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CIA、NATO、そしてヘロイン大クーデター。マイアミはいかにして国際ファシズムの中心地となり、ケネディ大統領を殺害したのか。

<記事原文 寺島先生推薦>

CIA, NATO and the Great Heroin Coup: How Miami Became the Center of International Fascism and the Murder of President Kennedy

筆者:シンシア・チョン(Cynthia Chung)

出典:ストラテジック・カルチャー

2022年5月10日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2022年11月19日

 ノースウッズ作戦の論理は、グラディオ作戦と同じ筋書きだった。参謀たちは予め作成済みの暴力に傾いたが、それは国家が得る利益の方が個人に対する不正よりも大きいと考えたからである。


 これは5部構成のシリーズの第4部。[第1部第2部では、第二次世界大戦後のウクライナの民族主義運動がいかにCIAによって買収されたかを解説。第3部は、NATOの「グラディオ作戦」の重要な要素について述べており、本稿の前に必読である]。


暗黒街作戦と海軍情報局(ONI)

 チャールズ・"ラッキー"・ルチアーノ(1897-1962)は、アメリカ史上、最も強力で成功したギャングだった。1931年に闇組織「Commision職務遂行」を設立したことから、米国における近代組織犯罪の父とみなされている。
 ルチアーノは1936年、売春の強要と売春組織の運営で有罪判決を受けた。30年から50年の禁固刑を言い渡されたが、第二次世界大戦中、米海軍の海軍情報局(ONI)が彼にある提案をした。

 ルチアーノは、南イタリアのマフィアをムッソリーニに対抗する連合国側の第5列として引き渡せば、最終的に自由になれると約束されたのである。
 これが、南イタリアの強力なマフィアファミリーを生み出す種となった。こうしてアメリカは、イタリアのマフィアに、待機米軍の中で傭兵として活動するよう命じた。

 ルチアーノとONIの連絡役となったのが、ユダヤ系マフィアのボス、マイヤー・ランスキーで、かくして、「暗黒街作戦」が誕生した。
 ルチアーノは部下に命じ、ランスキーの指示に従うよう命じ、ランスキーは実質的にイタリア系アメリカ人マフィアの大部分を統括するようになった。

 トーマス・デューイ(当時のニューヨーク州知事)は、ルチアーノを刑務所に入れた責任はあったものの、連合国への貢献により1946年に恩赦を与え、ルチアーノは手下の数人とともにイタリアに送還された。が、これは、彼がOSS(戦略諜報局)の諜報員と会って、その指示に合意したからこそ実現したことである。

 ルモンド紙は、1973年6月、アメリカ側の諜報機関とマフィアのつながりを詳述している。
「ラッキー・ルチアーノは、自分(ルチアーノ)自身がアメリカの諜報機関と協力した経験から、ベイルートからアンカラやマルセイユを経由してモロッコのタンジールに至るまで、そこらに散らばっている著名な組織員たちに、自分がしたように活動するよう勧めたものだった。
 このようにして、麻薬の売人や運び屋は、[イギリスの]MI5、[アメリカの]CIA、[フランスの]SDECE、[西ドイツの]Gehlen組織、さらにはイタリアのSIFFARの情報提供者となった。(1)

 マフィアとこれらの情報機関との間のこの特別な関係は、数十年にわたり強固なものとなり、今日に至っている。


マイヤー・ランスキーのキューバ帝国

 マイヤー・ランスキー(1902-1983)は、ラッキー・ルチアーノとともに、略称「連合(シンジケート)」と呼ばれる「全国犯罪連合」を創設した。ランスキーは、1947年頃から「連合」の財務の魔術師であり、会長を務めていた。
 彼は50年代初頭、ハバナに本部を置く「キューバ帝国」を築き始めた。ランスキーは文字通り、キューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタの頭越しに、キューバを統治した。
 親友であるキューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタが、1944年に、自由選挙によって政権から追われると、ランスキーもキューバを離れ、サント・シニアが率いるトラフィカンテの一族にマフィアの帝国を託した(かくして、サント・トラフィカンテは、キューバのルチアーノ・ネットワークの後継者となった)。

 ランスキーとバティスタは、マイアミのすぐ北にあるフロリダ州ハリウッドに居を構えた。まもなく、ランスキーは東海岸で違法なカジノ帝国を経営し、ラッキー・ルチアーノが創設した麻薬取引を拡大させた。
 古くからのマフィアは麻薬取引をタブー視していたため、ランスキーの「シンジケート」はトラフィカンテの長男サントJr.がヘロインの流通を管理し、市場を独占していた。
 サント・シニアが1954年に亡くなると、サント・ジュニア・トラフィカンテはランスキーの右腕となり、ランスキーのキューバでの利益を管理するようになった。

 フロリダにあったランスキーの違法カジノが、1950年、閉鎖されると、ランスキーはキューバで独裁者バティスタの政権復帰を推進した。
 こうして、1940年から1944年までキューバ大統領だったフルヘンシオ・バティスタは、1952年に、アメリカの支援を受けて、再び軍事独裁者としてキューバに戻った。そして、1959年に、フィデル・カストロ率いるキューバ革命によって、独裁政権は倒された。

 カストロがキューバを支配する中、ランスキーとトラフィカンテは窮地に立たされた。彼らはカストロから、キューバ王国ではもう歓迎されないという明確なメッセージを受け取っていたのである。ランスキーとトラフィカンテとともに、50万人のキューバ人がキューバを離れ、25万人がトラフィカンテの新本拠地であるフロリダに新居を構えた。

 キューバから追い出され、フロリダでカジノを閉鎖したランスキーは、バハマのナッソーに同様のギャンブル天国を作り上げた。
 ギャンブルの儲け以外に、コルシカ人の分も含めたアメリカの麻薬取引で得た驚くべき大金の大部分は、ランスキーのマイアミ・ナショナル銀行で洗浄されて、バハマのナッソー、スイス、レバノンの番号付き口座に移された。(2)
 ランスキーはやがて世界の無冠の麻薬王となった。彼の決断は、フランスやイタリアの大物たちを含むすべての麻薬人に影響を与えた。ランスキーの麻薬流通ルートは、ラスベガス、ローマ、マルセイユ、ベイルート、ジュネーブなどに跨がっていた。


マイアミを国際ファシストたちの新たな拠点に

 DEA(麻薬取締局)マイアミ事務所のアラン・プリングルは、1980年初め、Associate Pressの記者に対し、マイアミの銀行が麻薬取引人たちの「ウォール街」を構成していると語った。(3)

 このことを最初に暴露したのは、1980年にヘンリク・クルーガーが出版した「ヘロインの大クーデター」という素晴らしい研究書である。
 この本では、マイアミが「偉大なるヘロイン・クーデター」の結果として、この国際的なファシズムの新しい中心地であることが明らかにされたのである。

 しかし、クルーガーが示した重要なポイントは、高級ヘロインの主要生産者と売人として、フランス領コルシカ島のマフィア(トルコとレバノンが原料生産者)が、イタリア領シチリアのマフィアに取って代わられたということである。その支配地は東南アジアと南米をも含んでいた。
 この移行は、DEA(麻薬取締局)を支配するCIAによって支援され、実施された。
 ニクソンの「麻薬戦争」は、ヘロインの特定の生産者と流通経路を閉鎖したが、最終的にはアメリカの厳しい管理下に置かれる新しい生産者と流通経路を開拓するためのものであった。
 ベトナムと同様、フランスはアメリカによってあらゆる権力から押し出され、今後はこの新しいジャングルの王に従属することになった。

 ランスキーのシンジケートは、この移行をCIAとその同盟する諜報機関の手に安全に導くのに貢献した。これらの 諜報機関が、NATOの「グラディオ作戦」に大きく関わっていた。
 マイアミは、メイヤー・ランスキーだけでなく、CIAにとっても、あらゆるヘロインとキューバにおける作戦の中心地となった。

 ヘンリク・クルーガーはこう書いている。
「国際的ファシスト組織は、50年代にCIAのために働いていたナチスの故オットー・スコルツェニが、マドリッドで長年にわたって計画してきた成果である。
 その名簿には、元SS(ナチス親衛隊Schutzstaffel)の隊員、OAS(フランスの秘密軍事組織)のテロリスト、ポルトガルの恐ろしい秘密警察(PIDE)の手下、スペインのフエルサ・ヌエバのテロリスト、アルゼンチンとイタリアのファシスト、キューバの亡命者、SAC(フランス民間行動隊)のギャング、そして[CIAの]オペレーション40、グアテマラ、ブラジル、アルゼンチンでのテロ作戦で鍛えられた元CIAエージェントが載っている。
 国際ファシスタの過激派には、キューバ人亡命組織CORUの他に、ポルトガル解放軍(ELP)とイヴ・ゲラン=セラック率いるアジンテール・プレス部隊、サルバトーレ・フランチャ率いるイタリアのオルディネ・ヌオーヴォ、ピエルルイジ・コンキュテッリが様々な時期に名を連ねていた。 スペインのGuerillas of Christ the King、Associacion Anticommunista Iberica、Alianza Anticommunista Apostolica(AAA)も名簿に載っている。ただし最後のAAAを、アルゼンチンのAAAと混同してはいけない。後者は、国際的ファシスト組織 Internacional Fascistaや聖騎士団Paladinグループのなかに、すでに名を連ねている。」
[註1:OAS(Organisation de l'armée secrète秘密軍事組織)は、フランスの極右民族主義者の武装地下組織]
[註2:SAC(Service d'action civique市民行動サービス)とは、かつてフランスにあった民兵(私兵)組織。民間行動隊、市民運動の義務などとも訳される。
[註3:CORU(Coordinacion de Organisaciones Revolucionarias Unidas)は、キューバ人亡命者の統括組織。本部はマイアミにあった]。


 国際的なファシズムの網の目のような世界におけるマイアミの重要性は、アメリカでもよく知られた秘密の一つである。
 その糸は大西洋を越えて、もともとリスボンにあった偽装通信社アギンタの活動や、武器密輸の網の中心であるマドリッドにひっそりと座っている元ナチス親衛隊中佐スコルツェニにまで伸びていた。
 クルーガーにとって、マイアミ-リスボン-マドリッド-ローマという軸は、ナチスの高官と同盟を結んだCIAの記録の論理的延長であった。
 ネオ・ファシストの聖騎士団(Paladin Group )とスペインの情報機関であるDGS(La Dirección General de Seguridad 保安総局)は、共にナチスの戦犯オットー・スコルツェニ大佐(Colonel Otto Skorzeny)によって運営されていた。

 マイアミは、CIAの巨大な利益を生む麻薬密売組織と、国際テロリズムを含むその他多くの組織のための国際的な接合点と万能の情報センターであった。https://en.wikipedia.org/wiki/JMWAVE
 マイアミのCIAの秘密作戦本部JM/WAVEは、1961年から1968年まで活動していた米国の主要な秘密作戦・情報収集局である。キューバを戦略的標的とする一連の奇襲攻撃を企て、「ピッグス湾作戦」そのものよりも多くの人員と経費を費やした。300人の工作員と4600人のキューバ人亡命者がJM/Waveの作戦に参加した。
 クルーガーは書いている。「後に明らかになったように、その最後の作戦の一つは中止になった。航空機で米国へ麻薬を密輸しようとして捕まったからだ。JM/Waveの時代には、中国(国民党)ロビー-=ラフィカント=キューバ人亡命者=CIAのつながりが大きく拡大した。」

 さらにクルーガーはこう書いている。
 「秘密戦争の開始とともに、この新しい局はCIAにとって最大のものとなり、世界中の対カストロ作戦の司令塔となった。年間予算は5,000万ドルから1億ドルで、300人の工作員の活動に資金を供給していた。CIAの各主要局には、少なくとも1人の作戦要員がキューバ作戦を担当し、最終的にマイアミに報告することになっていた。ヨーロッパでは、すべてのキューバ問題はフランクフルト支局(ドイツ)を経由して、JM/Waveに報告された。

 1963年には、ホンジュラスで、次にドミニカ共和国で、そして3番目はグアテマラで、政権転覆を企てた。
 1964年には、ブラジルでブランコ将軍の軍事クーデターを支援した。
 1965年、特殊部隊は海兵隊とともにドミニカ共和国の内戦を鎮圧し、1966年にはアルゼンチンでオンガニア大佐の軍事クーデターを幇助した。
 1966年には、CIAがアルゼンチンのオンガニア大佐の軍事クーデターを支援した。
 同じ頃、マイアミのリトル・ハバナでは、キューバ人亡命者の活動組織が生まれた。アルファ66やオメガ7のようなテロ集団が生まれ、その悪名高いリーダーはCIAに訓練されていた。
 JM/Waveが解体された時、シャックリと彼のスタッフは、組織犯罪と米国の極右の強力な要素と結びついた6000人の狂信的反共主義キューバ人の高度な訓練を受けた軍隊を残して、マイアミからラオスに向かった...」[強調は筆者]。

 JM/Waveは、世界のどこであろうと、キューバに関するあらゆることを取り仕切った。CIAは最大の秘密作戦組織JM/WAVEを維持し、活気あるネットワークを構築していた。たとえば準軍事的な訓練基地や隠れ家などの運営だ。

1. ハワード・ハントとビル・ハーヴェイの二人はJM/WAVEで働いていたが、この二人については後ほど紹介する。

 マイアミのキューバ人は、グアテマラの偽装通信社アギンター・プレスのテロリストに区わった。フロリダに住む100人のキューバ人は、スペインでアギンター・プレス社=ELPファシスト軍に加わり、テロ行為に関与した。
 [注:偽装通信社アギンタープレスは、主にNATOのグラディオのために働いていたOASのフランス・ファシスト準軍隊の訓練・流通拠点である、第3部参照]。

 ここまでで我々は、NATO/CIA/イタリア系アメリカ人マフィア/キューバの亡命者/ナチスを含むファシストがすべて同じ組織のために働き、本質的に同じ目標、すなわち民主的に選ばれた指導者を打倒し、独裁者とファシスト右翼政権に置き換えるという実態を見たはずである。
 麻薬取引の利益は、グラディオをモデルにした世界規模の右翼テロ活動の資金として使われる。ヘンリック・クルーガーが暴露した「ヘロイン大クーデター」は、まさにこの目的のために、ヘロインの利益を完全に支配することだった。


ニクソンのホワイトハウスの配管工と 「麻薬戦争」

 ニクソンのウォーターゲート事件への関与の歴史は、彼の個人的な麻薬取締りへの関与の歴史と絡み合っている。
 ニクソンは1971年6月にヘロインとの戦いを公言し、直ちに国際的な麻薬取引に対抗するため、「ホワイトハウスの配管工」、キューバからの亡命者、さらには「殺し屋集団」まで集めるに至った。
 [註:White House Plumbers「ホワイトハウスの配管工」は、本来、ニクソン政権の情報漏洩に対処するために組織された秘密工作グループ]

 クルーガーはこう書いている。
「1972年7月17日、ジェームズ・マッコード、フランク・スタージス、バーナード・バーカー、エウゲニオ・ロランド・マルティネス、ヴァージリオ・ゴンザレスは、[E・ハワード]ハントと[G・ゴードン]リディに率いられて、ワシントンの民主党のウォーターゲート事務所に押し入った。
 この7人のうち、4人はマイアミ出身で、4人は現役または元CIAの工作員、4人はピッグス湾侵攻に関わったことがあり、3人はキューバの麻薬マフィアと密接なつながりがあった。」
[源注:フランク・スタージス(本名フランク・フィオリーニ)は、トラフィカンテのCIA連絡先の1人だった。1960年代後半、スタージスはマイアミを拠点とする国際反共旅団(IACB)を運営し、メイヤー・ランスキー・シンジケートの資金援助を受けていたと言われている。(4)]

 E. ハワード・ハントの経歴は第二次世界大戦まで遡り、OSS(Office of Strategic Services戦略情報局)に所属しながら中国雲南省の昆明に駐在していた。
 OSSは蒋介石と国民党軍を支援していた。彼らはファシストの日本と戦うと同時に、毛沢東率いる中国共産党と内戦を戦っていた考えられている。
 蒋介石の支配下にあった雲南は(OSSの監督する一団と共に)中国アヘン栽培の中心となり、昆明は米軍陸軍航空隊将校クレア・シェノーの第14空軍やOSS(戦略情報局=CIAの前身)202分遣隊などによる、軍事作戦の温床となったのである。
 [国民党とCIAなどとの世界的なヘロイン取引に関する提携については、次稿で詳しく紹介する]。

 ハントはここで、フランス外人部隊の隊長でOSS工作員に転身したルシアン・コニーヌと出会った。
 クルーガーは書いている。
「E. ハワード・ハントは明らかに中国/キューバ/ラテンアメリカ・ロビーの手先であった。
 ハントの20年来の親友であり、彼の子供たちの名付け親でもあるウィリアム・F・バックリーがWACL(World Anti-Communist League世界反共連盟)のアメリカでのトップ・サポーターであったことからも、ハントもWACLと関係があることがうかがえる。
 また、ルシアン・コネインや国務省の元情報部長のレイ・S・クラインも同じロビー団体と関係があり、彼は台湾WACLの拠点に頻繁に出入りし続けている。
「ハントとコネインは、ホワイトハウスのヘロイン大クーデターを支える重要な力であった。
 またハントはキューバ人亡命者に必要な足場を確保した...」。

 ここではっきりさせておきたいのは、クルーガーが中国/キューバ/ラテンアメリカ・ロビーとして言及しているのは、共産主義の指導者ではなく、むしろファシストの指導者、蒋介石、バチスタ、ラテンアメリカのファシスト独裁者についてである、という点だ。

 インドシナは第二次世界大戦後もコネインの活動拠点であり、ハントと同様、彼はOSSからその後継組織であるCIAに移籍していた。そして、南ベトナム、北ベトナム、カンボジア、ビルマで活動し、この地域とアヘン密輸のコルシカ・マフィアに関する米国の最高専門家となった。

 ピーター・デールスコットは、クルーガーの「ヘロイン大クーデター」の序文でこう書いている。
「E. ハワード・ハントは、明らかに中国/キューバ/ラテンアメリカ・ロビーの手先であった。
 ハントの20年来の親友であり、彼の子供たちの名付け親でもあるウィリアム・F・バックリーが、WACL(世界反共連盟)の米国におけるトップ支援者の一人であったことからも、彼がWACLとも関係があることがうかがえる。
 また、ルシアン・コネインや国務省の元情報部長のレイ・S・クラインも同じロビー団体と関係があり、台湾WACLの本拠地には今も頻繁に出入りしている。

 しかし、中国に古くからいる人脈のある者たちは、新生DEAに移籍し始めた。ハントはOSS-クミングの旧友ルシアン・コニンのために、最終的にDEA(Drug Enforcement Administration麻薬取締局)となるポストを確保し、コニンは今度はインディアナ州ディーコンにあるCIAキューバ人支部から自分の仲間を採用し、そのうちの少なくとも一人は、CIAの報告によれば、すでに死の部隊作戦に参加した。
 最近明らかになったことは...偽装通信社アジンタと亡命キューバ人組織CORUの関係者が、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺に関連していることだ。
 レテリエ事件(チリのアジェンデ大統領政権下で外交官だったオルランド・レテリエルを自動車爆弾で暗殺)で著名な少なくとも3人のキューバ人は、ケネディ暗殺下院特別委員会の最近の発表によって、1963年の亡命キューバ人組織と連携していたことが明らかになった。この特別委員会は、ケネディ暗殺事件の「徹底した調査」を保証する、と請け負った。
 リー・ハーヴェイ・オズワルドはニューオリンズでの活動によって、CORUが資金的に支援する反カストロ・グループや、将来のアジンター社や、おそらくOAS(Organisation de l'armée secrète、フランス秘密軍事組織)とつながりのあるアメリカ人と接触することになった。
 そして1963年11月23日、OASのテロリストで将来、偽装通信社アジンターの工作員となるジャン・レネ・スエトルは、最近、機密解除されたCIAの報告書によれば、「(ケネディ)暗殺の18時間後に、米国ダラス/フォートワース空港から追放された
。」 [強調は筆者]

 クルーガーはこう書いている。
「ルシアン・コネインは、DEA(Drug Enforcement Administration麻薬取締局)の特殊作戦部門の責任者になると、ワシントンのコネチカット通りにある偽装会社BRフォックス社と建物を使って、DEASOG(the DEA’s Special Operations Group:DEAの特殊作戦グループ)を立ち上げた後、暗殺計画を実行したとされる。
 DEASOGの12人のメンバー、いわゆるDirty Dozen(汚い12人)は、決意が固く経験豊富なラテン系CIA工作員が、この機会を利用して、DEA麻薬取締局に移籍してきた。
 コネインはDEASOGを立ち上げる前に、インディアナ州ディーコンで、DEA麻薬取締局の「諜報」活動を立ち上げ、CIA訓練所出身のキューバ人亡命者を採用した。彼らは30人のキューバ人(全員が元CIAの秘密情報部)に監督されていた...。
 DEAの出現は、ヘロイン・クーデターの最終局面を準備するものだった。ハントとコネインが率いるCIA職員は、DEAの情報収集と作戦実行に移行した...」[強調は筆者]。

 グアテマラのアルベンス大統領は、1952年、大規模な土地改革法案を議会で可決し、それを強力に実行した。それは、国内の農地面積の70%を、人口の2%にすぎない地主の手から取り上げて、それを民衆に再分配することを目的としたものだった。
 その2%の地主の中には、ユナイテッド・フルーツ社が含まれていた。その会社は、ワシントンDCやCIAと多くのつながりを持っていた。たとえば、アルベンス大統領を追放するクーデターの後に役員になったウォルター・ベデル・スミス(元CIA長官)、キャボット家のヘンリー・キャボット・ロッジ、アレンとフォスター・ダレス法律事務所のサリバン&クロムウェルなどだ。(5)

 CIAはユナイテッド・フルーツ社のためにクーデターを画策した。E・ハワード・ハントは、1954年にグアテマラのアルベンス大統領の政権を転覆させるためのCIAの政治活動責任者であった。(6)

 クルーガーはこう書いている。

 「事実上、手を携えた政権転覆活動の全領域に重なる人物もいた。その中には、ハワード・ハントと、ユナイテッド・フルーツの汚れ仕事を取り仕切る「トミー・コーコラン社」がいた。
 ユナイテッド・フルーツ社はマイアミにある石油請負業ダブル・チェック社の顧客であり、ピッグス湾侵攻のために飛行機を供給したCIAの隠れ蓑でもあった。
 コーコランはチェノー将軍の未亡人アンナ・チェノーのワシントンでの護衛だった。チェノーはかつて中国(国民党)ロビーのトップで、東南アジアのアヘンの鍵を握っていた」。

 CIAの新しい公式の麻薬政策とともに、非公式のものも登場した。後者の汚い仕事は、DEAの中の大きな部門によって行われた。彼らは、キューバ人亡命テロリストの大規模で独立した軍事組織(CIAによって訓練された)を容認し、その部門は、ラテンアメリカで、独裁者の要求に応じて行動することを奨励していた。たとえ全面的にではないにしても、
 しかし、これは10年近く前に起こっていたはずのことである。

 1964年6月2日付のニューヨークタイムズの記事によれば、「リチャード・M・ニクソン前副大統領は、次のように言っている。

 「リチャード・M・ニクソン元副大統領は、キューバのピッグス湾への侵攻を1960年11月8日の国民選挙の前に行うことを望んでいた
 ニクソンは、アイゼンハワー政権が大統領選挙の終盤にフィデル・カストロを破壊すれば、選挙で楽勝することは確実だったので、11月8日より前に侵攻することを望んでいたのだ。

 ニクソンは1953年1月から1961年までの8年間、アイゼンハワーの副大統領を務めていた。ニクソンは次期大統領になるはずで、誰もがそれを知っていた。
 しかしケネディは、この秘密の侵略計画を知っていたので、カストロに対する計算ずくの強硬姿勢と、公開討論でキューバの反乱者を支援すると表明したおかげで、ニクソンの鼻先から選挙を取ることができた。
 一方、ニクソンは、そんなことに賛成すれば実際の計画を損なうと考え、それに反対する振りをすることが最善であると考えた。

 こうして、何十年にもわたる計画が水の泡となり、ニクソンが去り、ケネディが登場したのだった。


ノースウッド作戦、ピッグス湾への侵攻作戦、さらに「照明弾による抹殺」作戦

[註:“Elimination by Illumination照明弾による排除”は、空軍准将エドワード・ランズデールが考え出したカストロ暗殺計画」

 連中の計画を潰したのはケネディだけではなかった。フィデル・カストロによる1959年の、バティスタの打倒とヘロイン取引を含むマイヤー・ランスキーのキューバ帝国の追放は、こうした長期計画にとって、控えめに言っても問題であった。

 フィデル・カストロは、ドゴール同様、暗殺計画やクーデターを阻止する名手であった。カストロは、1959年から2011年までキューバを統治することになる。

 カストロのキューバは、米国「ビジネス」のあり方の現状を覆すという非常にわかりやすい理由で、受け入れがたい存在とされた。ランスキーのシンジケートだけでなく、ユナイテッド・フルーツ社、U.S.スチール、デュポン、スタンダード・オイルなど、フォーチュン500に名を連ねる企業が、カストロ政権の登場によって多くの金が失われた。(7)

 こうして、カストロは去らねばならなくなった。だからCIAと国防総省が救出に乗り出した。少なくとも、そのような脚本になるはずだった。

 1961年1月20日、ケネディが大統領に就任した。ケネディ大統領は、国家と国民の福祉の責任を引き継ぐと同時に、CIAが仕切る共産主義キューバとの秘密戦争も引き継ぐことになった。

 失敗した「ピッグス湾」作戦は、1961年4月17日から20日にかけておこなわれた。この事件は、CIA長官アレン・ダレス、CIA計画担当副長官リチャード・M・ビッセルJr、CIA副長官チャールズ・カベルの解雇につながった(この件に関する詳細はこちらを参照)。

 クルーガーはこう書いている。

「ピッグス湾侵攻軍の創設、資金調達、訓練のために集められた陰謀家たちほど、驚くべき、狂信的な集団はかつて存在したことがない。
 CIAの中心人物は、エドワード・ランズデール(特殊作戦担当の国防次官補) の部下ナポレオン・ヴァレリアーノ、謎の男フランク・ベンダー、そしてE・ハワード・ハントだった。ハント自身もフィデル・カストロの命を狙った少なくとも一件に関与している人物であった。彼らは、マイアミにある4つの偽装会社から集まったCIA工作員の小部隊に支援されていた。

ピーター・デール・スコットは、クルーガーの『ヘロイン大クーデター』の序文でこう書いている。

「CIAはピッグス湾作戦のために、昔のグアテマラ・チーム(キューバ人の勧誘を監督していたハントを含む)を再結集させた。
 ピッグス湾の失敗で、キューバはアメリカにとって、フランスにとってのアルジェリアのような存在になった。
 爆発的な政治的論争は、何千人ものキューバ人亡命者(その多くはハバナの武装集団の経歴を持つ)が、アメリカによってゲリラやテロリストとして訓練され、その後、政治的には迷惑な存在になったことを意味した...
 ピッグス湾作戦の中心である「作戦40」から生まれた少なくとも一つのCIA計画は、メンバーの麻薬活動があまりにも厄介になり、終了せざるを得なくなった。
 1973年、日刊紙Newsdayは、『1500人のピッグス湾侵攻軍の少なくとも8パーセントが、その後、麻薬取引で調査されたり逮捕されたりした』と報じた。」[強調は筆者]

 さらに言えば、ピッグス湾作戦は、実際、失敗することが運命づけられていた。それは単にキューバへの直接の軍事侵攻を求める世論をかき立てるためのものだったからだ。
 CIAのリチャード・ビッセル計画担当副長官、統合参謀本部議長のライマン・レムニッツァー、海軍大将のバーク提督が、ケネディ大統領にキューバへの直接軍事攻撃を承認させようとする会議(あるいは「作戦への介入」と表現する方が適切かも)が公文書に記載されている。
 バーク提督はすでに、キューバ沖の海軍駆逐艦に海兵隊の2個大隊を勝手に配置し、「失敗した侵攻をやり直すために米軍がキューバに出動することを想定」していたからだ(これについては、こちらを参照)。

 その後もカストロ暗殺やクーデターの試みが繰り返された。
 サイゴン軍事ミッションのチーフでレムニッツァー将軍の部下であり、秘密作戦の専門家エドワード・ランズデールは、潜水艦をハバナ郊外の海岸に送り、「光の地獄」を作り出そうと考えていたのだ。
 ランズデールによれば、作戦部隊の上陸と同時に、キューバにいる工作員に、照明弾を使って「キリストの再臨とフィデル・カストロに対する救世主の嫌悪」を演出させる計画であった。
 この計画は 「イルミネーションによる抹殺」"Elimination by Illumination "と呼ばれたが、最終的には棚上げされた。(8)

 このような計画が紙の上にとどまっていれば面白かったのだが、この男たちは、現実になった計画のために、数え切れないほどの人々を拷問し、死に至らしめたのである。

 レムニッツァー将軍は1959年、陸軍参謀総長に就任するとすぐに、ランズデールを特殊作戦担当の国防次官補として任命し、ペンタゴン(国防総省)のギルパトリック国防副長官の執務室に勤務させた。
 ランスデールはレムニッツァーの直属の部下として「マングース作戦」の責任者となり、政治的暗殺を禁止する連邦法に反して、カストロを排除することを主目的とした活動に入った。
 「マングース作戦」は、CIAによる民間人へのテロ攻撃を実行する秘密作戦の大規模な展開であり、マイアミのJM/Waveから実行された。
 こうして、さらにランスデールは、キューバをはじめ、中南米全域の襲撃や爆破など、多くの秘密作戦に参加することになる。

[註:JMWAVE、JM/WAVE、またはJM WAVEは、1961 年から 1968 年までCIAによって運営されていた、放送局をはじめとする米国の主要な秘密工作および情報収集ステーションのコードネーム。その飛行船基地は、マイアミ大学のメイン キャンパスの約 12 マイル南にあり、現在のマイアミの大学のサウス キャンパスにあった。]


 1962年3月、ライマン・L・レムニッツァー将軍は、元CIA長官ダレス、元CIA副長官ビッセル、CIA長官キャベルに起こったこと[ピッグス湾作戦]をヒントにせず、「ノースウッズ作戦」をケネディ大統領に提案し、承認を得ることが良い考えだと判断した。

 ノースウッズ作戦は、アメリカ市民に対する偽旗作戦で、CIAの工作員がアメリカの軍人と民間人を標的にテロ行為を行い、その後、キューバに対する戦争を正当化するためにキューバ政府を非難するというもので、演出と実行の両方を行うことが提案されていた。
 この計画はレムニッツァー将軍によって具体的に立案され、NATOのグラディオ作戦(第3回参照)と著しい類似性を持っている。
 ノースウッズの論理はグラディオの筋書きであった。参謀本部がプレハブ暴力に傾いたのは、国家が得る利益は個人に対する不正よりも重要だと考えたからである。唯一の重要な基準は目的に到達することであり、その目的は右翼政権をキューバにつくることであった。



ノースウッズ作戦の覚書 1962年3月13日

 ノースウッズのマニュアルには、あからさまな合衆国憲法への反逆罪とならない項目は一つもなかった。しかし、ペンタゴン幹部は「最高機密:キューバへの米軍介入の正当化」をロバート・マクナマラ国防長官の机に直送し、ケネディ大統領に伝達したのである。

 言うまでもなくケネディ大統領はこの提案を拒否し、数ヵ月後、1960年10月1日から1962年9月30日まで務めたレムニッツァー将軍の統合参謀本部議長としての任期は更新されなかった。

 しかし、NATO は、1962 年 11 月にレムニッツァーを米欧軍司令官と NATO の欧州連合最高司令官に任命し、後者には 1963 年 1 月 1 日から 1969 年 7 月 1 日まで在任することになった。

 レムニッツァーは、ヨーロッパにおける大陸を背棄権する席巻した「グラディオ作戦」を監督するのにうってつけの人物であった。レムニッツァーは、1952年にカリフォルニア州フォート・ブラッグに特殊部隊グループを設立する原動力となった。
 ここでは、ソ連のヨーロッパ侵攻を想定したゲリラ反乱作戦の訓練を受けた特殊部隊が配備されていた。独特のグリーンベレー帽を誇らしげにかぶった彼らは、やがてヨーロッパ各国の軍隊と慎重に協力し、直接的な軍事作戦に参加するようになったが、その中には極めて機密性が高く、合法性が極めて疑わしいものもあった。
 この合法性の疑わしい作戦の一つに、少なくとも二度にわたる「ドゴール大統領暗殺計画」を支援したNATO-CIA連合がある。
 これに対してドゴールは、NATO本部をフランスから追い出し、フランスをNATOから脱退させ、レムニッツァー将軍にNATOからの撤退を略式命令した(第3部参照)。
 偽装持ち株会社パーミンデックスと世界貿易センター(WTC)も、このドゴール暗殺未遂事件にかかわっていたので、ドゴールの命令でスイス本社を閉鎖せざるを得なくなった。が、これについては後ほど詳しく述べる。
 もしドゴール大統領の命令が否定されたなら、彼はこれらの問題で戦争をする用意があっただろうから、こうして多少のNATO改造はおこなわれた。が、基本的にはゲームはそのまま継続されたのである。
 CIAとペンタゴンにとって、ケネディは中国にいる牛のような存在だった。彼はペンタゴンの政策に、ことごとく逆らったからだ。
 たとえば、ケネディは、フランスとの異例の戦争を内々で解決することにこだわり、米ソのミサイル危機では手を引き、トルコから最前線のミサイルを撤去した。また、ベトナム戦争から徐々に手を引き、それを終わらせようと考えた。
 また亡命キューバ人による秘密作戦を混乱させ、ペンタゴンがソ連と中国の脅威はかつてなく大きいと考えていたことが完全に明白だったときに、アメリカを平時に逆戻りさせようとした。
 そして究極の侮辱は、CIAのゴッドファーザーであるアレン・ダレスと第一参謀総長レムニッツァー将軍の解雇したことだった。こうしてレムニッツァーを亡命へと、すなわちNATO軍司令官へと追いやった。

 CIA、国防総省、NATOは一致していた。かくしてケネディはこの世から去らねばならなかった。

 偽旗作戦グラディオ、偽装会社パーミンデックス、ローマのWTC世界貿易センター、フランスの右翼武装組織OAS(Organisation Armée Secrèt)は、アメリカという「殺人会社MURDER INC.」の道具なのだ。

 フェレンツ・ナギ(Ferenc Nagy)は、共産党が1947年5月に政権を取り、彼を首相から追い出すまで、ハンガリーの首相を短期間務めていた。
 ナギはアメリカから亡命を認められ、1948年にワシントンDCに移住し、そこでFBIに就職した。その後、彼はCIAの副長官フランク・ウィズナーの親友となった。ウィズナは、CIA長官アレン・ダレスの右腕となり、CIAのならず者的作戦を実行した人物だ。

 ハンガリー動乱前夜の1956年、ナギを会長としてスイスのバーゼルに設立されたのが、CIAの偽装会社であるパーミンデックス(Permanent Industrial Expositions)である。ナギはローマのWTC世界貿易センター(別名CMC、Centro Mondiale Commerciale)の支配人でもあり、そのアメリカ理事会の会長でもあった。

 リチャード・コットレルは著書『作戦グラディオ:ヨーロッパの心臓に刺さったNATOの短剣』の中で次のように書いている。

 両組織(パーミンデックスとCMC)は、武器や麻薬の売買、資金の洗浄、グラディオに近い過激派組織の潤滑油、ヨーロッパのギャングとの取引など、CIAの秘密裏に世界中で行われる商業活動のためのパイプ役であった」。
 パーミンデックスはイタリアに支社を持ち、P2(Propaganda Due)の黒幕リチオ・ゲリが取締役に名を連ねていた。
 JFK暗殺事件で逮捕、尋問されたニューオリンズの実業家クレイ・ショーは、一時期パーミンデックスのアメリカの役員を務めていた。ショーについては、イタリアの左翼紙「パエーゼ・セーラ」が60年代にローマWTCの活動を詳細に調査していた。

[註:P2(Propaganda Due(イタリア語発音:[propaˈː])は、1877年に設立されたイタリアのグランドオリエント傘下の秘密結社フリーメイソン支部ロッジ。1976年に認可が取り消され、秘密結社を禁じたイタリア憲法第18条に反して活動する犯罪的、秘密的、反共産的、反ソ連的、反左翼的、疑似メイソン、急進右派の組織に変貌を遂げた。]

 またイタリアの左翼紙Paese Sera(パエーゼ・セーラ)は、フェレンツ・ナギーが世界貿易センター(WTC)と偽装会社パーミンデックスを通してフランスの右翼武装組織OASに資金を提供し、パーミンデックスはCIAから資金をもらっていたとも言っている。これらの企業はいずれも、目に見える商業活動をしていないようだった。

 ジム・ギャリソンは1962年から1973年までニューオーリンズの地方検事で、ケネディ大統領暗殺に関する裁判を起こした唯一の検事であった。その捜査の過程で、ギャリソンは多くの人脈に遭遇したが、当時はまだすべての点をつなげるだけの知識はなかった。

 重要な点の一つは、元シカゴFBI支局長でニューオーリンズ警察副長官でもあったガイ・バニスターであある。彼は、第二次世界大戦中に海軍情報局(ONI)でキャリアをスタートさせた。
 バニスターは、「引退後」自分の小さな探偵事務所を設立し、それは通りを隔てて、ONIと大統領警護事務所の真向かいという便利な場所にあった。さらに、ラファイエット公園を越え、セントチャールズ通りを少し歩いたところにCIAの本部があった。

 ギャリソンは『暗殺者の追跡』の中でこう書いている。

「ニューオーリンズ警察副長官バニスターの作戦には、この街を通過する反カストロの訓練生の調査・取り扱いも含まれていた。
 亡命者の多くは、ニューオーリンズ州ポンチャートレイン湖の北にあるキャンプでゲリラ訓練を受けるために西側からやってきた新兵だった。
 また、CIAがフロリダで行っている同様の訓練に参加するため、フロリダに送られた者もいた。時折、フロリダでの訓練プログラムの卒業生が、ダラス近郊の自宅に戻る途中、宿泊と食事の手配をするために、バニスターの店に立ち寄ることがあった...」。

 ギャリソンは、ダラス-ニューオリンズ-マイアミという供給ラインの一部であるバニスター機関を発見した。これらの供給品は、カストロのキューバに対して使用する武器と爆発物から成っていた。
 デイヴィッド・フェリーは元OSS(戦略情報局の一員)で、ガイ・バニスターとクレイ・ショー(これも元OSS)の下で働いていた。フェリーは地元のキューバ革命戦線のリーダーの一人であった。

 ギャリソンは調査の結果、元シカゴFBI支局長でニューオーリンズ警察副長官でもあったバニスターが、キューバ国内での準軍事行動のための特殊部隊の訓練と装備に携わっていたことを発見する。

 John F Kennedyを暗殺したとされるオズワルドは、ジャック・ルビーに射殺されたが、そのルビーはFBIのダラス支局と特別な関係にあった。1959年、ルビーはFBIダラス支局の捜査官の一人と少なくとも9回会っている。
 この時、彼はマイク付き腕時計、盗聴器付きネクタイ・クリップ、電話盗聴器、盗聴器付きアタッシュケースも購入した。これらの事実は、ジャック・ルビーが地元FBI支局の常連情報提供者であった可能性を示唆している。(9)

 ギャリソンはこう続ける。

 アリソン・G・フォルソムJr中佐の証言を検討すると、彼はオズワルドの訓練記録を朗読していた。彼は、オズワルドがソ連に亡命する直前の1966年に、カリフォルニア州のエルトロ海兵隊基地で受けたロシア語試験の成績について述べている...
 「私はまだ軍務についており、今では少佐になっていたが、これまで一人の兵士もロシア語をどれだけ学んだかを示すことを求められた記憶がない... リー・オズワルドは-少なくとも1959年には-情報訓練を受けていた。海兵隊の情報活動が海軍情報局(ONI)によって指導されていることは、軍歴のある人なら誰でも知っていることだ。

 ...1963年の夏。オズワルドは、いくつかのパンフレット配布事件に参加しているのが目撃されていた。...ウォーレン委員会は、これと他の証拠から、オズワルドはフィデル・カストロを支援するためにキューバ公正行動委員会に参加していた熱心な共産主義者であると結論付けていた。

 オズワルドはキャンプ544の住所に足を踏み入れていた...私はその場所を直接見てみたかったのだ...」。

 ギャリソンは、キャンプ544とラファイエット531番地(バニスター探偵事務所の住所)の両方が同じ場所に通じていることを発見する。
 こうして、ウォーレン委員会が親カストロの共産主義者というレッテルを簡単に貼ったオズワルドを、ギャリソンは、オズワルドの亡命キューバ人の活動とバニスターとを接結びつける糸口を見いだしたのである。

 ギャリソンはまた、ジョージ・ド・モーレンスチャイルドがオズワルドの「子守り=お目付役」(10)であったことを発見する。ド・モーレンスシルトは第二次世界大戦中、フランスの諜報機関で働き、彼の親友にはCIAと密接な関係を持つシュランバーガー社の社長ジャン・ド・メニルがいた。(11)

 ギャリソンはこう書いている。

「シュランバーガー社はフランスが所有する巨大企業で、爆発物や地質測定器を使って世界中の石油生産者にサービスを提供していた。
 1950年代後半から1960年代前半にかけて、北アフリカのアルジェリアを解放したシャルル・ド・ゴール大統領を何度も暗殺しようとしたフランスの反革命秘密軍組織(OAS)の支援者でもあった。CIAもフランスOASの将軍たちを支援しており、シュランバーガー社に対人用爆弾を供給していた......。

 ギャリソンは続ける。

「クレイ・ショーも取締役を務めていたパーミンデックス社は、ドゴール大統領のアルジェリア独立支持に反対するフランス秘密軍事組織(OAS)に秘密裏に資金を提供し、ドゴール暗殺未遂をおこしたと言われていることもイタリアの新聞で明らかにされた。
 この事実を1967年に私たちが知っていれば、ルイジアナ州フーマの飛行船基地まで戻って返し、先にCIAが暗殺を目的としたO.A.Sに渡していた軍需品を奪還していたであろう。
 それは、民間機のパイロットだったデイヴィッド・フェリーと元FBIガイ・バニスターの作戦に参加した者たちが、シュランバーガー社の貯蔵庫から再入手したものだった。
 しかし、残念ながら、限られた人員と資金、そして多くの手がかりのために、私たちの調査はこの重要な背景情報を最も必要とするときに発見することができなかった」。

 1967年にフランスのパエサ・セラ紙(Paesa Sera)が発表した記事によると、イタリアWTC世界貿易センター理事会のメンバーには、イタリアの王子でサボイ家(the House of Savoy)の一員であるグティエレス・ディ・スパダフォロ(Gutierrez di Spadaforo)がいた。
 彼は、ベニート・ムッソリーニ総統の内閣農務次官であった。スパダフォロは、その娘婿を通じて、ドイツのナチス財務大臣ハルマー・シャハトと関係があった。
 イタリアWTC世界貿易センター理事会の、もう一人役員はギゼッピ・ジジオッティ(Guiseppi Zigiotti)で、彼はファシスト全国武器協会の会長でもあった。そして先に述べたように、元ハンガリー首相フェレンツ・ナギ(Ferenc Nagy Nagy)はアメリカWTC理事会の会長であった。

 カナダのモントリーオールに拠点を置くフランス語紙Le Devoirは、1967年の初めに、「Nagy元首相は...CIAと密接な関係を保ち、それが彼をマイアミのキューバ人共同体と結びつけた」と書いている。ナギーはその後、アメリカに移住し、テキサス州ダラスに居を構えた。(12)

さらにフランスのパエサ・セラ紙(Paesa Sera)は次のように報じている。

「イタリアWTC(世界貿易センター)がCIAと関わっている可能性の中には(それは極右の組織に深くコミットしている人物が指導的地位にいることによって裏付けられている)、そのセンターががCIAの創造物であり、不法な政治スパイ活動のために、イタリアでCIA資金を送金するための隠れ蓑として設定されたということがある。
 しかし、クレイ・ショーとOSS(戦略情報局)の元少佐ブルームフィールドが、イアタリアWTCの理事会にいたことを明らかにすることがまだ残っている。

 ギャリソンによれば、地質学者ジョージ・ド・モーレンスシルト(George de Mohrenschildt)は、おそらくこの先何が待ち受けているかは知らされていなかったが、彼がCIAの工作員として事件に深く関わっていたことは、今ではほとんど疑いの余地はない。

 デ・モーレンスシルト(de Mohrenschildt)はオズワルドにダラスに移るよう説得し、オズワルドは元FBI職員かつ元ニューオーリンズ警察副署長ガイ・バニスター(Guy Banister)の好意でニューオーリンズに派遣された。そして羊飼い(親カストロの共産主義者に見せかけること)にさせられた。
 さらにオズワルドは、デ・モーレンスシルトを通じてルース・ペインに紹介される。ペインはオズワルドがテキサス教科書倉庫で仕事を得るのを手助けした人物である。(13)

 ジョージ・ド・モーレンスシルトは1977年3月29日、下院暗殺特別委員会の調査官と会う約束をしたわずか数時間後に「自殺」したとされている。

* * *

 E. ハワード・ハントは、ウォーターゲート事件で捕まったニクソンの「ホワイトハウスの配管工」の一人として悪名高く、その後33ヶ月の服役をしたが、彼自身と彼の家族の人生を台無しにしたことは確かである。
 ハントは、自分が死に瀕していると思ったとき、セイント・ジョン(Saint John)と名付けた別居中の長男に、ケネディ殺害の秘密を知っていると告白している。
 しかし、彼はその後4年も生き伸びたとき、再び息子に背を向け、何の役にも立たない人生だと息子を批判し、息子セイントに渡したJFKのメモをすべて返せと要求した。
 このままでは父と一緒に埋もれてしまうと思ったセイントは、生前に父からできるだけ多くの情報を聞き出そうとし、その一部はローリングストーン誌のインタビューに掲載された。

 E・ハワード・ハントがケネディ殺害に関与していると述べた人物の中に、ビル・ハーヴェイ(Bill Harvey)がいた。

 ハーヴェイは1947年にCIAに入局し(まさに創設時)、1950年代にはCIAのベルリン支局を運営していた。ドイツにいる間、ハーヴェイは元ナチスドイツの情報将校ラインハルト・ゲーレン(Reinhard Gehlen)の悪名高い組織、いわゆる「ゲーレン機関」と密接に働き、ゲーレンはハーヴェイを「非常に尊敬すべき(そして)本当に信頼できる友人」と考えるようになった。(14)
 
 元CIAベルリン支局長ハーヴェイは、1961年11月、コードネームZR/RIFLEと呼ばれるカストロ殺害のためのCIA極秘作戦の責任者に任命された。(15)
 彼はマフィアの大使であるジョニー・ロセリ(Johnny Rosselli)と直接に仕事をするようになった。E・ハワード・ハントも一緒に仕事をしていた。

 デビッド・タルボットは著書『悪魔のチェス盤』の中でこう書いている。

「後のCIA長官ヘルムズ(Richard Helms,)は、「引退した」ダレスに取って代わって、CIA職員アングルトン(James Jesus Angleton)と共にハーヴェイの主たる擁護者となっていた。
 そして1962年に、CIAのタフガイとしてビル・ハーヴェイを昇進させ、CIAの全キューバ作戦、タスクフォースWの責任者に指名した。
 ヘルムズとハーヴェイは、カストロに対する暗殺計画を含む作戦の多くを、ケネディ大統領に秘密にしていた...。

 ビル・ハーヴェイは、キューバ危機の後、CIAローマ支局長として、イタリアでのグラディオ作戦を監督する立場にあった。
 ハーヴェイは、サルデーニャ島のグラディオ本部で行われた会議にマーク・ワイアット(Mark Wyatt 、イタリア駐在のもう一人のCIAエージェント)とともに出席していたとき、ケネディ大統領が撃たれたという知らせを聞いたとされる。(16)

 しかし、ワイアットが、フランスの調査ジャーナリスト、ファブリツィオ・カルヴィ(Fabrizio Calvi)に、グラディオ作戦についてインタビューで語ったところによれば、ビル・ハーヴェイは1963年11月にダラスにいたという。(17)

 下院暗殺委員会の調査官であるダン・ハードウェイ(Dan Hardway)は、同委員会からJFK殺害にCIAが関係している可能性を調査するように命じられ、数年後に次のような事実を認めている。(18)

「我々は、ハーヴェイを最初から第一容疑者の一人と考えていた。彼は、組織犯罪、カストロに対する陰謀が行われたマイアミのCIA基地など、すべてに重要なコネクションを持っていた...
 我々はハーヴェイの旅行券と公安関係のファイルをCIAから入手しようとしたが、彼らはいつも我々を妨害した。しかし、暗殺までの数ヶ月間、彼がよく旅行していたことを示唆するメモをたくさん見つけた。」

 タルボットはこう書いている。

 「ハントは息子に自分の話をしながらも、自分自身の計画への関与についてはあいまいなままであった。
 結局、彼(ハント)は、ケネディ殺害の周辺的な「補欠選手」「ベンチの暖め役」の役割を果たしたに過ぎないと言った。ハントによれば、「攻撃の司令塔」「クォーター・バック」はビル・ハーヴェイだった...
 カストロ暗殺チームを編成する間、ハーヴェイは、(後のCIA長官ヘルムスの許可を得て)様々な裏社会の専門家に接触していた。その中にはCIAが雇った悪名高いヨーロッパの暗殺者、コードネームQJ-WINと呼ばれる人物もいた。その男がコンゴ独立運動の指導者パトリス・ルムンバ(Patrice Lumumba)を殺したのだった。
 だからハーヴェイは、CIAローマ支局長として、再びヨーロッパの裏社会を探り、ダラスの殺人チームを作るのにうってつけの立場にあった」。

 このように、1963年11月にダラスに集結した奇妙な殺人鬼の中に、ドゴール大統領暗殺計画に関係していたジャン・スエトル(Jean Souetre)という悪名高いフランスOAS特殊部隊員がいたことは驚くにはあたらない。スエトルはケネディ暗殺後、ダラスで逮捕され、メキシコに追放された。(19)
 このシリーズの第3回で、OAS(Organisation Armée Secrète)が元フランス軍と情報機関の将校からなる主要なファシスト・テロ部隊であり、ヨーロッパ、南米、その他の地域での「グラディオ作戦」で主役を演じていることを思い出してほしい。

 クルーガーはこう結論付けている。

 「CIAの新しい公式の政策に加えて、いやむしろその背後には、非公式の政策がある。
 それは、以前はCIAの汚れ仕事であったことを実行するためにDEAを操作したり、独裁者の要請に応じてラテンアメリカで活動できるキューバ人亡命テロリストの大規模な独立軍を、奨励はしないまでも容認していることなどに表れている。...
 もちろん、この非公式な政策が、実際にはCIAから粛清されたか、より穏健な路線に抗議して去った、元工作員によって実行されているという可能性を否定することはできない。
 しかし、それはCIAの反乱分子が独立した秘密情報機関を運営していることを意味する...」。

[第5回は、このシリーズの締めくくりとして、今日のウクライナの状況を位置づける予定である。著者の連絡先はcynthiachung.substack.comである]。


NOTES

(1) Le Monde, 17-18 June, 1973, p. 11.
(2) Henrik Kruger. (1980) The Great Heroin Coup: Drugs, Intelligence & International Fascism. South End Press: pg. 89
(3) Ibid. pg. 203
(4) Ibid. pg. 145
(5) David Talbot. (2015) The Devil’s Chessboard: Allen Dulles, the CIA, and the Rise of America’s Secret Government. Harper New York: pg. 279
(6) Henrik Kruger. (1980) The Great Heroin Coup: Drugs, Intelligence & International Fascism. South End Press: pg. 130
(7) David Talbot. (2015) The Devil’s Chessboard: Allen Dulles, the CIA, and the Rise of America’s Secret Government. Harper New York: pg. 459
(8) Henrik Kruger. (1980) The Great Heroin Coup: Drugs, Intelligence & International Fascism. South End Press: pg. 143
(9) Jim Garrison. (1991) On the Trail of the Assassins. Warner Books: pg. 254
(10) A “baby sitter” is a term used by American intelligence agencies to describe an agent assigned to protect or otherwise see to the general welfare of a particular individual.
(11) Jim Garrison. (1991) On the Trail of the Assassins. Warner Books: pg. 61
(12) Ibid. pg. 102
(13) Ibid. pg. 72
(14) David Talbot. (2015) The Devil’s Chessboard: Allen Dulles, the CIA, and the Rise of America’s Secret Government. Harper New York: pg. 470
(15) Ibid. pg. 471
(16) Ibid. pg. 476
(17) Ibid. pg. 477
(18) Ibid. pg. 477
(19) Ibid. pg. 502

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