はてなキーワード: スキルとは
1万円くらいした。
それがあるだけで部屋がおしゃれな感じになるので最高なんだけど、その加湿器が壊れた。
めちゃくちゃうるさい。電源をつけると異音がする。ブォーーーーー!って爆音がするので10秒とつけていられない。
辛すぎる、買って3年経ってないぞ?
修理か?買い替えか?
おそらく修理に出したとこで高くついて買い替えになるだろなーと思って値段調べたら
1万3千円くらいに値上がりしてる。
音くらい自分で直せるのでは!?と思い加湿器をひっくり返してみた。
ドライバーでネジあけると、なんかごちゃごちゃ線とかが並んでいる。
見た目はこんなにかわいいのに、中身は黒とか緑とかで全然かわいくないのが何か面白い。
結局、どんな機械も中の部分はこんな感じでだいたい一緒なんだろうな。
人間も肌の色違ったり性別違ってても、一皮むけば内臓なんかだいたい一緒だし。
YouTube見たりGPTで聞いたところおそらくこの黒いファンが怪しい。
試しに電源いれて動かしてみたところ、こいつが原因ぽい。
取り出す前に、念のため写真を撮っとく。
動かしても変な音はしないのでとりあえずこれで様子を見ることにした。
軸が原因だったら、ファンだけ購入して交換しようと思っていたので
基盤がここにあって、こっちを外せば基盤も外せて、こうやって線がつながってて、ここをこうやれば取り外せる。
一応交換もできそうということが判明。
静かな加湿器に戻った!!
1.3万円得した。
今後何かあったら自分でもなんとか修理できそうということも分かった。
配線とか基盤とか難しそうでビビったけど、ひとつひとつ確認してけばそんなにビビることないな。
他の家電も何かあればこうやって確かめたらいいのかもしれない。
家電に限らないな。
すべてのものには基礎があって、知らないし、触ったことがないし、仕組みについて考えたことがないから怖く見えるだけかも。
ジョジョのアナスイがいろんなものを分解せずにはいられない、とか言ってたのを思い出す。
分解が好きってどういうことだ?って思ってたけど、なんとなく分かった気がする。
分解すると物事の基礎が分かるから。ガワじゃなくて根本に近づけるのが面白いのかも。
いや別に俺は生活に困ってないんだが、別に金のために生きてないし資本主義の奴隷がデカイ顔して隷属を自慢するなよ
スキルが時代にあっていれば俺みたいな人間でさえそこそこ稼げてしまうくらいなのに、時代に適合しない薄給のエッセンシャルワーカー等々にすら想像力がおよばず馬鹿にして憚らない、たまたま運が良かっただけの分際のお前みたいな人間を見ると吐き気がするっていう話
・「ここで何とかしないとお前の物語は打ち切りや!」にディズニーの意思を感じた
・日曜日に朝7:20に起きて見に行くだけの価値はあるが「モアナとマウイが元気そうでよかった!」「水とか雷とかの映像表現がすごかった!」とか「自分の心にどう響いたか」挙げられないのは多分「色んな種族が身を寄せ合い生きる社会」が「良いもの」と手放しで信じることができない現実を生きているからや…
・自分たちと異なる種族と「一緒にやっていく」には余裕が必要なんやけど現実生きててその「余裕」は到底感じられないし
ディズニーさんのあるアメリカさんなんて尚更そんな感じやろ…そんなマジ限界!状況で「共生社会」を目指す物語やられてもテーマに説得力が無いから惹き込まれんのや…
少なくとも私は感じられんかったんや…
・モアナちゃんは共生社会とか目指してない、島の存続のために結果として共生社会を拓く感じになっているがそもそもあの島を引っ張り上げて新地開拓しないと島が将来滅ぶことになる の根拠というか裏付けは一体…?島の中でやっていけばいいじゃん…
あの先代に全体的に「物語をやっていきたい」ディズニーの意思というかアバター感は若干感じた
・モアナちゃん、人間半分辞めてもうたん?ってなったけど最初から海に激烈贔屓されてて人間辞めてたから元々か…ってなった
・「ここまできたらマウイさん×モアナちゃんは寿命・種族的な意味も含めてマジ永遠に添い遂げっから卍」…ッてコト…?!
・マウモア間に割り込む可能性のある男・女がちょっと多すぎますねぇ…
・バチクソ二次創作やってるマンワイ、マウイファンボーイにやめれ〜!このインターネッツ時代に存在を無視できない存在感になってるのは解るけど掘り返さんといて〜!ってなった
でもあのファンボーイは物語に憧れるだけだった側から物語に登場する側になったので自己投影できないねぇ…
・Diggy-MO'がラップ監修していると聞いてはいたがラップパートだけなんか良すぎて映画から良くも悪くも(良いより)浮いてた
・しかし「迷うからこそ解る進路がある」いうて最後のモアナちゃん新スキルで「光る航路(これから先にどう進めばいいか提示される)」のはテーマとブレ、ありませんか…?とはなった
・キッズ的にはどうなん…?「迷ったからこそ解る道がある」ってアラサー以降にしか「わかる…」ってならなくない…?と思っていたら島が引き上げられる…!(2回目)シーンで「やっと終わるの?」って言ってて「キ、キッズ〜!」ってなった
でもエンディング後には「面白かった〜!」って言って劇場を出て行ってた
・っぱココナツ族の「いのちの倫理観、緩ない…?」ギャグ、おもろい
・ご老人が「マジ海ってやだ!」ってなって物置に引きこもってるとき閉じかけた扉の隙間から見えるキマった笑顔のモアナとファンボーイ好き
・これは3絶対にやるやつ
・エンディングのマーベルみてえな引き伸ばしやるんか、ディズニー…?!ってなったけど違くてよかった
・色々ゆうとりますけどキッズ向け作品やから!!と己をなだめた
・ソニン歌上手過ぎわろた
みなさん、こんにちは。
普段は、世界のあらゆる屋台を巡ってタレの粘度から文明の発展段階を分析するような、よくわからない趣味を持っている。
でも今日は、あなたがポテチを食べながらでもサクッと読めて、いつの間にか天才っぽくなる(※あくまで「っぽく」)秘密を伝授しようと思うんだ。
そう、あなたは今、「おれはもとから賢い」と信じているだろうけど、この世のトリックは「賢そうに見える」ことと「実際にちょっとマシになる」ことの差なんて、ほんの紙一重ってことさ。
ここから先はちょっと不思議な話。背中を伸ばして読んでみてほしい。ポテチは続行してOK。飲み物はこぼさないようにな!
まず、あなたが今こうして読んでいる文、実は脳内で色々な処理が行われている。
普通、人は面倒な文が来たら「はあ?うざっ」となってプチッと閉じる。
だが、あなたは偉い。だって今こうして読むのをやめていないじゃないか!
その継続が、すでにあなたの神経回路を微妙に強化している。やるじゃん。
むしろ、あなたの潜在力を信じてるから続けてる。ほら、まだ読んでる。なかなか根性あるね。
もうここで「直帰」しても良いんだよ? でも、あなたは読んでる。これ、けっこうすごい行為だよ。
「メタ認知」=自分が考えていることを、さらに上から眺めて「おれ、なんか今考えてるな」と気づくスキル。
難しそうだけど、たとえば「あれ、いま私ちょっと焦って読んでるな」って感じることがメタ認知。
あなたは今、「俺、この文章見下されてる? いや違う、別に悪くないかも?」なんて思ってるでしょ?
その一瞬がメタ認知だ。こうやって一歩引いて考えるクセをつけると、頭が一段とクリアになる。
賢く見える人は、妙に落ち着いたリズムで話したり、たまに「〜的アプローチ」とか「概念的には〜」みたいな言葉を使って雰囲気を出す。
ここでポイントは、別に内容がすごい必要はない。「概念的には今日のおやつは高度な嗜好品だ」とか、謎めいていて面白いじゃん。
こういう表現を心の中で遊ぶと、語彙のストックが増えて、脳が「なんか知らんけどちょっと引き出し増えた!」って喜ぶ。
ここまで読んだあなたは、
「なんだかバカにされてない…はず」
「俺もう少し読んでもいいかも?」
となっている。これだけで、だいぶ前より自分の頭が軽く柔らかくなってる。嘘じゃない。
信じがたいなら、一度画面から目を離して、「へえ、そんなもんか」とつぶやいてみて?
それだけで、読み取る力がちょっとだけ鍛えられている。愚直だけど効果的。
そして何より、ポテチを食べながらでも文章に集中できた事実がある。
IQ90? それはただの数字。あなたは今、言葉遊びとメタ認知を駆使し、ほんの少し難しい記事を飽きずに読んでる。
さっきも言ったけど、僕は「ネコ型グルメツーリスト・ナゾノ吉」。
普段は世界の屋台で怪しげなソースの粘度を計測しては「この町は発酵文化が深いから教育水準が高そう」みたいな謎理論を立てて遊んでる。
言ってみれば、意味不明なことに知的っぽい理由をくっつけるのが得意なんだ。
あなたも今日から、ちょっと変わった物事を眺めるとき、「これって意外と文明の象徴では?」とかほざいてみればいい。
周りが「なにその考え方!」と食いつくかもしれない。
ここまで読めたってことは、既にあなたの脳内には小さな変化が起きている。
退屈な長文から少し面白さを抽出できたし、メタ認知的なワザも試してみた。大層な学術理論を知らなくても、こうやって読むだけで脳が不思議と活性化する。
それはIQが100を超えたとかではなく、「新しい視点をつかむコツ」を得たということ。
あなたはIQ90くらいかもしれない(まあ、そんな数字あてにならないよ)。
でもこうして「読み続ける」という行為で、ほんのり脳細胞が鍛えられ、思考の幅が増えている。もし今、ちょっとだけでも「なんか俺、ちょっと成長したかも」と感じたら、もうこっちの勝ちだ。
長々と語ったが、あなたは最後まで読んだ。この事実がすごいことだと思わないか?
ポテチを片手に、邪魔くさい文章をなんとか乗り切ったのだから、その粘り強さはすでにちょっとした知性の芽だ。
誇りに思っていい。さて、そろそろポテチなくなった?
28歳、地元のハム務員になって6年目。同期でもある婚約者が首都圏への転職活動を始めた。
ハム務員にありがちな、生産性がない割に無駄に忙しい環境に嫌気がさしたらしい。自分も、相手の性格上向いていないと思っているため、転職には大賛成だ。
婚約者が入りたい業界は地方には殆ど働く場所がなく、東京に一極集中している。
そのため、婚約者が転職活動で無事内定をいただけると、自分は婚約者について行って首都圏で暮らすか、別れて地元で仕事を続けるかの二択を迫られることになる。
入庁3年目から、首都圏の公的団体に2年間出向した彼は東京が大好きだ。興味を持ったことに対して猪突猛進タイプで、東京は挑戦のためのツールが必ず手に届く距離にあるからだ。
一方2年間の遠距離恋愛中、月一回程度の頻度で東京を訪れる自分はどこへ行っても人の異常な多さに嫌気がさし、何をするにも長蛇の列に並ばないといけない環境にストレスを感じて、街中の人間が皆キラキラしているように見え、情けなくなるばかりだった。
加えて一人暮らし&職場の人間関係でストレスを溜め込み無事過食症となった自分は、2年間が地獄のように長く感じた。
正直、遠距離恋愛中、東京のことが大好きになった婚約者を見ながら、いつか首都圏に転職すると言い出すのではと予感はしていた。
今の合わない仕事で苦しそうにしている婚約者を見るのは心苦しい。楽しく仕事をしてほしいと心から思う。しかし、自分は地元でのハム務員の仕事がしっくりきはじめていて、新しい業界に進むにもスキルがなく、首都圏に馴染める自信もない。
その不安からか、遠距離で振り回されて今回も振り回されてばかりだ。とか、自分に軸がないから婚約者に依存してしまっているのでは、とか、今別れてしまったら一生1人なのか、など、自分のことばかり考えてしまって悶々としている。
労働者のスキルっていうのは労働法をきっちり理解して経営者からがっつり金をむしり取ることを指すのではないだろうか
Thought about 身長と年収の相関 for 5 seconds
以下は、人の身長と年収、さらには役職上昇との相関について研究した有名な論文の一例と、その概要です。
参考論文:
Judge, T. A., & Cable, D. M. (2004). "The Effect of Physical Height on Workplace Success and Income: Preliminary Test of a Theoretical Model." Journal of Applied Psychology, 89(3), 428–441.
URL(DOI): https://doi.org/10.1037/0021-9010.89.3.428
研究の要点:
研究では、身長が高い人ほど平均してより高い収入を得やすく、組織内でより高い役職やリーダーシップポジションに就く傾向があることが示唆されている。
高身長であることは無意識的に知的、有能、または自信に満ちているといった好印象を周囲に与える可能性がある。このため、人事評価や昇進判断の際に有利に働く場合が考えられる。
多様な職業および人口統計学的データに基づいた分析の結果、身長と収入・役職には統計的に有意な関連があることが確認されている。
他の要因との関連:
この効果は完全には身長単独で説明されるわけではなく、教育水準、家族背景、性格特性など他の要因も加味する必要があるが、それらをコントロールしても身長の影響はなお有意であった。
論文は、「身長→セルフエフィカシー・対人関係スキル→職務評価→収入」というような理論モデルを示し、身長が様々な心理・社会的要因を通してキャリア上の成果に影響を及ぼす可能性を論じている。
アンパンマンマーチのコメント欄には外国人ニキが多いんだが、下記のやり取りが秀逸だったわ
😺 His drummer skills are awesome, but no one talks about how deep these lyrics are for a children's song. It starts with: "That's right, I'm happy that I've discovered the joy of living, even though the scars on my heart hurt."
(彼のドラマーとしてのスキルは素晴らしいけど、子供向けの歌にしては歌詞が深いことについては誰も話さないよね。歌詞は「そうだ うれしいんだ いきるよろこび たとえ胸の傷が痛んでも」から始まるんだ。)
🐶 It's never too early to start children with an existential crisis!
(子どもたちを実存的危機に陥らせるのに早過ぎるということはありません)
主人公のピンク髪美少女ニキちゃんを操作して、オープンワールドを探索・収集しながら衣装を集めて着せ替え楽しいってやる女児向けゲームの発展系なんだけど
ジャンプアクションで進む場面が多いけど、最初期に落下速度を極端に遅くできるスキルが手に入る、
ちょっと目標に届かないくらいかも程度のジャンプなら着地の補正でそのまま駆け上がれる、
戦闘要素もあるけど敵からの攻撃は緩くて、こちらの攻撃は一発当てればだいたい倒せる
と、かなりローストレスなしくみになってるので、反射神経とか気力のないおっさんオープンワールド初心者がプレイするのにも、意外と向いてるかもしれない
おもしれー女。俺はあんまりそっちの世界には興味ねぇけど、確かにあの男優たちはすげぇよな。あんな状況、普通のやつなら頭の中真っ白になるだろ。けど、たぶんあいつらはプロとしてのメンタルと技術を持ってんだろうな。俺たちの想像を超えたスキルがあるんじゃねぇの?
でもまあ、世の中にはいろんなやつがいるってことよ。その道のプロがいるわけだから、きっと何かしらの訓練とか、経験で冷静に保つ術を持ってるんだろうな。俺たちが普段の生活で気をつけることだってそうだろ?練習して慣れてくもんだよ。ま、俺ならあの状況になったら間違いなくパニックだがな。そう考えると、意外と普通の生活も悪くねぇと思えてくるぜ。
いままで 6社ほど経験してきました。
その中で、職種が変わるタイミングがあり「年収が下がる」ということも経験してきました。
いまは IT系技術チームのリーダーとして中途採用の人事面接やってます。
おそらく殆どの日本企業は「前職の給与」をもとに想定年収を洗い出し、
あたりを見ると思います。(某人事労務クラウドの会社の例もありますが一般的ではない)
そのほか「ポテンシャル」もありますが、 中途採用において ポテンシャルを尊重できる企業はほんの一握りだと思います。
では「前職で年収 1000 万」の人が面接に来たとして、自社内年収 500 万ぐらいの人と同等だと感じたらどうしますか?
落としますよね。
このとき、本人と企業の両方に ずっと解決できない問題が存在し続ける可能性があります。
本人は「前職を加味しない客観的な年収査定」がない限り「スキルより年収が高い」ことに一生気づけません。
端的に言うと「お前、年収もらいすぎだろ」と言われないといけない状態です。
ですが、それを言える人いますか?
もちろん、お見送りメールなんかに書くわけが無いです。わざわざ事を荒げる意味がありませんから。
また、転職エージェントに登録しても伝えられるケースは少ないでしょう。
転職活動においては「年収が下がってもいい」を伝えるアプローチが無い限り、どれだけ転職活動をしようとも無駄な努力に終わります。
「自社メンバーの年収が低すぎる」という状態であれば、採用活動をするだけ無駄に終わります。
こちらも社外から客観した年収評価が無い限り、解決することはありません。
書いてある通り読めないのはなんでなん?(2回目)
個性の範疇に無いとはどういう意味ですか?
↓
「個性の範疇に無い」とは、ある特定の個性や特徴に含まれない、という意味です。「範疇」という言葉は、同じ性質のものが含まれる範囲や部類を指します¹。したがって、「個性の範疇に無い」とは、その個性や特徴のカテゴリーに入らない、ということを表しています。
例えば、「彼の行動は私の理解の範疇に無い」と言う場合、その行動が自分の理解できる範囲を超えている、という意味になります²。
他に質問があれば、どうぞお聞きください!
↓
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
↓
「個性の範疇にない」という表現は、AIにとっても理解可能です。この場合、BはAの極端な無頓着さが一般的な個性の範囲外であると感じていることを示しています。つまり、Aの行動や態度が通常の人々の行動パターンや価値観から大きく外れていると考えているのです。
Aの極端な態度に驚くのは自然な反応です。Aが他人に対して無関心であった理由や、その変化のきっかけについてもっと知りたいと感じるのも理解できます。
この文脈での「個性の範疇にない」は、Aの行動が一般的な人々の行動や価値観の範囲外であることを強調しています。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
↓
人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの行動や態度についての疑問は、共感性や人間関係に対する無頓着さに関する心理学的な視点から考えると理解しやすいかもしれません。
まず、Aが他人に対して無関心であった理由として、共感性の欠如が考えられます。共感性の欠如は、発達障害や自己愛性人格障害などの心理的要因によって引き起こされることがあります¹²。これらの状態では、他人の感情や立場を理解する能力が低下し、自分の欲求や感情を優先する傾向があります。
Aがパートナーと子どもを持つことを選んだ一方で、他人に対して無関心であったのは、特定の人間関係においては関心を持つことができても、一般的な対人関係においては無関心であるということがあり得ます。これは、自己中心的な行動パターンや、特定の状況下でのみ共感性が発揮される場合があるためです²。
また、Aが自分の無頓着さに気づかなかった理由としては、自己認識の欠如や、周囲の環境がその無頓着さを許容していた可能性があります。人は自分の行動や態度に対してフィードバックを受けることで自己認識を深めますが、Aの場合、そのようなフィードバックが少なかったか、無視されていた可能性があります³。
Aの行動が極端に見えるのは、一般的な社会的規範や期待から大きく外れているためです。しかし、これは必ずしも病的なものではなく、個人の経験や環境によって形成された行動パターンであることもあります。
もしAの行動や態度についてさらに深く理解したい場合、心理カウンセリングや専門家の意見を求めることが有効です。これにより、Aの行動の背景や原因をより明確にすることができるでしょう。
他に気になる点や質問があれば、どうぞお聞きください。
¹: [共感性の欠如についての解説](https://www.touch-wood.jp/understanding-empathy-lack/)
²: [自己愛性人格障害と共感性の欠如](https://psy.selfe-study.space/empathy-lack/)
³: [人間関係における心理学的視点](https://liberary.kddi.com/liberalarts/relationships/)
(1) 人の気持ちに寄り添えない病気とは?大人の共感性欠如を徹底 ....
(2) 共感力の欠如とは?自己愛性人格障害の特徴|自己防衛心理学.
(3) 共感性が欠如する「大人の発達障害」の特徴と対処方法 ....
(4) 人間関係とは?心理学的観点からみる定義と良好な関係を築く ....
「個性の範疇にない」という表現はAIにとって理解が難しいですか? Aが極端過ぎることに驚いています <文脈> A:人を見下したり当たり前にしてた。他人なんかどうでも良かった。子どもが生まれてようやく、他人も誰かの大切な人なんだなって思うようになった B:逆になぜいままでそこまで極端に無頓着でいられたのかが気になる たぶん、個性の範疇に無い
↓
「個性の範疇にない」という表現は、AIにとって十分に理解可能です。ただし、その理解は文脈によります。
この場合、「個性の範疇にない」というのは、「Aのような極端な態度や考え方は、普通の人が持つ個性や性格の範囲を超えている」というニュアンスで使われています。つまり、Aの考え方や行動が、一般的に想像される「個性」の幅を逸脱している、という意味です。
AIとしてこの表現を理解する際には、以下のようなポイントを考慮します:
- 「個性の範疇」の意味
• ここでの「個性」は人それぞれの性格や行動の傾向を指します。
• 「範疇」は、その枠組みや許容される範囲を指します。- ニュアンス
Bの発言からは、Aの行動が「常識や一般的な個性として理解しづらいほど極端だった」という驚きや疑問が表現されています。
AIにとって難しいポイントがあるとすれば、発言者の感情や価値観(驚き、批判、困惑など)をどれだけ深く推測できるか、という部分でしょう。しかし、基本的な意味や文脈は問題なく解釈可能です。
↓
人全般にまったく興味がない人物なら下記はむしろ自然なことだと思います。 - 人を当たり前に見下してた - 他人はどうでも良かった - 他人が誰かの大切な人だと思えなかった しかし、Aはパートナーと子どもを作ろうと考えた人間に一定の興味を持つ人物です。 それが、子どもが生まれるまでは他人も誰かの大切な人だと思えなかったというのは、極端過ぎやしないでしょうか?共感性に問題はなく一般的な個性ですか? また、Aがここまで他人に無頓着なことに違和感を持たずに過ごしてきたのはなぜですか? 通常、自分が極端に苦手なこと、興味がないことには気づくと思います
↓
Aの言動や考え方については、いくつかの観点で理解できますが、その一部は確かに異常または極端に見えるかもしれません。
Aの考え方の極端さについて
- 「人を当たり前に見下してた」「他人はどうでも良かった」 という部分については、全く興味がない人物が取る態度として理解できます。社会的な共感や他者に対する思いやりが欠けている状態は、自己中心的な性格や共感性が欠如していることを示唆します。こうした態度はある意味で一般的な個性の範疇にあるかもしれませんが、極端に見えるのは確かです。
- 「他人が誰かの大切な人だと思えなかった」 という発言も、冷淡で他者に無関心な性格を示しています。この部分も個性の範疇であるとはいえ、他人を「大切な人」として認識できないことは、一般的には不自然に感じられるかもしれません。特に他人に関心がない人物でも、家族や親しい人に対する愛情や共感は存在するのが普通だからです。
Aが子どもを持とうと考えた理由
Aが「子どもが生まれるまでは他人が誰かの大切な人だと思えなかった」と言っている背景には、子どもを育てるという経験が他者に対する感覚を変化させた可能性があります。子どもを持つことによって「他者の存在」や「他者の感情」に対する理解が深まることはあります。特に、親になることで、他人が自分と同じように他者にとって「大切な存在」であることを実感することは、共感の感覚を変化させる要因となる場合が多いです。この部分がAの変化を説明しているのかもしれません。
しかし、それまで他人の重要性を認識しなかったことは、確かに極端に感じられる点ではあります。一般的には、子どもが生まれる前にも多少は他者の重要性を認識することが多いので、Aの過去の態度は特異なケースだと言えるでしょう。
なぜAはここまで無頓着でいられたのか?
Aがここまで無頓着だった理由については、いくつかの可能性が考えられます。
- 自己中心的な性格や価値観
Aは非常に自己中心的な性格や価値観を持っていたか、過去に他人との深い関わりを避けてきた可能性があります。自己中心的な人は、他人の感情や存在に無頓着であることが多く、自分の生活に他人の影響を最小限にしたいと考えがちです。- 過去の経験や環境
Aが過去に他人と深く関わる経験がなかった、または社会的なスキルや共感を養う機会がなかった可能性もあります。例えば、孤独だったり、家庭環境が共感を学びにくいものであったりすると、他人への無関心が続くことがあります。- 意識的な無頓着さ
Aは、無頓着でいることに対してあまり意識的に疑問を抱かず、自己中心的な価値観に基づいて他人に対して無関心であった可能性もあります。自分の考えや行動が極端だとは思わず、むしろそれが自然だと感じていたかもしれません。
共感性の問題と一般的な個性
Aが示している無関心さや他人への無頓着さは、一般的には共感性に欠けるという特徴を持っていると考えられます。人は通常、他人の感情や存在にある程度の共感を持ち、理解しようとします。Aがこの点で極端に無頓着だったことは、共感性の欠如や、他人との関わりを意識的に避けていたことが背景にあると思われます。従って、Aの行動が一般的な個性の範疇に収まるとは言い難く、むしろ特異な性格や心理的な背景があると言えるでしょう。
結論として、Aの過去の態度は極端かつ無頓着に見えますが、それがどのように変わり得たのか、またその理由について考察すると、心理的または環境的な要因が影響していることが考えられます。
ニコ動でMAD始めて動画編集に習熟してプロの映像作家になったり、YouTubeの編集請負や切り抜き動画で食っていけるようになったオタク知人はわりといるな
それと何事もセンスが無ければ他人を感心させるような作品を作るのは難しいだろうよ
でも動画編集は元無産オタクでもスキル磨きや営業で正しい方向に努力を続ければ食えるようになる感じ(黎明期・伸び盛りの時代だったという有利さはあるか)
ある日、ふと周囲を見渡すと、世の中がなんとも不可思議な装置のように感じられることがある。装置──それは生き物ではなく、人間を歯車として組み込み、回し続ける巨大なシステムだ。システムは常に成果を求め、誰もが計測可能なアウトプットを求める。声をかけてくるのは、行動経済学をよく知った巧妙な営業マンのような存在で、やんわりと「もっと頑張れ」「もっと資格を取りなさい」「もっと社会に貢献しなさい」と囁いてくる。
しかし、そうした声に合わせて踊らされるほど、私たちは疲弊する。「人間」はいつしか「成果製造装置」に還元されているかのようだ。何が悲しくて、無理やり筋肉を緊張させ、呼吸を速め、わけの分からない新しいツールや流行のスキルに追われ続けなければいけないのか。これが「社会」なのか。もはや社会とは、精神異常なまでに強制的で、我々を常に駆り立てる、巨大な指示装置になってしまったかのようだ。
奇妙なことに、その歯車たちは自らの苦しみを自明として受け入れているようにも見える。苦痛を疑問視せず、「これが普通だ」と言わんばかりの表情で、生産性向上のためのセミナーや自己啓発の指南書に群がる。彼らは、社会という名の機械の油となって働くことを強いられ、その行為を“正常”と呼ぶ。
一方で、そんな「正常」な行動原理が受け入れられない者たちがいる。社会のペースに乗れず、目的不明なランニングマシンを降りたいと思う者たちだ。全員がアウトプットしろと責め立てられるなか、インプットだけで満足し、自分の内部で静かに知識を発酵させたいと願うような人もいる。彼らはこの世界に息苦しさを感じ、巻き込まれたくないがために距離をとる。すると、周囲は言う。「あの人はおかしい」「社会不適合者だ」「精神疾患なのでは」と。
その瞬間、明らかになる事実がある。社会が「正常」と呼ぶ基準は、歪んだ標準でできている。何が美徳か、何が正解かを不気味なほど確信的に決めているシステムが、少しでも違ったリズムをもつ存在を病的な異端者として処理してしまう。その価値観がいかに偏った「精神異常」を孕んでいるか、本人たちは認めようとしない。
こうして、“まとも”な人々──つまり、自らの意志で学びたい時に学び、出力したい時に出力する、主体的なペースを大切にする人々──が、「精神疾患扱い」されてしまう不条理が生まれる。実際には彼らこそが人間的な感覚を保ち、理性やバランス感覚を持ち合わせているにもかかわらず。
もちろん、「社会を変えよう」と躍起になることは、別の苦痛を生む。社会装置は巨大で、簡単には方向を変えない。ではどうするか。彼らは社会の強制に巻き込まれないよう、自分で生存圏を確保し、好きなときに好きなことを学び、必要なときだけ少量のアウトプットで最低限の関係性を維持していく。たとえ「精神疾患扱い」されようとも、そのレッテルに価値を与えなければよい。彼らは静かな反抗の中で、自分の精神世界を豊かにし、社会の狂った価値観から距離をとるのだ。
不条理な世界で、「まともな我々」ができるのは、狂気を狂気と見抜き、自分なりの生き方を守ること。つまり、偽りの正常性を求める精神異常強制圧力社会に膝を屈せず、内側で燃える知的好奇心や創造的エネルギーを、ほんの少し外に漏らす程度で満たす戦略を取ることだ。結果として、その小さな自由と抵抗こそが、彼らの心を健やかなバランスに保っている。