はてなキーワード: はだしのゲンとは
戦前は町内会長で地域の顔役として政府の命令に従って食料品の配給活動や治安や防災対策に尽力していた
当然政府に逆らって平和主義者や反体制勢力を見逃すと治安維持法で逮捕や死刑もあるので、そう言うことはしなかった
戦後は平和主義者に転向して平和運動や被爆者の人権擁護運動に取り組んだってキャラなんだが
作中でゲンが「お前戦前は政府に協力してた転向者だろ!」って糾弾するシーンがあるんだが
政府に協力しないと弾圧されてるんだから政府に協力するのも仕方なくね?
面従腹背してたのかもしれないし、戦後私財を投げ打って平和運動や被爆者の人権擁護運動に取り組んだのなら、むしろそれは良いことじゃんって思った
「戦場のリアリズムを描いた」――。富野由悠季監督(84)が手がけたアニメ「機動戦士ガンダム」がテレビ放映されてから46年。これまで70以上のシリーズ作品が生み出され、その原典として今なお、愛され続けています。戦争体験から遠ざかった世代が大多数となった戦後80年、アニメなどフィクションを通して描かれる戦争はどう変わったのか。視聴者の意識は。〝最初のガンダム〟にこめた思いとともに、語りました。
――今年も、最新作「機動戦士ガンダム ジークアクス」が大きな話題を呼びました。富野さん以外が監督したものも含め、映像化されたものだけで70作品以上になります。時代ごとの新しいガンダムシリーズから入ったファンが、1979年放送の初代ガンダムを見るという流れができています。
本当に嫌な言い方なのですが、僕以降のガンダム作品は一切見ていません。作り手が違えば、他人が口をはさむのはよくないからです。ガンダムという作品が商品になってしまい、作家の立場からは何も言えなくなったのです。
ちょっと違うなと思う作品もあるし、逆に、ああ僕には作れないよねと思った作品もある。だから、ガンダム人気を支えてくれるための新作というのは認めるんだけれども、元の作品とは一緒にしてもらっちゃ困るというプライドもあります。
ガンダムは発表当時、人気がなくって、めちゃめちゃにへこんだ時期もあります。それが今、こうして親しまれているのはうれしいものです。
昔は「子どものもの」「絵空事」でしかなかったアニメという媒体を、考える材料として見てくれているというのは、うれしいですよ。だけど、困ったこともある。40年、50年経って、ガンダムというタイトルは残っても、原作者の名前というのは消えていくのも宿命なのです。そういう歴史的なところに足を踏み込んでしまった、というのはちょっと寂しいなとも思います。
――ガンダムで描かれた戦争の描写には、どんな思いを込めましたか?
ものすごく簡単です。子どもたちに、戦闘行為というのは乱暴な行為だからやってはいけませんよっていうことを分からせるということしかないですね。
ただ、当時の観客がそれを理解しているかと言ったら、ほとんど理解していないんです。それはもう仕方ないことで、理解してもらうのに20年、30年、かかるんだという覚悟はしていました。
独裁者をどう止められるのか
――長年のガンダムファンの一人として、かつては「ジオンにもジオンの正義がある」という捉え方が少なくなかったように思います。今、SNSなどを見ると、ジオン公国の独裁や大量殺戮(さつりく)に対して、批判的な見方が増えているように感じます。
僕の立場としては、良かったなと思っています。視聴者の年齢が上がってきて、みんなが勉強してきたんですよ。だってガンダムなんて46年前の話ですよ。かつてのアニメファンが成長して、大人になっていく中での理解が広まっていったのだと思います。
むしろ、僕が今、困ったなと思っているのは、実際問題として想像したときにギレン・ザビ(ジオン公国総帥)のような独裁者をどうすれば止められるのか、ということ。
作中ではザビ家内の権力闘争の結果、妹(キシリア)の手によってギレンが殺され、独裁体制は崩壊しましたが、現実はそう簡単にはいっていないでしょう?
暴力によらない、政治的な手段で独裁者を止めるにはどうすればいいか。その難しさを考えさせられているのが、ガンダムの真骨頂なのです。
――作中で描かれるジオンの設定を見ると、ドイツなど第2次世界大戦の枢軸国のイメージが重なります。設定の意図は?
明確に敵というのは分かりやすく作らなければいけないのですから、皆さんが知っている独裁体制を利用しただけです。
増えすぎた人口を移したスペースコロニーの中で、独裁国家を作る。自分たちは「棄民」である、地球には帰れないらしいという境遇になれば、やはり「反地球」の行動を起こすだろうという設定は見事にできたと思っています。
そうしてフィクションを描いたつもりが、20、30年もしないうちに、次の独裁者の誕生が現実になってしまいました。
ロシアやアメリカの現状や、中南米、アフリカ、中東各国の事例を見ても、今の国際政治は、アニメ以下でしょう。このまま、行き着く先まで問題のある政治家たちを是認していったらどうなるのか。
独裁者のような人間が大国を動かしている21世紀って、すごく変な時代でしょう。まさにポピュリズムが生み出したものだろうと思っています。
――今の世界情勢と、かつての大戦前夜を重ねてみる人もいるようです。
80年前を振り返った時に、ナチスのヒトラーという人も選挙で選ばれたんだという事はよく知るべきです。政治哲学者で思想家のハンナ・アーレントは著書「全体主義の起源」で、一般大衆のことを「群衆」「モッブ」と呼んでいます。独裁というのは、独裁者が1人で起こすわけではないのです。まず、独裁者を生み出す群衆がいて、その上に立って旗振り役ができるやつがトップに立つ。
日本の場合、真珠湾攻撃で開戦したときに著名人を含めて、かなりの人が「これで気が晴れた」みたいな言い方をしている。勢いにのって、国民までもが軍国主義化していた。僕は、これは新興宗教と同じだと思っています。
――朝日新聞を始め当時の新聞も、婦人会や在郷軍人会などの不買運動に屈して、筆を曲げてしまった。そして、戦争を賛美する論調になった新聞はよく売れ、新聞が軍部と一体化してしまったという負の歴史があります。
軍だけでなく、コモンセンスとしてものをしゃべることができるメディアでなくなったのです。昭和16(1941)年の段階で、すでにそうではなくなっていましたよね。一番汚いと思ったのは全滅を「玉砕」と言い換えるような、負け戦だと思わせない言葉づかいですね。戦艦大和を沈められても「世界最大の戦艦だった」と誇るような言葉づかいは、戦後もずーっと残っているのです。
軍事技術者だった父
――富野さんは終戦時3歳。父親は軍事技術者だったそうですね。
化学の技師でした。戦闘機の与圧服の開発などもしたみたいですが、一番は、ゴムを使った雨がっぱみたいなものを作らされていた。風船爆弾の気球を作る仕事もやらされていたようです。
父が戦後、何度か僕に言った言葉があります。国に裏切られた、と。あの戦争にもどこかで光明があるんじゃないかと思っていたらしい。きっと日本は勝つ、とすり込まれていたんですね。
働いていた神奈川県小田原市の工場の近くにも焼夷(しょうい)弾が落ちたことがあったのに、なんで日本が勝てると思ったんだろうか。不思議でしょうがないんだけど、その時代の日本を考えると、父が特別に軽率だったとは思えないですね。
――戦争そのものへの忌避感は持ちながらも、兵器やアニメの戦闘描写をかっこいいと感じるという人は少なくないと思います。私自身もそうです。この矛盾について考えていました。
民衆の支援で軍は成立しているんです。軍装の兵士が正しく起立している姿を見るとかっこいいじゃないですか。「死に装束」なのにかっこいい。戦死という悲劇すら美しく見せるためには、戦死者に対しては、礼を尽くさなければならない。「兵隊さんたちありがとう」と思わせる、そしていざとなった時に民衆が戦力になっていく構造は、有史以前からあったんですよね。
ガンダムでは、地球降下作戦を指揮したジオン軍のガルマ・ザビの戦死を、ギレンが国威発揚に利用するという描写を入れました。だから僕には痛切に分かることなんだけれども、平和時の一般の国民にはなかなか通じません。どうしてか。「アニメの話でしょう?」。それでおしまいなんですが、この感覚もまた当然のことだと思っています。平和なら、ね。
――戦後80年が経ち、「はだしのゲン」など、実際の戦争の被害を題材にした作品の描写が「残酷だ」と敬遠されることが増えています。ガンダムシリーズなどのフィクション作品でも「人が死ぬ描写が重い」と感じる人も多いようです。
ガンダムでは戦場のリアリズムを描きましたから、当然の感想だと思います。
作り手である僕自身も、敵だろうが味方だろうが、人が死ぬカットを作るのはものすごくつらいのです。絵空事だからって、笑っていられない。登場人物が命を落とす場面では、担当する声優の顔が見えるんです。
今のバトル漫画なんかを見ていると、リアリズムでは戦闘していないですよね。死ぬ寸前までいっても絶対死なないような。そういうものを見慣れている世代にとっては、リアルな戦争を描いた作品を見る気にはならないのでしょうね。
――戦争を知る世代がいなくなったとき、映像作品で今までと同じような戦争の描き方はできると思いますか。
架空の戦争としての物語はあるでしょう。でも、リアリズムで作るというきめの細かさを持った作品は出てこないでしょう。戦っているらしくしているだけで、それは戦争ではありません。
エンターテインメントでなければ客を呼べないと考えたとき、リアリズムを持って問いかけることは難しいだろうし、そういう視点を持った映画人がどれだけいるだろうかと。現に、飛んでくる弾丸やミサイルをかわすといった、シューティングゲームやアクション映画のような作品になっているでしょ?
「ニュータイプとは何か」今も
――ガンダムでは、優れた洞察力を持つ人類を指す「ニュータイプ」という概念を提示し、人が分かり合えるかもしれないという希望も描かれました。ファンの間では今でも、「ニュータイプとは何なのか」という話題で盛り上がります。
ニュータイプは、ガンダムの物語をきれいにまとめるための「方便」だったけれど、僕が一番困ったのは、ニュータイプになるための方法を、子どもたちにきちんと示すことができなかったこと。その意味では、敗北感がとても強い。それはまだ続いています。
新しいガンダムを作る気がまだあるかといえば、それは、ある。これだけ気にいらないガンダムがいっぱいあるんだから(笑)。
世界中の人間が一気にニュータイプになるかもしれないという楽しい作品が作れたらいいなと思っているけれど、それはアニメの中で考えるしかないことです。そう簡単に作れるとも思えない。やっぱり、アニメは難しいよ。
https://digital.asahi.com/articles/ASTBR2C33TBRPITB00JM.html
俺が作ったのも見て。101選だけど
16,DEATH NOTE,大場つぐみ×小畑健
29,カードキャプターさくら,CLAMP
30,チーズスイートホーム,こなみかなた
34,ドラゴンクエスト4コママンガ劇場 偽勇者シリーズ,柴田亜美
38,ゲームセンターあらし,すがやみつる
76,ろくでなしBLUES,森田まさのり
82,ジョジョの奇妙な冒険,荒木飛呂彦
84,ちいかわ,ながの
結婚する夫婦として生活をするって漏れなくSEXサブスクついてくるから
Amazonプライムに入ってるのにAmazonプライムビデオをみないのはもったいないじゃんそれと同じじゃん
しかも、ビデオみないでも「まあいいや」って双方同意してりゃいいけどどっちかが歯を食いしばって我慢してるのは辛いじゃん
とくにオトコはバカで年中SEXしたがってるうんこブリブリ虫だから
うんこブリブリ虫でも人権あるし結婚ってシステムに従ってるんだからSEXサブスクサービスは行使してもいいはずだけどそういうときだけ「夫婦のことだから」になるのってずるいよな
『ペリリュー-楽園のゲルニカ-』や『この世界の片隅に』といった、戦争を描いた近年のヒット作に関して「反戦を主張しないのがいい」という評価を頻繁に見掛けて、実に複雑な気持ちになる。
メッセージ性がないと駄目どころか、メッセージ性がないのがいいという評価。世間にはこの手の評価が広く受け入れられているため、それよりもずっと少ない、作品にメッセージ性を求める意見が許せない人達は随分と身勝手だなと思う。
もっとも『この世界の片隅に』については、原作者はともかく映画の監督の方は意外としっかり考えている人なのを後日知って印象が変わったが。『ペリリュー』の映画の方は予告編を見る限り、友情を前面に押し出した美談にするように見えるんだよな…。
日本で戦争を描いた作品は反戦を謳いつつも日本側の被害ばかり描いていて加害を描かないという批判はよく見掛けるけれど、
個人的には被害ばかり描いても別にいいと思うんだよね。こんな悲惨な目に遭いたくないから戦争は絶対にしてはならない、でも別にいいと思う。ただ、その被害をもたらしたのは誰なのか、どうしてそのような被害に遭ったのか、については描くべきだと思う。
それに加害を描いたところで、その加害を単に末端の兵士による暴走として処理してしまったのでは、興味本位の露悪趣味になり下がる危険性もあると思うし。
どうも日本には戦争をまるで天災かのように捉えて、戦争犯罪についても震災下での犯罪等と同様、極限状況に追い詰められた結果と一般化してしまう人が多いように見受けられる。
『この世界の片隅に』の呉にしろ、『ペリリュー』のペリリュー島にしろ、何故その場所で被害が、加害が行われたのかというそもそもの理由が描かれていないように思う。
問題は加害を描かない事じゃない。責任の所在を追求しない、構造に目を向けない事ではないだろうか。
被害にしろ加害にしろ、日本側として一纏めに括った描き方には賛同できない。
先日徳川慶喜の子孫を名乗る人が新選組を無法者の集団と評して話題になったけれど。権力の頂点にいた者の責任について自覚が薄いと思った。そりゃ安全な場所にいて衣食住も保証されていたらお行儀良くいられるでしょうよ。そんな立場から配下の素行不良を責める事が如何に無神経で横暴である事か。
『ペリリュー』の「どうして」という回で、敗戦の知らせの後も徹底抗戦を呼び掛けて多くの部下を死なせた後に生き残り、島民に保護された島田少尉の、自分はどこから間違っていたのかという問い掛けがあったけれど。間違っていたのはこの人物個人ではなく、それに至る以前の日本政府の判断に拠るものでしょう。庶民が自己の責任を問う事は美談にも見えるけれど、権力者を免責する事にも繋がる。
戦後の話では何度か天皇にも言及されるけれど、単なるニュースの域を出ない。主人公達末端の兵士が飢餓や病気に苦しんだのも、人を殺す羽目になったのも、そもそもは天皇を中心とした軍国主義体制のせいなのにそこを突き詰めて問う様子はない。
その点『はだしのゲン』だと、天皇が悪い、戦争を翼賛した日本の庶民も悪い、原爆を落としたアメリカも悪い、末端の米兵は日本国民に対する加害者でもあるが彼等もまた被害者でもある……といった構造の問題に触れている。
ただ、『ペリリュー』にしろ『この世界の片隅に』にしろ、全体を見渡す目がないというのは当時の一般人の感覚としてはリアルなのかもしれない。2025年の現在ですら台湾有事を想定して短絡的な交戦論を唱える人がいるくらいであるし。まして当時は庶民の高等教育進学率も低く、情報を得る手段も限られていただろうから。
特に『ペリリュー』の主要人物である当時二十代の若者達にとっては、物心ついた頃から社会はそんなものであって疑念を差し挟むのは難しかったのかもしれない。主人公は名称変更後も「看護師」ではなく「看護婦」と呼んでいるような、アップデートの遅れた人物として描かれているし。
『はだしのゲン』は作者の分身である主人公は父親が反戦主義者家庭で、意識の高い家庭に生まれ育ったようだからな。
漫画はあくまでエンタメではあるし、一つの作品で全てを描き切る必要もないのだし。
本当の問題は作品それ自体というよりも、そこから読者が何を読み取るか、あるいは読み取らないか、だろうか。
はっきりとした反戦のメッセージを押し出していない作品ではあっても、戦争は怖い、戦争はするべきではない、くらいのシンプルなイメージは読み取れるのではないだろうか。それを読み取らないどころか正当化したり、他国攻撃の材料にする人間の多さが問題なんだよな。
例えば、グリム童話のヘンゼルとグレーテルは子供の権利を考えさせる部分がある。アンデルセンのマッチ売りの少女などは、本当に社会運動につながったりしている
でも、漫画の場合は辛い話でもお笑いに持っていけたりするので、ある意味、現状諦め、現状肯定、社会の改善には役に立たない場合がある
例えば、はだしのゲン?蛍の墓?にせよやくざ漫画にせよ、日常の風景とセリフが主で確かに事実の主張や証言性はあり疑似体験をする感覚もある
そして悪者は悪者として書かれ、勧善懲悪、ガス抜きエンタメ。解決者が現れ、夢のように解決して完結したり、あるいは悪者を肯定したり恣意的な印象作りもできてしまう。主人公が老人になったり病気になったりはあまりしない。そもそも漫画週刊誌の売り上げのためだったりするし。そんな大仰な考えで描かれる事も少ないだろう
なので一歩戻って、読者よ、この社会状況は何とかならないか?と環境改善を訴えかける力は小説の方があるのではないだろうかと言う気がするね
最も増田は日本文学とか、外国小説でもワンピースのモデルっぽいロバート・ルイス・スティーヴンソンの宝島なんかは、海軍万歳的なポジショントークがあると思ってて、小説も漫画も目的次第かな
長いの社会の現状と、社会はこうあるべきであると言う思想を表現するには、小説の方が適している気がするんだ
社会の現状と、社会や倫理はどうあるべきかなどを考えさせるには、小説の方が適しているから学校は漫画を使わないんじゃないかな
はだしのゲンだったか、同じ作者の他の作品だったか忘れたが、親父が戦争反対なせいで嫌がらせで食料まわしてもらえず仕方なくイナゴを獲って飯のかわりにする描写があった。子供心にそんなゲテモノが家族の夕飯だなんてかわいそうだと思った。読んだ当時にはイナゴの味なんか想像つかなかった。苦かったり青臭かったりするのを生きるために嫌々食うんだろうと思ったが、イナゴはエビそっくりでふつうにうまいそうだ。
というかエビがどう見ても虫なんだよな。あとカニも。虚心に見ればバカでかい虫以外の何ものでもないのに、海中にいるというだけで高級食材である。
ましてホヤとかナマコやウニなんてもうなんだかよくわからない異形のモノなわけだが、人は喜んで食っている。
陸上にいるゲジゲジやナメクジだってがんばって調理すればそれなりに食えるはずだ。しかし誰も敢えてがんばることはしない。きもいから。