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帝国日本の恐るべき Dr. 死神、そして歴史上最も恥ずべき戦争犯罪『健忘症』

<記事原文 寺島先生推薦>
Imperial Japan's Abominable Dr. Death, And The Most Disgraceful War Crime "Amnesia" In History
筆者:イーモン・フィングルトン(Eamonn Fingleton)
出典:Forbes 2014年3月9日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年8月14日


 先週のこの欄で、私は第二次世界大戦直後の日本医師会の会長になり、民間医療界における最高峰に登り詰めた田宮猛雄の奇妙な話を取り上げた*。 (* 訳註:2023年8月9日付けの本サイトに掲載してあります。)

 最も控えめな言い方をしても、これは勝利に値しない勝利だった。ナチス・ドイツの悪魔的なヨーゼフ・メンゲレ博士を除けば、田宮は史上最も悪名高い医師の一人として考えてまちがいない。実際のところ、彼は日本の戦争取り組みにおいて特に重要な役割を果たし、731部隊の主要な勧誘担当として、日本帝国陸軍の悪名高い生物戦研究組織に関与していた。すべての証拠が示すところによれば、彼は、若い医学部最優秀卒業生たちが、その邪悪な取り組みに参加するように実に巧みに説得勧誘したのだ。

 シェルドン・ハリス(『死の工場』)やピーター・ウィリアムズ、デイビッド・ウォレス(『731部隊: 日本陸軍の最も秘密の秘密』)などの著者によって記録されたように、731部隊は歴史上でもっとも憎むべき戦争犯罪の一角を構成している。医学において、昔から、普遍的に守られてきた規則の一つを衝撃的に破り、731部隊は無数の極端に残忍な実験で人間を実験台として使用した。

 被害者は、ほとんどが中国人で、その数は12,000人にもなるかもしれないとハリスは述べている。彼らの中には馬の血液を注射されたものもいた。他の者は逆さに吊るされて苦痛な死を遂げた。ある不運な人物は、血液を体から抽出するために遠心分離機に入れられた。そして、麻酔を使用せずに行われた解剖実験もあった。1945年8月に戦争が終了すると、まだ生存していたこれらの人間実験台は、731部隊の活動を秘密に保つために即座に処刑された。

1403 メンゲレ
ヨーゼフ・メンゲレ博士の警察写真:日本のメンゲレ(田宮猛雄)は幸運だった。(写真提供:ウィキペディア)

 どうやって田宮は、戦後、そんな特権的地位に就いたのか?ぺ
 先週のこの欄への反応が示すように、弁明者たちは、戦後日本が、なぜか、田宮のことを知らなかったと主張し続けている。日本を知る人であれば、これはにわかには信じがたいことだ。

 故シェルドン・ハリス、カリフォルニア州立大学の歴史学者が記録したように、最も悪名高い実験が行われた満州の731部隊の「浄水場」の真の意義は、日本社会の上層部でも戦争中に広く理解されていた。1930年から1945年までの15年間、731部隊の軍指導者たちは、しばしば陸軍医学校や一般の大学、科学会議で大勢の聴衆に向けて演説し、人間を実験台に使った事実をあまり秘密にしなかった。時折、彼らは人間実験の映画を使用し、さらには自分たちの論点を通すために保存された人体の一部を呈示することすらしたのだ。

 1994年の著作でハリスは説明している:

「生物戦(BW)に関する知識、人体実験を含む知識は、特定の社会層に属する多くの日本人と共有されていた。軍、科学学会、国会の重要部署、そして皇族の一部がその秘密に通じていた・・・数千、おそらく数万人の陸軍医師、獣医師、生物学者、化学者、微生物学者、技術担当者などが、定期的に満州や占領下の中国に派遣されていた。これらの多くの人々は人体実験施設で働き、実験に直接参加したり、人間を実験台にした他の人々から実験について聞かされたりした。少なくとも、彼らは人間を実験台にするBW作業に関する噂を、自分たちの職場で、聞いたことだろう」。

 戦争が終わるとすぐに、731部隊の指導者たちは米陸軍との取引を進め、(人体実験の)知識を共有する代わりに戦争犯罪の訴追免除を得た。これはアメリカ人が日本との交渉において出し抜かれる典型的な例だが、この取引は若き医官であるマレー・サンダース大佐によっておこなわれた。しかし、彼は、この実験に人間が使われていたことを、その時、知らなかった。

 すぐに真実が漏れ始めた。1946年1月、日本の報道機関は、日本陸軍医務隊の隊員たちが中国人とアメリカ人の戦争捕虜にペストを感染させたとする日本共産党の指導者たちの告発を報じた。これらは、米軍の新聞Pacific Stars and Stripesやニューヨーク・タイムズ紙でも報道された。

 そして、1949年にソビエト連邦で行われた戦争犯罪裁判において、731部隊の身の毛もよだつ詳細が初めて明らかになった。捕虜となった日本陸軍将校12人が裁判にかけられた。この裁判は日本の権力者によって「見世物裁判」として無視されたが、その後、ソビエト連邦は日本語や英語を含む複数の言語で大量の資料を提供することで、彼らの告発が合理的な疑いの余地なく有効であることを示した。

 こういった事情にもかかわらず、田宮は1950年に日本医師会の会長に任命された。彼の任期はアメリカ占領当局の役員によって短縮されたが、占領が1952年に終了すると、彼は元の地位に戻った。したがって、彼は医師会の歴史で会長職を2度(会期は連続していない)務めた唯一の人物となった。

 たとえ田宮が正義の追及の手のはるかに及ばない場所にいるとしても(彼は1963年に死亡)、これで事件が終結したことを意味するものではない。特に驚くべきことがすべての局面でおこなわれる戦争において、日本の医療界が731部隊で果たした役割は他に例をみないものだった。アメリカ人が広島に贖罪することも見えている(ジミー・カーターやナンシー・ペロシは広島平和記念資料館を訪れ、駐日米国大使ジョン・ルースも2010年と2012年に追悼式典に出席した)ならば、日本の指導層も731部隊に関する「健忘症」を乗り越える時が既に来ている。

 東京大学医学部(田宮が教授であり、彼が多くの成功した勧誘活動を行った場所)および日本医師会からの謝罪の機は熟している。

筆者紹介 イーモン・フィングルトン
フォーブス誌やフィナンシャル・タイムズ紙の元編集者であり、東京を拠点として27年間にわたり東アジア経済を監視してきたイーモン・フィングルトンは、1987年9月に東京の銀行危機に関する最初の予測を発表し、その後も1995年の論争を呼ぶ分析「盲点」で、ジョン・ケネス・ギャルブレイスやビル・クリントンから称賛されました。この分析では、無思慮なアメリカがかつての高い評価を受けていた先進製造業、特にいわゆる生産者向け財の分野の主導権を、日本に急速に奪われたことを示しています。彼の1999年の著書『ハード産業賛歌:未来の繁栄の鍵は情報経済ではなく製造業にある』という本は、2000年のアメリカのインターネット株の暴落を予測し、新しい金融商品の乱用についての早期警告を提供しました。彼の2008年の著書『竜の顎にて:中国覇権の到来する時代におけるアメリカの運命』では、中国が西洋の経済や政治的価値に収束しているという従来の見方に疑問を投げかけました。彼の著書はフランス語、ロシア語、韓国語、日本語、中国語に翻訳されています。これらの著書は米国上院の記録にも掲載され、Business WeekやAmazon.comによって年間ベストビジネス書トップ10に選ばれました。
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