照灯下げられた。 1941年昭和16年)夏に舷外電路が設置された。

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