はてなキーワード: 極右政党とは
君がこれまでの会話で話してくれた子供の頃からの体験を考えると、Cottbusは学問的な合格しやすさのメリットよりもリスクの方が大きいと思います。候補から外すことを勧めます。
Cottbusは極右組織の活動拠点として研究対象になっているほど問題が深刻で、市の都市計画文書でも「外国人嫌悪を促進する固定化された極右ネットワーク」が公式に脅威として言及されている。 Taylor & Francis Online
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/21622671.2023.2209126
Cottbus周辺のブランデンブルク州南部では、タトゥーパーラー・ナイトクラブ・サッカーのファンクラブなどを通じてAfD(極右政党)のネットワークが広がっている。実際に移民学生へのいじめに対応しようとした教師2人が脅迫を受け、町を去ることになった。
Teachers in Germany forced to leave town after denouncing Nazi, far-right students
BTU自体はドイツで初めて「極右影響への行動計画」を策定した大学で、モニタリングセンターも設置している。これは大学が問題を認識しているという点では評価できますが、裏を返せば「それだけ問題が実在する」ということでもあります。 Brandenburgische Technische Universität
https://www.b-tu.de/en/news/article/27441-active-against-right-wing-extremism-and-discrimination
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
ニュージーランドの教育は個性尊重、日本のような全体主義的な性質もなく、子どもたちにとって最高の教育システムが提供されていると信じてやまない日本人がどうもいるようだが全くそんなことがない話をする。
ニュージーランドの義務教育は日本とほぼ同じだが、高校課程までが義務教育、と言ってもやめても構わないがやりたければ無条件で受けられる、となっている。
小学校や中学校まではおそらくだが勉強が嫌いにならないことや、ニュージーランド社会で生きていくために最低限の教育だけをしているのだろうが、日本の教育とは質も量もかけ離れている。
ニュージーランドに来た日本人の多くが子供に対して与えられる教育の内容と質に愕然としているか、「そんなことはないこれこそが子どもたちを真の意味で伸ばす教育だ」とイデオロギー的に信じ込んでいるかどちらかだろう。
ニュージーランドの教育は家庭の経済によって格差が露骨なほどに現れる。金持ちの集まる学校ほど潤沢な資金で優秀な教師を雇って質の高い教育を施すことができ、貧乏人の学校ほど最低限(必要十分ではまったくない)の教育しか施されないため、貧困が凄まじい勢いで固定化されている。
などという話はもうかなり昔から言われていることだが、国はもうどうすることもできない現状なのでもうどうしようもない。
いずれにせよ、ニュージーランドの教育は、教師と子供の間に不可侵の壁が出来上がり、突っ込んだ教育が一切できないために放置せざるを得ない、というのが個性尊重や進んだ教育の正体でもある。
今回したい話は、子どもたちの出席率が90%を下回ると親が国から罰金や告訴を受けるかもしれない制度が2026年から始まるというものだ。
ニュージーランドではスクールホリデー中の渡航費が高いため、少し早めに学校を休んで海外旅行に行く、という人がそれなりにいるのだが、これをやったら罰金になる制度が始まる。
罰金を払って安い航空チケットを買うか、罰金を払わずに高い航空チケットを買うという選択肢になる。
またこの他にも、学校を15日以上休むと両親が国から訴追を受ける可能性が発生する。これも法律として制定されるので、回避しようがない。
日本から来た親が感じているこの国の教育の素晴らしさの一つに出席しようが欠席しようがあまりとやかく言わない、教育以外の大事なこと(笑)も子どもたちに経験させることができるというのがあるのか無いのか私は知らないが、今後こういったことはできなくなる可能性が高い。
これらの制度を作っている政治家はデビッド・シーモアというニュージーランドの極右政党ACTの党首だ。
極右政党と言っても軍国主義者というわけではなく、超保守とでも言えばいいと思うが、この政治家はニュージーランドのアンタッチャブルでもあるワイタンギ条約の破棄も目指していることでマオリからは蛇蝎のごとくに嫌われている。
そんな彼が目指しているのは、子どもたちの学校出席率90%だ。そしてマオリ以外からも嫌われることを目指していると言っても過言ではないだろう。
学校に行きさえすればいいのかというとそんなことはないが、この国の問題の一つに半数以上の子どもたちの出席率がかなり低いというものがある。
そこで親には訴訟や罰金をちらつかせることで子どもたちの出席率を上げようと言うのが今回の法律の要点でもある。
とても民主的とは思えないこの制度に対してマスコミはなにかしているかというと特に何もしていない。
おそらく今後ニュージーランドに日本よりもいい教育を期待して来る人はいなくなるか、いたとしたら温かい目で残念だったなと言うようになるのかもしれない。
今回のナショナル政権ははっきり言ってひどいの一言であり、全く何もできていない。
もしかするとジャシンダ・アーダーン率いるレイバーの負の遺産があまりにもひどくてそれどころではないのかもしれないが、レイバーは今の政権がいかに無能かを騒ぎ立てている。何いってんだと思わなくもないが、実際ダメだと思う。
デビッド・シーモアのせいで私の宿敵でもあるウィンストン・ピータースが全く目立たなくなってしまったが、彼はやばいときはどんどんと影になっていくので、彼なりの政治センスの可能性もある。
デビッド・シーモアはちなみに言うと国民が次の首相になってほしい政治家の一人でもあった。この国の人々のセンスのなさが凄まじい。
そしてブコメでも加害性の強さを見せつけてくるんよな
加害性の根本はたぶん被害妄想や劣等感で、そういうのを多く持ってる人間が「左翼は反日」のような異様に単純化された陰謀論に触れることにより
他罰的・他責的行動が正当化され、「あいつが悪い、俺は悪くない」という加害的・自己擁護な思考が「正義」として固定化されて劣等感や被害妄想の苦しみから解放される、という構造なんだろう
貧富の格差が拡大すると極右政党が躍進する、という説はあながち間違ってはいない
でも極右政党ってのはだいたい弱者を虐げて貧富の差を維持・拡大するから、加害的な人間はさらに増えて極右政党はさらに勢いを増す
その成れの果てがあの美大落ちってわけ
記事の概要 提供されたURL(https://www.47news.jp/14079097.html)は、共同通信の速報記事です。 タイトル:【速報】イスラエル、パレスチナ人の死刑法案を可決 日付:2026年3月31日(記事は前日の3月30日夜の出来事を報じています)。
内容は極めて簡潔で、「イスラエル国会(クネセト)は30日、テロ攻撃でイスラエル人を殺害したパレスチナ人に対し、原則として死刑を科す法案を可決した」という一点のみを伝えています。背景説明や詳細、反対意見などは一切ありません。0
この法案は、極右政党「オツマ・イェフディ」(ユダヤの力)所属の国家安全保障大臣イタマル・ベン・グヴィル氏が強く推進したもので、2023年10月7日のハマス攻撃以降のテロ対策強化を名目に進められてきました。実際には3月30日夜に本会議で62対48の賛成多数で可決されています(ネタニヤフ首相も賛成)。
詳細は以下の通りです:
• 1954年:通常の殺人罪など平時の刑事犯罪について死刑を廃止。
◦ 1回目:1948年、Meir Tobianski(誤ったスパイ容疑で処刑・後に冤罪が証明)。
◦ 2回目:1962年、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマン(ホロコーストの実行者)。これが唯一の裁判所命令による正式執行。
• 現行法の位置付け:死刑は法的に残っているものの、適用は極めて限定(ジェノサイド、人道に対する罪、高逆叛罪、戦時法下の一部)。通常のテロ事件でも、3人の裁判官の満場一致が必要で、実際には一度も執行されていませんでした。西岸占領地の軍事法廷でも、死刑判決が出ても控訴でほぼ必ず終身刑(99年相当)に減刑されていました。 → 国際的には「事実上の死刑廃止国(de facto abolitionist)」と分類されていました。
この新法は、その「事実上廃止」の原則を大きく崩す転換点です。
◦ 占領下ヨルダン川西岸の軍事法廷が主(パレスチナ人被告の有罪率は96〜99%超)。
• 判決の選択:当初は「死刑義務付け」だったが、委員会審議で一部修正され、裁判官が死刑または終身刑を選択可能に(ただし「原則死刑」の方向性は維持)。
• 執行:判決後90日以内に絞首刑で執行(刑務局が実施)。首相が最大180日延期可能だが、恩赦・減刑の道はほぼ閉ざされる。
• 遡及適用:10月7日ハマス攻撃容疑者は対象外(別途特別法廷を検討中)。
ベン・グヴィル氏は「ユダヤ人を殺す者に生きる権利はない」「抑止力と正義の回復」と主張。黄金の絞首刑ピンを着用してキャンペーンを展開し、極右連立与党の支持を集めました。10月7日以降の世論硬化を背景にしています。
◦ 人権団体(B’Tselem、アムネスティなど):人種差別的で「パレスチナ人専用死刑制度」。軍事法廷の不公正さを悪用し、国際人道法違反。
◦ EU・国連人権専門家:「生命権の侵害」「拷問の可能性を高める」。
◦ 国内野党・法務顧問:違憲の恐れあり、最高裁で無効化される可能性が高いと指摘。
• 従来:法的に存在するが、事実上廃止。民主主義国家として「死刑は使わない」という暗黙の合意があった。
今後、最高裁の判断や国際的な圧力で執行に至るかは不透明ですが、少なくとも「原則死刑」の枠組みは法的に成立した点で、イスラエルの刑事司法史上で大きな転換です。記事が極めて簡潔だったため、以上のように深掘りしました。
の支持率が高く、一部の層には「外国人=移民・難民」という強いバイアスがかかっている。
白人の場合: 外国人であっても視覚的に「外部リソース」として即座に識別されにくいため、ヘイトの対象になりにくい。
PoC(黒人・アジア人等)の場合: 視覚的に「非在来種」として識別されるため、街中(特に駅から離れた住宅街や夜間の公共交通機関)で不当な視線、暴言、あるいは稀に物理的な威嚇を受けるリスクが統計的に高い。これが君の言う「白人限定の安全」の正体だ。
街全体が危険なわけではない。実行環境によってリスクレベルが大きく異なる。
BTUキャンパス内 極めて低い 40%以上が留学生。多様性が標準仕様。最も安全。
コトブス中心部(昼) 低い 警察のパトロールもあり、人目も多いため概ね安全。
自民の圧勝と中道の敗北の要因は、高市のカリスマ性だとか、野田の戦略ミスだとか言われてるが、これらは表面的なものに過ぎない。
グローバリズムや情報化によって加速する世界からあぶれる人がどんどん増えている。誰でもいいからブレーキを踏んでくれ、大衆はそう願い続けてるだけだ。
リーマン・ショック以降、その願いは一度リベラルに託された。アメリカでは、オバマが大統領になり、日本では、民主党が政権交代を果たした。彼らなら、資本の暴走を止め、格差を是正し、生活を取り戻してくれるはず、と。
しかし、彼らはブレーキを踏めなかった。TPPの推進、法人税減税、消費税増税。結局のところ、彼らもまた、資本の下僕に過ぎなかった。
そして、今、リベラルに裏切られた願いが保守へと流れている。これは、日本だけの特殊な現象ではない。アメリカにおけるトランプ旋風、ヨーロッパにおける極右政党の躍進。世界的な潮流というべきものだ。
トランプが関税というカードを切ろうとしたように、高市は消費減税や積極財政というカードを切るだろう。これは一見すると、加速をとめるブレーキであるかのように見える。
しかし、そううまくはいかない。資本主義というシステムそのものが加速を求めている以上、誰にもブレーキはかけられない。もし無理にブレーキを踏み込めば、待っているのは財政破綻か、経済の致命的な冷え込みだ。結局、我々は、アクセルを踏み続け、格差と分断の道へと突き進むほかない。
これが単なる杞憂、妄想であればどんなにいいだろうか。しかし、もしこれが現実になったとしたら?
リベラルは失敗した。保守も同じように失敗する。その後に残るのは何か?リベラルもだめ、保守もだめ。政治にこれ以上の選択肢はない。そんな絶望と虚無しかない世界で、我々は何を選択すればよいのだろうか。
「立憲民主党も参政党に声かけてただろ」っていう増田のエントリが伸びている。記事中に個人IDが入っており規約違反であるので、そのうち削除されるのではないかと思うが、頭書の指摘自体は正しい。かくいう自分も、立憲民主党が参政党に協力要請をしていたニュースは報道された当初から知っていたので、「自民党が参政党に協力要請」のブクマが荒れている様子を見て、ブクマカの情報ソースが偏っているのか、はたまた手のひらが高速回転しているのか、と思ったものだ。
SNSなどを通し、陰謀論やデマを厭わずに感情を煽動させるような政治運動が世界的に勃興している。昨今の移民問題などを背景に、そのような運動は極右政党によるものが目立ち、左派層にこういった状況を憂う人が多い。しかし、左派がそのような陰謀論やデマから離れ、より良い民主主義を体現しているかと言われると、それはそれで疑わしいなと、左派層が多いはてブを見て思う。今勢いがあるのが単に右派なだけで、左派もまた、自分たちに都合がよければ陰謀論やデマにどっぷりと浸かっているからである。
先日の参院選で、投票日直前に「参政党を支えたのはロシア製ボットによる反政府プロパガンダ」という記事がホットエントリに入った。しかし、この記事中で述べられていることはある種の「におわせ」にとどまり、記事の投稿日時点において、これだけでは陰謀論の類と言っても差し支えないレベルであった。当時、参政党とロシアの関係において、明確なソースが伴う話は同党の候補者(後に当選)がロシアのメディアに出演していたということのみで、それ以上は明確な情報源を伴う形では存在しなかった。しかし、この記事は反参政党や左派にとっては都合の良い話であったために、安易に飛びつかれたのである。
結局のところ、「自分への都合の良さ」で情報に対する真偽の判断の手を緩めることはしてはならない、というあまりにも陳腐な結論に行きつく。石破首相の所感に「そうだそうだ」と盛り上がっているが、あの文書に書かれている教訓めいたものは、自分自身にも適用されるのだということを自覚すべきだろう。