はてなキーワード: くじ引きとは
https://note.com/ishimatsu_osamu/n/n8d694da81b6d
ポイントは、主催者がお金を払うのではなく、主催者が参加を要請した労働組合が参加者にお金を払っている点。だから「デモ参加者は日当もらっている」という指摘に対して「"主催者"があんな大人数に金払えるわけないだろ」という、よく見たら的外れな、ご飯論法みたいな反論をするリベラル仕草がよく見られる
日当を支払う労働組合側の原資はもちろん従業員から毎月もらう組合費である。ただし「組合費の元を取る!」とばかりに毎回参加希望が殺到すると赤字になってしまうので、くじ引きによる参加者選定が行われることが多い。逆に参加希望者が主催者から要請された人数に達しない場合は労組から赤紙が来ることもある
先日の反論デモのように多数の労組が絡んでいるケースでは、参加者の大半が所属労組から日当もらってると見てよいだろう。日当もらえてないのは、労組を経由していない野良参加者に限られる
臓器移植を待つ2人の患者がいる。健康な1人をくじ引きで選び、その人を犠牲にして臓器を摘出すれば、2人の患者が助かる。この「1人を犠牲に3人を救う」行為は許されるか。
というような内容だが
そもそも「健康な1人」の定義が曖昧過ぎて、ほな醤油飲むかという戦時カムバックだし
俺が金持ちだったら病院に金払って生活に支障がない程度に「不健康」になるような処置をしてもらう
じゃあ、無差別で「人を1人」くじ引きで選んで、そいつの内臓を移植を待つ患者に移植するのはいいか悪いかだが
無差別に平等に訪れるのであればそれは単なる"死"と何が違うのだという話になる
仮に"雷に打たれて死んだら絶対に臓器移植する法律"があったとして善いか悪いかなんか
ぶっちゃけどうでもよくない?
マジのガチで偶然死んでもうたんやったらもうしゃーないやん
それが制度として人間が制定してたとしても、その結果が完全に偶然に依存するんだったら
結果としてそれは不可避の死と俺は同じだと思う
逆に言えば俺たちは毎日毎瞬、くじを引き続けているようなものだし
そもそも現在の死が世界政府が意図した口減らしじゃないって言いきれる人間どんだけいる?
なので提案としてくじは2本引くべきだと思う
1本は「臓器を摘出される人間を選ぶ」従来のくじ、もう1本は「その人間を手にかける人間を選ぶ」くじ
ここまできてようやく倫理的に"考察すべき"事案になりうると思う
元の問いは現実問題として人は必ず死んで、死んだ後のことはどうでもいいとしか言いようがないし
その殺人を執行する人間が"誰か"な時点で、本質の希釈が過ぎるし、その"誰か"の負担が大きすぎる
でも、こうすることで「人を殺してまで他の人を助けるのが正しいか」という本質的な問いになると思う
なので臓器くじでは必ずくじは2本引こう
阿弥陀の数だけ強く成れるのか否かは知る術も無いが、日本では「アミダくじ」を知らない人の方が珍しいであろう。
では「阿弥陀」の名を冠する理由が何なのかを知っている人は、日本人全体の何%ぐらいだろうか。仮に「アミダくじがそう呼ばれるのは何故?」とクイズを出したら、正答者率は何%だろうか。
もし正答率が低いとすれば、その原因は、現代の我々が馴染んでいる「アミダくじ」と昔の「阿弥陀籤」とでは形状が大きく異なるためである。
現代の我々に馴染み深い「アミダくじ」は、複数の進路を上→下あるいは左→右のように同一方向に向けて平行に並べるため、全体的な形状として、謂わば「四角形」に見える。
それに対して昔の「阿弥陀籤」は、複数の進路が中心から外に向かって伸びる「放射状」に描かれていたという。この「放射状に伸びる複数の進路」が、阿弥陀如来の放射状の光背を想起させるため「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったと考えられている。
これは、仏教美術に関心を持つ人の間では、比較的知られている豆知識らしい。ちなみに私は、仏教美術の本ではなく、数学の本を読んでこの豆知識を得た。
しかし、あくまでも個人的な想像ではあるが「阿弥陀籤」と呼ばれるようになったのは、単なる形状の類似に留まらず、心情的な理由も有ったのではないか?
このように私の想像を掻き立てるのは、中世に職人歌合(しょくにんうたあわせ)と呼ばれるものが存在したからである。歌合は、柔道の団体戦のように、二組に分かれた詠歌者のチームが、双方一人ずつ対戦者を出し、何らかのお題の下に各々歌を詠んで出来栄えを競った(もしくは、そのような体裁で歌集を絵巻物等として制作した)。つまり、歌合戦ならぬ和歌合戦である。
職人歌合の場合、各対戦毎の歌の題材としては、対となるイメージを持つ二種類の職人が設定された。例えば、鋸引きと石切り、獅子舞と猿飼といった具合である。和歌合戦の対戦者は、其々二つのうちどちらかの職人をモチーフに選んでから歌を詠むのである。
この職人歌合で興味深いのは、対となるイメージを持つ職人の組み合わせとして「巫(かんなぎ、巫女)と博奕[博打](ばくうち)」が登場する例が見られることである。現代では「博奕・博打」は賭博行為を指すが、ここでは賭博で金や物を稼ぐその人を指す。巫(シャーマン)が神憑りによって神託を告げる職であったことから、博奕・博打もまた、或る種の神託を告げる職として古人には捉えられていたことを示唆している。
賭博行為が神託の顕現と見做された理由は、一つには、賭博の勝敗を決定する過程(サイコロを振る、コインをトスする等)にランダム性、偶然性、不確定性が伴うからであろう。ヒトが結果を予見したり操作したりすることが殆ど不可能な現象であるが故に、超越者の意思がその結果を左右する、若しくは、結果を予見できるのは超越者のみであると信じられた。それが賭博行為イコール或る種の神託というイメージを生んだのであろう。巫(シャーマン)の神憑りによる神託も、忘我状態で口走る言葉の非論理性、飛躍性、意味不明性、不可解性が「超越者にしか発信や解読が困難なメッセージ」と見做されたのであろう。
アミダくじに対して、ランダム性、偶然性、不確定性が有るように感じるか否かは、人により若干異なるかもしれない。アミダくじは数学の本で取り上げられることがある(線形代数で置換が登場する際にアミダくじに喩えて解説する等)が、有限個の対象や離散的な対象を取り扱うことは、連続的な対象を取り扱うことよりも、低く見られがちな傾向がある。
そんなアミダくじではあるが、進路の本数が増えて、作り方に少し工夫を施せば、一見しただけでは直ちに結果を見抜くのは結構難しくなる。ちなみに増田が小学生の頃、学級当番を選出するのにアミダくじを用いていたが、くじの参加者各自が出発点を選択するのと同時に、横棒を一本書き加えていた。こういった工夫を施せば、作成者のコントロールを離れ、たかがアミダくじ程度でも、簡単には結果を予見できないものに変貌する。こうなると「結果を左右することや知ることは、ヒトには無理で、それが可能なのは超越者だけなのではないか?」というイメージを、アミダくじに対しても抱く者が現れておかしくはない。こうした「超越者のみが結果に関与し得る」というイメージが、或る種のくじと阿弥陀如来との結合を生む心理的な原動力になったのではないだろうか。とまあ、そのように私は想像するのである。もっとも、これは単なる想像であって、証明は不可能である。それに、古人が超越者をイメージしたと想定するにしても、如何にして阿弥陀如来が選ばれたのかを説明できねばならない。仏教美術研究の専門家の意見を聞きたいものである。
少し話題を変える。
職人としての博奕・博打が「神託に関わる者」と見做された理由を、初めに賭博行為やくじ引きのランダム性、偶然性、不確定性に求めたが、もっと直接的な理由もあり得る。
職人歌合の絵巻物では、骰子そのものは見づらいが、双六盤らしきものを手元に置く姿で博奕・博打の姿が描かれているので、彼らが骰子を持っていることはほぼ確実である。この骰子であるが、古の時代には、鹿の角や骨を加工して作られていたと言われている。現代人の感覚からすれば、木材や石を加工して作る方が、材料の入手も加工も簡単に思える。したがって、態々鹿の骨や角を骰子の材料として用いたことには、古人にとって、それ相応の理由が有ったものと考えねばなるまい。
鹿は、山野に棲まう神の使い、或いは、神そのものである。その骨や角を材料にして作られるモノである骰子は、霊的・呪術的な力を持つモノと考えられた(期待された)のではないだろうか。
おそらく、鹿の骨や角と霊的・呪術的な力のイメージの結合は、遠く甲骨文字の生まれた時代へと遡ることができる。漢字の起源となった甲骨文字が、亀の甲羅や動物の骨を焼き、そこに生じた亀裂(当に"亀裂"とは、甲骨卜占が無ければ生まれなかった言葉ではないか?)で吉凶を占った際に、その甲羅や骨に占いの結果を刻み付けて記録した記号・象形文字から生まれたことは、よく知られている。この卜占("ヒビ割れ[卜]"による占い)に際して、亀の甲羅と同じぐらいよく用いられたのは、四足獣の肩甲骨であり、中でもそれは鹿や猪のものであるという。
遠い昔の祖先が鹿の骨で吉凶を占った記憶が受け継がれて、鹿の骨(や角)に霊的・呪術的な力が宿るというイメージを生み、博奕・博打の骰子を制作する材料として選ばれたのかも知れない。そんな風にも想像する。
ところで、甲骨文字の生まれる元となった卜甲・卜骨に関しては面白い話が有る。
漢字・甲骨文字・古代中国の研究者である落合淳思氏の著書によれば、甲骨卜占を行なう際に生じるヒビ割れは、焼く前の甲骨に予め細工を施しておくことによって、どのような形状になるのかをかなりの程度までコントロール可能であるという(落合氏自らの実験と発掘された甲骨に残された痕跡に基づく)。「つまり、見かけ上では、甲骨卜占によってあらわれた神の意志によって政治をするという形なのだが、実際には王が実行したい政策を甲骨卜占を通して正当化していたのである」(落合淳思『漢字の字形』[中公新書2534]p8から引用)
この甲骨に残された人工的亀裂は、現代人の視点から見れば「インチキw」と言いたくなるところではあるが、神・超越者に依存せず、人間が自らの意志と手によって未来を切り開こうと挑戦し始めた、涙ぐましい努力の第一歩を記した痕跡であるとも解釈することができる。
大昔の占い・くじ引きの類は、重要な物事に関して判断・決断に迷った古人が、藁にもすがる思いで行なったに違いない。しかし、自らの運命を(仮令、神仏のような超越者であろうと)"他者"の手に完全に委ねてしまうことには、やはり人間は堪えられないのではないか。P.K.ディックのSF小説『高い城の男』では、作中の登場人物の誰も彼もが、不安に駆られて『易経』による占いに依存していたが、それで彼らの不安が解消されることは無く、むしろ不安が増していたことを思い出す。
そう考えると、私の小学生時代、学級当番を決めるためのアミダくじを行なう際、生徒各自が一筆の横棒を書き加えていたのは、ランダム性・偶然性・不確定性を確保するためというよりは、むしろ直感的に子供なりの方法で、自らの運命に自らの手で関与しようとしていたのかもしれない。
最後に。
職人歌合にも詠まれた博奕・博打たちは、ラッキーアイテムとして、狼の牙を身に着けていたという。骰子は、鹿の骨や角で作られている。したがって、鹿にとっての捕食者である狼(オオクチノマカミという荒ぶるカミ)の力を借りれば、骰子の出目も人の望むような良い結果に操れるに違いない。博奕・博打たちは、そのように考えていたのではないかと言われている。
甲骨卜占のヒビ割れの形状をコントロールしようとした人々とは若干異なるやり方ではあるものの、博奕・博打たちもまた、神託の結果を人間の手でコントロールしようという欲望や意志を抱いていたのである。
したがって、阿弥陀籤が阿弥陀如来の名を冠するようになった理由を考察しようとするならば、単純に「形状が類似していたから」で済ませずに、古人が古人なりに未来を選択しようと思考したであろうという可能性を、決して無視するべきではない。少なくとも古人は、阿弥陀如来を古人なりの考えで「選んだ」のである。
我々の目から見て仮に他者が無知蒙昧、迷信の徒に見えたとしても「彼らは何も考えていなかった/考えていないに違いない」と決めつけてしまえば、色々と取り零すものが生じてしまうのであろう。
「今は売れた」「今は受け入れられた」だろ。結局売れるか売れないかなんてのは時の運で広告費かけりゃくじ引き引く回数増えるしな。
まあ「今回は」運が良かったんじゃないっすか?
地金はいつか出るからね。細田守だの福田雄一のオママゴト映画だって「こんなもんでええじゃろ?」って感じで作って売れてたのマジでムカついてたけど
最近ようやく「あっこいつ舐めてんな」ってみんな離れつつあるわけじゃん。それが今後の流れだよね。歴史は繰り返すよね。
でも俺はさあ、そこでそうやって離れるようなやつらが一番ムカつくんだよね。
お前らが好きだって言ってたのはそんな軽い気持ちだったのか?っていう。福田雄一が好きなら好きで何幻滅してんだよやること前から変わってねえだろクソゴミダボカス共って思っちゃうわけですよ。
なんで確率を全部掛け算してるの?馬鹿なの?商店街のくじ引きでガラガラポンするんじゃないんだから、それぞれの条件に関連性があるだろ。
https://president.jp/articles/-/74294
身長と仕事の成功に関して、数多くの学術研究の蓄積があります。
まず、所得との関係を見ると、身長が高い人ほど所得が高いことがわかっています。この傾向は国によって異なっており、欧米と比較してアジア地域ほど上昇幅が大きくなっています(*1)。具体的には、アメリカでは身長が10cm高くなると、所得が約4%伸びますが、アジア地域では所得が約9%伸びることがわかっています。
小学校卒業と同時に、私は親の転勤で引っ越す事になった。
つまり、小学校時代の同級生達とは別の中学に通う事になった。
今までとは別の環境、新しい同級生達。
30人のクラスが1学年辺り6クラスの中学。
新しい環境ではあったが・・・私は同じクラスの女子と話す事は無かった。
小学生の頃・・・幼稚園生の頃から・・・女の子は一部例外を除いて追いかけ回す対象という認識が
できてしまい、女性に対する普通の接し方を全くと言って良い程知らなかった。
いや、今でも女性に対する普通の接し方は解らないのだが。
中学生になっても、同じクラスに可愛い子を見つけ追い回す日々が続いた。
勿論追い回される子に同情的な女子も出てきて、5年・6年の時の様な形になった。
中学一年生の時、同じクラスで私の標的になった子は意外と強い子だった。(以下、その子をGとする)
後に同窓会で会った時、Gは「私の半径3メートル以内に近付いたら、警察に通報させてもらいます
中一の時の事、謝罪されない限りは許すつもりはありません、謝罪しても・・・半径3メートル以内へ
接近したら、通報します」と釘を刺されたぐらいに、色々な意味で強い子だった。
他人とどう関われば良いか解らず、友人と言える友人の居ない日常。
休み時間になれば、女子を追いかけ回す・・・入学から数ヶ月で、私の周りには
誰も近寄らない、虫でも見るかの様な目で見られる様になっていた。
そして、2年生になった。
私の通っていた中学には、親睦合宿というのがあった
4月、入学や進級から半月後に、クラスの親睦を深めるための研修として
行われる合宿。
その合宿で、私が2年の時には・・・何故か晩に肝試し等と言う催しがあった。
4月に肝試しという時点で季節外れも甚だしいのだが
その肝試しは、男子二人、女子二人の四人で一グループになる
一クラスが30人なので、最後に2人余るのだが、余った2人は担任と副担任とで一グループになる。
グループは、くじ引きで決まる。
そうした肝試しのグループで出会った女子の可愛さに、今年の標的はこの子にしよう
という心が芽生えてくる私。
いつ頃からか、私は・・・追いかけ回す事で逃げながら私を拒絶する女子の仕草に
そういう形であろうと、女子と接点を持てる・・・追いかけ回す事で女子と接する事ができると思うようになっていた。
そして、当時はそれをおかしいとは思いもしなかった。
【各話へのリンクはこちら】
【全話まとめ】 「懺悔したいことがあるんだ」
BBQ大会で「非日常の場」で殺伐とした現場を少しでも中和しましょう。
あえて「役割をシャッフルし、互いの苦労を可視化しつつ、最後は労う」構成を提案します。
指定された具材をいかに早く、正確に網に乗せられるかを競います。オペレーターの「職人芸」をエンタメ化し、輸送役には「遅れると火が消える」状況をゲームとして体験させ、周囲が応援・鼓舞する空気を作ります。
普段言えない「実はここを助かっている(あるいは、こうしてくれたら助かる)」を匿名でカードに書き、くじ引き形式で発表。特に投稿者様のような「裏の功労者」にスポットが当たるよう、司会が誘導します。
腫れ物に触る対応しかできない上司が、エプロン姿で最高級の肉を焼き、全員に配り歩く「奉仕の時間」。
「精神的ケアが必要な側」を特別視せず、BBQの場では全員を「同じ釜の飯を食う肉焼き職人」として扱い、物理的な距離を縮めます。
くじ引きで選んでも変わらんよ
落ち着いて考えてみると、国会議員って別に地域の代表ってわけじゃないじゃん?憲法に書いてあるよね。全国民の代表だって。
党の名簿を登録させる比例代表は残すとして、選挙区なんて廃止して、全国でまるごと一個の選挙区にしたらいいんじゃねえかな。
実際には全国行脚して票を集めるなんて無理だから、それぞれの地元で範囲を絞って選挙活動する議員と、全国から広く浅く票を集めようとする議員が出てくるはず
比例代表と違って、トップが大量に得票してもその人しか当選しないようにするから、タレント候補みたいなのや、金にものを言わせて宣伝するようなのは逆に使いづらくなり、妙なポピュリズムに従う愚衆(ってここでは書いちゃうけど)がここで吸収されて対応できるようになるでしょ。
元々選挙がなんで選挙区ごとに分かれているのかって、結局投開票がその単位でやらないと実務的に不可能だったからだと思うんだよね。
だけど今はコンピュータがあるから、電子投票機(別にオンラインでなくてもよし)でやれば出来ると思うんだよね。音声認識とかで入力させるとかでもいける。
候補者が数千人単位になるだろうから、重点地域を登録して、その中でくじ引きで特に投票所に表示させるとかそういうのはあってもいいかもしれない。
現実問題地域ごとの課題は沢山あってそれぞれ地域性をもって対処しなきゃいけないこともある。
だから、衆院はこの選挙区廃止で全国一個の方式にして一票の格差は完全になくして公正にし、参院は都道府県ごと区切った選挙区で必ず一定の人数が選出されるような風にしてしまえばいい。
近所の神社の縁日に行ったら、3つもラブブ専門の屋台があったわ。まあ置いてあるのは偽物だろうけど……。代わりに去年はあったスイカゲーム専門の屋台がなくなってたな。
専門じゃなくても、くじ引きの屋台ではラブブのグッズが置いてあったし、やっぱり俺が知らんだけで流行ってるじゃん。なんか熱心に流行ってないって言ってるやつおったけど。
ちなみに本物はプレミアが付いてるという話があるし、既存キャラグッズをラブブに置き換えただけのようなものも結構あったから、まあ偽物なんだろう。屋台によっては開き直って、非公式グッズとか書いてやがる。
ちなみにポケカの屋台も多かったけど、本物なら何十万もするようなカードが置いてあって、それにはレプリカカードとか書かれてたのは草。