はてなキーワード: 自動車電話とは
そこで暴走族の車バイク、通称族車のトンチキなデザインがどっから来てるかを説明しようと思う。
増田は暴走族やヤンキーじゃないがはてなー平均よりはヤンキー文化に近いってくらいだ。
それじゃあ行くぜそこんとこ夜露死苦。
まずは「google:image:族車」で画像検索してくれ。
さて全然速く走る事に頓着が無いというか速く走れない族車デザインだが、元はレースカーや街道レーサーの特徴をコピーしていた。
だがそれらの文脈を考えずに合体され、更に右翼ファッションの流入によってスピードの文脈が無くなって形だけが意味を持つようになった。
でもファッションというのはみんなそうであってWWIの塹壕戦防寒軍服がビジネスシーンでの正装になったり、ゴールドラッシュの作業着が反抗の象徴になってカジュアルで定着したり、警官の防護服がハードゲイシーンで流行してからカジュアルになったり、と元の文脈が無くなるのはヤンキー文化だけじゃない。
新聞社に使役されていたプレスライダーである。プレスは報道の意味で事件現場で報道陣がしてる腕章に書いてあったり新聞輸送のトラックに書いてあるあの「PRESS」だ。
元々、速報性が重視される新聞社で取材記事の迅速な伝達を支えていたのは伝書鳩だった。新聞社では屋上に鳩舎を設置して多数飼育しており、記者は取材の時に鳩を連れて行った。現場で記事を書いてそれを鳩の脚に括りつけて放すのである。鳩は帰巣本能でかなりの高確率で社屋屋上に帰着する。
伝書鳩は1960年代、昭和40年頃には廃れるのだが、代わって登場したのがプレスバイクだった。
ところで何で電話じゃないの?というと、電話も使われていた。だが「市外局番」が出来たのが1965年、昭和40年頃なのだ。
これがどういう事かというと、市内を超える通話では交換手を通していた。だが事件が起きると記者が押し寄せ、役所や会社でも市外通話が急増するので交換手がパンクして延々と交換待ちになってしまう。つまり通話が困難になるのだ。この為に警察は早くから警察電話という専用線を整備していた。
プレスバイクは原稿や写真フィルムを受け取って現場から新聞社、若しくは駅でリレーして列車経由で社へと迅速、というか猛烈な速度で運んでいた。
そもそも当時のバイク乗りっていうのは不良である。そんな不良が、新聞記者、これも当時はブンヤで柄が悪く反体制的な気骨がないと務まらない職だった、そのブンヤに使役されて街道レーサーのような危険運転でぶっ飛ばしていた訳だ。勿論公道最速である。
こういう公共性と不良的な特性の硬派な組み合わせというのは今でも映画のモチーフになるし、憧れを産む。
という訳で、以下のようなプレスライダーの特徴が族車に取り入れられ、やがてスピードの象徴から遊離していく。
族車バイクはパイプハンドルを思い切り絞って手前側に持ってきたデザインが特徴だが、これはプレスライダーが上向きハンドルにしていたのに由来する。自転車と同じく、パイプハンドルでは固定ネジを緩めるだけでハンドルの角度を変えられる。
プレスライダーは渋滞では足をついて右に左へとすり抜けをするので、上体が起こせて視界が良く、車体を傾けてもハンドルが遠くならないアップハンドルにしていた。
プレスライダーは上記の通り足をついて渋滞すり抜けをするので、足つきが良くなるようにシートの「あんこ抜き」をしていた。着座部分のシートのスポンジを削って取ってしまう加工である。今でも背が低いバイク乗りはこの加工をする。
すると前後方向にも段が出来てニーグリップ(両足でタンクを強く挟むこと)しなくても前後に安定するという効果も出る。
族車はこれを大げさにして後ろに更に段を増やしたシートに交換したり、更にハーレーなどのシシーバーと合体した長い背もたれに繋がるデザインの三段シートになっていった。というか、ヤンキー相手の商材扱う会社が段々過激化していったのが原因だな。
プレスライダーは仕事なので冬でも走る。そこで後付けの風防を付けていた。元々実用品なのでカッコいいもんじゃない。
だがそれが「硬派」の記号となって族車に取り入れられた。
今やってる会社は無いが、昭和後期まで社用車というのは鉄製前部バンパー角に小さな掲揚ポールを付けて社旗を掲げて走るのが多かった。今は歩行者安全の為に前方に突起物を付けるのは車両法で禁止であり、宮内庁の御料車や総理大臣車以外はやっていない。
プレスバイクも新聞社の庸車なので前輪に垂直ポールを立てて「PRESS」のペナント(三角旗)を、更に四角い社旗も併掲するケースもあった。とんでもないスピード違反してても(プレスライダーは常に速度違反)警察はPRESS旗と社旗を認めると取締りしなかった。
暴走族の前身はカミナリ族じゃなくて街道レーサーのチーム(イニDの赤城レッドサンズみたいなの)なのだが、このスタイルが真似されてチームの旗をつけるという形になる。
これが1980年頃から「硬派」の文脈が右翼ファッションに転じた。この右翼とは1960年代の全共闘運動に対抗した新右翼で、80年頃には軍服着て国防色街宣車で軍歌を流し、軍旗である旭日旗を掲揚するという軍国主義憧憬路線が確立されていた。
ところでこの旭日旗は「プレスライダーのまね」路線ですでに族ファッションの中にあった。それは朝日新聞の社章でお馴染みだったのである。
故に既存のプレスバイクの社旗模倣の上に右翼ファッションの軍国標榜が自然な流れで合わさる形となった。
前輪の掲揚竿は大きさが制限されるので、大きい旗を後部に付けたり、二人乗りの後部乗員が手持ちするようになったのである。
この名残で、旗が付いていない棒を前輪から斜め前に突き出している族車もある。
同様の理由でタンクへの塗装や服のプリントへと波及していく形になった。
こんな風に族車デザインに過大な影響を与えたプレスバイクだが、盛者必衰で1980年代になると衰退して報道の現場から消えて行ってしまう。
置き換わったのは出先で使えないFAXじゃなくて無線と自動車電話だった。どっちも大きくて自動車必須で、汽車+バイクから自動車に置き換わったのだ。両方とも無線兵みたいな箱を担いで運用する。
それで職にあぶれたプレスライダーが流れた先は2つあって、一つは競馬/競艇新聞の運搬。予想欄の関係でレース当日に入稿されるので印刷所の前に多数のバイクを並べて待つ。刷り上がった新聞をバイクの後ろに括りつけて馬券売り場や競馬場の売店に急いで持って行くのである。
ただこれはレースが日曜しかやってないから臨時バイトの面が強い。
もう一つがバイク便で、オフィスを回って営業する。NYの自転車メッセンジャー便のバイク版だ。
こういう経緯なので初期のバイク便はプレスライダーと呼ばれていた。FAXが普及してもサンプル品の急送とか木型(鋳造で使う型)とか需要は多くあったが、白ナンバーの違法操業のところが多かった。
中にはちゃんと法人成りして営業免許を取り緑ナンバーにして特殊分野でのニッチを獲得したり、後に医薬検体輸送→検査会社と進化して自治体の出資を受けて三セク化したところなどもある。街道レーサー崩れからの地道なステップアップ人生であるな。
これは画像を見てもらった方が早い。こういうの暴走族で走ってるやろ? https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/26/Nissan_Silvia_Silhouette_Formula_001.JPG
量産車のガワだけを使って、中はエンジンも足回りもフレームも全部変えていいよという規定のレース車区分だ。シルエットだけ市販車で中は純粋レースカーなので「シルエットフォーミュラ」という。
これは日本では御殿場の富士スピードウェイと筑波サーキットでレースが開催されていた。
特に富士スピードウェイでは「富士グランチャンピオンレース」というシリーズレース(全戦富士SWでの開催)が人気を博していた。走っていたのはルマン24時間みたいな形のレースカーだった。
このレースの前座としてシルエットフォーミュラが開催されていて、こっちは街で見かける市販車ベースで無茶な改造がされているのでこっちも大人気、更に自分の車を同じように改造するのが流行したのだ。
族車で出っ歯にするのはこのシルエットフォーミュラの真似を大げさにしたものなんである。
更に初日の出暴走を「グラチャン」という理由も判ったかと思う。シルエットフォーミュラ風の改造をして富士山の方、即ち富士スピードウェイがある御殿場方面に東名高速を走っていくからグラチャンなんであるな。
因みにあの出っ歯は貧乏暴走族などではベニヤ等で手作りしてあり、強度が低いのでボンネット辺りから針金で吊ってある。
そんなヤワな造りのものが走行風に耐えられる訳もなく、ほぼ必ず途中ではがれて取れてしまう。または出発地近所の踏切でぶつけて引っかかってしまい、電車が来たら危ないので周りのおじさんや善男善女に助けてもらって出っ歯を踏切から撤去してもらい、「危ないよ~」とか言われてるのである。出っ歯も手作りで温かみがある上に重ねて温かみのあるエピソードである。ハリボテエレジーの如き侘び寂びの趣きだ。
で、出っ歯が無い普通の車として他の族車と一緒に東名を走っていくと、途中で交通機動隊が集中取締りをやっていてFRPの高級出っ歯車は皆とっ捕まってしまうが、手作りシルエットの方はなにしろ普通車に戻ってるからそのままスルー。
これは他の出走馬が前部倒れた後にハリボテエレジーが壊れた馬体というかダンボールを引き摺り走ってきて完走するのを彷彿とさせる。大穴である。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tomoya.dev/posts/the-easiest-web3-textbook-is-really-bad/
や、それ以外もそうなんだけど、著者は非常に抽象度の高いマクロな視点からざっくり語っているので、ミクロな面では実態と異なるのは当然なんだよ。
著者が「地球は丸い」とざっくり言ってるだけなのに、
やれ富士山があるから丸くない、日本海溝があるから海の水全部抜けば丸くない。みたいな頓珍漢な批判が横行している・・・。
地球が丸かったら、下側の人は落ちちゃうじゃんwプークスクスしてる人すら居る。
そりゃすべての規格はオープンなんだし、自宅に2台のPC同士でLAN組んで通信させることもできるし、
なんなら自宅のサーバをインタネット上に公開することだってできるんだから、ミクロな面では独占されてないでしょうよ。
だけど、何か実用的なサービスをやろうと思ったら、結局、グーグル・アマゾン・マイクロソフトのクラウド借りる羽目になるじゃん?
3社に独占されてるじゃん!
そこに、さくらのクラウドやGMOクラウドや、その他の泡沫クラウドを加えたところで、世界規模でみてもせいぜい数百社くらいにかならないでしょ。
Web3 になると、ネット接続されたすべての端末が事実上のサーバサービスの提供者となるので、
究極的な未来では誰も大手クラウドサービスを借りる必要が無くなる。
自分の端末がオフラインの時でも、その時オンラインになっている端末が肩代わりしてサービスを提供し続けるし、
逆に自分の端末がオンラインになれば、他のオフラインの端末の肩代わりをちょっとだけ負担する。
今はまだ過渡期だから、大手クラウドと縁を切れる状況では全くないけれど、IPv4が使われなくなるころには、
そういう世界に代わってるはず。
別増田さんも書いてくれている ( anond:20220722005048 )けど、
究極的な未来では、ネット接続されたすべての端末が協働して一つの仮想的なハードウェア基盤を作り上げるので、
今はまだスマートコントラクトという、それこそ原始的なアセンブラレベルのコードしか動かないけど、
IPv4が使われなくなるころには誰も意識することなく、ブロックチェーン上に構築されたOSを使うことになります。
携帯電話が無かった時代に、電話を持ち歩く話をしたら、電話線どうすんだよwwwみたいにみんな思ったじゃないですか。
自動車電話が出来た時、あーはいはい。無線使うのね。移動中は通話が切れるから止まって話すの?だったら公衆電話使えよwwwとか言ってたじゃないですか。
それが今では、誰もが電話を持ち歩き、その電話の上でOSが動き、いろんなアプリ使いこなしてますよね。
これとかもそうだが未だに日教組による教育被害が云々という言説がまだ見られるんだが。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1536206227939950592
この際ちょっとその言説の経緯をまとめておくよ。
この言説のキーマンは小林よしのりなんだがそこに至るまでを説明しないといけない。
日教組が昭和22年に結成されて昭和30年代には組織率8割以上を誇って…というのはWikiとかで勉強してくれ。
右翼による日教組批判が特に熾烈を極めるようになったのは1980年代の後半からなのである。
街宣車で大音量で日教組!日教組!と怒鳴っているので一般の人の日教組の知名度はこの辺りで上がった。そもそもノンポリの人は学校の先生の組合なんて知らんもんである。但し右翼の一般受けは悪かったので日教組の評価は下がらなかった。
また日教組が集会を開くと周囲に街宣車が多数集結して大音量で軍歌を流し音圧を競うようになった。
すると近所の会社は仕事が全くできない。電話どころか窓を閉めても耳を塞がないといけないような状態だ。
でも日教組の知名度が低く、どこで集会をやってるかも判らないので右翼の評判が下がるだけだった。
こういう極端な抗議行動が流行した背景には当時の政治的社会的状況があった。
その一つは「デタント」で、もう一つは「任侠右翼の増加」である。
右翼が何と戦っていたかというと、その最大の敵はソ連だった。これは街宣右翼だけじゃなくて神道系の右翼も統一教会も皆同じだ。
だが1985年にゴルバチョフが書記長に就任するとどうにもならないほど疲弊したソ連の改革政策、ペレストロイカを推し進める。最初は大した変化はなかったが、チェルノブイリ原発事故以後は情報公開も進め、世界を巻き込みながら怒涛のように変化していく。
それによって西側ではゴルバチョフの歓迎ムードが高まり、要するに憎むべき敵性国家で無くなっていったのである。
更にソ連共産党は活動を停止し、遂にはソ連が無くなってしまった。
これは右翼陣営勝利のはずだが、困ったのは攻撃する敵を喪失してしまった事で、自分らのアイデンティティの根幹の喪失でもあった。鈴木邦男はソ連崩壊時に「これは僕らの問題だ」と語っている。アイデンティティ喪失に苦しむのか、敵の乗り換えをしてアイデンティティを保持するかという含みがある。結局鈴木は敵の乗り換えには乗らなかった。
また、街宣車での街宣はやりすぎて体制側に対策が出来てしまった。
まず憲法違反の疑いもある静穏保持法が施行されてしまったので外国公館などの特定箇所で大音量を出すと逮捕される。
またソ連大使館前の道路は街宣車が近づくと全交通遮断される。言っておくがソ連大使館前の道は外苑東通りという都バスも走る幹線道路である。当時は街宣車のせいで道路が遮断されたりそれで周囲が交通マヒしたり運行経路が決まっているバスが20分以上立往生なんて事はザラだった。
こんな風に最大の敵であるソ連がやたら腰が低く物分かりが良くなった上にソ連大使館に街宣掛ける事も出来ない。
という事でこの時期に日教組の悪質性が増加したのではなく、ソ連の変化とデタントの為に日教組批判が熾烈となったのである。
まずそもそも右翼だが、元はヤクザとの明確な区切りは無かった。これは土建屋、鳶や水商売やテキ屋も同じだった。
戦後の右翼は、例えば児玉誉士夫など体制と癒着しそれは米国に従順という事でもあった。
1960年代末に左翼の学生運動が盛んになるとこれに対する体育会と右翼学生が組織されていった。新右翼と呼ばれる。
新右翼の特徴は反ソ反共ながらも反体制、反米である事だった。これは当時の世相や全共闘運動に影響を受けている。
ここを境に右翼系の政治結社が誕生して行く。そしてそれらは「街宣車で軍歌を流し辻説法をする」というスタイルを確立していく。
この街宣車は最初は旧軍や自衛隊の国防色(カーキと灰色:バトルシップグレイ)だったのが後述の事情で威圧感の強い黒塗りになっていく。
よく「街宣右翼」とネットの一部で言われるが、1980年頃から右翼政治結社は街宣車スタイルをみな踏襲しており、それ以外はないような状態だった。ヤクザっぽいがはじめの方の新右翼にはヤクザとの殊更の関係はない。
因みに日本会議の中央の人士らはこういう街宣ではなく、就職しないで大学に残り学生運動を続けた人たちである。
80年代になると校内暴力で学校が荒れ、ツッパリ型不良が大増殖して暴走族も大増殖した。また暴走族の右翼感染が進んだ。特攻服や旭日旗が暴走族の印となったのもこの頃だ。不良or大人への反抗=右翼ファッションだったのである。
こうして右翼≒不良≒ヤクザが緊密化したところで任侠右翼の街宣参入が増えたのだが、もっと大きい商機的な問題があった。
思想右翼の主な資金源というのは機関紙の販売である。これは志を同じくする人からの購買もある。
が、もう一つのパターンは不正や思想的に看過できない行いをした法人へ抗議街宣をして、その手打ちとして機関紙の購買を取り付けるという方法がある。
ヤクザが参入する主目的は後者の方で、民事介入暴力の支払い手段として機関紙購買を取り付ける為に政治結社を立ち上げるのである。民事介入暴力というのは殴ったり蹴ったりじゃなくて、企業の商業活動に暴力団が威圧をもって参入する事だ。
企業恐喝に街宣車を利用するのだ。国防色より威圧感がより強い黒塗りが主流になっていったのはこの為だ。
暴力的手段を行使されないようにみかじめ料として機関紙を購読する会社も多く、大変な出費になっていた。
因みに総会屋も同じことを70年代にやっており、機関紙/誌の執筆者編集者需要が高まり、学生運動で就職が困難になった学生運動家が多数その仕事に就いた。総会屋の多くは内容には口を出さなかったので社会の不正を糾弾する記事を書きまくり、総合誌ブームが起きたが、80年代初頭の商法改正で総会屋が潰されると大方廃刊。
だが技能を身に付けた者は大手メディアでフリーランスとして雇用された。リベラル/左翼ライターには総会屋の手先出身が結構居たのである。
こういう訳で街宣右翼業界は膨れ上がり、日教組の集会や8月9日の反ソデーには黒塗りのハイデッキバスが大挙して集合し爆音で軍歌を流すようになった。それまでのライトバンやタウンエースにスピーカーつけてる貧乏右翼とは大違いだ。
ハイデッキ観光型バスというのは6000万円以上する。それの座席を取っ払ってラウンジ型にしてシャンデリアやカラオケ、自動車電話、冷蔵庫とバーカウンターをつけて車検を通したら1億を超える。それに自民党や共産党のようなプロの街宣用スピーカー、アンプを搭載して、北方領土の日にはフェリーと陸路で釧路とかの空港に回送しておくのだ。組員は飛行機で向かってバスに乗り納沙布岬に向かって「露助この野郎」とかやって帰るんである。
しかも一社あたり3台とか6台とか持ってるのだ。沢山来すぎて根室は渋滞になるほどだ。当時の任侠右翼の羽振りの良さが判るだろう。
ハリウッド映画でもジャパニーズヤクザが描写されていた頃で、特に企業活動への威圧的介入は警察に問題視されていた。
そこで暴対法が施行される事になる。これは大抵の暴力団を社会的に殺す大変大きな力がある法律だった。
伊丹十三のミンボーの女には暴力団が右翼の街宣車で企業恐喝に来るシーンがある。この映画は暴対法施行直後に公開されたので同法施行で先を案じているヤクザを大いに怒らせる事になって伊丹はヤクザに襲撃されて重傷を負ってしまった。
余談だが、この時伊丹を襲撃した組は後にJR東本社前の土地を巡って殺人事件を起こした。JR東本社は道路に面しておらず、また同社は本社付近の建物を次々に押えているのだが、購入すれば都道と面して建築基準が大幅緩和されるその土地に手を付けなかった。それほどヤバい土地だったのだな。
ちょっと長くなったが、「えせ右翼は在日朝鮮人が右翼の評判を下げる為になりすましてる」とか噴飯物の事をいう人が多く居る界隈なので一応説明した。
えせ右翼とは一般には上記のように民事介入目的でヤクザが運営して構成員も被る政治結社の事だ。もっと硬い警察用語では「右翼標榜暴力団」という。
こうして
となってソ連に勝利したはずなのに右翼/保守業界というのは停滞してシュリンクしてしまう事になる。
そして当業界では超直的なそれに代わって冷戦後政治リアリズムを中心に多様性がある論説が流行するようになった。産経新聞のコラム「斜断機」が柔軟で面白くて単行本化されてしまうような時代だ。因みに吉本隆明の門下生が多く書いていた。
そんな中で反共反ソイデオロギー一本の人らには居場所が無い。ソ連無き後に残った残存敵性勢力の日教組をひたすら叩きながら閉じた業界で腐っていたのである。
当時は欧州もみな社民政権でリベラル人気で冷戦後の世界情勢にも楽観的だった時代だった。
400歳の年の差wwwwwwwwwwww
はおいといて、あまりさっくり完結されると思い残すことがなくなりすぎるので
「読者とともに成長する」マンガもいくつかはあっていいとおもうよ、
いくつかはね!
ちなみに季刊誌の小説ウィングスにのってる長期連載は20年とかザラだよね?
たぶん鴉ってええっと…22周年くらいじゃね?
それだけの年代幅で飽きられないってことはやっぱりすごいことだよ。
あと今テレビでやってる全てがFになるは、ああみえて携帯があまり普及してなかったころ
(PHSからの移行期で、携帯が目ざわりとか携帯うるせえとかマナーがとか散々いわれて、
特に個性派作家が「主義として持たない」ことをエッセイにとくとくとかいてた)にかかれたお話。
今なら当然まがたしきはスマホを魔改造してそうだよね。ジョブズを裏から操ったり。
ガラスの仮面に携帯電話が初めて出た(社長が使った)ときは読者全員大喜び。
魔が差したのですよ。
Nexus 5(SIMナシ)の方が画面大きくてキビキビ動いて使いやすいから、あんまり使っていなかったのは事実です。
回線は解約していないので、iPhoneからぶっこ抜いたnano SIMを、変換アダプターに載せてNexus 5に挿せば通話はできます。
でもたぶんしませんね。
IP電話? アレ音質最悪じゃないですか。
ええと、残債とかはないです。ん? そういう問題じゃない? キミ、正しい!(破顔)
私は携帯電話が嫌いなのですよ。
携帯って何の予告もなくいつでもどこでも鳴るじゃないですか。
無茶苦茶ウザいですよ。
固定電話しかなかった時代を知る世代にとっては拷問みたいな機械です。
あの百科事典みたいな自動車電話を始終持ち歩いているような心地です。そりゃ売るわ(違う)
それにスマホアプリの通知をすべてOFFにしているほど、私はノイズ耐性絶無なのです。メールクライアントさえプッシュでもフェッチでもなくOFFにしています。
あと寝るときはいつも、場合によっては起きている時も耳栓しています。ちょうどeBayで100pair……あ、うん? 今後の身の振り?
どないしよう……
「消費電力をバブル期の水準に戻せば、原発は全廃できる」という人がいる。
確かにバブル期の消費電力は今の3/4程度だから、ちょうど原発を無くしたぐらいの発電量で賄えるだろう。
じゃあ我々がバブル期にどんな生活をしてたか、具体的に列挙してみよう。
まず、ごく一部の金持ち以外は携帯電話(自動車電話、ショルダーホン)を持っていなかったし、
ISDNが始まったのが1988年で、電話回線にモデムを繋げられるようになったのが1985年。
パソコン通信が始まったのがこのくらいの時期。衛星放送はまだ始まっていなかった。
ビデオデッキと電子レンジがようやく半数の家庭に普及した程度。ウォシュレットがある家が珍しかった。
エアコンも一家に一台あればいい方。今みたいに全部の部屋にエアコン付けてる家庭は稀。
家庭用ゲーム機も、今みたいに100Wぐらい電気を食うPS3ではなく、4Wしか電気を食わないファミコン。
会社で仕事するときも、社員全員に1台づつパソコンが行き渡っているわけではなく、
コンビニの店舗数は今の1/4くらいで、ドン・キホーテのような24時間開いている店は珍しかった。
駅にはまだ自動改札がなく、駅員が鋏で切符を切っていた。地下鉄はまだ冷房車がなかった。
青函トンネル、瀬戸大橋が開通したのが1988年。それまではフェリーや連絡船を使っていた。
南北線、大江戸線、副都心線、りんかい線、ゆりかもめ、成田エクスプレス、長野新幹線等の路線は未開業。
何もかもがそのまま20年前に戻るわけではないとしても、消費電力を当時の水準に戻すのは、
実はものすごく大変なことなんじゃないか?
とっくの昔に旬は過ぎて廃れたはずだったので、増田でこっそりと。
※
想像してみて下さい。
24時間365日、数十メートルの誤差範囲でどこに居るのかリアルタイムで監視されて、
どこで何を幾らで購入したのか監視されて、
何時何分にどの交通機関を使って移動したのか監視されて
何時何分から何分何秒間、オンライン上で誰と話していたのか監視された世界。
どう思いますか? そんな世界ですごしてみたいと思いますか? それとも最悪な世界ですか?
まるでジョージ・オーウェルの「1984年」の世界ですか?
この世界は、実は
「お財布携帯&携帯SuicaにしたFOMAの電源を入れて持ち歩いている」
風景を言い替えてみただけです。
携帯を持たない人が少数派の今、大多数の人は既に監視された世界ですごしています。
携帯電話が当り前になったという事を認めていることは、監視社会を受け入れている事となんら変わりありません。自動車電話やショルダーフォン、ポケベルからざっと20年で、人々は監視社会を難なく受け入れるようになりました。
想像してみて下さい。
例えば、ニコニコメガネで道行く人を見ると、その人が着ている服のブランド名と値段が即座にポップアップ表示され、クレジットカードと連動して、その人が履いている靴のデザインで自分サイズのをオンラインで購入する風景。
無差別美人コンテストも行われていて、その人が100点満点で何点か点数付け、相手も同様に点数をつけてアップロード。リアルタイムで順位もフィードバック、なんて風景。
道行く人が、周りからどう思われているかをタグが付いた状態で見られる風景。
…これから5年後か10年後か分かりませんが、そんな世界を難なく受け入れる時代が、本当に来ないと思いますか? 実際の1984年ではまだ自動車電話しかなかったのに、それから24年後の現在は大多数の人が発信機を持たされていても何ら不快に感じない、監視社会を受け入れている時代なのに。
※
『イジメの構造があったなら、対象者がイジメではないと考えていても、それはイジメである』
例えば、
「その気ではない妻に対して夫が性交渉を行ったら、夫婦だとしても強姦罪が適用される」
「マゾが合意したSM行為は傷害罪が適用されない」(傷害まで。死んでしまった場合は合意の上でも罪になる)
といった事例には、既に判例があります。それで、
「イジメの構造があったなら、対象者がイジメではないと考えていても、それはイジメである」
という人たちは
「夫婦という構造があるから、妻が強姦だと考えていても、それは強姦ではない」
「傷害の構造が成立しているので、マゾが合意していても、それは傷害」
と本気で考えているのでしょうか?
個人的な不快感を示すのはご自由にどうぞ。それが一般的だと推し進めて強要するのは御免蒙ります。
※
『無題』
私は電話に出るのが下手です。
小さいころ、今のような携帯電話なんて世の中に存在しませんでした。自動車電話を持っているお金持ちは存在しましたけど。
「はい、ますだです」
「おかあさんはいらっしゃいますか?」
「おかあさんはかいものにいっています」
ところが世間が物騒になったのかなんなのか、「間違い電話」が手段として使われるようになりました。空き巣が在所確認につかったり、名簿屋がデータの隙間を埋めようと電話をかけて来る時代に。
彼らに情報を与えぬよう、親から「はいもしもし」と応答するように再教育を施された私は、電話口で名前を名乗らなくなりました。
「はいもしもし」
「もしもし」
「はい」
「ごようけんはなんですか」
「本日は金融商品のご紹介ということでして、お母様かお父様はご在宅でしょうか?」
「うちはたなかさんじゃありません」ガチャリ。
時代は進み、携帯が流行します。PHS「安心だホン」を持たされた私は、3箇所にしか電話をかけられないほぼ着信専用であるため、人にほとんど電話番号を教えませんでした。かけてくるのはほぼ全て家族です。名乗る必要がありません。
「はいもしもし」
「もしもーし」
「おかあさん、何?」
大学を経て、就職。ビジネスマナーを叩き込まれ、部署の代表番号の電話番です。
「お電話ありがとうございます株式会社はてな第十三開発部です」
プライベートのPHSは、電話先の制限を解除して家族以外からもかかってくるようになりました。でもかける側が私に向かってかけてくるわけですから、名乗らないままです。
さて、ここで転職。電話番をしなくてもよくなりました。そもそも今の部署には外線が来ません。転送された電話をピックアップして
「はい第7開発部です」
とだけ言えばよくなりました。
しかし、今度は社内からどんどん私に向けて内線がかかってくる立場になってしまいました。私は今、
「はい増田です」
といってデスクにある電話をとる必要があります。でもどうしても、
「はいもしもし」
と言って黙ってしまうのです。
かけてくる方は、私が直接とったのか不在で別の者がピックアップしたのかわかりませんから
「増田さん?」
とわざわざ聞かねばなりません。効率が悪いし、無愛想だし、大変申し訳ないのです。でも小さいころに
「なまえをいってでんわにでてはいけないよ」
「こわいひとがくるよ」
と教えられ、長年やってきたために、なかなか名前をいうことができません。社名や部署名なら簡単に言えるのに。
そんなわけで、私は電話に出るのが下手なのです。