はてなキーワード: 評論家とは
→ 読解力ゼロ、将来なんて気にしない。今が良ければそれで良い若者バカの巣窟。
・X(Twitter)
→ 読解力3行、小学生レベルの文章力で日々マウント合戦する、炎上大好き野次馬根性バカの巣窟。
→ 読解力5行、人生に疲れ、X(Twitter)にも疲れたけどSNSを卒業できないバカの巣窟。
・note
→ 読解力10行、特にこれといった特徴がない無個性バカの聖域。(炎上が起こりにくい)
→ 読解力1行、感情と偏見だけで回ってる、被害者意識バカの井戸端サロン。
・5ちゃんねる
→ 読解力1~10行(気分次第)、もはや会話じゃなく怒鳴り声の応酬。自己矛盾も気にしない老害系バカの終着駅。
→ 読解力20行、説教・自己啓発・人脈マウントが日常。現実で評価されない中年バカの避難所。
・Quora
→ 読解力100行、長文を書くこと自体が目的化した高学歴こじらせバカの博覧会。
→ 読解力15行、日常・美容・育児・芸能のリアルと盛りの間を行き来。共感と自己ブランディングで回る“キラキラ系バカ”の生活展示場。
→ 読解力30行、冷静に見せかけて内心は承認欲求のかたまり。独自ドメインと収益報告でマウントしがちな“静かなバカ”の研究室。
→ 読解力5行+一言コメント、記事は読まずにタイトルで斬る“知ったか評論家バカ”の闘技場。スターの数が戦闘力。
→ 読解力40行、自意識と承認欲求を匿名でこじらせた長文の海。たまに名文が生まれるが大半は“共感待ちバカ”の文学ごっこ。
→ 読解力50行(英語込み)、やたら合理的で皮肉屋。賢そうに見えるが結局ミームで全部済ます“インテリ風バカ”の集合体。
→ 読解力∞、文章というより“布教”。読者不在でも語りたい、孤高のバカたちの電脳寺。
・SNSをやらない人
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
言いたいけど言えない雑なクソバイスを今ここに書く。
まず、受け身のままでいたら突然ありのままの自分を愛してくれる人がやって来てアプローチされて幸せな人生を送るって幻想はそろそろ捨てる準備を始めたほうがいい。
趣味系の繋がり、オタク界隈で相手を見付けたいと思うのは何も悪くないが、今までありのままの姿でいて恋人ができたことがないのならその姿は恋愛的にそこまで需要がない。
ただでさえ草食系が多いオタクコミュニティでは受け身での恋愛は難しい。一緒にいることで何かしらの需要がありそうな態度を取っておくだけで運がよければ告白くらいはされる。
TLのリプライ、ゲームでのVC、作業通話、きっかけはどれでもいいから会話する場面が生じた時に使える簡単な会話方法だけ書いておく。
1, 人の話を否定しない
相手の話に興味を持って、「うんうん」「へ~」の相槌と「それってどういうやつ?」って聞くだけ。ポジティブに同意しておくと好印象を持たれる。この時点で非常識野郎やマウント自慢マンからは距離を置く。
「"いや"それは~」といった否定的な言葉を使ったり、評論家ぶった態度で物を語らない。
相手の話がよく分からなかったら「へ〜そういうのもあるんだ」とでも言っておけ。
2, 会話の共通点を探す・作る
興味のある人とSNSで繋がっているのならその相手の過去投稿を掘って、相手の趣味や好きなものをリサーチする。合致しているものがあればそれをうまいこと会話の中に出して「俺達って趣味合うかも?」と錯覚させると良い。
「最近やりたいゲームがあるんだけど」「この前SNSで見たんだけど」そんな感じに軽く話題に出してみるだけでも簡単に話を発展させることができる。
性格、家族関係、仕事、脈略のない自己開示や自分語りはコミュニケーションではない。話す加減や自他の境目が分からないのなら相手優先の会話を心がける。相手の情報を聞き出したら勝ちのスパイゲームしてる気分にでもなっていればいい。相手の会話のターンは相槌に留める。
これだけで相当印象は変わる。うまくいけば同性異性関係なく好かれる人になれるのでおすすめ。
別にどうでもいいけど特別美人とかでもない限りは変にモテを意識しないことも重要だったりする。そもそも喪女が自分で考えたモテ行動は中学高校でやって黒歴史にしておくべきだったような行動が多い。周回遅れでしても痛い人にしかならないか女友達が減る可能性の方が高いので、やるならメイクやスキンケアといった見た目寄りでの働きかけをするのがいい。以上。
===========
私は分かっている。
なぜタッカー・カールソン、メーガン・ケリー、キャンディス・オーウェンズ、アレックス・ジョーンズが、何年も私を攻撃してきたのか。
理由ははっきりしている。
彼らは、テロ支援国家No.1のイランが核兵器を持つことを、素晴らしいことだと思っているからだ。
彼らには共通点がある。
IQが低い。
本人たちも分かっているし、家族も分かっている。
周りの誰もが知っている。
過去や実績を見れば明らかだ。
彼らには能力がないし、これまでもなかった。
彼らはテレビから追い出され、番組を失い、今では呼ばれることもない。
誰も気にしていないからだ。
騒ぐだけのトラブルメーカー。
安っぽい宣伝のためなら、何でも言う。
今では三流ポッドキャストで「クリック」を稼げると思っているようだが、誰も見ていない。
そして彼らの言っていることは、MAGAとは正反対だ。
MAGAは私とともにある。
タッカー・カールソン?
大学すらまともに終えていない。Foxをクビになってから壊れたままだ。
メーガン・ケリー。
あの有名な、ロージー・オドネルに関する意地の悪い質問をした人物だ。
フランスのファーストレディを男性だと非難しているが、それは事実ではない。
ちなみに言っておくが、フランスのファーストレディの方がキャンディスよりはるかに美しい。
比較にならない。
最も愚かなことを言い続け、サンディフックの被害者家族に対する攻撃で、すべてを失った。
こうした、いわゆる「評論家」たちは敗者だ。
これまでも、これからもずっと。
今ではCNNやニューヨーク・タイムズといったフェイクメディアが、彼らを持ち上げている。
だが彼らはMAGAではない。
ただ便乗しようとしているだけの敗者だ。
私はその気になれば、いつでも彼らを味方につけることができる。
だが彼らが電話してきても、私は忙しくて応じない。
だが、そんなことはどうでもいい。
私が考えているのはただ一つ。
国のために正しいことをすることだ。
MAGAとは、勝利であり、強さだ。
アメリカを再び偉大にする。
そのやり方を知っているのは私だ。
https://x.com/KNHjyohokyoku/status/2042381841811063137/photo/1
それらをざっくりした特徴でグループ分けしていく
作家 画家 書家 冒険家 音楽家 小説家 画家 漫画家 評論家 批評家 舞踏家 武道家 空手家 資本家 革命家
努力家 勉強家 策略家 浪費家 健啖家 美食家 雄弁家 篤志家 節約家
武道家、空手家は社会的な役割か?篤志家は上に入れるべき?など細かな疑問が湧いてくるが…
二文字の
の二文字系は元々あった古い表現で、何らかの思想、もしくはアート(芸術家、美術家という言葉もあるな)を修めた集団、もしくはそのメンバーを指す
そして、明治・大正期辺りに生まれた新しい職業のようなそうでないような、何らか集団、そのメンバーに命名規則を流用した
さらに、「何らかの集団」が実際に存在するリアルなコミュニティではなく「ある性質を持った人の類型としての集団」に読み替えられて個人の性質を指す言葉が作られた
という流れではなかろうか
そうしてみると冒険家は異質だなあ
だよね。あなたの立場が「弱点を放置しろということではありません」ということはわかっていた。
実のところ、問題となっているのはBのような評論家のことで、あなたはBのことを「囀る小鳥よりも役に立たない」と主張しますが、私に言わせれば少なくともAよりは役に立つし、社会的な便益で言えば C > B >>> A (Bもかなり役に立つ寄り)じゃないかと主張したいのです。
見栄っ張りの怠け者ほど、「助ける価値があるか」を見た目でジャッジしたがる。困ってる人の態度が気に入らないと、「そんな奴は救う気になれない」とか言い出す。けど、追い詰められた人間に冷静さや愛想を求めるのは、火事場でメイク直せと言ってるようなもんだ。理性は削られ、感情がむき出しになって当然だろう。
支援を「感じの良さ」で選別すれば、得するのは上手に演じられる人。逆に、本気で限界を迎えてる人は落とされる。だから福祉制度は、態度ではなく要件で設計されている。
「自分の責任だろ」で済ます人たちは、偶然や格差や情報の壁を見えていない。助けを求める力には、コストも技術もいる。だからこそ、早期に介入してダメージを最小化する方が合理的だ。転んでから説教するより、ガードレール置いた方が社会全体の損失は小さい。
結局、厳しさを振りかざす人たちが守ってるのは倫理じゃなく自尊心だ。他人を裁くことで、自分の怠慢を正義っぽく見せてるだけ。努力してる風の評論家ほど、実際には何も支えていない。見栄と怠慢で社会を語るな。
絶対に低知能でネタバレなしでワクワクしながら見た方が面白いギミック系ホラー映画の佳作。66点。
主人公たちはホラー系ドッキリ番組スケア・キャンペーンの撮影クルー。今日も今日とて病院の警備員をドッキリにかけたり楽しく番組作りをしていたが、上司から最近視聴率が落ちてきていること、Y〇utubeの似たような尖ったホラー企画屋の台頭でキッズ人気を取られていることを叱責される。一発逆転の策としてとある事件が起きた廃精神病院を舞台に、ターゲットに元従業員で患者だった男をアサイン。本気のドッキリを仕掛けるがなんとその男は、本気の殺人鬼だった。ドッキリで終わらない一晩が幕を開ける。
みたいな話。
ここからネタバレするのでそういう映画好きな人はもう見に行ったほうがいい。U-NEXTで見たけど3/31で配信が終わるらしい。
で、みたいな話。ではなくてぇ。
実は元従業員で患者だった男は実は仕掛け人で、自分が仕掛け人だと思っている女性スタッフ主人公への逆ドッキリだったという話になる。このネタバラシまでの緊迫感がよくてねぇ。ドッキリ対象の男が見るからになんかヤバ男で、あ、ガチのやつ連れてきちゃった!?ってなって徐々に異常性が明らかになっていって、お化け役の女の子をペーパーナイフで殺害しちゃうし、その後も次々と仕掛け人やスタッフを殺害していく。血もいっぱい出るし、にちゃにちゃ笑いながら追いかけてくるのもよいし、ホラー見てるぜぇ!って感じでボク満足。
とにかくここのパートがちゃんとしているから、ネタバラシされたときに「あ~、そっか~!そうなるよねぇ!」ってなれるし、まぁ、ちゃんと考えたらこのネタ自体は読めてもおかしくないんだけど「これがドッキリなのはすぐわかるので退屈な展開が続く(評論家ヅラ)」みたいなテンションで見るよりは絶対に気づかずに見る方が楽しい。
後はこの映画、ドッキリの裏側お仕事映画としても楽しいのがよい。ヤバ男(役者)にどうやって仕掛けていくのか、大規模クルーではないのでうまく誘導するために頑張ったり、うまくいかなくて急遽バタバタと計画を変更したりとホラー系ドッキリ番組って本当にこんな感じで撮ってそうだなぁって思える。
で、中盤でドッキリだったことがバレるんだけど、なんとそこからその廃病院に尖ったホラー企画屋が乗り込んでくる展開になって、しかもそいつらはドッキリではなくガチの殺人集団だったことが明らかになり、今度こそ"ガチ"で主人公たちクルーがどんどん殺害されていく。彼らはいろんな武器で武装していてサービス精神豊富なのはとてもよい、んだけども。
まぁここは良し悪しだと思うんだけど、こいつらがなんでそんなことをしているのか一生わからない。ある意味で言えば純然たる無邪気な承認欲求と悪意の権化ってことで、数字や名声のためにFAKEを作っている主人公たちの鏡写しみたいな感じ(主人公たちは大人で企画屋が少年?なのもそう)なのはわかるんだけど、なんかもうちょっとバックボーンがわかった方が俺はよかったかな。
あとは襲われる立場になってから主人公たちがとにかく防戦一方で、武器のメンテを怠ったマヌケを一匹倒す以外はひたすら攻められ続けるのが、まぁリアルっちゃリアルなんだろうけどなんかもうちょっと反撃パートがあった方が楽しかったかな。でもこの辺は完全に好みだと思う。
序盤中盤にあったお仕事映画としての楽しさが後半はほとんど活きてこないのがもったいないなって思った。ドッキリ仕事で培ったテクニックで反撃するみたいな展開があれば面白かったのになと。
まぁそんな感じかな。
最初にドッキリチュートリアルがあって、そのあと本格ホラー路線に移行したと思いきやそれもドッキリでな~んだと思ったら、ドッキリで済まないガチの連中が乗り込んでくるというツイストのきいた展開がかなり良くできてたホラーの佳作。スラッシャーホラー好きな人には普通にオススメ。
希望的観測か?
しかしその議論は技術の存在可能性と経済的現実を混同して自己放尿している可能性が高い。
経済学が問うのは「できるか」ではなく、「その方法が最も低コストで実行されるか」である。
基本的前提は、価格が資源配分を調整するという点にある。価格は情報を伝え、人々にどの活動を行うべきかのインセンティブを与える。
もし配管工が不足すれば賃金は上がる。賃金が上がれば、その職業に人が流入する。これが市場の調整メカニズムである。
トイレ修理ロボットを開発するには、高度なセンサー、移動機構、故障診断アルゴリズム、メンテナンス体制、高額な初期投資が必要になる。つまり巨額の固定費を伴う。
一方、人間の配管工はどうか。
技能訓練と工具があれば仕事ができる。労働市場において供給が不足すれば賃金が上昇し、人が集まる。
人間の配管工よりも安くトイレを直せるAIロボットが本当に成立するのか?
もし成立するならば、もちろん市場はそれを採用する。資本家は利益機会を見逃さない。しかし成立しないならば、どれほど技術的に可能でも普及はしない。
これは「市場による選択」の原理そのものである。市場はイデオロギーではなく、コスト比較によって技術を採用する。
さらに技術進歩そのものが価格シグナルに導かれるという点である。
もし本当に配管工が深刻に不足すれば、賃金は上昇し、その結果としてロボット開発の投資も増える。
逆に人間労働が十分に供給されるなら、そのようなロボットを作る経済的動機は弱いので自己放尿である。
人間のエッセンシャルワーカーが供給されるなら、配管ロボットは必要ない。
AIがすべてを解決するという考え方は、しばしば技術を万能の救済者として想像する。
未来の社会がロボットで溢れるかどうかを政府や評論家が決めて自己放尿する必要はない。
市場が決めればよい。
もしAIロボットが本当に安くトイレを直せるなら、誰かがそれで大金持ちになる。
AIを待つより、中卒の配管工を雇う方がずっと早い。
そしてさらにやっかいな問題は故安倍首相のすることなら何でも支持する保守派とリベラル派の伝統的対立構造がマクロ経済政策に持ち込まれてしまったことです。
リフレ派対構造改革派の論争はそのような問題とは本来、違います。インフレ祈願のためリフレ派が靖国神社に集団参拝するとは考えられません。金融緩和が有効かどうかは、国民の人生観や社会観とは全く異なるテクニカルな問題です。
私の主張は生産性以下の賃金はマクロ経済循環に悪影響をもたらす点にありますが、この論点は人々の実感からは遠かったのでしょう。真の問題そっちのけで役に立たない論争が延々と続きました。どこかで止めるべきだったのでしょう。
認められなかった日銀
日本経済はバブル崩壊と不良債権問題を小泉構造改革で最終処理しました。そのなかで主導イデオロギーとなったのはリストラ中心の構造改革派でした。バブル生成や崩壊過程の責任には目をつぶり、成果主義の名で整理を断行したのです。
不良債権処理は当時においては必要な作業でしたが、縮小均衡一辺倒の考え方に異議を唱え、反対論の受け皿になったのが(不幸なことに)リフレ派でした。筆者は構造改革一辺倒の政策が、かえって鬼子としてリフレ派を生んだと考えています。
日本の罹った病気は貨幣数量やインフレといった平均数量の問題ではなく、企業の貯蓄が政府や海外に流れる方向性にあります。
以前にある評論家はリフレ派の考え方はつまった水道管に大量の水を流して、ゴミの目詰まりを取る、と表現しました。不良債権と過剰設備は金融仲介という水道管につまったゴミだったかもしれません。しかし大量の水は企業貯蓄という穴から横にそれてしまったのでしょう。
もともと平時には企業の資金需要がないから、マクロの金融政策は効きません、と言っておけば済む話なのに、日銀は小難しいことを言って国民を煙に巻こうとしたから、外部からつけ込まれたのです。
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2005/06/13(月) 20:02:32 ID:UjYKFLV3
困るか困らないか。
16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2005/06/17(金) 15:37:13 ID:1/xsDPpZ
さて全ての経済学者が「焚書坑経」で火炙りになり国民が喝采を叫んで
数年がたちました。
新聞の社会面に「景気が良くて人手不足で大変だ。やはり焚書坑経のおかげW」
といった庶民の声が満ちあふれ、全国民、役立たずを火炙りにしたことを言祝いでいたのですが、
そのうちなんだか良く分かりませんが、町にホームレスが増えてきました。
そういえば、新聞の社会面や株式面で企業倒産が増えているというニュースが
しばしば見かけられるのですが、なにせ焚書坑経のおかげでGDP統計を作る人も皆死んでいますし、
指数論の専門家も焼き殺してしまったので、鉱工業生産指数も公表されませんので、ワイドショーや
で、どうもこれは「不景気」らしいということになって日銀は金利を下げることになりましたが、
そのうち「預金金利が下がると資産家の利子所得が減ってよけいに消費が減る」という意見が
すると、企業倒産がバタバタと増え、ますます不景気です。で金利はやはり下げようということに
なりました。そんなこんなで、毎年金利は上がったり下がったり忙しいことこのうえありません。
さて、金利操作ではどうにもならないということになったので、やはり問題は輸入の増加なのだ
ということになり、途上国からの安価な商品輸入に高関税を掛けることになったのですが、WTO
とやらから猛烈な批判を受けてしまいました。でも、連中の論拠は「経済学」なので、日本には誰も
何を言ってるかわかる人はいません。で、無視することにしました。
気が付くと、世界中の国が「対日報復関税」というのをかけ始め、輸出ができなくなってしまいました。
この結果、虎の子の自動車産業始め、日本の製造業がバタバタと倒産し始めました。
いったい全体、何がおこっているのでしょうか?でも誰にもわかりません。まあ、うっとしい
親譲りの毛根の強さにかまけて、38歳だと言うのに前髪を過去最高まで伸ばしてみました。頬まで伸び散らかしてます。
妻が「ミセスのもっくんカッコいい〜〜(メス顔)」などと宣ったから。
そういえばオリは、後ろ髪は結べるくらいまで伸ばしたことあるのに前髪はいつも短かった。両親(+祖母)の長髪認定基準がガバガバなのかも知れないが、毛量のせいで前髪はそんなに長くないのに少しでもサイドや後ろが長いとすぐ「切りなよ暑苦しい」と言われ続けた。
大学生時代は茶髪にしてたから伸ばしても目立たなかったものの、社会人になって黒髪に戻した途端に毎回帰省で会う度に暑苦しい、暑苦しい、いつ髪切るの(髪を切った翌日の発言)などと誹謗を受けた。愛知に住まう保守層の親族どもに対して社会人14年目にして逆張りをしたくなった。
正直、在宅勤務時など整髪料(死語)を付けてない時は邪魔であるが、しっかり整えた時はすごい万能感を感じる(古の2chコピペ)
よくよく考えたらイケメンは皆前髪が長い。センターパートが似合う人は年齢問わず皆イケメンだ。小生はなぜ今までそんなシンプルな解に気づかなかったのか。
前髪が長いのにサイドと後ろはあまり長くないのも新感覚であり、美容院に行きたい欲望が全く湧いてこない。
デコ出しは社会人の嗜みという過激派の発言も、分からんこともないねなどと評論家気取りな様相である。
よくよく考えてみると当方はイケメンではない。それどころかただのチー牛である。しかもファッションチー牛ではなくガチ牛である。黒毛和牛ではなく名もなき国から輸入される駄牛だ。
さらに近年白髪も増えてきており、分け目の白さがあまりにもアレである。驚きの白さハミング。白って200色あんねん。
女性は多少毛量や白髪があっても不思議とワンレンが似合う。羨ましい。一方髪の毛プリンどころか道端で端っこだけ黒にくすんだコンクリートのそれを頭に乗っけている、それがおいどんである。
落武者認定されても仕方ない。だって分け目が白い≒ハゲて見えるんだから。せっかくの毛量の無駄遣いである。
某より10歳ほど若いもっくんのイミテーションにもなりきれず、コンクリートを頭に乗っけてイキってるハゲチー牛38歳が私である。
白髪入りチー牛は身の程を知ろう。髪型で人生は変わらない。これでなろう系の転生ものや勘違いおじの若い女性狙いに歯止めがかかるといいな。