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日本がヒトラーやムッソリーニと同盟したのは、米国の侵略のせいだった。


<記事原文 寺島先生推薦>

History: US Encroachment Encouraged Japan To Support Hitler and Mussolini


シェーン・クイン著

グローバル・リサーチ 

2019年8月21日

 
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2021年3月10日

 

 1940年9月下旬、来栖三郎ら日本政府の代表者たちが空路ベルリンに到着し、当時の欧州覇者であったアドルフ・ヒトラーからの表敬を受けた。横浜出身で、経験豊富な外務官であった来栖は、第三帝国が強固に見えた当時のナチスの自信のほどに気付かずにはいられなかった。

 来栖が新しく建てられた総統官邸に足を踏み入れたのは、1940年9月27日のことだった。そこで来栖はナチスとベニート・ムッソリーニ下のイタリアとの間で重要な軍事同盟に署名した。この同盟は、日独伊三国同盟と呼ばれた。ほとんど忘れられているこの同盟が締結されたのは、ソビエト連邦とアメリカ合衆国に対抗するためだった。そして、そのことをアメリカ政府もロシア政府もはっきりと認識していた。

 しかし、日本には怒りをもつ正当な理由があった。特に、当時世界最強国であった米国に対しては、だ。米国の産業や軍事力は、はっきりとアジア領域に侵略しはじめていた。そこは、日本が自国領にしたいという野望を持っていた地域だった。

 問題の核心はこうだった。日本は歴史上、どこの国からも侵略されたことがないという自負を持った国だった。そして日本は当時、結果はどうあれ、他国から干渉されずに、自国の運命を自国で決めたいと熱望していた。日本では急速に産業化が進み、資源の少ない国として、必要となる鉱物資源の入手先を必死に拡大しようとし始めていたのだ。

 米国政府は、西半球を支配しただけでは満足できずに、日本を支配化に置き、太平洋における米国政府の深い欲望を満たそうという望みをもっていた。この動きは、1930年代、日本政府に対する強硬な外交政策の後ろに隠された米国の執拗な目的だったのだ。米国史が専門の高木八尺教授が、以下の様な疑問を持ったのも、もっともだ。「アメリカは、アメリカ大陸にはモンロー主義を、アジアには門戸開放政策をとっていたはずなのに・・・」

 日本がナチス先導で形成された日独伊三国同盟に加入することに関して、1940年代初期の米国の外交政策がとった戦略は、このことを、米国民の日本政府に対する敵対心を高揚させるためのプロパガンダとして使用する、ということだった。米国の歴史家、ポール・W・シュローダーは、このことを理解しており、以下の様な文章を残している。

 「日独伊三国同盟は、米国の外交政策によって改めて問題化されたのだ。というのも、米国民に対して、日本との戦争を起こす空気を醸成するのに有効であると考えられていたからだ」

 日本は主要な敵国に囲まれ、分断され孤立させられていたため、日本の指導者たちは窮地を脱する方法を探そうとして、当時欧州で難攻不落であるように見えていた魅力的なナチスという相手を見つけ出したのだ。その後ろにはムッソリーニ政権のファシストも見えていた。日本が日独伊三国同盟に踏み出したのは、よこしまな狙いを持っていたというよりも、捨て鉢な対応を採らざるを得ない状況と地政学的な理由があったったためなのだ。

 日本が日独伊三国同盟に署名する数時間前、米国政府は日本政府に対してくず鉄の完全な禁輸政策を課した。これは日本にとっては本当にやっかいな問題だった。というのも、日本は、材質面においても、金銭面においてもくず鉄に依存していたからだ。

 さらに、米国政府と従属的な関係を結ぶことは、日本の軍部の強硬派だけではなく、大多数の穏健愛国派にとっても耐えがたいことであった。両派とも日本が、「米国にとって御しやすく、覚えの高い、下請け企業的」存在になることは望んでいなかった。実は、戦後は、そのような状況になってしまうのだが。

 米国の平和主義論者であるA.J.ムステは、この先起こるであろう、敵国間での世界規模の衝突をこう見ていた。「生存と支配を賭けた二勢力間の衝突になるだろう」と。ムステによると、その一方の勢力は英、米、そして「自由な」仏であり、この三国が「地球上の資源の70%を支配」し、「もう一方は、独、伊、ハンガリー、日本であり、世界の資源の15%を支配する」とのことだった。つまり、1940年代に、枢軸国が世界の大半を支配していたという言説は長年の神話に過ぎなかったのだ。

 1940年1月に、米国政府は、1911年に締結した日米通商航海条約を破棄した。このことが、日本が仏領インドシナや、蘭領インディーズ(インドネシア)や、フィリピンなどを占領する作戦に焦点をあてるきっかけとなった。これらの地域はすべて日本政府が領有したいと考えていた西側諸国の植民地だった。日米通商航海条約の破棄が致命的要因となり、多くの日本の穏健派たちが、枢軸国から支援を求める必要性を認識することになった。

 ヒトラーは日本を仲間に引き入れることで非常に安心感を覚えていたようだ。ただし、ヒトラーは日本の実力を過大評価していた。1941年の下旬に日本政府が真珠湾攻撃を決定したことは、いわばじりじりと窮地に追い込まれた野生動物の反応だったのだ。日本にとっての喫緊の課題は、真珠湾攻撃の数ヶ月前に、ルーズベルト政権が全米の日本資産の凍結を行ったことだった。それには英国政府やオランダ亡命政府も後に続いた。 これにより日本の石油輸入は一気に90%減少し、対外貿易も75%減少した。

 広範囲で第2次世界大戦を戦った経験のあるカナダの歴史家、ドナルド・J.ゴッドスピードは、こう記している。

 「ルーズベルトの対応は本当に過激だった。経済戦争を宣戦布告したともとれるものだった。その月(1941年の7月)の終わりから、日本は自国に保存していた石油を使わざるをえなくなっていた。それは8ヶ月分しかなかったのだ。従って、日本の内閣がその状況を打破する他の選択肢を考えようとしていたのは驚くことではない。戦争を起こすことも含めて、だ」

 その12ヶ月前の、1940年の7月、米国政府は日本政府に対して航空燃料の禁輸を突きつけていた。この航空燃料は、日本は米国以外のどこからも手に入れることのできないものだった。そして、日独伊三国同盟締結の直前に、日本は資源不足を解消しようと、仏領北インドシナに侵攻した。北インドシナは、日本領内から約1000マイル離れたところにあった。

  日本政府の北インドシナ攻撃の理由が、不安に基づくものであることは理解できることであった。米国の歴史家であり活動家でもあるノーム・チョムスキーは、北インドシナに対する日本の姿勢について、こんな記述をしている。

 「真珠湾攻撃の目的は基本的には2つあった。一つは、蒋介石政権への物資供給を止めることであり、もう一つは蘭領東インドの石油を獲得する足がかりを得ることだった」

 中国の反共産主義者であった蒋介石は、愛国心を装った欲望のもとに、西側から支援を受け続けていた。中国の北東部にある鉱物産地を抱える満州などにおいて、中国人の愛国心が高揚することは、日帝にとっては脅威だった。

 日本の戦略の大部分は、蒋介石を支援しようというこうした西側勢力の考えに反発しただけのものであり、日本政府の対応にはほとんど特異なところはなかったと言える。

チョムスキーはこう概観している。

 「19世紀の半ば、日本は西側の軍事力の脅威のために開国した。そしてその後、近代化に向けて目を見張るような成功を収めてきた。それから、日本は東アジアの国々から搾取することで、他の帝国主義諸国の仲間入りをした。日本は台湾と朝鮮と満州南部を占領した。要するに、1920年代の終わり頃に、日本は近代政治用語でいうところの「民主主義国家」になり、大国として果たすべき役割を果たせる国になることを画策していたのだ」

 日本政府が大国として果たすべき役割を果たせる国になろうとしていたことは、西側により妨害され続けていた。1922年の2月、日本は米・英に屈し、ワシントン海軍軍縮条約を批准した。さらに8年後の世界大恐慌直後のロンドン海軍軍縮条約で日本は軍縮を強化するよう追い込まれた。

 米英の支配者層は、日本が自国領海内で支配権を握ることを許さなかった。一方で、米英政府は、自国については自国領内の完全支配を主張していた。

 日本に対する西側からの非常に厳しい締め付けが、1930年代前半から日帝軍内に極右勢力が台頭するひとつの要因になった。日本政府において、ファシスト勢力が権力を握る一方、(意志が弱いと見られていた)日本の文官層は、脅され、暗殺され、解任されることで、その発言力を失い始めた。

 日本政府の政治家たちが何よりも責められたのは、上記の海軍軍縮条約を批准してしまったことだった。

 日本の政治学者である丸山真男は、1932年時点の状況をこう記している。日本において、「過激なファシズムに向けて蓄積されていたエネルギーが一気に爆発した」。その動きは、1933年の2月に国際連合を脱退する決定を行い、日本が領土拡大に向かっていたことによりさらに高まっていった。

  1930年代を通して、西側の経済政策は日本のそれよりもずっとよくない結果を残していた。1932年の夏に、カナダの首都オタワで行われたオタワ会議には、イギリス連邦諸国のかなりの数の政治家が出席した。西側に基盤を置くよく知られているNGO団体、太平洋問題調査会(以降IPR)の報告によれば、4週間にわたる長い議論の主な結論は、「日本のリベラリズムに打撃を与える」ことだった。

 IPRの調査結果によれば、日本が直面しているのは、「鉄や、鋼鉄や、石油や、多数の重要な産業鉱物の深刻な不足」であり、さらに「錫やゴムの供給の大部分が不足している。太平洋地域の産地からだけではなく、世界中の産地からの供給が不足している。そして歴史上の事実として、それらの地域の大部分は大英帝国とオランダが領有している」とのことだった。そして、その領有地域は、その後どんどん米国に移っていった。

 オタワ会議で決められたのは、経済封鎖体制だった。そして、効果的にイギリス連邦諸国との貿易から日本を閉め出すことだった。米国政府も同様の閉鎖的な独立経済政策をとり、日本政府は利益を得ることができなくなった。

 日本は満州地方において、これらの独自経済網の真似をしようとしていた。満州地方は日本にとって当時欠かせない地方だった。日本政府は、1931年の9月の中ごろに満州を攻撃し、翌年傀儡国を作り、その地方を満州国という呼び名に変えた。今や満州国となった満州地方は、西側から支援をうけていた蒋介石のような中国の愛国者たちにとって大きな脅威であった。蒋介石は満州を中国領にしたいと思っていたのだ。さらに、満州地方は、北のソ連の動きを探査するレーダーとしての役割も果たせると考えられていた。

 1930年代が進むにつれ、米国は世界大恐慌からうまく回復しようとしていた。いっぽう日本の回復はそれほどうまくは行っていなかった。

  一例をあげると、日本政府は対インド貿易の拡大を常に目指していたが、1933年に西側がインドに圧力を加えたせいで、その努力が打ち切られてしまった。具体的には、日本からインドへの綿製品の輸入には法外な関税が賭けられることになったのだ。これらの関税は、日本の貿易商にとって決定的な負担となった。インドにおける日本製品市場は1930年代の前半までは安定して成長していたからだ。それまでは、日本にとってインドは、英国に侵略された「すばらしい宝物の国」であったのだ。

 日本の商工会は、資源豊富な島国のフィリピンに進出しようとしていた。その選択肢が少しうまくいきかけていたのだが、日本は、1935年10月、日本からフィリピンへの絹織物の入荷を2年間停止する協定を結ばされた。いっぽう、米国のフィリピンへの輸入品は、無関税のままだった。

 日本経済の発展が専門の米国の研究者ウイリアム・W. ロックウッドは、対比貿易における米国の優位についてこう記している。

 「米国の閉鎖的な経済政策が大きな要因となり、米国製品は優位な地位を確保できた。日本の企業家たちが米国と同じような立場で競争を行うことができたのであれば、貿易における日本の収益の割合が急速に増加したことは疑いのないことである」

 しかし、そうなることは許されなかった。幾度となく、日本の目的は西側発の金融政策により阻害された。さらに、日本製品に対する米国の関税率は100%を超えていた。

 日本の織物製造業は、差別的な政策により、特に厳しい打撃を受けたが、織物製造業は日本の総製造業収益のほぼ50%、総輸出品の約66%を占めていた。さらに、日本の織物製造業には、日本の工場労働者のほぼ50%が従事していた。

 日本は確かに発展国だった。しかしそれは、アジアの中では、という意味でしかなかった。日本は西側のライバル国からはかなり遅れをとっていたのだ。1927年から1932年までの間で、日本の一人あたりのエネルギー消費量はドイツの7分の1だった。日本の銑鉄の生産量は、ルクセンブルクの総生産量の半分以下に過ぎなかった。鋼鉄でさえ、ルクセンブルクの生産量は日本よりもすこし多かったのだ。

 また、西側は、支配下におさめているマラヤや、インドシナや、フィリピンにおいて、関税障壁を設定することで順調に利益を上げていた。日本政府がこのような状況を受け入れられる訳がなかった。
 
 1930年代の中盤になるころには、日本は米国との貿易が著しく減少したことにより、さらに苦境に陥っていた。その主な理由は、米国で大恐慌に対応する関税法が成立したからだ。近隣国である中国との貿易を続けようという日本の努力も、同様に著しく後退させられた。それは、西側の企業が中国の主要都市である北京や南京に入り込んでいたからだ。

 日本政府にかかる圧力は増していた。その結果、1937年の夏に、日本が中国を標的にして領土拡大を始めたことは、全く驚くことではなかったのだ。中国というのは、石炭や、石油や、天然ガスなどが豊富な国だったからだ。それらが、日本が必要としていたものだったからだ。

 さらに日本は、中国とソビエト連邦がより密接な関係を結んだことで、警告を受けることになった。その裏付けとなったのが、1937年8月21日に南京で結ばれた中ソ不可侵条約である。この条約は日本に対抗して締結されたものであり、締結後の数ヶ月後、ヨシフ・スターリンは中国に2億5千万ドルを援助金として与え、その補助金の使い道を「主にソ連製の武器の購入にあてる」よう要請していた。その結果、ソ連製の900機以上戦闘機、82台の戦車、大量のマシンガンやライフルや爆弾などが購入され、さらには1500人以上のソ連軍の助言者と、2000人程度の空軍の軍人が訪中した。

 日本が「東アジアがボリシェヴィキ化してしまう」ことを懸念したとしても全くおかしくはない。ますます募る外憂に直面し、日本の野望は抑えきれなくなった。1938年12月22日、日本の近衛文麿首相は、こう語っている。

 「中国が認識すべきことは、日本が支配している中国の内部地域においては、居住や貿易の自由が認められていることです。日本が目指しているのは、日中両国民が経済的利益をえることです」

 定説とは矛盾するが、日本政府が中国に対して長年期待していたのは、中国を丸呑みしたり、中国の大部分を手中にいれることではなかったのだ。

  チョムスキーは、日本が中国に対してどんな意図を持っていたのかについてこう説明している。

 「日本は中国に対して、合併したり補償金を得たりすることは考えていなかった。それとは別のやり方で新しい秩序を打ち立てようとしていたのだ。それは、中国と日本を西側帝国主義から守ることだったのだ。西側による不平等条約や治外法権と対抗することだったのだ。その目的は、日本を裕福にすることではなく、日中が協力することだった(もちろん、日本が主導権を握った形で、ではあるが)。日本は中国に資本や技術支援を提供すると同時に、原料の支給を戦略的手段として使う西側諸国への依存からの脱出を求めていたのだ」

 日本政府の要望の一つであった西側諸国への原料依存からの脱却が、日本が領土拡大をするという夢の基盤だったのだ。結局その夢は、最悪の悪夢に終わってしまったのだが。

 
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