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米英がムッソリーニのファシズムを支援していた

<記事原文 寺島先生推薦>The History of US and British Support to Mussolini’s Fascism

グローバル・リサーチ 2021年1月14日

シェーン・クイン著


 ベニート・ムッソリーニのような人物が権力を握れたのは、当時イタリアの国家情勢が深刻な状態にあったからだ。資源が少ない国であるイタリアは、第1次世界大戦における出費により、深刻な破産状態にあった。それまでのイタリアの民主主義政権は、それ以前の半世紀の合計金額よりも多くの軍事費を戦時中に支出していた。

 イタリアは第1次世界大戦で150万人の犠牲者を出した。戦後帰宅したイタリア人兵士たちが目にしたのは、分断が進み、失業率は高く、チャンスの目はほとんどなく、インフレが進行していた母国の姿だった。この状況がイタリアで過激派が台頭する素地となっていた。そしてそれと同じ事がイタリアのはるか北にあるドイツでも起こっていた。ドイツも第1次世界大戦により最大の被害を受けた国の一つだった。

 「戦勝国」側にいたにもかかわらず、イタリア市民の多くは、1919年6月のベルサイユ条約により、米・英・仏によって自国を奪われたと感じていた。イタリアは、これら三国と同程度、戦争による被害を受けており、対等の立場でベルサイユ条約が締結されるはずだった。

 戦争が終結に向かうにつれ、ムッソリーニが冷静に見つめていたのは、眼前に広がるイタリアの崩壊した姿だった。そして彼が感じ取ったのは、自分のように揺るがない意思をもった冷酷な人間なら、権力者への道を固めることができるということだった。ムッソリーニは冷血で、利を得る機会があればすぐに手を伸ばす様な人物であり、抜け目のないやり手だったし、彼はジャーナリストの手腕も持っていた。未来のドゥーチェ(イタリア語で国家指導者)であった彼は、さらに精神病者的な症状も有していた。その様子は彼の恰幅のいい体格や、炭のように黒い眼球や、時に見せる内気な言動からも伺い知れた。腕のいい精神科の看護師であれば、彼を見れば健康上の警告を発していただろう。

 ヒトラーとは違い、ムッソリーニは、ある種のイデオロギーに対する忠誠心はなかった。従って、1914年以前に見せていたマルクス主義的傾向をムッソリーニが投げ捨て、極右的な考え方に傾倒していったのは、避けられないことであった。ムッソリーニが何よりも関心を寄せていたのは、自分自身のことであり、自分のために権力を欲していた。ムッソリーニはそのような意図を不法な手段で実現しようとしていた。つまりクーデターだ。1922年の夏の終わり頃までには、ムッソリーニの「黒シャツ隊」は、軍の力を使って、市民の間に起こっていたすべての抵抗運動を根絶やしにしていた。

 力によって左派を打ちのめしたムッソリーニには、他にまだ3つの敵が存在していた。これらの敵は、力によって対応できるものではなかった。その3つとは、ローマ・カトリック教会と、イタリア王室と、民主派だった。ムッソリーニが、ローマ教会とイタリア王室に対して勝利を収めた方法は、自身の反カトリック主義や反王室主義を取り下げることだった。そして両者には特権を与え、さらには、権力を希求し、虚栄心も強い両者に、イタリア国内でのある程度の影響力を残したのだった。

 歴史家であり人類学者でもあるデイビット・ケルツァーは、イタリアのファシズムとローマ・カトリック教会の関係を分析して、こう語っている。「ムッソリーニが独裁者になれた重要な秘訣にはローマ教会があった」と。そして教会との協力関係がなければ、ムッソリーニの独裁政権は「起こらなかったであろう」と。また「その協力関係が無ければ、ムッソリーニの独裁は止めることができたかもしれない」と。その真実を隠すために、ローマ・カトリック教会を擁護する人たちは様々な神話のような話を広め、教会の指導者たちは初めからファシズムに反対していたと主張してきた。しかし実際のところは、それは全く逆で、「教会側はムッソリーニの支配下に取り込まれていた」のだ。ケルツァーはさらに、ドゥーチェ(訳注:ムッソリーニのこと)とローマ教皇ピウス11世は「ある意味、相互補完関係になっていった」と述べている。(1)

 教会と王室を味方につけることで、ムッソリーニは重鎮たちからの評価をあげることに成功し、残りの敵であったリベラル派を「王手」に追い込んだ。ムッソリーニが繰り出した最後の一撃は、1922年10月28日の「ローマ進軍」だった。ムッソリーニが政権奪取に成功するやいなや、西側陣営の指導者たちからの支援は増えていった。

 ムッソリーニのクーデターについては、当時の米国イタリア大使のリチャード・ウォッシュバーン・チャイルドの手記がある。そこには「素敵な若い革命がここにある。危険な状況はなく、熱気と様々な色で溢れている。我々はみなこの動きを歓迎している」とある。米国メディア取材の規準となるニューヨーク・タイムズ紙は、黒シャツ隊が成し遂げたのは「イタリア特有の、比較的被害の少ない革命だった」とコメントしていた。しかし実際のところは、そのクーデターの3年半前から暴力行為が蔓延し、数千人もの死者を出していたのだ。

 イタリアのファシスト政権の誕生は、ボリシェヴィキ型の政権奪取が再び起こることを恐れていた米国の不安を解消させた。ボリシェヴィキ型の革命は、その5年前の1917年の10月にロシアで起こっていた。1917年12月に米国ウッドロー・ウイルソン大統領政権が行った綿密な調査結果から、労働者運動が深まりつつあるイタリアは「明らかに社会主義革命や政権崩壊が起こる危機的状況にある」と警戒されていた。米国国務省の役人の私的見解では、「警戒を怠れば、ロシアと同じ轍を踏んでしまう可能性がある」とのことであり、さらに「イタリア国民は子どものよう」なので、「他のどの国に対するよりも手厚い支援」が必要であろう、とも付け加えていた。

 ムッソリーニ配下の民警部隊の黒シャツ隊が、すぐにそんな問題を片付けた。ローマの米国大使館はこんな報告を行っている。「イタリアにおけるボリシェヴィキ運動を押さえ込む際に最も熱心に働いた」のはファシストたちだ、と。そして「黒シャツ隊の熱気あふれる若き暴徒たち」に暖かな関心を示した。米国大使館は、さらに、「イタリアのすべての愛国者」へ向けたファシズムの訴えについて、イタリア人は「強力な指導者」を熱望する単純な国民だと述べた。(3)

 米国企業はこぞってムッソリーニ支配下のイタリアに投資した。米国の歴史家であり分析家であるノーム・チョムスキーは以下の様に記している。

「ファシストの闇がイタリアを席巻した際、米国政府や米国企業からの経済的支援は急速に増加した。戦後、イタリアには、どの国よりもはるかによい借金返済法が適応された。そして米国のイタリアに対する投資は他のどの国に対してよりも素早かった。当時のイタリアは、ファシスト政権が成立し、労働争議などの民主主義を求める運動は抑えられつつあった。(4)」

 「飛んで火に入る夏の虫」ではないが、ファシスト政権とつながれば巨大ビジネスが手に入るという抑えがたい衝動がイタリアに向けられた。ムッソリーニが政権を手にした1年後の1923年の終盤には、米国大使館は彼を褒め称えている。「クーデターの結果は素晴らしいものだ。ここ12ヶ月間、イタリア国内でひとつのストライキも起こっていない」 (5)。大使館は、ムッソリーニが成功したのは、労働者階級を押さえ込んだからだと考えていた。労働者こそが民主主義の前進を支える鍵であり、ムッソリーニはそこを押さえ込んだからだ、と。

 1924年から新しくイタリアの米国大使になったヘンリー・フレッチャーは、米国がこの先どのような外交政策を採るべきかの輪郭を決めた人物であった。フレッチャー大使は、米国の内務大臣のフランク・ケロッグに以下の様な情報を流した。それは、イタリアにおける選択肢は「ムッソリーニのファシズムか、ジョリッティの社会主義か」のどちらかであるというものだった。ジョヴァンニ・ジョリッティはムッソリーニの前のイタリア首相であり、左派だった。フレッチャー大使とケロッグ国務大臣は、リベラル派であるジョリッティよりも独裁主義者であるムッソリーニを好んだ。

 フレッチャーの考えによれば、イタリア市民たちが求めているのは、ムッソリーニ下の「平和と繁栄」であり、「言論の自由、ゆるやかな管理」や「危険なボリシェヴィキ的秩序の崩壊」ではなかったとのことだった。1925年から1929年まで米国の内務大臣をつとめていたケロッグはフレッチャーに同意し、ムッソリーニに反対する勢力はすべて、「共産主義者であり、社会主義者であり、無政府主義者である」と批判し、このような勢力に力をも持たせるべきではないと考えていた。(6)。 フレッチャーやケロッグのような支配者層が本当に恐れていたのは、「資本主義秩序が生き残れなくなる」という脅威であり、それはボリシェヴィキ運動が示していた脅威であった。

  1930年代初旬から、世界大恐慌の牙がヨーロッパ中を傷つけていたとき、ムッソリーニ政権は、西側の支配者層から大きな賞賛を得ていた。米国大使のアレクサンダー・カークは1932年に以下の様な記述を残している。「どこから見ても、イタリアの福祉は安寧だといえる。そう、ムッソリーニが権力を握っている限りは。しかし万一彼の身に何か起きたとしたら、どうなるだろうか?」(7)。なんという考え方だろうか!

 1933年、ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌は満足げにこう記している。イタリアにおける「ファシスト計画に限界はなく」、「ムッソリーニが命じたことは、何の妨害も受けず、金銭的にもすべてうまく遂行されるだろう」と。米国の代表的なビジネス誌で、ニューヨークに拠点を置くフォーチューン誌は、1934年にファシストが支配するイタリアについての特集号を組んでいる。その見出しは、「ウォップたちは、腐っちゃいない(アンウォップ)」だった。「ウォップ」とはイタリア人に対する蔑称であり、この見出しは、「ムッソリーニ下のイタリアは遅れてもいないし、惨めでもない」という意味だ。

 (参考記事)

American Friendly Fascism: Not So Friendly Anymore


 1925年から1938年にかけて、ムッソリーニの経済政策により、イタリアの労働者の実質賃金は11%低下した。世界大恐慌が起こる前から、ムッソリーニ統治下のイタリアの失業者数は急激に増えていた。たった2年でその数は2倍以上にふくれあがった。1926年には失業者数は18万1千人だったのが、1928年には43万9千人になっていた。1932年には、1100万人以上のイタリア人に仕事がなく(8)、この数は大恐慌に対するイタリアには耐えがたいものだった。

 ムッソリーニの政策のために、生産コストも上昇した。それは、ムッソリーニが、通貨レートを1ポンド=90リラに固定したことが大きい。これは「イタリア経済に対して大きな緊張を与えた」とは研究者であり学者でもあるデビッドF.シュミッツの見立てだ。シュミッツはムッソリーニとベイクの外交政策について詳しく研究している。ドゥーチェ・ムッソリーニが貨幣レートを一定に保てた唯一の理由は、ムッソリーニが思い切った手段をとったからだ。例えば、デフレのあとに激しいインフレ策をとったことなど、だ。

 西側のビジネス誌はこのような状況を見落としていた。追放されたイタリア人の歴史家(例えばガエターノ・サルヴェミニ)の意見が公表されていたにも関わらず。1932年、サルヴェミニは米国のシンク・タンクである外交問題評議会に以下の様なことを伝えた。すなわち「イタリア産業は恐慌に苦しめられている。それは世界各地と同じこと」であり、「その状況は米国と同じくらい悪い」と。

 ムッソリーニ支配下のイタリアの国家債務は年を追うごとに増えていた。それは、ムッソリーニがイタリアの国家経済において、戦時体制に向けた出費を増やしていたこともある。「彼は、軍隊の好事家である」。これはヒトラー側近の助言者ヴィルヘルム・カイテルが同時代のムッソリーニを評した言葉だ。ムッソリーニが目指していたのは、軍の力により20世紀のローマ帝国を建国することだった。シュミッツはこう看破している。「イタリアの安定した政体に感銘を受けた米国の役人たちは、このような危うい状況を見落としていた」と。(9)

 すでに1923年には、ムッソリーニは米国の中枢から「非常に好感を持たれていた」ようだ。これは、モルガン銀行代表ネルソン・ディーン・ジェイの言だ。これはドゥーチェ・ムッソリーニがローマで開催された国際商業会議の開会のことばを述べた後の発言だった。なぜムッソリーニがこんなに深い印象を与えたのだろうか?それは演説中に、ムッソリーニが、「欧州各国政府は、企業を私有化すべき時期に来た」と発言したからだ。実は第一次世界大戦中は、企業は国有化されていたのだ。ヨーロッパが戦時中であったほとんどの時期にドイツ軍を指揮していたエーリヒ・ルーデンドルフは、中欧や東欧の多くの産業を国有化していた。 (10)。そのような産業には新聞社やタバコ会社も含まれていた。このように国家が産業を支配下におく構造は、戦争が終わり、ルーデンドルフが退任させられた後は、元に戻った。西側陣営の権力者にとっては、企業の私有化が重要だったのだ。

 
左から:チャンバレン(英国首相)、 ダラディエ(仏首相)、ヒトラー、ムッソリーニ、イタリアのチャーノ外相 。ミュンヘン会談署名前の写真


 米国の著名な裁判官でもあり、USスティール社の共同創設者でもあったエルバート・ヘンリー・ゲリーは、1923年のローマ旅行の際、ムッソリーニについてこんなコメントを残している。「本当に熟練した手が、イタリア国家という船の舵をしっかり握っている」。ゲリー裁判官はこう感じていた。「米国の友人たちに尋ねてみたい。私たちにもムッソリーニのような人物が必要なんじゃないか?と」 (11)。ゲリー裁判官が、労働者達のストライキを粉砕するムッソリーニの能力に感嘆したのは明白だ。

 米国国務長官であり、後に陸軍長官もつとめたヘンリー・スティムソンは、1933年にこう概観している。「米国とイタリアは、最も友好的な関係にある」と。第二次世界大戦後、スティムソンが思い出したのは、自分とハーバード・フーバー米大統領はムッソリーニのことを「健全で役に立つ指導者である」と考えていたことだった。米国のスメルディ・バトラー将軍が1931年にムッソリーニに関して手厳しい見解を述べたとき、スティムソンは同将軍を法廷手段で訴えることまでしている。

  フーバーの後継者である民主党のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、1933年にムッソリーニを「尊敬すべきイタリアの紳士」と評している。つまり、米国政府はイタリアの独裁政権の支持を続けていたということだ。ルーズベルト政権のイタリア大使ブレッキンリッジ・ロングはファシズム政権という「政治における新しい実験」に熱狂していた。そして「それはイタリアで最もうまく機能している」と考えていた。

 米国国務省はムッソリーニの殺人的な1935年のエチオピア侵攻を「素晴らしい」業績であると捉えていた。そして、黒シャツ隊が「混乱から秩序を、秩序崩壊から規律を、破産状態から支払い能力をもたらした」と考えていた。 1937年に米国務省はこう考えていた。イタリアのファシズムも、ドイツのファシズムも、 「継承されなければいけない。そうしないと大衆、すなわち今は幻想を見せられ落ち着いている中流階級が再び左派の方向に動く可能性がある」と。 (12)

 2つ目の戦争が迫っていた1939年に、ルーズベルト大統領はこういっている。すなわち、イタリアのファシズムは「世界にとって重要である」が、「未だ実験段階である」と。(13)。例えばトーマス・ラモントのような、米国の強力な億万長者の銀行家たちは、ムッソリーニの熱烈な崇拝者だった。米国のJ.P.モルガン銀行の共同経営者であったラモントはムッソリーニを「とてもいい奴」であり、「健全な考え」のもと、「イタリアにとってとてもいい仕事をした」人物であると語っている。もう1人影響力のあった銀行家のオットー・カーンもムッソリーニ下のイタリアを賞賛しこう語っている。「ベニート・ムッソリーニは状況がよく見えている。イタリアはこんなに素晴らしい人物の指揮下にある」と。

 ムッソリーニに対する支援は英国の支配者層の間でも同様に広がっていた。実は、ムッソリーニと英国の繋がりは1917年にまで遡る。その年の秋、ムッソリーニは英国のスパイとしてMI6から雇われていたのだ。MI5とは英国のスパイ組織だ(14)。当時34歳だったムッソリーニは、ミラノにあったポポロ・ディタリア紙で編集者をしていたのだが、M15から週給100ポンドで少なくとも1年間雇われていた。これは今の価値でいうと週給7000ポンドに相当する。この給金が支払われたのは、ムッソリーニに戦争を煽る記事を書かせ続けるためのものだった。それにより、イタリアを対独連盟に留めさせようという狙いがあった。

 英国がムッソリーニに金を渡していたことは、英国保守党党員で、M15ローマ支局のサミュエル・ホーアも了承していた。ムッソリーニがホーア下院議員に語っていたのは、ムッソリーニはイタリア軍の古参兵たちを派遣して大衆の平和を求める運動を粉砕するつもりがあるということだった。そんな知らせは、ムッソリーニを雇っていた英国を喜ばせたことだろう。

 イタリアの独裁者ムッソリーニは、英国の高官たちから熱烈な承認を受けていた。その中には保守党下院議員のウィンストン・チャーチルもいた。1927年、52歳だったチャーチルは財務大臣をつとめていたのだが、ローマを訪問し、そこでドゥーチェ・ムッソリーニと会った。それを受けて、チャーチルは以下のような話をメディアに語っている。

 「私は魅了されずにはいられなかった。他の全ての人もそうだったであろうが。シニョール・ムッソリーニの優しく飾らない立ち居振る舞いや、穏やかで客観的な様子には、本当に感銘を受けた。彼は多くの危険や任務を抱えているだろうに・・・。もし私がイタリア国民なら、きっと心の底から、そして徹頭徹尾、ムッソリーニについていったはずだ。そうだ、恐ろしい執着と熱情をもってレーニン主義者排斥に勝利しようというムッソリーニに」(15)

 チャーチルがムッソリーニにこんなおべっかとも取れるような発言をしたことは、別に驚くことではない。というのも、チャーチルはムッソリーニが嫌っていたのと同じくらい、労働運動家たちや、社会主義者たちや、共産主義者たちを毛嫌いしていたからだ。イングランドの教育者ジョン・シムキンはこう書いている。「歴史書を読めば、チャーチルはファシズムを深く崇拝していたことがわかる」と。さらにこう付け加えている。「1920年代や1930年代にチャーチルが行った演説や彼が書いた記事を見ればよく分かる」と。チャーチルが妻に宛てて書いた手紙の内容からも、チャーチルのファシズム崇拝が見て取れるそうだ。 (16)。しかしこのような事実は、歴史からはかき消されている。

 「シニョ-ル・ムッソリーニ」がチャーチルや英国当局者にとってやっかいごとになったのは、ムッソリーニによるファシスト支配時代の後半になってからだった。そうだ。英国の利益が、植民地を増やしたいという独裁者ムッソリーニの野望により脅かされるようになってから、やっとのことで、だ。


 以下はチョムスキーの分析である。


「ムッソリーニは多くの大衆を引きつける穏健派であると捉えられていた。そして、彼がもたらした効率重視の統治と繁栄は、野獣(訳注:社会主義者たちのこと)を倒し、海外財閥にむけて、利の上がる投資と交易を行うドアを開くことになったのだ。 (17)

  保守党下院議員であり、1924年から1929年まで外務大臣をつとめたオースティン・チェンバレンは、ムッソリーニと個人的な友人関係にあった。1925年にノーベル平和賞を関係者と共に授与されたチャンバレンは、財務大臣も2度つとめている。そして、後に英国首相となったネヴィル・チェンバレンの異母兄だった。

 外務大臣として、オースティン・チェンバレンはムッソリーニについてこう語っている。「自信をもって伝えたいことだが、ムッソリーニは愛国者であり、誠実な人物である。私は彼が発することばを信頼しているし、私と彼なら英国政府のために働いてくれるイタリア人をみつけることなどたやすくできるだろう。(18)。1921年から1933年まで英国イタリア大使をつとめたロナルド・グラハムも、このファシスト独裁者を賞賛の目で見つめていた。イートン大学の卒業生であるグラハムは、英国政府に向けてムッソリーニのイタリア支配を支持する多数の書簡を送っている。その書簡を、英国外務省や内閣の関係者が熱意をもって読んでいた。

  ムッソリーニが権力を固めるにつれ、イングランドの代表的な新聞で、ロンドンに拠点を置く新聞であるロンドン・タイムズ紙は、1928年6月にムッソリーニについてこんな見方をしていた。「ムッソリーニは、衰えることなく成功し続けている」と。彼のおかげでイタリアは世界における主要国家にとどまることができている、と。1922年に米国生まれの資産家である保守党の政治家ジョン・ジェイコブ・アスターが買収していたロンドン・タイムズ紙は、あきらかに親ムッソリーニ派であった。ロンドン・タイムズ紙はこの独裁者を「素晴らしい判断力の持ち主だ」と持ち上げていた。さらにムッソリーニには、「ユーモアのセンスがある」とさえ評していた。ただし、同紙が懸念を示していたのは、ムッソリーニ政権がいつか倒れるのではないかということであった。そして、そうなることは、「考えただけでも恐ろしい」と書いていた。ロンドン・タイムズ紙は1929年にもムッソリーニの「偉大な斬新さと政治的手腕」を賞賛する記事を載せている。 (19)。

 1928年12月に、ディリー・テレグラフ紙は、ムッソリーニを「妥協しない現実主義者」であり、平和を求めていたという「名誉ある記録」を残している人物だと評している。都合良く忘れ去られた事件がある。それは、ムッソリーニがギリシャのケルキラ島に侵攻し爆撃を行った事件だ。それは1923年秋のことで、この爆撃により10数名の市民が殺された事件だ。

 さらに、テレグラフ紙もムッソリーニが策定した労働関係の法律を賞賛している。同紙は、その法を「斬新な革新」であり、「純粋な愛国心」に根付いたものである、と評していた。1936年、反ファシストの歴史家であったサルヴェーミニは、テレグラフ紙に対してこんなコメントを残している。「いつもムッソリーニばかり推している」と。イタリアのファシズムは、それ以外の英国の複数の新聞から強固な支持を受けていた。たとえば、極端に反ボリシェヴィキ主義をとっていたディリー・メール紙や、モーニング・ポスト紙などだ。モーニング・ポスト紙は、1937年にテレグラフ紙に買収されている。イタリアのファシストを研究している豪州の記者リチャード・ボスワースによれば、英国のメディアで唯一ムッソリーニを激しく批判していたのは、「スペクター紙だけだった。スペクター紙も当初はムッソリーニを熱烈に支持していたが、のちにその熱意がなくなっていった」とのことだ。 (20)。

*

引用文献

1 Alex Floyd, “A Communion of Dictators Binds Fascism and the Catholic Church”, Vineyard Gazette, 30 July 2015

2 David F. Schmitz, “A Fine Young Revolution”: The United States and the Fascist Revolution in Italy, 1919-1925, Radical History Review, 1 May 1985

3 Noam Chomsky, Deterring Democracy (Vintage, New edition, 3 Jan. 2006) p. 38

4 Ibid.

5 Edwin P. Hoyt, Mussolini’s Empire: The Rise and Fall of the Fascist Vision (Wiley; 1st edition, 2 Mar. 1994) p. 87

6 Chomsky, Deterring Democracy, p. 39

7 David F. Schmitz, The United States and Fascist Italy, 1922-1940 (University of North Carolina Press, 30 Jan. 1988) Chapter 5, Italy and the Great Depression

8 Ibid.

9 Ibid.

10 Donald J. Goodspeed, Ludendorff: Soldier: Dictator: Revolutionary (Hart-Davis; 1st edition, 1 Jan. 1966) p. 138

11 Schmitz, The United States and Fascist Italy, Chapter 3, the United States

12 Noam Chomsky, Hegemony or Survival: America’s Quest for Global Dominance (Penguin, 1 Jan. 2004) p. 68

13 Ibid.

14 Tom Kington, “Recruited by MI5: The name’s Mussolini. Benito Mussolini”, The Guardian, 13 October 2009

15 Tom Behan, The Camorra: Political Criminality in Italy (Routledge; 1st edition, 18 Aug. 2005) p. 34

16 John Simkin, “Was Winston Churchill a supporter or opponent of Fascism?” Spartacus Educational, September 1997 (updated January 2020)

17 Chomsky, Deterring Democracy, p. 39

18 Lawrence R. Pratt, East of Malta, West of Suez: Britain’s Mediterranean Crisis, 1936-1939 (Cambridge University Press; 1st edition, 13 Oct. 2008) p. 16

19 R. J. B. Bosworth, The British press, the Conservatives and Mussolini, 1920-1934, Jstor, pp. 172 & 174

20 Ibid., p. 173

 

 

 

 

 

 

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