はてなキーワード: ものとは
「ナフサ」とか「カルビーポテトチップス」とかの話題ですけど。
「足りてる」で語り合うことの足らなさや見当違いさってあると私は思っていて、何でかというと、前提にしている私たちの社会的な流通はモノの流通なんだけど、それ以上に、約束事の流通だと思うからです。
もともと、私たちにとって、まだそこにない物品や在庫をやりとりして金額にしてるのがふだんからのことですね。そのなかで「何が足りない」もひとつの視点ではあるけど、それをひっくるめたところでは、「何なら回せる」「何なら巡らせられる」ってことの連環をやってるわけなので。「モノ」の問題は大きいけど、そこだけにとらわれると、視野が狭くなって、結果として別の話にもなっちゃいますね。もともと全部はあるわけ無いのに無事に回っていたことなのだから、回復するだけの安心な量の目安というのも曖昧なものなんです。
そのうえでの大問題は、約束の連鎖が途切れて止まることです。私たちは、在庫そのものがあろうとなかろうと、高度なマスプロダクト化や流通の高度化の上で、先の約束をし続けてきています。そこにおいては、言葉と数字とがやりとりされて、目利きとか味見とかができるだけ不要であるように整えられています。そのことが私たちが前提視しているような安さや安定を作っています。その状況が揺らぐということが、一足飛びに結論めいたものを求める人にとっては、残った手の無さみたいな感じの終末的な話になるのですが、実際、そこでは「目詰まり」以上の揺らぎが起こっていると言えるかもしれないですね。
そうはいっても、実際、現場にとっては、モノがなければ回らないというのはその通りです。そして、モノがなければそこにいる人の気持ちも行動も維持できなかったりします。モノが大事なのはその通り。
けれども一方で、ある現場は別の現場との関係のなかで動いているものでもあるので、仮にある現場にモノがあったからといって、今回の問題全体がひとまず解決だということにはならないはずです。モノの約束を確保するためには、モノの流通がおかれている状況や環境の話をしないわけにはいかないはずなのです。ここまでプラスチック問題みたいなことを散々扱ってきたはずの私たちが、「ナフサ」に対して、「そういうのがあったんだね、初めて聞いたけど」とか言えていること自体が、すでにそのような態度を少しは獲得しかけているということではあります。良かったね。
それで、「カルビーポテトチップス」をはじめとした現場対応の話は、そこに対抗しようとするものでしょう? 約束を話し続けるための現場のやり方が、今回はあれらの形で報道にのっています。「コロナ禍」でも「米騒動」でもそうだったでしょう。
事前に教科書などからそれを学んでいなくても、また、教科書の記述を社会の現場で実際どのように実現するものかを確かめるような経験をしてこなかったとしても、「コロナ禍」や「米騒動」を経験したのに何も考えていなかったり何も変わらなかった政治家がいたとしたら、それは、与野党の所属に関係なく、すごく無能ですよ。今後どう進むかは知らないけれど、ここまでのところ、力不足。勉強力不足。成長力不足。役に足りていない。
しかし、この国の状況は、個々人をそうなるように仕向けるようになっているとも思います。時々、何か進むと思ったら、「無能な働き者」によるコントロールスフリーク的で実際にはあばら屋のようなドヤ政策が話題にされるばかり。万博の出し物くらいなら、そういうものもアリかもしれませんけれどもね。「立場が人を作る」という言葉がありますが。日本の「立場」は、あまり人を良いふうには作ってくれないのかもしれません。もちろん、例外にこそ期待したいと思いつつ書くわけですが。
そしてまた、市民もそうです。モノの約束がとれなさそうだからモノを求めて文句をいう。「それはそう」って話ではあり、「間違ってる」とか「悪い」ということではないわけなのですが、でもそれでは、足りないでしょう。それで終わると、同様の問題はまた繰り返されます。災害にも、疫病にも、戦争にも、なにに関してもまたきっと同じようなことになります。そういう行政や議会の動かなさや素っ頓狂さに関して、「モノ」以上のことを求めるのが、市民の役割でもあるはずだとも思います。
それで、今回に関しては、政府にはできないこともあるだろうなと、私は、思います。だからこそ、そこは「触れない」とか「忖度する」とかではなく、「できないこと」と「せめてやること」をコミュニケーションするとか、打ち出すとかする必要があると考えます。そこでは、「条件に関しての争い」はあるかもしれないですし、「損をしてでもやる」ということもあるかもしれないです。「条件に関しての争い」に付き合いたくない人たちをそれに巻き込む労も必要になるかもしれないですね。それらを面倒がって近づかないのが「賢いリーダー」だという時期がずいぶん長いですが。
触れないでおいて、せめてできることをやるということになれば、できるのはまた「お肉券」「お米券」ですよ。だって、繰り返し続けてるんだもん、分かるでしょう…?
ファミコン、ゲームボーイ、スーファミときてポリゴンやらオンラインゲームやらの登場から立ち会って
なにいってんだ。作者の気持ちとは作者の気持ちだと論理的にみなせると作問者がみなしたものであり、その作問者は自分が完全に論理的な人間だと信じているものだ、の略なことぐらい俺でも知ってるぞ
dorawiiより
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太ってるのもナフサ不足のせい
お金がないのもナフサ不足のせい
モテないのもナフサ不足のせい
よかった…誰も悪くなかった
ナフサ不足が原因なんだもの
これでゆっくり過ごせるね
元増田の一連の流れ見てみたけど、色々細かすぎてめんどくさがられてそうだわ
数年前まで夫婦関係はかなりボロボロでお互い辛い日々を送っていたが、悔しいというか複雑なことに
妻がスピリチュアルにハマったことによりすべてがうまくいくようになってしまった
・激務のストレスで死にかけ、帰ったら妻に年収や家事について文句を言われ寝るまでヒスられる俺
・激務なのは知っていたがさすがにここまでとは思わなかったという妻
お互いにお互いを思う気持ちはあったのにすれ違っていたしお互いもううんざりしていた
しかしある日の夜突然、妻が「おかえり!」と笑顔で迎えてくれた
いつもはリビングのソファに座ったままで俺が飯をチンしようとするとワット数や秒数に関してキレ散らかしてきたのに
俺は当たり前に戸惑ったし奇妙だと思ったし嬉しさより怖さが勝った
そんな俺をよそに妻はそれからずっとそんな感じだった
そのうち俺も慣れてきて、自分のランチ代を削って妻に渡すお金の量を増やしたり金曜日にはお土産を買っていったりした
家庭のストレスが消えたからか、資格勉強をする体力もできて転職できた
定時に上がれるようになり給料も上がった
ある日子供が妻の部屋を散らかして色んなものを引っ張りだしていた
それを片付けていると1冊のノートが見つかった
そのノートには何度も何度も繰り返し同じようなことが全ページびっしり書かれていた
「夫と夜ゆっくりできるようになりました。ありがとうございます。」
「夫が私に笑顔を見せてくれるようになりました。ありがとうございます。」
「夫が転職してお金に余裕ができるようになりました。家族みんな幸せです。ありがとうございます。」
恐怖を感じてすぐに閉じて収納したが、気になってその夜にAIに聞いてみたら
「それは引き寄せの法則ですね」と言われた
望んだことは引き寄せることができるという感じらしい
その手段(?)として何度も何度もノート等に書くというのがあるらしい
そしてAIは「スピリチュアルには『もうなっている』という概念がある。奥様はあなたを「もうそうなっている」という設定の元、笑顔で迎えてくれたりしていたのでしょう」みたいなことを言っていた
スピリチュアルに頼るまで追い詰めてしまっていたことへの申し訳なさと
「永遠」の単語の意味はいつまでも続く、未来永劫、時間の概念を超越になるわけなんだが、
「永遠に苦しめ」などと個人の感覚に紐づいたものに対し表現する際は有限の時間の中で最大、死ぬ直前までと解釈するのが当たり前ではある
まあこれすら理解できていないのがやばいのだが、反論の一つとして「まず【お前】が死んだら終わりだし」と相手の時間軸を出しているのが最高に頭悪くて大好きだ
時々、“買わない理由”をチラシの裏に書いたりするんだけど、自分でもしっくりこないことが多々あるんだよな。
何度かアウトプットを試みても、どうにも御託ばかりになってしまう。
手がかりが欲しくて他人の“買わない理由”とかも見聞きするんだが、俺と同レベルのことしか語ってなくて共感の一歩手前くらいをなぞってる感じ。
で、最近ちょっと青天の霹靂だったのが、そういう“買わない理由”を揶揄してるコメントを見かけたこと。
そもそも「買わない理由そのものがナンセンスなんじゃないか」って視点があることに、そういえばそうだな~てなったというか。
生活必需品とか金欠だとかでもない限り、あるモノを買わない理由なんて、ぶっちゃけ大した理由なんてないんだよ。
「本当に買うつもりがないモノ」ってのは認識外に存在する(選択肢すらない)ものだから。
そういう感覚ってのは結局のところパーソナルだったりプライベートなもの由来だから、客観的だったり普遍的に述べようとすると、理屈は通っていても本質からどんどん遠ざかっていく。
「買う理由がない」と表現すること自体は可能だけど、本質的な部分で「買わない理由」を述べることってかなり難しい。
だから大抵の場合“買わない理由”は御託まみれになってしまう。
まあ、それでも他人に尋ねられたら、本質的な回答ではなくても御託を並べるしかない時はある。
けど、誰に聞かれたわけでもなく自ら“買わない理由”をつらつらと語る奴がいる(まあ俺なんだけど)。
考えるに、あれは“自分自身を納得させるための儀式”みたいなもんだと思ってる。
他人に尋ねられた際に“買わない理由”を述べるのは、その他人に納得してもらうためにやるわけだが。
ということは誰に言われるわけでもなく自らやる場合、納得させる対象は自分自身ってことになる。
前項でも書いたけど「本当に買うつもりがないモノ」は認識の外にあるから、買わない理由を述べる必要すらない。
でも、世の中には「認識内にあって、なおかつ買うつもりがないモノ」も勿論ある。
上手くいえないんだけど、そういうモノに対して「それを買わない自分自身を納得させてやりたい」ってなる時があるんだよな。
「オタク迫害史観」というどう考えても捏造されているオタクたちへの違和感
この note 記事に書かれていることは、筆者と同世代で生まれも育ちも東京23区の私が見てきた世界とほぼ完全に一致している。
ところが、ブコメを見る限り、この記事とは全く別の世界線を生きてきた人も多いようで、
その認識のズレはに共通のパターンがあるのように見えたので、ここにメモ的に記しておく。
まず、平仮名「おたく」という用語が侮蔑語として発明されたのは紛れもない事実である。
ただし、中森明夫が「おたく」を造語したのは1983年で、宮崎事件は1989~1990年だ。
つまり、ワイドナショーや週刊誌でロリコン・オタクの犯行として喧伝されるようになったのは1990年から。
「オタク迫害史観」を持ってる人が見逃しがちなのは、1983年から1990年までの7年間である。
大都市出身の私には、宮崎事件までの7年間の方が「おたく」にたいするバッシングはずっと苛烈だったという記憶がある。
むしろ、宮崎事件で「おたく」なるレッテルが田舎のお爺ちゃん・お祖母ちゃんにまで知られるようになって、
ネガティブなイメージが希釈され、「おたく」がカジュアル化した感触すらある。
例えば、ファッションオタクとか、健康オタクとか、「ポジティブなイメージのもの + オタク」というバリエーションが生まれたのは
宮崎事件以降だった筈だ。皆がオタクという用語を知らなければ、そういう言葉が成立しないのだから、間違いなくそうだ。
もしかすると、80年代はネットが普及してなかったので、大都市以外では宮崎事件まで「おたく」という用語と
そのコノテーションをちゃんと知っていたのは、一部の若者だけだったかもしれない。
それなら、宮崎事件をきっかけにオタクが迫害されるようになったという認識の人が多数いることの説明がつく。
この「1983年から7年間の空白」という時間的なズレが「大都市とそれ以外」という地理的なズレに起因している可能性。
それから、ポップカルチャー全体の社会的地位にたいする認識にも、この記事に肯定的な人と否定的な人でズレがあるようだ。
80年代~90年代は、ポップカルチャーが天下を取り、誰もがそれを認めざるを得なくなるまでの過渡期と言える。
(電車男の頃に「ついにオタク文化がメジャーの舞台に上がった!俺たちは認められた!」と一瞬だけ喜んだ人も多いのでは?)
20世紀末までは、「サブ(下部)カルチャー」と、アニメ・漫画・ゲームを含む「ポップカルチャー」には同じように扱われていた。
世間は、地位の低い「とるに足らないもの」をわざわざ細かく分類しない。
確かに、80年代の親・教師世代が「中学生になったらアニメは卒業だね」という価値観を持っていたのは事実だ。
(氷川竜介によると、1974年のヤマトまでは当の中学生がそういう認識だったらしい)
私を含む凡庸な中学生の多くがそういう世間の空気を漠然と内面化していのも事実だろう。決して納得はしてないけど。
一方で、2000年代以降にオタクから分離され、オタクの敵とされた「サブカル」というジャンルには、
ニューアカのような現代思想や、洋楽、ファッション、デザインなど、80年代当時から比較的に社会的地位が高いものも含まれていた。
おそらく、こういうイメージが2000年代初頭にオタクカルチャーが「美少女系を中心に再編されていく」過程で、
「サブカルはオタクとは違う」「サブカルはオタクを見下してきた」という歴史修正の種子となったのだろう。
2000年代にオタクを「自称」するようになり、オタクと言えば電車男やアキバ、美少女という世界観の人にとっては
もともとアニメの社会的地位が低いところに宮崎事件でイメージが更に悪化したのも、
サブカルに地位の高いジャンルが含まれていたのも「一部の事実」だから。
でも実際には、「ハイカルチャー」の権威がまだ辛うじて息をしていた時代(80~90年代)には、
アニメを含むポップカルチャーも「サブ(下層)カルチャー」の一部としてゴッチャにされていたし、
オタク内部では、ハードSF、ハイファンタジー、軍事などを愛好するオタクが美少女イラストを描いてるような連中をバカにしていた。
その見下されていた美少女系オタクが「自分たちこそオタクカルチャーの中心」みたいな顔をするようになっていくなかで、
昔から地位が高かったジャンルをまとめて「サブカル」という敵を設定するのは都合がよかっただろう。
「オタク故に迫害された」のなら、オタクコミュニティー内で見下されていたことは忘れてしまって(又はその時代を知らなくて)
サブカルという「外部」を設定した方が構図としてスッキリするから。
結論から言うと、外向型の人は内向型の人(オタク)とは異なる思考パターンを持っているため、思考の予測がしづらく、「理解できない=不気味だ」という感覚、すなわち「キモい」と感じてしまうのだ。
以下詳細。(近年はオタク趣味が一般化してしまったが、ここで言うオタクとは「キモオタ」「陰キャ」と呼ばれるような、内向型の人々を指すものとする)
性格には大別して外向型と内向型がある。
一方、内向型は自分一人の時間や内面の思考を大切にすることで、自らの活力を養う傾向がある。
もちろん一人の人間は外向型と内向型の両方の特性を併せ持っているが、特に内向型への傾向が強い人にとって漫画やアニメといった趣味は相性が良い。なぜなら、フィクションの物語は他者とのやり取りではなく、内的な刺激や想像の世界から刺激を得られる活動だからだ。
外向型の人と内向型の人では、異なる”情報交換プロトコル”を持っている。いくつか例を上げよう
外向型は、会話で「その場の空気」や「関係性の維持」を重視するハイコンテクストなもの。内向型は、「事実」や「論理」、「設定」といったローコンテクスト(情報そのもの)を重視する。
外向型はファッションを「非言語的な挨拶」、「相手への配慮」、「場への同調」として扱う。なので外見を整えない人を見ると、「ルール(マナー)を守る気がない」「自分たちを軽視している」という敵対的なシグナルを感じる。
内向型はファッションを「身体の保護」、「利便性」、「自己の投影」として扱う。なので自身の外見を必要以上に整えることを「虚飾」「非合理的」「不誠実」と感じる。
外向型は共感に強い快感を覚え、「集団への所属」が報酬となる。
内向型は情報が整理されることに快感を覚え、「世界の理解」が報酬となる。
このように異なる"情報交換プロトコル"を持つ者同士が会話をすると、互いに意図しないシグナルを受け取ることになり、結果外向型の人間は内向型の人間に対して、「気味が悪い(キモい)」といった違和感を抱いてしまうのだ。
[B! 批評] 「はっぴいえんどが高く評価されてるのに、サザンオールスターズは評価されてない」という説に関しての私感|小野島 大
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/onojima/n/nf8244aee7267
コメント欄、典型例の見本市みたいになってるね。「はっぴいえんど史観の批評ボキャブラリーの偏り」が、ほぼそのまま剥き出しで出てきている。
サザンオールスターズが売れていたのは事実だけれど音楽的な完成度ははっぴいえんどのほうが高かったってだけでしょ
分かりやすい。これ、論理的には何も言っていないんだよ。「音楽的完成度」の定義を出さずに結論だけ置いて、その結論で説明にしている。トートロジー。なぜはっぴいえんどのほうが完成度が高いと判定されるのか、その判定基準そのものが争点になっているのに、判定基準を所与のものとして使っている。「神の存在は聖書に書いてあるから明らかだ、なぜなら聖書は神の言葉だから」と構造は同じ。
これも興味深くて、これは無自覚に前提を晒している。歌謡曲がロックより下位にある、という序列が完全に自明のものとして発話されている。なぜ歌謡曲が劣位なのか、誰がいつそう決めたのか、という問いは消えている。はっぴいえんど史観が批判される時に問題視されるのは、まさにこの「ロック/歌謡曲」という二分法と、その序列の固定化なんだけどね。サザンや矢沢や竹内まりやが評価しにくくなるのは、彼らが歌謡曲とロックを横断するから、つまり史観が作った二分法に乗らないからで、「歌謡曲しかできない」と評するのは、その評価フレームの内側からの発話だと自覚されていない。
日本語で英語発音のようなロックを世に広めたのはすごい功績だと思うし原由子という存在も大きいけど、桑田氏特有のオラつきが(俺の)ロック的価値観と相容れず…。はっびぃえんど的な扱いにはならないんじゃない?
括弧で「俺の」と入れているところに辛うじて自己相対化があって、そこは少し誠実。ただ「ロック的価値観」が結局オラつきの種類の選別をしているという話で、はっぴいえんどの内向的・知的なオラつきはOKで、桑田のヤンキー寄りオラつきはNGという、そういう趣味の問題を「ロック的かどうか」と言い換えているだけ、という見方もできる。
全体として、コメント欄の多くは「サザンが評価されない理由」を後付けで合理化していて、その合理化の言葉づかいそのものが、はっぴいえんど史観の語彙で組み立てられている、というのが面白いというか、批判の正しさを逆に裏付けてしまっている。「ほらね、あなたたちが何気なく使っている『ロック的』『音楽的完成度』『歌謡曲っぽい』という語彙、全部はっぴいえんど史観由来ですよ」と。
へー、そうなんだ!
私の母(72)は、一見どこにでもいる普通の女性だ。でも、その中身は並大抵の人間じゃない。
もはや昔の話だが、母は、父の兄(伯父)が始める老人デイサービスのために、一円の報酬ももらわず奔走した。行政の知識も何もない状態から、一人で県庁に通い詰め、怒鳴られながらも最終的に数千万単位(母の手記によれば4,900万)の補助金を取り付けてみせた。
それほどの功績を上げながら、母が家で受けていた扱いは「地獄」そのものだった。
きっかけは、父が伯父から土地を400万円で買わされたことだった。母がその不透明な動きを口にしただけで、伯父の逆鱗に触れた。 伯父は地域中に母の悪口を言い触らした。公の場で「あの嫁はただ者じゃない」「土地を乗っ取った」と。
その時、私の父が何をしたか。
母を護るどころか、兄(伯父)を庇ったんだ。
母が泣いて抗議しても「兄貴と喧嘩するわけにいかない」と逃げ、母に向かって**「病院へ行け」「精神科に行け」**と言い放った。
この件で私の弟は、父の胸ぐらを掴み、殴りかかった。
当時の母は、私や弟のために、離婚は踏みとどまった。
でも、母は決して折れていなかった。母は介護の現場で働き、ケアマネの資格を取り、文字通り「自分の力」でお金を貯めた。 結局、今両親が住んでいる家は、母が投資や労働で増やした金で建て替えたものだ。現金5,000万。ローンもなく、 親族の援助も一円もない。
そして、母は決断した。**「離婚はしない、でも別居する。そのために調停を申し立てる」**と。
(※ここについては、「離婚をする」という方向も視野に入れ始めたところ。)
今、私の悩みはこの「その後」にある。
母は今、長年溜め込んできたやるせない感情をどうにかしたくて、もがいている。 鬱っぽくなり、カッとなりやすい性格に拍車がかかり、私に「気持ちの寄り添い」を求めてくる。
でも正直、子供の私からすれば**「その話は何度も何度も聞いてるよ」**と言いたくなるのが本音だ。
父はようやく今になって謝罪を口にした。
でもそれは、調停で自分の非を指摘されるのが嫌なだけの、追い込まれた末の「その場しのぎ」であることは私にはよくわかる。
父は「家」を大事にする人で、右翼寄りの保守、古き良き(悪しき)日本の家父長制の空気をまとっている。
話の通じない相手だと避けてきたけれど、読解力のある人ではあるので、文章で訴えてみようか。
母が出ていくのではなく、父に出ていってもらうくらいで、ちょうどいいくらいの案件な気がする。
でも、0歳児を抱えた弟夫婦の保育園の送り迎えを父母が手分けしてやっている現状もあり、物理的な切り離しは一筋縄ではいかない。
気が狂いそうな家。誰も私の気持ちなんてわからないと昂る母。追い込まれないと動かない父。
この「流れ弾」をどう受け止めればいいのか。
母が「私らしく生きたい」と願うその傍らで、私の心もまた、摩耗し続けている。
うちのクラスには美少女ものが好きな感じのオタクが2人いた。AとBとしよう
AとBはまんま創作に出てくるような感じのオタクで、常に端っこで2人だけで会話していた
Cはカーストで言えば真ん中ぐらいで、誰とでも会話する感じ
この中で迫害されていたと言えるのはAだけだった
Aは会話のキャッチボールが出来なかった
何を言ってもまともな返答が返ってこず、Bが助け舟を出してやっと会話が成立していた
喧嘩の理由もAの会話の成り立たなさと攻撃性の高さゆえで、先に仕掛けるのもAだった
口は動かないけど立ち上がって睨むみたいな行動はしがちだったんだよな
BもA以外には無口ではあったが、喧嘩の前段階で仲裁に入ったり、殴り合いの中に飛び込んだり行動はスマートだったので
「Bかっけー」と一目置かれていた
令和ならAの行動も多様性で受け入れられるのかもしれないが、昔はやっぱ普通じゃないっていうだけで馬鹿にされる時代だった
オタクだけではなく、ヤンキー的なやつも嫌われてたし、勉強できないやつ、運動できないやつは迫害と言われれば迫害されていた
ちなみにCはエロゲやるやつってクラス中にバレてたので女子からは…ね
でもさすがにCは自業自得かなと思う
色々思い出してきた
Aは体育でまともに参加しなかったんだよな
Bは普通にやってたけど