Category: 美味いもん
戻ってきた日常
例によって、メタボ関連株が軒並み高騰と言うか、高止まりしているのですが、"大丈夫だっちゃ"の一言。
頼もしい先生です。
薬局で降圧剤と、逆流性食道炎の薬をもらって帰宅。
昼は久しぶりにSHAKA。

以前何度か来た時はガラガラだったのに、昨日は満卓。
カレー屋さんとしては広い方なんですが、びっくりです。
チキンスープカリー、トマトスープ、辛さ3、ライス普通、980円。

昼一で、年に一度の排水管清掃。毎年8月の最終土曜日に業者がやって来ます。
キッチンと洗面所、風呂場、洗濯機のとこ、高圧洗浄します。流されたヘドロは、特に回収はしていないみたいなので、下水処理場に行くのでしょうね。
瓶缶を捨てる時、良く洗ってからと言われるけど、震災発生で下水処理場が被害を受けて以来、本当にそれが環境にいちばん優しいのか考えてしまったりします。
その後は散髪。いつもの床屋さんです。
ジモティの親父さんが、釣り好き。
老後は広瀬川で釣り糸を垂れたいので、いろいろ聞くのですが、遊漁券は年4000円だそうです。名取川でも使えます。
帰りに鈴木水産で、一個100円のホヤと、初秋刀魚を買ってきました。
目に付いたのは、大分産の岩牡蠣。今年の東北日本海側の岩牡蠣は外れだったそうですが、すでに終漁。
その後に九州産が入荷するんですね。不思議な世界です。
夕方。
この秋はどこかで火遊びをしたいので、キャンプ用品をチェックしつつ、上越で美味しかったノドグロ、これは福井から取り寄せた干物ですが、ベランダで炙りながら、ビール。

安かったのですが、ちょっと小ぶりすぎます。

20日の精霊流しの花火は殆ど見えませんでしたが、週に何度か聞こえてくる花火の音。

コボスタで5回終了時に上がる花火ですね。
1/4だけ見えます。

そして秋刀魚刺し。
大船渡や気仙沼に上がったばかりですから、まさに初秋刀魚ですね。

味はまだまだかな。
Category: ドライブ
旅は、もう続かない
あとはひたすら仙台に戻り、翌日からの砂を噛むよな生活に備えるのみ。
来た時と同様、国道18号に出ますが、平日の朝のせいか大渋滞。

ラジオをつけたら、上信越道の更埴ジャンクションから坂城インター間が事故で閉鎖中、それでみんな国道にはみ出していたのです。
それでカーナビを見ながら坂城の市内の裏道で坂城インターへ。
上信越道はガラガラでした。
しかしこのまままっすぐ仙台宮城インターまで激走するだけではあまりにもつまらないので、ちょっと寄り道。
最初は富岡製糸場も考えたのですが、朝方がいちばん混むらしく、この日はやめておきました。
佐久小諸ジャンクションで、中部横断自動車道へ右折。しかし高速道路の名前って、実に味気ないというか、お役所的というか、どこを走っているかわからない不思議な名前を付けますよね。この道は小海線沿いですね。
曲がると正面は八ヶ岳です。

中部横断自動車道は、今のところ佐久南インターが終点。
ここで降りて、群馬方向へ左折します。
近くの臼田というところに、函館以外ではここにしかない五稜郭があり、以前来たことがあったのを思い出しました。
北の方向に見えてくるのは、浅間山でしょうか。

中込というところで、中込学校という看板があったので、急遽曲がってみたのですが、テントに覆われていて見えないし、入り口にはチェーンがかかっているし、で結局素通りしました。
あとから調べてみると、こんな建物。

なんと美しい。ウイキペディアによれば、日本最古級の洋風建築(擬洋風建築)の校舎なんだそうです。
見てみたかった。
国道254号線、佐久平から、浄心国境の峠道へ入ると、荒船山が見えてきます。

内山トンネルを抜けて、群馬県下仁田町。とろとろのネギで有名なところです。
10年近く前に、ニューイヤー駅伝の中継に行った時、お土産に一箱もらったことがあるのですが、帰りの車の中はずっとすごい香りでした。
これは帝釈岩かな。

中小坂で左折してワインディングロードに入ります。
正面に見えてくるのが、妙義山。

日本離れした風景で、何度か来ています。

展望台の駐車場からは、遠くマッコウクジラのような荒船山も眺められます。

私らの世代は、妙義山とか浅間山で、真っ先に思い浮かべるのは、連合赤軍ですね。

これまたウィキによると、妙義山(みょうぎさん)は、群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する日本三大奇勝の一つとされる山である。いくつものピークから成り、最高峰は表妙義稜線上の相馬岳(1,103.8m)で、また妙義山系全体の最高峰は裏妙義に聳える谷急山(1,162.1m)となっている。

日本三大奇勝がとても気になりますが、耶馬溪、寒霞渓、妙義山だそうです。
耶馬溪には行ったことがありますが、寒霞渓には行ったことがありません。
松井田妙義インターからふたたびみたび上信越道。
藤岡ジャンクションから関越道。

高崎ジャンクションから最近開通した北関東道。
佐野ジャンクションからはお馴染み東北道。
ずっと高速がつながっています。
ご先祖様が岩船と宇都宮に眠っているので、特に祖父母のことを沢山思い出しながら走りました。
ちょうど昼時は上河内SA。

前に来た時は餃子を食べましたが、今回は隣のレストラン。

九尾。那須に伝わる九尾の狐の物語から取っているのでしょう。

炉遊膳、1630円。

いっこく野州鶏と地元食材のすき焼き膳、895kcal。

豪勢な昼飯でした。
仙台に向かう空には入道雲。

まだ夏は続きそうでした。
1225km 完
Category: 温泉三昧
ごはんのかたさ
昨年今年と、異常気象と言われていますが、春梅雨夏秋冬、五季の変わり目が、とてもはっきりしているように感じています。
まだまだ夏の想い出は続きます。

安曇野から一気に仙台に帰るのは無理かとも思い、最後の宿泊地に決めた、戸倉上山田温泉。
実際にはそれほど距離は変わらないのは現地に行ってから判明。

ずいぶん長い名前ですが、私が泊まったほうが上山田温泉、対岸が戸倉温泉なんだそうです。ブダペストと同じ。
宿泊施設の多い温泉場ですが、私が泊まった山風荘の部屋からこんなネオンサインが見えました。

営業はしていませんでしたが。
明治期に開削された、歴史の浅い温泉地なんですね。
泉質は硫黄泉。

露天風呂もありますが、ちょっと色が違います。

夕飯は部屋食でした。仲居さんたちが運んでくれましたが、特に料理の説明はなし。

色とりどりですね。






酒は、部屋の冷蔵庫にあった地酒、上田の明峰喜久盛と、須坂の造り酒屋でもらった、渓流。
岩手の喜久盛とは無関係のようです。




陶板焼きは旅館料理の定番ですね。




ぐっすり寝て、朝。

宿の向かい、これも部屋から見える場所に、人が絶えないと思ってたら、飲泉でした。

硫黄の香がする塩っぱい温泉。たっぷり汲んで行く人もいます。

朝散歩。

千曲川の上空に変わった雲が浮かんでいました。

このあとはまた温泉。
朝食は大広間でした。

今回の旅で感じたこと。信州のご飯は柔い。
実は仙台に来た頃、東北のご飯は固いと感じたことを思い出したのです。
やはり信州は関東に近いのですね。
Category: 街角探検
信州にも蔵の街
会社では結局腕まくりなんですけどね。
こちらはもっと暑かった夏の報告。
大町を後にして、東へ。
県道31号線から国道19号線、立て続けに、美麻、小川、中条と道の駅が短い距離の間に現れる不思議なエリア。
広くて走りやすい道路はオリンピックの時に拡幅されたものでしょう。
安曇野にいる間は、気温は低めだったのですが、晴れるやいなや信州でも高温。

犀川の渓谷沿いを走ります。
長野市街は避けて高速道路のようなバイパスで川中島の方を通り、千曲川を越えます。

訪れたのは蔵の街、須坂。
勝手がわからないのでまずは須坂駅でトイレ休憩し、観光案内所でパンフレットを貰います。
蔵の街はちょっと駅からは離れているということで、パーキングを探しがてら街なかをぐるぐる。

元々は養蚕で栄えた街ということでした。

蔵前を走り回った挙句見つけた駐車場所は、偶然洋館の前。

旧上高井郡役所。

大正6年(1917年)に建築された、長野県内に唯一残る郡役所の建物です。
全くの奇遇。旧郡役所の画像コレクションが一つ増えました。

ここから散歩です、ぶら風写。

こちらは登録文化財の、塩屋醸造。

元々は上原吉之助製糸とか。

名前は塩屋ですけど、造っているのは、味噌醤油。

工場見学も出来るのかな。

浦野酒舗。

大規模修理中なのは、山七(西糀屋)かな。

蔵のギャラリーになっている、綿幸。

こちらが本館。

ちょっとモダンに改修されている高丸。

小布施家。

蔵造りの町家がずらっと並んでいます。

ここも電柱電線が邪魔ですね。
三階まである、山下薬局。

そして今回驚かされたのが、この家です。

木桁が組まれていて、家全体が持ち上げられているように見えます。

工事作業中のお兄さんたちがちょうど休憩中だったので、思い切って聞いてみました。

なんと、曳家の準備中。
お兄さんたちは移動したあとの土台を工事しているとのことでしたが、この画像で奥にある家が手前まで移動するそうです、7-8mかな。凄いですね。

こちらは、ふれあい館しらふじ。

旧丸田医院の居宅と、土蔵。明治初期の建築だそうです。

廊下でつながっています。

廊下の先は診療棟、こちらは明治後期の建築。

年配のお母さんが丁寧に説明してくれます。
凄いです、須坂。

そしてもちろん酒蔵も。調べてみると、元々須坂城の長屋門。門が店舗になっているのでした。

遠藤酒造場。日本一小さい酒蔵とか。

此処は入ってみるしかありません。

試飲出来る酒の種類が半端ないですが、車なので無理。

どこかで見たことがあるような、アクリル製の升も販売中。

四合瓶を二本買い、アンケートを書いたら、カップ酒を一本おまけしてくれました。
須坂の散策マップはこちら。
再び走り始めます。

長野須坂インターから高速。
上信越道を走り、更埴ジャンクションは松本方面に行って、すぐの更埴インターで降りるべきところ、ナビに逆らって、高崎方面へ入ってしまい、目的地を行き過ぎて戻る羽目になりました。
機材は繰り返しになりますが、Pentax K-5Ⅱs+標準ズーム。食い物はiPhone5です。
今回のツアー二日目から四日目の走破(一部徒歩)コースです。
Category: 博物芸術
いいなぁ夏の野外アート
こちらのほうがずっと小規模ではありますが。

湖畔を見学するのに、こちらに車を停めさせていただいたので、昼飯もここで。
ラーメンと餃子。豚骨でした。

糞暑い日でしたが、なんとかエネルギー補給。

食後に見学したのは、まれびとの家。

ますます去年のツアーそっくりだ。

シルパ・ジョグルカー「Mother Earth」 。

黒田将行「南方山人」。

佐藤香「香の間 蠢きだす鼓動」。

この泥土を使って描かれたようです。

和室の壁、ふすま、天井に描かれています。

宿泊もできるのかな。

鈴木彩香「およいできた!泡」。

風呂場が大変なことに。

佐藤壮生「猿と人」の一部かな。

パラパラ漫画が二つ。

確かに原始的です。

ウィン・ノック「Jerry Works」

他にもいろいろ。

少し移動して、古民家山本邸・蔵。

入場時間外でした。

北ヤマト園。

ブルーベリーの手造りジャムを製造販売しているお店。

ここに幾つか展示が。



店の前が稲尾駅。鉄腕稲尾か。

大糸線と言っても、糸魚川直通はないのですね。

どうも南小谷までのJR東日本は電車区間、南小谷から先のJR西日本はディーゼル車のようです。
また少し走って、西丸震哉記念館前を過ぎ、海ノ口の反対側、木崎駅に近い方ですが、ちょっとスイスのレマン湖みたいですね。

湖畔のハンモック。

キャンプ場もあるようでした。

睡蓮。

ここで木崎湖とはお別れ、長野市方面へ峠越えです。

貨車の家。

まだ未完成かな、窯があります。

淺井真至「かあちゃんありがとう父ちゃん頑張るよ」

仁科正史「木崎の原始人」

鈴木彩花「体の中の星たち 天の川」、制作中でした。

Category: 博物芸術
ネス湖も地溝帯だったかな。
通っていた高校からは、代々木の本校は歩いても行ける距離でしたから、夏期講習には行ったことがありますし、高校の先生もアルバイトしてました。
仙台校は当時の代々木の本校よりデカイし、場所も東口の一等地。
どうなるんだろう。
安曇野の宿を出ると、すぐアートライン。

前々日に来た方向へ戻ります。

天気はこの日、初めて晴れです。

北へ。

木崎湖に到着しました。青木湖などとともに、フォッサマグナの湖。

まずは西丸震哉記念館。

アートギャラリーです。
この夏、信濃の国 原始感覚美術祭2014と言う現代アートの野外イベントが木崎湖周辺で開かれているのを知ったのは、安曇野に来てから。
ここがその拠点らしく、20ヶ所以上の会場に入れるパスポート1000円を求めます。

この記念館内にも、いろいろと展示がされていまして、コチラはノモトヒロシ。

「天狗犬/テングイーヌ」


淺井裕介「泥絵・山と人」。

渡辺拓也x杉原信幸「縄文の家」

木崎湖畔に出て、

西川雅規「葦舟」

対岸まで車を走らせて、耳の杜の森。

キム・ヨンミン「Sounds of the Forest」。
どこまでが作品なんだろう。

西海ノ口堂。

田島征三「ずくだせ平村海ノ口消防団!」。

暑い中、のどかな田舎道を歩きます。

かーけ出したい。

ふと足元に、変わった根菜。

干瓢でしょうか?
パラグライダーが飛んでいます。

タンデムですね。

これは美術祭とは関係ありませんが、着陸エリアは、車を乗り入れられません。

楽しそうでした。

ここがいちばん来てみたかった場所。

海ノ口湖畔にある、キム・ヨンミン「Songs of the Lake」 。

これがこのイベントのポスターやパンフレットに使われていて、魅せられました。

同じく「水玉の庭」。

やはり水面にあったほうが良いですね。

これは作品ではありません、湖畔の朽ちかけた古民家。

虹の家・蔵。

淺井裕介「精霊のための白線柱」

蔵の一階は、一つ一つ開けてみたくなような桐の箱。

二階には、本郷毅史「水源の間」。

川という川を遡っている方です。

「Songs of the Lake」が見えました。

海ノ口の丘。

松田壯統「2000万年前へ沈むボートが運び出す未来」。

これも作品ではありません。

道祖神の集会。

海口庵。

これも作品ではありません。

海ノ口岬。

船川翔司「無人販売所 活き野菜」。

これも遠野の河童釣りを思い出させます。

大糸線のハイブリッドカー。

杉原信幸「海ノ口レイクヘンジ-畑」。

夏休みを感じます。

ティモシーエドモンズ「Water Spirits Awakening」。

妖精かネッシーが出てきそうな、木崎湖でした。

大糸線って、大町から糸魚川までだからなんですね。

いや実際は松本から糸魚川か。
どうも南小谷を境に、JR東日本と西日本、管轄が分かれるようです。
Category: 博物芸術
結果的にはたいした雨ではなかったけれど

食後に向かったのは碌山美術館。

大糸線の線路にほど近い(館内でも踏切の警報機がよく聞こえる)街なかにあります。

すみません、またまたウィキペディアから全面引用です。
荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

1879年(明治12年)長野県安曇野市(旧南安曇郡東穂高村)に生まれ、5人兄弟の末っ子だった碌山は、幼い頃から病弱で大好きな読書をしたり、絵を描き過ごした。碌山が17歳の時、運命的な出会いが訪れる。通りがかった女性から声をかけられた。田舎で珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳が印象的な美しい女性であった。

その人の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる知識の芸術を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。

教会建築の館内は撮影禁止なので、碌山の作品でシャッターを押せたのはこれだけ。

本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカのニューヨークに渡り絵画を学ぶ。アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。つぶさに肉体を写し取ろうとした。

しかし、碌山はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。そんな修行の日々に1903年 (明治36年) アメリカからフランスのパリに訪れた碌山は衝撃的な作品に出会う。1904年 (明治37年)に後に近代彫刻の父といわれる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。碌山は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされる。

アメリカに戻り、1906年 (明治39年) アメリカから再度フランスに渡り、アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意する。学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていった。1907年 (明治40年) フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。年末フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。

そして東京新宿にアトリエを構え、彫刻家として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿にパン屋を開業していた。

碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。

黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。夫の愛蔵が浮気をしてると告白された。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人に高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。

行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で「文覚」が入選。人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとした。ところが誤って愛する人妻を殺してしまった。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。

碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。

出口のない葛藤のなかで碌山は作品を生み出していく。体を地面に伏せ、顔をうずめた女性「デスペア」1909年 (明治42年)。苦しみながらも現実を生きていかなければならない。そこには逃れられない黒光の絶望感が込められていた。同年、 第三回文展「北条虎吉像」「労働者」を出品。1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は黒光を来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。

消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光。しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作。何かに捕らわれているかのようにしっかりと後ろで結ばれた両手。跪(ひざまず)きながらも立ち上がろうとし、天に顔を向けている。

信州大学名誉教授の仁科惇はこの「女」を「矛盾しているかもしれないが、碌山は希望と絶望が融合した作品である。手を後ろに組んで跪いて立ち上がっているのは一種の絶望感の現れでしょうし、そうは言っても顔は天井に向けられ、この構成全体から、希望といったものが込められている。そういう葛藤を『相克の中の美』が宿っているのではないか。自分の思いを作品に昇華させた」と評している。黒光はこの像を見て「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。

同年、4月22日急逝。
30歳の若さでした。上に出てくる相馬愛蔵氏は、新宿中村屋の創業者、妻黒光氏は仙台藩士の娘だそうです。

彼の彫刻も素晴らしいのですが、この美術館周辺の佇まいがまた最高。HPはこちら。

ミュージアムショップも素敵です。

この暖簾が欲しかったのですが、売り切れでした。

地元の高校生の制作だそうです。

写欲沸きまくりの空間でした。

是非お越しください。

天気が良かったらなぁ。

この後また車で移動して、豊科近代美術館。宮芳平展~野の花のように~開催中。

なんでこんな立派な美術館が幾つもあるのだろう。

またまた車で移動中に、少し有名らしい道祖神発見。

こちらも朝ドラ関連。大竹しのぶ主演だって。

1975年というから19歳の時。見てたかも。

少し天気が良くなりかけていたので、展望が良い場所へ移動します。

池田町の北アルプス展望美術館前の展望台から。

天気が良ければなぁ。

もっとも宿のお父さん曰く、夏は晴れてても山は霞んでいるとのこと。

春に来ないとダメか。まだ紫陽花が咲いていました。

またまた移動。
今度は、安曇野ジャンセン美術館。

ここも撮影不可。

上はパンフレットからです。

このあとハーモニックドライブという会社の敷地内にある、IIDA・KAN と言う小さな現代美術館も見学。
すっかり雨対策の一日になってしまいました。

宿は、ワタシ的には超珍しい連泊。
移動し続けることが旅の醍醐味的なイメージが有るためなんですが、もう寄る年波。
またゆっくり、お風呂に浸かりました。

日曜日だったので、宿は前日よりも少しすいています。






鮎の塩焼きにすき焼き。

この夜も美味しくいただきました。


あとはのんびり。

ネットのコメントは全てiPhone5のテザリング経由です。
ぐっすり寝て、入浴して朝飯。湯豆腐付きです。

月の輪子猫に見送られて出発。

行って来ます。

Category: ドライブ
山の中で、生のサーモン

旅館というよりは、企業の宿泊施設の雰囲気。WiFiはありません。

同宿の客も、7-8人のグループばかりでした。

お盆時なので、子供連れも。

昔は温泉を引いていたらしいのですが、今は人工温泉。
それでも木と畳に囲まれた珍しい佇まいでした。

宿のおやじさんと喋りながら、のんびりビールも。

テーブル席で夕食。

好きな時に鍋に火を付けられるように、チャッカマンを置いてくれました。

蕎麦寿司、これは美味しいです。酒は地元の大雪渓。


旭川産の鹿肉。 刺身は信州サーモン(後述)。




自家製かぼちゃ、岩魚の二度揚げ、オクラとズッキーニの天ぷら、粕汁。あとは覚えてません。




涼しい高原の山荘でゆっくり寝て、朝方は雨だったので、風呂だけ入り、朝飯です。

朝は鮎の甘露煮に、とろろ豆腐鍋?


小雨だけど、出かけます。

大王わさび農場です。入場無料。

わさび田の温度上昇を防ぐために、黒い幕で覆われています。

繰り返しますが、小雨が降り続いています。

安曇野といえば、道祖神が有名らしいのですが、この農場にもたくさんありました。

安曇野テーマパークといった趣でしょうか。

口紅道祖神。

休憩所。

アルビノの、鱒が居ました。

道祖神。

そしていちばん絵になる場所です。

遠野のカッパ淵を思い出しました。

水車小屋は、三軒移設されていました。

ゴムボートに乗って水路を回ることも出来るのですが、雨なのでやめておきました。ちょっと後悔しています。

車で少し移動しながら、道祖神などを探してみますが、探していない時には傍を通るのに、探すとなかなか見つからず。
東光寺というお寺のそばにパーキングが有りました。

プランではこの辺で自転車に乗り換えるはずだったのですが、雨が降ったり止んだりだったのでこれも取りやめ。

これは本陣等々力家。

ここが舞台の朝ドラがあったんですね。

それも3年前。震災が起きたあとか。見ない時は全く見てないからなぁ。記憶なし。

傘を差して周辺を少し歩いてみました。

ワサビ田のための、水路が沢山。いい雰囲気を醸し出していますが、道祖神は見当たりません。

建売住宅が並んでいた一角も。

都会から移り住む人様なのかな。

仕方なくまた車で移動して昼飯です。
食事処ふくらい家 笑福の信州サーモン丼、1100円。

ウィキによれば、「信州サーモン」とはニジマスのメスとブラウントラウトのオスを交配させた鱒類の養殖品種で、この「信州サーモン」を使った丼料理。

仙台づけ丼の安曇野版かな。
ちょっと薄味だったので、醤油を足しました。
大王わさび農場で買ってきた自分用。

Category: 博物芸術
Goin' Down The Fossa Magna
そのうち何割かは、コメントを頂いた方だったり、顔見知りであることは想像がつくのですが、それ以外の方はどんな方なのでしょうか?
退屈なブログかと思いますが、これからもよろしくお願いします。
趣味の一つが旅行、そしてもう一つがカメラなので、旅行に出かけて写真を撮り、その記憶をもう一度二度たどって、さらに現地で得られなかった情報をあとからも調べて、記事を書くとともに、その旅行を再び楽しむのが、私の余暇の過ごし方になっています。
お付き合いください。

上越市高田のホテルを出発し、最後にもう一度なるべく雁木が続くルートを抜けて、上越ICから再度北陸道へ。
激しい雨に霞む名立の風力発電所を横目に、西へ走ります。
糸魚川ICを出て、ここから国道148号を南下するのですが、まず立ち寄ったのが、フォッサマグナミュージアム。名前に惹かれました。

私の世代は、何と言っても「日本沈没」で教わったフォッサマグナ。

改めてここで学ぶことが出来ました。画像はミュージアムに数多く展示されている鉱物たちです。

例によってウィキペディアから引用。
フォッサマグナ (Fossa Magna) は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯。中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。語源はラテン語のFossa Magnaで、「大きな溝」を意味する。

本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。東縁については異説もある。

しばしば糸静線と同一視されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であって、「フォッサマグナ=糸静線」とするのは誤りである。つまり、地図上においては、糸静線は「線」であるが、フォッサマグナは「面」である。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。

私もずっと糸魚川静岡構造線が、イコールフォッサマグナだと誤解していました。

フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本という。西南日本に当たる飛騨山脈は(地表は新しい火山噴出物で覆われているが)大部分が5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代や古生代の地層 = 中・古生層)であるのに対し、フォッサマグナにあたる妙高連峰付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀・第四紀の地層 = 新第三紀層・沖積層・洪積層)である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示している。

そんなハインリッヒ・エドムント・ナウマン (Heinrich Edmund NAUMANN) がこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見したフォッサマグナにそって、旅が続きます。

雨さへ降っていな変えれば気持ち良さそうなツーリングルート、平行する高速道路はなく、JR大糸線の線路が時々見えました。

姫川渓谷沿いに走っているうちにいつの間にか峠を超え、長野県小谷村に入ります。おたりむら。変わった読み方です。
そして白馬村に入って昼飯。
このあと信州はずっとそうなんですが、やはり本場、蕎麦屋の密度が高いです。あとはおやきの看板。

BGMはJazz。

この日はやや涼しかったため、豚肉と茸が入った熱い汁で手打ち蕎麦をいただきました。

美味しいお蕎麦でした。

さらに南下すると青木湖、木崎湖を過ぎて大町市、そして安曇野です。
ここでTTのメータパネルにアラーム。

旅先で心配なので、川沿いに車を停めて、マニュアルを読みます。
ストップランプの球切れでした。一人だと確認が難しいのですが、ブレーキをちょこちょこ踏んで、後ろの車を観察すると、ひとつは点灯しているようです。
まあ、一個だけならとりあえず良いかなということで再出発。
一旦安曇野を通り過ぎ、松本に入りました。
信州に来たのは、記録によると1998年と2006年。98年は松本にも来ています。
しかしここに来るのは初めてでした。
開智小学校の奥に見える洋風建築。

旧開智学校です。
またまたウィキから。
開智学校は松本藩校崇教館の流れを汲み、1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校として開校した。当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。

もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸にあったが、昭和期に使われなくなると信州大学付属病院跡地であった現在の場所に移築された。1965年(昭和40年)からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっており、当時使われていた机(二人掛けで、天板が開く)や筆記用具(チョークと黒板消し)などが展示してある。

実に美しい。
旧開智学校校舎は明治時代の代表的な擬洋風建築である。木造2階建て、寄棟造、桟瓦葺きで、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に八角塔屋がある。その前方は1階を車寄、2階をバルコニーとし、竜、雲などの彫刻で飾る。バルコニー上の庇は唐破風形で、庇下は日本風の天使像2体が「開智學校」の校名を掲げるデザインとする。

この校舎は筑摩県権令・永山盛輝の主導で新築されたもので、1875年(明治8年)4月に着工、翌1876年(明治9年)4月に完成した。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重が設計施工を担当した。

こんな油絵も。

せっかく車を停められたので、少しだけ歩いて、松本の国宝へ。

こちらも蓮池の向こうに黒板壁のお城でした。

何度来ても、どう見ても細身のお城。
他の天守閣や櫓と較べると、安定感に欠ける、不思議な雰囲気なんです。

安曇野の宿に向かいました。すこぉし山が見えてきたかな。

Category: 街角探検
碁盤の目が、東西南北と一致していないのが仙台に似ている
大都市の住宅地なのに、2日も経ってからさらに行方不明者の数が大幅に増えるのって、なにか変ですね。
普通ではありません。
ツーレポの続きです。
翌日も小雨でしたが、初めて訪れた高田の街を、傘を差して朝飯前の散歩。

高田の街は開府400年なんですね。上杉家よりもあとの時代になりますか。

雁木はやはり夜歩いたほうが良かったかな。

可愛らしい教会もありました。

盛岡のように、市内にいくつも川が流れていて、周辺が湧水公園になっています。

そして、高田城の外堀。

はすまつり中なんですが、どうですか、この広大さ。

日本一いや、東洋一なんだそうです。

ホームページから引用。
明治4(1871)年、高田藩は戊辰戦争と大凶作による財政難に苦しんでいました。それを打開しようと、戸野目の大地主・保阪貞吉(初代の津有村長)が自身の財産を投じて、お堀に「れんこん」を植えたのが始まりです。

れんこんは昭和37(1962)年まで採取されていました。
昭和28(1953)年、はすの研究で知られる故・大賀一郎博士が訪れた際、「はす池の規模の大きいことは世界でもまれで、特に紅白入り交じっているのは珍しい」と激賞しました。それを聞いた市民が“東洋一”と語り伝えて現在に至ります。

高田公園の城跡を巡る外堀約19haのほとんどをはすが埋め尽くします。種類は和蓮で、ほとんどが紅蓮ですが、部分的には白蓮も交じっています。

昭和58(1983)年には、東京農大の北村文雄教授より新種のはす12種類が寄贈され、西堀北側の観蓮園でそれらも観ることができます。

前の晩、蕎麦屋のおばあちゃんが、蓮は花が開く時音がするらしいの、聞いてみたい、と言っていたので、耳を澄ましていましたが、聞こえませんでした。

琵琶湖で蓮が異常繁殖していると騒ぎになっているそうですが、愛でられる蓮と、嫌われる蓮、違いは何なのでしょうか。

傷んだ葉っぱでも、こんなに美しいのに。

蓮様。白蓮もありました。

どちらも美しいもんです。

蓮まつりはこの翌日が最終日。見納めでした。

おばあちゃんの話では、黄色い蓮もあるそうです。
そして、スカルプチャーもあります。

ブロンズプロムナード。

忠良さんの作品もありますよ。




そして内堀。

こちらには蓮はありません、深さが違うのでしょう。
春日山城が強大な山城なら、こちらも大きな平城あと。

ひとつの市の中に、こんなに大規模な城址公園が複数ある地方都市は、珍しいのではないでしょうか。
この橋は、極楽橋と呼ばれるそうです。

天守閣はもともとなかったそうで、こちらは再建された三重櫓。

メタリックな美しさがある、頑強そうな櫓です。

上杉氏が春日山城から去ったあと、堀氏が海に近い場所に福島城を建て移りました。
その次に越後の領主になったのが徳川家康の六男、松平忠輝。
忠輝の正室は五郎八姫、高田の城と町は、五郎八姫の父伊達政宗の縄張りで、天下普請されたのです。

その年がまさに1614年。
それで高田藩は開府400年を迎えたというわけです。
1614年といえば、言わずと知れた支倉常長が慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに向かった年。
二年前に大地震の被害を受けていた伊達藩が、ほぼ同時に二つの大事業を進めたのは凄いことだと思います。

このお城に来てみたかったのが、もう一つのモチベーションでした。

ホテルに帰り際に寄ったのがこんな洋館。

旧師団長官舎、明治43年(1910年)、旧日本陸軍高田第13師団長、長岡外史中将によって建てられたもので、市内に残る数少ない明治期の和洋折衷の木造建築物だそうです。

小雨の中、予定より長い時間歩いてしまい、花子とアンを見ることが出来ませんでした。
バイキングの朝食。

ちなみに、五郎八姫は、松平忠輝が改易された後、離縁され20代前半で仙台に戻り、仙台城で暮らしたそうです。
Category: 街角探検
やっぱり冬に来るべきかな
想定外のことが重なっているのかもしれませんが、事前に避難することは出来なかったのか、悔やまれますね。
私の今回の旅も、どこで被害にあってもおかしくなかったのかもしれません。
通行止めや避難指示は、狼少年にならないように的確な判断が求められるのですが、結局行き過ぎたり、遅かったり。
津波の時と同じように、自主判断できるように心がける必要があるのかもしれません。
さて、上越市高田。

夕方、雨の中、そぞろ歩きです。カメラ散歩。

ある意味、雨の日向きでもあるのですが、この街に来た理由の一つが、このアーケード見学。

ご存じの方も多いでしょうが、雁木と呼ばれます。

モルタル塗りの家屋の一部になっている家もあれば、

無い家もあります。

古い町家にマッチした、貫禄のある雁木もあるし、

新築の木造もあります。

お盆ということもあるのでしょうか、

ところどころ可愛らしく飾り付けられていたりします。

絵になりますね。
実際よりも明るく写っていまして、全てかなりのスローシャッターです。

さて、この雁木、思い出すのは黒石のこみせですが、どちらも商店街の共有物や、道路の一部ではなく、それぞれの店や家の一部分なんですね。

だから造るのも造らないのも勝手。

それでもこの高田の雁木は、日本一、総延長16kmもあるのだそうです。私が歩いたのはせいぜい2km程度でしょう。

素晴らしい伝統です。
ここなんか、古民家の梁並みの構造ですね。

雁木の路地もあったりします。

これは小さな映画館、ちょっと怪しげですか?

風鈴は、敢えてお盆に飾られているのかも。

五月蝿く鳴り続けることもなく、歩いていると、時々後ろで、ちりん。必ず後ろで鳴るんです。
ご先祖様が、雁木を確認しているのかな...............私が歩くと、風が起きるのか。

何軒か、見学できる町家もありました。

撮影機材は、食い物以外、Pentax K-5Ⅱs + 防滴ズームです。
だいぶびしょ濡れになりましたが、問題なし。
居酒屋。こちらは雁木ではなく、アーケード街です。

少し大きな店を選んだのですが、結構混んでいて5分ほど待たされました。ノドグロの喉って本当に黒いんですね。

地元の海洋高校生が作った鮭の魚醤。買ってくるのを忘れてしまいました。

越後の地酒のみくらべセットに、突き出しはホタテとひじき、地魚の南蛮漬け。




鯵刺しに、ノドグロの串焼き。
尾頭付きは高くて手が出ませんでしたが、串焼きでも激旨でした。
酒はかたふねが美味かったです。
混んでて、肴が出てくるのにずいぶん時間がかかったため、途中で退散。
お盆の時期って、宿でも居酒屋でも、たぶんファミレスなんかでも、慣れないバイトの子が多くて、イライラさせられることが多いです。
繁華街で、お蕎麦屋さんを見つけました。

周りの派手派手なお店は、里帰りで集まった風の若者たちで賑やかなんですが、ここの客は私だけ。

おばあちゃんに明日の観光情報を取材しながら、ざる蕎麦をいただきました。


新潟のソバって、なんでこんなに柔いんだろう。作りたてのまだ温かいヒジキ煮をおまけしてくれました。
Category: ドライブ
お盆だというのに、毎年墓参りにも行かず
朝8時に出発です。
一昨年の夏は北秋田方面(男鹿の五社堂、八竜風力発電所、五城目湯の越の宿、上小阿仁の大地の芸術祭その一、その二、阿仁から角館)、昨年は新潟に遠征しました。
ニッポンの夏、ふるさとの夏のイメージを求める旅なんですが、自分の中でも抽象的です。
東北道から山形道、山形蔵王で降りて13号線を南下、南陽で赤湯バイパスに右折して113号線、毎度通ってる路ばかりですが、沿道の墓地に人が多い季節です。渋滞はありませんが、ひっきりなしに車が走り回っているお盆の東北。
この時点で天気は曇り、ひたすら走り、10:30に赤芝峡で一休みです。

紅葉の名所ですね。

阿賀野川は只見川とともに、ダムや堰が多く、本来は急流なのですが、水面が安定している場所が多いのが特徴です。

天気が良くないので、写真もいまいち。

いろんなナンバーの車が後ろをビュンビュン走ってました。
新潟県に入り、関川村。
丸山大橋にちょっと寄り道したあと、村役場周辺に寄ってみました。

役場前に重要文化財の渡邉邸が残されていたり、古民家が移築されていて、道の駅もあったりする場所です。

とにかく敷地が広い渡邊邸。

残念ながら、現在は修理中でした。中は見られるらしいのですが、先を急ぐ私はパス。

しかし隣にある、道の館でイザベラ・バードの展示があり、寄ってみることに。関川も通っていたのでした。

シンプルながら、詳しく彼女の足跡を追った貴重な展示です。

ほとんど彼女が通った場所の写真のみの展示ですが、これから学ぶには絶好な資料です。
現在は村上まで伸びていて、もうすぐ山形側と繋がりそうな、日本海東北道(なんとかして欲しい名称)に荒川胎内ICで乗ります。

中条から新発田にかけて、風力発電機が増えているのは確認できましたが、新潟県内の高速は、東北道と同じでえらく退屈なので、新潟を過ぎて北陸道に入ってすぐ、黒埼PAのスマートICから出てしまいました。
海側に向かい、国道402号、越後七浦シーサイドラインです。

まさに海沿いの気持ち良いルート。

海水浴や釣り客で、パーキングはどこも一杯。

天気が良ければねぇ。

一時半頃、若干空いていそうなお店を見つけて昼飯にしました。

ここも大きな庄屋さんの家か何かを利用した立派な割烹?

カニわっぱ飯2160円です。

走り始めたら、いきなり渋滞。寺泊港の市場前です。

こんなところにあの観光地があったのですね。

また少し砂浜沿いを走って、出雲崎から西山ICで再び北陸道。
米山の風車が見えました。

この辺りから時々小雨。
上越ICを降りて、直江津の市街。

謙信公祭には一週間早かったのですが、まずは春日山城へ。

この石段を上がるのが辛かった。

実に広大な城跡です。春日山神社の場所で3合目ぐらいかな、雨も降っているし即ギブアップ。

謙信公の銅像の目線と同じ景色だけを眺めることにしました。

大河ドラマでよく使われた直江津の俯瞰。

やはり戦国時代のエネルギーは凄いですね。
宿に入りました。
Category: 美味いもん
美味いんだな、これが
旅は、出かける前には、早く出発したくて、たまらなくなりますが、長くなってくると、家に帰りたくなりますね。
年を取ると、帰りたくなるまでの時間が短くなるようです。
そんな気持ちの変化を確認することも、大切なことなのかもしれません。
私の場合、熱帯魚や野菜が心配なだけですが。
旅行が得意でない人は、それだけ自宅の居心地がいいか、非日常的な生活に戸惑ってしまうのが苦手、ということなのでしょうか。


これは某日の宵、久しぶりに一番町の縁Yenishiを訪れた時の画像です。
kazさんにお任せコース。上は、桜海老ともずくの茶碗蒸しに、エリンギとセロリの和え物。

クレソンと香菜だったかな。そして、比内地鶏の焼鶏。


橘屋を所望したら、偶然蔵元のお嬢様がカウンターの向こう端に。


美味しゅうございます。
そして怒涛の比内地鶏シリーズ、最高です。


県外から知り合いが仙台入りした時には、どうしても牛タンや海鮮系に行きがちですが、此処にも是非、素晴らしいお店なんです。
しかしiPhpne5のカメラ、良く写ります。