■ 運命の韓国戦迎えた3戦目の韓国戦(@国立競技場)は、長い日韓戦の歴史の中でも、もっともヒートアップした試合の1つと言える。グループBは「日本と韓国の2チームの争いになるだろう。」という前評判だったが、韓国は2連勝して勝ち点「6」で3戦目を迎えたが、日本はアウェーでUAEに引き分けたため、1勝1分けで勝ち点「4」だった。この先のことを考えると、日本としては引き分けでは首位通過が難しくなる。勝ち点「3」の欲しい試合だったが、ずっと忘れられない一戦となった。
まず、日本にとって朗報だったのは、ブラジル人のFW呂比須ワグナーの帰化が認められて、日韓戦のメンバーに召集できたことである。当時のフォワード事情は、FW三浦知が「絶対的な軸」だったが、なかなかパートナーが定まらなかった。FW三浦知の1トップを採用した試合もあったが、やはり、2トップの一角で活きる選手なので、FW黒崎(鹿島)、FW長谷川(鹿島)などもテストされたが、結局、五輪代表でも活躍したFW城(横浜M)がレギュラーに抜擢された。
FW城は22歳で期待の若手フォワードだったが、フル代表では確固たる実績を残しているわけではなかった。初戦のウズベキスタン戦で4点目のゴールを決めているが、その前に何度も決定的なシュートを外している。得点力のあるCFを必要としていたので、FW呂比須ワグナーへの期待は高まっていたが、まさか、いきなり、日韓戦のスタメンで起用されるとは誰も思っていなかったので、スタメン発表で名前がコールされたときは凄まじい盛り上がりだった。
ただ、FW呂比須ワグナーという選手について、詳しく知っている人はあまり多くなかった。1年ほど前から「日本代表入りを希望している。」というニュースがたびたび流れていたので、期待する人は多かったが、1987年に来日してから、日の当たる場所でプレーして来た選手とは言えないので、「あまり良く知らない。」という人が大半だったと思う。そして、「よく分からない。」というところが期待値を異常なほど膨らませた要因の1つとなったことも事実である。
経歴を振り返ってみると、1987年に日産に入団して、1990年に日立(柏)に移籍して、1995年と1996年は本田技研でプレーして、「日本人への帰化が認められそうだ。」という流れが出来上がった1997年にJリーグのベルマーレ平塚に入団している。(スピードは無かったので、スルーパスを得意とするMF中田英との相性は良くなかったが、日本代表の攻撃の軸のMF中田英と同じチームでプレーしていたというのは、アドバンテージとなった。)
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◆ まとめ #639 ジョホールバルの歓喜から16年 (part2) (2013/11/17)
・運命の韓国戦
・巻き起こった「呂比須フィーバー」
・加茂監督の世紀のミス采配
・思い出に残る韓国の主力選手
→ 日本が初めてW杯の出場権を獲得したのは、1997年11月16日だったので、ちょうど16年が経過しました。そこで、ジェットコースターのような「スリル満点」だったフランスW杯のアジア最終予選の戦いぶりを振り返ってみました。(part1)から(part5)まで5回に分けて振り返っていきたいと思いますが、今回は2回目です。国立競技場がとんでもないことになった3戦目の日韓戦がメインとなります。
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