はてなキーワード: 論文とは
もちろん全員ではない。
ただ、少なくとも私はそうだった。
十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。
十八歳まで勝ってしまったから、負け方を知らないまま大人になった。
私はどこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。
前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。
今でも半分くらいはそう思っている。
ただ、半分はもう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。
私は引き受けた。
引き受けながら、ふざけるなと思っていた。
社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。
一行目だけは綺麗だ。
二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。
何も書けなかった。
「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。
書けば嘘になる。
私は夢を持っていなかった。
努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。
これは雑誌には載らない。
たぶん誰にも届かない。
けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。
素直になれ。
よりにもよって私が言うことか。
私はずっと素直ではなかった。
性格も悪かった。
懺悔だ。
懺悔は聞かなくてもいい。
ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
地名は伏せておく。
妹が一人いた。
家は古かったが、貧しくはなかった。
私はわかっていた。
手を挙げた。
当てられて答えを言った。
正解だった。
先生が褒めてくれた。
私は嬉しかった。
書きながら本当にそう思う。
あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。
二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。
周りもそう扱った。
先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。
母は嬉しそうに笑っていた。
否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。
中学まではまだ良かった。
授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。
班活動もそれなりに楽しんでいた。
私はクラスで浮いていなかった。
背は普通だった。
顔は、まあ、普通だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。
OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。
今思えば、それも大した自慢ではない。
けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。
自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。
期末試験で一番を取った。
決まる過程で、私は反対した。
もう新鮮味がない。
準備期間は二週間しかない。
私は別の案を提案した。
模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。
これは数字で示した。
前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。
彼は私の数字を見もせずに言った。
私は食い下がった。
「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」
誰かが小さく「うわ」と言った。
私はその「うわ」の意味が今ならわかる。
当時はわからなかった。
担任が温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。
黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。
当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。
客は数えるほどしか来なかった。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が笑った。
私は笑えなかった。
笑えない、というのは笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。
心が笑い方を覚えていない、という意味だ。
彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。
私は一人だけ間違えていなかった。
間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
そして結論を出した。
人に合わせると間違える。
多数派は正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。
そして最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが後で書くことのすべての始まりだ。
似たような出来事はその後何度もあった。
一つだけ、もう一つ書いておく。
班員は四人。
私はすぐに気づいた。
私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。
一人の女子が言った。
「先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は致命的なことを言った。
今でも覚えている。
そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。
けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。
今ならわかる。
ただ、四人で何かを一緒にやる時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。
発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。
私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。
彼女たちも私を呼ばなくなった。
私たちは最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係にはならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。
そのほうが効率が良かった。
私の偏差値は上がった。
この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。
私には、それが奇妙な反論に見えた。
内容が正しければ、それでいいではないか。
なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。
それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。
知性に対する侮辱ではないのか。
私はそう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは私の中で信仰になった。
ここで君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」は装飾ではない。
内容を相手に届けるための、内容の一部だ。
ただの独り言だ。
三十年遅かった。
君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。
私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。
三月十日だった。
寒い日だった。
これは嘘ではない。
本当のことだ。
「やった」とは思った。
けれど、それだけだった。
模試の判定はずっとAだった。
直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。
落ちる理由がなかった。
掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。
私は誰にも電話しなかった。
けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。
蕎麦はぬるかった。
それでも最後まで食べた。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
喜びではなく、空白に近い感情だった。
私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。
誰も私を「すごい」と言わない。
少しだけ怖かった。
けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」
そう自分に言い聞かせた。
これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
英語で言えば、Augmented Intelligence
AIを通して海外の(主に英語の)資料をちゃんと読むだけで、日本人の視野は何百倍に広がるか。
日本でだけまことしやかに唱えられている「経済」や「科学」の常識が、実はどれだけ英語の読めない「専門家」に歪められていた、ただの嘘だったか。
この価値に気づけないやつは、頭が悪すぎる。
日本は、無能な人間のハルシネーションによって30年の衰退を押し付けられていた。
今こそ、AIの拡張知能によって、日本人が本当の知性を得るべき時だ。
大学教授よりもAIに聞け。ビックリするようなきちんとしたソース(国連などの一次資料)付きで、日本の経済論がどれだけめちゃくちゃだったのか教えてくれるぞ。
必要なのは、常識的な感性で、筋のとおらない極論を述べてる「専門家」の詭弁ポイントを見抜く力。
それさえ探り当てれば、必ず本当の常識と、何が歪められてるのかをAIから聞き出すことができる。
たとえば、日本ではずっとまことしやかに語られる、「相対的貧困は『絶対』じゃないから本当の貧困ではないということ」という、無根拠な印象論。
国際常識では、物価は相対的なんだから、貧困ラインも相対的に変わるのが当たり前。
日本では唯一の『絶対的貧困』と強弁される、「最貧国向けの貧困ライン(1日3ドル)」の他に、中所得国向けや高所得国向けなどいくつもの貧困ラインが存在する。
「相対的貧困は本当の貧困じゃない」なんて理屈を、どんな極右政治家でもネオリベ政治家でも、海外では一言も口にしない。
日本社会というエコーチェンバーの中でのみ、何の根拠もなく思い付かれて増幅しただけの、ローカル都市伝説みたいなものなのだ。
では、いくつか確認させてください。
スピ系の理論は近代科学の語彙ではないが意味がある、とのことですが、具体的にスピ系理論と近代科学との対応関係を論じた査読付き学術論文とそれを批判的に引用した論文を1本ずつでいいので挙げてください。
できれば信頼できるジャーナルに掲載されたものをお願いします。
整頓された空気の良い状態とは、具体的にどのような状態を指していますか。反証可能で再現性のある形で定義してください。観測量、観測方法、実際の観測例も併せて示してください。
また、気分が良くなるとは具体的にどのような身体状態あるいは心理状態を指していますか。こちらについても、反証可能な定義と再現性のある観測量、観測方法、実測例を示してください。
上記で定義した空気の状態と身体・心理状態の因果関係はどのような実験で正当化されていますか?
さらに、伊勢神宮や熊野大社の環境が、あなたの言う整頓された空気の良い状態を満たしているという客観的根拠はありますか。関連する調査や文献があれば提示してください。
加えて、伊勢神宮や熊野大社で感じる気分の良さが、上で定義した状態と同一である根拠はありますか。こちらも文献があれば示してください。
軽い気持ちでいるかもしれないけど本当に弱ってる時に取り込まれて金蔓にされる可能性があるから早めに追っ払うべき。
その効果を利用してマネタイズしている商社とホームページを教えろ。
みたいな感じの内容をほんわか質問するように。
数学者が7年悩んだ難問、AIが「80分」で解く──取り組んできた本人が美しいと評価
(リンク貼れないので略)
1196 Discussion Thread | Erdos Problems
(リンク貼れないので略2)
AIが解いたとされているエルデシュ問題#1196とAIによる証明についてだが、数学者になれてない自分でも証明を理解できたので解説してみる。
というか専門家でもない自分でも理解出来るような短くてわかりやすい証明が存在したからこそ、AIが見つけられたんだよねコレ。
リクトマン(AI以前に一番この問題の解決に肉薄してた数学者)が「神の書物の証明」と形容しているが、
昔から難しい問題(色んな実績のある数学者が挑戦したのに解けなかった問題と定義する)に簡単な証明があった時にこういう言い方をする。
さて、まず問題について説明するがエルデシュ問題#1196は自然数の集合Nの部分集合Aが原始集合なら
「Σ[a∈A,x<a]1/(a*log(a))=1+o(1)」を証明する問題となっている。
原始集合というのは例えば素数の集合{2,3,5,7,...}みたいにa<bかつbがaの倍数となるようなa,bを含まない集合の事である。
素数の集合に4を加えた集合{2,3,4,5,7,11,13,...}は2,4を含むし4が2の倍数だから原始集合ではない。
右辺の「1+o(1)」というのはxがとにかく非常に大きければ式の左辺が1に近くなるもんだと思っとけばいい。
原始集合Aに対してAから有限部分を除いた時に、各要素aに対して1/(a*log(a))を足してけば総和が1で近似出来る事を証明する問題だ。
そしてAIによる証明だがこれは特殊な双六(すごろく)ゲームを考えてそのゲームのとある確率を求める事で証明をしている。
・双六は完全な1本道でゴールがなく無限に長くて、各マスに1,2,3,4,...と自然数が順番に書いてある
・普通の双六はサイコロの結果にあわせて1~6マス進むが、この双六では例えばマス「7」に止まってる時は
次は「14」「21」「28」「35」...と止まってるマスの番号の倍数のマスのどれかに進むか、もしくは双六が強制終了する
このような双六ゲームではマス「a」に止まる事がある確率をv(a)とすると、Aが原始集合の時はΣ[a∈A]v(a)は必ず1以下になる。
例えばAが素数の集合を考えると、Σ[a∈A]v(a)はマス「2」「3」「5」「7」...のどれかに止まる確率になる。
マス「3」に止まる事があったらマス「7」に止まる事が無いようにΣ[a∈A]v(a)は排反事象の確率の和になるから1以下になる訳だ。
そして上記のような双六ゲームを考えてスタート地点がマス「n」である確率p(n)と
マスmに止まってる時に次にmの倍数kmに止まる確率p(m,km)を適切に設定する。
そうするとある定数Bがあってv(a)=1/(B*a*log(a))になる。
B*v(a)=1/(a*log(a))になるので、Σ[a∈A]1/(a*log(a)) = BΣ[a∈A]v(a) ≦ Bとなる。
このBがxが大きい時にB≦1+(C/log(x))となる事(Cは定数)を論文内の補題4を使って示しているので
Σ[a∈A]1/(a*log(a))≦1+(C/log(x))=1+o(1)より、証明が完成する。
上記のような双六ゲームを考えてこうやって確率を計算するアイデアは数学には昔からある有り触れた物である。
確率p(n)と確率p(m,km)を考えるのに使うフォン・マンゴルト関数は昔からよく使われてる物だし
確率の設定の仕方も有り触れた物だし論文内の補題4自体も数論の論文で見かける程度には有り触れた不等式によるものである。
するとこの論文は「双六ゲームを考える」「フォン・マンゴルト関数を使う」「確率を設定する」「有り触れた不等式を使う」と
4つの有り触れたアイデアを上手く組み合わせる事で完成している。
でも各段階でどのような有り触れたアイデアを採用するかで軽く10種類以上は選択肢があるし
大雑把に合わせると10000種類以上のアイデアの候補の中から証明出来るものを探す事になる。
この10000種類以上のアイデアを上手く絞ってく能力が高い人は数学者になれる可能性がある。(数学者は必ずこれが出来る必要はない)
が、AIの場合は上手く絞ってく必要もなく10000種類以上のアイデア全てについて試して証明が出来るか全数探索が出来る。
力技で正しい証明を見つけられる訳だ。
今回AIがエルデシュ問題#1196を解けたのはこうやって4つくらいの有り触れたアイデアを組み合わせて完成するような証明があったからである。
今まで考えられた事のないアイデアを必要とする場合や非常に多くのアイデアを組み合わせるような証明になると
AIがアイデアの組み合わせを全数探索する事では証明に辿り着けないから今回とは違うやり方が必要になる。
それでも数が多くはない有り触れたアイデアを組み合わせる事で証明出来るような問題には、今のAIは証明文を生成できるという事である。
時代は進歩したというべきか、4色問題をプログラムで力技で解いた時代と本質的には変わってないというべきか、
それは人によっては違うんだろう。
新卒でアクティブユーザー6 桁は必要だし、万バズは当たり前だし、国際カンファレンスに論文通したりフリーランスとして生活費稼いだりSteamにゲーム公開して稼いだりしないといけない
選民的にも程があるよ
https://togetter.com/li/2694689
昔話+古い風習+昭和の親のノリが全国的に定着した文化現象。要するにガチモンのミーム。
ただし定説としてよく知られているのだが決定的な論文などは見つからなかった。
親が元ネタをちゃんと知っていたら厄落としの愛を表現できたんだけどね。
知らずにやってたならその親はギルティ
桃太郎(川から流れてきた桃から生まれる)、一寸法師、瓜子姫など「川や水辺から子どもが授かる・拾われる」話がたくさんある。
水=命の源・神秘的な場所というイメージが強いんです。橋の下=川岸というイメージが重なって「拾ってきた子」という言い回しが生まれたと言われています。
江戸時代〜戦前まで実際にあった習慣に「拾い親」というものがある。
体の弱い子・厄年に生まれた子を一度「捨て子」に見せかけて道端や橋の下に置き
別の人が「拾う」まねをすることで厄を落とす・丈夫に育つように願う儀式だった。
これが形骸化して、親が子どもをからかうときの定番フレーズになった
特に馬鹿な親は「本当の子じゃないよ」「拾ってやったんだから感謝しろ」という恩着せがましいニュアンスまで付加した。
『お前はうちの子ではない 橋の下から拾ってきた子だ』でも、この風習がそのまま言い習わしになったと分析されている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4791104072
地域によって「紀の川で拾ってきた」「多摩川の橋の下」などバリエーションがあり
関西では特に「わがまま言うたら橋の下に返しに行くで!」という発展形も多かった。
「実はお前は私の息子じゃない」も同じノリで、血のつながりを否定してショックを与える・恩を着せるための定番バリエーションとなっていた。
昭和生まれ・70歳前後の親世代が「鉄板ギャグ」として使っていた話が大量に集まってますが現代の親(特に40代以下)は「絶対言わない」「トラウマになる」と明確に拒否する声がほとんど。
2020年代後半の記事やSNSでも 「今は子どもに傷つく冗談は言わない」 「時代錯誤」「ハラスメント」という認識が主流。
昔は「親の愛情表現のつもり」「子どもが泣くのが可愛いから」だったのが、今は「相手が嫌がったら即やめる」が当たり前になった
https://note.com/bentheunko/n/n765d8ea6c0fc
いきなり被害を受けた学生相手に情けないとか書いて挑発してくるし、
>ネットでたきつけて返信よこせよこさないなら違う対応すると騒ぐ院生
とか言うのも、他の人に指摘されているが某大学教授が変なnote拡散するわ、暗に批判をしているようなツイートだすから直接問いただしたに過ぎないのに、事実誤認をしているのはなんやろ?
>批判論文を頑張って書くほどの研究ではないのはそうなので、俺が当事者ならキャリアに1ミリのプラスにならないし絶対に批判論文書く時間は割かない
とか言いながら、note書いていちいち文句言ってくるのはあまりに理解ができない。支離滅裂。
>女子枠の妥当性を批判するなら、比較すべきはSTEM内での機会構造の話なのに論文は途中から高等教育全体で男性が少ないという話を持ち込んでいるため、何を言いたいのかが分からない。構造化ができていない。
これも意味が分からない。 そもそも構造化されてないとはなにか?も具体的に書いてないから意味不明だし、そもそも高等教育全体の話は逆境指数の文脈で語られた話で出されたもので、考慮事項のひとつを取り上げただけなのでは?
という指摘があったけど、それが正しいのだろう。
>経済的に不利な層、地方出身者、男性が十分に考慮されていないと結論づけていているが、STEM内の性別的な不均衡評価とは分析単位が異なるため女子枠の是非を直接評価する議論にならず、ここでも結局何が言いたいのかが全く分からない。
分析単位云々というけど、アファーマティブアクション系でいろいろな要素を考慮しろって話で人種なり性別なり出るが、それでも各属性を混ぜで制度運用をされているのだから、分析単位が異なる云々も意味不明。
そもそも論点把握ができていないか、制度理解にずれがあるのか? STEAMとは違うような話としているが、枠を作ってその中身をどうするかに何の違いがあるのか? も書けてない。
あとは
>女子枠や女性限定採用が「新たな差別を生む可能性」を指摘しているが実際にどの程度の不利益が生じているかは全く検証できていない。スコープ外なのかもしれないけど、政策批判したいなら政策評価しないとね・・・「男性受験者の合格確率がどれだけ下がったか」、「女子枠導入後に男性志願者が減ったか」、「入学後パフォーマンスに差があるか」化などを見る必要があると思うけど
まあ、ここもほかの人の指摘を見たけど、そもそも女子枠肯定する側などがそういったデータをほぼほぼ可視化してないから出せるわけもなければ、間接的に推論で出さざるを得ないからかなり厳しい。
また、まるで反証側が色々証拠を積極的に出す側になってるのもおかしな話で、本来枠を進める側がなぜ必要なのかやデータを出すもんだろうけど、ほとんど有効そうな情報とか見たこともないが、それでもさも当然の呉tく進んでいるから、反証側がもっと証拠だせ(出せなければ、そのまま有用だぞ?みたいに)言われているように見えてしまう。
(別のコメントでまるで~~の時に批判貰ったときみたいと書いている人がいたが、たぶん証明する側【立証する責任がある側】が反転したかのような体験をしたのだろう)。
というか、こういった議題は法的な議論なども出てくる分野だから、必ずしもデータ出すべきところなのかも謎。
あまり書くと長くなるから、これ以上は詳しく描かないが、先行論文を引用して意見を書いているのをエッセイみたいなものとして扱っているが、それらを基に議論を組み立てることも論文として書くのはそこまでおかしいのか?(誰かか詳しい人の説明くれ)
もちろん著者本人もそれらに基づいて意見を書いているだろうから、そのまんまのっかっているわけでもないだろう。
この批判noteも全く有用ではないとまで言わないが、余計な情報が多くイマイチ何が言いたいのかわからない、割と無理なことを要求している面があるなど。
批判を書くために勢いで書いた感が否めない、わけのわからない内容になっている。
これでどこかの博士なのか教授なのか知らないけど、なんでこんな喧嘩腰でよくわからない文章をわざわざ書いたんだろうな。しかも数年ぶりにnoteで。
〇意が湧いてくるわ。
絶対に普段真面目に論文や批判書いているなら書かないような罵詈雑言を、相手見て平然とかつ公開の場でやるとか異常者やろ。
しかも暗に名前を出さずにそれとなくわかるように批判するとか、仮にも上の身分のやることかよ? 基地外だろ。
こんなものはわざわざ読まないしキャリアにもならない無駄な事だとか言いながら、論文読んで批判するとか意味わからんガイもおるし、あの辺どうなってんだよ?
男女論絡みになると、誹謗中傷やいじめもしていいみたいな態度を露骨にとってくるのマジでうぜえ。
出会ったらあまたを石でかち割ったろかって位腹立つわ。
なんだったら切腹でもしてほしいくらいだし、そうすれば女の枠空くんだし譲ったれよって思うレベル。
あんな質の低い連中が学界にいるほうが損失だわ。
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
Xやメディアで目立つ文学的・批判理論寄りの事例をピックアップ。統計・因果推論重視の実証派とは対照的に、「構造批判」「ナラティブ」「弱者発見」が優先されやすいパターンを示します。
「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」 「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」 (全文は東大公式HP掲載。医大不正入試を挙げ、女子学生の入りにくさを統計で指摘しつつ、新入生に「恵まれた環境のおかげ」と諭す内容)
「家事は不払い労働」「愛の行為だからお金に換算できない」で本当に正しいのか? → 断固として「不払い労働」と呼ぶ。 (1980年代から一貫。家父長制と資本制の搾取構造として位置づけ)
努力や個人の責任を「環境のせい」に還元し、弱者発見を強調。統計(医大合格率1.2倍)を挙げるが、解釈は「構造的女性抑圧」一色で、男性の努力や逆差別(例:理3類の微妙な数字)はスルー。家事「不払い労働」論も、男性の家事・育児負担増やDV被害男性のデータは無視しがちでダブスタ。ポストモダン的「客観性への懐疑」を体現し、「がんばっても報われない社会」を前提のナラティブ優先志向。
高市早苗氏について:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「女性がどういう歴史を歩んできて、どんな目に遭って今まで生きてきて、政治がそれに対して何をしないといけないのか一度も考えたことないのだと思う」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」 (会場爆笑。TBS「サンデーモーニング」出演者としても知られる)
通常なら「女性政治家への性差別」「属性攻撃」「トランスフォビア」と猛批判する側が、自ら女性議員を「中身は男」と貶下。女性首相誕生を「恥ずかしい」と選別し、政敵のイデオロギーを「女装」喩えで攻撃。フェミニストの権威を盾に、都合の悪い女性を「名誉男性」扱いする典型。古市批判の「文学的」路線を超えた、感情的・属性依存のイデオロギー亡者ぶりが露呈。
「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」 (UNESCO報告書を巡る議論で、反対論を「弱者男性のワガママ」と一蹴)
女子枠(ポジティブアクション)を「構造的抑圧是正」と位置づけ、反対意見を即「ミソジニー」「弱者男性のワガママ」と人格攻撃。教育社会学者としてデータ(格差統計)を使うはずが、相手の動機を悪意で決めつけ、議論を封殺。 **弱者男性の「ワガママ」を問題視しながら、女性枠優先の「ワガママ」はスルーする二重基準。
「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」 (菅政権批判の文脈で投稿。学問の自由より「政権叩き」の文脈を強調)
学術会議を「専門家」の聖域として守り、外部(政権)批判を「新政権のツッコミどころ」と一蹴。自分たちの権威を盾に、任命拒否自体を問題視しつつ「本当の危機は大学改革」とずらす。ポピュリズムを非難しながら、左派迎合的なナラティブを優先。実証派なら「学術会議の実質的影響力や再現性問題」をデータで検証するはずが、イデオロギー優先。
「ネット右翼の数はネット利用者の1%未満」「愉快犯」「言説の広がりは深刻」。 近年も『日本社会のしくみ』などで「大企業型・地元型」の暗黙ルールや二重構造を批判し、右傾化ではなく「左が欠けた分極化」と分析。
日本社会の「暗黙のルール」やナショナリズムを構造的に解体するが、自陣営(左派)の歴史解釈は絶対化。ネット右翼を「少数愉快犯」と矮小化しつつ、反対意見の広がりを「深刻」と警戒。データ(調査比率)を使うが、解釈は左翼迎合で「日本人原罪論」の延長。
「援助交際を主体的選択」「まったり革命」と肯定的論じる(後に一部修正)。
安倍銃撃事件で統一教会問題を「世直しとして機能した」「安倍の死で瓶の蓋が取れた」と発言。
初期はサブカル肯定的だったが、近年は統一教会・安倍批判で「構造的問題」を強調。事件を「自力救済」の文脈に置き、社会包摂不足を政権のせいにする。データ(非正規雇用拡大)を使いつつ、左翼迎合のイデオロギー優先。
ダブスタ・レッテル貼りが特に目立ち(田中・本田)、権威を盾にした体制批判(西田・上野)が学問の看板を借りて活動家に寄りやすい。Xで目立つloud minority。実証派(計量社会学)は論文で勝負してるから静かだが、社会学を「科学」に戻すにはこうしたアホ発言の構造的問題を暴くしかない。
和訳(画像テキスト)Dr. Akiko Iwasakiは、post-vaccine syndrome (PVS)(ワクチン接種後症候群)の研究と出版に関する課題について指摘しました。この症候群はまだ十分に定義されておらず、疲労、運動不耐性、不眠、めまいなどの症状を含む可能性があります。「我々は論文を投稿しています。そして、査読や出版の前に研究結果を投稿できるプレプリントサーバーが今あることを嬉しく思っています。もちろん、科学者として、私たちの目標は行ったすべての研究について査読付き論文を出版することです。それは、研究が一貫性があり、科学的出版基準を満たすことを確かめたいからです。しかし、何らかの理由で、これらのpost-vaccination syndromeの論文を出版するのが難しいのです。症状の記述であれ、post-vaccination syndromeとLong COVIDの症状の比較であれ、post-vaccination syndromeの生物学的分析であれ、多くのジャーナルに投稿してきましたが、これらの論文のいくつかは出版されていません。私はこれが偶然だとは思いません。私は多くの論文を出版してきましたが、Long COVIDやワクチンの有効性など、ワクチン接種の受け入れられた利益に沿った内容の、同等の質の論文を投稿した場合は、出版にそれほど苦労しません。この出版が非常に難しいのは、偶然ではないと思います。私は、ワクチンの擁護者である人々(私自身もそうです)がいると思います。その中には、こうした研究を出版することで人々の不安を煽るのではないかと感じる人がいるかもしれません。私は、post-vaccination syndromeの背景にある要因を問うただけで、無責任だと非難されたことさえあります。抗ワクチン派がこれを利用してワクチンへの恐怖を煽る可能性があるからです。こうしたことがすべて、これらの論文を出版するのが非常に難しい根本的な理由になっていると思います。もちろん、他の理由もあるかもしれません。」(出典:Akiko Iwasaki教授のポッドキャスト発言)
で、natureの本文はカネ払わんと読めないので分からんけど、
grokによると、
"ただし、記事全体はワクチン全体を否定するものではなく、稀な副反応も含めてオープンに科学的に調べるべきだ、というバランスの取れた内容です(彼女自身はLong COVID研究などで積極的にワクチン・支持の立場を取っています)。"
だってさ。
anond:20250817190005 【悲報】膵臓がんでコロナワクチン追加接種回数が多いほど予後不良 anond:20250926162323 コロナやインフルでがん再発の恐れ anond:20250929182919 コロナワクチンでがんが増えてる件 anond:20251024230510 コロナワクチンでがん治療の効果が上がったという話 anond:20260111135650 【悲報】コロナワクチンさん、がんを促進させていた anond:20260112162738 【悲報】コロナワクチンさん、心筋細胞を攻撃していた anond:20260117155845 【悲報】コロナワクチンさん、やっぱりDNAが混入していた anond:20260125195834 【悲報】コロナ西浦論文さん、無事叩かれる anond:20260218115839 【悲報】コロナワクチンさん、大量虐殺していた anond:20260504092251 【朗報】Natureさん、反ワクの正しさに気づいてしまう
この増田が言うところの"学歴もなくて、職歴もなくて、ネットで副業稼ぐチャンスなんかいくらでもあった"ってどこの世界の話なんだろう。
ワイは最高学府 (本来の定義通り) まで出させてもらい、いざなみ景気まっただ中にコネで就活してたのでそんなに苦労をしていないのだが、
それは特殊な事案だと認識している。ちなみに、規定の論文数に達し、卒業見込みができたときには普通の就活は終わっているのでコネしかなかった。
そこまで進学しなかった高校・大学の同級生たちの就活状況は結構渋いものだと知っているので、増田みたいな考えには同調できない。
自分が大学に進学した頃、当時入っていたサークルの先輩が就活をしていて、その人から就活の話をいろいろと聞かされていたが、
そのときに100社以上受けたという文系女性に会ったという話を聞いた。難関大学でも大学でやってきたことが曖昧だと就活で苦労すると言われていた時代だった。
一応、難関大学とされる大学にいたが、就活が決まらず、メンタルやんでいく先輩、同輩、後輩をそれなりに見てきた。
あまり友達がいる方でもないが、高校の部活OBで付き合いがある人を考えても、それなりのところに勤めている人は数えるくらいしかない。
今ではインターネット面接なんて普通にあると思うのだが、当時は実際に会場に出向くのが当たり前だったので、
地方大学卒だとまず地元企業以外の就職は旅費の確保からだった。地方国立大学だと、大学名で足切りされて面接すらないというのも普通。
地元企業でも正社員採用があったのは斎場くらいだったと聞いている。
学歴があっても採用がないからその学歴に見合わないほど低い待遇で働いているひとが多数いた時代、それが氷河期だよ。
そして、そこで人材の基準がバグっちゃったので能力高くて安く働く日本人を取ろうとして、とれなくなっている日本企業って感じに見えるね。