はてなキーワード: カバンとは
たとえば
>体を触られた
だと「性的な意図をもって触れたと見なされる」場合に痴漢になる
満員電車で押し込まれて接触してしまった場合、「股間を指でなぞりあげる」みたいな触り方にはならんだろ
>体を密着された
>髪を触られた
>息を吹きかけられた
このへんもそう
他に席が空いているのに満員電車みたいに密着されましたとか、
髪を触る手に体液ついてましたとか、
うなじに向かってふーっと息を吹きかけられました耳元でクンクン音を立てながら匂いをかがれましたとか
防犯情報でたまに見かける「中年男性が『下校中の小学生に気を付けてね!と言った』だけという、まともな人間なのにおじさんというだけで不審者扱い」で沸くことあるが
これ実際には警戒される要素となった情報をあえて伏せているらしい
被害者の特定を防ぐため、二次加害を避けるためもあり、実際には
「ひわいな動きをしながら女子児童にだけ気を付けてね!と言った」
みたいな内容だった「」sるう
どうせ買うならフル装備でいきたいよな
とりあえず予算まとめるか
・iPhone 16 Pro Max(1TB)……249,800円
・AppleCare+(盗難・紛失プラン)……34,800円
・MagSafe充電器……6,800円
・Belkin 3-in-1 MagSafe充電スタンド(iPhone・Apple Watch・AirPods用)……19,800円
・モバイルバッテリー(MagSafe対応・Anker製)……12,000円
・USB-C to USB-Cケーブル(2m)……4,500円
・AirPods Max(スペースブラック)……84,800円
・MagSafe対応レザーケース(高級モデル)……12,800円
・Spigen製耐衝撃ケース(アウトドア用)……7,000円
・iCloud+(12TBプラン・月額9,000円×12ヶ月)……108,000円
・Apple One(月額1,200円×12ヶ月)……14,400円
・Apple Watch Ultra 2……128,800円
・Apple Vision Pro(iPhoneとの相性最高らしい)……599,800円
・AirTag(4個セット・カバンや財布に入れる)……14,800円
・Apple信者になるためのセミナー参加費……30,000円
👉 1,397,800円
無理ゲーすぎる
俺はiPhoneを諦めた
以前、リュック前抱えがマナー違反というか自己中というか、スマホ中毒あぶり出しツールとなっているという記事があったが、
で、まともなリーマンはリュックで通勤していても手に持って膝のあたりに持つよね。
今は満員電車に乗るマナーすら勉強してこない田舎者がリュックを前に抱えて
背負ってはいませんよ~というドヤ顔でスマホポチポチしているわけだが
これによって明らかに乗車率というのか混雑率というのか分からんが減っているように感じる
いや、圧迫感は変わらないんだけどね?
ということを先日起きた大規模な遅延によって発生した満員電車の中で考えていた。
大規模に遅延すると途中の駅の人間は全然乗れなくて無理やり乗ろうとして
ドアが何度も何度も開いたり閉じたりするじゃん。
インドみたいにぶら下がれないし
そんな中でも前抱えドヤ顔スマホポチポチマンは涼しい顔してポチポチしているわけ、必死になって。
ここ数日例のCMを取り巻く出来事に悶々とする日々が続いていたので、自分の考えを整理したいと思う。
これによって何か大きな動きを作りたいという意図は全くないし本意ではないが、「そんな考えもあるのか」程度に捉えてもらえたら幸いだなと思い、ネットに放流することにした。
まず、私があのCMを初めて見たのはネットで変に話題になる前にテレビ放送されていたものだった。(このCMのオフィシャル情報を追っていないのでよくわからないが、web版のみであると言及している人を結構見かけた。しかし私はテレビCMで目撃している…)
その時の率直な印象は「なんか気持ち悪いCMだな…」というものだったけど、だから放送を取り止めろだなんて思わないし、様々な理由から個人的に好きになれないものなんてたくさんある(個人的に異常に好きなものがあることと同じだと思っている)ので気にもしていなかった。
その数日後、X上でこのCMに対しての批判的意見を見かけ、特にアクションを起こしたいわけでもない私は(同じ意見の人そこそこいるんだ〜)と軽い気持ちでそれを眺めていたが、その後それに同調する人とそれに反発する人が続々と現れ、Xは大騒ぎになってしまった。
これは何度でも言うが、私はこのCMが好きではないにせよ取り止めて欲しいとは全く思っていない。
しかしこのCMが好きではない人が数字で見れば無視できない程度にいるにも関わらず、大挙して「このCMを受け入れられないのはおかしい」という指摘が相次いだことに居心地の悪さを感じてしまった。
ただただ個人的に、(私のこの気持ちはそんなにおかしな感覚なのか?)と暗澹たる思いが湧いてしまった。
そこでなぜ私はこのCMに気持ち悪さを感じたのか、改めて考えてみようと思った。
X上では概ね、表現が性的に捉えられた結果批判されているということになっているが、私個人の感覚として何が不愉快だったのか向き合ってみることにした。
まず第一に私は何かを性的に描くこと自体に特に反発心はない。ただ、エッチなものを見るときは「エッチなものを見る」という気持ちを作っておきたい派。無条件で視界に入ることにはゲンナリしてしまう。
じゃああのCMがエッチに描かれていたかというと個人的には微妙なラインだが、少なくとも主人公の女の子をとてもかわいいものとして描こうという気概が溢れていたように思う。
これはこれまでの人生経験による感覚だが、人間に向けられた「かわいい」という言葉が性的関心とリンクしないと考えることは私にとっては難しい。
なので私は人間をかわいく描くことは性的に魅力的に描くことと近く捉えてしまう。
それ自体を否定する気持ちは全くないし、私もそうやって生み出されたものを見て魅力を感じたことが何度もある。
それは「かわいく描こうとするあまり行動に整合性が取れていなかったから」では、と思った。
涙目の姿がかわいい、漏れ出る声がかわいい、こんな仕草がかわいい、それを描くことに注力したがために「なぜそれをする状態になったのか」の説得力があまりにもなかったように思う。
テレビを見て感動し、それによって泣いている。
そしてうどんを食べるが、うどんに対して別の大きな感情を抱いているのかと思うほど「美味しい」のセリフが意味深。
「んしょ」と言っているが、その音が漏れるような動作をしているように見えない…。
つまり、「描きたいもの」を描くための理由付けが甘いように思えたのだ。
ここまで杜撰な作劇を見せられると、最早主題とはあまり関係のない部分、散々言われている背景の作りだとか、なぜテレビを見ているのにテーブルにある眼鏡をかけないのかだとか、なぜ自宅でひとりまったりムードなのにベルトをしているのかだとか、なぜ泣きながら見ていたテレビのチャンネルを変えるのかだとか、細かな作りの雑さが気になり作品自体への信頼度が落ちてしまう。
何もかもに意味を持たせてほしいとは言わないが、あまりにも意味のない、いい加減な表現が多すぎる。
当然初見時にここまでのことを感じたわけではなかったが、徹底的な作りの雑さによって全てがバラバラになった結果、女の子の存在が浮いてしまい、ただかわいく見せるための装置に成り果てて見えてしまったのではないかと考えた。
フィクションに涙を流し、それはそれとしてうどんの美味しさに感動しているという、あまり繋がりを感じない流れではなく、実際に悲しい出来事があって、うどんの美味しさに感動しほっとするという流れとかではだめだったのか。
本来作り手の意図が多分に込められているであろう本筋にいちゃもんを付けるなんてことはしたくないのに、細かな部分のいい加減さも相まってそこにすら疑問が湧いてきてしまう。
今回制作会社がクリエイターを守る声明を出していたが、多くの人手が加わっているであろうこの企画において強い決裁権を持っていたのは制作会社だと思うから、なんて頼もしい会社だろうと心から思った。
しかしプロの仕事としてこの作品を世に出した感覚はちょっとわからない。
作品を受け取る側の意見は「そんなこと気にしないよ」と思う人も多いと思うが、クリエイターのプライドとしてこんなにいい加減で問題はないのか、と思ってしまう。
「自分はかわいい女の子を描くことにしか関心がない!」という考えだったとしても、ひとりで作っているわけではないんだから、どうすればかわいい女の子をもっと素敵に描けるのか、周囲の人間は考えられることがあったのではないだろうか。
大作アニメ映画にも作り手の性癖はしばしば込められているが、その周囲の作りがとても丁寧だから敏感な人以外はそれに気づかない。今回のCMはそれらに比べると不快感を感じる人が多かったように思う。
今回のことをきっかけにX上で「斜めがけのカバンをかけているだけでいやらしいと言われる」だとか、「棒状のものを食べているだけでいやらしいと言われる」などの経験談が語られていた。
このふたつに関しては私も経験があり、当然不愉快な思いをしたため、そのあたりがエロいものへの過剰な忌避感に繋がっているのだろうかと思い、このCMを不愉快に感じた部分を真剣に考えてみたが、結果として単純に作品の仕上がりがあまり良くなかったから歪に見えたというだけの話では、と思った。
今は技術的にも環境的にも個人で大きな作品を扱える世の中だけど、どうか改めて多くの人が関わって何かを作ることの意味を考えて欲しい。
そして作品を受け取る側は、いろんな意見の人間がいることを受け入れて欲しい。
今の世の中はインターネットの存在により、世界中の価値観を一色に染めようとする方向に動いているように感じるが、私はどこまで受け入れどこまで拒否するかは各々のものさしで良いと思っている。
世界を自分の理想で染め上げたいならそういった活動をすればいいし、私のように自分に影響が及ぶ範囲が不愉快でなければ良いと思うならインターネットの意見に感情を揺さぶられる必要はないのだ。
自分が攻撃されていると感じたとしても、所詮ちらしの裏の落書きで、本来大した意味を持たないものなんだ。だから気にせず自分自身の生活と現実の環境を大切にしたい。今回インターネットの意見を見て多少なりとも気落ちしてしまった自分自身への戒めも込めて。
《追記》
優しいコメントありがたいよー
リプライ?みたいなの未だなわからないからここに書きます。変えがきかないフリーの仕事だから自分が死なない限り放棄はできない、それは昔からの覚悟してたけど、今回大きく現実を突きつけられたよ。
今検査終わったみたいで、検査終わるまでは危篤っぽい事は言われていなかったからすぐ回復すると思っていたのに思ったより重症らしくて本当にしんどい。今は少し言葉は喋れますよーだって、今はって?しんどい、
タイミング悪くて出張中で面倒見れない状況わからなくてしんどい。
ほんと死んじゃったらどうしよう、そうじゃなくても色々どうしようと思い詰めている。気が張り詰めて緩んで張り詰めて緩んで、涙が止まったり出たり、。
本当にママに依存していたから、ママいなくなったらミオ48(だっけ?)になっちゃう。それもしんどい。
つらい。
今年に入ってパソコンも財布もポーチもなんならカバンも壊れて、備品も壊して「ものが壊れるのは新しい風が入るいい予感だよ」なんて言うけど、ママが壊れるのは話が違うしどーゆこと?だしつらい。
anond:20250208201158 を書いた増田です。
ブコメに「守備範囲外になってるんだったら寂しくね?」と書かれていて、いや、何も寂しくないですが…もしかして男性に声をかけられるのが嬉しいことだと思ってる?見えてる世界が違う?と不思議に思った。
というわけで別に不審者とまではいかないけどナンパとかにしてはやな感じだったな〜という人々も書いてみる。
大体22歳以降の都会に住んでた時期に多かった。
書いていたら高校生時代にも声をかけられたことを思い出したのでそれも書く。
高校2年生の時、同年代のフォロワーとオフ会をすることになった。
電車で最寄りの都会である名古屋に行き、銀時計下でフォロワーを待っていた。
お手本のようなオタクの女子高生で、どこからどう見ても大人びてはおらずどう考えても未成年なのだが
「お茶でもどうですか?」
とおじさんに話しかけられた。
何?お茶?なんで?と思った(前回のブログでも警戒心がないとお叱りを受けたが、本当に警戒心のないガキである)。
「人と待ち合わせしてるので無理です」
と言ったらいなくなったので、前回書いた人たちよりかなりマシだった。
でも書いてて思ったけど、めっちゃ垢抜けて大人っぽい子に成人と間違えて声かけちゃったならともかく、どう見ても未成年の垢抜けない女の子に声かけるのってめちゃくちゃ不審者だよね。
銀時計エリアって割と警官とかうろうろしてるのによく話しかけてきたな…。
ツイートしたら成人済みフォロワーがずいぶん怒り狂ってて、なんかお姉さんたちめっちゃ怒ってるけどなんでだろ〜と思ったことも思い出した。そりゃ怒るわ。
別に怖!とも思わず、変なの〜と思って終わっていたのでこれを書いてなかったら思い出さなかったかも。正直全然覚えてないし過去の自分のツイートに感謝…。
転職して都会に転勤してしばらくした頃だった。
給料も前職時代より上がったし都会には店舗があるので思い切ってビジュー付きのRANDAのパンプスを買い、高くて素敵な靴買っちゃった🎶ルンルン🎶と歩いていたところ
「靴キラキラですね」
としばらく並走してきた男性がいた。
都会に引っ越す頃にはちゃんと化粧も覚えて不審者に付き纏われていた頃ほど芋臭くなくなったのだが、その分ナンパ(しつこくはない)が増え、この手合いはガン無視に限ると学んでいた。
そういうわけで見向きもせずガン無視していたらいなくなった。
見てないので年齢とかはわからない。靴!?と思ったので印象に残っている。
転勤先の近隣に住むフォロワーとオフ会してちょっと帰りが遅くなった日だった。
遅くなったと言っても21時頃なので全然終電よりも早いくらいである。
最寄り駅を出たところで後ろから声をかけられた。
「あの、すみません…」
あまりにも恐る恐る…という声音だったので、私落とし物でもしたのかなと思い、「はい」と振り返った。
が、モジモジしていて何も言わない。1分くらい待っても何も言わない。
髪を染めていたのでおそらく高校生以上だと思うのだけども、めちゃくちゃ若そうだった。大学生なりたてとか?
当時金髪で、服装も厚底!レザー!プラチナ期の金髪ショートの高橋愛に寄せるぞ!という、とにかく強いんだぞ!という装いだったので、もしかして落とし物拾ったけど怖くて何も言えないのかな…と不安になった。
「あの…なんですか?」
「………やっぱりいいです………」
なるべく優しく声をかけたが、そのまま私の家とは逆方向にすごすごといなくなった。
一応カバンの中身を確認したら特に何も落としてなかったので、彼が何をしたかったのかは謎である。
落とし物じゃなければナンパかなあ…と思うがそれにしてはあまりにも弱すぎる。(今まで遭遇した不審者たちのメンタルが強いだけと言われたらそう)
夜道で声かけないほうがいいよって言ってあげたほうがよかったかも。
最寄り駅ということもあって、本屋逃走中男みたいにあとつけられてたら困るし、途中コンビニに寄って後ろに誰もいないことを確認してから帰った。
転勤先のターミナル駅にはスケッチブックやチラシを持って宣伝するYoutuberが時々いて、特に珍しい存在ではなかった。
ほ〜やっぱ都会は違うね〜と思いつつも、興味がないので毎度通り過ぎていた。
ターミナル駅周辺で用事があったので出掛けて用事を済ませて、帰ろうと駅の入り口に向かっていると4〜6人くらいの男性に囲まれた。
音楽を聴いていたので何を言っているかはわからなかったけど、手にスケッチブックを持っている人がいたので、多分Youtuberか何かだと思う。
私はかなり小柄で、150センチくらいだ。
そのサイズ感で男性に囲まれるとほぼ壁に囲まれているようなもので、めちゃくちゃ怖い。
めちゃくちゃ下を向いて聞いてません見えてませんという姿勢を貫き歩き続けていたらそのうち散った。
Youtuberだったら名前確認して炎上でもさせてやればよかったな〜と今は思う。
普通の「お姉さん可愛いですね!」「ご飯行きませんか!」系は省いているけど、本当に、ただちょっと出歩きたいだけなのに声をかけられるのはシンプルに迷惑である。
居酒屋のキャッチに声をかけられたら嬉しいんですか?嬉しくないですよね?それと一緒です、という気持ち。
新卒で入った会社で同期と一緒にいたら話したことないデリカシーのないおじさんに
「増田さんだよね?新卒で1番可愛いから顔覚えちゃった!他の子は…何さんだっけ(笑)」
と言われて同期と壁が出来てあんまり仲良くなれなかったこともある。自分がコミュ障なのはもちろんあるけど。
ものすごく真面目に引きこもって家で映画見てアニメ見て本読んで暮らしているので男の人に奢ってもらって云々したこともほとんどない。会社の飲み会くらい。
なので男の人に声をかけられなくなったとて何も寂しいことはないし、きっと今より生きやすくなるんだろうなあと思っている。
大丸有(だいまるゆう) → 東京都千代田区の町名である大手町~丸の内~有楽町の総称
谷根千(やねせん) → 文京区東端から台東区西端一帯の谷中~根津~千駄木周辺地区を指す総称
国立(くにたち) → 国分寺~立川の間に、西武がゲッティンゲンをモデルにした学園都市を構想し、国立駅をつくり、一橋大(こくりつ大学だね)を誘致した。国立音大(くにたちおんだい)はよく間違えられるが私立大
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ) → 甲斐国~武蔵国~信濃国の三国国境
三遠ネオフェニックス(バスケチーム。旧浜松・東三河フェニックス) → 三河国~遠江国
因伯牛(いんはくぎゅう)、因伯人(いんぱくと、地酒のジン) → 因幡国~伯耆国。インパクト狙いで草
ユーラシア大陸(Eurasia) → Europa ~ Asia
ベネルクス三国(Benelux) → Belgium ~ the Netherlands ~ Luxembourg
パキスタン(Pakistan) → ウルドゥー語とペルシア語の 「清浄な」を意味するپاک(パーク)+接尾語ـستان (スターン)で「清浄な国」の意。しかし元々はイギリス領インドのうちイスラム教徒が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者チョウドリー・ラフマト・アリーが、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州に住むアフガン人のA、カシミールのK、シンドのS、バロチスタンのTANから前述の意となる「Pakstan」として総称し、後に発音しやすくするため「i」が加えられてPakistanとなったもの。『パキスタン宣言』は1933年の小冊子
アトラントローパ構想(Atlantropa) → Atlantis ~ Europa。ジブラルタル海峡やボスポラス海峡に巨大なダムを建設して、地中海の海面を200メートル下げ、アドリア海などを陸地化して新たに広大な土地を得つつ、ダムで水力発電を行って莫大な電力を得るという1920年代ドイツの構想あるいはその運動。ロマンの怪物
ユーラフリカ(Eurafrica) → Europa ~ Africa。アトラントローパ構想の現実主義的後継
ブダペスト(Budapest)→ Buda ~ Pest、ハンガリーの首都で双子都市
メヒカリ(Mexicali)/ カレクシコ(Calexico)→ メキシコ・アメリカ(カリフォルニア州)国境の双子都市。当然メヒカリのが大きい。同じ国境の双子都市でも、観光地感あるティファナと異なり、ヒリヒリした独特の雰囲気ある
アークラテクス(Arklatex, Ark-La-Tex)→ アーカンソー州、ルイジアナ州、テキサス州が接し、場合によってオクラホマ州南端も含む州境都市圏
テクサーカナ(Texarkana)→ アークラテクス都市圏のひとつ。文字通りテキサス ~ アーカンソーの2州に跨る双子都市。Texarkana, Texas と Texarkana, Arkansas に分けられるが、テクサーカナ連邦政府ビルは州境に跨って建ってる
シャンバナ(Chambana)→ イリノイ州の双子都市シャンペーン(Champaign)~ アーバナ(Urbana)に跨る都市圏の俗称。工学系の名門、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校が有名
カリストガ(Calistoga)→ California+Saratoga。双子都市ではない。カリフォルニア州に、ニューヨーク州の高級保養地サラトガスプリングスみたいな温泉リゾート都市を作ってやるぜ!で誕生。「カリフォルニアのサラトガ」を「サラフォルニアのカリストガ」と言い間違えて定着した説もある
別々の街道や鉄道が接続する物流拠点として、主として国境・州境に形成された都市群。
例えばコンゴ民主共和国(旧ベルギー領)の首都キンシャサと、コンゴ共和国(旧フランス領)の首都ブラザヴィル。
北米大陸では特に例が多く、名前もシルエイティ/ワンビアみたいなニコイチ感あふれがち。
逆に係争地の場合、国境で半年ごと交互にスペイン/フランス領に変わるフェザン島(銀英伝のフェザーンの元ネタ)や朝鮮半島38度線のように、立ち入り禁止で無人となる。
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https://uub.jp/nam/gousei.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%AD%90%E9%83%BD%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%B0%E3%82%93%E8%AA%9E
https://en.wikipedia.org/wiki/Blend_word
日本語は特にカバン語が多く、合成地名よりも東大 (Tōdai), Pokémon, karaoke, ヘタリア(Hetalia)などが例として挙げられている。
セルフレジが普及して久しい。
大きいスーパーとかだと、スマホみたいな端末を入口で借りて、ユーザーが店内回り中に自分でバーコードを端末でスキャンしながらカゴに入れて、最後にレジでお金を払うだけのやつがある。
あんまりレジで並ばずに済みそうだから試してみたんだけど。似た商品をたくさん買う日で、全品スキャナ通したか自信がなくなってきてなんだか不安になった。
前にファミマのセルフレジで、もうスキャンした商品を2回スキャンして精算してたことに帰宅してそれ食べちゃってから気がついたりとかあったし(お店は儲かっちゃうように見えるけど、多分レジ締めのときに清算が合わなくて困ったはず)。
逆に払い忘れそうになったこともあった。すぐ気がついて追加精算したから万引きにならなくてよかったけど。
セルフレジって、スーパー側の人件費削減以外にも、ユーザーにもメリットがあってさ。
レシートを分けなきゃいけないときの個別精算がしやすい(自分用と他の人用とか、2回に分けて精算すればいい)。
人に見られたくないような商品が買いやすい(大人なのに駄菓子を買う時とか、女性なら生理用品とかかなぁ)。
……とかとかあると思うけど、怖いのはやっぱり意図してない精算ミス。不注意と言えばそうなんだけどね。
スキャン漏れに注意する他に、自分のスマホに買い物メモ作ってきたから2台持ちになって大変だったのと、スキャンするたびに立ち止まらなきゃいけないから逆に時間がかかる……などのデメリットはあったけど。
買い物の最中に精算してくれるから予算オーバーを防げる、これは大きかったな。
同じものを3個買うとかは何度もスキャンしなくても数値入力できたし。
ただ。やっぱり、荷物がもともと多い日は無理だと思う。カバン一つの日でもあれをやるにはカートが必須。端末を置く台付のカートもあったけど、それに気がついたのは店を出てからだった。
自分のスマホにアプリを入れるタイプのセルフレジもあるみたい。あの時は電池厳しいからインストールしなかったけど。
有人レジよりセルフレジの方が慣れたら気分的に楽だったけど、スマホレジはちょっとまだ自信無いな。
商品を取って店を出るだけで精算まで終わるシステムがあるらしいけど、自分なら不安になりそう。面白そうだけど大丈夫かなってなるなぁ。
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality of Life、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須の Permalink | 記事への反応(0) | 21:00
私の子どもの頃の話ですが、受験に挑戦したことで大きな挫折を味わい、その後の立ち直りにとても苦労しました。
試験に対する苦手意識がついてしまい、それを克服するのが本当に大変だったんです。
人生観も悪い方向に歪んでしまいましたね。率直に、クソみたいな学生でした。
今でも日能研のポスターやカバンを見るたびにネガティブな気分になりますね。
だからこそ、子ども自身が本当に望んでいるのか、慎重に確認することが大切だと思います。子どもは親の期待に応えようとするものですが、それが本心とは限りません。
できれば、おじいちゃんやおばあちゃん、信頼できる親戚や大人に「本当に受験したいの?」と親がいないときに聞いてもらうのもいいかもしれませんね。
もし受験するなら、夜9時に寝て朝7時に起きても合格できる学校を選ぶ方が、子どもの健康にも心にも優しいと思います。
私の周りには、第一志望に行けなかったことが原因で引きこもりになってしまった同じ塾の男の子が二人いました。
それから、「良い大学へ行って、良い会社へ」なんて考えている親御さんへ。
なんとはなしに奴らの登下校を見てた小3の俺はこのランドセルって物体はどんだけダセェ代物なんだよってミジメな気になってきた
ランドセルといえば男女別の色に違和感があったみたいなエピソードよく聞くけどふーんそうなんだってかそこなんだ?あの直方体のほうに引っかかりを覚えなかったんだ?って毎回思うわ
なんかどう考えてもなんていうかロボじゃん。勉学ロボみたいな。
大人になってファッション逆張り目的以外で誰一人使用してないことからも機能面でなんも利点ないのは明らか。
まあdisはこれくらいにして本題に戻るけど
どうしてもランドセルは無理ってなってとりあえず肩掛けのやつは家に親のがあったから明日からコレでいくわって親に言ったら
親が家族会議しだして認める方向でまとまったんだけど。
そこで
「ランドセル買えない貧乏人と思われる危険性あるかもな」みたいなことをボソっと言ってたのよな。
えっ?そういう視点もあるの?って目からウロコだったよねおれは。
ふーん貧乏人と思われるのか・・・んじゃやめとくか・・・みたいな逡巡も確かに一瞬あったが
そうはいえどもこのダセェ代物を背負って通学路を練り歩くことへの忌避感のほうが最終的に競り勝った
それによく考えたら5,6年生も数名ランドセルじゃないやつ(リュックサック)いたしあんま気にしなくていいんじゃないかみたいなことを言ったら
まあそうだろなーって話になって結局バッグで登校できることになった。
結局その後バッグで登校を続けたけど終始一貫してそんなシケたもん背負ってられっかみたいな態度を取っていたらだんだんバッグ登校者が増えてきた
まあランドセルじゃないとダメですみたいな教師もいなかったし(これは本当に貧乏で買えない可能性もあるから指摘できなかったのかもしれない)
ランドセルの耐久力的に高学年はキビシイのもあって俺の行動にかかわらずランドセル脱落者は普通に発生してたんだと思う。
まあ何が言いたいかというとランドセルからバッグに変えてもなにも起きなかったということ。
そして機能性・利便性などの違いについて、果たしてバッグのほうが優れていたのかどうかだが、それは正直まったく覚えていない。
俺が覚えていないことこそが違いを気にしなくてもいい証左だろう。
俺が覚えているのは親がボソっと発したあのランドセルないと貧乏人と思われるというつぶやきのほうで、
そこから広がっていく地域世界の狭さのスケールみたいなものを初めて意識した記憶と、それを気にしすぎるのもよくないという教訓。
https://anond.hatelabo.jp/20250128154514
Apple Watchをありがたがっている奴らは、一体何を考えているのか。60,000円も払って、毎日充電しなければ動かない「欠陥品」を有難がるとか、もはやカルトの域に達している。時計の本分は「いつでも時間を確認できること」だ。それが、充電を忘れたらただの金属の塊になるような代物を、なぜそんなに持ち上げるのか?
カシオの腕時計なら1,500円で5~7年バッテリー交換不要。時間を知りたければ腕を上げるだけで済む。それに対してApple Watchは、「バッテリーの持ちが…」「健康管理が…」「iPhoneと連携が…」と苦しい言い訳を並べ立てるしかない。だが、それらの言い訳はことごとく破綻している。
信者たちは「18時間というのは理論値で、実際にはもっと持つ!」と必死に擁護するが、根本的に論点がズレている。カシオの腕時計をつけている人間は、バッテリー残量なんて考えもしない。なぜなら、そんなことを気にする必要がないからだ。
「思ったよりバッテリーが持つ」などと誤魔化しても、Apple Watchは毎日充電しなければならない時点で論外。うっかり充電を忘れたら、翌日には腕にゴミを巻いていることになる。時計としての最低限の機能すら満たしていないものに60,000円払うのは、もはや狂気の沙汰である。
「毎日の充電なんて大した手間じゃない」「入浴中に充電すれば問題ない」と信者たちは言う。だが、そもそも充電を意識しなければならない時点で、時計として終わっている。
カシオの時計をつけている人間は、朝起きて腕を見れば時間がわかる。Apple Watchユーザーは、まず「昨日ちゃんと充電したか?」を確認しなければならない。この時点で、Apple Watchは「時計」ではなく「毎日世話をしないといけない電子ペット」になっている。そんな手間のかかる時計をありがたがるとか、もはや時計の概念を破壊する行為でしかない。
「Apple Watchは健康管理機能があるから、単なる時計ではない!」とドヤ顔で語る者がいるが、時計にそんな機能を求めている人間がどれだけいるのか?
本気で健康を管理したいなら、Apple Watchよりも精度の高い専用の医療機器を使うべきだろう。心拍数を測りたい? 数千円で買えるフィットネストラッカーのほうがコスパがいい。転倒検知が必要? そんなに転ぶなら病院行け。
結局、健康機能をありがたがっているのは「機能があるから何となく便利そう」という薄っぺらい思考の人間だけだ。大半のApple Watchユーザーは、「今日は○○歩歩きました!」とSNSに投稿するくらいで、結局のところ自己満足のオモチャにしかなっていない。
「Apple WatchはiPhoneと連携して、通知を手首で確認できる!」とかいう謎の利点を挙げる者がいるが、そもそもスマホがポケットやカバンに入っているなら、それを取り出せば済む話では?
ポケットに手を突っ込む動作を省くために60,000円払うとか、冷静に考えればバカバカしすぎる。しかも、その通知機能も結局はiPhoneがないと成り立たないわけで、つまりApple Watch単体では何もできない。カシオの腕時計は単体で100%の性能を発揮するが、Apple WatchはiPhoneがなければ半分の価値もない。
60,000円の時計が「スマホのアクセサリー」としてしか機能しない時点で、完全に負けている。
「Apple Watchはデザインが洗練されていて高級感がある!」と誇らしげに語る奴もいるが、その「高級品」も数年で型落ちになり、買い替えを迫られる。
機械式時計なら何十年も使えるし、ブランド時計なら資産価値もある。でも、Apple Watchは毎年のように新型が出て、古いモデルはあっという間に「過去の遺物」と化す。数年で買い替えが必要なものを「高級品」と呼ぶのは、さすがに無理があるだろう。
しかもバッテリーが劣化したら交換も容易ではなく、新モデルを買う羽目になる。つまり、Apple Watchは「短期間で買い替えが必要な消耗品」に過ぎない。そんなものに60,000円払うのは、ただの浪費でしかない。
結局のところ、Apple Watch信者の言い訳は、すべて「不便を受け入れるための自己暗示」に過ぎない。
本当に価値がある時計とは、充電を気にせず、腕を上げるだけで時間がわかるものだ。その点で、Apple Watchは圧倒的に劣っている。充電を怠ればただの文鎮と化す時点で、時計としての最低限の条件すら満たしていない。
一方、カシオの腕時計は1,500円で5年以上持ち、時間を見るという本来の役割を完璧に果たす。Apple Watch信者は、毎日充電の手間を増やしながら「自分は最先端のライフスタイルを送っている」と勘違いしているが、実態は「金を払って不便を買っている」だけの哀れな存在だ。
60,000円でApple Watchを買う奴は、「最も無駄な金の使い方をしている愚か者」である。