はてなキーワード: あいみとは
量や性能と価格が比例するという事例に慣れていたから、例外に出会ってうまく価値を解釈できなかったのですね。
りんご1個とりんご100個だと、同じりんごなのに値段は100倍くらい違います。
Appleの製品ラインナップを見れば、カメラの性能が高いモデルはより高価に、いっぽうで廉価版はそれなりに性能が落ちる。
このような事例は、現代を生きる私たちには日常的な光景なんです。形のないものにいくら払えるかというのは、実は難しい問題で、みんな判断に苦しんでいるものです。
で、結婚指輪の話って「形がある」のに、いちばん高い部分がむしろ“形じゃない”んですよね。金属と石の重さ、加工コスト、原材料の相場──そういう“検索可能な価値”は、値札の一部でしかない。残りはだいたい「社会的な機能」に課金している。
たとえば結婚指輪は、日用品というより儀礼の道具です。儀礼の道具は、使い勝手の良さではなく「これをやった」という履歴を残すために存在します。履歴を残すには、相手と同じものを、同じ場で選んで、同じ手順で買う必要がある。つまり指輪は“物”であると同時に、共同作業の証跡でもある。あなたが「ぼったくり」と言った瞬間に彼女が傷ついたのは、金属そのものを否定されたというより、その共同作業の意味づけを根こそぎ外されたからだと思う。
もう一つ別の切り口で言うと、結婚指輪はコミットメント装置でもあります。人間関係って、口約束だけだと不安定になりやすい。そこで「簡単には手放せないコスト」をわざと支払って、関係を安定化させる。これ、恋愛に限らず、引っ越しの敷金や会社の保証金みたいなものと同型です。合理性で見れば「その金で別の実用品を買えた」は常に真なんだけど、その“別の実用品”では達成できない機能(関係の固定、周囲への表示、当人同士の納得)を買っている。
ここまでを踏まえると、指輪の値段は「原価」とは別の座標で決まります。むしろ原価に釣り合うべきだという見方のほうが、結婚指輪という制度の設計目的とズレる。制度は、万人が同じ価値観を共有していない社会で、一定の合意を生むために“割高に”できていることすらあるからです(安すぎると、儀礼としての重みが成立しない)。
だから、あなたがやるべき価値判断は「指輪は金属と石として妥当か」ではなくて、
「二人で同じ痛み(出費)を引き受ける」ことが大事なのか
妥協案も、機能を残したままなら作れます。たとえば「素材や石のグレードを落としても、選ぶプロセスとペア感は残す」とか、「普段用リングは軽く、節目に別途記念の品を作る」とか。金額の大小より、どの機能を守るかの設計です。
最後に。あなたが「金は払う」と言ったのは誠実だけど、彼女が欲しかったのは“支払い能力の証明”というより、“一緒に意味づけする態度”だった可能性が高い。ここが噛み合わないと、指輪に限らず、家や旅行や親戚づきあいみたいな「実用品と象徴が混ざった支出」で、同じ事故が何度も起きます。だからこれは指輪論争ではなく、二人の意思決定プロトコルを整備する良い機会だと思います。
https://x.com/tabitora1013/status/1926411841665741127
タビトラという産婦人科医だという人物が、「これからお医者様になる有望で優秀な学生さまの進路選択の参考になれるんだから、ハラボテ女は黙ってマンコ晒し物にしろ」と言って燃えている。
やはり、他人の体を傷つけその生死を左右する権利があるという自負は、医者の自尊心をどこまでもどこまでもすくすく育ててくれるのだろう。
タビトラ氏には患者の妊婦など、蒙昧で怠惰な動物のくせにいっちょ前に人権を主張する意味の分からないケダモノに見えているに違いない。
数か月前に麻生泰という美容整形外科医が、自分ちの勤務医であるところの、グアムではしゃいで死体写真をSNSに投稿した黒田あいみという異常者の医者を擁護して
死者の尊厳よりお医者さまのお勉強が大事だろと本音を漏らして火だるまになった。
彼らのようなモンスター医者はもちろん昔から居たのだろうが、SNS時代には食い合わせが悪い。肥大しきった自分の特権意識を下民たちに向けて開陳したいという、露出狂の性欲にも似た
承認欲求をコントールできるほど彼らは実のところ頭が良くないからだ。
みんな、検体も臓器提供もしない方が良いし研修生の見学も受けない方が良い。お医者さまはみんな、俺たちのことを卑しい実験動物だと思ってるんだから何をされるか分からんよ。
その結果、医学の発展が滞る?人間の尊厳を犠牲にした医療にNOを突き付けて「長生きすりゃいいもんじゃねえだろ」って価値観にスライドしてくのが大事なんじゃない?
子供のころはよく遊んでもらった。
10歳年上の姉だったので、小学生の頃はマラソンの練習にも付き合ってもらっていた。
一番上の姉がとげとげしい感じの性格だったので、とりわけ二番目の姉は大好きだった。
姉が都会から帰ってきたときはとても嬉しかった思い出があります。ミスタードーナッツのお土産嬉しかった。
姉が都会に戻るときは泣いたよ。そりゃあもう。
まだ携帯電話も無い時代。姉が連休か何かで都会から戻ってきた時。
家電話を使って誰かと韓国語を喋っていることを聞いたことがあるが、今思えばあれは統一教会の関係者だったのかもしれない。
自分が中学の頃だった、1990年代中盤の頃にはすでに姉がヤバい宗教に入っていた事は家族の中では周知の事実で、でも現代のようにパソコンどころかスマホが普及する前の世界だったので、そもそも何がヤバいのか。どうヤバいのか。どう対処したらよいのかすらわからんかった。
なので、北海道の田舎にある我が家は、札幌から統一教会の脱会をサポートする「ライラックの会」の人を呼んだ。
ライラックの会の人に何を説明されたかすら、今となっては覚えていないが、母親と同席した当時中学生だった私は「都会から来たわけわからん奴」っていう理由で、相手のことをひどく疑っていたし、事実私の意見が決定的となり、その人には丁重にお帰り頂いたと記憶している。
今の時代であれば、スマホで団体のWebサイトを調べるなり、SNSを調べるなりバックグラウンド調査を出来たはずだが、当時はそれも無理だった。
ある時、姉が結婚相手を連れてきた。キムさんだったかな。詳しくは覚えていないが韓国系の男性だったことは覚えている。顔はうっすらとしか覚えていない。
狭い町営住宅のリビングに姉、旦那、その向かいに自分、母と座っていた。姉の旦那からは白いセーターをもらった。
姉の旦那は「よろしくお願いします」とかなんとか言っていた。中学生だった自分は「あ、はぁ」みたいな感じだったと思う。
キムさんとは以後一度も会っていない。後にも先にもあの時一度きりである。
親戚づきあいみたいなことすら一度も無い。ただ、まだバカだった自分は「そういう人なんだな~」程度に思っていた。
今ならわかるが、姉の結婚相手は恐らくは合同結婚式で出会った相手なのだろう。
一時期韓国に住んでいた事もあったと記憶しているが、それも今思えば統一教会がらみだったのかもしれない。
その頃の姉は、今よりまだまともだった気がする。完全にPX-0になる前のバーソロミューくまみたいな感じである。
今のようにメディアで騒がれるかなり前から知ってはいたのだが、どう対応したらよいかが分からなかったというのが正直なところ。
対応も何も、全容も良くわからない得体の知れない団体で怖かったし、姉とは何か関りがあるらしいが、我が家にまでは影響は及ぼしていない。
そのため、静観する姿勢を取ったのだと思う。まぁ「何も出来なかった」のが正しい。
ある時、親戚が亡くなった。通夜が終わり火葬場にて、姉の話になった。その時自分はすでに20歳を超えていたはずなので、姉は30を超えていたと思う。
つまりは、姉が統一教会と接点を持ち始めてから10年経つか経たないかの頃じゃないだろうか。
姉が、親戚中に「お金を貸してほしい」と電話をかけているらしい。とのことだった。
大好きな姉だったので、この程度で姉を嫌いになるわけはないのだが「へー、そんなことしてるんだー」とあっけらかんに思った記憶がある。
その後も二番目の姉の問題は家族の中では腫れ物に触るような案件だったように思う。
その後メディアでもこぞって統一教会のことを取り上げるようになったのだが、これは意外だった。
なぜならこれまで統一教会のことを取り上げることなぞ全く無かったからだ。
止まっていた時計が進み始めた気がした。
鈴木エイトさんなどが、ワイドショーで毎日のように統一教会を追及をしている時、「このまま統一教会ぶっ倒れろ、ざまぁぁああああああ」と思っていた。
姉をめちゃくちゃにした統一教会をついに動かすことが出来たかもしれないからだ。
中学の時、突然目の前に現れた巨大な団体。でもどう対処してよいかわからずこれまで生きてきたが、ついに彼らを白日の下にさらすことが出来る。そんな気分だった。いいぞもっとやれ。
毎日そう思っていた。
表向きは「安倍首相が亡くなったんだね。悲しいね」という感じを取り繕っていたが、内心は「いいぞもっとやれ」一択だった。
実際母親も同じ意見だった。母親は姉が統一教会に入ったことを長年責めていたので、なおさらだったのかもしれない。
実はそのころ、兄弟3人で作ったグループLINEが存在していた。何かのタイミングでわたし発案でつくったものだ。二番目の姉とテキスト上ではあるが話が出来てとても嬉しかった。
兄弟3人は割と仲良しなので深い話をするのかと思いきや、お互い二番目の姉に気を遣うような発言ばかりが続きそれは一番上の姉も同じだった。
わたしは調子に乗って、二番目の姉に対して「お姉ちゃん、お母さんも心配してるよ。体に元気でね(詳細忘れた)」みたいなことを送ったと思う。明らかに山上事件を意識してのメッセージだった。
姉はそれに反応し「しばらくグループから出ます」とだけ言い残し、グループを退出してしまった。以後、それから二番目の姉とはちゃんとコンタクトは取れていない。
連絡先はつながっているので、ちょこちょこ連絡はするものの、何かと用事をつけて会うことを断られるのでもしかするともう会えないのかもしれないとは思っている。
この結果は姉にとってはどう影響するのだろうか。
アイデンティティを失うのだろうか。
仕事命のオジサンが退職と同時に急激に老化が進むのと同じように、姉にとってはおそらくは心の拠り所となっていたはずの統一教会。
それが解散となると姉の心はいったいどこに行くのだろうか。心にぽっかり穴が空いて自死でもしちゃうんだろうか。
姉は今は50代前半である。
立派に子供を育てている話も聞いている。たぶんその子たちは二世信者なのかもしれないが。
我々の人生がこのような運命を辿ることになってしまった理由の一因には、間違いなく統一教会の存在があるが「そんな状況を作り出した統一教会がとても憎い!」 というような気持ちは実は全く無い。
姉の人生の目の前には統一教会があり、わたしの目の前には統一教会が無かった。ただそれだけの話だったのだと思う。
ソープランドは苦手。
ソープランドは、
なんか女の人がちょっと怖い。
他の風俗にはない殺気みたいなもんが漂っていて萎縮する。
やるか?やられるか?ガチの玉のとりあいみたいな雰囲気があってとてもリラックスしてセックスが出来ない。
うーん、これもちょっと。
10代とか20代前半の飢えたハングリーボーイとかならいいんだろうけど。
脱いでしゃぶられて、入れて、腰振って、はい、終わり。
みたいなのは無理。
本来セックスはサービスは含まれていないが個人サービスとして提供される。
これは上記に比べるとかなり、良い。
イチャイチャが得意な子だったりすると本当に恋人気分が味わえる。
ただそういう相手を探すのが大変。
見つかってもすぐに消える。
だいたいいい子は長くて半年で消える。
そのあとはまた放浪の旅。
中高で普通の女子がいいなと思えるような人間はそれなりに容姿が整っていて性格が良い。この時点でコミュ力のある人達は世間に出たら上位数%の上澄みである。社会人まで残ってたらラッキー、ほとんどが学生時代から彼女が居てそのまま結婚する。この層からは浮気とかモラハラ束縛とかではじき出された人間だけが婚活の場に出てくる。
学生時代はクラスで毎日顔を合わせていたから手が届く存在なのにチャレンジもしなかった自分、手元にあったはずなのに失われた青春、のような認識になりがちだが、そうではなくかなりの高望み片想いだと考えておくほうが現実に近いと思う。婚活で「年収1000万以上の同年代希望です」と言ってる人みたいなもの。
婚活ではこの層からパートナーを探してはいけない。前述の通り通常なら学生時代の彼女と結婚しているはずだからである。そうなってないということは何かしら問題があって弾かれたということだ。だからワンナイト目的がいたり既婚バツイチを隠していたりが沢山いて腹の探りあいみたいなことになる。
自分自身が学生時代に相手が出来ないくらい恋愛コミュ障なのだから、探すなら同じように恋愛慣れしていないコミュ障から探すのだ。
よその家にお邪魔するときは手土産を持たせるし、うちに呼んでほしくもないのであまりよその家にもお邪魔させてない。
多分、家の容積と構造の変化もこれをもたらしていると思う。
祖父母宅は屋根裏部屋も蔵もあって、収納スペースが大量にあったので、母屋の見えるところに収納をする必要はなかった。
自分が育った家は子供部屋が玄関から通じる廊下に直通していて、リビングにいる家の人に声をかけることはあっても中にまでは入らなかった。
今の自分の家は所謂リビングイン階段構造なのでリビングを通らないとどこにも行けない。
お姉ちゃんがお風呂に入っている間に弟の友達が遊びに来てリビングで遊び始めると風呂から出られなくなるあれ。
収納も少ないので、とにかくいつも家がごみごみしているから、誰かが来るとなると大掃除が必要。よって、あまり人に中まで入ってほしくない。
近所づきあいはそれなりにあり、子供も近所の大人と顔見知りだけれど、別にお互いに家の中にまで入らない。
子供のころは友達の家に行ったり、自分の家に今でいう放置子な子供が入り浸ったり、親の友達の家に泊まったりしてたけれど、誰かがいうような学びは特に感じなかったな。
しゃああああ
いまセルフカットで2週間だからあと2週間はガマンしたいけどいまののびぐあいみてると来週セルフカットしたくなりそうだなあ
シャワーあびないとかみみじかくてもうざいんだよね
かみなりがあめの降りだす合図だった
そこまでおなかすいてないけどどーしよっかなー
ただうつわにうつすときしっぱいしてちょっとこぼれちゃったんだよなー夜
それで先にこなだけいれといたスープもこぼれちゃってうすまっちゃった気がする
ほんとはよるに割引弁当とかかいにいこうかおもったけどガマンしたんだ
それにしてもセンタンのクランチシュガーコーン、パッケ0-時のカロリーだとかわってないけど、アイスの量へった気がするなあ・・・
真横から見たとき、まえはふちのラインから山形になってたのに、いまはふちのラインからセンタンが見えるかんじになってて、あきらかに盛りが減ってる
たまたまですよっていわれんように日付かえて買ったものも同じだって証明に
がんばってるのは店のほうか
しかし袋ラーメンあきたから雨うざいけどなんかかいにいくかなー
ふぁみおぺい100円付与されてたからこれで現金10円くらい足してアルコール1本かって、レシートでもう1本もらってクーポンで1本もらって、
10円で3本もらいにいくのだー
8月18日~8月20日まで新宿マルイワンで開催されたお渡し会に参加してきました。最終日だけ。
なんのお渡し会かって、認知度向上も含めて言うとね、アイカツフレンズ!の5周年を祝ってのお渡し会。
あのアイカツ!シリーズ3作目の「アイカツフレンズ!」。無印ではシリーズ合同ライブ、スターズ!では感謝祭、フレンズ!はお渡し会です。いいよね等身大で。なんかあいつ等なら本編でもやってそう。ファンとの距離が近いよ。
放送当時にもお渡し会やってまして、自分も参加してたんですがそん時はポスカ渡されて速攻剥がされたんですよ。今回もそうなんかなーって不参加でした。
今回もそんなんかなー思って調べてると「2,30秒ぐらい話せる」ってことだったんで当日買い物して整理券ゲットしました。
ただお話出来るとはいえ時間制限があるので、事前に何を伝えたいかをまとめて挑みました。それがこれ↓
・10thFesのステージ最高だった
・一緒にアイカツ!をやって欲しい
どこまで出来るか分からんけどなんとかやった。
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2人「お願いしまーす!」
僕「10thFesのサンメガミすごい良かったです!凄すぎてフィギュア作りました(ポーチに入れた成果物見せる)」
松「えっすご!フィギュアって作れるんですか?!」
木「すごい!」
僕「作れるんですよ!あとすいません一緒に『アイカーツ!』やってくれませんか?」
せーのっ「「「アイカーツ!」」」
僕「ありがとうございます!それじゃあ失礼します!!」
松「可愛く作ってくれてありがとうございます!」
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死
終わった後若干の多幸感を味わったのち「もっとこうしておけばよかった…」と後悔の洪水に飲み込まれた。
なにがいけなかったのか、もっとこうすればよかったところを以下に記す。
①伝えたいことが先行し過ぎた
時間制限がある以上、事前に何を伝えたいのかを整理しておくのはもちろん重要だが、それにとらわれ過ぎるのもよくない。
なぜなら上記を優先するあまりそれ以外の対応が全く出来なくなる。
今回で言うと自分は「10thFesのサンメガミが強過ぎた」「成果物を見せたい」「アイカーツ!を一緒にやって欲しい」この三点を念頭に置いて挑んだわけだが、それ以外の行動を完全にすっ飛ばしている。せっかく目の前に推しが二人も、机一つ挟んでいるのであればもう少し会話できたはず。あまりにも勿体なさすぎる。
また、完全に失敗したことは成果物(有形物)を見せることを目標の一つに挙げてしまったこと。
これ、結構やることが多い。「成果物を見せる」「会話する」「キャストを見る」「時間を考慮する」とやることが多過ぎる。喋る見る動く考えるを一気にやってるわけだからパニックにもなってしまう。実際、自分は必要最低限の事しか出来なかった。せめて「成果物を見せる」を削除しておけば「喋る」「見る」の二つぐらいに絞られたのではないだろうか(時間考慮は初回だとどうしても意識しちゃうからしゃーない部分もあると思う)。
「認知されてぇ」と自分のエゴを押し出した結果残念なことになってしまった。作品があって自分があることを意識すべきだった。テメーが前に出ることはない、ただゲストを見れるだけでいい。そのうえで会話を楽しめれば直義。
伝えたいことを優先し過ぎたせいでちゃんとゲストのお顔や衣装を目に焼き付けることが出来ませんでした。これが一番やらかしたことだと感じてる。
みなさんイベントで推しとどこまで接近できますか?ライブの最前でもそうそう近くまで行けませんよね?今回は机一台分接近できるんですよ。近距離パワー型なら相手がスタンドを発現させた瞬間拳を叩き込める距離ですよ。
それなのに、それなのにお顔を拝見することが出来なかった。瞼の母を瞼の推しにすることが出来なかった。南斗のシュウだったらオタクの掟により己の両目の光を捨ててますよ。
これねぇ…悔やんでも悔やみきれんよ。ここが一番後悔してる。なんでもっとちゃんと見なかったん・・・?て。もうあれ以上接近できるイベント、向こう5年はないんじゃないかな…。
だって私服じゃなくてスクールドレスなんだぜ?ライブで着てるお馴染みのあの。それ着てるんだぜ?可愛さ100万倍なのに、俺はなんで…ナンデナンデダンスですよ。せめてゲストの目を見てほしい。あっちが自分のこと見てくれるんだぜ?ライブで不特定多数にファンサしただけで「俺にレスくれた!」なんてバカみてーなこと言ってる状況じゃねーんだ。正真正銘あの時だけは自分ひとりだけ見てくれてんだよ。その意味をもっと考えろ。
③ろくすぽ会話出来てない
せっかくスクドレ着てんだから「めっちゃ可愛いですね!」くらい言えばよかった。
ヒ見てるとマニキュア褒めたら二人が見せてくれたとかツイートしてる方がいてね、吐きそうになった。お渡し会上級者か?
事前に言いたいことをまとめるのはいいんだけど、もっとキャッチボールしろ。一方通行になるな。一往復して終わりじゃなくて2,3往復キャッチボールしろ。頑張れ。
④剥がされる前に切り上げた
アホかお前アホか。スタッフに剥がされなければ「お渡し会」は終わりじゃないんだ。肩叩かれるまで全力でゲストを見ろ。会話しろ。
で、次回参加するならこれを意識したい。
③会話を楽しめ。多少暴投してもいい、頑張ってキャッチボールしろ。
つってもね、無理だろうよ。無理に決まってんじゃん。推しが目の前にいるんだぜ?頭真っ白になってパニックになるよ。
じゃあどうすりゃいいかって数こなすしかないんよな。勝手を知るというか。
「見ろ」「話せ」この二点なんとかすりゃ勝てると思うしガンガン参加して養いましょうよ。ああいうのは何度か経験しないと分からん!!!!!!!!!!!!!!!だからもっかいお渡し会やってくれ頼む!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あと、これは余談なんですが自分は豚なのであいみおと「アイカーツ!」するのは万死に値する(百合の間に挟まるやつ)と思うんですよ。これね、すごい悩んだ。やっていいものか。でも一緒にやった、やってしまった。二人が「アイカーツ!」するとこを満足げに腕組んで眺める異常者も一緒に「アイカーツ!」する異常者も等しく異常者だろと。
「壁のシミになりたい」とはよく聞きますが、自分から言わせてみればシミだろうが人間だろうが「自分」という存在(不純物)がその作品に介入すること自体おこがましい事なので、それ以外は一緒です。あれで完成してるのになにかを追加する必要性を感じない。
だからね、やっちゃったよ……一緒に…多分これ逃したら一生出来ないってのもあって………ごめんな…ごめんな………超楽しかったよ…………。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
意外と内定たくさんもらえる感触があって、ありがてぇーと思ってる。ポテンシャル採用って結構とおるんだなぁ。あまりに経験が汎用的でないので凹んでたけど、意外と評価される部分もあった。面接までいったのが今日までに6件あった、そのうち3件内定。残り7件面接。30件応募でこれならまぁ、良いでしょう。ほとんど20代というだけで受かってるのは知ってるよ。志望動機は、本音のレイアウトを変えるだけだし、あとは割と、どこでも使いまわせる。
ただ、ほぼSES。。あまりに悪しきと言われていて実態が分からない。ニコニコしながら、夢のようなことを語ってくるところもあって、こいつらは詐欺師じゃないかと思いながら全力でにこにこして是非入社したいですと言ってるのもなんだかたぬきの化かしあいみたい。
1社につき約2時間で志望動機経歴関連と企業研究と逆質問を固めてまとめて頭に入れてって面接ではいつもすごく緊張して、今日はなんだか頭と背中とめんたまが痛い。明日はすこし、ディスプレイから離れる時間を作ろう。えらい、私。頑張ってる、頑張ってるぞー。。。