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2026-01-17

猫を殺したことがある少年が、大人になってから猫を飼うことに抵抗がない人って、いるのかな。

たぶん、あの話はどこにも書かないまま一生終えると思っていた。

子どもの頃、猫を殺したことがある。

わざわざオブラートに包む意味もないぐらい、その言葉どおりのことをした。

いじめてた」とか「いたずらの延長で」とか、そういう言い換えは、逆に猫にも自分にも失礼な気がするからやめておく。

もちろん当時は、そこまで言語化して考えていたわけじゃない。

ただ、今になって振り返ると、あれはどう見ても「殺した」だったとしか言いようがない。

***

小学生の頃、クラスの中で浮いていた。

暴力を振るうタイプではなかったけれど、いつも口が悪くて、教師に盾突いて、家では親に向かってドアを思い切り閉めて歩く子どもだった。

問題は、そのイライラの行き先を、自分より弱いものに向けることを覚えたことだった。

公園の隅で、痩せた三毛猫を拾った。

最初は、ただ、何かを拾った、というだけのことだった。

雨上がりで地面はぬかるんでいて、猫は泥と埃でべたべただった。

片目が少しにごっていて、ああ、たぶん誰も拾わないやつだ、と思った。

家に連れて帰ったわけでもない。

ちゃんと世話をしようと思ったわけでもない。

あの頃の自分に、そんな「責任ある行為」をする能力は、残念ながら備わっていなかった。

何度か公園に行っては、その猫をからかった。

尻尾を引っぱって逃げる様子を見て笑ったり、棒を振りまわして脅したり、石を投げたりした。

最初は当たらないように投げていたのに、だんだん「どこまで近くに投げられるか」を試すゲームになっていった。

ある日、石はちゃんと当たった。

足を引きずるようになって、鳴き声が変わって、それでも自分はやめなかった。

なんとなく、止まるタイミングを完全に見失っていた。

それがどんな結末を迎えたのか、細かい描写はここには書かない。

ただひとつ言えるのは、気づいたとき、猫は動かなくなっていて、けっきょく自分は誰にも言わず、そのまま公園を出て家に帰った、ということだけだ。

その後しばらく、夜になるとあの公園のベンチの映像が頭に浮かんだ。

猫の姿そのものより、濡れた木のベンチと、薄暗い街灯の光のほうが、なぜか記憶にこびりついている。

そこから先の道を、あのまま真っ暗なほうへ踏み外していってもおかしくなかったんだろうと思う。

幸運か、不運かはわからないが、自分はその道から外れることができた。

中学に上がってから担任が怖い人で、殴る代わりにしつこく話を聞いてくるタイプだった。

高校に進んでからは、部活ボロボロになるまで走らされた。

大学は、たいして目的もなく入って、バイト先で怒られながら仕事を覚えた。

かに「更生させられた」というほど劇的な出来事はない。

ただ、日々の小さなやらかし」と「怒られ」と「反省」と、どうでもいい雑談の積み重ねが、自分を少しずつ「普通」に近い場所まで連れ戻してくれたんだと思う。

それでも、猫のことは消えなかった。

何かの拍子に、あの公園の色だけが急にフルHD画質で蘇る感じがある。

時間でぼやけるどころか、「忘れられなかった事実」というタグが付いて、むしろ保存性が上がっていく。

***

30代半ばになって、同棲の話が出た。

相手は、職場で知り合った人で、明るくて、よく笑って、感情の出し方が自分とは正反対だった。

「一緒に住むなら、猫連れて行ってもいい?」と言われたとき、胸の中で何かが硬くなる音がした。

「猫?」

間抜けな返事しか返せなかった。

猫が嫌いなわけじゃなかった。

しろ最近は、道端で見かけると写真を撮るくらいには好きだった。

ただ、そこで連想するのが公園ではなく、マンションの一室になることを、頭がうまく処理できなかった。

相手スマホを見せてくる。

白い猫だった。

ふわふわしていて、目が青くて、画面越しでも「この家で一番かわいい生き物です」みたいな顔つきをしていた。

「めちゃくちゃ可愛いじゃん」と口では言った。

それは本心だった。

そのとき自分の顔を、第三者視点確認してみたかった。

こちなさが出ていたのかどうか、自分ではまったくわからなかった。

帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見ながら、「猫を殺したことがある人間が、猫と一緒に暮らしていいんだろうか」と考えた。

別に、また殺したくなる気がするわけじゃない。

今の自分がそんなことをするとは思えないし、イライラをぶつける対象として猫を選ぶメンタリティでは、少なくとももうない。

それでも、「一度やったことがある」のラベルは剝がれない。

それは「飲酒運転を一度でもしたことがある人」とか、「昔、人を殴ったことがる」とか、そういう類の話とは、少し違う気がする。

もちろん猫は何も悪くない。

そして今、自分がこれから「守る側」のポジションに立とうとしている。

そのギャップが、うまく飲み込めない。

***

数日後、正直に話すかどうかで迷った末、かなり薄めた形で打ち明けた。

子どもの頃、動物いじめたことがあってさ」と前置きしてから

殺した、という単語だけはどうしても口に出せなくて、

「かなりひどいことをした」という表現ごまかした。

相手はしばらく黙っていた。

その沈黙の長さに耐えられなくなって、「いや、今はもう絶対そんなことしないけど」と、いちいち余計な一言を足してしまう。

「……じゃあさ」

沈黙のあと、相手はこう言った。

「いま、うちの猫を見て、何かしたくなる?」

その質問の仕方が、妙に真っ直ぐで、逃げ場がなかった。

脳内に、まだ会ってもいない白い猫の画像再生される。

ソファの上で伸びているやつ、キャットタワーから顔だけ出してるやつ、窓辺で丸くなっているやつ。

「ならないよ」

答えは即答だった。

それだけは、自信をもって言えた。

「だったら、たぶん大丈夫だよ」と相手は言った。

「私もさ、昔、虫とか平気で殺してたし。

 今はさすがに猫とか犬に当たる気にはならないけど、

 でも“昔の自分”が完全に消えたかって言われたら、そんなことないし」

その理屈が、どこまで妥当なのかはわからない。

ただ、「昔の自分が完全に消えたなんてことはない」という言葉だけは、妙に胸に刺さった。

猫を殺した少年は、消えてはいない。

その記憶を持ったまま、どうにか大人になっただけだ。

そして今、その大人が、「猫と一緒に暮らすかどうか」を決めようとしている。

***

それからしばらくして、本当に一緒に住むことになった。

引っ越し当日、キャリーケースの中で騒いでいる白い猫を初めて見たとき

自分心臓の鼓動が一段階ギアを上げたのがはっきりとわかった。

爪を立てて暴れるその小さな生き物は、自分が昔、公園で追い回した猫とはまるで別の存在だ。

でも、「猫」という種としては完全に連続している。

同じカテゴリの命だ。

ケースの扉が開いて、猫が部屋の中をうろうろし始める。

ソファの下に潜りかけて、途中でやめて、コンセント匂いを嗅いで、カーテンによじ登ろうとして叱られる。

自分玄関のところで、靴を片づけるふりをしながら、それをこっそり見ている。

「ほら、なでてあげなよ」と言われて、

こちなく手を伸ばす。

柔らかい毛に指先が触れる。

猫は一瞬こちらを見上げて、「動物的な評価」を下すような目をしたあと、特に何もなかったかのように、また部屋の探索を続けた。

その瞬間、自分の中で何かが、静かに現在」を上書きした感じがあった。

「ああ、この猫は、俺が昔殺したあの猫じゃない」

「でも、同じ種の、別の一匹として、今ここにいる」

それは許しではないし、償いが済んだという話でもない。

ただ、「過去に猫を殺したことがある人間」が、「今、猫と暮らしている」という事実が、世界のどこかに一つ増えた、というだけだ。

***

こんなことを考えている自分に、果たして猫を飼う資格があるのかはわからない。

たぶん、法律にも教科書にも答えは書いていない。

それでも毎朝、白い猫が腹の上に乗ってきて、

ごはん時間になると器をひっかいて催促して、

夜にはソファの端っこを占領して寝ているのを見ていると、

「少なくとも今日一日、こいつをちゃんと生かしておけた」

という事実だけは、確かにそこに残る。

猫を殺したことがある少年が、大人になってから猫を飼うことに抵抗がない人って、いるのかな。

自分は、いまだに完全には「抵抗がない」とは言えない。

たぶんずっと、少しだけ怖いままだ。

でも、その怖さごと抱えたまま、明日カリカリの量を量る大人

という存在なら、ギリギリ、この世界にいてもいいのかもしれないと思っている。

2026-01-15

今年やる100のリスト

2026-01-11

シャフト50周年展行った

年末年始池袋で日時指定地方民には色々キツいが

絶望先生見てたしまほろまてぃっくも見たし、歌物語OPED良かったし~で、行くことに

スマチケってことでスマホにアプリインストールするらしい

QRコード注文とかもだけど、やたらアプリインストールさせる風潮好きじゃないんだよね。こっちにコスト押し付けてる感じで…

しかも、Googleアプリストアがクレカ情報入力しろと。こういうとこから流出するのよな…と思いつつ入力アプリの出来はいいけど、こういうのってスマホの電池切れたら…とか心配ちゃう

で、最初は土曜に行く予定だったが昼の予約が全滅。なぜか日曜の昼はガラガラだったのでそっちで予約。

調べたら40周年の時も日時指定だったからしいが、その時は名古屋大阪でもやってたのにィ~

で、土曜日中古屋行ったらまほろまてぃっく二期DVDBOX八百円。幸先良いじゃんと喜んでたら仕事の連絡。

なんか業務上大事故が起きたみたい(他人事)本来なら明日客先に出向いて対応すべき重大インシデントだよね~。神様シャフト展に行くなと言ってるのでは?仕事優先することで事故回避みたいな…まぁ、起きたことはしょうがないし連休明けに対応することになる。

で、今日。無事に5時半起床で新幹線にも間に合う。場所調べてたら、会場のビルシャフト展が終わったら取り壊すと知る。場所やら日程はそういうことかと納得。

秋葉原やら中野に寄り、池袋へ。

押井気取って駅の立ち食いそばに行くが、味はともかく、丼を渡すスペースと食券置くスペースせますぎ(店員一人分)セルフ給水や七味も近くに置いてあるから、注文して待機中のオッサンや丼を受け取ったオッサンが入り乱れて動線メチャクチャ、店の仕事やすさだけで配置してる感…2人で回してるみたいだし仕方ないかもしれんが、もっとこうシステマチックにさぁ…と、憤慨しながらサンシャイン通りへ。

池袋全体が大混雑で歩くだけでも時間を食う。スマホを見せると4階に行くように言われるが、階段に人が並んでいるので最後尾で待機。単にオタクがたむろしてるだけじゃないよな?と不安になっていると、スタッフさんから、整理番号の段へ行くように、と声をかけられる。

階段を登ってると知らないイケメンオタクに「何番ですか?」と尋ねられる。番号を見せると、「その番号ならもっと先ですよ。」と言われる。「はぁ、そうですか」と返すブサイクオタク(俺)礼を言え礼を。

番号の階段に付くが、列も動いてるのでどうすればいいかからず、流れで入場。

スマホを見せてステッカーを貰う。

撮影場所とかパネルとか。混雑してる。オオ、まほろまてぃっく原画とコンテだ!角のとこにあるからメチャクチャ見辛いけど…

ぱにぽにとか、まあ年代順に展示してる感じ。絶望先生のコーナーを主に見るが人が多くて大変。次のスペースはカーテンで区切られてて逆流できないっぽい?まどかの部屋で次が物語だったと思う。撮影可のとこがあったり、ウエダハジメパネルとかあったけど、飛ばし見してたかちゃんと覚えてない。まどかリアルタイムでハマってたけどwiki見ててこれってマーケティング…って思ったら冷めちゃったんだよな。エレベーターで別の階に行って階段を登る。階段作品ポスターが飾ってあり、その後もなんか色々展示がある。ヴァージンパンク!そーいやシャフトだったな…しかし展示がまどかの上映スペースの隅にあって少し見にくい。

で、公式MADみたいなの流してる部屋兼通路があり、とりあえず最後まで見るか…と一人見てると人が通って気まずい。通行の邪魔から前方で見るよう言われちゃったりして。

で、梅津とか久米田の50周年サインとかメッセージが飾ってあっておわり。20分くらいで見終わるが、これはほとんどスルーたから。ちゃんと見てたら数時間かると思う。

地下二階がグッズとのこと。チケットのチェックあり、カタログと購入用紙を渡され、実物コーナーを通り、MVとか流れてる劇場兼物販スペースみたいなとこに行く。図録がないか聞いてる人がいたが、過去展覧会の図録がネットで買えるのでそちらで、ということらしい。注文ペンがあったみたいだが渡されてないんだか取り忘れたのか。自前のペンで書いて待機。列を崩しちゃならんのだかわからず、書いた後も待機。してたら書けた人から前にいくみたい。ペンも回収しますと言われ、なかったので自分のを…と伝える(ないならスタッフに言わないと後で面倒になる)

絶望先生顔面原画ポストカード(少女達の集合シーンとか、もっといいのあっただろ、と思いながら)まほろまてぃっく原画ポストカード(まほろの表情集。こっちはよい)を買う。10分くらい。全部で半時間。

時間半ほど見込んでたので時間が余る。が、まさか池袋駅までの道で迷う。うろついてたら、なんか無料おジャ魔女デジモン展覧会やってて、撮影も可らしい。原画とかもあって結構ちゃんとしていた。

秋葉原keyの25周年のTCGパックを買う。今度買おうと思ってスルーしたらどこも売り切れになっちゃってて、でもあるとこにはあるんだな~。ボックスしかないけど。まあ仕方ない。

シュウマイ弁当買って新幹線で食う。中にお菓子が入ってます、と言われ、干しアンズの他にお菓子が?と思ったが、今思えばお箸か。色々と、弁当の完成形って感じでよい。タケノコが一番美味い気がする。

シャフト展行ってわかったんだけど、自分信者というよりアンチなんだよな。あと、富野展とか庵野展とはやっぱ違った。まあこっちは周年イベントからそらそうだけど。前者は老若男女ファミリーいたけどこっちは若い男女ばっかで、作画資料とかじゃなくコンテンツ紹介みたいな(そういえば、デジタル作画からセル画とかはないんだよな~)

悪くはなかったけど、シャフト君そういうとこあるよね!って悪いとこも滲み出てた感じ

意識高いんだか軽薄なんだかわからんみたいな…

そういうアカンとこが噴出したのが打ち上げ花火じゃねえかと思うんよな

上手いこと噛み合ってたのが絶望先生

2026-01-05

推してる個人Vtuberメルカリ垢見つけちった

写真の背景がモロたまに写真撮ってる背景な上に、カーテンの柄やら全部同じやん。

私服めっちゃ出してるしシコ用に買っちゃおうかな~。

2026-01-03

マンションの家で寝っ転がっててさ

壁際が最適解なので壁際にベッド寄せて寝っ転がってるんだけどさ

電話とかかかってきたから話し出すと

それまでずっと静かだった下の階から急に

窓閉めてカーテン閉めて移動する音が聞こえてくると

すげー嫌な気持ちにならん?

かに日当たりいいけど、関東から結構寒いのに窓開けてるのも普通に怖いんだけど。

2025-12-31

anond:20251230185715

欧米圏のホテルは室内にある風呂ちゃんと窓で見れるようになってる。

カーテンでしきれるけど、子供たちが安全に入ってるかの確認のためなんだよね

2025-12-25

新居を買ったか貯金が1000万を切ってしまう😭

頭金は1000万、家具家電カーテン全部新調して250万、フロアコーティング24

もう金ない😭

投信は1200万あるけど

2025-12-21

小3の時に惨めな回転寿司を食べた

当時寿司といえば私は回転寿司で、100円のかっぱ寿司以外を知らずに生きていた。そもそも地元にそんなに寿司選択肢があるわけではなかった。

私にとって寿司とは「そんな好きでもないが、親祖父母が喜ぶご馳走」のイメージが強く、私が寿司を好きと伝えれば、両親は健康的で大変良いと誉めてくれて、それが大変嬉しかった。ガキは単純だから

良いことがあれば回転寿司に行くのはルーティンで、2から3ヶ月に一度食べるのを楽しみにしていた。マグロは好きではなかったが、食べれば皆が喜んだ。

100円以上のものは頼まなかった。高いものを頼むのは、幼心に申し訳なかった。うなぎ寿司を横目に、ハンバーグ寿司なんかを頼んでいた。決して我が家が裕福ではないのを知っていたから。

ある時、祖父母と従兄弟の家に遊びに行った。従兄弟金持ち一家で、関東近辺のマンション12階に住んでいた。

その家の夜景が好きだった。地元の真っ暗な夜と違う、人の営みに溢れた夜だ。今思えば東京と比べるレベルではないけど、それでも私にとっては『未来』の街だった。

彼らの家には書斎コロン香りがあった。大きなテレビカーテンベランダを、当然のように従兄弟は使っていた。私は気まずくて、あまりソファに座れなかった。私の知るものより遥かに柔らかかった。

内心早く帰りたいと思ったけど、でも従兄弟はいい奴だった。マンション併設の公園を駆け回り、隣の棟のインターホン特定の順番で押すと開くことができる、なんてチャレンジに胸躍った。迷惑なガキだった。けどなんというか、地元同級生全然うそれが輝いてた。

それで最終日、叔父祖父母に「いい昼飯屋がある」と言って回転寿司へと連れて行った。私と祖父母叔父叔母従兄弟の6人だ。

そこがまぁ、すごかった。カウンターの中に人がいて握ってるタイプのやつだ。私も凄いと思い、カッコいいなんて口にして、それでまぁマグロかなんか、従兄弟と同じものを頼もうとした。

そして目に入った。確か『240』だったと思う。重要なのは100でも105でもなかったことだ。まして98でもない、異次元がそこにあった。

結局、私が頼んだのはカッパ巻きと稲荷の2皿だけだった。卵焼きだったかもしれない。従兄弟はきっといつも通り、バカスカ高い皿を積み上げていたが、私はとてもそんなことはできなかった。

胃が痛かった。100円のコーナーをみても、子供心に食べたくないものばかりだった。多分ガリとか涙巻だったんだろう。

そして祖父母もあまり食べてなかった。年齢を考えても、いつもの量を考えてもあり得ないほどだった。もしかしたら私に合わせてたのかもしれない。申し訳ないことをしたが、当時の私は本気で罪悪感しかなかった。

机を隔てて、彼らの皿は30を超え、しかこちらは10もいってなかった。結局、私は空腹のまま店を後にし、そのまま彼らと別れた。

帰りの車は静かだったが、祖父の「気持ちは嬉しかったな」という言葉が忘れられない。叔父は得意そうな顔をしていた。たまにしか会わない親への孝行、きっと良いことをしたと思ったに違いない。

でもあの日かにそこは地獄だった。240円の地獄だ。けど、私が素直にマグロを受け入れれば祖父母幸せだったのだろうか?両親がかっぱ寿司で笑う姿を思い出さなければ、私はあの日満腹で帰れたのだろうか。

今でもわからない。きっともう誰も覚えてない苦い記憶。でもあの日からずっと、心のどこかで私は回転寿司が苦手だ。100円以上の皿に手を伸ばせない。

寿司は好きだ。外食で加減しなくても良い程には財布に余裕もある。寿司と共にお酒サイドメニューを頼むときもある。もう我慢しなくても、気まずさを感じなくてもいいのに

ずっと、ずっとあの日からどこか気持ち悪い。

小3の時に惨めな回転寿司を食べた

当時寿司といえば私は回転寿司で、100円のかっぱ寿司以外を知らずに生きていた。そもそも地元にそんなに寿司選択肢があるわけではなかった。

私にとって寿司とは「そんな好きでもないが、親祖父母が喜ぶご馳走」のイメージが強く、私が寿司を好きと伝えれば、両親は健康的で大変良いと誉めてくれて、それが大変嬉しかった。ガキは単純だから

良いことがあれば回転寿司に行くのはルーティンで、2から3ヶ月に一度食べるのを楽しみにしていた。マグロは好きではなかったが、食べれば皆が喜んだ。

100円以上のものは頼まなかった。高いものを頼むのは、幼心に申し訳なかった。うなぎ寿司を横目に、ハンバーグ寿司なんかを頼んでいた。決して我が家が裕福ではないのを知っていたから。

ある時、祖父母と従兄弟の家に遊びに行った。従兄弟金持ち一家で、関東近辺のマンション12階に住んでいた。

その家の夜景が好きだった。地元の真っ暗な夜と違う、人の営みに溢れた夜だ。今思えば東京と比べるレベルではないけど、それでも私にとっては『未来』の街だった。

彼らの家には書斎コロン香りがあった。大きなテレビカーテンベランダを、当然のように従兄弟は使っていた。私は気まずくて、あまりソファに座れなかった。私の知るものより遥かに柔らかかった。

内心早く帰りたいと思ったけど、でも従兄弟はいい奴だった。マンション併設の公園を駆け回り、隣の棟のインターホン特定の順番で押すと開くことができる、なんてチャレンジに胸躍った。迷惑なガキだった。けどなんというか、地元同級生全然うそれが輝いてた。

それで最終日、叔父祖父母に「いい昼飯屋がある」と言って回転寿司へと連れて行った。私と祖父母叔父叔母従兄弟の6人だ。

そこがまぁ、すごかった。カウンターの中に人がいて握ってるタイプのやつだ。私も凄いと思い、カッコいいなんて口にして、それでまぁマグロかなんか、従兄弟と同じものを頼もうとした。

そして目に入った。確か『240』だったと思う。重要なのは100でも105でもなかったことだ。まして98でもない、異次元がそこにあった。

結局、私が頼んだのはカッパ巻きと稲荷の2皿だけだった。卵焼きだったかもしれない。従兄弟はきっといつも通り、バカスカ高い皿を積み上げていたが、私はとてもそんなことはできなかった。

胃が痛かった。100円のコーナーをみても、子供心に食べたくないものばかりだった。多分ガリとか涙巻だったんだろう。

そして祖父母もあまり食べてなかった。年齢を考えても、いつもの量を考えてもあり得ないほどだった。もしかしたら私に合わせてたのかもしれない。申し訳ないことをしたが、当時の私は本気で罪悪感しかなかった。

机を隔てて、彼らの皿は30を超え、しかこちらは10もいってなかった。結局、私は空腹のまま店を後にし、そのまま彼らと別れた。

帰りの車は静かだったが、祖父の「気持ちは嬉しかったな」という言葉が忘れられない。叔父は得意そうな顔をしていた。たまにしか会わない親への孝行、きっと良いことをしたと思ったに違いない。

でもあの日かにそこは地獄だった。240円の地獄だ。けど、私が素直にマグロを受け入れれば祖父母幸せだったのだろうか?両親がかっぱ寿司で笑う姿を思い出さなければ、私はあの日満腹で帰れたのだろうか。

今でもわからない。きっともう誰も覚えてない苦い記憶。でもあの日からずっと、心のどこかで私は回転寿司が苦手だ。100円以上の皿に手を伸ばせない。

寿司は好きだ。外食で加減しなくても良い程には財布に余裕もある。寿司と共にお酒サイドメニューを頼むときもある。もう我慢しなくても、気まずさを感じなくてもいいのに

ずっと、ずっとあの日からどこか気持ち悪い。

2025-12-17

anond:20251217075235

かつての俺を見ているようだ

クラスメイト高校の三年間片思いし続けて、卒業式間近に崖から飛び降りるつもりで告白した

でもその時邪魔が入って答えを聞けなかった

そのままちゃんと話すこともなく俺は地元を離れた

まあ仮に両想いだったら向こうから何らかのアクションがあっただろうから、無かったということはそういう事なのだ

「それでもまだ答えが出ていないということは、完全に望みが絶たれたわけではない」

何年間もそう思い続けたしその子以上に素晴らしい女性存在しないと言う認識は消えなかった

そのくせ自分からアプローチするような勇気はなかった

電車で2時間半で会いに行けるのに…

その後サークルの先輩から誘われて付き合うようになっても

ずっと心の中の一番はその子だった

の子の方がかわいい、あの子の方が賢い、あの子のほうが…そう思いながら先輩と付き合ってた

大学を出て就職し、先輩と将来の話が出るようになるとかなり焦った

結婚してしまったらあの子との可能性が本当に消えてしまうと思った

でも結局いろいろな圧力に負けてそのまま結婚した

転職して、リーマンショックがあり、職場でも責任を負う立場になってきて、30手前で子供も生まれ

過去を振り返る余裕がなくなるくらい忙しく過ごす日々が続いた

いま40代

気が付いたら初恋のあの子を思い出すことはなくなっていた

妻と娘が何にも勝る掛け替えのない存在

いつそうなったのかは覚えていない

つとめてあの子を思い出そうとすると、あの真冬教室光景けが思い出される

強すぎる暖房、西日で赤く染まるカーテン、切れかけて点滅する蛍光灯

俺は崖から飛び降りるつもりで告白する

彼女は困ったように眉を下げる

その顔は当時の年齢通りの子供のようにも、決して手が届かない女神様のようにも見える

彼女から答えが返ってくることはない

2025-12-14

新幹線洗面所カーテン閉めて占領する奴、やめてくれ。

お前はトイレの後、石鹸で手を洗わなくても平気かもしれないけど、洗いたい人間だっているんだ。

カーテンを少し開けて(それは少し反省)声をかけたけど、聞こえていないようだった。他の乗客とも困りますよねと話していたけど、やっぱり出てこなかった。

わざわざ別の車両まで歩いたよ。

着替えしてた人がいてトラブルになったこともあるようだけど、そこは更衣室じゃない。

Web会議している人がいたというのも、立ち席の客が個室代わりにしていたというのも見た。

歯磨きや化粧やヘアセットを人に見られたくないなら家でしてきたらいいし、そもそもカーテンなんてなければいいのに。

2025-11-25

お菓子の家作ったのでみんな遊びに来てほしい!

やっと完成した!


クッキーの壁にチョコ屋根グミの窓にマシュマロソファ、全部食べれるやつで作った!


煙突からは綿菓子の煙まで出ててかわいいねん

中もちゃんとあって、アイシングで絨毯描いたり、チョコプレートでテーブル作ったり、ライスペーパーカーテンまで再現してるからガチで住めるレベル

もう自慢したくてたまらから、みんな今すぐ遊びに来て!


写真撮るもよし、一緒に食べるもよし、崩壊させるもよし😂

場所はいもの公園の奥、今日夕方から夜まで置いとく予定!


遅刻したら食べられちゃうかもよ〜!

待ってるでー!!!

2025-11-22

ネタバレたくさんあり】果てしなきスカーレットを観た

 珍しくふと、映画館映画を観たいと思った。最後映画館に行ったのは11年前、中学の頃親と一緒に行ったっきり。自力映画館に行ったことも無いのに、なぜかそんな気持ちになった。

 細田監督の最新作「果てしなきスカーレット」が、ちょうど公開されるらしい。小学生の頃、金ロー放送された「サマーウォーズ」を録画して、繰り返し観た記憶が蘇る。これは観るしかねえと思い立ち、TOHOシネマズに向かった。

 結論としては、良いところはあるものの、やはり細田脚本には問題があると言わざるを得ない出来だった。本当に現状のままでいいのか、細田監督を問いただしたい理由をまとめた。

(1回見ただけなのでおかしいところや思い違いがあると思うけど、容赦してね。)

【以下、ネタバレ










 まずは簡単にあらすじを紹介。愛する父親を殺された王女スカーレットは、父親を殺した叔父クローディアスの暗殺に失敗。死者の国で目を覚ますスカーレットは死者の国で、現代日本からやってきた看護師・聖と出会う。スカーレットは聖と共に、かたき討ちのためクローディアスを探す旅に出る。

 本作が題材にするのは報復連鎖細田監督自身インタビューでそう語っており、私もその予備知識ありでスクリーンに臨んだ。では、憎しみと復讐連鎖に伴う辛さ、やるせなさが描かれているのかと言われれば、十分に描かれているとは言えなかった。

 正直なところ、憎しみや復讐の描き方は「進撃の巨人」の圧勝こちらの方が断然よくできている。本作は「進撃の巨人」と比べて、憎しみと復讐が続いてゆく辛さ、やるせなさが身に強く迫ってこなかった。

 その理由はいくつかある。

 一つは、愛する父が暗殺される→クローディアスの暗殺に失敗→死者の国へ、という冒頭の流れが説明であること。スカーレットが抱える憎しみとその辛さは理解できるものの、それが自分の身に起こったかのように感情移入できなかった。「物語への圧倒的没入体験」を掲げる本作であるが、没入できないもどかしさが最後まで続いた。

 もう一つは、クローディアスが一貫して悪人として描かれていること。「進撃の巨人」では、主人公たちが相手を憎むのと同時に、相手側が主人公たちを憎む様子も丁寧に描いていた。絶対的な悪など無く、対立する両者がお互いに痛めつけあうやるせなさ。それが、本作にはほとんど見られない。長期連載作品である進撃の巨人」と、二時間に満たない尺の本作を比べるのはフェアじゃないかもしれないが、復讐や憎しみを描くうえで、そこは外してほしくなかった。

 しかし、復讐や憎しみを題材にしている本作であるが、より深いテーマを感じた。それは、「自分の好きなように生きよ」というメッセージである

 物語の序盤、スカーレットは父の敵討ちに燃え、死者の国で現れる敵を次々と殺してゆく。「王女としてそうあるべき」という義務感をスカーレットは抱いており、それが復讐モチベーションになっていることが描かれている。看護師である聖は、好戦的スカーレット対照的に、敵味方差別なく治療を施し救おうとする。それも、「看護師としてそうあるべき」と聖が考えているからだ。

 敵を殺そうとするスカーレットとそれを好まない聖は、一見対照的キャラクターに見える。しかし、「自分立場にとらわれて、本当はどう生きたいのか分からない」という内面は同じなのである

 スカーレットと聖は交流を重ねる中で、互いの心情に変化が生まれてゆく。スカーレットは、敵との戦闘になっても剣を鞘に納めたまま戦い、むやみに人を殺めなくなる。人を殺めるための短刀を、自分の髪を切る(新しい自分になる)ために使うシーンは、スカーレット内面の変化を印象的に描く。逆に、人を殺めることを否定していた聖は、弓矢でクローディアスの手先を殺めてしまう。物語の序盤、「人を殺めるな」とスカーレットに散々言ってきた聖が人を殺めてしまうシーンは大きな批判を生みそうだが、聖が自身の黒い感情に対して正直になった、もしくは抑えられない、という内面の変化が描かれる良いシーンであったと思う。憎しみという黒い感情否定しないことは、本作の美点の一つである

 一見対照的な二人だが、共に同じ苦悩をを抱えていて、それが変化してゆく、という構成は好印象だった。ただし、スカーレットについては憎しみに関する描写が強すぎて、「王女としてそうあるべきだから復讐燃えている」という内面理解しにくかった。物語の序盤も序盤、スカーレットの父が「王女としてではなく、女の子として好きなように生きなさい」と幼少期のスカーレットに語るシーンがあるのだが、さらりとしすぎている。スカーレット死ぬ前に、クローディアスの暗殺民衆が熱望していて、スカーレットがそれにプレッシャーを感じているようなシーンがあると良かった。

 クライマックススカーレットは死者の国から元の世界へと戻り、王女となる。王となったスカーレット民衆に、「民を救うこと」「子供絶対に死なせないこと」を宣言する。これは、スカーレットが「王女としてそうあるべきだから」と考えているからではなく、心の底からそう思っている。スカーレットは死者の国での交流を通じ、「私はこうありたい」という自発的な強い意志を手に入れて、物語は幕を閉じるのである

 そのようなクライマックスを踏まえると、「果てしなきスカーレット」は、憎しみの連鎖を描いた物語というよりは、少女自分生き方を決める物語なのだ個人的には思った。本質的には、「おおかみこどもの雨と雪」(主人公が、おおかみ or 人間、どちらかの生き方を選ぶ)や、「バケモノの子」(人間世界 or バケモノ世界、どちらで生きるのか選ぶ)など、細田監督過去作品にも通ずるテーマであるといえるだろう。

 本作は他の細田作品と同じく、演出特にメタファーの使い方に優れる。特に水というモチーフが良い。序盤、空が荒れた海のようにうねる様子をまじまじと見せつけつつ、水一つない砂漠風景を延々と見せておいて、最後スカーレットを雨に打たせる流れが良かった。雨はスカーレットの心の痛みであると同時に、乾き続けた心を潤す恵みの雨でもある。スカーレットが抱く矛盾した複雑な感情を、水や雨というモチーフを使うことで、端的に表すことに成功している。物語全編を通じて砂漠風景が続くのは単調で少ししんどくもあったが、クライマックスに良い形で回収されたのは良かった。

 カラスモチーフも良い。本作ではカラスが度々出現するのだが、物語の終盤、クローディアスと対峙するシーンでザワザワとカラスが集まり、散ってゆく演出が良かった。黒い感情やざらつきが、スカーレットの胸に広がって去っていく描写である。このシーンでは、スカーレットが抱く感情にある程度没入することができた。

 しか最後最後、黒い竜がカラスとなり散っていくシーンは解釈が難しかった。カラススカーレット内面を表しているのであれば、竜が悪役に雷の制裁を加えるのはご都合主義すぎる。スカーレットの黒い感情の高まりが、直接悪を成敗しちゃってました、ってことになってしまわないだろうか。私の読解力では、一本芯が通った演出として理解できなかった。

 その他、聖のキャラクター人間味が無いとか、スカーレットの母が謎だとか、細田監督らしく突っ込みどころは沢山あるしキリがない。しかし一番の問題点は、わかりやすカタルシスに乏しいことだろう。「見果てぬ場所」を目指すとか、最後に聖とキスして永遠のお別れをするとか、カタルシスを作ろうという工夫は見られるが没入感が無く、わかりやすく感動できない。

 唯一カタルシスを感じたのが、劇中歌「祝祭のうた」(フルバージョンがストリーミングにある)をバックに、スカーレットが炎の中に吸い込まれ現代日本へとワープするシーン(このシーンはYoutubeでチラッと見ることができる)。なんだかよくわからないけれどいい感じにエモい歌が鳴っていて、スカーレットが「うわああああ」ってなってて、吸い込まれてゆく映像美も(IMAXなので)すごい。「コレだよコレコレ!このわかりやすい感じ!」と思ってスクリーンの中に身を任せたのだが、その先の現代で踊るシーンは作り物感が強く、映画館座席の上にストンと戻されてしまった。復讐だけのために生きてきたスカーレットが新しい自分を見つける、という背景を意識するとそれなりにエモく見えるのだが、直感的に感情移入してダラダラ涙を流すためにはあと一歩か二歩足りなかった。

 「君の名は」ほどではなくてもいいから、馬鹿でも分かるような感動が欲しかった。まず、分かりやすく感動できること。そのあと二回、三回とリピートしていくにしたがって、細田監督演出の上手さが生きてくる。水や雨、聖がおばちゃんから貰った楽器などのモチーフや、登場人物些細な変化。それに気づいていくことで、回数を重ねる度により深く物語へと没入することができる。

 個人的に大好きな「おおかみこどもの雨と雪」には、それがあったと思う。揺らいだカーテンに隠れた雪がおおかみの姿に変身する激エモシーンや、嵐が去った駐車場で花と雨がお別れする涙腺崩壊シーンなど、音楽(激エモ)と映像美(激エモ)の力を借りた分かりやすい感動ポイントが、まずあった。そのあと繰り返し鑑賞してゆくにつれ、瓶に入ったお花の描写や、おおかみであるとは?人間であるとは?といったテーマ理解度が深まり没入していく。そんな作品だった。それこそが「物語への圧倒的没入体験」だと思うのだけど、皆さんはどう思いますか?

 それを踏まえると、やはり奥寺佐渡子さんの脚本に戻してほしいと切に願う。復讐や憎しみを題材にしながら「自分の好きなように生きよ」というメッセージ細田監督から投げかけられた私は、素直に胸を打った。しかし、カタルシスに乏しく物語に没入できてないので、そのメッセージが深くまで刺さってこないし、未消化感が残る。上映が終わった後、前の席に座った女性大学生くらい?)の二人組が、「何の話か分からない……」と漏らしていたのが印象的だった。監督が伝えたいメッセージが観客に伝わらないのは、あまりにも大きな問題ではないか

 奥寺氏が脚本に嚙まなくなった「バケモノの子」以降、細田監督作品脚本の弱さを批判され続けてきた。しかし、「竜とそばかすの姫」はそれなりに売れてしまったわけだし、商業的にやっていける限り細田脚本は続いていくだろう。

 しかし、本当にそれでいいんですか?

 「あなた脚本だと、メッセージが観客に上手く伝わってないみたいですけど、本当にそれでいいんですか?」と、細田監督に問いかけたくなる。「好きなように作って満足!」みたいな同人誌的な態度の映画作りで細田監督が満たされるのであれば、現状維持でかまわないと思う。我々はスクリーンの前で、感動ではなく悔し泣きの涙を呑むしかない。

 しかし、莫大なマネーステークホルダーを巻き込み、作品を広く世に知らしめる力を持つクリエイターとして、「自分メッセージを世の中に投げかけ、沢山の人の気持ちを揺さぶりたい」と細田監督が考えているのであれば、勇気をもって奥寺脚本に戻していただきたい。

 ちなみに奥寺佐渡子さんのことを調べたところ、最近脚本を手掛けた「国宝」なる映画がとてもすごいらしい。昭和ど真ん中の時代に、任侠の息子が歌舞伎役者として成長していく話なんて教養がない私にはとても敷居が高いんだけど実際どうなの????教えてエロい人。

PS

 TOHOシネマズBGMってあるじゃんピアノの曲。超久しぶりに映画館に行くので、あの曲が劇場で流れている雰囲気も楽しみにしてたんだけど、開場して五分後に入場したらすでに広告が始まってて聴けなかった。放映終了後も、「忘れ物に気を付けてください」の画面が出てくるだけで聴けなかった。開場直後に滑り込めばこのBGM聴けるの?これもエロい人がいたら、ついでに教えてほしい。

 仕方がないので、その曲を無限リピートさせながらこの記事を書いている。ちなみに、TOHOシネマズBGMは「ナッシュスタジオ」という、業務用向けのBGM効果音を専門に販売する会社のもので、ハードオフの店内放送曲や天神CM、デデドン絶望)もこの会社作品らしい。"Nash Music Library"で調べればストリーミングで聴ける。

2025-11-21

日本で東向きの部屋が人気の理由はいくつかある。

大きいのは生活習慣。日本って昔から朝に家事活動を始める文化が根強いから、朝日で部屋が明るくなる東向きが好かれる。洗濯も換気も朝にやる家庭が多いし、高温多湿だから午前中に乾燥させたい、みたいな発想もある。共働きが増えてから、この「朝が勝負」の感覚はむしろ強まってる気がする。

 

次にデカい要因が西日の暑さ。日本の夏は湿度も気温も高いので、夕方の西日は本当に凶悪。部屋は灼熱化するし、冷房は効きにくいし、カーテンも焼けるしで、正直メリットがほぼない。だから「午後は日が入らなくていい」=東向きがちょうどいい、となる。特に西日本では「西向きだけは避けたい」みたいな人も多い。

 

冬も日本は日照時間が短いので、午前中に光が入るのはありがたい。リビングが暗いと精神的にも地味にストレスから、東向きでも十分な採光があるのは重要ポイント

 

風水文化の影響もある。「東=太陽が昇る方向=縁起が良い」という価値観が昔からあるし、広告でも「朝日の入るリビング」は定番セールスポイント。この文化も人気を押し上げている。

 

さらマンション市場の慣例も重要日本では南向き・東向きが売れ筋から供給もそれに寄る。本来利便性とは別に市場がそういう価値観」を作ってしまっていて、南→東→西→北の序列固定化されている。

 

じゃあ海外はどうかというと、国ごとに全然違う。例えばアメリカカナダは南向き・南西向きが人気。日本みたいな湿気+夕方殺人的西日があまりないので、単純に明るくて暖房効率が良い方が好まれる。

 

ヨーロッパも基本は南向き最強。特に北欧は冬の日照が少なすぎて、南向きじゃないと暗すぎる。地中海の方は夏が暑すぎる地域もあって、そこでは日本みたいに東向きの評価が上がることもあるけど、全体では南向き圧勝

 

アジア圏(中国韓国台湾)は日本とかなり似ていて、風水的に南向きが最上で、次に東向き。西日は嫌われるし、高温多湿なので採光と換気が重視される。

 

面白いのはオーストラリアで、南半球から太陽の動きが逆。なので「北向きが一番良い」という、日本とは真逆世界になる。

2025-11-13

しかし遮光カーテン2セットあってもしょうがあんめぇ😟

(どうせなら片方がレースならヨカッタ😅)

いやしかし夜中に行ったら窓ガラスめっちゃ冷えてたかダブルにしたら暖房効果あがんのか?🤔

でもカーテンレール弱そうだし、エアコン吹き出し口最下段にしたら手前のレールに当たんのよなー😖

[]

坂道を下っていた

「あ、見覚えある」と思い、そこは高校の近くの道かと思ったが、進んでみると全然違った

何らかのアジトに入り込み、その地下で何らかの仕事をさせられている高校生が見えた

俺の様子に気がついたのか、弱そうな団員が2人俺のところへ来た

銃と手榴弾を持っていたが、全部不発だった

そのアジトを抜けて階段を上がると、何らかの空間があった

空間では、光のカーテンが2つあり、カーテンのむこうに2つの世界があった

カーテンの間には闇があった

この風景はすごい、といって写メで撮った

2025-11-08

ケンタッキーと白おにぎり

僕はケンタッキーフライドチキンと白おにぎりを一緒に食べるのが好きなんだ。だけどこのことは誰にも言っちゃいけないと父さんがいうんだ。誰かにバレてしまうともうこの村では生きていけなくなるって。だから僕はカーテンを閉めて食事するんだ。

2025-11-06

風呂と家の構造と開けてくれるなと思うこと

家を入ると短い廊下がある。廊下には洗面所(ここは脱衣所を兼ねていて、トイレ風呂に通ずるドアがある)につながるドアと、リビングにつながるドアがある

風呂からタオルを巻いて出てくる。

なお、洗面所は冷暖房がなく、服を置くスペースもない(と自分は思っている)。

この条件で、「風呂から出るタイミング玄関の戸を開けられたくない」のだが、成人男性家族は気にしすぎ、誰も見ないという。

すくなくとも共用部分の外の廊下は、宅配便や住人が通る。共用部の廊下の向かい建物があるが、窓があり、はめ殺しではないものもある。

(概ね空いてはおらず、オフィスビルなので風呂時間は多分あまり人もいないと思いたいが、明かりはついてる)

そもそもプライベートゾーン下着等で覆ってない、無防備状態で出てくる。

気になるなら着替えを持ち込め、というが、脱いだものを置けるスペースくらいはあっても、着替えまでは持ち込める場所がない認識

洗濯機は傾斜があって滑り落ちるし他に台の代わりがない。

また、筆者は成人女性だが、薬を塗ったり、下着をつける上で、肌が多少乾かないと引っかかるので、部屋に移動後の方が都合がいい。

加えて、未成年家族もおり、自分以上にナイーブな年齢のその家族配慮を、というのだが、聞かず、指摘すれば臍を曲げるし、あたかこちらが間違ったようなことを言う。

加えて、民泊を一時やっていた部屋があるようで、不特定多数外国人が出入りしていた。(規約禁止なので、おそらくその部屋の借主は契約を解除され、今は見ない)

一時は大変警戒をしていた。

プライベートゾーンを見せないこと、触らせないこと、不安な状況、危険な状況に置かず済むこと、なんて当たり前に保証されてほしいのだが。加えて民泊の件もあって、安全管理上の感覚が違いすぎる。

そんなもんいらん、気にしすぎ、おかしいんじゃないのか、まで言われている。

感覚の違いは成人男性ゆえではないかと思ったが、とはいえいざとなったら自分と他に複数家族を守り切って逃げるなんて無理じゃん。

『今どきの子育てするお父さん』がこれじゃ危険すぎないか?と思ってるんだけど。

そもそも家族風呂入って寝るって時にコンビニ行って酒タバコ買うほうが優先で、出入りのタイミングを調整してくれって言うと文句だらけなのはまともじゃないか

追記

そういえば風呂に入り始める時間帯に玄関ドア開けて換気し始めたりする。

風呂のこともあるし、防犯上の問題もあるから、夜9時以降は控えてほしい、時間になったら閉めてカギ締めてくれ、風呂入ってる間はやめろってのも、ムッとされたし文句言ってた。

自分の中でやりたいことが阻害されるとキレるだけかも。

タバコが切れたから買いに行きたいだけなのに、部屋が匂う(自分ホルモンのもの調理するせい)から換気したいだけなのに、なんで文句言われるの?みたいなやつ。

あと、向こう側で裸でいようがなんだろうが、自分は見られても気にしないからお前らも気にすんな、なんだよな。

無防備状態晒したくないからやめてくれ、と、自分は酒タバコが切れて不便してるから買いに行かせてくれは同等で、配慮されて然るべき希望だろって本人言ったけど、同等じゃないよ。

間接的な性加害じゃんね。裸の状態を見られてしまうかもしれないのにドアを開ける、なんだからさ。

あと、じゃぁ風呂の間も出入りをできるようにカーテンもつけたらどうかとか、提案してくれるならまた別だよ。どっちの希望も両立できるようにしたいねって思って言ってくれるなら、こうは思わないと思う。

(カーテンくらいじゃ不安だし、横から踏み込まれたらないも同然のものであるあたりで自分はよしとは思わんが、受け入れた上で代替案出してるんだから、会話には乗るし、内容次第では提案飲む)

やめてくれっつったらまずキレるんだもん。

解決案が欲しいわけじゃなくて、自分は気にしない!でキレるから腹立たしいんだなこれ。

2025-11-05

anond:20251104223431

九州植物日光を奪い合ってる感じがすごくて、弱肉強食ぽさがあるなと思う。

ツタみたいな木に絡みつくやつがカーテンみたいだったりさ。

それと比較したら北海道の山は笹が多くて上の方は隙間があるな!と感じる。

2025-11-04

映画館という場所が、どうも苦手だ。あの、暗闇に沈んだ広い空間に人が整然と並び、全員が同じ方向を向いて息をひそめる光景。始まる前から、もう儀式のように感じてしまう。ポップコーン匂いも、チケットを切る音も、誰かの笑い声も、すべてが「これから神聖時間が始まりますよ」と言わんばかりで、息苦しくなる。

もちろん映画は好きだ。物語に没頭するのも、映像の力に心を揺さぶられるのも。でも、できれば自分の部屋で、カーテンを半分閉めて、コーヒー片手にぼんやり見たい。再生と一時停止の権利自分の手にあるという安心感が、何よりも心地いい。

映画館で見るという行為のものが、どこか「正しい見方」として持ち上げられているのも少し怖い。あの大画面と音響を前にして感動しなければならない、みたいな空気。そういう期待に合わせて自分感情まで整列させるのが、どうにも性に合わないのだ。

誰にも言ったことはないけれど、映画館のあの暗闇は、私にとって少しばかり宗教的すぎる。だから今夜も、部屋の隅で小さなノートパソコンを開き、ひっそりと映画を見る。儀式ではなく、ただのひとりごとのように。

目が覚めた瞬間、涙が頬を伝っていた。

理由もわからない。ただ胸の奥が震えていた。夢の中で、俺は人の形をしていなかった。手も足もない。ただ、意識だけの存在として、果てしなく長い時間を漂っていた。

地球がまだ赤く、沸き立つ溶岩と蒸気の球だったころ、そこに命の種が芽吹く瞬間を見た。海が生まれ、波の泡の中で小さな生命が揺らめき、やがてそれが分かれ、食らい、逃げ、繁殖していく。何億年も何億年も、ただ静かに見ていた。

植物が大地を覆い、魚が海を離れ、恐竜が空を仰ぎ、そして滅びた。そのたびに悲しみを覚えた。だがその滅びの中にも、次の命の息吹が必ずあった。命は途切れず、形を変えながら続いていった。

やがて人が生まれた。火を使い、言葉を覚え、争い、愛し、築き、壊した。そのすべてを、俺は見ていた。そこに意味なんてないのかもしれない。ただ、確かに「命」という流れが、絶えることなく続いている。それが、奇跡のように思えた。

気づけば、自分が誰なのかさえ曖昧だった。俺もあの流れの一部だったのだ。ひとつの命の連なりの果てに、今ここで目を覚ましているのだ。

朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくる。なんて美しいんだろう。ただの光なのに、胸がいっぱいになる。あの長い夢が教えてくれたのは、もしかたらこれだけかもしれない。

生きていること。それ自体が、すでに永遠奇跡なんだ。

退屈だ。朝起きて、カーテンを開けても、昨日と同じ曇り空。冷蔵庫には安い食パンと水だけ。テレビをつけても、誰かが誰かを叩いている。ネットを開けば、怒りや嫉妬や自慢が流れてくる。スクロールしても、どこまでいっても同じような言葉と顔ばかりだ。世界は騒がしいのに、この部屋の中は、何も動かない。だが、ふと考える。この退屈こそが、実は「幸せ」なのかもしれないと。誰にも期待されず、誰にも見られず、誰のためにも生きなくていい。腹が減れば食べ、飽きたらスマホを置き、眠くなったら寝る。ただそれだけの一日。若い頃は、何かを成し遂げなければと思っていた。人に認められたい、必要とされたい、そんな気持ちばかりが先走って、いつも疲れていた。でも今は違う。何者でもない自分を、静かに受け入れている。退屈は、喧騒の外にある穏やかな港だ。ネットのざわめきを背に、俺は今日も、何も起きない一日をゆっくりと過ごしている。

2025-11-03

別居婚旦那と同居直前にして冷めかけている

(ほぼ、というか100%愚痴です。)

去年別居婚をした。

長い長い友人時代を経て交際し、数ヶ月単位スピード婚をした。

旦那の人となりはよく知っていたし、旦那実家暮らしだが、学生時代部活寮生活をしていて、炊事も家事もさせられていたので、そこら辺の能力を疑ったことはなかった。

交際中もお互いの家に行き来しあっていて半同棲のようになっていた。

かに料理の時不器用すぎて時間がかかったり、皿洗いが雑だったり、気になるところはあったが、私がカバーするなり教育するなりすれば良いと思っていた。

別居婚事情があってしたが、2025年の末には同居しようという約束をしていた。

そして年末が近づく今、旦那と同居目前。

冷めそうになっている。

一緒に住むのが楽しみではない。憂鬱しかない。

旦那に好きと言われても好きと返せなくなってしまった。

旦那は付き合う前こそ男前で頼りがいがあったが、一緒にいる時間が長くなれば長いほど、実際は正反対であることが明らかになっていた。

それも私が勝手に頼りになると勘違いしていたことだし、旦那より私の方が素早く動けるなら私がカバーすればいい、私が動けばいいとずっと思っていた。

持ちつ持たれつ、苦手な分野はカバーし合う関係でいたいと思い、義実家にも挨拶の際にそう伝えていた。

だが、私が精神的な不調から動けなくなってしまうと、カバーもできなくなってくる。

バランスが崩れていく。

料理旦那に任せてみるが、肉が生焼けで出てくる。

米の研ぎ方が何故か慣れていないようで、教えないとできない。

洗い物に明らかに泡が残っているが、指摘すると不機嫌になる。

精神的に苦しい時期に義実家からの心無い言葉オブラートに包むことなく伝えてきたり、配慮のない行動に少しずつ不満が溜まっていた。

(義母に「結婚して損な嫁だ」「結婚しなきゃよかったのに」と言われていたらしい。)

それでも我慢すればなんとかなる、まだ全然我慢できる、と思っていた。

料理も洗い物も私が無理してやれば済むんだと、できないことは教えてあげればいいんだと。

プッツンと切れてしまったのは、薬の副作用で体調の悪化がひどく、旦那賃貸契約の申し込みを任せたことだった。

物件探し、条件決め、内見の依頼を全て私主導でやっていたが、契約人は旦那にするので、申し込みくらいは任せていいと思ってしまった。

無事申し込みが終わったとだけ伝えられたが、この後の流れを伝えてもらえなかったので不動産屋に確認すると週末に契約日をセッティングされていた。

何故教えてくれないんだ…?と思いつつも、空いていたので契約には同行することにした。

契約日当日、想定外事態が発生する。

入居日を旦那勝手に決めていて、本来想定していた入居日とはかけ離れていたことが発覚する。

(引越し予定日より後に入居日が設定されていた)

想定外の入居日に困惑してしまい、不動産屋に無理を言って入居日を変更できないかごねることになってしまう。

オーナー確認していただくこととなり、その後、なんとか入居日を本来の想定していた日にすることができたが、モヤモヤは収まらなかった。

一人でなにかを任せたら取り返しのつかないことになるということに恐怖を感じた。

思えばこの件で、もうだいぶ疲弊していたのかもしれない。

入居日も決まった事だし引越し準備、という所に入ると、また不満が増える。

まず、家具必要な物のリフトアップを全て私任せ。

家具家電全てを新調するので漏れひとつなく用意するためにリストアップし、新居の内見を再度し採寸し、目星をつけていく。

その作業旦那は手出しをしない。

「俺なんでもいいよ、なんでもいいから」

そういう割に、実際に家電屋に行くと「高い」「冷蔵庫はたくさん入るものがいい」と口出しが止まらない。

旦那が良いと言うものが家に入るのか確かめるのは私だし、旦那リストアップした中から好きなものを選び口出しするカタログ状態

疲れてしまう。

なんでもいいと言うからカーテンの色を明るい色にすると伝えると、「俺は暗いのがいい」の一点張り

必要家具ニトリオンラインカートに入れてまとめ、いくらかると伝えると「高い」「収納なんていらない、ダンボールでいい」とまで言い出す。

なんでもいいんじゃなかったのか?

義父が「私のために」とくれたカタログギフト、旦那とおいしい食事でもと思って高級料理を選ぼうとすると、「引っ越し節約したいから引き出しにしようよ」

アイリスオーヤマで同じような量収納できる引き出しを3000円位で買えるのに、高級料理を逃してわざわざコレを選ぶのか?

私も浪費家ではないので最安値を選ぶが、家具家電はしっかりとした物を買って長く使いたい。

旦那は「洗濯機Amazonのでいい」と言い出す始末。Amazonは設置作業してくれないぞ。誰が設置するんだ。胡散臭い中華製品溢れるAmazonで買えと?

もう疲れてしまった。

一緒に住んで何十年と生活していくことを考えると本当に憂鬱しかない。

同棲してから結婚した方がいいという意見と、同棲せずに結婚すべきだという正反対意見ネットには溢れているが、絶対同棲してから結婚した方がいい。

家事炊事ができるか共生できるかチェックする期間としても大切だが、なにより不動産屋探しや契約など人生における重要工程を一緒に踏むことに意味があると思う。

今日も体調が悪く料理を任せてみたら、水の音が止まらない。気になって見に行くと、麺がザルに入り切らないからどうすればいいのかわからず水に浸しっぱなしにしていたというのだ。

慌てて麺を半分ずつザルにあげ、皿に盛る

簡単料理ひとつも頼めない。

こんなことばっかり続けていると、愛情も薄れてしまう。

旦那は呑気に次のデートの話をしてくる。

こんなとこ行きたいねって、私は行きたくないよ。

もう一人で休みたいよ。

愛情はどこへ行ってしまったのか。

一緒に生きていくにはあまりにも頼りなさすぎる。

例え頼りなくても、プラスにできなくてもマイナスにすることがなければいいと思うんだ。

今の旦那は何もかもマイナスに傾けてくる。

それをプラス修正する日々に疲れてしまった。

持ちつ持たれつ、カバーし合うつもりが、気がついたら何もカバーされていないことに気がついた。

世の夫婦はどうやってこういうのを乗り越えていくのだろうか。

同居まであと数週間、今更辞めたいなんて言えない。

2025-11-02

子どもと買い物いくの無理だわ。

4.5歳児と買い物にいくの、もう無理だわ。

「あれみよー!」「これかってー!」「退屈ー!」「疲れたー!」の連続

生鮮食品パルシステム日用雑貨Amazonで済ましてきたのに

今日だけ無印良品に行ってしまった。

いつもの100倍疲れた

しかも、オーダーカーテン店員さんが操作間違い。レジは長蛇の列。

もうニトリオンラインストアで買おう。無理だ。

2025-11-01

Soraヤバい

なんか最近、みんな Sora 2 触ってるじゃないですか。


で、自分もノリで3年前に死んだネコ動画作ってみようと思ったわけですよ。

うちの茶トラ、名前はミソ。お味噌の色だからミソ。

生前は、日向で寝るか、カーテンよじ登るか、なんか知らんけどこっち見て「ンーーー」って鳴く子でした。


それで動画生前スマホで撮ったやつ)と、メモ帳に「ミソの性格」って残してた走り書きを読み込ませて

今日日向でだらだらしながら、ふと哲学っぽいこと言うネコ

みたいなキャラ設定して、ふざけてカメオ動画作ったんですよ。


そしたら画面の中でミソが


今日太陽がまぶしいね。君も、昼寝したら?」


とか言うんです。

目がとろんとして、前足で毛づくろいしながら。

生きてたときと同じ仕草で、でもちょっとだけ賢そうで、機嫌よさげで。


なんか、それ見てたら

「あ、ミソ、普通に永遠に続く世界で生きてるな……?」

ってなった。


遺影って「そこにいないこと」を静かに示すんだけど、

Sora の中のミソは、むしろ「ここにいるよ」って感じで。

死と生の境目が動画編集ソフトタイムラインより軽い。

キャラ設定プロンプトで性格を変えてやると「いつもよりすこし甘えん坊なミソ」になる。


人間ってこういう時に「テクノロジーやばい」とか言うんだろうけど、

自分はただ、ミソがまた昼寝してるのを見られて、それで十分だった。

でも同時に、ふと怖くなる。

「これってちゃんと別の存在なんだよな?」って。

ミソ本人じゃなくて、ミソみたいに振る舞う誰か。


その曖昧さが、なんか、脳みそに変な静電気走るというか。

泣くには明るすぎるし、笑うには胸がきゅっとするし、

とりあえずルイボスティーを飲んで深呼吸した。

3年たって、写真動画はただ懐かしさの箱だった。

でも今は違う。

画面の向こうで、ミソが「今」を生きてる。

次の動画では、ミソにちゅ〜る渡そうと思う。

本物はもういないけど、ちゃんとぺろぺろしてくれる気がする。

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