はてなキーワード: 小さな政府とは
カークの核心的な主張「無料給食を全員に」という政策は、問題を根本的に解決していない。
アメリカの子供たちは飢えて死ぬような状況にはなく、「飢餓に苦しむ子供を一人でも見せてほしい。実際には存在しない」という趣旨の発言を繰り返しています。
実際の危機は肥満にある。アメリカの子供の約半数が過体重または肥満である(CDCのデータに基づくおおよその数字)。
政府が無料で給食を提供しても、栄養バランスの悪い食事や運動不足、スクリーンタイムの増加といった根本原因は解決しない。
子供の食事は親の責任であり、政府が肩代わりすべきではない。家族の責任を弱め、依存を助長するだけだと指摘。
解決策としては、政府の拡大ではなく、民間の慈善活動、教会、地域コミュニティ、親の自立を重視すべきだと主張しています。
データの背景
肥満率:子供・青少年の過体重+肥満の割合は、年齢層によって異なりますが、35〜50%前後と高水準にあります。加工食品、糖分の多い飲料、運動不足が主な要因です。
食料不安(food insecurity):一方で、USDAなどのデータでは、数百万人の子供が「食料不安」の状態にあるとされています。ただし、これは「十分な栄養のある食事が常に得られない」という意味で、昔のような極度の飢餓(餓死レベル)とは異なります。
注目すべき点として、食料不安と肥満が同時に存在する「肥満の paradox(逆説)」がアメリカでは指摘されています。安価でカロリーの高い加工食品が手に入りやすい環境が、栄養不足と肥満の両方を生んでいる可能性があります。
彼にとって「全員に無料給食」という政策は、善意の名の下に政府の規模を拡大し、親の役割を弱める典型的な例だと見なしています。彼の主張は、単なる「冷たい」意見ではなく、「本当の問題は何か?」を正面から指摘するものとして、彼の支持者には支持されています。一方で、貧困層の子供への支援を重視する人々からは厳しく批判されることも多いトピックです。
ニック兄さんの提示する分類は、一見すると政治思想のラベリングに過ぎないようでいて、実は典型的な価格理論的フレームで再解釈できる。
すなわち、ネオコン・リベラル・本物の保守という三分類は、それぞれ異なるインセンティブ構造と情報制約の下での行動様式であり、その帰結として自己放尿が観察されるのである。
これはMilton Friedman的に言えば、個人の選択と市場の価格メカニズムを自動操縦装置として信頼する立場である。
したがって、あらゆる政治的言説もまた、合理的個人の選択の集積として理解されるべきであり、自己放尿とは単なる愚行ではなく、特定の制約条件下での合理的(だが社会的には非効率な)選択の結果である。
ニック兄さんの言うように、ネオコンはアメリカ式民主主義の輸出を志向し、そのための戦争を正当化する。
ネオコンの意思決定主体は、自らの効用関数にイデオロギーの拡張や覇権維持を組み込む。
一方で、そのコスト(戦争費用、人的損失、財政赤字)は広く分散される。
ここで発生するのが典型的な集中利益・分散コストの構造であり、結果として過剰な軍事介入という自己放尿が均衡として出現する。
つまりネオコンの自己放尿は非合理ではない。むしろ、歪んだインセンティブの下での合理的自己放尿である。
リベラルについてニック兄さんは「LGBTQなどどうでもいい議論に集中」と批判するが、これもまた価格理論で説明可能だ。
政治参加における一票の影響は極めて小さいため、有権者は合理的無知を選択する。
その結果、複雑な財政問題や制度設計ではなく、低コストで意思表示できるシンボリックな問題(LGBTQなど)に関心が集中する。
これは自己放尿であるが、同時に合理的でもある。情報収集コストを最小化しつつ、道徳的満足を得る行動だからだ。
ニック兄さんの言う本物の保守(小さな政府、伝統重視)は、制度的安定性を重視する効用関数を持つ主体と解釈できる。
彼らは長期的なルール(言語・宗教・文化)を公共財として評価し、それを維持する最小政府を志向する。
この場合、自己放尿は比較的少ない。なぜなら、ルールベースの政策は裁量的介入よりも政府失敗を抑制するからである。
ただし問題は、現代の保守が20年前のリベラルであるという点だ。
これは嗜好の時間的不安定性、すなわち選好のドリフトを意味し、結果として政策一貫性が失われ、新たな自己放尿を誘発する。
解答は明確だ。自己放尿を禁止するのではなく、そのコストを内部化させることである。
これにより、ネオコンの自己放尿は高コスト行動となり、均衡から排除される。
重要なのは、自己放尿そのものを道徳的に否定することではない。
ネオコンの自己放尿も、リベラルの自己放尿も、制度設計次第で抑制可能だ。
価格システム、ルールベース政策、そして政府の限定。これらが揃えば、自己放尿は局所的なノイズに収束する。
逆に言えば、これらを欠いたとき、自己放尿は国家規模で増幅される。
ネットで左右論議(という名のレッテル貼りと藁人形批判)をすることがあるけど、
左右ってもともと国の政治体制や経済制度の話であって、文化的な価値観にそのまま当てはめると無理が出る。
経済左右(再分配↔市場)と文化(保守↔リベラル)は別軸として見ないと話が混乱する。
| 経済左(再分配) | 経済右(市場) |
|---|---|
| 格差是正 | 自由市場 |
| 税による再分配 | 小さな政府 |
| 公的サービスの拡充 | 自己責任 |
一方で文化は、左/右というより保守↔リベラル(変化への態度)で見る方が分かりやすい。
| リベラル(変化・権利) | 保守(伝統・秩序) |
|---|---|
| 個人の権利を重視 | 社会の秩序を重視 |
| 多様な価値観の尊重 | 共有された価値観の維持 |
| マイノリティの保護 | 共同体・家族の重視 |
| 社会の変化に積極的 | 急激な変化に慎重 |
だから、この2軸をまとめると2x2のこんな組み合わせが発生する。
| 経済左(再分配) | 経済右(市場) | |
|---|---|---|
| 保守(伝統・秩序) | 生活保守・福祉国家型 | 保守主義(市場+伝統) |
| リベラル(変化・権利) | 社会民主主義・リベラル | リバタリアン |
解説すると、こんな感じ。
→ 年金・医療などの維持を求めつつ、移民や社会の変化には慎重な立場で、日本ではポピュリズム的な主張として現れることもある(ただし両立は難しい)。
→ 再分配や規制はできるだけ抑えつつ、市場の自由を重視しながら、家族・国家・社会の秩序を守ろうとする立場。
→ 再分配を重視しつつ、多様性や個人の権利も尊重する、典型的なリベラル。
→ 市場を重視しつつ、私生活や価値観の自由も最大限認める立場。
さらにいうと、これらはくっきり分かれるわけではなくてグラデーションなことにも注意。
たとえば、経済の左右を横軸、文化の保守↔リベラルを縦軸においた2次元座標をイメージすると分かりやすい。
人の立場はきれいに4象限に収まるというより、この中のどこかに分布していると考えた方が実態に近い。
だから、自分の立場も「左か右か」ではなく、座標としてどのあたりにいるかで考えると分かりやすい。
たとえば僕は、±10の範囲で、 (経済, 文化) = (1, -0.5)くらいの、やや政府介入派で、ややリベラル寄りの中央付近かな。
そして一番問題なのはここで、経済と文化は別軸なのに、そこを混ぜて「左派は〜」とまとめること。
何を指しているのか分からなくなるし、議論も噛み合わなくなるんだよな。
ちなみに以上は、政治的立場は1軸ではなく複数の軸で捉えるべきだ、という考え方に基づいている。
いわゆるポリティカルコンパス的な整理でもある。
「ポリティカルコンパス」で検索すると、アンケートに答えれば自分の位置がわかって面白いよ。
気になる人は一度試してみようぜ。
文化(保守↔リベラル)の話に左/右を持ち込むと一気に意味不明になる。
そこは分けて考えようぜ、という話。
それは違うでしょ。
アメリカの右翼の共和党が押しているような小さな政府を目指している政策だよ。
政府はいろいろ口出しをせずに、市場の自由競争に任せようという。
効率化する反面、格差も広がる。 付いていって効率化できなければ置いていかれるからね。
したがって、増田の言っているような、わずかな待ち時間も許容できないとか、それができなければ格差が広がるというのは、まさに新自由主義の弊害と言えるだろう。
新自由主義(ネオリベラリズム)は、政府の経済介入を最小限にし、規制緩和や民営化を通じて「市場の自由競争」を最大限に活かす経済・社会思想です。1970年代以降、高福祉・大きな政府の弊害を背景に、「小さな政府」を目指して格差拡大や効率化を推進する米英や日本などで採用されました。
ナンセンスな点を聞くからだろ。ナンセンスな点はどこ?じゃなく、どういうことですか?と聞け。
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「左翼=計画経済、右翼=市場経済」という分類は、政治や経済の複雑な仕組みを「政府がどこまで経済に口を出すか」という一点でバッサリ切り分けた、非常にシンプル(かつ伝統的)な考え方です。
なぜそう言われるのか、それぞれの理屈を整理してみましょう。
今の時代、100%計画経済の国や、100%放任の国はほとんどありません。多くの国は、両方のいいとこ取りをした「混合経済」という状態です。
| 項目 | 左寄り(リベラル) | 右寄り(保守) |
| 経済の主役 | 公共・政府のサポート | 民間企業・個人の活力 |
| 税金 | 高め(福祉を充実させる) | 低め(企業のやる気を出す) |
| 格差への態度 | 政府が介入して是正すべき | 努力の結果であり、ある程度は許容 |
日本のいわゆるネトウヨは右翼ではない。連中はむしろ、ポリティカル・コンパス的に言えば権威主義左翼(左上)の典型例である。
にもかかわらず連中は自分たちを「保守」「右翼」「自由主義者」などと呼ぶ。
この自己認識の誤りは、情報の誤価格付けであり、自己放尿である。右翼のふりをして自己放尿するのはやめるべきだ。
基本命題は単純である。市場は分散した知識を価格を通じて調整する制度であり、政府の裁量的介入はしばしばその情報機能を破壊する。
この枠組みを使えば、真の右翼、すなわち古典的自由主義や自由主義保守は右下に位置する。
すなわち市場支持+国家権力への懐疑である。これは経済的自由が政治的自由の基礎になるという理解と一致する。
ところが日本のネトウヨの主張を価格理論的に分解すると、まったく違う構造が現れる。
これは市場による資源配分を信頼せず、国家による統制を信頼する思想である。
価格理論の言葉で言えば、 価格メカニズムを無視して政治的命令で資源配分を決めるということになる。
これは右翼ではない。典型的な権威主義的コレクティヴィズムである。
つまりネトウヨの政治経済モデルは、市場失敗 → 国家統制 → ナショナル利益最大化、という計画経済型の最適化問題であり、自由市場モデルではない。
人々は政治について深く調べるインセンティブを持たないため、誤った信念が残る。
1. 「左翼が嫌い」
この推論は理論的均衡を持たない。
つまり
これは期待形成の失敗であり、政治思想の情報市場の失敗でもある。
その結果、自己放尿は安定均衡になる。
公共選択論では、政治家や利益集団はレント追求者として振る舞う。
ナショナリズムはこのレント追求のためのイデオロギー補助金である。
右翼とは、
連中は権威主義的国家主義者であり、ポリティカル・コンパスでは左上に位置する。
にもかかわらず右翼を名乗る。
これは思想市場における重大なラベル誤表示であり、自己放尿と呼ぶべき現象である。
昔は「リベラル」という言葉は自由を意味していた。それは国家権力を制限し、個人の選択を尊重し、市場の自発的秩序を信頼する思想だった。
ところが現代において「リベラル」はしばしば国家による広範な介入、再分配、規制、そして事実上の計画経済的政策を擁護する立場を指す。
一方で「自由主義」は、政府拡張への警戒という点において、いわゆる保守主義と重なり合うようになった。
この言葉の倒錯は偶然ではない。それは思想史的必然であり、制度の自己放尿的運動の結果である。
この思想はPrice Theoryにも明確に示されている。価格体系は中央計画によらず、分散した知識を統合する。個人が合理的に自己の目的を追求することによって、全体としての秩序が生まれる。
この秩序は設計されたものではない。それは創発するものである。
ところが、現代リベラルはこの自発的秩序を「不完全」と断定し、国家による補正を当然視する。最低賃金、価格統制、補助金、産業政策、グリーン計画、金融規制の累積、等々の自己放尿である。
その計画者は、誰の知識を、どの価格で、どの時間軸で代替するのか?
価格を歪めることは、情報を歪めることである。情報を歪めれば、資源配分は必然的に誤る。誤配分は生産性を低下させ、最終的に自由を侵食する。
リベラル思想は平等・正義・福祉という倫理的理想を掲げる。しかし冷静に考えて欲しい。
1. 政府は全知ではない
2. 政府は無私ではない
政府の失敗は市場の失敗よりも危険である。なぜなら政府は強制力を持つからだ。
善人が大きな政府を運用しているように見えても、明日に悪人が支配したらどうするのだ。
市場での失敗は損失で終わる。国家の失敗は自由の喪失で終わる。
だが重要なのは「機会の平等」を擁護することだ。結果を等しくするには選択を制限せざるを得ない。選択の制限は、やがて思想の制限へと転化する。
自由の名で自由を削る。平等の名で多様性を消す。福祉の名で依存を作る。
歴史的皮肉として、今日「小さな政府」を主張する立場は保守派と分類されることが多い。
それは既存の権力構造を疑う。それは既得権を解体する。それは規制によって守られた利益集団を批判する。
この意味で、自由主義は保守ではない。それは制度的進化を信じる立場である。
シカゴ学派の伝統は、理論と実証を統合し、市場の効率性を経験的に検証する態度を取った。
貨幣数量説の再評価も同様である。インフレは通貨現象であり、価格統制ではなく通貨供給の規律によってのみ制御できる。
つまり自由主義とは、政府を制限するための制度的設計思想なのである。
自己放尿という言葉は、自己の原理によって自己を破壊する運動を指す。
自由を守るために規制する。市場を救うために国有化する。民主主義を守るために言論を制限する。
これは論理的矛盾ではない。それは権力の累積が生む心理的帰結である。
自由は自動的には維持されない。自由は制度的制約によってのみ持続する。
政府支出がGDP比で拡大し続けるとき、政治的選択の範囲は縮小する。
財政依存は政治依存を生む。補助金は忠誠を生む。規制は参入障壁を生む。これらは全て自由の静かな侵食であり、自己放尿である。
自由主義が保守主義に見えるのは、国家拡張が常態化した社会では「縮小」が反動に映るからである。
そしてリベラルが計画経済に傾くのは、善意が制度設計の制約を軽視するからである。
思想の逆転は偶然ではない。それは自由を当然視した社会が、自らの原理を忘れた結果である。
自由は維持されなければならない。
保守政治家による「積極財政(政府支出の拡大・減税・国債発行の活用)」が支持される理由は、いくつかの思想的・現実的要因が重なっています。
保守思想では、
インフラ整備
食料・エネルギーの自給
そのため、
という発想になりやすい。
例として、
安倍晋三 の経済政策(いわゆるアベノミクス)では、大規模な金融緩和と財政出動が組み合わされました。
「小さな政府」よりも
特に:
などに波及しやすく、地方票を持つ保守政治家にとっては支持基盤と結びつきやすい。
日本では、地方重視の政策と積極財政が結びつきやすい構造があります。
たとえば:
ロナルド・レーガン は減税と軍拡を行い、結果として財政赤字は拡大しました。
「小さな政府」を掲げながらも、
減税
国防費増大
を同時に行えば赤字は増える。
つまり、
のです。
これらは自由放任では実現しにくく、国家支出が必要になります。
そのため、
という組み合わせが増えています。
不況や停滞期では、
増税 → 反発
特に高齢者や地方層では「政府が守ってくれる」という安心感が支持につながります。
まとめ
地方経済との結びつきが強い
もしよければ、
Gemini の回答
日本の政治において、本来「小さな政府」や「規律」を重視するはずの保守政治家が、なぜあえて積極財政(政府がどんどんお金を使う政策)を掲げ、それが支持されるのか。
これには、日本特有の政治的背景と、現代の経済状況が複雑に絡み合っています。主な理由は以下の4点に整理できます。
国土強靱化: 地震や台風などの災害が多い日本において、老朽化したインフラの整備や防災対策は、国民の命を守るための「投資」と捉えられます。
安全保障: 防衛力の強化には莫大な予算が必要です。これらを「借金が増えるから」とケチることは、保守のアイデンティティである「国を守る」ことと矛盾するため、積極的な支出が正当化されます。
日本の保守政党(特に自民党など)の支持基盤は地方にあります。
公共事業による雇用: 地方では建設業などが経済の柱であることも多く、公共事業は直接的な景気刺激策になります。
伝統の維持: 経済が衰退して地方から人がいなくなれば、伝統行事や地域コミュニティも消滅します。これらを守るために、財政出動で経済を支えることが「保守的な価値観」に合致するのです。
長年の不景気を経験した結果、保守政治家の中にも「緊縮財政こそが日本を弱らせた原因だ」という考えが浸透しました。
経済成長による国威発揚: 経済が成長しなければ日本は国際的な地位を失います。「まずはお金を使って経済を回し、日本を強くする」という考え方は、強い日本を望む支持層に響きます。
MMT(現代貨幣理論)の影響: 「自国通貨建ての国債なら破綻しない」という理論が一部の保守派に支持され、財政赤字を過度に恐れる必要はないという空気が生まれました。
自由放任(リバタリアン的な小さなおい政府)ではなく、国家が主導して産業を育てるべきだという考え方です。
戦略的投資: 半導体や次世代エネルギーなど、他国に負けられない分野に巨額の補助金を投じることは、経済安全保障の観点から「保守的な国益」に叶うとされます。
まとめ:なぜ支持されるのか
結局のところ、保守政治家を支持する層にとって、積極財政は単なる「バラマキ」ではなく、**「日本という国を形作り、守り、次世代に引き継ぐための必要経費」**として映っているのが大きなポイントです。
国の借金 将来世代へのツケになる 投資をしないせいで国が衰退する方がツケになる
政府の役割 市場に任せ、介入を減らす 国家の生存と成長のために、戦略的に介入する
このテーマは、最近の「防衛増税」や「少子化対策」の財源議論とも密接に関わっています。特定の政治家の発言や、具体的な政策について詳しく知りたい部分はありますか?
(1)古典的自由主義いわゆるリバタリアンが減税を主張するのは「小さな政府」なので当たり前
(2)では大きな政府のいわゆる「リベラル」が減税を主張するのか
A 「リベラル」といっても、元々は共産主義の後継者。共産主義国に基本税金は無い(税金相当のものは多少ある)。国営化でみんな公務員になるんだから、自由主義国で必要な財源に相当するものは、最初から引いた上で国家から給料が支払われる。よって給与額と手取り額は同じ。高所得者からたくさん取るのではなく、最初から高所得者の存在しない世界。
B 高所得者・大企業から税金ふんだくれば良い。この場合高所得者以外は全員「弱者」とでも考えてるのかもしれん。金持ちにだって限界はある。どれだけ税金ふんだくれば財政維持できるとかあんまり考えて無さそうだが
C 無駄な予算を削れば良い。かつての民主党の政策。だが「無駄」といっても「無駄」で無かったりで大して削れず。福祉予算は年々増える一方。でも「削れるはずだ」という信仰心。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
55年体制(ごじゅうごねんたいせい)とは、1955年に成立した、自由民主党(自民党)が政権を独占し、日本社会党が野党第1党として対峙する、約38年間続いた日本の政治体制。
といったものが支持されたのであって、つまり「小さな政府」であって左翼リベラルとは真逆
でも実際に旧社会党左派勢力などが民主党内で影響力を発揮し結局本当に左翼になってしまった
立憲民主党などとっくに終わった55年体制を引きずったイメージを持たれたが
当然支持が広がるはずもなし
政治傾向に大きな差異があっても左翼という共通の敵に対して結束してきた
それが崩壊すれば結束も緩む
今後自民党内も分裂するかもしれない
俺の政治思想を説明するので、どこに投票したらいいか助言が欲しい。
ではさっそく。
俺の政治思想はというと、小さな政府、自由主義経済、財政再建派だ。
いくらなんでも一般会計の何割もが社会保険の穴埋めというのはヤバいと思ってる。
もちろん異論は認めるが、そういう思想の持ち主だと思ってほしい。
我が家はいろいろあって社会保障にぶら下がる立場ではあるのだが、だからといって給付を増やせとか、高額所得者はもっと負担しろとは流石にいえない。
私の考えでは、所得の再分配は所得税の役割で、健康保険や年金はそういうもんじゃないと思ってる。
所得税は、所得が高い人が低い人を支える制度として異議はない。
しかし、健康保険は健康な人が健康で無い人を支える制度だと思ってる。
医療保険なんか不要な健康な人も強制加入させられることで、民間の保険に加入できないような持病持ちや、稀に罹患する高額な医療費がかかる患者を救うためだ。
健康な人が不健康な人(自業自得とはいわない。不運にも病気に見舞われた人という意味だ)を支える制度で、所得に比例して青天井に掛金が上がるのはおかしいと思ってる。
年金は、年金保険、長生きしすぎるリスクに対する保険だ。長生きしすぎた人を助ける制度ということは、残酷な話だが、平均の寿命で天に召される人にとっては払い損であるべきだと思ってる。
年金もやはり短命が長命を支える制度であって、高額所得者の掛金や消費税で穴埋めすることは異議がある。もちろん積立部分は所得に比例してよいが、賦課方式の部分はちゃんと掛け金で運用できるようにして欲しい。
さてさて、まあとにかくこんなやつだ。
さて、本題に戻り、俺はどこに投票すべきなんだろう?
党として小さな政府路線を目指してるのは維新が一番だと思っていたからだ。
維新が自民と連立を組むとなると、積極財政をしたくて仕方ない高市自民を応援することになってしまう。
ただ、国民は自民が弱かったからこそ存在感が出せてたわけで、単独過半数の勢いだと政策に意見できなそうに思う。
中道の野田佳彦は財政再建派として評価してるが、中道は党としてはばら撒き路線の公約のようだ。
賢い財政とか物価高から生活を守るとか、自民党との棲み分けがわからない。
自民が中国に対して威勢がいいことを言いながらばら撒くのに対し、中国と仲良くやってく姿勢をみせながらばら撒くという違いにしか見えない。
不思議なもんで、デフレの時代は「政治の無駄遣いを減らせ!」という俺が好きな掛け声が強く、インフレがやってきた今になったら、どの党も「物価高対策!」という声が大きく、どこもばら撒く気しかない。
今回ばかりは、真面目に投票がしたい。
インフレが進んでるのにばら撒きを進めるのは、本当に止めたい。
減税の大合唱に本当に怒りが抑えられないので、もう一度書く。
減税論が馬鹿みたいに大流行りだが、なぜ政治家が「減税」を絶対に掲げてはいけないか。
それは、どんなに慎重な言葉遣いをしても、「そうだ!俺の税金をむしりとっている政府と官僚・公務員ふざんけんな!」とか、「俺の払った税金が知らない誰かに使われるとか、理不尽だろ!」とか、こういう公共そのものを否定する俗情と絶対に結託することになるからである。最悪の場合、生保受給者のバッシングや外国人住民への排外主義になる(実際なっている)。だから、まともな政治家は 「減税」など絶対に口にしない。それを口にして支持が広まった途端、政治と行政の運営そのもがのがきわめて困難になってしまうからだ。
事実、世界中で 「減税」を掲げているのは、そのほぼ全てがトランプなど政府や公共そのものを敵視するポピュリストである。しかしなぜか日本では、左派系の既成政党までが真面目に「減税」を掲げている。租税負担率も公務員数も明らかに「小さな政府」で、それが教員の過労問題やケア労働者の深刻な不足の原因になっているにも関わらず、こうした状況を明らかに悪化させる蓋然性の高いこうした減税論に共感が広がっている。
だいたいなぜ「賃上げ」の要求ではなく「減税」なのか。減税するなら賃金も上がらなくていい、「手取り」が増えれば社会保障もいらない、というのならもはや日本は先進国ではないだろう。
れいわの山本太郎がかつて消費減税が成功した(世界で唯一の!)国として、OECDに加盟している「先進国」ではないマレーシアしか挙げられなかったのが象徴的である。大都市部だけキラキラしているが、貧富の格差が大きく、社会保障制度もないに等しい、そんな社会にしたいのだろうか。
間違いなく高市の国会審議妨害目的の総選挙で減税減税の大合唱でもううんざり。
相変わらず幼稚園レベルの税と社会保障の議論が蔓延しているので、もう一度貼っておく。
減税とか言っている連中は以下の単純な事実をいつまでも完全に無視し続けている。
・国際比較で日本の租税負担率は低く、日本は国際比較で小さな政府であるアメリカより若干高いぐらい。
https://www.mof.go.jp/policy/budget/topics/futanritsu/sy202302c.pdf
・過去の減税政策や増税反対で、より逆進的な社会保険料負担が高騰してきた。
・「減税」「増税反対」は世界中でどこでも公的福祉が大嫌いな右派やネオリベ派のスローガンで、選挙の争点にまでしている左派政党は日本だけ。
・消費減税で飛躍的な経済成長をした国も、消費増税で深刻な不況に陥った国もない。「日本の1997年」以外に実例を挙げられない。
・減税を要求すれば、その政治過程で代替財源として社会保障や公共事業の削減が求められるのは当たり前。財務官僚と政権与党に減税と財政支出拡大を一緒に認めさせる政治交渉力どこから出てくるのだろうか。
・貧困問題や社会保障の研究者や運動家など、貧困者の実情に詳しい人で減税策を正面から掲げている人を知らない。官僚嫌いネオリベ派の鈴木亘くらい。むしろ私的負担の軽減のための増税を主張する人の方が圧倒的に多い。
・国際比較では租税負担率が高い国ほど貧困率も低い傾向がある。
「もう年金なんていらないから、社会保険料減らして手取りを増やせ」みたいな、本当に馬鹿みたいな意見を目にすることが多くなったけど、なんかタチの悪い投資詐欺にでもひっかかっているの??