はてなキーワード: ますとは
私は、どこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。そしてその恐れは、たしかに私を東大まで連れていった。けれど、その同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。妻はいない。子供もいない。三度目の転職をして、今の会社に来てから二年が経つ。前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最終的に私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も、似たようなものだった。私は毎回、自分は正しかったと思っている。今でも、半分くらいはそう思っている。
ただ、半分は、もう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて、大学新入生向けの短いエッセイを書いた。「東大卒の社会人として、若者にメッセージを」というやつだ。私は引き受けた。引き受けながら、ふざけるな、と思っていた。社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん、編集者は私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。地方公立高校から現役で東京大学法学部。就職先も、誰でも知っている会社だった。一行目だけは綺麗だ。二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。何も書けなかった。自己啓発の言葉が、一文字も出てこなかった。「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。書けば嘘になる。私は夢を持っていなかったし、努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。あるいは、努力以外のすべてが、私のほうから去っていった。
その代わりに、誰にも頼まれていないこの文章を書き始めた。これは雑誌には載らない。たぶん、誰にも届かない。けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが、これを読んでくれるなら、私は一つだけ、伝えたいことがある。
それは、「素直になれ」ということだ。
書きながら、自分でも笑ってしまう。よりにもよって、私が言うことか。私はずっと素直ではなかったし、性格も悪かった。だからこそ、これは説教ではなく、懺悔だ。
懺悔は、聞かなくてもいい。ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して、少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
私が育ったのは、北関東の県庁所在地だ。地名は伏せておく。人口三十万人ほどの、何の特徴もない地方都市だった。父は地方銀行に勤め、母はパートで小学校の給食室で働いていた。妹が一人いた。家は古かったが、貧しくはなかった。
私の最初の記憶は、小学校二年生の算数の時間だ。先生が黒板に問題を書いて、「わかった人?」と聞いた。私はわかっていた。手を挙げた。当てられて、答えを言った。正解だった。先生が褒めてくれた。隣の席の女の子が、「すごいね」と言った。私は嬉しかった。たぶん、その瞬間が、私の人生の最初のピークだった。
書きながら、本当に、そう思う。あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生に、もう一度も訪れなかった。
小学校から中学校にかけて、私は常に学年で一番だった。二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。地方の小中学校で一番というのは、ほとんど何も意味しない。後になって考えれば、競争相手の絶対数が少ないだけのことだ。けれど当時の私は、自分が特別だと信じていた。周りもそう扱った。先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを、二回か三回、聞いたことがある。母は、嬉しそうに笑っていた。否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を、嫌いにはなれなかった。
中学までは、まだ良かったのだ。授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。班活動も、それなりに楽しんでいた。私はクラスで浮いていなかった。むしろ、勉強ができる優等生として、ちょうど良い位置にいた。スポーツは普通にできた。背は普通だった。顔は、まあ、普通だった。すべてが普通で、勉強だけが少し抜けていた。それは、十三歳の少年にとって、ほとんど理想的な配分だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。今思えば、それも大した自慢ではない。けれど当時は、その校門をくぐることに、私は確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり、私が一番だった。最初の中間試験で学年三位を取ったとき、私は少し焦った。自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。期末試験までの一ヶ月、私は本気で勉強した。期末試験で一番を取った。それから卒業まで、私は一度も学年一位の座を譲らなかった。
高校一年の秋、文化祭があった。私のクラスは、お化け屋敷をやることに決まった。決まる過程で、私は反対した。お化け屋敷は、過去三年間、毎年どこかのクラスがやっていて、もう新鮮味がない。それに、暗幕の手配や教室の改造に時間がかかりすぎる。準備期間は二週間しかない。私は別の案を提案した。模擬店で、何か食べ物を出すほうが、客の回転が早く、利益も出やすい。これは数字で示した。前年度の各クラスの売上データを、私はわざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスの中で人気のあった、明るくてうるさい男子だった。彼は私の数字を見もせず、「いや、お化け屋敷のほうが楽しいだろ、絶対」と言った。クラスの三分の二が彼に同意した。私は食い下がった。「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」と言った。教室が少し静かになった。誰かが小さく「うわ」と言った。私はその「うわ」の意味が、今ならわかる。当時はわからなかった。
担任が、温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。そして、二週間後、その思いは正しかったことが証明された。私のクラスのお化け屋敷は、案の定、準備が間に合わず、当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。客は数えるほどしか来なかった。模擬店をやった隣のクラスは、長蛇の列を作っていた。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が、笑った。
私は、笑えなかった。
笑えない、というのは、笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。心が、笑い方を覚えていない、という意味だ。彼らは、間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次に進んでいた。私は一人だけ、間違えていなかった。間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
私は、その夜、自分の部屋で長い時間考えた。そして結論を出した。
人に合わせると、間違える。
多数派は、正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとって、ほとんど真理として体に入った。
そして、最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが、後で書くことの、すべての始まりだ。
似たような出来事は、その後何度もあった。一つだけ、もう一つ書いておく。
高校二年の春、私は生物の授業で、課題研究の班に入れられた。班員は四人。テーマは「学校近くの川の水質調査」だった。私は、すぐに気づいた。このテーマでは、論文として何の新しさもない。前の学年の先輩が、ほぼ同じテーマで発表していたからだ。私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を、上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
「先生は、最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は、致命的なことを言った。今でも覚えている。
私は、そのとき、自分が何かまずいことを言ったことに、気づいていた。けれど、何がまずいのか、正確にはわからなかった。今ならわかる。彼女たちは、別に手を抜きたかったわけではない。ただ、四人で何かを一緒にやる、という時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。私は、それを「評価されない無駄」と切って捨てた。
私たちの研究は、ありきたりな水質調査になった。発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。彼女たちも、私を呼ばなくなった。私たちは、最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係には、ならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって、一人で勉強するようになった。
そのほうが、効率が良かった。
私の偏差値は、上がった。
この時期に、もう一つ、私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が、私は嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが、「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。私には、それが奇妙な反論に見えた。内容が正しければ、それでいいではないか。なぜ、正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。それは、内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。それは、知性に対する侮辱ではないのか。
私は、そう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは、私の中で、信仰になった。
ここで、君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」というのは、装飾ではない。「言い方」というのは、内容を相手に届けるための、内容の一部だ。届かない正論は、正論ではない。それは、ただの独り言だ。私は、四十歳を過ぎてから、ようやくそのことに気づいた。三十年遅かった。
君は、これを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ、本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。私は二月の終わりに東京に出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。三月の十日だった。寒い日だった。
自分の番号を見つけたとき、私は、思っていたほど嬉しくなかった。
これは、嘘ではない。本当のことだ。
「やった」とは思った。「これで人生の最初の関門は越えた」とも思った。けれど、それだけだった。なぜなら、私は、合格することを、最初から知っていたからだ。模試の判定はずっとAだった。直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。落ちる理由がなかった。だから、合格することは、驚きではなく、確認だった。
掲示板の前で、合格した人たちが、抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。私は、誰にも電話しなかった。電話する相手がいなかった、というのとは少し違う。電話する相手はいた。父にも、母にも、塾の先生にも、電話できた。けれど、誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は、一人で、本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入って、かけそばを食べた。蕎麦はぬるかった。それでも、最後まで食べた。蕎麦屋を出てから、私は赤門のあたりをもう一度歩いた。三月の風が冷たかった。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
不思議な感覚だった。喜びではなく、空白に近い感情だった。私はこれから、知らない街で、知らない四年間を過ごす。誰も知らない。誰も私を「すごい」と言わない。私の隣の席に座る人間は、たぶん、私と同じくらい問題を解ける。
少しだけ、怖かった。
けれど、私はその怖さを、その日のうちに、押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも、一人でやればいい」
そう、自分に言い聞かせた。
これは、合格した日に、十八歳の私が、自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに、私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
第三部 内容で勝ち、現実で負ける
大学を卒業して、私は、ある大手の会社に入った。社名は伏せておく。商社系の、若手にもそれなりに権限が回ってくる、と言われている会社だった。
入社した最初の年、私は、それなりに評価されていた。配属された部の課長は、論理的な人で、私の作る資料の精度を、ある程度、評価してくれた。
問題は、二年目以降に始まった。
ある新規プロジェクトの立ち上げに関する会議で、部長が、明らかに前提条件の数字を間違えていた。市場規模の試算根拠が、五年前の業界レポートに依存していて、その後の市場の変化を反映していなかった。私は、会議の中盤で、それを指摘した。
「すみません、その市場規模の数字、ベースになっているレポートが古いです。直近三年で市場構造が変わっているので、現状の数字は、その試算より三〇%程度小さいはずです。私の試算では、こちらになります」
私は、自分のノートPCの画面を、プロジェクターに映した。私の試算表は、出典付きで、再現可能な形になっていた。
部長は、しばらく、画面を見ていた。
「うん、わかった。数字の話は、また別の機会にしよう。今日は、方向性の話をしている」
「いえ、方向性は、市場規模を前提にしているので、市場規模が違えば、方向性自体が変わります」
部長は、もう一度、私を見た。今度は、少し、目に疲れがあった。
「君の言うことはわかった。あとで、個別に、話そう」
会議は、私の指摘を反映しないまま、進んだ。
「お前、ああいう言い方、やめたほうがいいぞ」
「内容として、間違ってるか?」
「内容は合ってる。けど、部長の顔、潰しただろ」
「顔の話なんかしていない。事業の話をしているんだ」
同期は、ため息をついて、
「そう。そうなんだよ。お前は、いつも、事業の話しかしない。だから、お前以外のみんなが、何の話をしてるのか、お前にはわかってないんだよ」
と言って、行ってしまった。
私は、その同期の言葉を、しばらく考えた。
考えた末に、
と判断して、忘れることにした。
理由は、表向きは、「別のプロジェクトに、君のスキルが必要だから」だった。
私が回された別のプロジェクトは、ほとんど何も動いていない、塩漬けに近いものだった。
私は、課長に直接、抗議した。
「私の指摘が、間違っていたのですか」
課長は、少しだけ、困った顔をした。
「指摘の内容は、間違っていなかった」
「では、なぜ外されるのですか」
「内容ではない。理由は、内容ではないんだ」
「では、何ですか」
「君は、正しい。けれど、君と一緒に仕事をしたい、と言う人間が、いない」
私は、その瞬間、自分の中の何かが、冷たく固まったのを覚えている。
「では、正しさよりも、好かれることのほうが、評価されるのですか」
課長は、私を、長く見た。
それから、
「そうじゃない。仕事は、一人ではできないから、一緒に仕事ができる人間になることも、能力のうちなんだよ」
と言った。
私は、頷かなかった。
その夜、私は、自分の部屋で、長い時間、考えた。考えた末に、私は、自分の結論を、一文字も変えなかった。
このパターンが、私の三十代を通じて、繰り返された。三回、転職した。会社が変わっても、結末は、似ていた。最初の半年は、私の能力と精度が評価される。次の半年で、私の指摘が、人を傷つけるようになる。一年経つ頃には、私は、何かのプロジェクトから、静かに、外される。
私は、毎回、辞めるとき、同じことを思った。
そのとき初めて、私は、こう思った。
これに気づくのに、私は、二十年かかった。
二十年だ。
君が、これを、二十二歳のうちに気づければ、君は、私より二十年、得をする。
二十年は、長い。本当に、長い。
ここで、Kの話に戻る。
Kとは、大学を卒業してから、ほとんど連絡を取らなくなっていた。年賀状が、最初の二、三年は来ていたが、私が返さなかったので、自然と途絶えた。
Kがどうしているかを知ったのは、私が三十五歳のとき、ある業界誌の記事だった。
Kは、新卒で入った会社で、地味に出世していた。記事は、ある業界の中堅企業の、新規事業の立ち上げに関するもので、Kはその新規事業の責任者として、写真付きで紹介されていた。
写真の中のKは、大学のときと同じように、口を大きく開けて笑っていた。少しだけ、太っていた。
Kの新規事業は、最初、大失敗していた。市場の読みを間違えて、最初の半年で、予算の三分の一を失った。普通なら、その時点で責任者は外されるはずだった。
けれど、Kは、外されなかった。
なぜかというと、Kは、失敗の途中で、社内の他の部署の人間を、何人も巻き込んでいたからだった。営業の課長、開発の係長、経理の若手、現場の派遣社員。
Kは、新規事業のために、社内のいろいろな人間に頭を下げて、知恵を借りていた。失敗が見え始めたとき、その人たちが、Kを助けた。「これは、Kだけの責任じゃない、自分たちも一緒に考えた案だ」と言って、Kを庇った。
Kは、結果として、責任者の座を維持し、二年目に、軌道修正に成功した。
「最初の半年で失敗したのは、僕のせいです。市場の読みが甘かった。けど、その失敗を直せたのは、僕一人の力じゃないです。社内のいろんな人が、一緒に直してくれた。だから、これは、僕のチームの成果なんです」
私は、この記事を、何度も読んだ。
そして、私は、初めて、わかった気がした。
Kは、最初から、「一人で正解を出す」ことを、目指していなかった。
Kは、最初から、「みんなで間違えて、みんなで直す」ことを、戦略としていた。
私は、ずっと、Kを軽く見ていた。Kは、内容で勝てないから、人と仲良くするのだ、と思っていた。
違った。
Kは、内容で勝つことの限界を、最初から知っていた。だから、内容で勝つかわりに、内容を直せる関係を、作ることに、力を注いでいた。
Kは、私が、二十年かけても気づかなかったことを、二十二歳のときに、もう知っていた。
中学校か、高校のうちに、Kは、たぶん、一度、自分より頭のいい人間に出会って、そこで、自分が一人では勝てない、ということを、学んでいたのだろう。
Kは、十二歳か十三歳のうちに、負けていたのだ。
そして、その負けから、人と一緒にやることを、学んでいたのだ。
私は、十八歳まで、負けなかった。
その代償が、私の、その後の二十年だった。
両親が、立て続けに亡くなった。父が先で、母がそのあとだった。葬式は、地元で行った。私は、長男として、喪主を務めた。葬式に来た親戚や、父の昔の同僚や、母の友人たちは、私のことを、「東大を出た立派な息子」として扱った。私は、その扱いを、受け入れた。受け入れるしかなかった。
葬式の最後、母の友人だったという、私の知らないおばさんが、私にこう言った。
「お母さん、あなたのことを、いつも自慢してたのよ。東大に入ったときも、いい会社に入ったときも。でもね、最近、お母さん、こう言ってたの。『あの子、結婚はしないのかしらね』って。心配してたわ」
私は、笑顔で、
「ええ、心配かけました」
と答えた。
その夜、私は、実家の、自分が高校時代に使っていた部屋で、一人で、酒を飲んだ。
机の引き出しを開けると、高校時代の模試の成績表が、まだ残っていた。一番上の成績表は、高校三年の十一月のものだった。全国偏差値、七十六。順位、全国八位。
私は、その紙を、長い時間、見ていた。
そして、思った。
この紙が、俺の人生で一番輝いていた瞬間の、証拠なんだろうな。
三十年前の、紙だ。
私は、その紙を、引き出しに戻した。
戻して、引き出しを閉じて、また酒を飲んだ。
涙は、出なかった。
涙が出るような感情ではなかった。
それは、もう少し、乾いた、静かな、何かだった。
母が亡くなって少し経った頃、私は、Mに、偶然、駅で会った。
Mは、すぐに私に気づいて、「お前、変わらないな」と言った。
私は、Mに気づいていなかった。Mは、髪が薄くなり、少し太っていて、スーツの肩のあたりが、くたびれていた。けれど、Mの表情は、駒場のときよりも、ずっと、穏やかだった。
Mは、結婚していた。子供が二人いた。上の子が中学生、下の子が小学生だと言った。仕事は、私が風の噂で聞いていた通り、ある官庁にいた。
Mは、私の近況を聞かなかった。たぶん、聞かないほうがいいと、判断したのだろう。
代わりに、Mは、駒場の頃の話を、いくつかした。
「お前、覚えてる? あの、語学クラスの和訳の輪。Kがやってたやつ」
「ああ」
「俺、あれに助けられたんだよ」
「助けられた?」
「うん。俺さ、地方から出てきて、最初、お前と似たような感じだったじゃん。一人でやれば全部できる、みたいな。けど、Kが、しつこく誘ってくれてさ。最初は俺も、うざいと思ってたんだよ。けど、何回か行ってみたら、自分が見えてないところを、他のやつが見えてたりするんだよな。それで、俺、考え方を変えたんだ。一人で全部やる必要は、ないって」
Mが、続けた。
「あれが、俺の人生の、たぶん、一番大きな転換点だった。あそこで、Kに、引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。今の仕事、俺一人じゃ、絶対できないからな。役所って、根回しの世界だから」
私は、頷いた。
Mが、私を、ちらっと見た。
「お前は、行かなかったよな、あの輪」
「うん」
「何で、行かなかったんだ?」
私は、しばらく、答えられなかった。
それから、ようやく、こう言った。
「行く必要が、ないと、思っていた」
Mは、それ以上、聞かなかった。
私たちは、もう一杯ずつ飲んで、別れた。Mは、終電で帰っていった。Mは、最後に、「また飲もうな」と言った。私も、「うん」と言った。
私たちは、その後、一度も、飲まなかった。
二人とも、それを、わかっていたと思う。
Kに、引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。
Kは、私のことも、引っ張ろうとしていた。
「気が向いたら、声かけて」
「一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
Kは、私に、何度も、手を差し出していた。
私は、その手を、毎回、振り払っていた。
私は、Kを、軽く見ていた。
そのプライドのために、私は、人と一緒に何かをする、ということを、生涯、覚えそこねた。
電車の中で、私は、初めて、認めた。
あいつは、ずっと間違えていたわけじゃなかった。
あいつは、正解を一人で出すことを、最初から諦めていただけだった。
だから、みんなで間違えたあと、みんなで直すことができた。
俺は、一度も間違えないために、一度も誰とも直せなかった。
涙は、また、出なかった。
代わりに、車両のドアの上の、広告の文字が、奇妙に、はっきり見えた。
「人生は、一度きり」
そんなことが書いてあった気がする。
正確には、覚えていない。
ここまで、書いてきたことを、まとめる必要はないかもしれない。
ただ、もう一度だけ、君に、語りかけたい。
君が、もし、私に少し似た人間なら、勉強がそれなりにできて、一人でいることを苦にせず、周りが少し幼く見えていて、雑談を時間の無駄だと感じていて、「言い方」を装飾だと思っていて、人に頭を下げることを敗北だと感じているなら聞いてほしい。
その感覚は、君が、自分より上の人間に、まだ会っていない、という証拠だ。
君が会っていないのは、君が悪いからではない。
たぶん、君の環境のせいだ。
地方の進学校。中堅校で一番頭がいい子。学年で目立つ秀才。そういう環境にいると、自分の上が見えない。自分の天井が見えない。だから、自分の能力を、過大評価する。過大評価しているという自覚が持てない。
これは、君の責任ではない。
なぜなら、君は今、東京や大阪や、その他の大学に出てきている。そこには、君と同じか、君より上の人間が、必ずいる。中学生のときから、もっと厳しい競争を経験してきた人間が、必ずいる。そういう人間に、君は、これから、確実に出会う。
そのとき、君が、どう振る舞うかが、君のこの先三十年を決める。
選択肢は、大きく言えば、二つある。
一つは、その人間を、軽く見ることだ。「あいつは要領がいいだけだ」「あいつは育ちがいいだけだ」「あいつは一人で考える力がない」と評価して、自分のプライドを守ることだ。
これは、簡単だ。すぐにできる。何の努力もいらない。プライドが守られる。気持ちがよい。
私が選んだのは、こっちだ。
そして、その代償を、私は、この四十七年間で、払い続けている。
もう一つは、その人間に、頭を下げることだ。「すごいですね」「教えてください」「どうやってそんなに上手くやるんですか」と聞くことだ。
これは、難しい。プライドが傷つく。気持ちが悪い。自分が小さく感じられる。
けれど、こっちを選べる人間は、二十年後、ほぼ確実に、生き残る。
なぜなら、こっちを選んだ瞬間から、君の能力は、自分の能力だけでなくなるからだ。君は、自分より上の人間の能力を、少しずつ、自分の中に取り込んでいけるようになる。
これは、私が二十年かけて気づいたことだ。
人間が成長するのは、自分より上の人間に、自分の間違いを、笑いながら指摘されたときだ。
そして、もう一つ。
これは、道徳の話ではない。
君が長く生き延びるための、技術の話だ。
「性格をよくする」というのは、誰にでも愛想よくする、ということではない。「性格をよくする」というのは、人と一緒にいるときに、その人が「君と一緒にいて楽だ」と感じるように、自分の振る舞いを設計する、ということだ。
これを、十代後半のうちにやっておかないと、後からやり直すのが、本当に、難しい。
人間の性格は、二十代の前半までは、まだ柔らかい。二十代の後半から、急速に、固まる。三十代に入ると、ほとんど固まる。四十代になると、もう、変わらない。私は、四十代の自分を見て、それを知った。
君は今、二十歳前後だ。
固まる前に、修正してくれ。
「ごめん」
「教えて」
「自分が間違っていた」
この四つを、重く、特別なこととして言わなければならない人間は、私のように、誰とも、何も、直せなくなる。
「私は完璧ではない」
「私は、変われる」
ここで、最後に、一つだけ、付け加えたい。
私は、これまで、「人に合わせるな」「集団は誤答を選ぶ」「会議はノイズだ」「調整は知性の敗北だ」と思ってきた。
なぜなら、人間は、自分の見え方の中で考えるからだ。自分の見え方の外側にある誤答に、自分一人では、気づけない。
だから、誤答を直すには、自分の見え方の外側を持ってくる必要がある。
それを持ってきてくれるのが、他人だ。
この関係を、若いうちに作っておかないと、君の認知は、君一人の中で、閉じる。閉じた認知は、いずれ、現実とずれる。現実とずれた認知は、現実によって、罰せられる。
その罰が、私の四十代だった。
君には、その罰を、受けてほしくない。
この手紙を、ここで終える。
書きながら、何度か、自分のことが、嫌になった。
いや、本当のことを言えば、書きながら、何度か、自分のことを、まだ正当化したくなった。「あの会議で、俺は本当に正しかった」「あの上司が、俺を理解できなかったんだ」「Kは、俺ほど深くは考えていなかった」
そういう声が、今でも、私の中で、聞こえる。
たぶん、その声は、死ぬまで、消えない。
けれど、私は、その声を、もう、信じない。
私は、君に、私と同じになってほしくない。
私は、もう、どこにも、戻れない。
母も、父も、もういない。Kとも、Mとも、もう会わない。私の若い頃のクラスメイトたちは、たぶん、それぞれの家庭で、それぞれの夕食を食べている。私には、夕食を一緒に食べる相手がいない。これは、自業自得だ。誰のせいでもない。
けれど、君は、まだ、間に合う。
君は、これから、「ごめん」「教えて」「ありがとう」「自分が間違っていた」を、毎日言える。
君は、これから、人と一緒に間違えて、人と一緒に直せる。
それを、君のうちに、習慣にしてほしい。
二十歳の君の習慣は、四十歳の君の人格になる。四十歳の君の人格は、君の人生そのものになる。
二十歳の君が、人に頭を下げることを覚えれば、四十歳の君は、誰かに助けられる人間になる。
二十歳の君が、自分の間違いを認めることを覚えれば、四十歳の君は、間違える前に、人に相談できる人間になる。
二十歳の君が、雑談を大事にすることを覚えれば、四十歳の君には、夕食を一緒に食べる相手が、いる。
これは、綺麗事ではない。
これは、私という見本が、空席のまま証明している、技術の話だ。
最後に、もう一度だけ。
正しさは、人に届かなければ、現実を変えない。
一人で正解を出せる人間より、人と一緒に間違えて直せる人間のほうが、長く生き残る。
けれど、誤答を直す力もまた、集団の中にある。
その集団に、君が、入っていけるかどうか。
それが、君の、これからの三十年を、決める。
私は、入っていけなかった。
その理由を、たくさん、書いてきた。
けれど、本当の理由は、たぶん、たった一つだ。
私は、怖かったのだ。
人と一緒にいて、自分が、特別ではなくなることが、怖かったのだ。
その怖さを、私は、「孤独を選ぶ強さ」と、自分に言い聞かせていた。
それは、強さではなかった。
それは、ただの、臆病だった。
君が、私と同じ怖さを、もし持っているなら、その怖さに、名前をつけてやってほしい。
「臆病」と。
名前をつけずに、それを「強さ」と呼び続ければ、君は、私になる。
長くなった。これで終わる。
君が、今夜、誰かと夕食を食べられますように。
君が、来週、自分より少し上の誰かに、頭を下げられますように。
君が、十年後、誰かと一緒に、その失敗を、直せていますように。
君が、二十年後、私のように、見知らぬ若者に向かって、誰にも頼まれない手紙を書く人間に、ならずにすみますように。
これは、説教ではなく、
これは、祈りだ。
どうか、
私のようには、ならないでくれ。
第二部 学び直せなかった一年
ここで、君に正面から語りかけたい。
君が今、大学一年生だとして、あるいは、これから大学一年生になるとして、たぶん君の中には、私に近い感覚が、少しはあるはずだ。なくてもいい。あったとしたら、聞いてほしい。
入学して最初の数週間、君は周りを見て、こう感じるかもしれない。
「あれ、この人たち、思っていたほどすごくないな」
サークルの新歓に行く。先輩たちが、わいわい騒いでいる。話の中身は、たいしたことがない。昨日のサッカーの試合の話、誰々が誰々を好きらしい、という話、バイト先のクレーマーの話。君は、それを聞きながら、心のどこかで、「俺はこんな話をするために、東京に出てきたんじゃない」と思うかもしれない。
その感覚は、半分は正しい。
ただ、残りの半分について、私が二十年かけて学んだことを、君に伝えたい。
雑談を飛ばして、いきなり大事な話だけをしようとする人間は、長期的には、誰とも何の話もできなくなる。
これは、二十年後に私が痛感したことだ。けれど、十八歳の私は、これを、まったく理解していなかった。理解する気もなかった。
入学して一週間ほど経った頃、駒場のキャンパスで、私は一人の同級生と話す機会があった。彼は、私の語学クラスに入っていた。名前は、仮にKとしておく。Kは、首都圏の有名な私立中高一貫校から来ていた。背が高く、髪を少し茶色く染めていて、笑うとき口を大きく開けた。授業の最初の自己紹介で、彼は「サッカーをやってました、あと、文化祭の実行委員やってました」と言った。それを聞いた瞬間、私はKに対して、あまり期待しなかった。文化祭の実行委員。あの、私を退屈させた連中の、東京版だろう、と思った。
ところが、Kはよく話しかけてきた。授業のあと、「飯行かない?」と私を誘った。最初は断った。二度目も断った。三度目に、Kは少しだけ困った顔で、「お前、誰とも飯食わないの?」と聞いた。
私は、そう答えた。
Kは少し笑って、
「ふうん。じゃあ、気が向いたら、声かけて」
と言って、行ってしまった。
そのとき、私は、自分が少しだけ、Kに対して優越感を持ったのを覚えている。Kは、誰かと一緒にいないと不安なタイプだ。私は違う。私は一人でも平気だ。だから、私のほうが強い。私は、そう思った。
これが、間違いの始まりだった。
Kは、誰かと一緒にいないと不安だったのではなかった。Kは、一緒にいる時間そのものを、価値あるものとして認識する能力を持っていた、ということを、私は二十年後に理解した。
語学クラスでは、よく数人で集まって、課題のフランス語の和訳を持ち寄って、見せ合うようなことが行われていた。私は、最初、その輪に入った。けれど、私の和訳は、たいてい一番正確だった。少なくとも、私はそう思っていた。
ある日、Kが、自分の和訳を読み上げた。明らかに、文法の係り受けを間違えていた。私は指摘した。
「そこ、違う。主語はこっちじゃない」
Kは、「あ、ほんとだ、サンキュー」と言って、すぐに直した。
それは、いい。問題は、その次だった。
別の同級生、仮にMとしておく、が読み上げた和訳も、間違っていた。Mは、地方の進学校から来た、私と似たタイプの男だった。私は同じように指摘した。
「Mも、そこ違う」
Mは、少し顔を赤くして、「うん……」と言った。
Kが、軽く笑いながら、こう言った。
「お前、間違いの指摘の仕方、ちょっと冷たくない?」
私は、Kを見た。
「冷たい? 間違ってるから間違ってるって言っただけだろ」
「いやそうなんだけどさ、なんかこう、もうちょっと、『あ、ここ、俺もよくわかんないんだけど、こうじゃないかな?』みたいな感じ、ない?」
私は、内心で、軽蔑した。
出た。「言い方」だ。
Kは、内容で勝てないから、言い方の話に逃げているのだ。私は、そう判断した。
私は、何も言わずに、自分の和訳をしまって、その場から去った。
その日から、私は、その輪に行かなくなった。
数週間後、私は、その輪が、Mを含めて、続いていることを知った。Mは、最初、私と同じように、地方から来た孤独な秀才に見えた。けれど、Mは、Kの輪の中で、笑うようになっていた。間違いを指摘されても、頭をかいて、「あ、ほんとだ」と言うようになっていた。Mは、変わったのだ。私が、変わらなかったのに対して。
今になって、私は思う。
妥協したのは、Mではなかった。
Mは、学んだのだ。
私は、学ばなかったのだ。
二十年後、Mは、ある官庁の課長補佐になっていた。風の噂で聞いた。家族もいて、子供が二人いるらしい。私は、そのとき、無職だった。三度目の転職活動の最中だった。
大学一年の夏、私は一つだけ、サークルに入っていた。法律研究系のサークルだった。私が入ったのは、内容が真面目そうだったからだ。実際、内容は真面目だった。週に一回、判例を読んで議論する会があった。
そこには、二年生に、Sという先輩がいた。Sは、私とは違うタイプの賢い人だった。判例を読むスピードは私と同じくらいだったが、議論のときの立ち回りが、まったく違った。Sは、自分の意見を最初に出さなかった。まず、後輩や他の人の意見を聞いた。そして、誰かの意見の中で、いいところを見つけて、「それ、いいですね」と言った。それから、自分の意見を、その人の意見に乗せる形で、出した。「○○さんが言ったところに加えて、こういう論点もあるんじゃないかと思って」と言った。
私は、Sのやり方を、最初、ずるいと思った。
あれは、自分の頭で考えていない。人の意見に乗っかっているだけだ。
私はそう思って、Sを軽く見た。
ある日の議論で、私は、Sの意見の根拠が弱いと感じた。私は、それを真正面から指摘した。
「Sさんの今の論理は、判例の射程を超えていると思います。○○判決は、あくまで△△の場合に限った話で、これを一般化するのは無理があるんじゃないですか」
Sは、私を見た。少しの間、何も言わなかった。それから、ゆっくりと言った。
「うん、たしかにそうだね。射程の問題は、僕も気になっていた。じゃあ、君だったら、どこまで一般化できると思う?」
私は、答えた。私の答えは、Sが言うべきだった内容を、より精密にしたものだった。Sは、「それ、いいね」と言って、私の意見を、議論全体に位置づけた。
私は、勝った気がした。
サークルが終わったあと、別の三年生の先輩が、私を呼び止めて、こう言った。
「君さ、頭はいいよ。間違いなく。ただ、Sのこと、ちょっとなめてないか?」
「いえ、なめてはいないです」
「Sはね、あの場で、君のために負けてくれたんだよ」
「Sはね、あの場の議論をいいものにするために、自分の意見を、引っ込めたんだ。君に花を持たせたんだ。それは、Sがバカだからじゃない。Sのほうが、議論っていう場全体を見てるからだ」
私は、不機嫌になった。
「いや、でも、内容として、Sさんの最初の論理は、間違っていました」
先輩は、ため息をついた。
「うん、まあ、そうかもしれない。でも、君がこれから先、誰かと一緒に何かをやるなら、内容で勝つだけじゃ、足りないよ」
私は、その日、サークルをやめた。
正確に言えば、その日のうちにメールで退会の連絡をした。理由は書かなかった。
二度と、そのサークルには行かなかった。
夏休みに入る前、私はKに、もう一度だけ、会った。
Kは、相変わらず、にこにこしていた。Kは、夏休みに、サークルの合宿で、河口湖に行くと言っていた。彼女もできたらしい。同じ語学クラスの女子だった。私は、その女子を、可愛いとも、可愛くないとも、特に思っていなかった。
Kが、別れ際に、こう言った。
私は、笑って答えた。
「誰かに頼って、その誰かが間違ってたら、どうするんだ?」
Kは、少し考えて、
「うーん、そうしたら、一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
と言った。
私は、そのとき、Kの言葉を、軽くいなした。心の中で、「だから、お前は二流なんだ」と思った。
一緒に間違えて、一緒に直す。
そんなことに、付き合っている時間はない。私は、一人で、間違えずに、進む。
正確には、二十年かけて、ようやくそれを思い出せるようになった、と言うべきかもしれない。
ここで、君に、もう一つだけ伝えたい。
私が地方の進学校で身につけた「一人で考えたほうが正しい」という認知は、地方の進学校の中では、たしかに事実だった。私の周りには、私より速く正解にたどり着ける人間がいなかった。
集団で議論すれば、議論は私のレベルに引き下げられるか、私の意見が通らないかの、どちらかだった。
だから、一人で考えるほうが効率が良かった。それは、その環境においては、合理的な戦略だった。
しかし、東京大学に来て、私の周りには、私と同じか、私より速く正解にたどり着ける人間が、たくさんいた。
その時点で、私は、戦略を変えるべきだった。
もう、一人で考えなくていい。
人と議論したほうが、自分一人で出せる答えより、いい答えが出る確率が高い。
人に頼っていい。
人に教わっていい。
人に「わからない」と言っていい。
けれど、私は、学び直さなかった。
なぜなら、地方で身につけた認知は、私を東大まで連れてきた成功体験だったからだ。それを捨てることは、自分の人生を否定することのように感じられた。
変化を恐れた本当の理由は、たぶん、こうだ。
私には、勉強で勝つこと以外の、自分を肯定する根拠がなかった。
だから、勉強の戦い方を変えることは、自分そのものを失うことのように感じられた。
これは、後になって考えてみれば、ただの臆病だった。
けれど、当時の私は、自分が臆病であることに、まったく気づいていなかった。
孤独に耐えられる、というのは、強さではない。
それは、ただの、不器用さだ。
大学一年の終わり、私の春学期と秋学期の成績は、ほとんどがAとA+だった。優三つの「優三つ」というやつだ。私は、自分の選択は正しかったと、再確認した。一人でやれば、結果が出る。
けれど、その学年末、駒場の生協の前で、私は、語学クラスのKたちが、五、六人で集まって、笑いながら写真を撮っているのを見た。Kの隣にはMもいた。Mは、四月のときと比べて、別人のように、いい顔で笑っていた。
私は、その輪を、遠くから見ていた。
私は、その輪の中に、入りたい、とは思わなかった。
ただ、奇妙な感覚があった。
あいつらは、たぶん、これから先、どこかで会って、結婚式に呼んだり、子供の話をしたり、転職の相談をしたりするんだろうな。
俺には、たぶん、そういう相手は、いない。
そう、自分に言い聞かせた。
その夜、私は寮の自分の部屋で、二年生の科目の予習を始めた。
ここで、私は、君に、最も伝えたいことの一つを書く。
地方の進学校から東大に行ったことの、本当の不幸は、東大に行けたことではない。
もし私が、首都圏の中高一貫校に通っていたら、私の家にそれだけのお金があったかどうかは別として、もし通っていたら、私は、十二歳か十三歳のうちに、自分より賢い人間に出会っていただろう。
自分より速く問題を解く人間、自分より深く考える人間、自分より多くを知っている人間、そして、自分より性格のよい人間に。
そのとき、私は、悔しかったかもしれない。泣いたかもしれない。けれど、十二歳の私は、まだ柔らかかった。
十二歳のうちに負けることは、致命傷にならない。
十二歳の負けは、回復する。
十二歳の負けからは、人に頭を下げることを、学べる。
十二歳の負けからは、「わからないから教えて」と言うことを、覚えられる。
ところが、私は、地方の進学校で、十八歳まで、誰にも負けなかった。
私の認知の中で、「負ける」という選択肢が、十八歳の段階で、すでに、消えていた。
そして、十八歳で東大に入った瞬間、私は、相対的に普通の人間になった。
けれど、そのときには、もう、遅かった。
十八歳の私は、十二歳の私のようには、柔らかくなかった。
私は、上の人間に頭を下げるかわりに、上の人間を見ないことにした。
私は、上の人間と並走するかわりに、自分のレーンに引きこもった。
私は、上の人間から学ぶかわりに、上の人間を、「あいつは要領がいいだけだ」と評価することにした。
これらは、すべて、私の防衛反応だった。
私の防衛反応は、地方の進学校の中では、合理的だった。けれど、東大の中では、もう、合理的ではなかった。
だから、君が、もし、地方から東京の大学に出てきたばかりで、これを読んでいるなら、聞いてほしい。
早く、負けてくれ。
自分より明らかにすごい人間に会ったら、嫉妬する前に、頭を下げてほしい。
「教えてください」と言ってほしい。
それは、君の性格を守るための、救済だ。
天井を知らないまま二十代に入った人間は、たいてい、私のようになる。
私のようになるな。
これは、命令ではない。
これは、お願いだ。
私は、どこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。そしてその恐れは、たしかに私を東大まで連れていった。けれど、その同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。妻はいない。子供もいない。三度目の転職をして、今の会社に来てから二年が経つ。前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最終的に私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も、似たようなものだった。私は毎回、自分は正しかったと思っている。今でも、半分くらいはそう思っている。
ただ、半分は、もう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて、大学新入生向けの短いエッセイを書いた。「東大卒の社会人として、若者にメッセージを」というやつだ。私は引き受けた。引き受けながら、ふざけるな、と思っていた。社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん、編集者は私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。地方公立高校から現役で東京大学法学部。就職先も、誰でも知っている会社だった。一行目だけは綺麗だ。二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。何も書けなかった。自己啓発の言葉が、一文字も出てこなかった。「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。書けば嘘になる。私は夢を持っていなかったし、努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。あるいは、努力以外のすべてが、私のほうから去っていった。
その代わりに、誰にも頼まれていないこの文章を書き始めた。これは雑誌には載らない。たぶん、誰にも届かない。けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが、これを読んでくれるなら、私は一つだけ、伝えたいことがある。
それは、「素直になれ」ということだ。
書きながら、自分でも笑ってしまう。よりにもよって、私が言うことか。私はずっと素直ではなかったし、性格も悪かった。だからこそ、これは説教ではなく、懺悔だ。
懺悔は、聞かなくてもいい。ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して、少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
私が育ったのは、北関東の県庁所在地だ。地名は伏せておく。人口三十万人ほどの、何の特徴もない地方都市だった。父は地方銀行に勤め、母はパートで小学校の給食室で働いていた。妹が一人いた。家は古かったが、貧しくはなかった。
私の最初の記憶は、小学校二年生の算数の時間だ。先生が黒板に問題を書いて、「わかった人?」と聞いた。私はわかっていた。手を挙げた。当てられて、答えを言った。正解だった。先生が褒めてくれた。隣の席の女の子が、「すごいね」と言った。私は嬉しかった。たぶん、その瞬間が、私の人生の最初のピークだった。
書きながら、本当に、そう思う。あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生に、もう一度も訪れなかった。
小学校から中学校にかけて、私は常に学年で一番だった。二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。地方の小中学校で一番というのは、ほとんど何も意味しない。後になって考えれば、競争相手の絶対数が少ないだけのことだ。けれど当時の私は、自分が特別だと信じていた。周りもそう扱った。先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを、二回か三回、聞いたことがある。母は、嬉しそうに笑っていた。否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を、嫌いにはなれなかった。
中学までは、まだ良かったのだ。授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。班活動も、それなりに楽しんでいた。私はクラスで浮いていなかった。むしろ、勉強ができる優等生として、ちょうど良い位置にいた。スポーツは普通にできた。背は普通だった。顔は、まあ、普通だった。すべてが普通で、勉強だけが少し抜けていた。それは、十三歳の少年にとって、ほとんど理想的な配分だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。今思えば、それも大した自慢ではない。けれど当時は、その校門をくぐることに、私は確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり、私が一番だった。最初の中間試験で学年三位を取ったとき、私は少し焦った。自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。期末試験までの一ヶ月、私は本気で勉強した。期末試験で一番を取った。それから卒業まで、私は一度も学年一位の座を譲らなかった。
高校一年の秋、文化祭があった。私のクラスは、お化け屋敷をやることに決まった。決まる過程で、私は反対した。お化け屋敷は、過去三年間、毎年どこかのクラスがやっていて、もう新鮮味がない。それに、暗幕の手配や教室の改造に時間がかかりすぎる。準備期間は二週間しかない。私は別の案を提案した。模擬店で、何か食べ物を出すほうが、客の回転が早く、利益も出やすい。これは数字で示した。前年度の各クラスの売上データを、私はわざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスの中で人気のあった、明るくてうるさい男子だった。彼は私の数字を見もせず、「いや、お化け屋敷のほうが楽しいだろ、絶対」と言った。クラスの三分の二が彼に同意した。私は食い下がった。「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」と言った。教室が少し静かになった。誰かが小さく「うわ」と言った。私はその「うわ」の意味が、今ならわかる。当時はわからなかった。
担任が、温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。そして、二週間後、その思いは正しかったことが証明された。私のクラスのお化け屋敷は、案の定、準備が間に合わず、当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。客は数えるほどしか来なかった。模擬店をやった隣のクラスは、長蛇の列を作っていた。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が、笑った。
私は、笑えなかった。
笑えない、というのは、笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。心が、笑い方を覚えていない、という意味だ。彼らは、間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次に進んでいた。私は一人だけ、間違えていなかった。間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
私は、その夜、自分の部屋で長い時間考えた。そして結論を出した。
人に合わせると、間違える。
多数派は、正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとって、ほとんど真理として体に入った。
そして、最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが、後で書くことの、すべての始まりだ。
似たような出来事は、その後何度もあった。一つだけ、もう一つ書いておく。
高校二年の春、私は生物の授業で、課題研究の班に入れられた。班員は四人。テーマは「学校近くの川の水質調査」だった。私は、すぐに気づいた。このテーマでは、論文として何の新しさもない。前の学年の先輩が、ほぼ同じテーマで発表していたからだ。私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を、上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
「先生は、最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は、致命的なことを言った。今でも覚えている。
私は、そのとき、自分が何かまずいことを言ったことに、気づいていた。けれど、何がまずいのか、正確にはわからなかった。今ならわかる。彼女たちは、別に手を抜きたかったわけではない。ただ、四人で何かを一緒にやる、という時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。私は、それを「評価されない無駄」と切って捨てた。
私たちの研究は、ありきたりな水質調査になった。発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。彼女たちも、私を呼ばなくなった。私たちは、最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係には、ならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって、一人で勉強するようになった。
そのほうが、効率が良かった。
私の偏差値は、上がった。
この時期に、もう一つ、私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が、私は嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが、「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。私には、それが奇妙な反論に見えた。内容が正しければ、それでいいではないか。なぜ、正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。それは、内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。それは、知性に対する侮辱ではないのか。
私は、そう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは、私の中で、信仰になった。
ここで、君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」というのは、装飾ではない。「言い方」というのは、内容を相手に届けるための、内容の一部だ。届かない正論は、正論ではない。それは、ただの独り言だ。私は、四十歳を過ぎてから、ようやくそのことに気づいた。三十年遅かった。
君は、これを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ、本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。私は二月の終わりに東京に出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。三月の十日だった。寒い日だった。
自分の番号を見つけたとき、私は、思っていたほど嬉しくなかった。
これは、嘘ではない。本当のことだ。
「やった」とは思った。「これで人生の最初の関門は越えた」とも思った。けれど、それだけだった。なぜなら、私は、合格することを、最初から知っていたからだ。模試の判定はずっとAだった。直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。落ちる理由がなかった。だから、合格することは、驚きではなく、確認だった。
掲示板の前で、合格した人たちが、抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。私は、誰にも電話しなかった。電話する相手がいなかった、というのとは少し違う。電話する相手はいた。父にも、母にも、塾の先生にも、電話できた。けれど、誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は、一人で、本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入って、かけそばを食べた。蕎麦はぬるかった。それでも、最後まで食べた。蕎麦屋を出てから、私は赤門のあたりをもう一度歩いた。三月の風が冷たかった。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
不思議な感覚だった。喜びではなく、空白に近い感情だった。私はこれから、知らない街で、知らない四年間を過ごす。誰も知らない。誰も私を「すごい」と言わない。私の隣の席に座る人間は、たぶん、私と同じくらい問題を解ける。
少しだけ、怖かった。
けれど、私はその怖さを、その日のうちに、押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも、一人でやればいい」
そう、自分に言い聞かせた。
これは、合格した日に、十八歳の私が、自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに、私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
物的証拠で立件できないから違法ではない自白強要が必要なんだというのが貴方の論旨ですよね
あらすじ(全文に近い内容・ネタバレ)手
私は幼い息子に平手打ちを喰わせた。私の怒りは強大であった。正義のごとく。
と、自分の手に感覚がまったく欠如していることに私は気がついた。
私は言った。「いいかい、お前に複雑なことを説明したいんだ」。
私は真剣かつ入念に、とりわけ父親にふさわしい真剣さと入念さをもって話した。
私が話し終えると息子は、許してほしいかと尋ねた。
ほしい、と私は言った。
駄目だ、と彼は言った。切り札を出すみたいに。
極端な短さの中で、完璧な「はじめ・なか・おわり」の物語構造を持っています(文学論でよく引用される)。
父親の怒り→正義感→罪悪感→感覚の麻痺という心理の急激な変化。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
メロスにはバズがわからぬ。メロスは、村のチー牛である。リプライを送り、トラバで遊んで暮して来た。けれども炎上に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。
メロスには父も、母も無い。妻も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。
この妹は、村の或る陰キャの花婿になることになっていた。
メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やらSwitch2の祝品やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、はてな匿名ダイアリーをやっている。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。
ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。
路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、Xで何かバズっていたのか、と質問した。
若い衆は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「なぜ使うのだ」
「悪心を抱いている、とのお疑いで」
「正直なブクマカを、なぜ」
老爺は、両手で顔を覆い、メロスにすがりついて言った。
「お上は、ブクマカを信じておらぬ。AIに書かせれば、人間より速くて正確じゃ、と仰せになって、増田の生成も、ブクマも、論評も、みんなAIに置き換えるおつもりじゃ」
「あきれた王だ。生かして置けぬ」
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。
調べられて、メロスのフトコロからは増田の下書きが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この増田で、何をするつもりであったか。言え」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「お前がか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、AIで書かれたことの賢さがわからぬ」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の知性を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。それにAIには、心が無い」
「お前にだって、わからぬだろ。ブクマカが、なぜ、お前の増田にブクマを付けぬのか」
メロスは、足ぶみして口惜しがった。
「社会に出れば分かる」って便利な言葉ですけど、それ言い始めると、自分の見た範囲をそのまま“社会の真実”にしていいことになるんですよね。
例えば駅員、警察、救急、深夜コンビニ店員みたいな“問題行動が集まりやすい現場”にいる人は、そりゃ加害者男性率が高く見えるでしょう。実際、暴力や粗暴犯の統計でも男性比率は高いですし、それ自体は否定してないんですよ。
でもそこから、
「だから男はクソ」
「男は基本加害者」
まで飛ぶと、今度は単なる属性叩きなんですよね。
というか、その理屈だと、
「女は感情的で面倒」
あと、「家から出ろ」って煽ってますけど、社会に出てる人ほど普通の男性なんて視界に入らないんですよ。
静かに通勤して、迷惑かけず帰宅してる人は印象に残らないから。
結局、人間って“問題を起こした人”だけ強く記憶するので、毎日トラブル対応してると世界が加害者だらけに見える。これは職業病としては理解できる。でも、それを性別全体の本質みたいに語り始めると、分析じゃなく感情論なんですよね。
いや、それ「男はクソ、女はまとも」って結論ありきで観測してるだけじゃないですかね。
駅員やってたら酔っ払い・暴れる客・変な客を見る機会が多いのは当然なんですけど、それって「問題を起こした人だけを何千件も見る職業」だから偏るんですよ。救急医が「人間はみんな病気」って言い出すようなものです。
あと、「女は基本まとも」って言う割に、痴漢冤罪とか駅員へのヒステリックなクレームとか、SNSで店員晒し上げる人とかは都合よく視界から消えてるの面白いですよね。結局、自分が嫌悪感を持った対象だけ記憶に残ってるだけでは。
それと、「男は群れるとロクなことしない」とか「高齢男性は理解しない」とか、属性で雑に括ってる時点で、あなたが嫌ってる“乱暴なおっさん”とやってることそんな変わらないんですよ。
というか、文中でも「若者は怒れば反省する」「暴言も復唱すると黙る」って書いてるじゃないですか。つまり多くは“制御不能な怪物”じゃなく、単にストレス管理が下手な人間なんですよね。
あと地味に怖いのが、「女に絡む男は性欲が原動力」と断定してるところで、他人の内面をエスパーみたいに決めつけ始めると、もう分析じゃなくて憎悪なんですよ。
たぶん駅で嫌な目に遭いすぎて「問題客のテンプレ」が脳内で“男”に統合されちゃったんでしょうけど、現実には毎日何百万人もの男性客が何事もなく電車使ってるわけで、静かにマナー守ってる人は印象に残らないだけです。
結局、「迷惑客は目立つ」「駅員は迷惑客ばかり対応する」「だから人類が終わって見える」ってだけの話を、“男という性別の本質”に拡大解釈してるように見えますけどね。
signpostは名詞だと「道しるべ・目印」ですが、動詞としては少しフォーマルで、「〜を示す・方向性を示す・重要な点を明確にする」という意味で使われます。
⸻
⸻
■ 例文
① 方向性を示す
(この章は本の主要論点を示している)
④ 受動態
(主要な節目は文書の中で明確に示されている)
⸻
■ ニュアンス
よく、金をケチって白タクしちゃった北越高校と同志社国際が似てるって書かれてるの見るけど、全然違うと思う。
同志社国際はむしろ金をかけて危険を買いに行ってしまったよね。透明化されているマイノリティの主張に耳を傾け、
気高い市民運動への理解をしめすべきだっていう、高邁な精神で危険行為に巻き込まれに行っちゃったよね。
揶揄でなく、なんの底意もなく、立派な教育理念だと思います。沖縄県民としてはありがたい事です。
でも沖縄県民は子供を辺野古の海に連れていかないし、戦没者の遺骨収集の活動とかも学校主導でやらないんですよ。
そういうことは、ある程度自分の意思が固まって、信頼のおけるゼミの教授の指導のもとでやるくらいの高度な社会学習じゃないですか。
自分は沖縄の左派だからこそ、事故を起こした団体に対し腸が煮えくりかえってます。ワジワジーどころじゃなくて、頭に血が上るような
カッカした怒りです。彼らは未必の故意の殺人罪で問われても仕方のないことをしてしまった。
同時に学校に対しても、勘弁してくださいよと。
平和学習って何スか。単に戦争は悲惨ですよという話なら平和祈念資料館で体験者の手記を読めばいいんじゃないかな。ガザやウクライナの映像を見たらいいんじゃないかな。
どうしたら戦争を防げるかという壮大な話なら、日本がかつて中国へ侵略していったこと・それが欧米との国際的な約束を破った形になり制裁を受けたこと
制裁を突破するためにやぶれかぶれで東南アジアへ燃料を探しに行き、あほ見たいな日米戦争を始めた・・・っていう日本の戦争の歴史をしっかり学べばいいよね。
「無視されることが多い」って、まずその観測範囲かなり偏ってませんかね。
増田ってそもそもレス返さない人も大量にいるし、「反論できなくて逃げた!」って判定、わりと雑なんですよ。
あと、「在日ガーって言ってる人」に対して急に「統一教会は?」って投げるの、論点が飛んでるんですよね。
相手からしたら「今その話してないけど?」になるので、そりゃ会話が止まることはあります。
例えば野球の話してる人に急に「じゃあサッカー界の不祥事は?」って言っても、会話って普通止まるじゃないですか。
それに、「統一教会を批判しない=容認」っていう二択にしてるのも雑なんですよ。
世の中の人って、全テーマについて毎回見解を表明してるわけじゃないので。
逆に聞きますけど、あなたは世界中の問題について毎回発言してるんですか?って話になるんですよ。
あと、この手のやり取りって、実際には「矛盾を正したい」というより、「お前もダブスタだろと言って黙らせたい」が目的になってることが多いんですよね。
はてなユーザーって何万人もいるのに、「裏金も増税も統一教会も許容してる」で一括りにしてる時点で、もう分析じゃなくて感情なんですよ。
あと、「支持してる政党に問題があっても投票する」って別に右派だけの話じゃないですよね。
立憲支持者だって党内の全発言に賛成してるわけじゃないし、共産支持者だって歴史認識まで全部肯定してるわけじゃない。
でもなぜか保守系だけ「一個でも問題があったら全部説明責任を負え」みたいになるんですよ。
それと、「許容してる」って便利な言葉ですけど、
「他党よりマシだと思って投票してる」のと「積極的に賛美してる」は全然違いますからね。
そこをわざと混同すると、どんな支持者でも悪魔化できるんですよ。
あと実際には、統一教会問題が出た後に保守系でも批判してた人は普通にいました。
でもそういう人は視界に入れず、「自分の嫌いな相手は全員同じ」という前提で話を進めるから、どんどん現実より脳内勢力図の話になっていくんですよね。
まず「ネトウヨが無視する質問」って言ってる時点で、答えが返ってこないように相手を雑にカテゴリ分けしてるだけなんですよね。
それって議論じゃなくて「ぼくの嫌いな人たちは矛盾してるはずだ」っていう願望ベースの確認作業なんですよ。
あと、統一教会を許してるって前提ですけど、普通に問題視してる人かなりいましたよね。
むしろ「保守=統一教会支持」って雑に一括りにしてる人の方が、現実を見ずに敵味方でしか物事を認識してないように見えるんですよ。
で、台湾の同性婚の件も、「台湾が好きなら台湾の制度全部賛成しろ」って理屈なら、日本食好きな人は捕鯨も全部支持しないとおかしいんですか?
国を好意的に見ることと、その国の政策100%に同意することって別ですよね。
あと最後の「共産党が反戦を主張してるから賛同しないなら〜」って、これ完全に論点すり替えなんですよね。
「その政党の全政策を支持するか」と「個別政策に賛同するか」は別問題なんで。
逆に聞きますけど、自民党支持者は増税も裏金も全部支持してるんですか?って話になるんですよ。
たぶん違いますよね。
というか、この手の話って「相手の矛盾を暴いた!」みたいな空気出してますけど、実際には「人は全部の思想が一直線じゃない」っていう当たり前の話しかしてないんですよね。
https://anond.hatelabo.jp/20200304115839
6年前、志村けんが亡くなる前にこの増田を書いた。結局これを書いても世間の対策は変わらず無事SARS大流行で世界は一度終わり再開したが、また死にそうになっているので筆をとる。
新型コロナや麻疹なんかより遥かに致死率の高いハンタウイルスがクルーズ船で発生してしまい、おまけに乗客の隔離措置も十分に行われないことが確定したので世界はまた終わります、という話。まだ元気があった6年前と違って長文を書く気力も無くなってきているので一次ソースのURLは各自調べて欲しい。
今回の増田で伝えたい要点としては、
の3点。Plague Inc.の最低難易度モードかな?というくらいノーガードで世界に拡散する事が決まったので来年の今頃は結構な人数が亡くなると思われる。
経緯が経緯だけに弱毒化とかそういうのも一切期待できないのでとりあえず滋養強壮で生存率50〜60%の可能性に備えるしか無い、と言うところ。
ハンタウイルスは大雑把に言うと2種類ある。朝鮮戦争などで流行り風土病と呼ばれていたもの。こっちは新型コロナのように「ただの風邪」くらいで収まる患者も多くあんまり危険じゃない。
もう一つはハンタウイルス肺症候群(HPS)を引き起こす凶悪なもの。こちらが今回流行っているもので初めて発見(同定)されたのは1993年と人類との関係がエボラよりも浅い新顔の致死性ウイルスだ。肺症候群というと咳とかそういうのを想像すると思うが、これは肺水腫を引き起こして患者が溺れたような苦しみを味わう。おまけに直接の死因は心臓がウイルスに侵される事による心原性ショックのため致死率がとんでもなく高い。上に書いたようにPlague Inc.だったら人類滅亡確定レベルのハイエンド症状だ。
通常のハンタウイルスはネズミのようなげっ歯類起源なので人から人へ感染拡大もしないが、今回のハンタウイルスは南米アンデス株なので人から人へも簡単に感染する。しかもコロナのような飛沫感染ではなく麻疹のような空気感染(不織布マスクでも防げないやつ)が確認されている。アルゼンチンで2018年に流行した際は村ごと隔離する事でアウトブレイクを抑えたが、それでも11人の犠牲者が出た。今回のアンデス株もアルゼンチン国内で死亡者が増えており、既に32人がここ1年で亡くなっている。
そんな南米発の激ヤバウイルスが何故今回クルーズ船で発生したのか。報道によると第一感染者は既に特定されており、3月27日にアルゼンチンに寄港した際にオランダの鳥類学者(死亡済み)がバードウォッチングのためにゴミ捨て場の埋立地に滞在した際に空気感染したらしい。都合良すぎるだろ洋画のアバンタイトルかよふざけんなよ。
なおこのハンタウイルス、タチが悪いことに潜伏期間が最長6週間あると確認されており本人も2週間後の4月11日に船上で死亡している。本人が高齢のためその時はハンタウイルスとは思われず自然死として扱われた。そして同室の妻も既に亡くなっている。ハンタウイルスはいつの間にか感染して周囲にウイルスを撒き散らしながら生存率50%の地獄の苦しみを味わうのである。センターマンがキレた時の必殺技か何かか?
そのためクルーズ船の乗客が既に世界に拡散されており、新型コロナが武漢で大流行した時よりも状況は既に悪い。しかしWHOは今もWHOなのでクルーズ船乗客の強固な隔離措置は推奨しない方針を既に出した。2020年1月にも聞いた言葉だ。
そんなこんなでいつ死ぬか分からないウイルスが世界に拡散されたので世界はもうダメです。ジョブズの言葉を最後に置いておきます。
ほら百合ですよ?
どうですか?これが欲しかったんですよね?
この子も実は湿っぽくて重い子なんですよー
みたいにお出しされるのは違うんだよね
視聴者側は想像を肴にキャッキャしたいのに公式からこっちに擦り寄ってきてあまつさえリポストやいいねしてくるのは求めてないっていう
ひと渡り見渡して日本の人は誰も言いたがらないようなので、わしが書きますが、まだ紛糾が続く中東情勢のなかで、日本だけが外交上の大敗を決めて、これまでの外交蓄積をすべてご破算にしてしまった。
他に功績が色々あるのでしょうが、これだけは、単に高市首相が外交努力を拒否したからで、普通の国なら、これだけで退陣です。
国民に圧倒的に支持されているので、地位は揺るがないが、ここに至って「アメリカに付き従う」という最悪のポジショニングを取ってしまったことで未来永劫日本人が受ける不利益は膨大なものです。
実は高市首相がゴールデンウィークにどこへ外遊するかは世界が注視していました。
中国はもう正面からの敵対で仕方が無いとして、最もおおきな期待は「イランを含む湾岸諸国歴訪」だった。
ほんとに休暇を取ってしまった
日本は言われるほど「アメリカの飼い犬」ではなく、特に中東に関しては時にアメリカを激怒させるほど独自の外交方針を堅持してきたが、ここに至って、みずからの優位と独立性を、他国がびっくりするような無造作さで捨ててしまった
こんなナマケモノ外交をやる国だと思っていた国はないでしょう。
各国の内輪の反応を見ると、びっくりびっくりびっくりの階乗で、驚きの後は、いまの日本の外交の甘さにほくそ笑んでいる
わしもびっくり。
日本がどうなっていくか、はっきり見えたような気がしたゴールデンウィークでした。
ほんとうは、またヘンなのが来るので、言わんとこ、と思ってたんだけど
黙っているのも不誠実だと思い直して最低限の事実を書いておきます
https://x.com/gamayauber01/status/2052672180484473289?s=46&t=VPaTgnS-4jVhH1cpAukinA
仮に一切黙秘したとしても、他の証拠で有罪を立証できるような捜査体制を作れというわけよ。
そのために、司法解剖や科学捜査や目撃者の聞き込みなど、いろいろやるわけでしょ。
これが本来あるべき姿だ。
ただ、それをするにはカネがかかるから自白偏重になっているように思う。
でもそれって捜査機関としての怠慢だよね。
https://www.akita-u.ac.jp/honbu/lab/vol_21.html
日本の解剖率が約10%なのに対し、海外での解剖率は英国やオーストラリアで40~50%、北欧では70%~80%といわれており、日本の解剖率ひいては死因究明率の低さが伺えます。