■ 中田英寿、三浦知良、そして中村俊輔・・・正確に数えたわけではないが、世界中にいる全てのサッカー選手の中で、誰の試合を一番多くの試合を見ているかと問われると、間違いなく中田英寿だろう。ベルマーレ平塚時代、ペルージャ時代、ローマ時代etc.、アトランタ五輪代表、シドニー五輪代表、加茂ジャパン、岡田ジャパン、トルシエジャパン、そしてジーコジャパン。どのチームに入っても、中田英寿は主役であった。
第2位は、多分、三浦知良だろう。初期のヴェルディ川崎時代の試合は、いつもゴールデンタイムで生中継されており、それこそ、数え切れないほどの試合を見ている。京都サンガ時代、ヴィッセル神戸時代、現在の横浜FC、オフトジャパン、ファルカンジャパン、加茂ジャパン、岡田ジャパン、そして、トルシエジャパンまで。おそらく、そのゴールに歓喜した回数でいうと、一番上になるだろう。
そして、第3位は、おそらく中村俊輔になるだろう。
■ ユース代表での輝き中村俊輔を初めて知ったのが、1996年の秋。アジアユースの時だった。「高校生ながら、ユース代表に招集された選手がいる。」ということを新聞の報道で知った。予選リーグで活躍したことは、その次の日の報道で知った。
満を持してという感じで、初めてTVで「中村俊輔」を見ることが出来たのが、準決勝の韓国戦。試合は0対1で韓国に敗れてしまうが、華奢な高校生のプレーに釘付けとなった。正確な左足のキックが、次々とチャンスを演出する。魔法の左足と表現するほか無かった。”ファンタジスタ”の最上級をロベルト・バッジオだと定義するなら、当時の俊輔は今の俊輔よりもずっと、ファンタジスタっぽかった。
■ 横浜Mへの入団、そして・・・高校3年生のとき、桐光学園を冬の高校選手権で準優勝に導き、期待の新人として横浜マリノスに入団する。期待度は高かったが、その一方で、このタイプの選手が順調に成長していって、日本を代表する名手に成長したケースが、それほど多くなかったことに不安感を抱いていた。必ず、壁が来るものだと思っていた。
横浜マリノスでは、MFバルディビエソがいたために、初年度はレギュラーポジションを獲得できなかったが、98年最初の日本代表合宿に、わずか19歳で招集される。将来性を見越した大抜擢ではあったが、その一方、岡田監督は、中田英寿のバックアップとして、中村俊輔を即戦力として考えていた節もあった。
フランス行きはならなかったが、その後も順調にステップアップを果たしていく。トルシエとの確執やレッジーナでの不遇の時期など、停滞期がなかったわけではないが、現在のセルティックでのキャリアまで、これ以上ないくらいの理想曲線を描いてきている。
■ トップ10 GAME前述のように、始めて俊輔を見たあの日から、10年が経った。個人的に印象に残っているベストゲームを述べたい。
1位 CL(06-07) グループリーグ第5節 マンチェスターU戦俊輔自身が、「生涯で一番重要なゴールになるかもしれない。」と語っている伝説のFKを決めた試合。劣勢の展開の中、後半36分に決勝点となるゴールを奪った。この勝利で、セルティックはチーム史上初のCL決勝トーナメント進出を決めた。ゴール自体も見事だったが、決めたときのシチュエーションが最高だった。
2位 コンフェデ(05年) ブラジル戦ジーコ率いる日本代表のベストゲームといえる試合。王国相手に、一歩も引かないクリエイティブな試合で、ドイツの観衆を魅了した。前半27分には、目の覚めるミドルシュートで同点弾を叩き込むと、後半43分には、直接FKからゴールを狙う。そのシュートはポストにはじかれたが、ゴール前でつめた大黒が同点のゴール。ブラジル相手に、史上初めてドローという結果を残した。
3位 アジアカップ決勝(04年) 中国戦完全アウェーの中での決勝戦。ホームの大声援を受ける中国を相手に、3得点全てにからむ大活躍で、日本にアジアカップをもたらした意義深い試合。精度の高いキックは、もはやアジアレベルを超越しており、対戦相手の脅威となった。この大会では最優秀選手に輝いた。
4位 アジアユース準決勝(96年) 韓国戦大会の直前に代表入りした新加入の高校生が、柳沢や、山口や、吉田や、藤本や、城定を押しのけて主役となった。左足から繰り出す魔法は、ファンタジーに満ちていた。
5位 シドニー五輪アジア予選(カザフスタン戦)シドニー五輪の切符をつかんだ、カザフスタン戦。ホームで戦った日本は、中田英寿を召集するなど、ベストメンバーで試合に臨んだが、大苦戦を強いられる。しかしながら、後半にFW平瀬の活躍で逆転に成功。試合終了間際に、中村俊輔が直接FKを決めてシドニーの切符を確実のものとした。試合終了後のインタビューで、「サイドとか・・・。」と言って、涙を見せたシーンが印象的。
6位 アジアカップ準決勝(00年) 中国戦多くの専門家が、「日本代表史上最高のチーム」と評する00年のアジアカップの日本代表チーム。その中心は、同じレフティの中村俊輔と名波浩。サウジアラビアに4対1、ウズベキスタンに8対1、イラクに4対1と信じられないようなゴールラッシュでねじ伏せた日本代表は、準決勝でボラ・ミルチノビッチ率いる中国と対戦。後半に明神のパスミスから1対2と逆転を許しても、慌てるそぶりは全く無かった。中村俊輔のFKからFW西澤がダイビングヘッドで同点に追いつくと、ミスを帳消しにするかもようなMF明神の勝ち越しのゴールで逆転した。このときのチームは、試合途中にリードを許したとしても、負けそうな雰囲気は一切無かった。
7位 Jリーグ(02年) 東京ヴェルディ戦Jリーグラストマッチ。失意の日韓W杯落選から2ヶ月。レッジーナ移籍が決まり、Jリーグでの最終試合となったヴェルディ戦には、多くの観衆が駆けつけた。たった一人の選手のために、これほど多くの観衆が集まったことは、Jリーグ史上でも稀な出来事で、スタジアム内の全ての人が、欧州での飛躍を願っていた。
8位 シドニー五輪代表 親善試合(アルゼンチン戦)中村俊輔や小野伸二、稲本潤一らを擁し、タレント軍団といわれたシドニー五輪代表の初試合。対戦相手は、フランスW杯で苦杯をなめたアルゼンチン。期待度の高さを反映するように、年齢制限のある代表チームの試合としては異例の大観衆が集まった中で、日本は1対0の金星を挙げる。決勝ゴールは、中村俊輔の鮮やかなループシュートだった。
9位 コンフェデ(03年) フランス戦日韓W杯出場を果たせなかった俊輔にとっては、久々の世界の舞台。初戦のニュージーランド戦に3対0で勝利した日本は、地元フランス相手に互角の展開を見せる。中田、中村、稲本、遠藤の中盤は、全てがハイレベルで優雅な組み立てを見せた。後半、中村俊輔が名手バルテズから、FKで同点ゴールを奪う。”中村俊輔”の名前を世界に知らしめた試合。
10位 アジアカップGL(04年) オマーン戦またしてもマチャラ率いるオマーン代表に大苦戦を強いられたジーコジャパンだが、中村俊輔のファンタジーがチームを救った。なんと表現したらいいのか分からないほど鮮やかなアウトサイドキックでのゴールは芸術品。個の力をまざまざと見せ付けた。
■ キャリアを左右する大一番まもなく、中村俊輔は、CLの決勝トーナメント1回戦でACミランと対戦する。世界最高峰といわれるCLで、チームの軸となってトーナメントに挑むアジア人選手は、中村俊輔がはじめてとなる。
今シーズンのCLでの活躍は目覚しいが、まだまだ、未知なる道は続いている。キャリアの中で、チャンスはあるようで、実はそれほど多くない。ワールドクラスの選手へとステップアップできるかどうかは、今度のミラン戦にかかっている。2007年2月20日、セルティックパークで、新たな伝説を作ることができるだろうか。
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