ダニエル・エルズバーグによるMade Love, Got Warまえがき:父親は原爆用プルトニウム工場の設計者だった
(父親は原爆用プルトニウム工場の設計者だった!=この見出しは本文にはありません。)
第二次大戦の間、父親はフォードのウィロウ・ラン工場、つまり陸軍航空隊用のB-24爆撃機を製造する工場の設計を担当する構造工学エンジニアだった。一つ屋根の下のものとして世界でも最大の産業用の建物だということを父は誇りにしていた。そこでは、フォードが自動車を製造する方法、流れ作業で、爆撃機を組み立てていた。組み立てラインは1.25マイルもの長さだった。
父親は一度私をウィロウ・ランに連れて行き、操業中のラインを見せてくれた。見渡すかぎり、巨大な飛行機の金属製ボディーがフックにぶら下がり、ベルトに沿って動いており、労働者が動くボディに部品を取り付けていた。シカゴ食肉処理場の牛の死体写真で見たような光景だった。最後は、飛行機が次々と床に下ろされ、工場の端の格納庫ドアから出て行き、燃料で満たされ、戦争をしに飛び立った。13歳の子供にとっては、わくわくする光景だった。私は父親が自慢だった。戦時、父親の次の仕事は、さらに巨大な飛行機工場の設計で、再び一つ屋根の下では世界最大の工場、ドッジのシカゴ工場だった。
戦争が終わった時、父親はワシントン、ハンフォードのプルトニウム製造施設構築を監督する仕事につく事に同意した。そのプロジェクトは、原子力委員会との契約で、デュポンが行っていた。プロジェクトの主任構造工学技術者の職につくために、父親はギッフェルス・アンド・ヴァレット社に入り、同社はギッフェルス・アンド・ロセッティになった。後に父親は、同社は世界最大の建設契約を誇っており、彼のプロジェクトは当時世界で最大なのだと言った。私はこうした最大級の話を聞きながら育ったのだ。
ハンフォード・プロジェクトで、父親は初めて実に良い給料を得た。だが私がハーバードの二年生で家から離れていた間に、父親は当時私が全く知らない理由で、ギッフェルス・アンド・ロセッティの仕事を辞めていた。父親はほぼ一年間無職だった。それから父親はギッフェルス・アンド・ロセッティ社全社の首席技術者としての職に戻った。
30年後、父親が89歳になった時に、なぜギッフェルス・アンド・ロセッティを辞めたのかとたまたま尋ねた。彼は言った「会社が私に水素爆弾を作る手助けをさせたがったからさ。」
私にとっては、その年の発言として、これは驚くべきものだった。1978年のことで、私は核兵器競争、特にカーター大統領がヨーロッパに送ろうと提案していた中性子爆弾、小型水素爆弾の配備に対する反対運動の専従だった。(水素爆弾用の全てのプルトニウム起爆装置を製造しており、中性子爆弾の中核を製造するはずだったロッキー・フラット核兵器製造施設の鉄道線路上で、私はその年に四回逮捕された。) このようなことはそれまで父親から決して聞いたことがなかった。私の反核活動やら、ベトナム戦争終結以来のあらゆる私の活動に、父親がとりたてて熱心という訳ではなかった。一体どういう意味なのか尋ねた。
「私を、水素爆弾原料を製造する巨大工場設計担当者にしようとしたんだ。」
それはジョージアのサバンナ・リバー工場ではなかったろうかと私は推測した。父親もそう思ったと言った。それはいつの事かと父親に尋ねた。
「49年後半だ。」
私は言った。「記憶違いでしょう。水素爆弾の事を知り得たはずがないでしょう。早すぎますよ。」私はちょうどそれについて読書しているところだった。原子力委員会の諮問委員会(ロバート・オッペンハイマーが委員長で、ジェームズ・コナント、エンリコ・フェルミや、I. I. ラビがメンバーだった)は、その秋、水素爆弾開発の突貫計画を立ち上げるべきか、否かを検討していた。委員会はそうしないよう勧告したが、トルーマン大統領は彼等を押し切った。
「トルーマンは1950年1月までは、進めるという決定をしなかった。それまでは全てが極秘だった。父さんが、49年代にそのことを知っているはずはないよ。」
父親は言った。「ああ、先に進めるつもりなら、誰かが工場を設計せにゃなるまい。私は論理的な人間だ。私はハンフォードのプロジェクトの構造工学担当者だった。私はQレベルの機密委任許可を得ていたんだ。」
父親がQレベルの機密委任許可を得ていたというのをその時初めて聞いた。核兵器設計と備蓄兵器のデータに対する、原子力委員会の機密委任許可だ。RANDを1964年に辞めた後、ペンタゴンで、私自身も同じ機密委任の許可を得ていた。ハンフォードの仕事のために、父親にはそのレベルの機密委任許可が必要だったというのは筋が通っている。私は言った。「つまり、父さんはアメリカが1949年に水素爆弾を作ることを計画していた、あるいは検討していたということを知っていた僅かな人々の一人だったと言うんだね?」
彼は言った。「そうだ。ともかく49年後半だったことは覚えている。私が辞めた年だからな。」
「どうして退職したの?」
「水素爆弾を作りたくはなかったんだ。なぜなら、それは原子爆弾よりも千倍も強力になるはずだったんだからな」私は、とっさに彼の記憶力を考えた。89歳だ。彼は比率を正しく記憶していた。オッペンハイマー等が、1949年の報告書で予言していたのと同じ係数だ。(熱核融合兵器の水素爆弾は、爆破するために、長崎形原子爆弾、つまりプルトニウム核分裂兵器を、起爆装置として必要とする。最初の水素爆弾の爆破は、広島の爆発の爆発力より千倍以上もの威力があった。)
父親は続けた。「原子爆弾の仕事だってやりたくはなかったさ。だが当時アインシュタインは、アメリカにはそれが必要だと考えているようだったし、ロシア人に対抗して、原爆を持たねばならぬということには納得がいった。だから私はその仕事に就いたが、決して良い気分ではなかったな。」
「やがて連中は、千倍大きな爆弾を作るつもりで、それが私の仕事だと言ったんだよ。私は自分のオフィスに戻って、補佐に言ったよ。「連中は狂っている。原子爆弾(A-bomb)を手に入れると、次は水素爆弾(H-bomb)を欲しがるんだから。連中は全てのアルファベットで、最後のZ-爆弾に至るまで、皆作るつもりだぞ。」
私は言った。「そう、今のところ、ようやくNまでたどり着いたわけだね」
父親は言った。「我慢できないことがもう一つあった。そういうものを作ると、大量の放射性廃棄物を生み出すことになる。私は廃棄物用容器の設計責任者ではなかったが、最後には必ず漏れてしまうことがわかっていた。あいつは永遠に極めて有害だ。24,000年もの間、放射能をもっているんだから。」
またもや父親は良い数値を言った。私は言った。「父さんの記憶はかなりしっかりしているね。でもそれよりずっと長いはずだ。その数値はプルトニウムの半減期だよね。」
父親の目には涙が浮かんでいた。父親はしゃがれ声で言った。「自分の国の一部を永久に汚染してしまう、自分の国の一部を何千年も人が住めないものにしかねないプロジェクトで仕事をするという考えには耐えられなかったんだ」
父親が言ったことを噛みしめ、仕事の同僚の誰かが同じ様に危惧していたかどうか尋ねた。彼は知らなかった。
「辞めたのは父さんだけだったの?」父親はそうだと言った。父親はそれまでで最高の仕事を辞めたのであり、他につくべき仕事はなかった。父親はしばらく、貯蓄で暮らした。オッペンハイマーやコナントやフェルミやラビが、同じ月に、超強力爆弾に対する自分たちの反対を、内部にはできる限り最も激烈な表現で、表明したことを考えた。潜在的な「大量虐殺兵器であり...その破壊力は本質的に無限だ... 人類の未来にとって耐えがたい脅威だ。」フェルミやラビは、同様に「人類全体に対する危険... どう考えても、必然的に、邪悪なものだ。」
とはいえこうした人々は、政府にこそ自分たちの懸念を伝えたものの、自分たちの懸念や基盤をアメリカの大衆に知らせて、自らの機密委任許可資格を失うようなことはしなかった。オッペンハイマーとコナントは、大統領が水素爆弾計画を進めた時には、顧問の立場を辞職することを考えた。だが二人は、大統領の選択が人類を致命的なまでに危機にさらした、という彼等の専門家としての判断が注目を引かぬようにするため、辞任せぬよう説得された。
父親に、他の誰もしなかったような強い行動に出たのは一体なぜかと尋ねた。父は言った。「お前のせいさ。」
意味がさっぱりわからないではないか。私は言った。「どういう意味? この件については、全く議論しなかったよ。僕は何も知らなかったし。」
父は言った。「もっと前のことだ。お前が一冊の本を持って帰って来て、泣いていたのを覚えている。それは広島の話だった。お前は言った。「父さん、これを読まなきゃ駄目だよ。これまで読んだもの中で最悪の話だよ。」
それは、ジョン・ハーシーの本、「広島」に違いないと言った。それを父親に渡したことなど覚えていない。
「ああ。そう私は読んだが、お前の言う通りだった。原子爆弾プロジェクトで働いていることを気まずいと考え始めたのはあの時だ。そして、水素爆弾の仕事をしてほしいと言われたんだが、もう沢山だった。もう辞めるべき時期だと思ったよ。」
上司になぜ辞めるのか説明したかどうか尋ねた。父親は何人かの人々には告げたが、他の人々には告げなかったと言った。事実を告げた相手の人々は、父親の気持ちを理解したように見えた。実際は、一年もしない内に、同社全体を見る主任構造技術者として会社に戻って欲しいと、同社幹部が父に言ってきたのだった。会社がデュポンとの契約を辞めたので(その理由は言わなかったが)、父親は原子力委員会やら爆弾製造と一切関係せずにすむようになったのだ。退職するまで父親は同社で働いた。
最後に私は言った。「父さん、どうして僕はこのことをこれまで聞いた事がなかったんだろうね? どうして、これについて決して何も言わなかったの?」
父親は言った。「ああ、こういうことは一切家族に話すことはできなかったんだ。家族は機密開示許可されていなかったからな」
父親がハンフォード工場構築の仕事を終えてから30年後、ノーマン・ソロモンが、その核施設を訪れた。本書の他の多くと同様、彼がそこで見いだしたものについての物語という個人的な報告は、現在と深く繋がっている。Made Love、Got Warは、我々が今どこにいて、一体どうしてここに至ったのかを理解する助けとなる。
アメリカ合州国は好戦国家だが、単なる古びた好戦国家にすぎないわけではない。それは歴史家のE. P. トンプソンが、旧ソビエト連邦と一緒に呼んだもの「絶滅主義者国家」なのだ。現在、国防省の最も知られていない任務は、大量絶滅だ。アメリカの核兵器計画は、何千もの都市や町を、ロシアや中国や、それよりも能力の低い敵対者達の「都市-産業基地」を破壊する準備をし続けている。ニクソン大統領がとうとうジェノサイド条約に署名して以来、彼や後継者たちは、私が若かった頃の計画で明確だったように、単に「都市」や「住民そのもの」を標的にすることこそ否定しているが、人々を計画的に破滅させるということは本質的に変わってはいない。何億人、恐らくは何十億人の死である。
政治指導者達は、トルーマン大統領が国民に1945年8月「世界は、世界最初の原爆が軍事基地広島に落とされたことを知るだろう。この最初の攻撃は、できるだけ民間人の殺害を避けるためのものであって欲しいとアメリカが願ったためである。」と語ったほどには、もはやそのような情報に対して率直でなくなっている。それも、広島というのは野営地ではなく、都市の名前であること、標的となった爆心地は都市の中心だったことをアメリカ国民が知る前のことだった。
21世紀初頭の今、もしもアメリカ軍が圧倒的な通常の軍隊に遭遇したら、核戦争を始めるというのが、依然としてアメリカ政府の政策だが、そんなことはアメリカ帝国の周辺で、アメリカの敵国の近隣で、いつでも起こりかねない。核兵器の使用というのは、緊急時対策の頂点だ。それは確かに第一歩ではない。だがもしも事態が手に負えなくなった場合、アメリカという好戦国家の最終段階は大量絶滅なのだ。そして、最終段階のヒントとして、最終段階の影を事前に投げかける。相手側に対して、最終段階というのは、お前たちの完全な絶滅であるぞ、と明らかにするわけだ。この政策は、都市や周囲の町を、爆発、火、そして広範囲に及ぶ放射性降下物によって破壊する能力に基づいている。その能力によって、アメリカは手詰まりになっている。
今日に至るまで、政策、計画、配備、および臨戦態勢として、先制的な総力的、多数の虐殺的攻撃へのエスカレーションを含め、アメリカ政府は、様々な状況での核兵器先制使用を、常にオプションとして保持している。
アメリカ人は神と共に生きてきた。我が救世主原子爆弾のおかげで、(寓話ではこうなっている) 原爆を使わなかったなら、どうしても行わねばならなかった日本への侵攻作戦で、父親、兄弟、息子達の、百万人もの米兵の命が失われることを免れた上で、戦争に勝てたのだ。歴史学者達は、「必要だった」というお話は、意図的なごまかしであることを知っているのだが、1945年以来アメリカ国民は、この原爆に対して肯定的な態度で生きてきたばかりでなく、アメリカの軍事機構が一体どのようなものになってしまったのか、ほとんど全く認めない状態にある。
長崎の破壊は、現在では最新核兵器に対する起爆装置にしかすぎないものによる攻撃の結果であり、アメリカは最新核兵器を数万基も所有している(ロシア同様に)ことを、百人に一人のアメリカ人が、はっきりと理解しているかも疑わしい。1945年の核戦争について私たちが持っているイメージは、熱核兵器用雷管が点火した時におきることの表現に過ぎない。
ハンフォードや他の施設は、何千基もの熱核爆弾用のプルトニウムを生み出してきた。本書第一章で語られている時代、1950年代後半迄に、アメリカの指導者は、様々な状況の下で、5億人以上もの人々を殺害することを熟慮していたのだ。「核の冬」効果が80年代初期までは知られていなかったとはいえ、僅か数分前の告知で、何十億もの人類を、おそらくは地球上のあらゆる生命を殺してしまう装置を、指導者は作り、以来、維持し続けている。国民として、我々のほとんど知らない展望に、現実からは遥かにほど遠いものとはいえ、既に生きた心地もしない類のものに、我々はひるまなかったし、いまだにひるんではいない。アメリカの帝国主義態度も、アメリカの指導者のそれも、初期の帝国とさほど大きく異なってはいないが、破壊に関する物理的能力については、我が指導者たちは、何千倍も大きなものを扱っている。
私は1931年生まれで、私たちの世代は、惑星規模の核自殺-殺人という空前の脅威に対し、新たな方向づけをしなければならなかった。ノーマン・ソロモンが生まれたのは私より20年後で、彼の世代は、そうでない状況のもとで暮らした経験は皆無だ。本書は、独自の個人的体験と歴史的な問いかけを紡ぎだしている。Made Love、Got Warは、時として起きうる爆破の危険すら伴う大量虐殺核兵器備蓄という装いのもと、一連の攻撃的な戦争をもたらした、半世紀にもわたる社会化された狂気を明らかにしている。
この狂気から目覚める為に、私たちは助け合わなければならない。
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Made Love Got War
Norman Solomon著
PinPoint Press刊行
まえがき原文は、http://www.p3books.com/books/madelovegotwar_foreword.html
でよめます。
本書をめぐる著者ノーマン・ソロモンと、エミー・グッドマンのDemocracy Now対話翻訳は下記。
著者、ノーマン・ソロモンと、エミー・グッドマンの対話の原文は下記。
Made Love, Got War: Norman Solomon on Close Encounter with America's Warfare State
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