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準備万端~西方見聞録その0
レポートはこれからゆっくり書き上げていきますので、お楽しみに。
ちなみに前回、2019年の欧州旅行記はこちらにありますので、参考にご覧ください。
大人の西遊記総集編 ※←クリック
それぞれの記事はこちらからも選べます。
大人の西遊記その1~7
大人の西遊記その8~17
大人の西遊記その18~27
大人の西遊記その28~36
今回は、34年ぶりの大英帝国でした。
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大人の西遊記その26 ~ベルン
スイスでは4番目に人口が多い都市になる。
長い時はぶっ続けで2週間とかの出張もあり、昼が長い夏場は、時間をつぶすのに苦労するほどだった。
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Ready to Fly
もう年だし、行けるうちに一度はヨーロッパにという話になり、2020年は何となくオリンピックで渡航費が上がりそうだし、なら今年と話が進んで、今年の欧州遠征が決まったのは昨年暮れ。
私以外にもう一人、独逸駐在経験者がいて、季節は日本の梅雨期間がベストという結論。
それで先月19日に出発することになった。
ワタシが駐在から戻ってきたのは、1990年の6月だから、ちょうど29年ぶりの渡欧になる。
最後の海外出張も2000年だったので、そもそも日本を出るのも19年ぶりだ。
当時使っていたサムソナイトもなく、新しくキャリーケースも購入した。
八重山5泊6日は愛用の左のケースでもなんとかなったが、さすがに右のケースをポチ。
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今日からアルバイト?
マンションの部屋は、立て続けにいただいた、花々の濃厚な香りに満ちている。馥郁たる芳香。
今日からはプレ年金生活だ。
要は無収入。年金がフルでもらえるのは65歳からで、老齢年金の報酬比例部分がもらえるようになる62歳まではあと1年1ヶ月。
しのがねば。
近所に、折立のラーメン屋さんが支店を出すようで、バイトを募集している。
年齢制限に上限はないみたい。
こっちのお店もバイト募集中。
どっちも賄いはラーメンかしら。
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欧羅巴の街角で
当時の西ドイツに赴任したのが、その年の4月。当初はカメラの修理などやりながら電話番(これが怖かった)、時々先輩に付いて、パリやロンドンに出張したりしてました。
そしてワールドカップ。私が勤めていた会社のカメラが大量にスペイン放送RTVEに採用さたことで、技術者が大会中マドリードに待機することが受注の条件だったんですね。
ワールドカップの期間は今も昔も5週間近くありまして、オリンピックの比ではなく、とても長いんです。
それで準備期間も含めた前半を先輩が担当、私は後半と言っても3週間半、レアルマドリードの本拠地、サンティアゴ・ベルナベウスタジアムのそばの宿に滞在しました。
仕事は基本的に、朝国際放送センターに出向き、カメラに火を入れて動作確認、軽く調整。スペイン中のRTVEから集まってる技術者やオペレータと歓談。(技術的な話よりも、昨夜はペレが来たんだぜとか)
スタッフ用のセルフ食堂で昼飯を食べて終了、みたいな感じでした。
写真もたっぷりあるので、そのうち追想レポートを載せますが、当時のマドリード、日本食レストランが数軒ありました。
ある夜、MIKADOだったか、SAKURAだったか、一人で遅い夕飯を食べていたら、隣のテーブルに居た日本人の会話に、父の会社の名前が聞こえてきました。
その方が賀川氏。先日の夕刊に記事がありました。
父に書いた絵葉書の返事(この辺、花子とアン風)では、日本サッカーマスコミ界の重鎮だとあった気がします。(これもそのうち発掘します)
当時は父の同僚だったことになります。父より四つほど年上かな。
スペインの方と同席されていたので、あまり多く話すことは出来ませんでしたが、もちろん父のことはご存知で、名刺(これもそのうち発掘します)の交換だけは出来ました。
日本チームがワールドカップに出場するなんて、夢のまた夢の時代(1998年に初めてフランス大会に出る16年前)でしたから、わざわざマドリードまで来ている日本人は、おそらくマスコミ関係だけだったでしょう。
この大会は、マラドーナのアルゼンチンも、ジーコやソクラテスのブラジルも、そしてジモティーもあまり期待していなかったスペイン(当時は弱かった)も敗退し、決勝は西ドイツとイタリアでした。
当時はあまりサッカーには関心がなかった私は、一応すでに2ヶ月ほど暮らした西ドイツを応援。ルンメニゲやシューマッハー、リトバルスキーのチームです。
スペイン人はイタリア贔屓が多かったので、ホテルの食堂で見ていた決勝のテレビ中継(スタジアムで使われていたのはドイツ製のカメラです)は大盛り上がりで、ロッシの大活躍でイタリアが優勝しました。
賀川さん、まだまだ頑張ってください、ニッポンが優勝するまで。
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When I'm 64!!
全局が深夜に生番組を編成して、地球の裏側から中継を行って、大騒ぎするのは考えものだと思いますが、そして、たかが一都市のイベントを全国放送するのも、やりすぎですが、一応本籍地だし、本音は少し嬉しいです。
たまたま4時過ぎに目が醒めたので、馬鹿騒ぎの番組を眺めながら、アルバムを何冊か引っ張り出してきました。
マドリード、マドリッドとか、マドリーと呼ばれることがありますが、スペインの首都。
標高600m以上ですから、松本よりも高い場所に広がる大都市です。
1982年の6月、スペインのワールドカップサッカーの時に3週間半滞在したのを皮切りに、10回近く訪れました。
だいぶ退色してしまっていますが、スペイン広場のドンキホーテ像。
セルバンテスの像の後ろのホテルにも泊まったことがあったと思います。
マヨール広場。
本場のスペインバルはこの周りにもたくさん並んでいます。
怒りっぽくて、人見知りなスペイン人は、裏表がなくて大好きです。
支倉常長がローマへ向けて出港したのがちょうど400年前。ここマドリードの王宮でフェリペⅢ世に謁見したのはその2年後です。
この街でオリンピックが開かれるなら、行ってみたいとも思っていました。
そして、飛んでイスタンブール。
多分、2-3回行ってるはずです。
ボスポラス大橋。欧羅巴から亜細亜へ渡ることが出来ます。
イスタンブールは下関と姉妹都市だそうです。
アジア側。
日本海海戦の時、露西亜バルチック艦隊に加え、黒海艦隊が、この海峡を通過していったら、日本の歴史は変わったかもしれません。
そしてガラタ橋。
トルコ人男性はほぼ全員ヒゲおやじです。
露天の魚屋。
ここはヨーロッパ側ですが、ドイツから来ると、とてもアジアを感じました。
同時にとても混沌とした街でもありました。
偽物だらけのグランバザール。
今イスタンブールがどうなっているか知りませんが、五輪が開催できなくなっても、きっと美しい街になっていくことでしょう。
2020年。私は64になっているはずです。
ちなみに1964年は、小学校二年生。
我が家では、ジャボチンスキーがスターでした。
閉会式の中継で、とても切なくなったのが一番の記憶です。
56年開いた二つの五輪を記憶できる世代は、意外と限られているのかもしれませんね。
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Imagine All the People Living Life in Peace
時々忘れた頃に、此処にコメントをくれる高校の同級生も、かつて同じ会社のエンジニアでした。
亡くなった、元副社長の方とも、ずっと懇意にしていただいていたそうです。
そして、ニュースで、同じ高校の後輩も殺されていたことを知りました。顔見知りではないけれど。
南三陸出身のエンジニアも殺されました。悲しすぎる。
私も8年間、海外駐在生活を送ったことがありました。
その国は、日本と並んで、世界で最も安全な国のひとつだったけれど、車の窓ガラスは三度割られたし、アパートも入口のドアをバールのようなもので破壊されて、大切にしていたクラシックカメラのコレクションや、AV機器もほとんど持ち去られました。
決して戦いの最前線に居たつもりはないし、ましてや国を代表していたはずもありませんが、今思えば、エコノミックアニマルの尖兵として、どこかで誰かの生活を脅かしていたかもしれない。
沢山の国を旅しましたが、日本人を目の敵のようにしている国にでも、絶対に親切な人達がいるし、どんなにぐーたらな私のような人間にでも、笑顔を見せてくれた人たちが居ました。
空港で爆弾騒ぎに巻き込まれたり、国境で機関銃を向けられたこともあります。
あんな事件を起こした奴らを、決して許したくはありませんが、目には目をでは悲しすぎる。
人は誰でも友だちになれるはずです。
明治維新の前後、尊王攘夷派の日本人は、欧米人にとって、テロリストだったのでしょうか。
フランスの田舎町で、裏通りを彷徨う私の後を、子どもたちが、シノワシノワと呼びながらずっと付いて来たのは、懐かしくて楽しい想い出です。ジャポネなのに。
ひとつ言えることは、きっと世界で一番、優しくて安らかな場所に、日々暮らしていることを、この国の人達が知らないことです。
会社や教室での諍いはもとより、親子や嫁姑もみんな仲良くしましょうよ。
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おいしい戦利品
ブログを毎日書くことで、確実に記憶が活性化されているのが判ります。
その中のひとつ。と言うかたくさん。
なんじゃこりゃ~~という感じですが、食器ですね、主にスプーン。
フォークやナイフも混じっています。
そうなんです。
航空会社の食器たち。これはJALですね。
新旧ロゴが混じっています。
こちらは大英航空。
国際便で、食後、トレーを片付けるときCAに、初めての海外旅行に来たような素振りで、これ記念にもらえませんか? と聞くと大体もらえるんですね。
スカンジナビア航空。
ドイツからだと、ロンドンやパリ、チューリッヒ・コペンハーゲンあたりは、ちょうど東京大阪ぐらいの距離で、一時間のフライトなんですが、国際線ですから必ず食事が出るんです。
フィンランド航空とアイスランド航空。
例えば北イングランドの地方都市に行くのに、日帰りで、デュッセルドルフ-アムステルダム-ニューカッスル-ロンドンヒースロウーデュッセルドルフと言うルートで出張したことがあります。
そうすると4便のうち3便が国際線ですから、3食が機内食なんですね。
ポルトガル航空とオーストリア航空。
スプーンをもらえるチャンスが多いわけです。
イベリア航空。
エールフランスと、アリタリアがないのは、プラスチック製だったからかな?
これは珍しいと思います。バーミンガム・エグゼクティブ航空。
15人乗りぐらいの小さなジェット機で、全席エグゼクティブクラスという変わり種。
CAはたった一人ですが、当時は珍しいフルボトルの紅白ワインを持って回ってくれてました。
そしてもちろん一番たくさん乗った、ルフトハンザ。WMF製です。
当時マイレージシステムがあれば、世界何周できたでしょう。
こんなに沢山貰わなくてもイイと思うのですが、安上がり(と言うか只)のお土産にでもしようと思ったのでしょう。
手前の二種類のスプーン。
奥が初期型で、手前が後期型。安っぽくなっているのが判りますね。
グラスもありました。
スイス航空のグラスはひびが入ってしまっているので飾り物ですが、JALとルフトは現役です。
一つだけ航空会社以外のスプーンも見つけました。
バーデンバーデンにあるお得意様、ドイツ南西放送SWFのものでした。
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8年間のスタンプラリー
平成16年、2004年から律儀に使い続けていた、いわゆるおくすり手帳が、一杯になりました。次回に作り直しでしょうか。まさか二冊持ち歩かなきゃないのかな。
それで何故か思い出したのが、我がパスポートです。
80年代に、デュッセルドルフを拠点に、仕事とバカンスで、ヨーロッパ中旅行してたので、ご覧のとおり、スタンプだらけ。もちろん全部ビザと入出国証明です。
当然期限切れ。
それでなぜパスポートを思い出したかというと、下は西ドイツの労働許可ですが、結構でかいですよね。場所を食う。
ある時、2回目ぐらいの許可延長の時に、パスポートにまっさらのページがないからという理由で、許可申請が突っ返されたのです。ゲルマンですよね。
それでパスポートは、日本領事館へ。
上のようになって戻って来ました。
増補と言うそうです。これは1986年11月に、向こうで作った2冊目のパスポートなんですが、1982年に作った最初のパスポートは40ページだったのに、1986年のやつは24ページしかないんです。
そのせいで足りなくなっちゃった。
これはかなり珍しいでしょう。
その後どうもルールが変わったようで、スタンプが一杯になったら、パスポートを作りなおす事が出来るようになりました。
それからパスポートを更新しても、古い方にビザが残っていて有効な場合、当然ですが、新しい方と一緒に持ち歩く必要があります。大体はビザの期限はパスポートの期限に設定されるのですが、普通はその前にパスポートが更新されるわけで、しばらくは面倒なんです。
あとはいろいろスタンプの紹介。
これはハンガリーの入国ビザです。ブタペストで入国して、ヒゲシャロームで出国。
実はブダペスト出張中に、二日間休みができたので、一泊二日でウィーンまで鉄道旅行したんです。この時は大変なことがあったのですが、いずれ書き込みたいと思います。
こちらは、フランスの入国ビザ。
元々は、ドイツやイギリスと同じく、短期であればフランスはビザ不要だったのですが、80年代にヨーロッパで爆弾テロが頻発した時期があり、突然EC諸国以外の国民は、ビザを取れと言い出したんです。フレンチです。
確かにシャルル・ド・ゴール空港で、不審物騒ぎに遭遇したことはありました。
それまではこんな感じの入出国スタンプだけ。
発表されたのが、折しもイギリス南部のブライトンで展示会が開かれている最中。私と同僚は、西ドイツから、オランダ・ベルギー・フランス経由で、機材をトラック輸送する担当運転手で、行きはカレーからドーバーへ渡る最短フェリーで海峡を越えたのですが、帰りはドーバーから少し遠い、ベルギーのオステンデへのフェリーを使わざるを得なくなったのでした。
函館から大間に行くはずが、青森まで行かされた感じでしょうか。
国境が一箇所減ると、税関手続き(高価な電子機器を沢山積載)の回数も減って、少し楽になるんですが、このルート、前だか後だか忘れましたが、転覆事故があって、フェリーエイドのレコードが出るきっかけになった路線なんです。
このマキシシングルは、もちろん買いました。
2回目まではいかにも間に合わせのビザシールでしたが、3回目に取った時は小奇麗なシールになりました。
えーと、これは今は亡き、チェコ・スロヴァキア共和国。
体調が悪かったかなにかで、誘われたプラハ市内観光をパスして寝ていた記憶があるのですが、結局その後一度も行けず。後悔しています。
ルーマニア。ローマの国というくらいですから、イタリア語が通じるようです。関係ないけど。
ブカレストには、チャウシェスク後に二回行ってますね。
こちらがもっとも頻繁に通った大英帝国。悪名高きパスポートコントロールの行列。
余りにも足繁く通う(多い時は月に4往復)ので、ブラックリスト入りし、いろいろもめましたが、通常3ヶ月滞在できるところ、1ヶ月限定になってしまいました。イングリッシュのやり方。
そんなに長居はしないよ。
次にフランスと同じくらい、よく通ったスペイン。
アスタマニヤーナの国は、いつも優しく入れてくれます。エスパニョール大好き。上は出国印。
その次はスウェーデン。
こちらもいつも紳士的でした。
ポルトガル。
こちらは二回だけかな。女性の半分以上がマリアさんです。
何度か通ったトルコのイスタンブール。
こちらはプライベート旅行の最中に、お金を払って記念にもらった、サンマリノのスタンプと印紙。
切手も有名ですね。
これは珍しい、何度も行ったけど、たぶんこれだけ。オーストリアのウィーン空港。
たぶん日本から来た誰かと一緒で、そいつが欲しいといったので、ついでに私にもくれたか何かで。普通はわざわざ押しません。
ちなみに、ドイツ、スイス、イタリアあたりも普段は、行けと手振りされるだけ、スタンプは無しです。
ビザ用ではないページに押してるのは、これもトルコ。
ターキーです。
狭いスペースにきっちり押してくれたのが、フィンランド。
フィニッシュの国民性でしょうか。
こちらはデンマーク、デーニッシュはいつもきれいに押してくれるのが特徴です。
スタンプ台が優秀なのか。
これはアイスランド。
何も一番寒い2月に北極圏まで行かなくてもいいのに。でもホテルのバスルーム、お湯の蛇口から硫黄温泉が出たのにはびっくり。
下は、左がギリシャで、右がユーゴスラビア。
ユーゴはまだ分裂前ですね。
これも珍しい、オランダです。
アウトバーン上ですね。なんでスタンプをくれたのだろう。不明。
イスラエルにも行っていますが、此処のスタンプがあるとイスラム各国に入国できなくなるので、別の紙にスタンプを貰い、パスポートに挟んでおきます。
出国の時にはそれを回収しておしまい。だから残っていません。今なら写真を撮るけれど。
そしてオマケは中華人民共和国です。
これだけは日本に帰ってきてから。
この出張旅行の間に、母が他界したので、想い出深い記念になってしまいました。