はてなキーワード: 教区とは
いやそういうコンプレックスとかもあるだろうけど
私立高校・大学でもないかぎり教育に携わる物品はすべて「メンテ可能性」がすべてだと思うのよね
デキる先生、ワカるPTAが文科省になにか言われて(たとえばあなたを急に文科省エリートに抜擢しますとか)その学校には誰もいなくなったら?
この学校の生徒全員がブラジル系移民になった(当然父兄は日本語も怪しい)になったら?
ひがみとかじゃないのよ 義務教育は国の義務だけど国は義務だけ課してもママにはなってくれないの
ただでさえウィンドウズやエクセルなんて10年したらクズ同然の課金強要システムだし
文科省が来年以降もウィンドウズを使っていい、教育現場にタダで配ってくれるってほぼ保証した状態になるまで何年かかったか知らんのか
秘伝のタレ(紙と手作業でのマニュアル)ごと捨てたらもう復帰できない、メンテ不可能システムになるしそういう教区もすでにあるの
新潮社のトマス・ピンチョン全小説の『V.』を読み返していたら、ちょっと気になる箇所があって、これは原文ではどうなってんだろうと、図書館で原書を借りてきてみました。そしたら、あれ、もしかしてこれ、この翻訳ひどい?
というわけで、原文と翻訳を照らし合わせたうちで、これはいくらなんでもという箇所を以下で検証していきます。
この段落はニューヨークの下水道に巣食うワニを狩るパトロール隊として雇われているプロフェインという男が第五章で書かれたワニ狩りのことを回想しているというところです。訳文とそれに対応する原文を引用していきます。訳文の引用は『V.』上巻の217,218頁から。
フェアリング神父の教区を抜けてイースト・リヴァー近くまで、独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。
He thought back to the one he'd chased solo almost to the East River, through Fairing's Parish.
「抜けて」とありますが、第五章を読めばわかるようにプロフェインは教区を抜けていません。ここのthroughは「~の間を通って」の意でしょう。
ちなみにフェアリング神父は下水道でネズミにキリスト教を布教しようとしていた人物です。
そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。プロフェインが酔っぱらってか欲情してか、頭がポワンとしていたとき、ワニの足跡だらけの泥の上で、契約を交わしたのか?
It had lagged, let him catch up. Had been looking for it. It occurred to him that somewhere--when he was drunk, too horny to think straight, tired--he'd signed a contract above the paw-prints of what were now alligator ghosts.
「なにか取り決めでもあったのか」という訳文に対応する箇所がない。
これに対応するらしき原文はこのあと出てくるのですが、なぜここに置かれているのかわかりません。それ以外にも問題がありますが、それは後述。
It occurred to him thatが訳されていない。
tiredが訳されてない。
of what were now alligator ghostsが訳されていない。
この段落ではこのalligator ghostsなるものがどういう存在なのか、このあと縷々綴られていくので、これを落としてしまうのはちょっと。ここは訳すなら「今や幽霊であるワニたちが、かつてそうであった存在の」となるのでしょうか。あまり自信はないですが。
プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える、それでイーヴン、恨みっこなしと。
Almost as if there had been this agreement, a covenant, Profane giving death, the alligators giving him employment: tit for tat.
Almost as if there had been this agreement, a covenantが訳されていない。
上に出てきた「なにか取り決めでもあったのか」が訳文なのかもしれないけど、this agreement, a covenantとわざわざ言い直して二回言っているのを「取り決め」の一語にまとめるのはどうなんですか。しかもcovenantなんて「(神との)聖約」という強い意味の語なのに。そんな語がワニ相手に使われているというのがこの文のミソだと思うのですが。うーん。
プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを覚えていたのか。
He needed them and if they needed him at all it was because in some prehistoric circuit of the alligator brain they knew that as babies they'd been only another consumer-object, along with the wallets and pocketbooks of what might have been parents or kin, and all the junk of the world's Macy's.
息の長い原文を切って日本語として不自然じゃないようにしているのでしょうが、かえって意味のつながりが見えにくくなっているような。
おかげで分かりづらい。これでは「必要だったのか」「生じていたのか」「覚えていたのか」と三つの疑問文がただ並列されているように見える。せめて「生じていたのか」「覚えていたのか」を「生じていたからなのか」「覚えていたからなのか」にした方が良いのでは。
the world's Macy'sを「世界中のデパート」としているのは明らかに誤訳です。メイシーズは基本的にアメリカにしか展開していないようですし、なによりもこの挿話の元になった都市伝説はニューヨークのメイシーズで、ペット用に売られた赤ちゃんワニがトイレに流されて下水道で成長していたというものだったわけです。なのでthe world'sはここでは「ここらの界隈の」みたいな意味ではないでしょうか。
あと英語の仮定法を日本語の疑問文で訳すというのは翻訳のテクニックとしてアリなのでしょうか。いや、アリならアリで全然いいんですけど。ただの素人なのでよくわかりません。
トイレを通って、地下の世界に流れてきたのは緊張の中の束の間の平和に――いずれは子供の、見かけだけ動きのあるオモチャに戻っていくしかない、それまでの借り物の時間に――すぎなかったのだろうか?
And the soul's passage down the toilet and into the underworld was only a temporary peace-in-tension, borrowed time till they would have to return to being falsely animated kids' toys.
トイレにジャバーっと流されて下水道に流れ着くという事態を「魂の道行き」なんて大げさな言い方をしているのが、面白いところなのになんで訳されていないのか。あとダッシュをいれて「――いずれは子供の(中略)借り物の時間に――」と挿入するくらいなら原文の語順通りに訳したほうがわかりやすいように思えます。
もちろん自分から望んでのことではない。望みは、もとの自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。そしてそのまま、教区の聖なる水に浸食され、あの日、あのワニの墓場を明るく満たした光のような燐光を発する、アンティークな骨細工になっていくしかない。
Of course they wouldn't like it. Would want to go back to what they'd been; and the most perfect shape of that was dead--what else?--to be gnawed into exquisite rococo by rat-artisans, eroded to an antique bone-finish by the holy water of the Parish, tinted to phosphorescence by whatever had made that one alligator's sepulchre so bright that night.
to go back to what they'd beenが「もとの自分たちの暮らしにある」でいいんでしょうか。このあとに続く文に則して意味をとるなら「暮らし」では変では? それに原文はto go backなのに「帰る」という意味が訳文から感じとれないです。
さて、ここから先が問題です。ここは第六章の中で非常に重要な段落の中でも、さらに重要な一文だと思うのですが、まともに訳されていなくて頭をかかえました。
まず、ダッシュで囲まれたwhat else?が訳されていない。
「しかない」という形で間接的に訳されていると言えるかもしれませんが、それでもこれを落とす理由にはなりません。
exquisiteが訳されていない。
tinted toが訳されていない。
by whatever以後の節を「燐光」にかけて訳していますが、これは英文解釈的に無理なのではないでしょうか。また、そのせいなのか原文の語順がぐちゃぐちゃにされてしまっています。なぜeroded to an antique bone-finishとひとまとまりなっているのを千切って「浸食され」と「アンティークな骨細工」をかけ離れたところに置いているのでしょうか。
原文を素直に読めば、ワニは死後、gnawed-齧られてrococo-ロココ彫刻になって、そのロココ彫刻がeroded-浸食されてan antique bone-finish-骨仕上げのアンティークになり(bone-finishというのは妙な言い方ですが、matte finish-つや消し仕上げをもじったような表現だととりました)、そのアンティークがtinted-染められてphosphorescence-燐光になると読めます。
つまりワニの死後、時間の経過によってワニがどのように変貌していくかの推移を追うことができるように読めるわけです。しかし翻訳ではそのように読むことはほぼ不可能です。
さらにこの段落の一番最後に来るのは原文ではwhatever had made that one alligator's sepulchre so bright that nightなわけで、ここに意味上の大きな負荷がかかっていると思えるのですが翻訳では「燐光」の前に置かれて目立ちません。
これでは、4コママンガのコマの順序を入れ替えてしまったために、オチの意味がわからなくなっているようなものです。
ここのところをわたしなりに試しに訳してみたので、ここに置いておきます。
そして、その望みの最も完璧な形とは死ぬこと――他に何があろう?――であって、そうして工匠ネズミに齧られて精妙なるロココ彫刻とされ、教区の聖なる水に浸食されて骨仕上げのアンティークになり、何ものかに染められて澄んだ緑色の燐光と化すのであり、そしてその何ものかこそ、あの晩、あのワニの地下埋葬所をあんなにも輝かしく光らせていたのだ。
(phosphorescenceという単語を見ていたら、どうしても『宝石の国』のフォスフォフィライトの顔がチラついてしまったので「澄んだ緑色の燐光」としてしまいました)
とにかく第六章にはここ以外にも訳されていない語、節、文がたくさん出てきます。他にも誤訳、誤訳とは言いにくいけどおかしい訳もままあります。誤訳ではなくてもあまり使われない珍しい単語が使われていたり、凝った表現がされていたりするところが、平易な分かりやすい、いいかえれば、ありきたりでつまらない日本語になっていたりします。
いったいなんでこんなことになっているのでしょうか。ピンチョンが好きでこの『V.』も何度も繰り返し読んできたというのに、今まで読んできたものは何だったのかという気分で、ショックが大きいです。
共訳者の一人、佐藤氏は何十年もピンチョンの研究、翻訳をされてきた人で、こんな訳をするとは思えないのですが。それとも、このころ『重力の虹』の翻訳に集中していて実は『V.』にはあまり関わっていなかったとか? しかしもうひとりの小山氏もイギリスの大学院に留学して英語の著作もある人だそうですし。学生に下訳させて、ろくに直さずに出版したとか? まさか。
ただ原文を横において検討したのは第六章だけなので他の章はちゃんとしている可能性はあります。わたしの英語力では全文チェックするなんてとうてい無理なので、誰か英語を読むのが苦ではなくて、現代アメリカ文学に詳しい人に『V.』全編の翻訳をチェックしてみてほしいです。
ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲を教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。
朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会の尖塔、それこそがコミュニティの象徴だった。
かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。
そして何よりも思想の中心であった。
人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。
神の御心にさえ沿っていれば、理不尽な要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である。
現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。
しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音で存在を知らせる、教会の尖塔のように。
これは欧米人の全てがキリスト教の教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在と対峙しなければならないのだ。
Christian=キリスト者としてキリスト教の教義に沿って生きるか、他の宗教を信仰するか、無神論あるいは他の思想信条を信仰するか、あるいは無視するか。
おのれの精神的立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分の選択した思想に沿って生きて行く。
さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰と教育が分離されて久しい現代の日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。
むしろ明言できる人はおかしな思想を押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。
中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装が必要な類である。
では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級の軽蔑を受ける。
さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。
もうおわかりだろう。
「みんなと同じ」
である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである。
みんながキックバックを受け取っているから自分もキックバックを受け取る。
……
そしてもう一つ。
「怒られたくない」
である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神の背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。
cider_kondoさんの回のブコメにvlxst1224さんが「大人感がすごい」と書いていた。同感だが、他にも大人感がすごいコメントをするブックマーカーが何人か思い浮かんで、その一人がkash06さんだった。決して暴言や極論を言わないし、はしゃがない。
それより先月の増田「タグにid振って見たよ」の「クリスチャン:」に名前が挙がらなかったことが不思議に感じた。有名ブックマーカーでクリスチャンと言えばkash06さんでしょう。kash06さんの「キリスト教」タグは読んでると勉強になる。
「キリスト教」タグはついていないが「運命論の2つの解釈」のブコメの、最初の方の同氏を含む何人かのコメントも「レベル高い!」と記憶に残っている。
それから「関東のカトリック教区に対する違和感」であるとか「日本のキリスト教は反日教に堕したのか?」であるとか、信仰に政治の問題を持ち込んだ記事に毅然と反論するブコメを残したことも忘れられない。
一方で、後者の記事に反論する増田「クリスチャンと反日と左翼についてのクリスチャンとしての見解」のブクマには登場しないので、この増田はkash06さんが書いたんじゃなかろうかとゲスパー。
もし他の人が書いたんだったら、何かブコメを残しそうだと想像しただけで、文体が似てるのか似てないのかは判断つかなかったし他に傍証があるわけでも何でもない。いい加減なことを言って間違ってたらごめんなさい。
いい加減なことを書きついでに、思いつきのもっといい加減なことを書きたい。昔、松尾匡先生が「右翼と左翼」に書いた誤解の構造は、「右翼とクリスチャン」に変えても成り立つんじゃないだろうか?
松尾先生の記事を乱暴にまとめてしまうと、右翼は世の中をウチとソトに分けて考え、自分はウチの味方、左翼はソトの味方をしていると考える。左翼は上と下に分け、自分は下の味方、右翼は上の味方をしていると考えるから、相手の考えを理解できないし議論もかみ合わない、というものだ。
先に挙げた記事では、右翼はクリスチャンが左翼と同様ソトの味方をしてると考えて問題視している。
でもクリスチャンは全然そんなふうに考えていない。クリスチャンは神と人間という考え方をし、不完全な人間がいかに完全なる神と向き合うかだけを問題にするのだ。神から見たらウチもソトもあるはずないじゃないか!
傍目から見たらそういう誤解は一目瞭然だし、誤解を解くべく言葉を尽くしてるのはkash06さんだけじゃないけど、その言葉が届いてほしい人にはいつも決して届かないことが、傍で読んでいてもはがゆくつらい。
話を戻すと、どうしてもキャラの立ったブックマーカーにばかり注目が集まるのでブックマーカーは変人揃いだと誤解が生じがちだが、実際はそんなことはないと思う。まともな人が大勢いることをもっと強調したいんですが、だめですか?
追記:
書き忘れてた。「増田ブクマカーたちのアイコンを雑に文字で表現する」でアイコン「チロルチョコきなこ味」って書かれてたけど、島原の乱の陣中旗の聖杯と天使ですよね?
長崎のカトリックの神父やシスターが多い家系で生まれ育って、関東にやってきた。
ある時、近所のカトリック教会へ行ってみることにした。
システムはほぼ変わらない(献金の仕方が教会で違うくらい)ので、普通に馴染めていたのだが、
長崎の教会で聞く説教は、聖書の言葉を引用しつつ、「教えを見習って生きていきましょう」というものがほとんどで、
関東の説教は、政治が何だ経済がなんだ、とにかく政治に関する言及が多い。
「思っていた教会と違う」感じだった。
あと「キリストを信じている自分」にアイデンティティを求めているような人もおおかった。
よくネットで「キリスト教は〜」と批判的なことをいう人を見るが、
そんなことを言う気持ちもわからなくはないくらいの違和感だった。
「そんな所行かなくていいと」と言われたので、今は行っていない。
ホスチアをいただかないと、キリスト者だということを意識しなくなるけど、(根付いているともいう?)、
変なものに関わらないに越したことはないし、今日も家で、いつもどおり祈ろう。
>他の教会へ行けば?
一応沿線にある教会にはいくつか行きましたが、全部微妙だったので。。。
ミサも朝早いor夜遅いなので、あまり遠くへ行くのも困りものという感じ。
ここは長崎でも名前を聞く教会だったので、一度行ってみますね。
>聞き流したほうがいい
そうですね。別の教会に通ってみてあまりよいところに巡り会えなかったら、
長崎ほど教会が多くないから、気軽に別の所へ行ってみようとしても、
そこそこ距離が離れているんだよね。
どこも駅から遠かったりするし。。。。
私はもともと無宗教だったんですが、
旦那様もそのご両親も、教区の神父さんもとても優しい方々ばかりで
わたしもこうなりたいなって思って決心しました。
それでいま勉強しるんですがどうしてもわからない事がありました。
旦那様に
イエス・キリストってマリア様から生まれたんだから人間だよね?
って聞いたら
うんそうだよ、でも神様でもあるよって答えが返ってきました。
神父様にも確認したんですが、
もうほんとわかんなくなって、
神様は神様で、イエス様はイエス様、だから私の中ではイエス様は神の子供で人間でいいやっていったら
ものすごい怒られました。
たしかに私はよく、年齢より若く見えるね、美魔女だね、って言われますが、
火あぶりになんかされたくありません。
私の考えってそんなにおかしいんですかね?
特定秘密保護法案は現代の治安維持法に--日本基督教団大阪教区 平和と自由祈る
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2563
信教の自由セミナー:「その時が来たら覚悟を」--治安維持法の教訓 「状況が戦時中と似ている」
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2556
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=726
「特定秘密保護法案に反対する牧師の会」が同法案廃案の賛同署名呼びかけ
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=725
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=723
特定秘密保護法案衆院通過に危機感 同盟教団「教会と国家」委員会が緊急祈祷会
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=720
信教の自由/光はやみの中に輝いている 12日「キボコク2」特定秘密保護法を受け緊急開催
http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=719
運命の背中 | |
英題 | The Back of Destiny |
監督 | 出山知樹 |
出演者 | 出先拓也 大林舞 伊原武文 竹元恵美子 他 |
美術 | 恩田敏夫 |
音楽 | 新垣隆 |
製作 | 出山ひさ子 |
上映時間 | 40分 |
製作年 | 2009年 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
予告編 | |
ハッシュタグ | #unmeinosenaka #back_of_destiny |
運命の背中 ― The Back of Destiny ― |
snip)「見るに当たって参考文献などあれば」…とご質問いただきましたが、監督としては出来れば頭をまっさらにして見ていただきたいそうです。決して難しい内容ではないので肩の力を抜いてご覧ください。
http://twitter.com/unmeinosenaka/status/69409574981087232 (2011/5/14 23:31)
うんめいのせなか unmeinosenaka the back of destiny 上映会 試写会 映画 出山知樹 NHK アナウンサー でーやん #nhk_deyama
lastupdate20171107203700