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『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』の著者、高云翔とのインタビュー

<記事原文 寺島先生推薦>
Arise, Africa! Roar China! Interview with Gao Yunxiang
出典:INTERNATIONALIST 360°  2022年6月13日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2022年9月29日


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 『起て、アフリカ! 吼えろ、中国!』は、進歩的なアフリカ系アメリカ人と中国革命の歴史的な結びつきの側面を探求した重要な本だ。2021年12月に北カロライナ大学出版局から刊行された。著者である高云翔博士は、中華人民共和国で生まれ育ち、現在はカナダのトロントメトロポリタン大学で歴史学の教授を務めている。彼女の本は、第二次世界大戦および冷戦中において、20世紀の最も有名な三人――アフリカ系アメリカ人であるW. E. B. デュボイス、ポール・ロブソン、ラングストン・ヒューズ――と、ほとんど知られていない中国の同盟者――ジャーナリスト、音楽家、クリスチャン活動家の劉良模、および中国・カリブ系ダンサー・振付家であるシルヴィア・シーラン・チェン――との間にあった、彼らの密接な関係を探求している。中米関係の研究において新たな道筋を描き出す高云翔博士は、アフリカ系アメリカ人を中心に据えつつ、黒人の国際主義の研究と中国系アメリカ人の経験とを結びつけ、太平洋をまたぐ物語と中国の現代的な大衆文化と政治の世界的な再構築の理解を組み合わせる。高云翔博士は、中国人とアフリカ系アメリカ人の進歩的な交流について、特に活発だった1960年代から1970年代初頭以前の交流を明らかにしている。

 この本を紹介するために、米国コーネル大学のアフリカ研究の博士候補生である劉紫鳳(りゅう・しほう)によってSixth Toneウェブサイトのために行なわれた高博士への2部構成のインタビューを再掲載できることは喜ばしいことです。
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劉紫鳳: 中国人とアフリカ系アメリカ人の関係に興味を持つきっかけとなったのは何ですか?『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』を執筆することになった動機は何ですか?

高云翔:初めての著書『公正な性別』の研究中、私は『人民日報』でW. E. B. デュボイス(Du Bois)とシャーリー・グラハム・デュボイス(Shirley Graham Du Bois)に関する賞賛の記事を見つけました。それで私の少女時代に読んだものを想い出しました。特にある古い新聞記事と宣伝ポスターです。

 私の幼少期の家は内モンゴル自治区にあり、天井はまとめ買いした古い新聞で覆われた木製の平らな格子でした。読み書きを覚えた後、私は毎晩、自分の枕のすぐ上に貼られた見出しを見ることになったのです。それは、翌年の旧正月になって新しい古新聞の層で覆われるまでの間、毎晩のように続きました。それらの言葉を毎日読んだので、それらは私の脳に刻まれました。「ロバート・ウィリアムズとデュボイス夫人、毛沢東主席の発言を熱烈に支持、黒人アメリカ人の暴力的な抑圧に対する闘いを支持」という言葉です。

 その表題は、今度は、私たちの小さな教室に掛かっていた、1年から3年までの18人の生徒のためのポスターの記憶とつながります。解放闘争における団結を提唱するこのポスターには、憤慨した様々な民族の男性と女性が、活気ある服装を身にまとい前進している様子が描かれており、中央には筋肉質の黒人の男性が銃を持って立っていました。

 『公正な性別』は2013年に発表されました。同じくその頃、私はDu Bois Review誌に論文を発表し、W. E. B. とシャーリー・グラハム・デュ・ボイスの毛沢東主義中国での活動が中米関係と黒人国際主義に新たな次元をもたらしたことを探究しました。その論文を執筆する際、当然のようにポール・ロブソンとの出会いがありました。彼はデュ・ボイス夫妻と切り離せない連携を結んでいました。その後、ポール・ロブソンと中国の知られざる興味深い関係を調査する中で、彼の中国の仲間である劉良模とシルヴィア・シーラン・チェンとの出会いもありました。

 もちろん、私は彼らが誰なのかについてすぐに興味を持ちました。シルヴィア・シーラン・チェンについて調べているうちに、ラングストン・ヒューズが彼女の恋人であったことを知りました。そこで、まるで鎖のように絡み合ったこれらの人物を追跡しました。

劉:アフリカ系アメリカ人の知識人、アーティスト、そして活動家たちは、中国の何に惹かれたのでしょうか? どのように中国と出会ったのでしょうか? これらの出会いに対する彼らの印象はどうだったのでしょうか?

高:世界の有色人種間の団結と、彼らの反人種差別と反植民地主義への運命的な共感が、これらの人物の中国への注目を集めたのです。国家が課す圧倒的で組織的な人種差別と白人至上主義に立ち向かう少数派として、黒人の知識人や活動家は、同様に抑圧されている中国に目を向け、刺激と力を求めようとしたのです。

 これらの人物と左翼中国人および中国との結びつきは、深い感情的および知識的基盤の上に築かれました。彼らは、中国-アフリカの間には人種や、言語、哲学、そして芸術的な関連があるとの信念を共有していました。ヒューズは、中国人を「非常に陽気な人々で、故郷の有色の人々に似ている」と観察しました。デュボイスは中国人を「肉体的には私のいとこ」と称賛しました。

 デュボイスとロブソンの二人は、アフリカと中国の文明のつながりを一貫して述べ、孔子や老子などの有名な中国の文化的偉人を引用し、アフリカ文明は洗練されているとの議論を展開し、一般的に認識されているアフリカの「原始性」という否定的な固定概念に対抗し、白人至上主義の正体を暴露しました。

 文化的に共通性があることは必然的に政治的な連携をもたらしたのです。中国の革命を非白人社会と経済の向上の手段として受け入れることで、黒人知識人は、アフリカ系アメリカ人の闘争を中国民族主義者の闘争に直接、結びつけました。ヒューズが1933年に「信じられないくらい素晴らしい」上海を訪れたことで、彼は中国の土地に足を踏み入れた最初の有名黒人知識人となりました。彼は中国の植民地支配の下での苦難、特に日本の直近の侵略の下での苦難に深い共感を抱いていました。ヒューズは、1937年の日本の中国への全面侵略の後、中国の抵抗を讃える情熱的な詩「吼えろ、中国!」を書きました。

 1949年の共産党の勝利は、中国を非白人の革命的な闘争の柱にし、数百万人にとって植民地主義に打ち勝つお手本となりました。ロブソンはロマンティックに想像しました―非白人の世界は、立ち上がる中国を「東方の新しい星・・・帝国主義的な奴隷制から独立と平等への道を指し示している」と見るだろうと。

 1959年の壮大な中国旅行中、デュボイスは西洋の人種差別や、植民地主義、そして資本主義などに対抗する中国とアフリカの尊厳と結束を繰り返し宣言しました。「アフリカよ、立ち上がれ、そして姿勢を正せ、話せ、考えよ! 過去500年間の西洋とその奴隷制と屈辱に背を向け、昇る太陽に向かえ・・・ 中国はあなたの肉と血の一部だ」。 彼は「より肌の色の黒い世界」は社会主義を「肌の色の問題に対する唯一の答え」として採用するだろうと予測し、それによってアフリカ系アメリカ人の地位が向上するだろうと述べたのです。

 ヒューズは、アメリカでは反共ヒステリーがあったため、急進主義から身を引いたにもかかわらず、中国人民共和国に力があることへの自信は持ち続けました。中国共産党から得た刺激は抑えていましたが、アフリカ系アメリカ人が受けた残酷な人種暴力に対する怒りで再びそれは表面化しました。「バーミンガムの日曜日」というヒューズの詩は、1963年9月15日のアラバマ州バーミンガムの第16番街バプテスト教会での爆破事件で亡くなった4人の黒人少女に捧げられました。彼の怒りはかつて中国の抑圧された人々が感じた怒りと接点を持ちました。

劉: あなたが特にとりあげた中国の知識人と活動家についてはどうですか? 彼らは何者だったのですか? 彼らはなぜアフリカ系アメリカ人に接触しようとしたのですか、中国―黒人の連帯を築くために彼らは何をしましたか?

高: 中国の知識人たちは、文学と劇を通じて、中国の半植民地国家としての「奴隷制度」とアフリカ系アメリカ人の奴隷制度には共通するものがある昔から考えてきました。林紓(りん・じょ)と魏毅 (ぎ・い)は、ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』の翻訳(1901年)の序文で、黄色い人々が受けた苦痛は黒人アメリカ人が耐えた苦痛よりもさらにひどいと主張しています。中国人はこの本を読む必要があったと林と魏は述べています。「奴隷制は中国人に差し迫っている。我々は国民の目を覚まさせるために叫び声を上げなければならなかった」からだと書いています。

 連邦捜査局や移民帰化局による嫌がらせ、人種的テロや差別に直面しながらも、劉良模(ちょう・りょうばく)とシルヴィア・シーラン・チェンが勇敢にも渡米したことは、中国とアフリカ系アメリカ人の文化的な提携を新たな歴史的設定へと導きました。劉は才能ある音楽家であり、多作なジャーナリストであり、第二次世界大戦中に戦争動員を目的とした太平洋横断大衆歌唱運動を始めたキリスト教活動家でした。彼はアフリカ系アメリカ人との緊密な協力関係を築いた中国人の先駆者であり、黒人の偉大さを憚ることなく称賛し、後に人民共和国でのデュボイスやロブソンの受け入れを促しました。劉とロブソンが協力した数多くの分野の中でも、彼らは大衆歌唱運動の代表曲を世界に広めることに貢献しました: 「チー・ライ(起来)」、あるいは 「義勇軍の行進」です。

 1941年、ロブソン、劉、そしてニューヨーク市チャイナタウンの中国人手洗い同盟*の一員である劉が組織した中国人民合唱団は、Keynote Recordsのために「チー・ライ(起来):新しい中国の歌(Chee Lai: Songs of New China)」というアルバムを録音しました。劉はそのアルバムのライナーノート(付属解説書)で、このコラボレーションを「中国人と黒人との強力な連帯の証」と考えていた、と書いています。
*1933年に設立された中国手洗い同盟(CHLA)は、北米に住む華僑の市民権を保護し、「アメリカ社会での孤立を打破するのを助けるため」に形成された労働組織。この開かれた左翼組織は、「中国を救うため、自分たちを救うため」というスローガンや「日本の満州侵攻に抵抗し、中国を救う」といったさまざまな手段を使って、満州への日本の侵略に反対した。(ウィキペディア)

 ロブソンのライナーノートには次のように記されています。「チー・ライ!(起きろ!)は、今日、何百万もの中国人が口ずさんでおり、私に言わせれば非公式な国歌のようで、この民族の不屈の精神を象徴しています。この現代の作曲による歌と、闘争の中で新たな言葉を付け加えた古い民謡の両方を歌うことは、喜びであり特権です」。

 この歌は1949年に中華人民共和国の国歌として採用されることになります。

 チェンは、現代アメリカ・メディアの報告によれば、国際的な評判を持つ世界初の「近代中国/ソビエトのダンサー・振付家」でした。彼女は1920年代に中国の外相であった陳友仁(ちん・ゆうじん)と、彼のフランス人の妻クレオールの娘でした。また、彼女は「中国のモダンダンスの母」として称賛される戴愛蓮(だい・あいれん)の従姉妹でもありました。

 陳家と戴は共にトリニダードで生まれ、中国語をほとんど話しませんでした。陳(シルヴィア・シーラン・チェン)はモスクワでヒューズとロマンティックな関係になり、ヒューズの中国に対する興味を掻き立てました。国際的な共産主義ネットワークとのつながりを築き、上海の左翼文化界に彼を引き込む手助けをしました。陳(チェン)はヒューズとロブソンにとって、黒人と中国人の「完璧な」融合を具現化しているものであり、二人の空想的な想像力を捉えました。一方、彼女自身は世界中で民族性、戦争、革命を振り付け、踊る旅を続けました。そしてそのように異人種を結合しようとする取り組みは人種的、政治的なねじれの複雑さを顕わにします。

劉: あなたの本で特に取り上げたアフリカ系アメリカ人の知識人は、中国人の黒人観や世界秩序の未来図をどのように形作ったのですか? そして、中国がアフリカ世界と関わることが、少なくとも劉良模とシルヴィア・シーラン・チェンの場合、アフリカ系アメリカ人が中国の政治と文化、そして一般的に黒人急進派の思考を理解する上で、どのような影響を与えたのですか?
高: W.E.B.デュボイス、ラングストン・ヒューズ、およびポール・ロブソンの中国滞在と中国人滞在者たちとの連携は、汎アフリカ主義と汎アジア主義の力学の変化を促進し、最終的には毛沢東の第三世界理論の「肌の色ライン」に影響を与えました。

 この変革の過程は、中華民国(1912-1949)における黒人のイメージの緩やかな変化から始まりました。アジアの「病人」だという恥ずべき評判に傷つき、ナチスの人種差別と日本の帝国主義的野望への警戒感もあり、中国は1932年と1936年のオリンピックで中国の選手たちが繰り返し敗北したことに胸がかきむしられるような苛立ちを感じました。そこで、中国のメディアは、世界の有色人種を代表してボクサーのジョー・ルイスと陸上競技選手のジェシー・オーエンズの「自然な」身体的な力強さを賞賛しました。

 中国の一流漫画雑誌である「モダン・スケッチ」の第一号の表紙は、1936年のオリンピックに捧げられ、オーエンズの勝利に刺激を受けています。この雑誌の裏表紙には、アメリカのシャンソン歌手ジョセフィン・ベーカーに似た筋肉質の、バナナのスカートを着た黒人女性が描かれ、表題には「オリンピックでの有色人種の勝利」とありました。

 これらの2つの画像は、アフリカ系アメリカ人の中国的な描き方を示しています。当時中国を訪れたデュボイスは、中国人は、「スポーツだけでなく、科学や、文学、そして芸術などにおいても代表とならなければならない」と宣言しました。ナイトクラブでのジャズミュージシャンは、「外国の楽器の悪魔(洋琴鬼)」として無視されるか、歯磨き粉や白いタオルの広告で風刺的に描かれるかかが、共和国中国のメディアが黒人を描く支配的な表現法でした。デュボイスや、ヒューズ、そしてロブソン(中国の評論家がその知的能力を「天才」と評した)などがこのような画一的な見方を変えていったのです。

 ヒューズは上海への旅行中、作家魯迅を中心とする市の左翼文化サークルにあっという間に受け入れられました。彼らの雑誌は彼を「名声の確立した最初の黒人革命作家」と賞賛し、「抑圧された人種のために吠え叫び、闘い続けている」と称賛しました。ヒューズの訪問は、彼の作品と黒人文学に対する持続的な関心を中国で引き起こしました。

 黒色と革命を結びつける最終段階は、中華人民共和国の時代に起こりました。国際的に有名なロブソンに関する語り口は、異国のエンターテイナーから、中国社会主義市民の英雄的な模範であり、それを鼓舞する人、とすぐに変わりました。彼は国営メディアで「世界の抑圧された大衆のための黒人の歌の王」として紹介され、「芸術と政治の完璧な結合を具現化した人」と評されました。

 デュボイスが好意的な視線を日本から中華人民共和国に転換した後、彼は、中国から「有色人種世界」の新たな柱としての象徴として扱われました。彼と彼の妻は訪中の際、前例のない国家的な歓待を受けました。この夫婦は頻繁に中国の最高指導者と交流し、国の国慶節の祝典で天安門広場の壇上に初めて登場し、主要新聞の一面を何度も飾りました。デュボイスの誕生日は重要な国家行事として祝われました。

 一方、劉と陳は、中国系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人が直面していた、燃え上がるような問題(例えば、投票税、中国排除法、ジム・クロウ法、アフリカ系アメリカ人のリンチなど)を関連づけました。それらを廃止するよう呼びかけたのです。

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劉紫鳳:冷戦時代の国際秩序、中ソ関係、そして中国とアメリカの外交政策の変化が、中国系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の関係にどのように影響を与えましたか?

高云翔:冷戦の緊張が高まる中で生まれた幼児のような中国人民共和国は、朝鮮戦争で核兵器を持つ超大国と対峙せざるを得ませんでした。この時点で、歌手、俳優、活動家であるポール・ロブスンは、中国の勇敢で信頼できる友人として最上の賞賛を受けました。ロブスンにとって中国は彼が切望していた強力な支援の源でした。

 1949年4月20日は、ロブソンのアメリカでの政治的失墜の始まりを示す日でした。その日、彼はパリで開催された国際平和大会で、「アメリカの黒人が何世代にもわたり我々を抑圧してきた者たちのためにソビエト連邦と戦うことは考えられない」と述べました。この発言はすぐに各方面から非難を浴び、有名なアフリカ系アメリカ人野球スターであるジャッキー・ロビンソンもその中にいました。ロブソンは野球の(黒人)差別撤廃に力を貸していました。

 W.E.B.デュボイスとともにロブソンを強く支持したのは中国共産党でした。人民日報はロビンソンを非難し、ロブソンを擁護しました。人民日報はロブソンのスピーチを報道し、その中で、2,000人の出席者の中からスタンディングオベーションを受けたこのスターの姿に焦点を当てました。出席者には、ノーベル賞受賞者で核科学者のフレデリック・ジョリオ=キュリー、そしてロブソンの友人である画家パブロ・ピカソもいました。その組織的な、地域と世界の平和運動をアメリカの中国内戦への関わりやその後の朝鮮戦争への関与に対する一般市民の強力な非難と捉えた人民日報は、デュボイスとポール・ロブソンの平和主義運動への参加を詳細に報道しました。

 アメリカ合衆国は、急速にロブソンへの攻撃を加速させました。最も重要で醜悪な例は、1949年8月に右翼の群衆がロブソンのコンサートを残忍に襲撃した、いわゆる「ピーキル暴動」でした。その後、アメリカ合衆国国務省はロブソンのパスポートを取り消し、彼の輝かしい経歴の邪魔をしました。これは、ロブソンの著作と人民日報の報道の両方でしっかり記録されているように、ロブソンと中華人民共和国はお互いにもっとも困難な時期に絶えることのない支援を提供し合ったのです。

 1950年代末には、大失敗となった大躍進政策の余波で、中国はアフリカ系アメリカ人の文化的巨人たちの民衆支持を歓迎する直接的な理由がありました。中国共産党は、革命を再活性化し国を社会主義化するために新しい国内的見通しが必要でした。さらに、ソビエト連邦による世界共産主義の支配と、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの元農業植民地との運命を結びつけた「第三世界」の指導を志向する中で、新しい外交の擁護者と戦術も必要でした。

 中国共産党(CCP)は既にアフリカに接近していましたが、新たに独立したアフリカ諸国は中国の提案に対して慎重かつ控えめに応じました。これらのアフリカ系アメリカ人の評価は、中国が(アフリカ)大陸全体での同盟を築くための扉を開くのに役立ちました。特に、デュボイスの評判と支持は非常に重要でした。デュボイス夫妻が1959年に中国を訪れた後、中国のアフリカへの外交的な接近、援助、広報活動は頂点に達しました。外交的および経済的な理由から、中国はアフリカに大きな存在感を維持し続け、その育成にデュボイス夫妻が貢献したのです。

 1960年代、毛沢東は急進的な黒人との接触に興味を持ち、彼らを真の革命家として賞賛しました。影響力のある黒人活動家であるロバート・ウィリアムズは、『銃を持ったニグロ』の著者として、私の子供の頃の寝室の天井に掲示された人民日報の見出しに出ていました。同時に、黒人アメリカ人は毛沢東の反米帝国主義に感銘を受け、暴力的な闘争と文化的変革を革命の力として強調したことに感銘を受けました。

劉:国際的な交流の場合にしばしば起こるように、あなたが描写する中国とアフリカ系アメリカの知的、文化的な相互作用は、誤解、曖昧さ、そして対立に満ちたものでした。あなたの著書に登場する5人の中心的な人物の国際政治の複雑さと矛盾は何でしたか?

高:曖昧でときおり危険な、そして変動する太平洋を横断する政治とイデオロギーの世界に挟まれ、私が紹介した世界市民の5人、すなわちW.E.B. デュボイスや、ポール・ロブソン、ラングストン・ヒューズ、劉良模、そしてシルヴィア・シーラン・チェンなどは、それぞれ曖昧さと対立を経験しました。例えば、1962年には、中華人民共和国の国営メディアや出版社が突然、1950年代を通じて中国社会主義市民の英雄的な革命モデルとして宣伝していたロブソンについて発言しなくなりました。中ソ対立が公然となった後、ロブソンが平和共存を主張する立場は、太平洋を横断する大国間の力学の変化の中で、中国政治に嫌われたのです。

 公式の報道機関は、ヒューズへの対応の仕方を変えました。マッカーシズムと朝鮮戦争の頂点でヒューズが過去の過激な活動を公然と放棄したことについては、報道機関は不器用なまま沈黙し、代わりに彼が1930年代にいた作家として、まるで時間カプセルに保管されているかのように彼を見つめ続けたのです。一方、劉と陳(チェン)は、過激な毛沢東主義の時代には、彼らが長らく理想化してきた体制によって、軽視され、さらには攻撃されることもありました。

 W.E.B. デュボイスが帝国主義日本を「より色黒な(人間の)言葉」の柱として扱ったことは、最も論争を呼びました。デュボイスは1936年に分離された条約港の上海を訪れました。日本当局に甘やかされ、彼は上海外灘にある豪華なホテルの和平飯店に滞在しました。上海大学では、デュボイスは「ステージに座ったまま」、ロックフェラー財団の代表がアメリカへの奨学金について話すのを聞いていました。

「私は学長に対して、中国の集団と底意地のない形で人種的および社会的な問題について話をしたいと思います」とデュボイスは回想しました。彼はやがて、11月30日に香港ロード59号地にある中国銀行家クラブでの昼食会に「無謀にも飛び込みました」。彼は、「なぜあなた(中国人)は、イギリス、フランス、ドイツよりもむしろ日本を嫌うのですか? あなたたちは日本よりもむしろイギリス、フランス、ドイツからのほうが多くの苦しみを受けているのではないか?」と、その理由を知りたいと言いました。デュボイスは続けて、もし日本と中国が協力すれば、おそらくヨーロッパをアジアから永久に排除できるかもしれないと述べました。デュボイスは冷静に報告しています:「かなりの沈黙が続いた。私もその沈黙の中に入った」。

 彼に応対した人々は面食らって、中国が抱える問題に関係なく、日本の軍国主義が進展を妨げていると応答しました。デュボイスは納得せず、後になって「アジアで最も当惑するのは、中国と日本がお互いに抱いている火のような憎しみだ」と述べました。彼は1936年12月1日に上海を出発し、上海丸で長崎に向かう船上で、決定的に侮辱的言葉を放ちました。中国国民党員たちを「アジアのアンクル・トム」と呼び、彼らをアメリカ合衆国の白人の人種差別の従順な黒人奴隷になぞらえたのです。

 デュボイスは、日本の支配の美点を繰り返し強調し、中日同盟を強く提唱しました。この同盟は、「より肌の黒い人々のために世界を救う」と彼は主張しました。彼は日本軍が北京と上海を占拠した後も、これらの見解を断固として維持しました。1937年末から1938年初めにかけて、日本軍が中国の当時の首都である南京で行なった虐殺である南京大虐殺の報道に対して、デュボイスは、多くの白人アメリカ人がその殺戮に対する恐怖を表明しているにもかかわらず、エチオピアでのイタリアの最近の略奪行為について言及する人間はほとんどいないではないか、と反応しました。

劉: あなたの本に記された物語が中米関係を理解するために提供する教訓は何ですか?

高: 中米関係に関する大半の研究は、アメリカを白人の初期設定として扱っていますが、『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』は、アフリカ系アメリカ人を前面に出すことで新しい道を切り開いています。これにより、ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンを中心に据えた論述から離れ、アフロアジアの歴史を世界史の中心と捉え、今日でも重要な存在である国際的な反帝国主義と人民運動に焦点を当てることができます。私の本は、黒人国際主義の研究と中国、中国系アメリカ人の経験を、太平洋をまたぐ物語で結びつけています。これにより、1960年代の黒人急進派と、毛沢東中国のよりよく知られている連携以前にあった中国と黒人左派の代表的な人物との広範な交流が明らかにされています。

 本書はまた、中国の現代大衆文化と政治が世界的に作り変えられていることも示しています。本書は、中国が一般的に孤立し、より広い世界とは無縁とみなされてきた時期にも、国境を越えた中国の関わりがあったことを追跡しています。

 この5人の世界市民の交錯する生活は、通常は重なり合わない領域に住んでいると見なされがちですが、人種差別や疎外感を前面に押し出す物語に対する強力な反論となっています。彼らが人種、国籍、文化、言語の境界を超えて取り組んだ努力は、政治的、法的、移民、外交上の障壁があっても、世界が常につながっていることを示しています。彼らの物語は、黒人の国際主義と中国系アメリカ人-アフリカ系アメリカ人の協力の力と可能性を垣間見るものです。「立ち上がれ、アフリカ!」とデュボイスが表現し、「吼えろ、中国!」とヒューズが表現したことは、それぞれ、ある民族とある国家にいる同一民族の共通の闘いに対応するものです。彼らが示した力と明るい見通しは今日まで響き渡っています。
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