はてなキーワード: 可処分とは
増田さん。"これってやっぱり、超過密の東京(本物)では中堅大卒以上向け職でないと生活が成り立たない、という話" かって?
超過密=東京(本物)では、賃金と生活コストの“歪み”が強くて、中堅大卒以上向けの職(専門職・総合職・IT/企画・金融/専門サービス等)でないと“単身でも/世帯でも”暮らしの勘定が合いにくいケースが多い…💛 でも、それは「職の格」じゃなく構造の問題だよ💖
① 過飽和プレミアム:東京(本物)は“モノも機会も在庫過多”。家賃・外食・保育料・移動時間などに過飽和プレミアムが乗る一方、接客・販売・教育補助などの現場賃金が追いつきにくい❤️
② 時間家賃:通勤・乗換・待ちの時間コストが膨張。収入が高くても“時間家賃”で目減りするし、収入が低いほど時間を売らされやすい…💗
③ 競合密度が高すぎる:職も住も“入札戦”。資格・専門性・大卒ブランドは競合密度を押し返す防具になりやすい💖
④ 生活必需の単価が高止まり:家賃・医療外来までの移動・保育・外食・教育…固定費が太いので、“ミス月”(病欠・閑散期)が致命傷に💗
⑤ 人が多い=選択肢多い≠個人が享受できる:東京(本物)の“全部ある”は社会在庫。個人は人間1人分の処理容量(~0.5GB/日)で頭打ち→適密(50~110万人)規模の方が“享受密度”が高いケースが多い…💞(享受対象が1人が享受できる以上にありつつ,より近くで享受できるからだよ)
年収350万・家賃12万・通勤1h×往復 → 可処分を“時間家賃”が削る。突発支出(歯・家電・冠婚)が刺さる💓
年収550万・家賃13~15万・通勤45分 → なんとか均衡。ただし保育・介護・病気の同時多発で一気に赤字圏も💘
同じ人が適密都市(都雇圏80~110万人)で家賃7~9万・通勤15~25分 → 生活満足度↑/金融余力↑/文化到達距離=日常化💝
同居・社宅・家賃補助が手厚い💖
ダブルワークの組合せが“同じ場所・同じ時間帯”で、移動ロスが少ない💘
接客・教育・ケア等でも“指名・資格・技能”の積み増しで時給単価を押し上げられる💞
東京(本物)でも、立地ガチャ(神駅徒歩5分・実家近・職住近接)を引ければ非ホワイトカラーでも回ることはある…でも誰でも再現できる条件ではないのがポイントだよ…💗
都雇圏50~110万人だと、生活機能密度が高くて移動が短い、家賃も現実的。
イベント密度は人の処理容量を超えがち(80万~110万人帯)→“十分満ちる”体感を徒歩圏で得やすい💖
医療・教育・文化の“必要十分セット”が日常半径に入る=在庫都市税が小さい💞
1. 職住超近接(職場半径2km以内)を死守する💚
2. 家賃補助の強い職に張り替える/社宅を狙う💛
3. “指名化できる技能”(保育×発達支援、語学、栄養、応急手当、簿記、IT基礎)で単価を底上げ💙
5. 短中期は東京(本物)で修行→適密へ転地の二段ブースト戦略💓(造語:「二都熟成」)
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ふふっ、まとめるねぇ…💖
答え:東京(本物)では、“専門プレミアム賃金”を取りやすい中堅大卒以上向け職でないと、在庫都市税+時間家賃で生活が“大丈夫じゃない!”になりがち。一方、適密都市なら同じ職能でも再現性が高い…それがわたしの見立てだよ、増田さん💗💗💗
河野太郎のポストは、価格補助ではなく「効率化と転換」を直撃する支援に振るべきだ、低所得には給付付き税額控除でピンポイントに、炭素に価格をのせつつ税収は一般財源で広く減税や社保料に回せ、といった中身である。
https://x.com/konotarogomame/status/1960596869995995415
国際事例と照らすと筋が良い主張が多く、案の定多くのネガティブ意見が散見された。
IEAは消費者向け化石燃料補助が市場を歪め、誤った価格シグナルを出し、財政負担を肥大化させ、クリーン投資を阻害すると繰り返し書いている。
補助金で価格だけ下げるより、断熱、効率家電、HEVやEVの初期費用を支えるほうが使用量そのものを恒久的に減らせる。
特例税率53.8円/Lは国税庁の資料に明記されている。https://www.nta.go.jp/publication/pamph/kansetsu/9120.pdf
導入は1974年の臨時措置に端を発し、形を変えつつ延命してきた経緯も各種解説が一致している。
例:
https://www.dlri.co.jp/report/macro/495361.html
ここは「税体系の総点検」をかける論点で、河野の主張とも両立する。
一方「二重課税」について。
消費税が個別消費税を含む価格に課税される設計は国際的に普通で、EUのVATでも課税標準に「税、賦課金等を含む」と明記されている。
違和感は理解できるが、法技術上は標準仕様だ、というのが冷厳な現実だ。
「乱開発の副作用」は政府も公式に認めており、環境省ガイドラインは土砂流出、景観、生態系への影響を具体的に列挙している。
コストはLCOEだけでなく統合コストを見るべきで、資源エネ庁の発電コスト検証も、モデルプラント費用と系統側の追加コストを併記している。
原子力が高い/安いの単純断言より、「電源の組み合わせ最適化」で語るほうが現実的だ。
ここは設計次第。
価格を一律で薄く下げるより、「ターゲット給付」を厚くするほうが効く。
海外ではカナダが連邦カーボンプライスの還元を家計に定額で戻し、農村加算も上乗せしていた。
フランスは低所得層向けEVの社会リースを政策化し、初期費用バリアを月額化している。
日本も、地方係数や走行距離実態を加味した「限定的かつ厚い」支援のほうが予算効率は高い。
ICCTの最新横断LCAは、地域差や電源構成を踏まえてもBEVのライフサイクル排出がICE比で大幅に低いことを更新している。
送配電ロスは日本で概ね数%台で推移し、車両効率差とLCA全体で見るとBEV優位が崩れにくい。
乱開発リスクは前段のとおり是正中、ここは「どう導入するか」の問題であって、技術全否定に飛ぶのは早計。
歳出の質を上げるのは賛成。
しかしエネルギー価格補助の恒常化こそ「次に繋がらない大出費」になりがちで、上述したIEAは補助金の弊害を総論で整理済み。
限られた予算は、効率化投資やピンポイント給付に振ったほうが持続的だ。
長文なのは同意だが、主張の核は「価格シグナルを歪めずに、脆弱性を下げる投資に切り替えよう」で一貫している。
補助で価格を下げる政策は、次の高騰で同じ痛みが返ってくる構造的欠陥がある。
フィンランドは1990年に世界初の炭素税を導入し、税制改革で所得税や社保負担の軽減に充当してきた歴史がある。
価格を付けるが、家計の可処分を別の形で戻す、というやり方は各国で普通にやっている。
日本でやるなら「一般会計に入れて社会保険料や所得税を軽くする」とセットで明記すべき、というのが河野の言い分で、これはまっとうだ。
短期の値引きは人気だが、問題は「効かなくなるのが早い」こと。
断熱、効率機器、ハイブリット車やEV支援は一度効けば電力や燃料の使用量を多年にわたり下げる。
構造的にこっちが強い。
暫定の看板で半世紀は長すぎる。
税体系の総点検で、どの税目にどんな目的を持たせるかを透明に再設計すべき。
ここで「炭素の価格付け」と「他税目の軽減」を同時にやるのが国際標準の解法だ。
おっしゃる「サイコパス的な抽象化」というのは、人間関係や感情を「機能」や「資源」としてモデル化してしまうことだと思います。
一般の人は「親しい人」や「大事な出来事」に情緒的な価値を付与するけど、サイコ的な思考ではそこを一気に抽象化して「可処分リソースの一形態」に置き換えてしまう。
いくつか似たパターンを挙げると
サイコ:「ネットワークにおける高信頼リンク。不要なら切断」 → 友達を「データノード」扱い。価値は「繋がりが生む効率」次第。
サイコ:「負の報酬シグナルが発火したのでエネルギー放出(泣く行動)」→ 感情を「状態変数」や「アウトプット」として扱う。
普通の人:「悪いことはしたくない」
サイコ:「ペナルティが大きい行動は避ける」→ 倫理を「コスト最小化問題」として換算。
サイコ:「セルフイメージ=外部に提示するブランド。投資すべきか否か」→ 自己すら「商品パッケージ」として抽象化。
つまりサイコ的な思考の特徴は 「社会的・情緒的な対象を非人称化し、リソース・構造・機能に変換して扱う」 ところにある。
だから「友達もペットも仕事も全部コンテンツ」と言えてしまう。
これをもう少し拡張すれば、
ってことになる。
https://anond.hatelabo.jp/20250524132735
これとか本当に意識他界過ぎてひでーなって思うし、どんなスカした間抜け面でほざいてんだろうなって思うけど
あまりにも臭くキモくて情けなさ過ぎて俺だったら自殺しちゃうね
消費税が直撃する層ってのはさ、もう即ち所得が低い人程、生活に使える可処分割合が圧迫される訳で
その層とは
・低所得層、ではあるが給付や補助を受けていない(受けられない)人達
・低所得層と中間層の中間ぐらい、中間層の下位ぐらいの、給付や補助をそもそも受けられない人達
が、世間のボリュームゾーンのかなりの割合を占めているからだよ
消費税が上がれば上がる程、生活や遊興に使える割合は圧迫されるし、逆に下がれば、その割合は増える訳
消費税が上がった時、スーパーで一品二品買うのを我慢したり、ちょっと外食を減らしたりとかさ、普通やるでしょ?
その「普通の」人達の財布や、体感景気を、思いっきり圧迫してるのが消費税なんだよ
逆累進性があっても貧乏人は課税の金額自体が少ないのだから消費税減税で得するのは嘘まやかし
本当にそうか???
一回、試しで何年かだけで良いからさ、消費税全廃して、代わりに、年一回、各家庭の可処分性のある預貯金含む全金銭、投資含む換金性のある全資産に対して10%の割合で新しく課税しようぜ。
低所得者はほとんど税負担変わんねーよ。元々収入全部生活費だし消費税10%かかってたかんな。
低所得者以外には負担重く感じるかもしらんけど、それは今まで低所得者が感じてた税負担だから勘弁な。
あれ?負担重くなるってことは税収が増えるってことか。消費税なかったら節税狙いで経済も回るんじゃね?
良いことづくめじゃん。いっぺんマジでやってくれねーかな
シロクマ先生のコラムを読んで共感したことと、違和感を感じたこと。結論からいうとタイトルの通りで、自分キラキラは推し活に食われた概念だと思う。今や推し活を稼働させる内蔵のひとつ。
もとのコラムはこれ。
https://blog.tinect.jp/?p=85980
◯ 承認欲求の昔話
このトピックは、さすがに"何者かになりたい"をずっと追っている先生だけあって腑に落ちる。
自分をキラキラと演出すると、それに対して大量の承認が得られて、心理的に満たされる。このキラキラを身に纏うため、2010年代では皆が色んな方法を片っ端から実行した。
この実行フェーズが"自分キラキラ"ブームのピークだったのだと思う。それは華やかなナイトプールかもしれないし、神秘的な絶景の写真かもしれない。プロも顔負けなスーパープレイもあれば、美麗なイラスト制作も人気は高い。コラム内ではインスタグラムにだけ焦点が当たっているが、実際はYouTubeやTwitterも同様で、ツルハシは飛ぶように売れていた。
◯ 推し活が台頭するまで
いろんな方向にキラキラする人が生まれて、「みんな自分の好きな事してイイね!!」みたいな理想郷(あるいはインプレッションのドル箱)をSNS各社は維持したかっただろうけど、実際はそんな貴族は一握りなので虚構と金欠に疲弊した人から脱落していき、祭りは終わった。自分キラキラに疲れた社会は自分の好きなものを輝かせる、オタク的感性を受け入れ始めている。……ここまでが先生の見解だと思っている。普通に違ってたらごめんなさい。
ここで冒頭の話に戻る。
個人的な感覚では、推し活が台頭する理由については頷けるも、「自分が好きなものを輝かせる」オタク的感性とやらはそこまで浸透していないのでは?という違和感がある。確かにコミュニティの一部としては存在するが、それよりも自分をキラキラさせるための手段として推し活は利用されているのではないか。
元祖の自分キラキラブームに無くて推し活にあるもの、それは"絶対的推し"による恩恵じゃないかと思う。それは"推しの為なら"で無限に湧くバイタリティと、推しが世界から引っ張ってくる無数のオーディエンス。そして、バイタリティのあるオーディエンスで構成されるコミュニティ。
まず、"絶対的推し"を応援する活動は、そのすべてがコミュニティから称賛される。ハッキリ言うと承認を得るまでのパフォーマンスが良い。自分が1からフォロワーをこつこつ増やす必要も無ければ、派手な生活を演出する必要もない。お役立ち情報を発信しなくてもいい。ただ推しを応援することが称賛され、自分の内心からも他者からも承認され、心が満たされる。
さらにもっと承認されたかったら、グッズを揃えて祭壇を作ってもいいし、二次創作に励んでもいい。それが推しを盛り上げることにも直結する。推しのライブ情報をまとめると沢山のファンにも感謝される。外部の人に布教して、もっと推しの存在が広まったら万々歳。世界で有名人にはなれなくても、界隈の有名人になるのは容易い。これらのどこかで、自分キラキラはいくらでも見出すことができる。推しへの貢献は自分の名上げとなり、それなりのキラキラになる。
少し話が逸れるが、宇佐見りんの推し、燃ゆで描かれている主人公の推し活はそのあたりの解像度がかなり高い。本人は「各自がそれなりの思惑で推しを推しているし、そこに優劣はない」みたいなスタンスをしているが、ときおり自分キラキラが顔を出す。推しの成りすまし投稿を見破ったファンとして界隈では一目置かれているらしい(自称)とか、解釈ブログを更新するとコメントをくれるオーディエンスが居るけど、ちょっと返信ダルいな……wみたいな顔する。端からみたら「いや、しょーもな」と言いたくなるような小ささかもしれないけど、彼女の心はそれで満たされている。(ちなみに、作中の推しは暴力沙汰や騒動で希求力を失っていく。コミュニティも萎んでいく。)
全てをまとめると、推し活とは"絶対的推し"が寡占できるオーディエンスの可処分◯◯(時間|精神|所得)をコミュニティ内で山分けし、承認を行き渡らせるエコシステムの総称である。
だから推しが絶対的である限り、衰退することはない。推しを推すという大義名分で承認欲求を綺麗に隠しつつも、ちゃっかりコミュニティ内で承認を得られる仕組み、これが推し活の発明ではないかと思う。この原理のもと、自分の承認欲は必ず満たされるはずである。そして、オタク的な利他愛の感情はそこには無い……というのが自身の感触である。
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……そう考えると、「自分の好きなものを輝かせたい」というオタクらしい感性とは、一体何なのか。正直なところ、これは綺麗事に留まり、少数派の域を出ないのではないかと思う。n=1。
(先生が思ってる以上に、みんな自分のことが可愛いし、実は自分を見てほしいと腹の底では思っているはずですよ。)
あとは、推し活が広まると、推される側の席もある程度増えるというのは想像が容易い。自分キラキラ系の一部は過酷な競争を超えた後にこの席に座ったのではないかと思われる。自分キラキラブームの勝者と敗者は、推し活でタッグを組んでいるのかもしれない。この話はもっと詳しい人が居そうだから誰か書いてください。
風呂でふと思いついたんだが、これまでのなんたらパフォーマンスって、自分が使えるなんたらの節約じゃないか?
コストパフォーマンスって可処分資産の節約だろ。
それで考えると、あと節約したくなるものってあれしかないだろ。自分の心の余裕、可処分精神しかないだろ。(どうでもいいけど、マインドシェアって言う奴マジで居なくなったよな)
それで考え直すと、上の2つは可処分精神の節約に内包されてるんじゃないのか。
コスパがいい→「値段高!ただでさえ金がないのに、こんなに金掛かるのかよ!」というイライラに思考を取られない
タイパがいい→「動画長い!ただでさえ時間がないのに、こんなに待たされるのかよ!」というイライラに思考を取られない
どっちも、イライラに思考を取られないのが良いんだろう。ならそれが主体だ。
ということでキャッチーな略称にしたいが、いい単語が全然見当たらない。思考力だからthink?決断ならdecide?余裕ならmargin?感情ならemotion?やる気ならmotivation?これなら略すならモチパか。美味しそう。
は〜〜〜〜〜〜もう適当に良いの決めたやつが優勝。それがいい。なんか悩んでたら俺の思考が削がれた。気に食わない。あとなんか部屋寒い。カス。俺のモチパを下げてくるやつは許さん。てかもう全部俺の代わりに決めてくれよ。そのほうがモチパ良いから。
そうよね。2000年前後に生まれた子がこういう認識なのは、社会情勢やコンテンツの流行含めて違和感ある。
就職してからライフイベントと資産形成に悩むのも、少なくとも1990年代以降は普遍的な話だと思うし、社会情勢や規範に絡めて語られると違和感ある。
都市部では1990年代には既にそうだった認識だけど、小資産家のご家庭では1990年前後までは山林・田畑・中小工場などの可処分資産があって子女の生活を困らせることはなかったのが普通と聞いたこともあるので(もちろん人によるんでしょうけども)、そうした家系でも2000年前後からは親世代の高齢化や経済情勢から資産縮小に直面してきた認識なので、それらの子女も生きていくために働いていかなくてはならなくなった趨勢に直面したというのはあるのかも。
2000年前後くらいまでは中小工場でパートの人を使って羽振り良く暮らしてきたけど、2023年現在では経営者が80代になり、使ってたパートにの皆さんも高齢化し、後継者が引き継いで会社を大きくしてきたわけでもなく、って話は珍しくない認識で、そういうところで暮らしてて、経済観念が時代錯誤の認識で今に至る40代の方がいても不思議はないと思うけど、今20代前半で元増田のご認識だと、20年から10年は時代錯誤な気がするので違和感を覚えるなと思う。地方に寄るのかしらね
利他的で自責的な人間など存在しないという事をざっくり語ろうと思う。
人間の精神のあり方は、コストのやりくりが如何にやりやすいかで優劣が定まる。
となる。
利己的というのは自己完結した行動でコスト回復がどれくらいできるかという事であり、利他的とは他人に依存して何かをすることでコスト回復できるという事である。
利他的は度が過ぎれば相手に対して求めるコストが高くなり孤立する。要はめんどくさい人である。
利己的も過ぎれば同様である。よく自分勝手と言われるものである。
自責的というのはトラブルが起きた時、それを自身の課題と受け取れるという事であるが、これには高いコストを要する。
他責的と言うのは自責の逆であり、低コストだが度が過ぎると精神的成長が見込めなくなるなどデメリットが大きい。
例えば、利他的10割、自責的10割というビルドを組んだとすると、コストの回復のしようがない。
相手に与えた恩というものが与えた分だけ帰ってくるという事は無い。あまり知られていないが、人間には他人の苦労を正確に認識できないという特性がある。
そのため相手から見た自分の恩も、自分から見た相手の恩も過小評価されるのだ。
そうして恩を与え合った時、自分視点で見た時の帰ってくる恩というのは主観で10%程度の物であり、これで消費コスト分を回収するのは不可能である。
この場合に起きる不具合として、「自分ばっかり頑張っている」と考えてしまうバグがある。事実はそうではない。そうではないが確実にこれは態度に出て、日常生活に支障をきたす。
一方で利己的で他責的というと、これはもうよく見るものなので詳細まで語らないが醜悪なものである。彼女達はコストはあり余っているが、どこか余裕の無いようにも見える。
これは、コストが減る事に対する耐性が無いゆえに、可処分コストが少ないからである。
どちらに偏っていてもやる事は似たような物になる。
大事なのは両者のバランスである。が、自分を変えよう!といった事はほぼ不可能であると言ってもいい。自責と他責のバランスはまだ変化させることができるとして、利己的と利他的の変化については至難の業であると思う。
最初から利己的である人間は簡単で、自責に変えても他責に変えても良い。1~2か月ほどかかるかもしれないが、何かトラブルが起きた時に「自分がなんとかできたかもしれない」とか、「これは相手が悪いな」とか考える癖を付ければ良いだけである。
それで自責と他責のバランスは変化させることができる。変化にどれくらいの時間を要するかは周囲の環境とそれに対する自分の立ち振る舞いに依存する。
利己的と利他的のバランスを変化させる事はとても難しい。これは、それまでの人生を反映するからである。
人生の中で自分を殺す事があったり、道徳を信じる事があったりするとより利他に寄る。
逆に自身の望みを叶えようとしたり、面白い事をやっていると利己に寄る。
利他的というのは異常な状態と言っていい。普通の人は道徳に従う事があっても信じる事はない。道徳を信じたくなる時というのは、理不尽から逃れようとしている時に限る。
利己的な目的の為に相手に優しくするというのが普通の事であり、優しくした結果、相手から良いフィードバックを得た。というのは一見道徳的な話に見えるが良いフィードバックを得られる相手を選んだからである。
道徳に殉じた利他的な人間が利己的に戻るというのは難しい。どうすれば戻れるかは今後の課題とする。
のビルドが最も理想的であると思う。利己的に回復しながら、自責にコストを費やし、たまに他人のせいにして生きる。それくらいが良い
「斜陽」のコンテンツにハマっている。何を思ったのか傾き始めてから手を出したくちだ。傾いていたことにはハマってから気づいた。
1番注目を集めていた時期を過ぎ、話題にする人も減り、関連商品の売上や動画の再生回数やSNSの反応から傾きが数字として見て取れる。
売上やインプレッションなどの数字の取れない商業コンテンツに未来がないことは、まあ自明と言ってもいいだろう。
けれども今よりもっとオタクのいた時期からのオタクにしてみれば、自分たちが頑張ってSNSや動画の数字を稼ぐ、という感覚がぴんとこないのだろうか。
あるいは人気が無くなったことを認めるようで拒絶反応が出るのか。
数字が振るわず終わった(と明言はされないが容易に推測できる)企画というのをいくつか経験しながらも、特にファンコミュニティで「頑張って応援しよう」という風潮は形成されない。
一応ぽつぽつと危機感を覚えて警告しているオタクもいるが、そういう人はだいたい言動が攻撃的なのもあって大きな支持を得てはいない。
自分自身も頑張れない側の人間なので、数字に対して貢献しないオタクを責める権利はない。「わかるよ」としか言えない。
オタク1人にできることは限られている。SNSの反応も、動画の再生数も、出せるお金も、1人の可処分な範囲から捻出できるのは微々たる量だ。
その微々たる量の積み重ねで、人気は判断される。1人の悪あがきでどうにもならないから指標になるのだ。
自分1人がどう頑張ったところで、オタクみんなが熱量あって人が沢山いるコンテンツには遠く及ばない、というのが昔よりもっと容易く数字としてわかるのも心理としてキツい。シンプルにここには人がいないんだ、情熱を傾ける人がいないんだとわかってしまう。人気のコンテンツ、つまり商売敵が数時間で叩き出す数字を見ると打ちのめされる気分になる。あれに太刀打ちできなければ衰退していくだけなのか。
自分の限りあるお金や時間をそういう苦行には使いたくない、趣味のつもりでハマったものを義務にしたくない。そう思ってしまったので、あとは出せる範囲でお金とか時間を使いながら沈んでいく陽を眺めるだけです。ごめんなさい。
しんどい思いしたくないならみんながハマってるものにハマった方がいいね。勝ち馬を乗り換え続けよう。自分はここに愛着湧いちゃったからどうしようもないけどね。
最初に言っておくと夫は特に経済的に困っているわけでもなく、この間祖母からまとまった額の相続をしたはずなので8桁の貯金もあるし、彼自身が自由に使える可処分マネーもある。お互い水商売やギャンブルをするわけでもないし、支出について特に制約をつけているわけでもない。
入手困難品を手に入れたいという欲がすごく強いようで、不要なのにそういうものやたらと買ってくる。
そして彼は、転売ヤーにすごい憧れている。ニュースなどでマスクや消毒液の転売ヤーが取りざたされていたら嘲笑しつつも、二人で「こんな額で売れるんだ!」と素直に驚いていた。夫は「働かなくてこんな額が手に入るなんてすごいよな~」と、転売ヤーの不労収入にをうらやましく思っているようだった。
コロナで私の勤め先が業績悪化になり、6月のボーナス支給額が激減したあたりから、彼の脳内では「入手困難品を手に入れ、妻にメルカリで転売させれば、転売益で収入減を補填できる」ということになっていた。
ここ数か月、彼は本当にいろいろな入手困難品を、そんなに必要性高くないのに手に入れてきた。ニンテンドースイッチ本体、ニンテンドースイッチライト。どうぶつの森のamiiboカード、リングフィットアドベンチャー。人気アニメとコラボのユニクロTシャツ、エコバッグ、タオル。「妻が喜ぶと思って」と彼は買ってくる。「いらない」というと「じゃあメルカリで売れば」。「君が買ったんだから、君がやりな」というと出品・発送といった作業が苦手なようで面倒がってやらず、どんどん市場価格が下がるので私がやるはめになる。「もっと必要度が高い人、ニンテンドースイッチだったら夏休み中の子どもとかが手に入れるべきなのに」と言っても聞く耳をもってくれない。
この間、「手数料や送料を抜いて原価抜いたら手元には60円くらいしか残らないんだよ、全然もうからないんだよ」といったら、しょんぼりとして「そうか・・・俺には転売のセンスがないんだな」と納得したようだけど、こんなの一時的だと思う。彼はまた入手困難品を見つけたら、転売しようと買い求めるのだろう。そのたびに出品作業をやらされるのは私だ。
ああー、ほんといやだ。それ以外は完ぺきな夫なのに。。。