1936年のオリンピック。世界から批判の声が上がる中、米国はヒトラーを支援
1936年のオリンピック。世界から批判の声が上がる中、米国はヒトラーを支援
<記事原文 寺島先生推薦>
Olympic Games 1936: How USA Supported Hitler Amid International Protest
Strategic Culture
2022年2月6日
ベルナー・リュグナー(Werner Rügemer)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年2月15日
米国はオリンピック開催国にはふさわしくないと、中国を激しく攻撃している。しかし1936年に、ヒトラー統治下のドイツは夏期オリンピックと、冬季オリンピックを成功裡に終わらせていた。米国はその手助けをしていたのだ。世界中のユダヤ人や労働者たちから抗議の声が上がっていたにもかかわらず。
1936年のベルリンオリンピックについては、世界中から中止させようとする動きがあったのだが、最終的には実施され、しかもこれまでにないほど大きく、素晴らしい大会になった。独裁者ヒトラーはそのオリンピックを利用して、世界中から知られることになった。
ヒトラー政権が犯した罪は、1933年の年始から世界中で知られていた。ヒトラー政権が直接権力を手中に収め始めたのは1933年1月のことで、政敵たちを逮捕し、殺害し、収容所に閉じ込めていた。この影響を主に受けたのは共産主義者や、社会民主主義者など左翼の人々だった。NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)以外のすべての政党は禁止された。1933年5月1日以降、労働組合は破壊され、解散させられた。
ナチスはユダヤ人や、シンティ・ロマ人や、左翼の人々をスポーツクラブから追い出した。ユダヤ系の2つのスポーツ団体であったマッカビ(Maccabi)とシルト(Schild)– この二つの団体は1935年のドイツにおいて350ほどのクラブを所有しており、合計4万人のメンバーが存在していた–はスポーツ施設の使用が許されなくなった。さらにドイツのオリンピック選手団にはユダヤ人が一人も入りそうもないことは明らかだった。
バルセロナでの代替大会
ヒトラーが権力を掌握した2年前の1931年、国際オリンピック委員会(以降IOC) は1936年のオリンピック(夏期も冬期も両方)をドイツで行うことを決めていた。
ヒトラーが権力を掌握した後の1933年、異論を挟んだ国は2国にすぎなかった。それはソ連と1931年に政権を取ったスペイン共和党政権だった。1936年のオリンピックとして、この両国は第2回「人民オリンピック」をバルセロナで開催する準備をしていた。このオリンピックは、17カ国が参加する労働者のためのスポーツ大会だった。第1回人民オリンピックは、1931年にバルセロナで開催されていた。しかし2000人の参加者が1936年夏にバルセロナ入りしたとき、スペインではフランシスコ・フランコ将軍によるクーデターが開始された。このクーデターは米国の数企業から支援を受けていた。具体的には、テキサコ社、ゼネラルモーターズ社、クライスラー社だ。米国議会は、スペインに対しては中立の立場を取ると決めていたのだが。
いくつかの欧州諸国のスポーツ当局からもベルリンオリンピックを中止させようという声が上がっていた。当時最大のスポーツ組織であった米国のアマチュア運動連合(AAU)のジェレミアー・マホーニー(Jeremiah Mahoney)連合長も中止を求めていた。
ニューヨークとテルアビブでのユダヤ人のための代替大会
1933年5月、スティーヴン・ワイズ(Stephen Wise)伝道師は、アメリカユダヤ人委員会とともにニューヨークでデモ行進を行った。アマチュア運動連合は、ニューヨークで、「労働者のための世界運動大会」を組織した。この大会はユダヤ人運動家の指導者たちによって支援されていた。その中には、フィオレロ・ラガーディア(Fiorello La Guardia)ニューヨーク市長や、ハーバート・リーマン(Herbert Lehman)ニューヨーク州知事や、ユダヤ人労働者委員会や、反ナチス連盟も含まれていた。ただしユダヤ人の主要な団体であった米国ユダヤ人委員会や、ブナイ・ブリス(B’nai B’rith)は ナチスを批判することには二の足を踏んでいた。1936年8月15日と16日のニューヨークでの世界大会の参加者はたった400人だった。
1935年に、二回目のユダヤ人のスポーツ大会であるマカビア(Maccabiad)競技大会が、テルアビブで開かれ、27カ国から1350人が参加した。しかし選手のほとんどは母国には戻らなかった。その理由は、ヨーロッパ(スペインや、ハンガリーや、オーストリアや、ポーランドなど)でファシズムが台頭しつつあったからだ。
ノルウェーで開催された冬期大会の代替大会
1936年ノルウェーで、複数の左翼組織が冬期スパルタキアダ(Spartakiade)を開催し、ソ連やスウェーデンやフィンランドから選手が集まった。しかしニューヨーク・タイムズ紙といった世界のマスコミは、同時期にドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchenk)で開催されていた冬季オリンピックのことのみ報じた。
オーストリアでは、8名のユダヤ人選手のうち6名(その中には、水泳の優勝者であったジュディス・ドイツ(Judith Deutsch)も含まれていた)がベルリンオリンピックへの参加を棄権した。ジュディス・ドイツはスポーツ界から永久追放され、1936年になってやっとテルアビブへ移住した。
一方、ウエイトリフティングのデビッド・マイヤー(David Mayer)選手や、バスケットでサムエル・ボルター(Samuel Balter)選手や、短距離走のサムエル・ストーラー(Samuel Staller)選手や、マーティ・グリックマン(Marty Glickman)選手といったユダヤ系米国人の何名かは、ベルリンオリンピックに参加したいと考えていた。1924年のパリオリンピックの100メートルの金メダリストのハロルド・アブラハム(Harold Abrahams)選手は、英国運動協会の協会長や、トーマス・インスキップ(Thomas Inskip)英国国防相に対して、ベルリン大会に出場できるよう、ロビー活動を行っていた。
貴族と将軍と起業家たちからなるIOC
伝統ある大会であるオリンピックの組織委員会は今よりも力を持っていた。その力を得て、ベルリンが開催地になれたのだ。
1936年のIOCのメンバーには、デンマークや日本やリヒテンシュタインの皇太子が加わっていた。さらに、大佐や将軍や陸軍元帥や大将たちが、ドイツ、イタリア、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビア、オランダから集まっていた。
米国のIOCのメンバーは二名とも起業家だった。シカゴの建設業の大物アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)と、不動産投機家のウィリアム・ガーランド(William Garland)だ。フランスからは、ポメリー・グレノ(Pommery & Greno)シャンペン・セラーのマルキ・ド・ポリナック(Marquis de Polignac)社長だ。ドイツからは、ドイツ銀行の重役であり、NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)の党員であり、寄付を行うのが好きだったナチス親衛隊のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)とも交友関係のあったカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von Halt)だ。スウェーデンからは、電子工学会社ASEAの社長だったジークフリード・エドストリーム(Sigfrid Edström)だ。IOCのメンバーには貴族やその家族も多く含まれていた。例えば、英国のIOCのメンバーは、第3代アバーデア男爵であり、第6代のエクセター侯爵でもあるクラレンス・ネィピア・ブルースだったが、彼は多くの不動産を所持していただけではなく、複数の企業の重役も務めていた。このことは、IOC委員長のアンリ・ド・バイエ・ラトゥール伯爵についても当てはまった。同伯爵はベルギー国内の富裕家族上位10位の一つに入っており、ベルギー最大の銀行であるソシエテ・ジェネラル銀行などの複数の企業の株を所有していた。
主たる決定権を有していたのは米国だった
IOCや国内オリンピック委員会は、中止の動きを止めようとしていた。オリンピックへの参加を早くから表明したのは、ファシストの枢軸国であったイタリアと日本であり、ファシスト政権と友好関係にあったフィンランド、ポーランド、南アフリカ、ポルトガル、ルーマニア、オーストリアも続いた。
1932年のロサンゼルスオリンピックは、オリンピックの新しい規準を打ち立てるものだった。参加者数や記録や競技場などの近代的スポーツ施設の大きさが躍進したのだ。スポーツ政策に成功していた「世界最大のスポーツ国家」米国がベルリンオリンピックに参加するかしないかにより、1936年のベルリンオリンピックが開催できるかどうかが決せられる、と考えられていた。
米国オリンピック委員会(AOC)委員長は、アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)だった。 第1次世界大戦時に政府と契約したことにより、ブランデージが所有していた会社は躍進できた。ブランデージはシカゴ最大の住宅開発業者であり、不動産投資家だった。ブランデージは超高層ビルや、高級大邸宅や、ホテルを建設し、フォード社の製造工場まで作っていた。
米国オリンピック委員会委員長は、猛烈な反ユダヤ主義者だった
ブランデージはヒトラーを崇拝していて、自分も反ユダヤ主義者であることを公言していた。「シカゴにも、私のクラブ内にもユダヤ人は立ち入り禁止」と彼は語っていた。彼から見れば、オリンピック中止運動は、「ユダヤ人共産主義者たちによる陰謀」だった。バイエ=ラトゥールIOC 委員長も、ブランデージの反ユダヤ主義を支持していた。「ユダヤ人は、理由もないのに金切り声を上げ始める」と、同委員長はブランデージへの書簡の中で記していた。
バイエ=ラトゥールIOC 委員長の主導のもと、ブランデージはIOCのメンバーに選出された。ブランデージとともに米国から選ばれたのは、チャールズ・シェリル(Charles Sheril)だった。シェリルは、第1次大戦時の准将であり、ニューヨークで弁護士もしており、アルゼンチンやトルコの米国大使も務めていた。このシェリルも熱狂的なファシズム支持者だった。1933年3月4日のニューヨーク・タイムズ紙の記事において、シェリルは他の米国の実業家と同様に、ヒトラーをドイツで最も素晴らしい政治家であると持ち上げていた。同様に、シェリルはムッソリーニの登場についても歓迎し、ムッソリーニのことを、「無能な民主主義に基づくヨーロッパの体制を再構築してくれる政治家だ」と捉えていた。
ヒトラーはオリンピックの創設者を買収
ヒトラーは、オリンピックの創設者と、IOCのピエール・ド・クーベルタン名誉会長にそれぞれ「名誉報酬」として1万ライヒスマルク(現在の価値で10万ドル程度)をオリンピック直前に贈っていた。ヒトラーは既に、ベルリンでオリンピックが開催された際は、クーベルタンに生涯に亘る年金の提供を申し出ていた。
スイスのIOCの役員たちもベルリンでオリンピック開催にむけて重大な役割を果たしていた。王室侍従で、米国の実業家の娘と結婚したクラレンス・フォン・ローゼンは、ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Herman Goering)の妻カリンと姻戚関係にあった。クラレンスの弟のエリック・フォン・ローゼン(Eric von Rosen)はスウェーデンでのファシズム運動を創設した人物であり、クラレンスも同調していた。スウェーデンの二人目のIOCメンバーは、電子工学会社ASEAの社長 ジークフリード・エドストレーム(Sigfrid Edström)だった。この会社はヒトラーの大ゲルマン帝国と親密な取引を行っていた。
チャーチルはベルリンオリンピックをどう見ていたか?
英国IOCの二人のメンバー、アバーデア男爵とバーバリー男爵も、ベルリンオリンピック開催に向けて政治的な働きかけを行っていた。中止派だったノエル・カーティス・ベネット(Noel Curtis Bennet)卿には支持が全く集まらなかった。ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はこの論争をこうなだめていた。「共産主義よりもヒトラーの方がましだ!」
フランスのシャンパン王はベルリンオリンピックをどう見ていたか?
ドイツ国防軍が、1936年3月に、非武装地帯だったラインラント地方を占領したのち、フランスのスポーツ当局は夏期オリンピックの中止を求めた。その中には、国際ホッケー連盟(HIF)のマルク・ベルン・ド・コト-(Marc Bellin de Coteau)連盟長や、国際サッカー連盟(FIFA)のジュール・リメ連盟長もいた。しかしフランスについては、IOCのメンバーでもあり、シャンパン王だったマルキ・ド・ポリナックが決定権を握っていた。フランスのベルリン大使アンドレ・フランソワ・ポンセ(André Francois-Poncet)は、フランスの重工業界のロビーストであり、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬季オリンピック開催を熱烈に歓迎していた。
アパルトヘイト推進将軍はベルリンオリンピックをどう見ていたか?
一方ヘンリー・ナースには、ナチス政権と敵対する理由は全くなかった。南アフリカからのIOCメンバーだったナースは、ボーア戦争(1899-1902)時、英国植民地軍でキッチナー(Kitchener)元帥のもと中佐を務めていたことに誇りを持っていた。収容所において、ボーア人の家族や地元の人々が飢え死にし、焦土作戦が行われ、人殺しは罪に問われなかった。ナースは南アフリカの金鉱や炭鉱の所有者となり、そこでナースは国家の助けを借りることで、黒人を搾取することができた。アパルトヘイト政策が法制化されたのは第二次世界大戦後のことだったのだが、ナースは既にアパルトヘイト政策を地で行っていたのだ。
ナースが行っていたことは、以下のナチスが犯した3つの蛮行と何のひけもとらなかった。①ナチス政権が犯した罪②1935年に成立させた「ニュルンベルク人種法」③オリンピックに先立つ数週間前に起こったスペインのフランコ将軍のクーデターを支持したこと。
大熱狂とエリートたちの贅沢
アルプスのリゾート地、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬期オリンピックは、何の障害もなく、1936年2月6日から16日まで開催された。またベルリンでの夏期オリンピックは、1936年8月1日から16日まで開催された。
当初、ナチスの新聞「シュテルマー」紙と、「フェルキッシャー・ベオバハター」紙は、黒人やユダヤ人を排除することを煽る記事を書き、黒人やユダヤ人はオリンピックに参加させるべきではないという主張をしていた。しかしバイエルン州の町ガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催された冬期オリンピックや、ベルリンでの夏期オリンピックの際、「ユダヤ人禁止」の看板はすべて撤去され、悪魔化されていた「黒人音楽」のジャズはほぼ許可され、卍型のナチス旗が、世界各地からの観客の前で、全世界に向けて揺れていた。
マスコット的扱いを受けたユダヤ人たち
IOCの米国メンバーのチャールズ・シェリルが二回の個人的な面会の際にヒトラーにすすめたのは、「ドイツのオリンピックチームにマスコット的なユダヤ人を加えれば、国際社会からの批判の対策になるかもしれない」、という作戦だった。ナチスはシェリルからの助言に従った。二名の「ユダヤ人ハーフ」が、マスコット的存在のユダヤ人として、ドイツチームに加えられたのだ。その二名とは、アイスホッケーのスター選手だったルディ・ボール(Rudi Ball)選手と、フェンシングのヘレン・メイヤー(Helene Mayer)選手だった。メイヤー選手は、外見上は金髪の非ユダヤ人女性の理想的な顔立ちをしており、米国在住者だった。表彰式において、メイヤー選手は競技場でヒトラーに敬礼を捧げた。
新しく建設されたオリンピック競技場には10万席が用意されていた。これは1932年のロサンゼルスオリンピックで使用された大競技場と同じ大きさにしたものだったが、ヨーロッパで最も大きい競技場となった。その競技場は巨大な閲兵場やオリンピック村や広いスポーツ施設に囲まれていて、そこで様々な訓練もでき、美術作品も展示されていた。
リヒャルト・シュトラウスの音楽と、福音教会と、レニ・リーフェンシュタールと、コカコーラと・・
1936年、古代ギリシャのオリンピアから、ヨーロッパを横断する聖火リレーを初めて行ったのがナチスだった。その風習がそれ以来続けられている。3075名の走者が聖火を運び、5カ国を通り抜け、ベルリンに到達した。最終走者は以下の3つの条件を満たしているものしか認められなかった。①走り方②良い体格と良い姿勢③髪の色と目の色、そして政治的志向。すべてが満たされていないと認められなかった。
世界的に有名な作曲家リヒャルト・シュトラウスが、オリンピックの歌を作曲した。ヒトラーのお抱え彫刻士であったアルノ・ブレーカー(Arno Breker)が非ユダヤ人運動選手の裸体像「十種競技の勝者」の彫刻作りに貢献した。プロテスタント派教会は、ベルリン大聖堂でIOCのために大規模な開会式典を催した。ヒトラーのお気に入りの建築家アルベルト・シュペーア(Albert Speer)作の光のドームが国民社会主義ドイツ労働者党の党大会に合わせて開発され、競技場を上から照らした。
ヒトラーの到着や試合や表彰式に合わせてファンファーレが鳴り響いた。歴史上初めて、試合の模様が放映された。コカコーラなどの企業がスポンサーについた。IOCはヒトラーのお気に入りの監督であるレニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)にオリンピックの公式映像の製作を依頼したが、この映像には近代化されたカメラが使用され、水中カメラまであった。これらは当時全くの新製品だった。
ゲッベルスがユダヤ人排斥運動で手に入れた施設で開いた「イタリアの夜」
プロパガンダ戦略担当大臣だったヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Göring)陸軍元帥は、張り合うかのようにセレブたちのための豪華なパーティを開いた。ゲッベルスは、アーリア化(ユダヤ人排斥運動)で手に入れたベルリン孔雀島の施設で、「イタリアの夜」というパーティを開催した。
いっぽうゲーリングは、自身のプロイセン宮殿に客人たちを招待した。どのパーティにも1回につき1000人の客人が招かれていた。その客人とは、諸国の王や、ヨーロッパの貴族たち、諸国からの外交団、IOCのメンバーたち、ナチス親衛隊や国民社会主義ドイツ労働者党の役員たち、大臣たち、映画や演劇界のスターたち、メダリストたちなどだった。花火も上がり、古代衣装や、ビクトリア朝衣装をまとった舞踏会が催され、戦闘爆撃機の操縦士エルンスト・ウーデットが妙技を披露していた。
ニューヨーク・タイムズ紙と、ディリー・エクスプレス紙と、ケルニシェ・ツァイトゥング紙
ヒトラーはオリンピックの目的についてこう宣言していた。「諸国間の平和の絆を強めるためです」と。ヒトラーに与していたのは、ドイツのブルジョア系メディアだけではなかった。
ケルニシェ・ツァイトゥング(Kölnische Zeitung)紙、(現在も後継であるケルナー・シュタットアンツァイガー(Kölner Stadt-Anzeiger)紙は健在だ)はこう報じていた。「(このオリンピックは)新生ドイツが平和を愛する世界のすべて人々に贈った最も偉大な祝賀だ」と。「世界の人々の世論」を形成していたアングロサクソンのメディアもこの報道に共鳴していた。「歴史上最も偉大なスポーツショーだ」(ニューヨーク・タイムズ紙)。「ドイツ国民の考え方を素晴らしく変革させたものだ」(ディリー・エクスプレス紙、ロンドン)。
アベリー・ブランデージはヒトラーの願いをすべて実現させた
ベルリンオリンピック開始日であった1936年8月1日のアドロンホテルでの会合において、すでにIOCは1940年のオリンピックの開催地を東京にすることを決定していた。当時大日本帝国は、朝鮮、中国、台湾に侵攻していたのだが・・・。1939年にIOCは冬季オリンピックを再度ドイツで開催することを決めた。ブランデージもIOCも、ヒトラーの願いをすべて実現させたのだ。
米国との間に深く、また経済的なつながりがあったため、ヒトラー統治下のドイツは米国政府からの覚えをめでたくしようと考え、大使館をかなり大きなものに作り替えた。その際ほかでもないやり手のブランデージが、ワシントンのドイツ大使館の建設の契約を勝ち取っていた。
ルーズベルトはナチスに対して批判的な大使を更迭した
オリンピック後の1938年に、ルーズベルト政権は、ベルリン駐在のウイリアム・ドット(William Dodd)大使を更迭し、後任にヒトラーの崇拝者であるヒュー・ウィルソン(Hugh Wilson)を選んだ。ウィルソンは、米国メディアを、「ユダヤ人たちの影響を受けている」と叱り飛ばしていた。その理由は、当時のドイツのユダヤ人の扱い方を批判しすぎているから、ということだった。
ウィルソンは、ヒトラー政権については、「よりよい未来」建設にむかって努力していると賞賛していた。ウィルソンはヒトラーについてこう語っている。「道徳的な絶望や、経済的な絶望から国民を抜け出させ、自尊心を醸成させ、繁栄へと導いた」と。
チャーチルは何度もヒトラーを認める発言を行っている。「ヒトラーを憎む人もいるだろうが、ヒトラーの愛国心溢れる業績を賞賛する人も多い」、と1937年にチャーチルが記述している。頑固な反共産主義者であった彼が当時心配していたのは、ヒトラーが「ロシア」に対して間違った戦略を取って、(対ソ連攻撃を)失敗したままにしてしまうのではないか、ということだった。「ヒトラーはナポレオンと同じ間違いをしてしまわないだろうか?」と。
チャーチルの懸念は現実のものとなった。しかし、ヒトラーが敵と見た国との戦争はヒトラー後も続けられたし、今でも続いている。
<記事原文 寺島先生推薦>
Olympic Games 1936: How USA Supported Hitler Amid International Protest
Strategic Culture
2022年2月6日
ベルナー・リュグナー(Werner Rügemer)
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年2月15日
米国はオリンピック開催国にはふさわしくないと、中国を激しく攻撃している。しかし1936年に、ヒトラー統治下のドイツは夏期オリンピックと、冬季オリンピックを成功裡に終わらせていた。米国はその手助けをしていたのだ。世界中のユダヤ人や労働者たちから抗議の声が上がっていたにもかかわらず。
1936年のベルリンオリンピックについては、世界中から中止させようとする動きがあったのだが、最終的には実施され、しかもこれまでにないほど大きく、素晴らしい大会になった。独裁者ヒトラーはそのオリンピックを利用して、世界中から知られることになった。
ヒトラー政権が犯した罪は、1933年の年始から世界中で知られていた。ヒトラー政権が直接権力を手中に収め始めたのは1933年1月のことで、政敵たちを逮捕し、殺害し、収容所に閉じ込めていた。この影響を主に受けたのは共産主義者や、社会民主主義者など左翼の人々だった。NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)以外のすべての政党は禁止された。1933年5月1日以降、労働組合は破壊され、解散させられた。
ナチスはユダヤ人や、シンティ・ロマ人や、左翼の人々をスポーツクラブから追い出した。ユダヤ系の2つのスポーツ団体であったマッカビ(Maccabi)とシルト(Schild)– この二つの団体は1935年のドイツにおいて350ほどのクラブを所有しており、合計4万人のメンバーが存在していた–はスポーツ施設の使用が許されなくなった。さらにドイツのオリンピック選手団にはユダヤ人が一人も入りそうもないことは明らかだった。
バルセロナでの代替大会
ヒトラーが権力を掌握した2年前の1931年、国際オリンピック委員会(以降IOC) は1936年のオリンピック(夏期も冬期も両方)をドイツで行うことを決めていた。
ヒトラーが権力を掌握した後の1933年、異論を挟んだ国は2国にすぎなかった。それはソ連と1931年に政権を取ったスペイン共和党政権だった。1936年のオリンピックとして、この両国は第2回「人民オリンピック」をバルセロナで開催する準備をしていた。このオリンピックは、17カ国が参加する労働者のためのスポーツ大会だった。第1回人民オリンピックは、1931年にバルセロナで開催されていた。しかし2000人の参加者が1936年夏にバルセロナ入りしたとき、スペインではフランシスコ・フランコ将軍によるクーデターが開始された。このクーデターは米国の数企業から支援を受けていた。具体的には、テキサコ社、ゼネラルモーターズ社、クライスラー社だ。米国議会は、スペインに対しては中立の立場を取ると決めていたのだが。
いくつかの欧州諸国のスポーツ当局からもベルリンオリンピックを中止させようという声が上がっていた。当時最大のスポーツ組織であった米国のアマチュア運動連合(AAU)のジェレミアー・マホーニー(Jeremiah Mahoney)連合長も中止を求めていた。
ニューヨークとテルアビブでのユダヤ人のための代替大会
1933年5月、スティーヴン・ワイズ(Stephen Wise)伝道師は、アメリカユダヤ人委員会とともにニューヨークでデモ行進を行った。アマチュア運動連合は、ニューヨークで、「労働者のための世界運動大会」を組織した。この大会はユダヤ人運動家の指導者たちによって支援されていた。その中には、フィオレロ・ラガーディア(Fiorello La Guardia)ニューヨーク市長や、ハーバート・リーマン(Herbert Lehman)ニューヨーク州知事や、ユダヤ人労働者委員会や、反ナチス連盟も含まれていた。ただしユダヤ人の主要な団体であった米国ユダヤ人委員会や、ブナイ・ブリス(B’nai B’rith)は ナチスを批判することには二の足を踏んでいた。1936年8月15日と16日のニューヨークでの世界大会の参加者はたった400人だった。
1935年に、二回目のユダヤ人のスポーツ大会であるマカビア(Maccabiad)競技大会が、テルアビブで開かれ、27カ国から1350人が参加した。しかし選手のほとんどは母国には戻らなかった。その理由は、ヨーロッパ(スペインや、ハンガリーや、オーストリアや、ポーランドなど)でファシズムが台頭しつつあったからだ。
ノルウェーで開催された冬期大会の代替大会
1936年ノルウェーで、複数の左翼組織が冬期スパルタキアダ(Spartakiade)を開催し、ソ連やスウェーデンやフィンランドから選手が集まった。しかしニューヨーク・タイムズ紙といった世界のマスコミは、同時期にドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchenk)で開催されていた冬季オリンピックのことのみ報じた。
オーストリアでは、8名のユダヤ人選手のうち6名(その中には、水泳の優勝者であったジュディス・ドイツ(Judith Deutsch)も含まれていた)がベルリンオリンピックへの参加を棄権した。ジュディス・ドイツはスポーツ界から永久追放され、1936年になってやっとテルアビブへ移住した。
一方、ウエイトリフティングのデビッド・マイヤー(David Mayer)選手や、バスケットでサムエル・ボルター(Samuel Balter)選手や、短距離走のサムエル・ストーラー(Samuel Staller)選手や、マーティ・グリックマン(Marty Glickman)選手といったユダヤ系米国人の何名かは、ベルリンオリンピックに参加したいと考えていた。1924年のパリオリンピックの100メートルの金メダリストのハロルド・アブラハム(Harold Abrahams)選手は、英国運動協会の協会長や、トーマス・インスキップ(Thomas Inskip)英国国防相に対して、ベルリン大会に出場できるよう、ロビー活動を行っていた。
貴族と将軍と起業家たちからなるIOC
伝統ある大会であるオリンピックの組織委員会は今よりも力を持っていた。その力を得て、ベルリンが開催地になれたのだ。
1936年のIOCのメンバーには、デンマークや日本やリヒテンシュタインの皇太子が加わっていた。さらに、大佐や将軍や陸軍元帥や大将たちが、ドイツ、イタリア、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビア、オランダから集まっていた。
米国のIOCのメンバーは二名とも起業家だった。シカゴの建設業の大物アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)と、不動産投機家のウィリアム・ガーランド(William Garland)だ。フランスからは、ポメリー・グレノ(Pommery & Greno)シャンペン・セラーのマルキ・ド・ポリナック(Marquis de Polignac)社長だ。ドイツからは、ドイツ銀行の重役であり、NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)の党員であり、寄付を行うのが好きだったナチス親衛隊のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)とも交友関係のあったカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von Halt)だ。スウェーデンからは、電子工学会社ASEAの社長だったジークフリード・エドストリーム(Sigfrid Edström)だ。IOCのメンバーには貴族やその家族も多く含まれていた。例えば、英国のIOCのメンバーは、第3代アバーデア男爵であり、第6代のエクセター侯爵でもあるクラレンス・ネィピア・ブルースだったが、彼は多くの不動産を所持していただけではなく、複数の企業の重役も務めていた。このことは、IOC委員長のアンリ・ド・バイエ・ラトゥール伯爵についても当てはまった。同伯爵はベルギー国内の富裕家族上位10位の一つに入っており、ベルギー最大の銀行であるソシエテ・ジェネラル銀行などの複数の企業の株を所有していた。
主たる決定権を有していたのは米国だった
IOCや国内オリンピック委員会は、中止の動きを止めようとしていた。オリンピックへの参加を早くから表明したのは、ファシストの枢軸国であったイタリアと日本であり、ファシスト政権と友好関係にあったフィンランド、ポーランド、南アフリカ、ポルトガル、ルーマニア、オーストリアも続いた。
1932年のロサンゼルスオリンピックは、オリンピックの新しい規準を打ち立てるものだった。参加者数や記録や競技場などの近代的スポーツ施設の大きさが躍進したのだ。スポーツ政策に成功していた「世界最大のスポーツ国家」米国がベルリンオリンピックに参加するかしないかにより、1936年のベルリンオリンピックが開催できるかどうかが決せられる、と考えられていた。
米国オリンピック委員会(AOC)委員長は、アベリー・ブランデージ(Avery Brundage)だった。 第1次世界大戦時に政府と契約したことにより、ブランデージが所有していた会社は躍進できた。ブランデージはシカゴ最大の住宅開発業者であり、不動産投資家だった。ブランデージは超高層ビルや、高級大邸宅や、ホテルを建設し、フォード社の製造工場まで作っていた。
米国オリンピック委員会委員長は、猛烈な反ユダヤ主義者だった
ブランデージはヒトラーを崇拝していて、自分も反ユダヤ主義者であることを公言していた。「シカゴにも、私のクラブ内にもユダヤ人は立ち入り禁止」と彼は語っていた。彼から見れば、オリンピック中止運動は、「ユダヤ人共産主義者たちによる陰謀」だった。バイエ=ラトゥールIOC 委員長も、ブランデージの反ユダヤ主義を支持していた。「ユダヤ人は、理由もないのに金切り声を上げ始める」と、同委員長はブランデージへの書簡の中で記していた。
バイエ=ラトゥールIOC 委員長の主導のもと、ブランデージはIOCのメンバーに選出された。ブランデージとともに米国から選ばれたのは、チャールズ・シェリル(Charles Sheril)だった。シェリルは、第1次大戦時の准将であり、ニューヨークで弁護士もしており、アルゼンチンやトルコの米国大使も務めていた。このシェリルも熱狂的なファシズム支持者だった。1933年3月4日のニューヨーク・タイムズ紙の記事において、シェリルは他の米国の実業家と同様に、ヒトラーをドイツで最も素晴らしい政治家であると持ち上げていた。同様に、シェリルはムッソリーニの登場についても歓迎し、ムッソリーニのことを、「無能な民主主義に基づくヨーロッパの体制を再構築してくれる政治家だ」と捉えていた。
ヒトラーはオリンピックの創設者を買収
ヒトラーは、オリンピックの創設者と、IOCのピエール・ド・クーベルタン名誉会長にそれぞれ「名誉報酬」として1万ライヒスマルク(現在の価値で10万ドル程度)をオリンピック直前に贈っていた。ヒトラーは既に、ベルリンでオリンピックが開催された際は、クーベルタンに生涯に亘る年金の提供を申し出ていた。
スイスのIOCの役員たちもベルリンでオリンピック開催にむけて重大な役割を果たしていた。王室侍従で、米国の実業家の娘と結婚したクラレンス・フォン・ローゼンは、ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Herman Goering)の妻カリンと姻戚関係にあった。クラレンスの弟のエリック・フォン・ローゼン(Eric von Rosen)はスウェーデンでのファシズム運動を創設した人物であり、クラレンスも同調していた。スウェーデンの二人目のIOCメンバーは、電子工学会社ASEAの社長 ジークフリード・エドストレーム(Sigfrid Edström)だった。この会社はヒトラーの大ゲルマン帝国と親密な取引を行っていた。
チャーチルはベルリンオリンピックをどう見ていたか?
英国IOCの二人のメンバー、アバーデア男爵とバーバリー男爵も、ベルリンオリンピック開催に向けて政治的な働きかけを行っていた。中止派だったノエル・カーティス・ベネット(Noel Curtis Bennet)卿には支持が全く集まらなかった。ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はこの論争をこうなだめていた。「共産主義よりもヒトラーの方がましだ!」
フランスのシャンパン王はベルリンオリンピックをどう見ていたか?
ドイツ国防軍が、1936年3月に、非武装地帯だったラインラント地方を占領したのち、フランスのスポーツ当局は夏期オリンピックの中止を求めた。その中には、国際ホッケー連盟(HIF)のマルク・ベルン・ド・コト-(Marc Bellin de Coteau)連盟長や、国際サッカー連盟(FIFA)のジュール・リメ連盟長もいた。しかしフランスについては、IOCのメンバーでもあり、シャンパン王だったマルキ・ド・ポリナックが決定権を握っていた。フランスのベルリン大使アンドレ・フランソワ・ポンセ(André Francois-Poncet)は、フランスの重工業界のロビーストであり、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬季オリンピック開催を熱烈に歓迎していた。
アパルトヘイト推進将軍はベルリンオリンピックをどう見ていたか?
一方ヘンリー・ナースには、ナチス政権と敵対する理由は全くなかった。南アフリカからのIOCメンバーだったナースは、ボーア戦争(1899-1902)時、英国植民地軍でキッチナー(Kitchener)元帥のもと中佐を務めていたことに誇りを持っていた。収容所において、ボーア人の家族や地元の人々が飢え死にし、焦土作戦が行われ、人殺しは罪に問われなかった。ナースは南アフリカの金鉱や炭鉱の所有者となり、そこでナースは国家の助けを借りることで、黒人を搾取することができた。アパルトヘイト政策が法制化されたのは第二次世界大戦後のことだったのだが、ナースは既にアパルトヘイト政策を地で行っていたのだ。
ナースが行っていたことは、以下のナチスが犯した3つの蛮行と何のひけもとらなかった。①ナチス政権が犯した罪②1935年に成立させた「ニュルンベルク人種法」③オリンピックに先立つ数週間前に起こったスペインのフランコ将軍のクーデターを支持したこと。
大熱狂とエリートたちの贅沢
アルプスのリゾート地、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬期オリンピックは、何の障害もなく、1936年2月6日から16日まで開催された。またベルリンでの夏期オリンピックは、1936年8月1日から16日まで開催された。
当初、ナチスの新聞「シュテルマー」紙と、「フェルキッシャー・ベオバハター」紙は、黒人やユダヤ人を排除することを煽る記事を書き、黒人やユダヤ人はオリンピックに参加させるべきではないという主張をしていた。しかしバイエルン州の町ガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催された冬期オリンピックや、ベルリンでの夏期オリンピックの際、「ユダヤ人禁止」の看板はすべて撤去され、悪魔化されていた「黒人音楽」のジャズはほぼ許可され、卍型のナチス旗が、世界各地からの観客の前で、全世界に向けて揺れていた。
マスコット的扱いを受けたユダヤ人たち
IOCの米国メンバーのチャールズ・シェリルが二回の個人的な面会の際にヒトラーにすすめたのは、「ドイツのオリンピックチームにマスコット的なユダヤ人を加えれば、国際社会からの批判の対策になるかもしれない」、という作戦だった。ナチスはシェリルからの助言に従った。二名の「ユダヤ人ハーフ」が、マスコット的存在のユダヤ人として、ドイツチームに加えられたのだ。その二名とは、アイスホッケーのスター選手だったルディ・ボール(Rudi Ball)選手と、フェンシングのヘレン・メイヤー(Helene Mayer)選手だった。メイヤー選手は、外見上は金髪の非ユダヤ人女性の理想的な顔立ちをしており、米国在住者だった。表彰式において、メイヤー選手は競技場でヒトラーに敬礼を捧げた。
新しく建設されたオリンピック競技場には10万席が用意されていた。これは1932年のロサンゼルスオリンピックで使用された大競技場と同じ大きさにしたものだったが、ヨーロッパで最も大きい競技場となった。その競技場は巨大な閲兵場やオリンピック村や広いスポーツ施設に囲まれていて、そこで様々な訓練もでき、美術作品も展示されていた。
リヒャルト・シュトラウスの音楽と、福音教会と、レニ・リーフェンシュタールと、コカコーラと・・
1936年、古代ギリシャのオリンピアから、ヨーロッパを横断する聖火リレーを初めて行ったのがナチスだった。その風習がそれ以来続けられている。3075名の走者が聖火を運び、5カ国を通り抜け、ベルリンに到達した。最終走者は以下の3つの条件を満たしているものしか認められなかった。①走り方②良い体格と良い姿勢③髪の色と目の色、そして政治的志向。すべてが満たされていないと認められなかった。
世界的に有名な作曲家リヒャルト・シュトラウスが、オリンピックの歌を作曲した。ヒトラーのお抱え彫刻士であったアルノ・ブレーカー(Arno Breker)が非ユダヤ人運動選手の裸体像「十種競技の勝者」の彫刻作りに貢献した。プロテスタント派教会は、ベルリン大聖堂でIOCのために大規模な開会式典を催した。ヒトラーのお気に入りの建築家アルベルト・シュペーア(Albert Speer)作の光のドームが国民社会主義ドイツ労働者党の党大会に合わせて開発され、競技場を上から照らした。
ヒトラーの到着や試合や表彰式に合わせてファンファーレが鳴り響いた。歴史上初めて、試合の模様が放映された。コカコーラなどの企業がスポンサーについた。IOCはヒトラーのお気に入りの監督であるレニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)にオリンピックの公式映像の製作を依頼したが、この映像には近代化されたカメラが使用され、水中カメラまであった。これらは当時全くの新製品だった。
ゲッベルスがユダヤ人排斥運動で手に入れた施設で開いた「イタリアの夜」
プロパガンダ戦略担当大臣だったヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Göring)陸軍元帥は、張り合うかのようにセレブたちのための豪華なパーティを開いた。ゲッベルスは、アーリア化(ユダヤ人排斥運動)で手に入れたベルリン孔雀島の施設で、「イタリアの夜」というパーティを開催した。
いっぽうゲーリングは、自身のプロイセン宮殿に客人たちを招待した。どのパーティにも1回につき1000人の客人が招かれていた。その客人とは、諸国の王や、ヨーロッパの貴族たち、諸国からの外交団、IOCのメンバーたち、ナチス親衛隊や国民社会主義ドイツ労働者党の役員たち、大臣たち、映画や演劇界のスターたち、メダリストたちなどだった。花火も上がり、古代衣装や、ビクトリア朝衣装をまとった舞踏会が催され、戦闘爆撃機の操縦士エルンスト・ウーデットが妙技を披露していた。
ニューヨーク・タイムズ紙と、ディリー・エクスプレス紙と、ケルニシェ・ツァイトゥング紙
ヒトラーはオリンピックの目的についてこう宣言していた。「諸国間の平和の絆を強めるためです」と。ヒトラーに与していたのは、ドイツのブルジョア系メディアだけではなかった。
ケルニシェ・ツァイトゥング(Kölnische Zeitung)紙、(現在も後継であるケルナー・シュタットアンツァイガー(Kölner Stadt-Anzeiger)紙は健在だ)はこう報じていた。「(このオリンピックは)新生ドイツが平和を愛する世界のすべて人々に贈った最も偉大な祝賀だ」と。「世界の人々の世論」を形成していたアングロサクソンのメディアもこの報道に共鳴していた。「歴史上最も偉大なスポーツショーだ」(ニューヨーク・タイムズ紙)。「ドイツ国民の考え方を素晴らしく変革させたものだ」(ディリー・エクスプレス紙、ロンドン)。
アベリー・ブランデージはヒトラーの願いをすべて実現させた
ベルリンオリンピック開始日であった1936年8月1日のアドロンホテルでの会合において、すでにIOCは1940年のオリンピックの開催地を東京にすることを決定していた。当時大日本帝国は、朝鮮、中国、台湾に侵攻していたのだが・・・。1939年にIOCは冬季オリンピックを再度ドイツで開催することを決めた。ブランデージもIOCも、ヒトラーの願いをすべて実現させたのだ。
米国との間に深く、また経済的なつながりがあったため、ヒトラー統治下のドイツは米国政府からの覚えをめでたくしようと考え、大使館をかなり大きなものに作り替えた。その際ほかでもないやり手のブランデージが、ワシントンのドイツ大使館の建設の契約を勝ち取っていた。
ルーズベルトはナチスに対して批判的な大使を更迭した
オリンピック後の1938年に、ルーズベルト政権は、ベルリン駐在のウイリアム・ドット(William Dodd)大使を更迭し、後任にヒトラーの崇拝者であるヒュー・ウィルソン(Hugh Wilson)を選んだ。ウィルソンは、米国メディアを、「ユダヤ人たちの影響を受けている」と叱り飛ばしていた。その理由は、当時のドイツのユダヤ人の扱い方を批判しすぎているから、ということだった。
ウィルソンは、ヒトラー政権については、「よりよい未来」建設にむかって努力していると賞賛していた。ウィルソンはヒトラーについてこう語っている。「道徳的な絶望や、経済的な絶望から国民を抜け出させ、自尊心を醸成させ、繁栄へと導いた」と。
チャーチルは何度もヒトラーを認める発言を行っている。「ヒトラーを憎む人もいるだろうが、ヒトラーの愛国心溢れる業績を賞賛する人も多い」、と1937年にチャーチルが記述している。頑固な反共産主義者であった彼が当時心配していたのは、ヒトラーが「ロシア」に対して間違った戦略を取って、(対ソ連攻撃を)失敗したままにしてしまうのではないか、ということだった。「ヒトラーはナポレオンと同じ間違いをしてしまわないだろうか?」と。
チャーチルの懸念は現実のものとなった。しかし、ヒトラーが敵と見た国との戦争はヒトラー後も続けられたし、今でも続いている。
- 関連記事
-
- ヒロシマ・ナガサキは「予行演習」:オッペンハイマーと米陸軍省が1945年9月15日に秘密裏に行なった「ソ連を地図上から消し去る」ための「終末の日の青写真」 (2024/05/21)
- カナダ政府が元ナチス兵を賞賛したことで暴露されたカナダ政府の長年の対ウクライナ政策の真実 (2023/10/11)
- 1936年のオリンピック。世界から批判の声が上がる中、米国はヒトラーを支援 (2022/02/17)
- オリバー・ストーンの新作ドキュメンタリー『ケネディ暗殺』を主要メディアは無視。しかし、それはきっと彼の主張が図星だからだ。 (2021/08/27)
- 日本がヒトラーやムッソリーニと同盟したのは、米国の侵略のせいだった。 (2021/03/06)
- 米英がムッソリーニのファシズムを支援していた (2021/02/21)
- 戦勝記念日!ロシア人は2600万人戦死の記憶はあるが、米国資本主義がナチスドイツの戦争を金銭面で支えていた事実は知らない。 (2021/02/16)
- CIAのインドネシアへの関与、そしてJFKとダグ・ハマーショルドの暗殺 (2021/01/29)
- 米国の20代~30代のほぼ11%がホロコーストはユダヤ人が起こしたものだと思っている! (2020/09/29)
- 現在の世界的危機で「露-中-米」協力体制というウォレス/ルーズベルトが考えた壮大な計画が復活することになるかもしれない。#「エルベの誓い」 (2020/07/27)
- 議会への提言、経済権力の集中について (2020/07/24)
- 戦勝記念日に。第二次世界大戦の勝利について、最後の考察をしよう (2020/06/06)