はてなキーワード: 特権とは
単純に疑問なんだけど、なんでそれが最初だと言えるの?それより前に「弱者男性」という事がを使った人は居る可能性もありそうだけど、それを否定する証拠等があったりするのかしら?
あと、「弱者女性は強者男性と結婚して養われる事ができるけれど、弱者男性はそれが出来ないので不当だ」は、明らかに「女をあてがえ」という意味では無くない?
原文が分からないのでもしかしたら原文の方はそうなってるのかもしれないけど、その文だけだと「それが出来ないので不当だ」までしか言ってないよね?
一方で「弱者男性」のカウンターパートとして用いられる「弱者女性」は困窮している女性ではなく、結婚して夫に養われる程度に恵まれた女性を指している、という指摘は当たっているように感じる。
普通に強者男性と結婚して養われる事ができる人なんてごく一部だよなぁ。
ただ「自分達男性は男性だというだけで特権が得られて当然なのにそれが得られないから不当に虐げられているという被害妄想に基づいて作り出した言葉」は明らかに嘘だよね。
少なくとも「弱者女性は強者男性と結婚して養われる事ができるけれど、弱者男性はそれが出来ないので不当だ」にはそのような意味は無い(第一、この文中で「男性だというだけで得られて当然の特権」とは何を指す?強者男性と結婚して養われる事?BL?)
>困窮している男性はそもそも不可視化されて救われてないっていう事態に名前を付けて扱えるようにしようというような話として作られたのに
全然違うが?
「弱者女性は強者男性と結婚して養われる事ができるけれど、弱者男性はそれが出来ないので不当だ」という、
そこで「弱者男性」のカウンターパートとして用いられる「弱者女性」は困窮している女性ではなく、結婚して夫に養われる程度に恵まれた女性を指しています。
「弱者男性」という言葉は男性自身が、自分達男性は男性だというだけで特権が得られて当然なのにそれが得られないから不当に虐げられているという被害妄想に基づいて作り出した言葉なので、そもそもが男性優位社会を自明のものとしているよ。
@suck_a_sage
弱者男性って言葉は、困窮している男性はそもそも不可視化されて救われてないっていう事態に名前を付けて扱えるようにしようというような話として作られたのに、いつの間にか罵倒(あるいは自虐)の言葉にされてしまったの本当にエグいと思っていて、それ自体が「不可視化圧」の強さを証明している。
もう全体の話を理解できなくなってるようだから整理してあげるね
「同じ基準で批判する」っていうのは本来、評価ルールが一貫していることであって、
でもおまえは途中から「北朝鮮や中国に“もっと強く批判しろ”」っていう“強度の要求”にすり替えてる。
これでまずロジックがズレる。
おまえの中では脅威が大きい→ だから強く批判されるべきってなってるけど、これ根拠がない。
みたいな要因で対象が決まる。
つまり「脅威が大きい順に批判される」という前提自体がおまえの独自ルール。
現実に反戦が自国政府・同盟国に向きやすいのは、働きかけが可能で制度的にアクセスできるから。
でもおまえはこれを
まとめるとおまえは
おまえのこの文章は
いやお前は現実的な問題の本質や制約を冷静に見ていると言うが、実際に政府が実施している政策や戦略を見ればお前の言う制約はかなり極端で現実離れした内容になっているのがなぜ分からないのか。
その反論、見た目は「現実はもっと複雑だ」で強そうに見えるけど、相変わらず論点を外してる。
おまえは制約はもっと複雑で多様って言うけど、それは最初から前提に入ってる話なんだよ。
こちらは制約が複数ある、その中で相対的に選択が偏るって説明してるだけで、「単純な制約しかない」なんて一度も言ってない。
それを勝手に単純化して「極端だ」と批判してる時点で、まず読み違い。
他国に働きかけることもできるそれはそう。でもそこからだから制約は現実離れしているは全く繋がらない。
正しくは
おまえは
みたいに扱ってるけど、ここが雑。
おまえは「複雑性」を強調してるけど、結局やってることは
「脅威が本質」
「だからそこに強く向かうべき」
それこそが一番教条的。
本当に複雑性を認めるなら、
でもおまえは脅威だけ特権化してる。
原因はシンプルで、
から。
だから何を説明されても「それは本質じゃない」「教条的だ」で弾くしかなくなる。
「規範(どうあるべき)」
その結果、
というズレた応答になる。
おれは
としか言っていないのに、
おまえはそれを
「だからそれでいい」
「本質を見なくていい」
に読み替えている。
これで一見筋が通ってるように見せてるだけ。
「脅威が本質」という前提は固定
それ以外の要素(制約・実効性)は全部軽視
この3つが崩れてること。
そのせいで相手の話を正しくトレースできず、存在しないズレを自分で作って、そのズレに反論し続ける構造になってる。だから議論がずっと空回りする。
一般公務員→労働組合を作れる、労働組合に入れる、でもスト権は無い
と自衛隊員は一般公務員より厳しい制約が課されている。(組合作れないのは警察と消防も)
自衛隊の歌姫が自民党大会で喜び組をした件で、「公務員がー」「日教組もー」って反論したつもりになっている人がいるが、自衛隊員は公務員の中でも特殊。銃や兵器を持つことを許可される特権を持つ組織だし。
いや俺は奢ってくれる相手が父親だろうが20歳上の上司だろうが誘ってくれた先輩だろうが
令和の女性たちはそうならないってことだよね
すごいよなぁ
なんでそこまで「女性」というだけで自信もって生きていけるんだろう
あらかじめ言っておくけど、AI推進派の全員がそうだって言いたいわけじゃないよ。純粋に法的な解釈やテクノロジーの未来について語ってる法の専門家やエンジニアみたいな層もいるし、単にネットでレスバしてマウントを取りたいだけの暇人もいる。
でもさ、X(旧Twitter)とか見てると、明らかに「クリエイター(絵師)という存在そのもの」に対する鬱屈としたコンプレックスをこじらせてるAI推進(というか反・反AI?)のアカウントって結構いるじゃん。
そういう奴に限って、プロフィールには「絵とか創作を適当にやってます」みたいな予防線を張ってるんだよね。自分も創作者の端くれです、みたいなスタンス。でも、肝心の自分の作品は全然上げてないの。毎日やってることと言えば、反AI派の絵師の引用RPをして、相手の矛盾や偽善をチクチクつついて回るだけ。
「BLは女性向けポルノなのに擁護して、男性向けの表現規制には加担するのか、ダブスタだ」
こういうことを、いっつも論理的で冷徹なフリをして長文で語ってるアレね。
あれ、ぶっちゃけ「AI技術の発展」とか「表現の自由を守りたい」から戦ってるんじゃないんだよね。単に、界隈でチヤホヤされてる「絵師様」たちの特権意識や、クリエイターとしてのプライドが鼻について仕方なくて、それを叩き潰すための棍棒としてAI論争を使ってるだけなんだわ。
彼らの根底にあるのって、異常なまでの「クリエイターへの憎悪」なんだよ。
だからそういう奴って、AI論争だけじゃなくて、クリエイターが福祉やセーフティネットに頼ることにも異常に噛み付く。「売れるまで生活保護をもらいながら配信や創作活動をするのはモラルハザードだ」「夢を追うなら人生賭けたギャンブルなんだから自己責任でリスクを負え」とか言って、ガチギレするわけ。
これって結局、何だと思う?
自分は日陰でやってるのに、ちょっと絵が描けたり配信ができたりする連中が、アイデンティティを盾にして被害者ヅラしたり、制度の隙間をついて甘えた環境で創作を続けようとするのが許せないの。「俺はこんなに我慢してるのに、あいつらずるい!」っていう、相対的なフラストレーションの裏返し。
「論理的で公平な表現の自由戦士」を気取って、他人のダブスタや偽善を論破してるつもりなんだろうけどさ。隙あらば界隈のヒエラルキーを呪って、特別な才能やポジションを持ってる(ように見える)連中を引きずり下ろそうとしてるその姿、マジでコンプレックス丸出しで痛々しいよ。
他人の粗探しして一日中お気持ち表明のレスバしてる暇があるなら、お前も創作をアップして、素直に承認欲求満たせばいいじゃんって思うわ。
ギャル文化に限らず、若さ依存の自己表現文化には、極めて残酷な論理が潜んでいる。以下に、 「語る権利」が時間とともに確実に失われていく構造を説明する。
ギャル文化は、特定のファッションを固定化することを拒否してきた。 竹の子族の派手な色使いからアムラーのルーズソックス、ガングロの極端日焼け、白ギャルの美白、量産型のふんわりガーリー、令和のY2K回帰まで——スタイルは常に更新され続けた。
この拒否こそが、文化を多様で混沌としたまま存続させてきた強みだった。 しかし、その代償は極めて残酷だ。 かつての当事者が「私の時代こそ本物だ」と語れば語るほど、その言葉は過去の記録に変わる。
さらに、商業主義と若さの特権が結びつくことで、新しい自己表現は永久的に「過去」に封じ込められる。
• 商業(雑誌、ブランド、SNSアルゴリズム)は常に「次の最新」を求め、過去のスタイルを消費・再利用する。
これは、固定化を拒否したことの、残酷な帰結である。 自由を選んだ代償として、永続的な自己更新を強制され、更新できなくなった瞬間に「語る権利」すら失う。
かつての当事者が熱心に語る細部——まつ毛の束感、盛り髪、ギャルサーの縦社会——は、体験を共有した者だけに本当の重みを持つ。 「細部を正確に再現すれば本質がわかる」と考えるのは幻想に過ぎない。 細部を積み重ねれば積み重ねるほど、その行為は懐古趣味に傾き、当事者性を失う。
この構造は、ギャル文化に特有のものではない。 商業主義が「新しい表現」を次々と消費し、若さの特権がそれを加速させる中で、語り手はいつか必ず「過去を語る者」になる。
在日米軍のヘリコプター(主にブラックホークやシーホークなど)は、東京・六本木(赤坂プレスセンターのヘリポート)周辺や都心上空で、日本の民間・自衛隊ヘリでは航空法違反となるような低高度飛行を日常的に行っています。
なぜ米軍ヘリは飛べるのに日本のヘリは飛べないのか?日米地位協定(SOFA)の影響:在日米軍は、日本の航空法で定められた「最低安全高度」(建物の上端から原則300m以上)の規制が適用されません。米軍機は軍事活動として柔軟な運用が可能で、低空飛行や特定のルート使用が認められています。一方、日本のヘリ(民間や自衛隊)は航空法や管制規則に厳しく縛られ、同じ高度で飛ぶと違法や危険とみなされます。
六本木ヘリポートの役割:赤坂プレスセンター(六本木/赤坂エリア)には米軍専用のヘリポートがあり、横田基地、厚木基地、横須賀基地などとの人員・物資輸送に使われています。トランプ前大統領などの要人移動でも利用された記録があります。周辺は高層ビル(六本木ヒルズなど)が密集し、羽田空港の新飛行ルート(特別管制空域)も影響して、米軍ヘリは300〜450m以下の「ぎりぎりorそれ以下」の高度でビル間を縫うように飛ぶケースが確認されています。
実際の状況(報道や観測から)毎日新聞などの長期取材で、新宿駅上空、渋谷・六本木周辺、原宿・表参道ルートなどで低空飛行が繰り返し撮影されています。日本のヘリなら違反レベルの高度(例: 建物スレスレ)です。
離着陸時も、ヘリポートの指定区域(Hマーク)以外から行うケースや「タッチ・アンド・ゴー」(着陸直後に再離陸する訓練)が観測され、騒音や安全面で地元から批判が出ています。
港区議会などは基地撤去を全会一致で求め、抗議集会も続いていますが、米軍の運用は続いています。羽田新ルート導入後、旅客機との衝突リスクも指摘されています。
これは「米軍特権」の典型例として長年議論されており、地位協定の見直しを求める声もあります。一方で、米軍側は「安全高度を守っている」と主張し、日本政府も公式に「訓練空域ではない」と説明する一方で、実際の飛行実態は低空が常態化しているのが実情です。地元住民にとっては騒音・墜落リスクが現実的な問題で、戦後80年近く経った今も続く「不平等」の象徴の一つと言えます。
戦後日本の歴史を「左翼勢力と法治国家の戦い」という軸で概観すると、左翼(主に日本社会党・社民党、日本共産党を中心とした勢力)がイデオロギー優先の「反体制闘争」を展開し、これに対し政府・体制が法治主義・国家主権・現実的秩序維持を掲げて対峙してきた構図が浮かび上がります。
日本社会党(現・社民党)は、1970年代以降、北朝鮮との関係を深め、帰国事業(在日朝鮮人の北朝鮮送還)で共産党とともに役割を果たしました。北朝鮮による日本人拉致問題が表面化した1990年代~2002年の小泉訪朝時まで、社会党系は「拉致は存在しない」「北朝鮮の主張を真摯に受け止める」姿勢を崩しませんでした。
拉致被害者家族の訴えを「右翼のプロパガンダ」と退け、国家主権侵害という法治の根本問題を棚上げ。2002年以降も土井たか子氏ら党指導部が北朝鮮寄りの発言を続け、党内離党者まで出る事態に。
これは左翼が「弱者(在日・平和勢力)」を守る名目で、実際の被害者(拉致家族)に置き去りにした典型例です。
日本共産党は資本主義の「搾取」を糾弾しながら、自らの機関紙『しんぶん赤旗』の運営で同様の問題を抱えています。近年表面化したのは、党地方議員による自治体職員への赤旗押し売り・強要です。新宿区では管理職50人超が「心理的圧力」を感じて購読(一部10年近く)、区長がハラスメント調査を実施。庁舎内集金や「断れば恨みを買う」空気があり、他自治体(金沢市など)でも同様の指摘が相次ぎました。
さらに党内部では、赤旗配達専従者の無報酬・過酷労働が「ブラック企業」と内部告発されています。
• 党は「搾取のない社会」を標榜するが、自らの労働者を「永遠の党員被害者」として動員。
• 法治国家(公務員の中立性・ハラスメント防止)の枠組みを、議員特権で揺るがす構造。
沖縄では戦後、米軍統治下の「独自性尊重」教育から始まり、復帰後も反基地・反日・「平和教育」が左翼勢力により定着しました。これが「教育産業」として機能
• 最近例:辺野古沖事故(修学旅行船転覆)で「偏向教育ではないか」との指摘(自民党部会)。
• 教科書検定でも「日本軍が住民をスパイ扱いして殺害」との記述が合格。
• 沖縄の若者が「永遠の被害者(基地被害者)」として位置づけられ、法治国家(安保・防衛)への対立を再生産。経済的自立より「反基地依存」が固定化。
2019年前後、入管施設で長期収容抗議のハンガーストライキ(ハンスト)が急増(約200人規模)。一部は仮放免(一時釈放)を得る手段として使われ、釈放後すぐに記者会見・デモで「ヒーロー」としてスピーチ(例:イラン人・クルド人男性が東日本センター仮放免後、品川で制度批判)。
• 模倣効果でハンスト連鎖 → 健康被害(栄養失調・死者発生、ナイジェリア人餓死例など)。
• 入管当局は「仮放免を餌にハンストを誘発する」と苦慮。前科者も約4割。
• 左翼勢力は「人権」を掲げ法治(退去強制・収容の適正運用)を攻撃するが、結果として収容者全体の健康を害し、弱者を「永遠の被害者」にした。
これらの事例に共通するのは、左翼勢力が弱者(在日労働者、沖縄県民、不法滞在者)を「体制との戦いの道具」として利用し、解決より対立の永続化を選ぶ点です。これは極めて残酷な手法です。
・被害者は本当の救済(労働条件改善、基地負担軽減、移民問題の法的手続き)を得られず、「永遠の被害者」として政治的に消費される。
・法治国家の枠組み(主権・法の支配・現実的秩序)を破壊することで、左翼の存在意義を維持。
・結果:社会全体の分断深化、資源の浪費、真の弱者救済の遅れ。
戦後史を通じて、左翼は「平和・人権」を錦の御旗に暴力的デモ(成田管制塔占拠など)や事実無視を繰り返しました。左翼の「弱者利用」戦略は今も形を変えて続き、移民政策・教育・歴史認識で影響力を残しています。
弱者を真に守る道は、被害者化ではなく、法治の下での解決です。こうした歴史を直視しない限り、日本社会の「共生」は絵に描いた餅に終わります。
BL文化は、生殖という宿命からの逃避として生まれた、「ポルノファンタジー」だ。それ自体は表現の自由として許容される余地がある。しかし、男性向けポルノファンタジーを性的搾取と批判するのに、ゲイ男性への理解に基づかない歪んだ表現が道徳的だという主張は、理屈として破綻している。
一つの仮説として、BL文化の享受者は、単に頭が良くないのかもしれない。原理はわからないが、「正しい」側にいたいというのは、小学生女子によく見られる特徴だ。民主主義の理念を理解しないまま、正しそうな言葉を散りばめて、意識の高さを競っているというわけだ。
しかし、仮に、民主主義の理念を理解した上で、意識的にダブルスタンダードを用いてるとすると、人道的に問題がある偽善者と評価せざるを得ない。性的表現を道徳的に評価するのは、女性の特権であり、女子アカウント学級会だけが真理を定義できる。そういう思想がないと、彼女らの言動は正当化しえない。それは、もちろん法の下の平等に反する反人権的主張だ。
彼女らに必要なのは、ポルノファンタジーは、悪いものではないと認めることだ。全ての人間が、何らかの形で性的搾取に関与している。ファンタジーで収まるなら、批判する権利は誰にもない。この自由主義の原理を理解するのが、彼女らの唯一の更生の道だ。
クィア理論は、ジュディス・バトラーやイヴ・コソフスキー・セジウィックらによって展開された、異性愛中心主義(ヘテロノーマティヴィティ)を脱構築する試みとして登場した。規範を「行為の反復」として相対化し、ジェンダーやセクシャリティを流動的なパフォーマンスとして再定義することで、抑圧からの解放を目指したはずである。しかし、21世紀に入りこの理論が制度化・政策化される過程で、皮肉にも新たな規範の再配置と生権力の装置として機能し始めた。ミシェル・フーコーが『性の歴史』や『監獄の誕生』で分析したように、権力は単に抑圧するのではなく、知識・言説を通じて主体を生産・分類・管理する。クィア理論は、旧来の生物学的性規範を批判しながら、自ら新しい「正常/異常」の線引きを導入し、人間本性を再定義し、さらには一部の逸脱者を「脱人間化」するプロセスを促進している。
代表的な事例が、女性専用スペースの「解放」政策である。英国では、性自認を重視した刑務所配置方針が長年続けられた結果、生物学的男性でありながら女性として認識されるトランス女性囚人の割合が急増した。2025年3月31日時点で、イングランド・ウェールズの刑務所には339人のトランスジェンダー囚人が確認されており、前年比15%増という急拡大を見せている。過去の公式データでは、こうしたトランス女性(出生時男性)のうち、性的犯罪歴を持つ者の割合が58.9%〜62%に達し、生物学的女性囚人(3.3%)や男性全体(約17%)と比較して極めて高い男性型犯罪パターンを維持していることが明らかになった。
同様の再配置はスポーツ分野にも及ぶ。国際オリンピック委員会(IOC)は2026年3月、女性カテゴリー参加資格を生物学的女性(SRY遺伝子スクリーニングによる一回限りの判定)に限定する新方針を発表した。これまで性自認を尊重した参加が認められてきた結果、生物学的男性の身体的優位性による不公平が深刻化し、女性アスリートの安全と競技の公正が脅かされる事例が相次いだ。トイレ、更衣室、温泉などの日常空間でも、性自認優先の通知や条例が導入され、生物学的性の境界が曖昧化された。
これらは、クィア理論が唱える「規範の撹乱」ではなく、新しい規範の再配置である。生物学的性を「社会的構築物」と位置づけ、性自認を優先する言説は、フーコーのいう生権力として、身体と生を新たな基準で管理する装置となった。旧来のheteronormativityを批判しながら、性自認という内面的真理を「知識/権力」の対象に据え、人口を分類・最適化する——まさにフーコーが警告した、権力が「生」を対象化するメカニズムだ。
クィア理論は、人間本性を「本質的」なものではなく、パフォーマティブに構築されるものとして再定義した。これにより、ジェンダー・ディスフォリアを抱える若者への「アファーマティブケア」(性自認肯定医療)が推進された。しかし、英国カス・レビュー(2024年最終報告)やその後の追跡調査では、思春期抑制剤やクロスセックスホルモン治療のエビデンスが「極めて弱い」ことが指摘され、長期的な精神衛生・身体的影響(骨密度低下、認知発達への懸念)が懸念されている。2025年以降、イングランドでは思春期ブロック剤の使用が原則禁止され、ホリスティック(包括的)な心理社会的支援へシフトする動きが加速した。
この再定義は、フーコーの医療化理論を逆手に取ったものだ。19世紀に同性愛が「逆性的感覚」という医学的カテゴリとして生産されたように、クィア理論は性自認を新しい「内面的真理」として医療・教育・法制度の対象に据えた。結果、生物学的現実(進化的に形成された性的二形性や犯罪パターンの性差)を「抑圧」と位置づけ、流動性を強制する新しい規範を生み出した。
ここで特に問題なのは、こうした人間本性の再定義が社会契約や民主的なプロセスをほとんど経ずに急速に制度化された点である。ホッブズやルソーが描いた社会契約は、個人の加害性や自由の限界を相互に認め、合意に基づく規範を構築する仕組みである。民主的プロセス(議会審議、科学的レビュー、国民的合意形成、公衆討議)は、これを支える現実的な装置だ。しかし、クィア理論の影響下で性自認優先政策がアカデミアや一部の運動から行政・法制度へ波及した過程では、こうしたプロセスが大幅にバイパスされた。生物学的現実や潜在的加害性の検討が十分に行われないまま、政策が「進歩的」トレンドとして導入された事例は枚挙にいとまがない。
社会契約や民主的プロセスは、一種の「遅延効果」を持つと見るべきだ。思想やトレンドの変化が熱狂的に進行する中で、即時的な制度反映を「遅らせる」安全装置。審議の時間、科学的エビデンスの蓄積、利害関係者の声の反映——これらがなければ、流動的な人間像の再定義が現実の害(身体的・心理的・社会的コスト)を十分に考慮せずに固定化されてしまう。クィア理論は脱構築を掲げながら、この遅延効果を「抑圧の装置」と位置づけ、民主的チェックを弱めながら生権力を再配置した。
ここで注目すべきは、医療基準自体の改定による「非医療化」が、フーコーの医療化理論でこそ最も鮮やかに説明できる点である。DSM-5(2013年)では「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」を「Gender Dysphoria(性別違和)」に改称し、アイデンティティそのものを病理化する表現を廃止した。ICD-11(2019年)では「Gender Incongruence(性別不一致)」を精神疾患章から「性的健康関連条件」章へ移動させ、精神疾患としての分類を正式に解除した。これらは一見、クィア理論が推進した「反医療化」の勝利のように見える。
しかし、フーコーの医療化理論から見れば、これは非医療化の名の下に行われる新たな医療化・生権力の再配置にほかならない。フーコーは、権力が「病理化」だけでなく「脱病理化」によっても主体を生産・管理することを繰り返し指摘した。旧来の病理化(行為を「種」として内在化し、管理対象とする)を批判するように見せかけつつ、「合意と害の不在」という新しい基準で逸脱を再分類する。適合する軽度の逸脱(規範撹乱的な多様性)は「正常な多様性」として保護・特権化され、適合しない重い衝動(非同意・暴力要素の強いパラフィリック障害)は、より強く「ただの犯罪」として切り捨てられる。これにより、クィア理論は反医療化を装いつつ、性自認を新しい内面的真理として医療・制度的介入の対象に据え、人口の生を再最適化する装置を構築した。まさにフーコーが警告した「権力の生産性」の典型である。
さらに深刻なのは、逸脱の「軽重」による選別が、犯罪者の脱人間化を促進している点だ。合意ベースの軽度パラフィリアや規範撹乱的な表現は、クィア理論によって「多様性」として保護・特権化される。一方、非同意・暴力要素の強い性的衝動(パラフィリック障害)は、「ただの犯罪」として切り捨てられ、道徳的・社会的に脱人間化される。DSM-5がパラフィリア自体を非病理化しつつ、害を伴うものを障害とする区別を設けたのも、この二重基準を制度化した例である。
フーコー的に見れば、これは生権力の典型的な逆説だ。クィア理論は「反医療化」を掲げて旧来の病理化を批判したが、結果として新たな分類装置を構築した。「クィアであること」が文化的・道徳的資本となり、十分に「クィア」でない逸脱者(重い反社会性+性的衝動の複合型)は、規範の外側に排除される。犯罪者は「宿命的な怪物」としてではなく、社会が管理すべき生として扱われるべきなのに、理論は「軽い逸脱」の保護と「重い逸脱」の脱人間化を同時に推進する二重基準を生んだ。これにより、管理される自由(自発的な衝動抑制治療や専用環境の選択肢)は十分に整備されず、宿命的な渇望を持つ人々をさらに孤立させる。
フーコーは、権力は「抑圧」ではなく「生産」であり、抵抗そのものが新たな権力装置を生むと繰り返し指摘した。クィア理論はまさにこの螺旋に巻き込まれた。規範を脱構築しようとしたはずの運動が、性自認という新しい真理を生産し、身体と生を再管理する生権力として機能している。人間本性を流動的に再定義した結果、生物学的現実や加害性の潜在性を直視する機会を失い、脆弱層(生物学的女性や子供)の安全権を再配分する事態を招いた。
社会契約や民主的プロセスという「遅延効果」を欠いた再定義は、こうした生権力の再配置を加速させた。人間らしい社会とは、逸脱の宿命を認めつつ、害の度合いに基づく透明な線引きと、加害衝動者への「選択肢」(任意の医療的介入や構造化された環境)を拡大する社会である。フーコーの物差しで測れば、クィア理論の実践は規範の単なる置き換えに過ぎない。脱構築の名の下に生まれた新たな抑圧を避ける——それが、今求められる成熟した視点だろう。
いや、東京生まれ、東京育ちだとその不公平さが分からないんだと思うけどさ。
東京在住だとたかだか数千円かつ日帰りで参加できるけれど、ど田舎からだと往復で十数万で最終が早くに終わるので日帰りは難しいとかあるわけだよね。
育児、介護、仕事の都合などで長時間の時間拘束や移動が難しい人にも参加は難しい。
だから、デモって時間とそこに行けるだけの足がある人の特権なんだよね。
恵まれた人が様々な事情でそういうことをできない人を切り捨てる行為、それがデモ至上主義。
これが選挙となると津々浦々まで投票所ができ、期日前投票や院内投票なども整備されていて、有権者の権利は比較的確保されている。