はてなキーワード: プラスとは
スマートフォンを手に取るたびに、起動していたあのゲームアプリ。毎日の日課としてログインし、イベントに心躍らせ、時には財布の紐を緩めて課金もした。数年間、私の生活の一部だったソーシャルゲーム(以下、ソシャゲ)を、ついに辞めた。この文章では、私が長年続けてきたソシャゲを辞めた理由、辞めるまでの葛藤、そして辞めた後の変化について、赤裸々に綴っていきたい。
私がそのソシャゲに出会ったのは、今から遡ること約5年前。当時、仕事で大きなプロジェクトを終え、心身ともに疲弊していた私は、何か手軽に楽しめるものを探していた。そんな時、友人に勧められたのが、そのソシャゲだった。ファンタジー世界を舞台にした、キャラクター育成とバトルがメインのゲームで、個性豊かなキャラクターたち、美麗なグラフィック、そして奥深いストーリーに、私はすぐに魅了された。
最初は暇つぶしのつもりだった。しかし、ゲームを進めていくうちに、次第にのめり込んでいった。毎日ログインしてクエストをこなし、キャラクターを育成し、他のプレイヤーと協力して強敵に挑む。ゲーム内のコミュニティで他のプレイヤーと交流するのも、日々の楽しみの一つだった。いつしか、ゲームのことは常に頭の片隅にあるようになり、通勤時間や休憩時間、寝る前のひとときなど、あらゆる隙間時間をゲームに費やすようになった。
熱中が生んだ変化
ソシャゲに熱中するにつれて、私の生活にはいくつかの変化が現れた。
時間の使い方: 自由時間のほとんどをゲームに費やすようになった。以前は読書や映画鑑賞など、他の趣味にも時間を使っていたが、それらは徐々に後回しになっていった。
お金の使い方: 好きなキャラクターの限定ガチャや、イベントを有利に進めるためのアイテム購入など、月に数千円から多い時には数万円を課金するようになった。
人間関係: ゲーム内のコミュニティとの交流は深まったが、現実世界の友人との交流は減ってしまった。オフラインでの集まりに参加する機会も減り、連絡を取る頻度も少なくなっていった。
体調: 長時間スマホを操作することが増えたため、視力の低下や肩こり、睡眠不足などを感じるようになった。
これらの変化に気づきながらも、「ゲームをやめよう」という決断には至らなかった。ゲーム内のコミュニティとの繋がり、キャラクター育成の達成感、イベントへの期待感などが、私をゲームに繋ぎ止めていた。
私がソシャゲを辞めることを意識し始めたのは、ある大きな出来事がきっかけだった。それは、ゲーム内で長年親しくしていたプレイヤーが、突然ゲームを引退したことだった。そのプレイヤーは、私にとってゲーム内の大切な友人であり、一緒に強敵に挑んだり、イベントについて語り合ったりする、かけがえのない存在だった。そのプレイヤーがいなくなったことで、私はゲームに対するモチベーションを大きく失ってしまった。
しかし、それでもすぐにゲームをやめることはできなかった。長年積み重ねてきたデータ、課金してきたお金、そして何よりも、ゲーム内で築いてきた人間関係が、私を躊躇させた。まるで長年連れ添った恋人と別れるかのような、複雑な感情が入り混じっていた。
「今やめたら、これまで費やしてきた時間とお金が無駄になるのではないか」「ゲーム内の友人たちとの繋がりが途切れてしまうのではないか」という不安が、私を何度も引き留めた。しかし、同時に「このままゲームに時間を費やし続けるのは、自分の人生にとって本当にプラスなのだろうか」という疑問も、日に増しに大きくなっていった。
決断、そして変化
数ヶ月間の葛藤を経て、私はついにゲームをアンインストールすることを決意した。最後のログインをした時、ゲーム内の友人たちに別れを告げた。多くの友人たちが、私の決断を惜しんでくれたが、同時に応援もしてくれた。
ゲームを辞めた直後は、ぽっかりと心に穴が空いたような感覚だった。毎日欠かさず行っていた日課がなくなり、自由な時間が大幅に増えた。その時間をどう使えばいいのか、最初は戸惑った。
時間の有効活用: 増えた時間を使って、以前から興味があったプログラミングの勉強を始めた。また、読書や映画鑑賞など、他の趣味も再び楽しめるようになった。
お金の有効活用: ゲームに課金していたお金を貯蓄に回せるようになった。将来のための資金を貯めることができるようになり、精神的にも安定した。
人間関係の再構築: 現実世界の友人との交流を積極的に行うようになった。以前は断っていたオフラインの集まりにも参加するようになり、友人たちとの絆を再び深めることができた。
体調の改善: スマホを操作する時間が減ったため、視力の低下や肩こり、睡眠不足などの症状も改善された。
最後に
長年続けてきたソシャゲを辞めることは、私にとって大きな決断だった。辞めるまでは様々な葛藤があったが、今振り返ってみると、辞めて本当に良かったと思っている。ゲームに費やしていた時間を、自分の成長や大切な人との時間に使えるようになったことは、私にとって大きなプラスだ。
もし今、長年続けているソシャゲをやめようか悩んでいる人がいるなら、この記事が少しでも参考になれば幸いだ。大切なのは、自分が本当に何をしたいのか、何が大切なのかを考えること。そして、勇気を持って一歩踏み出すことだ。
ゲームは楽しい娯楽の一つだが、それが自分の生活を支配してしまうのは本末転倒だ。自分にとって最適な距離感で、ゲームと付き合っていくことが大切だと、私は今回の経験を通して学んだ。
他の会社がとらないような難のある技術者でも優秀だったら採用して、なんとかマネジメントノウハウで解決しようと模索実力があるのに、使いこなしさえできれば会社にとって絶対に必要な人材なのにつまらないことで飼い殺しにされたり、やめさせられたりする人間がいる。それはなくそう。公平に実力を判断奇人、変人だろうとそれがプラスになるなら評価する。マイナスになるなら、実力がそれを打ち消さなければあたりまえで見捨てる
ある資格は取った。
仕事上の惰性で取れたとも言える。
多分その上の資格だって取ろうとすれば取れる。必要なのはちゃんとした勉強だけ。
それが一番むずいか。
また、それ以外の分野の国家資格も取るべきか悩んでいる。
遠いようで普通に持っていたら助かりそうな資格、そんなのを取ろうとしている。
でも、今になって、何故?
昔FLASHで楽しんでた頃はこんなこと考えてはなかったのに。
別にその程度の資格取ってから生きてた方が年収的にもプラスになったのに。
多分、原因は謎の焦りだ。
このまま独身で生きていくという焦りは当然あるが、何者でもないという焦りは常に自分の心の片隅にある。
一番の自己主張をしてステージの上で発狂してしまえばその焦燥感も消えて心の中で「お前は唯一無二だぜ!」と叫ぶ俺が生まれるのだろうけど、それをする予定もない。
国家資格を取って、「あ、俺その資格持ってるっスよ」でお茶を濁す人間になりたいのか。
多分、そうだ。
あの頃憧れた謎の探偵みたいなものだ。アイツら本当になんであの歳から探偵が出来たんだろう。
ああそうだ、あの頃現れた謎の探偵に胸焦がれていたんだ。
何故か人探しが上手くて、何故か女にモテてて、何故かちっちゃい車に乗ってて、何故かいろんな技術を持ってる、あんな感じの探偵とか、冒険家とかになりたかったんだろう。
まぁ実状は何者にもなれなかったお坊ちゃんがその学力の高さだけで選べた職業がそれだった、とかなんだろうけど。
ああそれでも、焦がれたなぁ。憧れてたんだ、アレに。
とはいえ今は仕事上取れた人に優しくする資格だけしか持っていない。
焦っても仕方がないのは理解している。
正直男性としての魅力でプラスに働きそうなのが総資産ぐらいしかないのに
それすらも婚前の者は自分のもの(この考え方そのものは別に良いと思うけど)とされると
女性が一人で赤子を育てている間あなたは何を差し出すつもりですか?となってしまうな...
GPT-3.5に渡したプロンプトそのまま4oに頼んだらこんなになった
なんでこんなことになる
日常的に健康に気を伴っている人々にとって、サプリメントはとても許せない項目の一つです。しかし、中には「市場のプロモーションに騙され、実際には効果が薄い」という問題のある商品も居るのが現実。この記事では、その中から「本当は効果が薄いサプリメント十選」をご紹介します。
コラゲンは、素早くの能率や疲れを回復させるとされていますが、普通の食事で十分に補えるビタミンCや金属類に基づく情報をちゃんと知っておきましょう。ただのプラセボエボーションになりがちです。
プロテインドリンクは高タンパク調の媒体で知られ、気持ちを振り絞る効果があると言われていますが、実際には普通のカフェインの飲用で十分です。侮嬉なプラスボエボーションにしか過ぎない事例が居るので、警戒しましょう。
3.重目里サプリメント
重目里は育殖対策や肌のために強く推奨されますが、最近の研究により、調製液の弱い任関解析が判明。普通のダイエットで十分な能力を維持できます。
歯ヘルスのためにカルシウム量の高いサプリメントを播りますが、普通の鹽原またはコーラス量を度合えば大きい侮嬉統治は存在しません。
1ミリたりとも迷惑をかけるなは言い過ぎだろう。健常者もミスはするし風邪もひく。障害者を雇うことでプラスになると経営者が判断したら、プラスになるよう合理的配慮をするのも雇われの仕事だよ。
そもそも、障害者雇用促進法はお前の普通とやらを守るためにあるんじゃない、障害者でも「普通」を享受できるようにするためにあるのだ。そのために合理的配慮をしろと事業者に求めており、事業者がハイワカリマシタと言ってるなら被用者としては付き合わないといけない。仕事で障害者に配慮をしないで済む権利なんか存在しない。
とはいえ、具体的な指示出しても良くワカラン理由で従わなかったり、とにかくヤバい人がいるのは確か。そういうヤバい人は大概健常者として入ってくるし、診断名もつかない単なる仕事ができない人だったりする。何でもかんでも障害のせいにするのは良くない。
以下にご紹介する内容は、「100倍引き寄せる思考」というスピリチュアルな発想と、心理学・脳科学・量子力学などの科学的な理論を“あくまで比喩や拡大解釈として”融合させたものです。実験的に厳密に証明されたわけではない部分も含まれていますが、実践面でヒントとなりうる要素をまとめています。
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「思考したものが現実になる(引き寄せの法則)」をさらに拡大し、**“自分の想像の100倍”**という飛躍的な結果を実現しようとする考え方です。この背景には、
1. **枠を大きく超えたビジョン**を掲げることで、
2. **より大きな可能性**を意識レベル・行動レベルで開き、
3. 結果として「あり得ない」と思われた成果を招き寄せる、
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## 2.1 ラス(RAS: Reticular Activating System)の活性化
脳幹にある「網様体賦活系(もうようたいふかつけい)」と呼ばれる領域で、私たちがどの情報に意識を向け、どの情報をフィルタリングするかに大きく関わっています。
たとえば「月に50万円欲しい」より「月に500万円欲しい」という、より大きな目標を掲げた場合、脳は「この大きな目標を達成するために必要な情報」を積極的にピックアップしようとします。これがいわゆる“カラーバス効果”のように、意識が向いたものが見えやすくなる現象を加速させます。
> **ポイント**: 100倍レベルの発想をすることでRASがより強く働き、普段なら見過ごしてしまうチャンスやアイデアを拾いやすくなると言われています。
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## 2.2 自己効力感(Self-Efficacy)と期待の心理学
心理学者アルバート・バンデューラの理論で、「自分ならできる」という確信の度合いを指します。大きなゴールを設定しながらも、それに少しずつ近づいている感覚が積み重なると自己効力感が高まり、より大きなチャレンジが“当たり前”になっていきます。
組織心理学や行動科学では、*「期待」→「動機づけ」→「行動」→「結果」*という流れが重視されます。人は「自分が本当に手に入るかもしれない(期待できる)」と思うと、行動量が増し、成功率が上がる傾向にあります。
> **ポイント**: 「こんな大きな成果は無理だ」と最初から感じてしまうと、期待値がゼロになり行動量が減る。一方、ワクワク感が伴うレベルの大きなビジョンを掲げると、脳内報酬系(ドーパミンなど)が刺激され、やる気が継続しやすくなります。
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## 2.3 プライミング効果・セルフ・フルフィリング・プロフェシー(自己成就予言)
ある刺激(単語・映像・イメージなど)にさらされると、その後の行動や判断に影響が及ぶ現象。大きな成功をイメージすることで、自分の言動が「大きな成功と矛盾しない方向」に傾きやすくなると考えられます。
「自分が信じていることが、行動や判断を通じて、最終的にその通りの結果を導く」という心理的メカニズム。ポジティブな期待を大きく持てば持つほど、結果的にそれが叶う方向に自分自身を動かしていきます。
> **ポイント**: 100倍の成果を「ありありとイメージ」し続けると、思考・言葉・行動がそのビジョンに合った選択をしやすくなる。これが「引き寄せの一端」として科学的にも説明しやすい部分です。
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## 3.1 オブザーバー効果(観測者の効果)と「手放す思考」
観測(測定)をすると電子が“粒子的”に振る舞い、観測をしなければ“波”的”に振る舞う、という有名な実験。
「意識的にコントロールしすぎる(観測しすぎる)と可能性が限定されてしまう。逆に、執着を手放すことで、より多くの可能性(波の広がり)に開かれる」という比喩としてよく用いられます。
> **ポイント**: 「100倍のビジョンを掲げながらも、どう実現するかは細部まで執着しない」。このバランスが、“波動の広がり”を保つ姿勢だとされます。
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## 3.2 量子もつれ(エンタングルメント)と「大きな流れへの委ね」
「私たちも本来、意識レベルで繋がっている」という考えの比喩として使われます。大きな結果を得るとき、周囲の人や環境が突如シンクロするような“偶然”が起こる、と語られることがあります。
> **ポイント**: “自分だけの力”ではなく、“世界全体との繋がり”を意識し始めると、大きな流れ(サポート)がやってくるかもしれないという感覚を高めます。
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# 4. 「100倍引き寄せ」を加速させる実践法(科学的要素+スピリチュアル要素)
1. **拡大ビジョンの設定**
- 目標を数段階上乗せして設定する(例: 月収10万円 → 月収100万円、もしくは自分の想像の100倍に拡大してみる)。
- スポーツ心理学でも使われる手法。実際に成功している姿・状況を“具体的な五感”を使ってイメージする。脳は「実際に体験している」かのように反応し、自己効力感を高めてくれる。
1. **行動リストを作る**
- どんなに些細なことでも、「大きな目標を達成するために役立つ行動」を毎日1つでも実行。
- 成功体験を書き留めると、自己効力感とRASが相互に高まり、チャンスを発見しやすくなる。
## 4.3 手放すワーク(観測しすぎない/執着しすぎない)
- 過剰な不安や執着を緩和するために、定期的に思考を静める時間を設ける。
- 「いつ手放せる?」「手放したらどうなる?」と問いかけ、ネガティブな感情やコントロール欲求を意識的に解放していく。
> **科学的には**、瞑想・深呼吸は自律神経を整え、ストレスホルモン(コルチゾール)の分泌を抑え、脳を“集中とリラックスが同居した状態”にしやすいと言われています。この状態がポジティブな発想や直感を受け取りやすいと考えられます。
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# 5. 注意点とまとめ
- 量子力学の話や脳科学のメカニズムは興味深いですが、「意識そのものが直接、物理現象を変える」とまで言える証拠はまだ不十分です。あくまで“比喩”や“モチベーションアップ”の要素として取り入れるのが賢明です。
- 「思考だけで何とかなる」と考えてしまうと、現実的な努力や行動をおろそかにしがちです。心理学的・行動科学的な知見を活かし、実践的にアクションを起こすことが重要です。
- あまりに“大きな結果”ばかりを追い求めて心身が疲弊してしまうと本末転倒です。必要に応じて休息やサポートを取り入れ、バランスを保ちましょう。
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## ◆ 最終的なポイント
心理学・脳科学的には“視点が大きくなり、新たな情報やチャンスを拾いやすくなる”“自己効力感が高まりやすい”といったプラス面が期待できます。
過剰な思考・不安・コントロール欲求を緩和し、創造的発想やシンクロニシティを受け入れる余地が生まれる、とスピリチュアル的にも心理学的にも説明可能です。
単なるイメージや願望だけでなく、小さな一歩を踏み出し、その成功を積み重ねることで、「夢物語」が「具体的な現実」に近づいていきます。
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### まとめ
この文章は、発達障害者の当事者が、自分たちの置かれている不遇な状況について怒りを露わにしながら、健常者や特定の人々への批判を展開したものです。主なポイントは以下の通りです。
要約
1. 主語を広げすぎるな: 発達障害に関する議論で、個別の問題や経験をすべての発達障害者全体に当てはめるべきではないと批判しています。
2. 個人的な経験を一般化するな: 自分の会社や個人の問題を「みんなの問題」として主張することへの反発。
3. 労働環境の不満:
• 発達障害の診断を受けつつ、職場では「デキる人」として過剰な業務を押し付けられていることへの不満。
4. 健常者への批判: 健常者が発達障害者に対し「弁えろ」などと抑圧的な態度を取ることへの拒絶感。
5. 行動する意思: 年明け以降、職場環境や権利改善のために会社と闘う意思を示しています。
6. 皮肉と反撃: 発達障害者を「マイナス1」とみなすような価値観に対し、自身の辞職が「プラスに転じる」皮肉として述べています。
https://anond.hatelabo.jp/20250103215850
お前んとこの診断のない要介護くんの話を何も関係ない発達障害者全員に敷衍するな。
お前が辛かった話を突然「俺たち」とか抜かすな。
お前の会社の人事がアレでうんこだという話を、突然「俺たち」「お前たち」の権利の話にすり替えるな。
まずは会社にもっと訴えろ。お前ら健常者の大好きな自助共助公助だろうが。あ?
>こういうこと言うと、今時ネットじゃボロクソに燃えるんだろうけど。
>俺に石投げていいのは、俺と同じ目に遭って、それでも最後まで文句ひとつ湧いてこなかった奴だけだからね?
いいや、お前のような頭の悪い健常者どものケツを拭かされながら、発達障害だから弁えろなどと訳のわからん抑圧を喰らわされそうな私からも石を投げさせてもらう。
所謂「よく発達した発達障害」、診断はあるがクローズでやってる私からの石だ。
こだわりの強さを生かして思いついた指摘も遠慮なくガンガン入れたりなどしていたらいつのまにか職場で「デキる人」扱いされ、その結果チームの他のメンツが忘年会で飲めや歌えとやっている間、緊急対応と称して一人客先でバグ潰しながら怒ってるお客様を何とかするというお仕事を、朝から晩までつまり朝8時半から夜最短でも19時半最長で21時半までやるという日を、なぜか土日含む7日間も続けさせられた私からの石だ。
2日目ぐらいの時点で感染症の濃厚接触が疑われたので検査に行かせろ客先には代理を立てろと頼んだのに「まだ(病気に)かかったと決まったわけじゃないから」などとのらくらへらへらかわされ、結果4日目くらいの時点で喉が死んで咳が死ぬほど出て声が出なくなるなどしたが「他にできる人がいないから」で結局7日間やり通さざるを得なかった。
途中からは明らかに発熱もあったが上司はリモートで謝り倒しとけばこっちが折れると思ってやがる。
ここまでやっててもチームでは疎まれているのもあって昇給も昇進も特別手当も見込み薄、それどころか近場だから出張手当の対象にもならない。もらったものと言えばこのときの風邪ばかり、咳が治らなくてろくろく夜も眠れない。
そしてこの「緊急対応」に駆り出されたおかげで本来の仕事が玉突き事故になったままおめでたく年明けに待ち構えてるって寸法だ。やってられるかよ。
そもそもわしゃヒラだぜ。ここまでするほどの責任はないはずだろうが。
なのに同じチームの他のメンバーや上席者は「できる人」にカウントされず、定時帰りの果てに部署の忘年会と会社全体の忘年会両方でご馳走食って土日もしっかりお休みだ。
ここまでされといて、更にお前のような勘違い健常者くんには「発達障害だから」「弁えろ」とか言われなきゃなんないのか?
冗談じゃあない。
「アンタのようなのには言ってない」?
しっかり書いてるだろうが発達障害の診断を受けた方よ俺らの権利を阻害するなと。
俺らの権利って何だよ。客の要望のらくらかわして金だけ取って忘年会でローストビーフ食う権利か?
おめーの文章が人を不快にさせるのはおめーが不正確なことを書くからじゃねえのか?
他責志向で自分が何をやってるかをわかってねえ。お前んとこの要介護くんと目くそ鼻くそじゃねえか。笑わせよるわ。
私は幸い健常者じゃあないから常識だの良識だのにはごまかされないし相手を見誤ることもない。
年明けにはたまりにたまった仕事を何とかしながら会社相手に闘争を仕掛けるつもりだ。
昇進も昇級も特別手当もない、そもそも一昨年時点で二人も辞めてんだから人増やせよなと言ってきたのに無視ってこれ、更に年始からは他のお客様に対しても同じことをせよ、しかし玉突き事故の仕事も己で何とかせよと求めてくる。
そんなに人件費削減がお好きなら協力して差し上げましょうかね。さらに一人減ったらさぞお喜びなんじゃないすかね?
ヒラの発達障害者が一人辞めたところで大して効果はなかろうが、元増田の言うところでは発達障害は頭数にしてマイナス1らしいから、消えたらプラスに戻ってウィンウィンですな!
今日の夕方には帰らないといけないんだけど、子供達が帰りたがらない
年末年始、義理実家とうちの実家で交互に帰ることにしていて2年に一回旦那の実家に帰るんだけど
普通だったら年末年始、義理の家で子供抱えて姑と一緒でかわいそうってなるんだろうが、もうこれがうちは最高すぎる
なんかよくわかんないが科学者してるみたいで、実家でもぶ厚いよくわからない難しそうな本読んでたりする
なんか子供が大好きみたいで、うちが子供二人を連れて帰ってくると、このおじさんが子供達を車で連れ出したり庭でアレコレ遊んでくれる
庭で何するかっていうと焚き火になんかぶちこんで炎色反応?とかなんだけど子供達は大喜び。スライムみたいなの作ったりもしてたな
ビーカーとか試験管みたいな理科の実験室でしか見たことがないような物を出してきて、年末年始よい子科学教室をしてくれてる
毎日朝起きて、おじちゃん!!!!って叫んでおじちゃんを起こしに行って遊ぼう遊ぼうとうるさい
車で連れてっていいかって言うから了承したら、なんか広場でペットボトルロケット?作ったりして遊んでもらってたらしい
ど田舎で土地だけはあるので義理実家自作のドッグランがあり、子供達はボールを投げ犬は走り回る
旦那は実家だとこたつにはいって動かないが、姑は楽しく世話をしているようなので嫁の私になんかしろとかいわない
家にいると落ち着かないだろうから子供ちゃんと遊んでおいでっていわれるからおじさん兄と子供と出かけるが、本当に子供が楽しそう
大自然で雪玉投げて遊んでる
そしておじさん兄が謎の実験をしながら、これはなー?って子供達に説明してくれるから子供達は理科が楽しくなったらしく、
上の兄は、俺も将来はおじさんみたいに科学者になりたい!とか言いだした。おじさんは「やめとけ」と言ってたが
それ以外にも地元で町歩きタイプの謎解きイベントとかやってたりするとおじさん兄が車で子供達を連れて回って、子供が
パネルを探しまくって「あったよ!」とか嬉しそうに走って報告してくる
旦那の姉も中学と高校の子供を連れて帰ってくるんだけど、おじさーん!って言っておじさんのもとに吹っ飛んでいく
おじさん人気者過ぎ。聞くとやっぱり小学生まで毎年科学実験してたみたい。
この中学生と高校生の甥姪が帰ってくると大人数でなんか作り始める。今年は天体望遠鏡作ってた
最初に顔合わせしたときにはこんな愉快な家庭とは思ってなかった、楽しい。
それにしてもなにしてるかわかんない科学者兄おじさんがいないとこの楽しい実家はないだろうな…おじさん、元気で長生きして欲しい
それでも構わないという奇特な暇人さんは、ぜひ飽きるまでお付き合いください。
ようやくお前がいなくなってくれて、涙が出るほどうれしいよ。
「普通のことを普通にできること」の価値を教えてくれて、本当にありがとう。異動先の所属でもがんばってくれよな。
お前が誇張抜きに一人前の仕事の1%もできてないからさ、俺たちはお前の指導監督含めすっごく余計に働かないといけないんだよ。
でもお前って俺と同じ給料もらってるんだよね?採用枠同じだもんね。「普通」の「健常者」だもんね。診断受けてすらないもんね。
仕事量とか難易度とかの比でいえばマジで何十倍何百倍なのにさ。これでなんとも思わない?俺はおかしいと思っちゃうけどね。
ああ、お前のせいで残業めっちゃしてるから手当はある程度出てたわ。俺のほうが手取りはいくらか上だったね。お陰様でね。
去年採用のお前は知らないだろうけど、うちの係って去年から定員が一人増えたんだよ。力を入れたい部門だからって。
じゃあ俺たちは増員前より大きな仕事ができたのか?答えはNoだし、むしろ不思議なことに一昨年までのほうが安定して成果出せてたよ。
常にお前を誰かが見てないといけないから。メイン俺で、俺がいなければ他の誰かが犠牲になるしかないから。一人増どころか、お前とその保護者の分の頭数がないから実質的な二人減なんだわ。お笑いだよ本当に。
でもお前は困ってないもんね?お仕事ごっこして、一人前の給料もらいながら俺たちを尻目に定時帰りできるもんね。羨ましい限りだよ。
その上でいつだかお前に言われた「皆さんもたまには定時で帰ったほうがいいですよ笑」ってやつ、一生忘れられないよ。アラサーにもなって、危うく職場で手が出るところだったからね。お気遣いいただきありがとうございました。
覚えられないならメモを取れって話、お前にもう何回したか覚えてないんだけど。2年も経って未だにメモすら取ってくれないよね。珍しく取っても言ったことと全然違うこと書くしね。挙句その嘘メモの内容で「(俺の名前)さんからそう聞きました」 とか平気で言うじゃん。ふざけてるよね。
「メモ取ってる」かつ「内容が合ってる」っていう奇跡的なケースもあるからさ、俺お前にその辺のこと質問してみるじゃん。正しい答えが返ってくるケースが基本ないんだけど、どうなったらそんなことになるのか説明してくれよ頼むから。
でもしょうがないよね。話を聞けば手が止まるし、手を動かしたら話が入ってこないんだもんね。メモ取ることと理解することとは別だもんね。
ところで、「聞きながら書く」みたいな同時作業が苦手な人って普通にいるんだってさ。まあ「発達障害の方」によくある症状みたいだから、「健常者」のお前には関係ないけどね。
あと、「別の行に目移りしちゃって文章が読めない、理解できない」って人もいるんだって。これもお前には関係ない話だけど。
まあ念のためね?ダメ元でね?たいへん失礼ながらこっちで指導メモ作って、印刷して渡したことあったじゃん。目で追いやすいように、長めの定規と蛍光ペンと一緒にさ。
いつの間にか紙も定規も失くしたんでしょ?お前は「いや、ペンはあるんです...」とか言うけどさ。そういう話じゃないし、逆にその言い訳死ぬほどムカつくんだけどね。言い訳してる自覚すらないらしいからもうあれから何も言ってないけど。
お前に仕事振ってもお目付け&完了後チェックのせいで実質的な仕事量はマイナスにしかならないからさ、本当はもう何もしないでほしいんだよ。マイナス生むくらいならプラマイゼロであってほしいんだよ。
ていうかもう邪魔だからその辺一日中散歩しててほしいんだけど、仕事させないのってパワハラになるらしいから、仕方なく考えうる最も簡単で単調な仕事を与えるじゃん?具体例出すとキリないけど、俺の敗北の歴史でしかないけど。ネジ外しとかシール剥がしとかさ。
お前は一丁前にダルそうな顔してたけど、できなかったじゃん。ネジは取り返しがつかないほど舐めさせるし、シールは剥がしちゃいけないやつ剥がすしね。ちゃんとやり方見せながら聞いたじゃん?わかった?って。はいって言ったじゃん。あれなんだったの?
中学生でもできるお手伝いレベルの作業すらできてないけど、お前はいったい何の権利があって不服そうにしてたんだろうね?そして俺たちは何ならお前に任せられたんだろうね?普通の健常者たるお前様にさ。
お前に仕方なく与えた仕事って、結局最後まで終わらないor終わっててもやり直しが必要ってパターンしかないからさ。渋々残業するわけさ。お前は定時帰りしてるから知らんだろうけど。
そしたら別の後輩ちゃんがさ?ハタチそこそこの女の子がさ?全然帰れない俺に気を遣って、俺がやらなきゃいけない仕事をこっそり手伝ってくれようとしてたわけよ。その子も残業してね。
たまたま気付いたから帰らせられたけど、情けないやら申し訳ないやらで、家帰って酒飲んでたら涙出てきたわ。お前が俺の1%でも動いてくれればこんなことにはならなかったのにね。もう腹立ってどうにもなんないよ俺。
甚だ不思議なんだけど、お前って「A終わった?」って聞くと「いやBはしたんですけど...」とか言うよね。全然話がつながらないんだけど、これ何なの?
で、こういうパターンで「結局Aは終わった?」って問い詰めてようやく「してないです」って言うよね。お前に指示与えた時間、言われたことしてない時間、言い訳にもなってないクソトーク聞く時間、全く以て無駄なんだけど、返してくれないかな?
他にも「Aですか?Bですか?」って聞いたら「Cだと思うけどDですかね...」みたいな返しするのとかさ。会話もできてねえくせに社会人ごっこするの楽しい?俺たちに不愉快な思いさせて楽しい?頼むから小学校まで戻ってくれませんか?
「そう」生まれたかった/生みたかったわけがないこと、同情はするし理解もできる。俺はたまたま運良く「そう」じゃない側に生まれただけ。わかってるつもり。
でも、それとこれとは別問題じゃないのか?
お前らが 「 「『それ』を盾にして」 「マイナス或いは人並みに満たない程度のプラスしか生めずながら」 「何の罪もない俺たちに多大なマイナスを齎しながら」 「自分たちは人並みのプラスがほしい」 なんて、何かがおかしいとは思わないのか?
お前らの権利とやらは俺たちの権利の邪魔をしていいほど強いのか?近年の「それ」に対する理解の声の大きさを、どこか履き違えてるんじゃないのか?
「俺たちに迷惑かけていい権利」なんて誰が保証した?「俺たちの普通を奪っていい権利」なんてどこで宣言されてる?教えてくれよ、原文読みに行くからさ。
こういうこと言うと、今時ネットじゃボロクソに燃えるんだろうけど。
俺に石投げていいのは、俺と同じ目に遭って、それでも最後まで文句ひとつ湧いてこなかった奴だけだからね?
まあそんな聖人もいるんだろうけど。そこは相手にした「彼ら」にも度合いの違いがあるから一概には言えないとは思うけど。少なくともうちのは能力的にも人間性的にも到底我慢できるレベルには達してなかったよ。
結局、お前らの言う批判はただの綺麗事でしかないんだ。何の重みもないんだよ。
最後まで「彼ら」に優しく在れるのって「 『彼ら』の家族等の身内」or「そもそも『彼ら』の支援が仕事の方々」だけだと思うんだけど、どうなんでしょうね?例外いたら教えていただきたいです。今後の私の人生での参考としますので。
最後に言いたい。
発達障害の診断を受けた方。少しでも怪しいという自覚がある方。またその御家族の方へ。
伏してお願い申し上げます。どうか弁えてください。
ざっと振り返ってみたが、どの本も細部がかなり記憶から零れ落ちている。ほぼ記憶が頼りだから極めていい加減だ。アラフォーの文学少年崩れなのでしょうがない。そして、当時感じていたひがみ根性を思い出して少し苦しくなってしまった。欲望のコントロールに苦しんでいた若いころの感想なので、今になって読み返したらまるで違った感想を持つことだろう。知識も増えたし。
そのドロドロした感情の半分くらいは過去のものとなっている。近頃は心の闇が薄れてきた。これは加齢によるものだろう。読書の好みもすっかり変わってしまった。たぶん今読み返したら全然違う感想を持つはずだ。今となっては、モテない悲哀には昔ほど心が動かされないのではないか。
モテない怒りというのは、自分がプラスの感情を渡したのにそれが返ってこなかったというのが根っこにあるのだろう。しかし、相手の気持ちがどう動くかってのは相手の自由意思なので、こちらの意のままになるはずなんてない。任意の相手の心を開く万能の鍵なんてない。相手をコントロールしようとするのは無駄だ。それで相手に怒りを覚えてしまうのは、共感的に深く理解できるが、己のわがままでしかなく、こんなこだわりはどこかで捨ててしまわないと苦しい。
話を戻そう。前ほど心を動かされないと書いた。そのせいだろうか、読書量は変わらないが、小説を読む量も減った。
今の自分は、何を読んでも似たような感想になってしまう。結局、何を読んでも同じことを思い出すのではあるまいか。そして、前述の感想を見るとわかるように昔からそうだったのだが、自分の境遇に引き寄せてしまって無数の誤読をしているはずだ。結局は自分が、我がどうこうという意識から離れられない。
もしかしたら、凝り固まった大人になってしまったのかもしれない。過去のエントリから大して感想は進歩していない。そしていつの間にか、たとえば「女性作家とはこういうものだ」「この国のこの時代の文学はすべてこうだ」という、偏見に満ちた思想が自分の中でどんどん育っていっているのを感じる。気づいた範囲で修正してはいるものの、怖い。しかもこの半年ばかり、小説を読んでいない。
文学にすがらないと生きていけない段階を、幸福なことに脱したのかもしれない。どろどろとした感傷はすべて過去のものとなり、深い眠りについたようにも見える。それに、小説を読んで感情を揺さぶることが、メンタルヘルスに対してプラスなのかどうかも疑わしくなってきた。穏やかに、つらい出来事の起きないフィクションに移行したほうが、幸福なのかもしれない。クラークが「2001年宇宙の旅」で、最後に生き残ったデイヴィッド・ボーマンが一人ぼっちで音楽鑑賞をするのだが、オペラにうんざりしてクラシックしか聞けなくなり、最後はバッハにたどり着いたのを連想する。人間社会から離れた彼は悲劇の筋書きに対して、「常識を働かせれば解決策があるのでは?」みたいな感想を持ってしまう。そして、感情の激流であるヴェルディのレクイエムにひどく打ちのめされ、物静かで抽象的な音楽に向かうのだ。
それとも、文学は僕にとって生きていくうえで出会う出来事への予行演習だったのかもしれない。今、何気なく「予行演習」と書いたが、これはかなりしっくりする表現だ。振り返れば、若い人間が生きるとはどんなことなのか先が見通せず、答えを得ようとしていたようだ。起こりうる様々な不幸に備えて心の準備をしていたのだろう。
いや、少し矛盾している。何を読んでも似た感想になってしまうのは、モテたいという気持ちがあった若いころもそうだった。感情で消耗するのに、単に疲れているのかもしれない。感情を動かされるのを避けていて、知識をいたずらに溜め込むことしかしていない。最近は阿部勤也の中世の本や、ブルーバックスの地質学の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
⑤で触れた「エタンプの預言者」みたいに、最近の海外文学のあらすじを読むと、文学と価値観の変化の速さに正直ついて行けなくなっているようだ。実感をもって何かを理解する間に、すべてがどんどん先に進んでしまう。おそらくこのエントリも古い価値観で書かれていることだろう。僕はもう世界には追い付けない。職場でコンプライアンス違反にならないように表面を糊塗することしかできない。文学を読んで正しく真っ当な人間になろうとしたが、結局はあらゆる欲望からは自由になれなかった。むしろ、意識の高さは自己批判を強め、心のバランスを崩すことになった(余談だが、東大の有名な総長がタフであれと何度も言っていたけれども、心身の障害でタフになれなかった僕は苦しかった。また、十数年後の新入生式辞でジェンダーギャップについて述べたこれまた高名な社会学者がいて、これはニュースにもなった。理屈はまったく正しいし、性別による不平等や扱いの違いは僕も大嫌いなのだが、一方で新入生に私怨から祝福ではなく呪詛を浴びせたように思ったし、自分がされて嫌だったことを次の世代にぶつけているだけではないかと感じた。そして、そのせいで「自分が入学できたのは性別が理由なのか?」と、ものすごく努力していたのにもかかわらず、重篤なインポスター症候群に悩まされることになった。愚痴は以上である)。
そもそも、なんで文学が好きになったのかを考えると、はじめは頭が良くなりたかったからなのだが、究極的にはそこに人間の愚かさが表現されているからだろう。そこにいれば自分のひがみっぽさや醜さを受け入れることができる。少なくとも同じくらい大きくてネガティブな感情を抱えた人間が世界にはたくさんいるのだと慰められる。ダメなところを許してくれるのが文学だった。そんなものを読んでいても、大人は何も言わない。
文学が読めなくなった文学少年崩れになっても、はてな匿名ダイアリーから離れられなかったのも、それが理由だ。人間の偽らざる感情が増田の怪文書にはある。
ところで、僕は障害者であり、二級の手帳を持っている(ただし、弱者だと名乗るつもりはさらさらない。うちの大学を卒業した連中の平均の給与の半分どころか三分の一ももらってはないだろうが、弱者男性とかブサメンとか非モテとかそんな看板を立てるのは正直に働いている自分のプライドが許さない)。加えて、海外在住経験がある。にもかかわらず、社会派の文学にはほとんど心が動かされなかった。その多くで感情よりも理屈が優先されているからだ。政治的な主張がしたければ、直接論理的に分析したほうがわかりやすいし、散文なら書く方も読むほうも時間が短くて済む。イデオロギーに縛られていては展開だって予測できてしまう。政治的な作品で面白いのは全体の一割だろう。最後まで読みたいだけの魅力が薄い。
余談になるが、そういう意味でも、現代アートで深く刺さる作品は少ない。知的には面白いと思っても、心を動かされ、性欲を刺激され、あるいは激しく嫌悪し、内臓が理屈を超えて震えるのが、僕にとっての芸術だ。一昔前の表現でいうと前なら左脳ではなく右脳が刺激されるような作品がいい。ルネサンスや近世の西洋画のように、シンボルを読解するのはそこまで心が動かされない(ごくごく一部の高度に知的な作品、持てる知識を総動員しないと面白くない作品を除く。これは全力で取り組まないといけないため、別の良さがある。ジョイスとか円城塔とかエーコとかね)。そして、優れているのに、言語化が困難なものの評価が一番高い。その点、マグリットの、言葉遊びによる対象の置き換えをモチーフにした作品はピンとこなかった。理詰めで説明がたやすいのは良くない。
もっとも、あらゆる芸術の九割はそもそも刺さらないというのは、普遍的法則である可能性がある。なんであれ、世間がどう言おうとも、作品を好きに読んで好きに解釈する自由は、失われてはならない。唯一の正統的な解釈があるのはつまらん。「丁寧に読解しろ」ってのならわかるけど、どんなものであれ上から押さえつけられるのは相手が正しくても嫌いだ。人間にはどんなに歪んでいても、そして不道徳であっても、正直な気持ちを話せる心理的安全性が担保された場所が必要だ。そして、相手が世間的に正しいとされていると、こちらは反論できないし、反論すること自体が批判される。だからキレて暴れるしかない。正しさへの嫌悪ってそういうことなんじゃなかろうか?
ときどき、「どんな理屈をこねるよりも、目の前の相手に敬意を払うにはどうすればいいのかという実践にのみ意味があるのでは? 知識は参考にしかならんのでは?」って疑念が兆す。それとも、こうなってしまったのは文学に対して心を閉ざしてしまったからだろうか? だから前ほど心が震えなくなってしまった。だとしたら寂しいことだ。
近頃、文学に対して心を閉ざしているとしたらなぜだろう? 政治の季節は理由ではない。他に理由がある。僕は実はかつては小説家になろうとしていた。名作に手を出していたのはそれも理由だ。最終選考まで行ったこともある。だが、その願いは叶いそうにないと気づき、怒りから小説から遠ざかった。
同じ夢を持っていた友人・知人がデビューするのも見てきている。現代作家を読まなかったのもそれが一因だ。自分のほうがいいものが書けると傲慢にも思いこんでいたからだ。彼らの作品を読むと、そんな思い上がりは雲散霧消するけれどね。
今でも、数か月に一度目を覚ます飢えがある。発作的に何かを書きたいという欲望だ(実際、こうやってちょっとした短編小説くらいの長さのエントリを書いていてすごく楽しい。じゃあ増田じゃなくてブログでやればいいんだろうが、少なくとも同レベルのエントリは継続的に書けない。なぜならこの文学全集を読むのに十数年かかっている。こういうネタは量産できない。このエントリでいったい何冊の本に言及してるんだ?)。
しかし、最終選考の講評ではボコボコに批判されたし、これ以上自分の気持ちを書いても自分は幸せにならないと、諦めがついたはずだった。それに、小説は感情の垂れ流しではありえない。読者を楽しませる必要がある。少なくとも読者の受けるであろう感情を計算せねばならない。加えて、デビューした友人はものすごいインプットをしている。これは認めないといけない。活字を読む量は僕のほうが多いが、それ以外に漫画だとかソシャゲだとかエロゲとか映画とか、とかくジャンルを超えて摂取しているものが多い。例えば現代の女子高生を魅力的に書くには、そのキャラがかわいいことと、リアルなティーンエイジャーとしてありそうかという軸がいるが、僕にはどちらもできない!
嘘ついて同情、もしくは単純に注目集めることがだけが目的で生きてる人間は老若男女問わずなんぼでもいる(見たことないと思ってる人間は嘘を嘘と見抜くことができないタイプ)
炎上芸はおっさんおばさんの専売特許とか、若い人間に夢見すぎでは?
TikTokでもテレビでも女性が沢山食べることの価値は高く、件の女性客はむしろこれだけの盛りを食べましたよとアピールした方がプラスになる
豚山の件、自分は豚山の主張を信じていない
いくつか理由はあって、それを述べたいと思う
防犯カメラで音声を確認したとして、個々の会話を確認できるほどの音声だったのかよってのが引っかかる
防犯カメラってすごい広角で、マイクもそれにあわせた広角なものにするので、画角に収まる音を全部拾うから誰が何言ってるのかわからない
店員がヘッドセットつけていて、それを録音していたらなら店員が何を言ったのか確認はできるけど、豚山の主張はそうじゃないよね
映像で確認したのは本当だとしても音声で確認できたかどうかは怪しいと思っている
ついでに言えば、映像があれば音声もその場にいたように録れていると思ってる人たちはどんな世界に生きているんだとも思う
一方で、映像だけでなく言った言わないが必要になり、店員にヘッドセットやマイクを付けるのは必須になるのかもしれない
他には盛り方に疑問がある
10年近く前なら、写真の感じの盛り方をするインスパイアは沢山あったけれど、最近はそこまで盛らないインスパイアの方が多いし、盛ったとしても別皿にする店が多い
写真のように盛ると単に食べにくいし、豚の餌と揶揄されるのを嫌うからだろう
昔はもやしを盛った写真にインパクトがあったし話題にもなったけど、今はあれほど盛ったインパクトによるプラスよりマイナスの影響が大きいと考えているんじゃないかと思う
二郎と二郎インスパイアと家系の違いがわからない方はこの辺のニュアンスがわからないと思うけれど、あの写真の盛り方は少し前のお店っぽくて豚山の主張は受け入れがたい
仮にあんな感じに盛ったとしても、空の丼をつけてくれるお店が大多数なのにそれはなくて、すき焼き風の生卵だけしか写っていない
そして、女性っ客に文句言っている方の多くはすき焼き風すら知らないように思える
TikTokでもテレビでも女性が沢山食べることの価値は高く、件の女性客はむしろこれだけの盛りを食べましたよとアピールした方がプラスになる
炎上芸は存在するけれど、炎上芸を狙うのは年取ってる人ばっかりで若い人たちはウケる要素に敏感で取り入れている
おじさん・おばさんが若い人を同質的と思ってしまうのはそれが原因でしょう
件の女性から「Naverまとめ」という単語が出てくる時点で若くはないように思えるので、思考が年寄りで炎上狙いをしているんじゃないか、と言われたら否定しがたいのは確かです