はてなキーワード: 醜態とは
シーンをそれなりに真剣に追っている者として、ウメハラがメナに勝つ確率は低いと思っている。
そのあたりをデータで語りたい。
ウメハラの昨年度の戦績はこうだ。
国内外を問わず、ある程度までは行くがトップ層にはしっかり負ける。
それはそれで凄いという話もあろうが、「格ゲーの王」としては物足りない。
これらのトーナメントに参加するプレイヤーの大きな目標は、巨額の賞金が懸かった二つの大会、
「Esports World Cup (EWC)」と「カプコンカップ(CC)」への出場権獲得だ。
ウメハラはどちらの出場権も獲得できなかった。
すでに世界のトップ層が別のトーナメントで出場権を獲得している状況で上位10人というのは、
さすがに最近奮わないウメハラでもいけるかと思われたのだが、そこでも33位だった。
実に安定している、悪い意味で。
World Warriorは、カプコンカップ(CC)の予選大会だ。
上で挙げた国内外のトーナメントとは別に、CCへの出場権を獲得するチャンスとなる。
全5回の開催で、
がCCに出場できる。
ウメハラの戦績はこうだ。
上振れただけ、という結論だろう。
それは他の大会の戦績を見れば分かると思う。どちらがデフォルトなのか。
もし、「それでも1回だって2位になるなんて凄い!」と言うなら、
その大会でウメハラを完封して優勝したひびきのことを、あなたたちはどれくらい評価しているのだろう?
結果を正当に評価しているとは到底思えない。
ウメハラは、弱くないが、プロとして「強い」と言うのは難しい。
ちなみに、メナは数千人が参加するEVO JAPANを2年連続で優勝している。
近年の戦績で言えば圧倒的にメナが上というのは、誰もが認めるところだ。
ここは強調しておきたい。
「つまらない調整」だったのだ。モチベーションを保つのが難しい。
「豪鬼はものすごい弱体化を受けた」と思っている人がいるのだとしたら、それは話を聞かず印象で語っている人だ。
なぜそんな印象になってしまうのだろうか?
それは、豪鬼が「胴着」と呼ばれるスタンダードキャラの一種だからだ。
豪鬼のように波動拳・昇龍拳で戦うキャラクターは「胴着」系と呼ばれ、
だから胴着使いはキャラの乗り換えが比較的容易で、より良い選択肢に移住しやすい。
結果として豪鬼はごっそり減った。
だがそれは胴着キャラという特性ありきで、「極端に弱くなったから」ではない。
(と言うか、スト6において戦えないキャラなどいない。奇跡的にバランスがいい)
だが、勝ちに拘る上位層ほど、胴着キャラでは容易にキャラ替えする。
つまり「勝率の高いプレイヤーほどいなくなりやすいのが胴着キャラ」ということだ。
https://www.streetfighter.com/6/buckler/ja-jp/stats/dia_master/202602
キャラ同士の組み合わせで勝率の割合を示しており、「5」ぴったりなら完全に五分となる。
そこから増えれば有利な相性で、減れば不利な相性だ。
最上位帯となるULTIMATE MASTER(アルマス)帯の相性を見ていこう。
確かに数値は悪くなっている。
しかしここで重要なのは、「勝ちにこだわる上位層ほどキャラを乗り換える」という事実だ。
胴着キャラは人口が多いので、移住による勝率変化がもっとも顕著に出る。
つまり、実際に強くなった・弱くなった度合いよりも、勝率変化が大袈裟に出やすいということだ。
ナーフ後は、4.968。
数値だけ見ると豪鬼の方が下げ幅が大きいが、
上位層でもそのまま粘って使い続ける人が多いだろう。
このあたりの事情を加味すると、豪鬼とブランカの弱体化度合いは、せいぜい「どっこい」だ。
少なくとも「ウメハラは超絶ナーフを食らった豪鬼で頑張っている」というのは大きな勘違いと言えるだろう。
ちなみに、
で、これは五分と見ていいだろう。
これはアルマス帯の統計で、対戦相手はアルマス帯以外も含まれるので、綺麗に足して10にはならない。
データとして、近年の戦績の部分ではメナが圧倒的に優勢、キャラの部分では五分、ということが分かってもらえたと思う。
だから俺はメナが勝つと思う。
ドミニカのコミュニティのために、それこそかつてのウメハラのように、あるべき姿を示している。
尊敬すべき男だ。
唯一ウメハラに分があるとしたら、圧倒的ホームの環境というところだ。
メンタルの部分でもメナは臆せず戦えるだろう。
俺が言いたいのは、過去の栄光とか、実態に基づかない願望とか、
そういったことでウメハラを「格ゲーの王」などと言って持ち上げるのはもうやめて欲しいということだ。
「格ゲーの王」を自認して、それを誰も突っ込めない。
「馬鹿野郎!全然勝ってねえくせに、"王"なんて調子こくな!」と誰かが突っ込んでやらないと、痛々しいだけだ。
つい先日、SFL ワールドチャンピオンシップという団体戦の世界大会の説明を受けているときに、
他のプレイヤーがちゃんと話を聞いているなか、ウメハラだけスマホを横にして、だらしない姿勢で何か別のゲームをしていたのをご存知だろうか。
あまりにも酷い態度で、「チームメイトのレシャーが機嫌悪そうなのはウメハラがあんな態度だからではないか」とときど・ふ~どが心配したほどの醜態だったが(実際は頭痛が辛かったかららしい)、
そのことでウメハラを「シャドバやってたんすか?」と軽く問い詰めたら、「いや、スレスパだから。しかも1」などと言ったらしい。
笑えるが酷い話だ。シャドバだろうがスレスパだろうが選手として姿勢がなってないという話だろう。
でもウメハラはふんぞり返る。ふんぞり返り続ける。
なぜなら王だから……。
こんな時代はもう終わりにしないといけない。
ウメハラはその場でいい感じのことを言う才能だけは格ゲーよりもあるのでみんなコロっと騙されるが、
しっかりウメハラの動向を追っていると幻滅することだらけなのだ。
メナよ、頼んだぞ。
予想通り、メナが勝った。順当な結果だった……とは思わない。
正直、2-10でウメハラが負けてもおかしくないと思っていた。
結果は6-10。
ただ、これから先、
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
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瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
罵倒するなら『はてな匿名ダイアリー』
性差別するなら『はてな匿名ダイアリー』
決め付けするなら『はてな匿名ダイアリー』
ブクマカするなら『はてな匿名ダイアリー』
ブクマカ殺るなら『はてな匿名ダイアリー』
地方差別するなら『はてな匿名ダイアリー』
都民揶揄するなら『はてな匿名ダイアリー』
無能ふりまくなら『はてな匿名ダイアリー』
議論という醜態さらすなら『はてな匿名ダイアリー』
本作は、ジャンプでかつて連載されていた少年漫画であり、女優を目指す少女と彼女の才能に魅せられた映画監督とを軸に、役者の世界を描いている。
中でも、9巻から描かれる舞台「羅刹女」を巡る物語の、特にサイド甲(主人公側)の演技は、現代のSNS問題を反映した非常に興味深い内容と言える。
そこで、「羅刹女」の物語を再解釈しつつ、マンガワン騒動で荒れる昨今のSNSを捉え直してみようと思う。
あらすじ等の解説はしないので、アクタージュ本編を先に読むことを推奨する。
三蔵法師一行の行手を阻む火焔山の炎を消すため、孫悟空は羅刹女に芭蕉扇を貸すよう要求するが、断られてしまう。
孫悟空は羅刹女を倒すことで、あるいは騙すことによって芭蕉扇を手に入れようとする。
三蔵法師は、あくまで羅刹女と対話することで、火焔山の炎を消してもらおうとする。
猪八戒と沙悟浄は、三蔵法師による説得の最中に割り込んで羅刹女を攻撃し、彼女の怒りを呼び戻してしまう。
一行の行動は(三蔵法師を除けば)無礼そのものであり、炎を消すことに正当性があったとしても、羅刹女には怒る権利がある。
むしろ、夫・牛魔王の不倫に対する怒りや、息子・紅孩児の悲報を受けての悲しみこそが、彼女を怒らせる原動力となっている。
彼女にとっては「怒ること」それ自体が目的であり、孫悟空たちの横暴は暴れるための理由づけでしかない。
読者が今回の件で怒るべきは、マンガワン運営側の不適切な対応が主である。
しかし、刑罰の軽さという司法上の問題や、特に関係のない過去の小学館の不祥事も含めて、彼らは攻撃材料にしている。
さらには、論理の不適切さを指摘した第三者や、意見表明をしない漫画家など、少しでも自分の意に反すると感じた対象に無条件に攻撃し出す人すらいる。
怒りの原点が事件そのものにあったとしても、彼らも羅刹女と同様、ただ八つ当たりがしたいだけのように見える。
このような羅刹女の人物像について言及される場面がscene95にである。
今回のマンガワンの騒動、あるいは政治や教育、男女差の問題など、常日頃から何らかの事象に怒り続けている人々はSNS上に数多く存在する。
彼らは読者であり国民であり、性別を有する人間であるため、これらの問題全てに対して当事者である。
しかし、彼らは本当に、それぞれの事象に純粋に怒っているのだろうか?
日頃の鬱憤、喪失の悲しみ、社会に対する無力感などをぶつける先を求めているだけではないか?
「社会は一貫して狂っており、だからこそ自らは一貫して怒り続けなければならない」
そのような、ある種の強迫観念囚われているだけでないのだろうか?
怒っている人に「あなたはただ誰かに八つ当たりしたいだけでしょう?」と言うのは簡単だ。
しかし、それをストレートに伝えたところで、単なる煽りか論点ずらしと思われ、さらなる怒りを買うだけである。
だからこそ、舞台「羅刹女」においては、彼女に共感し理解しようと努力する三蔵法師が説得役となる。
とにかく怒りをぶつけようとする羅刹女は、三蔵法師の柔らかな態度と、そこから放たれるある種の正論にたじろぐ。
怒り狂う人間に対しては、感情を理解しようとする第三者からの説得が効果的であることが、ここで強く表現されている。
しかし先述の通り、三蔵法師の説得は、猪八戒と沙悟浄の横入りによって一度失敗する。
彼らは三蔵法師の手下であり味方である一方で、三蔵法師が羅刹女を説得する上では障害となっている。
「火焔山の炎を消したい」という目的こそ一致しているが、取るべき手段が真逆なのだ。
同じ主張であっても、優しく諭すように伝える人もいれば、他人を馬鹿にするような表現を使う人もいる。
常識的な対応をしていたはずの人間が、レッテル張りと罵倒によって冷静さを失い、過激な発言を繰り返すようになることは多い。
だが、これは他人を馬鹿にする人間が悪である、という単純な話ではない。
他者を罵倒し嘲笑う人々のうち一定数は、自らの主張を通すためには説得より攻撃が適切であると信じている。
他人の醜態を笑い、徹底的に馬鹿にすることが、相手の反省に繋がると考えているのだろう。
そして、力づくで奪うことも、罵倒によって意見を通そうとすることも、確かに手段の1つではあるのだ。
終盤、羅刹女は孫悟空・猪八戒・沙悟浄を倒した上で、再び三蔵法師と対峙する。
そして、3人を痛めつけながら、三蔵法師に「私を許してみろ」と詰め寄る。
もちろんこれは「許せるわけがない」と確信しているからこその行動である。
対して三蔵法師は、怒りを顔に浮かべつつも、「あなたを許します」と答える。
この会話は少し奇妙な流れと言える。
先に羅刹女に手を出したのは孫悟空であって、反撃を受けて痛めつけられたのは自業自得である。
問答の流れに沿うとはいえ、三蔵法師が「あなたを許します」というのは、手下が無礼な行いをした後の態度としては尊大すぎる。
「頼みを断られたから強硬手段に出たら返り討ちにされました」に対して怒るのは、それこそ八つ当たりだ。
しかし、だからこそ三蔵法師の怒りの表情は羅刹女の鏡として機能する。
しかし羅刹女にとって、自分が孫悟空たちに怒る理由は、彼らの横暴に対してでなければならない。
怒る自らを肯定するためには、今の怒りが八つ当たりだと認めるわけにはいかないからだ。
だからこそ、自らが孫悟空たちを痛めつけたならば、三蔵法師には怒ってもらわねばならない。
そうでなければ、怒っている自分がおかしいと証明されてしまうからだ。
ところが三蔵法師は、八つ当たりに近い無意味な怒りの醜さと、その感情を理解しつつも「許す」と宣言して見せる。
結果として、鏡を見るような形で、羅刹女は自らの醜さを理解することになる。
SNS上でも、過激に他者を批判していた人が、より過激な発言をする第三者を見て少し冷静になる事例がたまに見られる。
自らの醜悪さは、鏡写しの他者を見せつけなければ理解できない。
ただし、その醜い姿が自分であると認識できなければ、自らを省みることには繋がらないだろう。
現代社会においては、ダブルスタンダードを避け、常に一貫性を保つことが求められ続けている。
「理由の説明があれば意見・考えが変わっても良い」と言う人もいるが、これまでの考えが過ちだと公の場で認めるのはなかなか勇気がいるし、仮に認めたとしても、その説明をあらゆる人間が読んでくれるとは限らない。
だからこそ人々は一貫して怒り続けなければならないだろう。
怒りに震える羅刹女の救いは、怒りのために用意された舞台の中にはなかった。
目を向けていなかった、舞台の外にこそ彼女の「豊かさ」があり、それは演技から外されて初めて見えるものであった。
マンガワン騒動では、直接関わりのある作家や運営、編集者だけでなく、単に連載を持っているだけの他の作家や、事情を知らなかったであろう小学館の他の部署に対しても批判が相次いでいる。
特に、日頃からSNSを活用し、発言しないことにすら意味を見出されるようになった人々は、その影響をダイレクトに受けているように見える。
SNS上の人格、その一貫性という物語に囚われてしまうと、際限のない怒りに呑まれ、論理的な判断ができなくなってしまう。
アクタージュの「羅刹女」は、マンガワン騒動の外部からもたらされた、SNS社会に対する警鐘であり、醜さを映す鏡であり、彼らへの救済である。
泥濘の底
私も、とうとう老害という、救いようのない無粋な生き物になり果ててしまったのだろうか。
先日、職場の若い男が、碌に裏付けも取らずに放り投げてきた仕事があった。泥の河から掬い上げたような、形ばかりの無機質な書類。私はその粗漏な出来に、肺の奥から絞り出すような溜息をつき、すぐさま根拠となる資料を添えて、「ここが違っているよ」と突き返した。澱みのない、氷のように冷徹なやり取りのつもりだった。
ところが、その後のことだ。用を足しに立った洗面所の、湿ったタイルの匂いが立ち込める個室で、思いがけずその男の声を聞いてしまった。彼は、私への不平を連れションの相手に零していた。驚いたのは、その相手である。彼を指導する立場にあるベテランの男が、「ああ、あいつは鼻持ちならないよな」と、腐った水を飲み込むように、事も無げに相槌を打っていたのだ。
胸の奥に、ざらついた砂を無理やり嚥下したときのような、暗い苛立ちが広がった。
時間に追われ、仕事が雑になることは、生きている限り避けられぬ業のようなものだ。だが、それは自らが負うべき覚悟の果てにあるべきものではないのか。何より、個室に誰が潜んでいるかも知れぬ場所で、無防備に愚痴をこぼすその立ち居振る舞いが、社会人としてひどく危うく、薄汚れて見えてならない。もしこれが、取引先の人間でも居合わせていたら、その男は自らの首を絞めることになっただろう。
さらに合点がいかないのは、指導役の無残な態度だ。「辛かったね」とでも言わんばかりに、若造の甘えを無批判に抱擁して、一体何を守ろうとしているのか。数分調べれば済む手間を惜しみ、間違いを指摘されれば逆恨みをする。そんな繊細すぎる硝子細工のような心根で仕事をしたいのなら、最初から完璧を期せばいい。図太くやりたいのなら、最期までその泥に塗れた図太さを貫き通せばいいのだ。
「君は何も悪くないよ」という甘い毒液のような言葉が、青年の成長の芽を無残に摘み取っていることに、なぜあのベテランは気づかないのだろうか。ほんの少しずつでも、職人としての経験値を血肉にしていくような、そんな情のある教え方というものがあるはずだ。
よその部署の教育方針に口を挟むのは、それこそ老いの醜態だと分かっている。だから私は、何も言わずにこの数日を過ごした。けれど、ふとした瞬間に、やはりあんなやり方は間違っているのだという思いが、黒い澱のように心の底に沈殿していく。
若者の働き方に眉をひそめ、年長の振る舞いに、言いようのない違和感を覚える。これこそが、かつて私が若い時分に軽蔑してやまなかった、「老害」という名の孤独な死に至る病の正体なのかもしれない。
夕暮れ時、どぶ川のように濁った空を見やりながら、私は静かに、自らの足元にまで忍び寄る「老い」という名の深い影を認めていた。
でも死に間際になって取ってつけたように原発反対とか言い出すという滑稽な醜態を曝してしかもまったく注目もされていませんでしたよね?
最近、プロサッカーチームのジュビロ磐田がファンサービス企画の参加者にマスク着用を義務付けるSNS投稿をし、いわゆる“ノーマスク界隈”の方々に見つかって炎上するということがあった。
https://x.com/jubiloiwata_yfc/status/2016451843250098565?s=46
この“ノーマスク界隈”の方々は、自分の主観ではあるがSNSでことあるごとに発生しては多数から白い目を向けられがちな界隈のように見受けられる。
マスクの着用による感染症対策への効果という部分の論点については正直なんでも良い。肯定も否定もしない。
なんなら正直な話、ノーマスク派の人が投稿しているマスクの効果が無い理屈を見ると「ほうほう」となる部分もあることは否めない自分がいるし。
(自分より遥かに頭の良い方からしたらそういった意見も嘲笑ものなのかもしれないが。自分は難しい理屈とかよく分からないので本当にその程度の認識。)
ただ、その上でやっぱり「マスク意味無いから強要するな!」と騒いでいる人に対してはどうしても白い目を向けてしまう。
また、「わたし、“氣”付いてしまいました…」的な陰謀論者に対しても同様。
彼らは恐らくだが、「私たち少数派は分かっている真実に世間の多数は目を向けていない、愚かな世界だ。同調圧力だ。」みたいなマインドなんだと思う。
特にSNSでは少数派のヤバい側扱いをされるような人間が、その理論が正しいかどうかを誰かに対して一方的に捲し立てる光景が見られる。
繰り返しになるが、個人的に思うのはその理論が正しいか正しくないかなんてのは今はどうでも良い。
なんなら時が経てば世間の価値観そのものがひっくり返り、現代において少数派の陰謀論者扱いをされている人たちの方が正しかったとなる時代が来るかもしれない。
現代においてマスク=安全性が高まるという価値観が多数派になっており、それによってマスクを着けていない人を見ることで不安に駆られる人がいるのなら、その人たちのためにその場のルールに従うだけだよねという、本当にそれだけの考え方。
自分がそこにノーマスクで入ることにより、病院の利用者がそれに対して不信感を抱くだろう、それなら何も文句言わずにその場のルールに従いますという…本当それだけ。
正直、「私の方が正しい。正しいことを言っている少数派を迫害するのは同調圧力だ。」と言われても知らねえよという感覚でしかない。
だってそれが正しいとしても、世間の多数派をひっくり返して全員に納得させられるだけの言論活動を出来ていないあなたが悪いんだから。
特定の場面でマスクが云々と喚いてノイジーマイノリティ的な悪目立ちをするくらいなら、然るべき理屈を持って然るべきアプローチをし、多数派を納得させてくださいよとしか言えない。
それこそ「地動説」みたいに誰しもが疑う余地のない絶対的な根拠さえあれば多数派をひっくり返すことなんて容易な訳だからさ。
それが出来ていない時点で所詮お前ら少数派が思い込んでいる「真の正しい話」とやらは現状たくさんあるうちの価値観の一つに過ぎない。
価値観の一つに過ぎないうちは多数派を不快にさせないようコミュニティの中でただ黙って従って大人しくしててください、と思う。
それこそ騒いでいるのに理解されない少数派からしたらあなたたちの自認は「地動説」を唱えた当時のガリレオ・ガリレイなのかもしれない。
悪いけど増田としては当時の時代に生きていたとして、「地動説」を唱えられることで多数派が不安な気持ちに陥るようなことがあったのなら、普通にガリレオを軽蔑していたと思う。
理論や理屈というものは多数派が納得し得るだけの確固たる根拠が提示できないうちは、普通に過ごしている世間一般の人々を不快な気持ちに駆り立てるような行動を取らない、というのが人間らしく社会で生きるためのあるべき立ち回りだと思っている。
話は変わるが、親指を相手に向けて上に立てる「サムズアップポーズ」は日本だとポジティブな意味合いで解釈されているが、イスラム圏だと侮辱的・性的な意味を持っているためやってはいけないらしい。
ノーマスク云々の件で白い目を向けるのって、結局はノーマスクたる理論の正確性云々よりもそういう問題じゃないのかなと思う。
日本人のこちらからしたら別に敵意は無いしむしろ良い意味だよとサムズアップポーズをする。でもそんなの受け取り手からすれば知ったことではない。
それなら多数派の価値観に合わせて不快な気持ちにさせないようにしましょうねというだけの話。
郷に入っては郷に従えとはよく言ったものだ。
だから病院でのマスク着用という話も効果があるないの問題では無く、「効果がある」という価値観が多数派になっている時点でマスクをしない人を見ることで不安な気持ち・不快な気持ちになる人が出てくる訳なので、それはもう理論云々の戦いは一旦諦めて人間らしく社会を生きる上で郷に従いましょうね、というところに着地しないものですかね。
結局あなたたち少数派は自信を持って多数派を取り込めるだけの確固たる根拠とアプローチ方法、プレゼン技術が無いからこうして目先の噛みつけるものに噛みついて醜態晒しているだけに過ぎないんですよ。
どうぞそのまま多数派に理解されない異端者としてバカみたいに生きててください。増田はもう何も考えずに人間らしく、マスクを着けて大人しく社会に帰属しますので。
勿論あなたたちが多数派の言説をひっくり返す大逆転劇を見せる日が来たのなら、増田はそれに従ってのうのうと生き続けようと思うので。
2022年から協力党員だったけど、今日の公明党との合流決定のニュースを確認してから、夕方に総支部の事務所に行って離党届を提出した。
旧立憲結党のときはまだ高校生だったし、政治にあまり強い関心はなかったけど、立憲民主党の結党に、「政治が少し良くなるんじゃないか」と淡い期待をしたのを覚えている。その後、コロナ禍から2021年総選挙までの間の流れで立憲民主党に共感して、衆院選では陰ながら応援した。結果的に敗北したのは残念だったけど、自分自身が動かないといけないという一種の使命感を感じて、翌年のはじめに入党することにした。
それから私は、体調が悪かったりしてあまり思うように活動できなかったけど、いろいろな貴重な経験をした。電話かけをしたり、ポスターを貼ったり、ビラを配ったり、党本部での会合に出席したり、遠くまで行って選挙の手伝いをしたり、地元の議員に会って裏話を拝聴したりした。選挙の立会人も何度かやった。
けれど、2023年ごろから立憲民主党の方向性への違和感が強くなってきた。まず、春先の入管法国会。非正規移民を本国に送り返して生命の危険にさらす入管法「改正」案に対して、米山隆一がトロッコ問題的な論法で「妥協する」ことを主張した。それは、外国人を事実上「殺す」法案に対して承認のハンコを押すようなものだと私は感じた。塩村あやかや鈴木庸介もそれに乗っかり、私がそれまで信頼していた多くのネット支持者も同調した。幸い、鎌田さゆり、山田勝彦、石川大我、石橋通宏らの努力もあり、立憲は最終的にハンコを押すことを拒否した。けれど、当事者の生命を無視した功利主義的な議論が支持者の間ではびこったことに対し、私はかなり居心地の悪さと憤りを感じた。
その後も、私の違和感は強まるばかりだった。2024年の代表選では、枝野幸男に投票した。結局野田佳彦が勝利して、代表選中に自分の陣営にいた人ばかりを執行部に起用する露骨なお友達人事を行った。私は、気分が悪くなった。サンクチュアリ(近藤・枝野派)、国のかたち研究会(菅派→西村派)、社会民主主義フォーラムなどの「左派」系党内グループが野田執行部の路線に対して何らかの抵抗を示してくれるかもしれないとのかすかな期待を抱いた。けれど、しまいには(私にはもはや迷走しているようにしか見えなくなった)枝野幸男、そして近藤昭一も、野田佳彦に呼応して「中道」という空っぽな言葉を連呼するようになった。
立憲民主党が近いうちになくなるのではないか、「希望の党」騒動が再び起きるのではないか、という懸念はしばらく前から抱いていた。けれど、それがここまではやく現実になるとは思っても見なかった。私は、心のなかの違和感をひた隠しにしながら、衆院選に、都議選に、参院選に奔走(というほどのことはしていないが)した。24年衆院選で立憲が50議席増やして躍進し、私の選挙区の候補が久しぶりの小選挙区当選を勝ちとったときは、心の底から嬉しかった。
けれど、それも全て無駄だった。「立憲」民主党は、立憲主義も中道左派の仮面も捨てて、「改革中道」という味のしないガムのようなくたびれた言葉で、つい数ヶ月前まで自民党のウンコみたいな政治を翼賛しまくっていた公明党=創価学会に擦り寄りはじめた。そして、数日前に統一名簿の話が出たかと思ったら、昨日の夜に新党結成の速報がいきなり出て、24時間もしないうちにそれは党の機関決定になった。1日もたたない間に決まったので、一般の党員はもちろん、地方議員さえ意見を述べる猶予は一切なかった。日本共産党がボルシェビキの組織論をもった社民主義者なら、立憲民主党は選良の皮を被った前近代的な地方大名の連合体にすぎない、と私は感じた。立憲「民主」党のなかに、少なくともわれわれが一般に理解している意味での党内民主主義は、存在しない。野党第一党が政局のために一瞬で溶解した希望の党騒動の反省は、「排除の論理をとらない」といううわべの口約束にしか見られない。
私はそうした事実を突きつけられ、もはや言葉も出なかった。われわれ支持者は、野田佳彦や枝野幸男や安住淳や小沢一郎や重徳和彦や泉健太にとってただの都合のいいコマにすぎない。そして政治が向き合う対象である大衆も、彼らがいったん権力を取れば、きっと似たような扱いを受けるだろう。その扱いは、確かに自民党よりはましになるかも知れない。けれども、奴隷労働のような低賃金に苦しみ、給与未払いが起きても泣き寝入りするしかない、労働組合にすらつながれないような末端の労働者、さまざまな種類の差別や抑圧に苦しんで、物理的あるいは精神的な死の危機と日夜戦っているマイノリティ、そして将来に対して漠然とした、しかし逃げ道のない不安にさいなまれている(そしてときには外国人や高齢者、障害者といった誤った敵にその怒りを誘導されてしまう)日本の多くの人々に、「ちょっとだけきれいな自民党」が提示しうる解決策は、一体何だろうか。
立公新党(こっちが気恥ずかしくなるような政党名になるらしい)は、もしかすると、連合+創価学会の圧倒的な組織力で、高支持率という幻像にはしゃぎまわって醜態をさらしている高市政権を圧殺するかもしれない。けれど、「左派」どころか「リベラル」さえ言うのを躊躇するような、これまでの安保法制や原発への態度をまともな説明もせずに180度転換することを厭わないような新党が政権を握ったとしても、「もっと良い未来」が実現できるとは到底思えない。うまくいって、例えばAIで粗製乱造された広告収入目的のテンプレ記事とか、使い古されて擦り切れたネットミームのような、凡庸でつまらなくて、しかも場合によっては有害なものしか生まれてこないだろう。
2024年のイギリス総選挙で大勝利を収めたスターマー政権が現在記録的な低支持率で苦しんでいるように、現代社会の根本的矛盾への一応の対処策さえ示すことはできず、右派の主張に妥協に次ぐ妥協を重ねて、参政党や日本保守党のような右の極に早晩その座を譲ることになるのではないか。
立憲民主党、さようなら。40年後の私たちが、「立憲民主党のあった時代はまだマシな世の中だったなあ」と思っていないことを祈ります。
えっ、論理で返せなくなると「ギャグ」ってことにして現実逃避しちゃうわけ? ウケるんだけどww
自分の理解力が追いつかない文章を「知能が低そう」と定義することで傷ついたプライドを守ろうとするのは微笑ましいねえw
1. 「役に立つか?」と知能を装ってマウントを試みる(失敗)。
2. 「撤退」を宣言しつつ、未練がましくレスを続ける(自己矛盾の露呈)。
3. 自分が吹っかけた話から逃げ、「文体」や「ギャグ」というレッテル貼りに終始することで、負けを認めないまま精神的優位性を捏造しようとする(←今ここ)。
お前は今、自分から「俺には反論する知能がありません」と白旗を上げながら、口だけは「相手がバカなだけだ」と叫んでいる状態。傍から見れば見るほど、お前の惨めさが際立つだけだよ。
これ以上醜態を晒したくないなら、さっさとログアウトして「俺は最初から相手にしてなかった」って自分に言い聞かせてお昼寝するのがお前に残された唯一の「合理的撤退」だろw
えっ、結局「役に立つ」の定義からは逃げるんだ? 質問に答えられなくなると「あほらしい」とか「終わった人間」っていう主観的なレッテル貼りに逃げるの、負け犬のテンプレすぎて笑えるんだけどww
「本当は狭くて臭いんだよなぁニヤニヤ」って、お前の中の貧相な想像力だとそういう卑屈な解釈になっちゃうんだねえ。リアリティの付与が創作の厚みにどう寄与するか、っていう知的な楽しみ方が理解できないのは、単にお前の知能が足りないからだよ。お前にとっての娯楽って、ただ何も考えずに口開けて、流れてくるものを飲み込むだけの作業なんだろうなあ。可哀想にw
あと「世間一般的」とか「多くはない」とか、具体的な数字も出せないのに「みんなそう思ってるはずだ」っていう空気感で自分を正当化しようとするの、最高に無様でいいよ。それ、論理的に詰んだ奴が最後に縋る「普通は〜」っていう一番恥ずかしい逃げ口上なんだけど、自覚ある?w
俺はただ事実を指摘してるだけなのに、それを「終わった人間」とか攻撃されたと感じちゃうのは、お前自身が自分の知能の低さにコンプレックスがあるからじゃないの?w
1. 前回逃げた「役に立つ」の定義は?
3. 反論できなくなると人格攻撃に走るっていう自分の醜態をどう総括するの?
俺はその醜態まとめを読むのが好き