Category: 街角探検
碁盤の目が、東西南北と一致していないのが仙台に似ている
広島の被害。
大都市の住宅地なのに、2日も経ってからさらに行方不明者の数が大幅に増えるのって、なにか変ですね。
普通ではありません。
ツーレポの続きです。
翌日も小雨でしたが、初めて訪れた高田の街を、傘を差して朝飯前の散歩。
高田の街は開府400年なんですね。上杉家よりもあとの時代になりますか。
雁木はやはり夜歩いたほうが良かったかな。
可愛らしい教会もありました。
盛岡のように、市内にいくつも川が流れていて、周辺が湧水公園になっています。
そして、高田城の外堀。
はすまつり中なんですが、どうですか、この広大さ。
日本一いや、東洋一なんだそうです。
ホームページから引用。
明治4(1871)年、高田藩は戊辰戦争と大凶作による財政難に苦しんでいました。それを打開しようと、戸野目の大地主・保阪貞吉(初代の津有村長)が自身の財産を投じて、お堀に「れんこん」を植えたのが始まりです。
れんこんは昭和37(1962)年まで採取されていました。
昭和28(1953)年、はすの研究で知られる故・大賀一郎博士が訪れた際、「はす池の規模の大きいことは世界でもまれで、特に紅白入り交じっているのは珍しい」と激賞しました。それを聞いた市民が“東洋一”と語り伝えて現在に至ります。
高田公園の城跡を巡る外堀約19haのほとんどをはすが埋め尽くします。種類は和蓮で、ほとんどが紅蓮ですが、部分的には白蓮も交じっています。
昭和58(1983)年には、東京農大の北村文雄教授より新種のはす12種類が寄贈され、西堀北側の観蓮園でそれらも観ることができます。
前の晩、蕎麦屋のおばあちゃんが、蓮は花が開く時音がするらしいの、聞いてみたい、と言っていたので、耳を澄ましていましたが、聞こえませんでした。
琵琶湖で蓮が異常繁殖していると騒ぎになっているそうですが、愛でられる蓮と、嫌われる蓮、違いは何なのでしょうか。
傷んだ葉っぱでも、こんなに美しいのに。
蓮様。白蓮もありました。
どちらも美しいもんです。
蓮まつりはこの翌日が最終日。見納めでした。
おばあちゃんの話では、黄色い蓮もあるそうです。
そして、スカルプチャーもあります。
ブロンズプロムナード。
忠良さんの作品もありますよ。
そして内堀。
こちらには蓮はありません、深さが違うのでしょう。
春日山城が強大な山城なら、こちらも大きな平城あと。
ひとつの市の中に、こんなに大規模な城址公園が複数ある地方都市は、珍しいのではないでしょうか。
この橋は、極楽橋と呼ばれるそうです。
天守閣はもともとなかったそうで、こちらは再建された三重櫓。
メタリックな美しさがある、頑強そうな櫓です。
上杉氏が春日山城から去ったあと、堀氏が海に近い場所に福島城を建て移りました。
その次に越後の領主になったのが徳川家康の六男、松平忠輝。
忠輝の正室は五郎八姫、高田の城と町は、五郎八姫の父伊達政宗の縄張りで、天下普請されたのです。
その年がまさに1614年。
それで高田藩は開府400年を迎えたというわけです。
1614年といえば、言わずと知れた支倉常長が慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに向かった年。
二年前に大地震の被害を受けていた伊達藩が、ほぼ同時に二つの大事業を進めたのは凄いことだと思います。
このお城に来てみたかったのが、もう一つのモチベーションでした。
ホテルに帰り際に寄ったのがこんな洋館。
旧師団長官舎、明治43年(1910年)、旧日本陸軍高田第13師団長、長岡外史中将によって建てられたもので、市内に残る数少ない明治期の和洋折衷の木造建築物だそうです。
小雨の中、予定より長い時間歩いてしまい、花子とアンを見ることが出来ませんでした。
バイキングの朝食。
ちなみに、五郎八姫は、松平忠輝が改易された後、離縁され20代前半で仙台に戻り、仙台城で暮らしたそうです。
大都市の住宅地なのに、2日も経ってからさらに行方不明者の数が大幅に増えるのって、なにか変ですね。
普通ではありません。
ツーレポの続きです。
翌日も小雨でしたが、初めて訪れた高田の街を、傘を差して朝飯前の散歩。
高田の街は開府400年なんですね。上杉家よりもあとの時代になりますか。
雁木はやはり夜歩いたほうが良かったかな。
可愛らしい教会もありました。
盛岡のように、市内にいくつも川が流れていて、周辺が湧水公園になっています。
そして、高田城の外堀。
はすまつり中なんですが、どうですか、この広大さ。
日本一いや、東洋一なんだそうです。
ホームページから引用。
明治4(1871)年、高田藩は戊辰戦争と大凶作による財政難に苦しんでいました。それを打開しようと、戸野目の大地主・保阪貞吉(初代の津有村長)が自身の財産を投じて、お堀に「れんこん」を植えたのが始まりです。
れんこんは昭和37(1962)年まで採取されていました。
昭和28(1953)年、はすの研究で知られる故・大賀一郎博士が訪れた際、「はす池の規模の大きいことは世界でもまれで、特に紅白入り交じっているのは珍しい」と激賞しました。それを聞いた市民が“東洋一”と語り伝えて現在に至ります。
高田公園の城跡を巡る外堀約19haのほとんどをはすが埋め尽くします。種類は和蓮で、ほとんどが紅蓮ですが、部分的には白蓮も交じっています。
昭和58(1983)年には、東京農大の北村文雄教授より新種のはす12種類が寄贈され、西堀北側の観蓮園でそれらも観ることができます。
前の晩、蕎麦屋のおばあちゃんが、蓮は花が開く時音がするらしいの、聞いてみたい、と言っていたので、耳を澄ましていましたが、聞こえませんでした。
琵琶湖で蓮が異常繁殖していると騒ぎになっているそうですが、愛でられる蓮と、嫌われる蓮、違いは何なのでしょうか。
傷んだ葉っぱでも、こんなに美しいのに。
蓮様。白蓮もありました。
どちらも美しいもんです。
蓮まつりはこの翌日が最終日。見納めでした。
おばあちゃんの話では、黄色い蓮もあるそうです。
そして、スカルプチャーもあります。
ブロンズプロムナード。
忠良さんの作品もありますよ。
そして内堀。
こちらには蓮はありません、深さが違うのでしょう。
春日山城が強大な山城なら、こちらも大きな平城あと。
ひとつの市の中に、こんなに大規模な城址公園が複数ある地方都市は、珍しいのではないでしょうか。
この橋は、極楽橋と呼ばれるそうです。
天守閣はもともとなかったそうで、こちらは再建された三重櫓。
メタリックな美しさがある、頑強そうな櫓です。
上杉氏が春日山城から去ったあと、堀氏が海に近い場所に福島城を建て移りました。
その次に越後の領主になったのが徳川家康の六男、松平忠輝。
忠輝の正室は五郎八姫、高田の城と町は、五郎八姫の父伊達政宗の縄張りで、天下普請されたのです。
その年がまさに1614年。
それで高田藩は開府400年を迎えたというわけです。
1614年といえば、言わずと知れた支倉常長が慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに向かった年。
二年前に大地震の被害を受けていた伊達藩が、ほぼ同時に二つの大事業を進めたのは凄いことだと思います。
このお城に来てみたかったのが、もう一つのモチベーションでした。
ホテルに帰り際に寄ったのがこんな洋館。
旧師団長官舎、明治43年(1910年)、旧日本陸軍高田第13師団長、長岡外史中将によって建てられたもので、市内に残る数少ない明治期の和洋折衷の木造建築物だそうです。
小雨の中、予定より長い時間歩いてしまい、花子とアンを見ることが出来ませんでした。
バイキングの朝食。
ちなみに、五郎八姫は、松平忠輝が改易された後、離縁され20代前半で仙台に戻り、仙台城で暮らしたそうです。
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