Category: 祭りだワッショイ
a vice-general
しかしどこまでも続いているわけではありません。
北は仙台から亘理まで、南は上野から広野まで。
そしてこの部分、原ノ町から相馬の間だけが開通しているんです。
そんな悲しい南相馬市鹿島区。
道路に美しく着飾った馬たちが集まっています。
JRが途切れているからというわけでは、もちろんありません。
競馬の中継で見る、サラブレッド達よりは一回り小さいでしょうか。
すこおし、ずんぐりの馬もいますが、
ほとんどは、よく引き締まった精悍な馬です。
そして、とてもおとなしい。
知性まで漂ってます。
触っても良いのでしょうか。
この日のために育てられ、鍛えられてきた、馬たちの晴れ姿。
そして、兜。
法螺貝が鳴り渡り、突然、武者たちの宴会場。
そうなんです。
ここは、鹿島区北郷にある、相馬家副大将の本陣。
相馬家の国歌、相馬流れ山を斉唱し、出陣です。
騎馬行列。
想像していたのは、眼鏡を掛けたおじいちゃん達が、なんとか騎乗して、歩いていく行列でしたが、全然違う。
もうとにかく、実にカッコイイんです。
凛々しいという言葉が、一番ピッタリかな。
まさに精悍な馬と騎馬武者。
彼らを間近で眺められただけでも、ここまでやって来た甲斐があると感じました。
相馬野馬追の始まりです。
胸を張って進んでいく武者たち、馬たちの表情までが、誇らしげに見えました。
侍大将、軍師、伝令、先祖代々役目を受け継いで来ている男たち、馬はほとんどがこの日のためだけに育てられているのだそうです。
こんな伝統を受け継いでいる地域があったとは。
行列は、威風堂々、総大将の元を目指します。
残されるのは、無数の草餅だけ。
我々は腹ごしらえ。
場所は、相馬市内の相馬総合卸売市場内にある、市場食堂なんですが、なんとなんとなんと、松川浦にあった「割烹の宿 文字島」の皆さんが、震災後避難しつつ開いたお店。
知る人ぞ知る人たちが順番待ちです。
店内のテレビは、TBCを流してました。
私は、一日遅れのうな丼。1200円。
こちらは名物海鮮丼、980円かな。
美味しくないわけがありません。
Category: 空花鳥風月雲
万葉はちょっと無理やり
全く見っともない話で、申し訳ありません。
これは宮城県唯一の村である、大衡村にある昭和万葉の森です。
平成元年に開園したらしいのですが、元々あった赤松の森に、万葉時代の植物を植え、万葉集の歌碑とともに、散歩道を作ったものです。
その中で、ヤマユリが見頃ということをニュースで知り、初めて来てみたのでした。
例によってウィキペディアから。
日本特産のユリ。北海道と関東地方や北陸地方を除く近畿地方以北の山地の林縁や草地に分布する。和名は、山中に生えることからつけられた。
鱗茎は扁球形で10cm程の大きさである。多糖類の一種であるグルコマンナン(コンニャクにも多く含まれる)を多量に含み、縄文時代には既に食用にされていた。
1873年、ウィーン万博で日本の他のユリと共に紹介され、ヨーロッパで注目を浴びる。それ以来、ユリの球根は大正時代まで主要な輸出品のひとつであった。西洋では栽培品種の母株として重用された。
イトトンボが居ました。
雄しべが開いている花は、咲いてから少し時間が経っているようでした。
一方雄しべが閉じている花が咲きたてかな。
昭和万葉の森、入場は無料ですが、夜間はゲートが閉まってしまうようです。
駐車場はほぼ一杯、多くの人が訪れてました。
今度は普通のトンボ。
レンズを近づけても逃げようとしません。
かなり広い一帯、たぶん野球場の広さぐらいの部分で、ヤマユリが満開でした。おそらくすべて同じ種。
これも咲きたてですね。この後雌しべが伸びていくのでしょう。
盛りは過ぎているけれど、アジサイ園もありました。
此処にも結構な人。
大きなオニヤンマを見かけました。
そして、池。
少しだけ睡蓮が咲いてました。
変わったマンホールに描かれた花は、桔梗ですね。村の花なんだな。
トヨタ自動車東日本と、トヨタ紡織東北がやってきて大きく様変わりしようとしている大衡村でした。
ヤマユリつながりで、昼は此処に行って見ることに。
ところがこの日は定休日。残念。
七ツ森の写真だけ撮って来ました。
それではということで、宮床のきまま亭へ行ったら此処も定休日。
なんてこった。
それで、泉中央の天正。
此処はやってました。
蕎麦の画像はは前々回ぐらいに撮った資料写真。今は店内撮影禁止なんです。
ざる蕎麦三枚1050円を美味しくいただいて来ました。
Category: 美味いもん
夕涼み
この夜は、久しぶりに京町に集合です。
一昨年の新年会で来て以来。
お通しはホッキサラダだったかな?
関東から来た、同期生が居たので、まずは牛タン焼き。
持ち込みは、初孫と船尾灯。
そして刺し盛り。
更に、此処に来たらこれをいただかないと。
豪快、蟹サラダです。
久しぶりに堪能しました。
Category: Car & Bike
もう5年4ヶ月
いつから開会式はこんなに大掛かりになったのでしょう。
東京の時は、小学校二年だったから、少し覚えていますが、入場行進以外に何があったのだろう。
アスリートたちは、入場行進まで、どこで待たされているんだろう。
先日、帰宅時にふとジム兄ぃのオドメータを見ると、
29994km。もうすぐ3万キロだ。
車庫に着いて、29995。
翌朝。
本来なら会社までちょうど5キロだから、会社の駐車場で記念写真が撮れるはずだったのですが、仙台城越の、天守台ルートが震災後ずっと通行止めのため、東北大ルートを通ると、ちょうど八木山橋あたりで、30000kmに。
わざわざ路肩に車を停めるほど酔狂じゃないというか、遅刻しそうだったので、流し撮りですな。
何、制限速度を超えてる?
会社に着いたら,30002kmでした。毎日往復4km余分に走っているわけ。
毎日400ccぐらい余計にガソリンを使っていることになりますか。
Category: 美味いもん
出さないわけには行かないのかもしれないけれど
そうしたら、あ゛~~~~あづい。
いぎなり土用の丑の日です。
社員食堂では、何故か二日早く、うなぎです。
上は見本を撮影したもの。750円ですよ、これまたなぜか、揚げ餃子と、アイスコーヒーが付いてます。
私は、写真だけで十分、冷し担々麺にしました。420円。
これまでは、辛味がイマイチで、ちょい辛冷し中華味噌味みたいな雰囲気だったのですが、少し辛味が増して爽やかになりました。
おまけ。涼しかった頃に食べた、うどん定食(チキンライス付き)。420円。
ちょっと変わった組み合わせでした。
Category: カメラ
クラシックカメラマン120
女子サッカーは早くも勝利。
母のことをたっぷり想い出せてくれるCMですね。各国で色々なパターンが放送されているそうです。
久しぶりに一眼レフカメラを入手しました。
1970年発売、KONICA new FTAと言うカメラです。レンズ2本付き。
コニカは他社に先駆けて1965年に、オートレックスと言う、シャッター速度優先AE一眼レフを発売、その後1968年にTTL露出計内蔵のFTA、そして二年後にマイナーチェンジされて発表されたのがこのnewFTAです。
ピッカリコニカや、ジャスピンコニカも小西六写真工業が世界初。
日本のカメラは、必ずしも、ニコンやキャノン、ペンタックスやオリンパスだけがリードしてきたわけではないのです。
デザインや、ボタンやノブの配置は極めてオーソドックス。
これも他社より早く開放測光を成し遂げていた、レンズマウントは全く独自です。
くっついてきたレンズは、28mm/F3.5と52mm/F1.8。
ヘキサノンレンズを使いたくて、ボディを探すファンも居るとか居ないとか。
フィルム1本だけ試写です。
二線ボケ。
6月17日の多賀城。
レンズはどっちを付けていったか覚えていませんが、画角で見極めてください。
これは28mmっぽいですね。
6月23日の二口林道。
こちらは52mmでしょうか。
6月24日の北上、みちのく民俗村です。
また28mmのようですね。
ピントとAE露出に大きな問題は無さそうです。
7月8日の、資福禅寺。
52mmのようですが、やはりボケ味は、微妙です。
最新デジカメのほうが、ずっと綺麗に撮れますね。そうでもない?
Category: 祭りだワッショイ
遠い夢の中へ
ま、梅雨という気象現象に明確な始まりと終わりがあるわけではないし、ましてや気象庁にそれを決める義務があるわけでもない。ひとりひとりが勝手に梅雨だ、開けたと思っていればいいのかも。
遊びに行きたい日が晴れていれば、ノープロブレム。
週末は、市民広場で夏まつりがありました。夏祭りやなつまつりではなく、夏まつり、若しくはNATSU MATSURIなんです。
例年梅雨の終わり際、天候的には、灼熱地獄か、豪雨になる可能性が高い、イチかバチか的な日程なのですが、今年は涼しい曇りの日となりました。
しかも2日とも朝方は霧雨。傘を差しての出勤です。
特に初日、クローゼットからもちろん長袖で、厚めのパーカを引っ張りだして着ていったのですが、気温18度台、花見の頃の気温ですよね。
寒くて寒くて、くしゃみ連発。温かいもの探しの一日でした。
これはやっと見つけた、気仙沼ホルモンの煮込み400円。
ホッとしました。
夜は、味いちで、お疲れ様会。
メニューにない、角煮用のバラ肉と、厚揚げの煮物(おでん?)でした。
親方のサービス。ありがとう。
二日目はもう一枚着込んで行きました。
朝、持ち場のテントに集合して、驚きの光景。
ツクツクボウシでしょうか。
よりによって特設テントに登っての脱皮。二時間ぐらい早く来れば、羽化の行程が見られたのかも。
確かに隣には花畑があるけど、基本的には石畳の公園、どこに眠っていたんでしょうね。
持ち場は定禅寺通に面していたので、二日間たっぷり人間観察を楽しめました。
普段は不特定多数の人と、ひたすら対面し続けるといったシチュエーションには遭遇しにくいので、貴重な体験。いろんな意味でお店で働く人の気持ちに近づけたかも。
道路を歩いていたり、公園のベンチに座っているときに、周りの人と視線を合わせるのは、時々危険を伴ったりするものですが、案内所担当なら大丈夫。下から目線でニッコリ。
パンフレットを嬉しそうに受け取ってくれる人、目を逸らしてひったくるように取る人、子供たち、電動車いすの人、いろいろでした。
これはプレーリードッグかなぁ。
12万人以上の入場、ありがとうございました。
きっと、来年もよろしくおねがいします。
会場に展示されていた、86のプロダクトノートを貰って来ました。
まだ見かけることもめったにない、86/BRZですが、想像していたよりはやや大きかった印象。
Category: 街角探検
蔵のある街並み
政令指定都市でもないのに、区制が敷かれているのって、どういう基準によるものなんでしょうね。
どうも市町村の合併の特例に関する法律ってので決められているようなんですが、難しいので飛ばします。
こちらは以前から気になっていた、江刺の明治記念館。
明治7年に岩手県内初の病院として建設された明治記念館は、戦後のラジオドラマ菊田一夫原作の「鐘の鳴る丘」のモデルとなった建物なんだそうです。
確かに鐘がぶら下がっています。
なんで病院をこんな形にしたのかは謎。
初めて建てられた病院だったから、目立つものにしたかったのでしょうか。
入館無料。
急な階段を登り、4階建ての3階まで上がれます。
病人がこんなところを登り降り出来るか、と思わされた急な階段です。
横を流れるのは人首川。不気味な名前。
桜の季節に訪れるのがよさそうでした。
後ろ側。
人首川(ひとかべがわ)について、某HPからの無断引用です。
日本紀略によると、延暦二十一年(802)八月十三日、蝦夷の総帥アテルイ(阿弖利為)は、副将モレ(母礼)と共に、河内国杜山(あるいは植山、椙山)において、坂上田村麻呂によって斬られた。しかし、その後も、蝦夷たちのゲリラ戦による抵抗は、いつまでも、いつまでも、続いた。
人首丸(ひとかべまる)はアテルイの子である。伝説は大武丸(おおたけまる)の子としているが、大武丸とは、伝説化したアテルイの名の一つであるから、アテルイの子と見て間違いない。伝えられるところによると、彼は年の頃十五・六才の美少年であった。江刺市米里の大森山に立て籠もって頑強に抵抗したが、大同元年(806)、遂に討ち取られたとされる。今も、大森山の西に「鬼っ子の墓」があり、彼が潜んだ洞窟には観音堂が立てられていた(今は麓の玉里に移されて大森観音と呼ばれている)。
恐らく、少年は、田村麻呂の言葉を信じて、彼に連れられて都へ行った父アテルイが、再び帰って来る日を待ち続けていたことであろう。しかし、幾ら待っても待っても、父は帰って来なかった。それに代わって、風の便りに伝えられて来たものは、父が河内で斬殺されたと云う悲報であった。少年は号泣し憤激した。そして、思いを共にする者たちと、駐屯している朝廷軍の宿営に夜襲をかけた。手に手に松明を振りかざしながら、怒濤のような鬨の声を上げながら、---、彼らはみんな一様に大粒の涙を流し続けていた。男たちだけではなかった。女たちもいた。少年たちもいた。
しかし、やがて、朝廷軍の兵たちに反撃され、累々とした屍を残したまま逃げ走らねばならなかった。彼らは東の山へ逃げ込む。伝承によると、北上川の支流伊手川を上り、田原の鬼渕に潜む。しかし、朝廷軍の兵たちは執拗に彼らを追う。彼らは更に川上の藤里の愛宕山の洞窟に身を潜ませては、ゲリラ戦を挑んで抵抗する。しかし、じりじりと、山峡を川上へ川上へと退かねばならなかった。遂に、山を越えて北側の人首川の上流に移り、人首(ひとかべ)の村落(現在は米里と改名している)から、さらに東の山に退き、種山高原に至る。
彼らは物見山(種山)の北西の大森山に入り、岩窟の中に立て籠もった。総勢わずかに二十人足らず。昼は洞窟に身を潜め、夜になると、数人の隊で険阻な山道を通って、朝廷軍を襲った。出撃するたびに、一人二人と討ち取られ、帰ってくるたびに人数が減ってくる。遂に、大同元年(806)、人首丸は、僅かに残った3人の手勢と共に、物見山に陣する朝廷軍に、最後の決死の斬り込みをする。そして、人首丸もその首を討ち取られる。その抵抗は四年に及んだのである。
それから今日まで、美少年人首丸のことは、地元の人たちの心の中に伝え続けられ、消えることはなかった。
この伝説については、全く知りませんでした。
この後は蔵めぐり。
明治記念館から人首川を挟んで反対側、
村田の蔵と似た雰囲気ですね。
蔵町モールという一角なのでした。
蔵造り風の建物。
ステンドグラス好きな私は、この街灯が気に入りました。
歩行者専用道路の両側に、統一がとれた意匠の建物が並んでいます。
雑貨屋やガラス館、喫茶店等など。
資料をもらってくるのを忘れたので、泥縄で調べて書いてますが、どうも街の中心部の空洞化対策として、点在して残されていた蔵を活用し、新たな建物のデザインに制限を加えて、造られた街並みなのでした。
屋台村はちょっと無理があるかな。
こちらも新しい建物でしょうか。一番奥は本物?
こちらは酒屋さん。
古い土蔵と町家ですね。
土蔵の中が展示館になってました。
明治大正昭和の品々。
こちらは喫茶店。江刺の蔵人ですね。
公園風に美しく整備されたモール。
だけど何かが違う。
蔵を活用した町おこしの、ひとつの形であるのは間違いないけど、そこに暮らしてきた人々の生活感に欠けるように感じました。。
雨模様であまり詳しく観察できなかったのですが、もう一度ツーリングの途中に立ち寄ってみようと思います。
蔵町のHPはこちら。
東北道を走って、仙台へ戻りました。
Category: ドライブ
湯のまち 誌のまち 花のまち
石鳥谷の道の駅あたりで4号線を逸れて、西へ。
花巻には、多くの温泉場が点在していますが、たぶんその中では一番北に位置する、台温泉です。
盛岡の宿には、やや大きめですが、普通の家庭用の風呂しか無く、雨だったら帰りにどこかで温泉に入ろうかと思っていたのでした。
精華の湯。
温泉宿は10軒以上あるようでしたが、唯一の立ち寄り専用施設。
露天風呂はありませんが、大きな窓に囲まれて、開放的です。冬場は雪見風呂ですね。
ほのかに硫黄の香りがする、良いお湯です。
隣にお蕎麦屋さんもありました。
あとで発見したのですが、おおさん、お気に入りの店だったのでした。リンクさせていただきます。
濡れた髪を乾かしながら、ぶらり散歩。
すんばらしく立派な木造旅館がありました。驚き。
中嶋旅館と言うそうです。木造四層、天守閣みたい。
BMWのバイクも居ますね。福島ナンバーだったかな。
小雨だったので、レンズが曇っちゃってます。
閉まっている宿もありつつ、美しく整えられた宿も数軒、絵になります。
時々立ち寄り湯か、蕎麦屋にやってくる車以外、あまり人も車も通りませんでした。
本当に静かな谷間の湯治場。
花巻温泉や、志戸平温泉とは全く趣を異にします。
この温泉街を歩いてみたくて、来たようなもんです。
今もCMで活躍する、高校野球少年。
一番奥まで行き、戻ってきたら木が倒れてました。
バイクなら通れるけど、車はちょっと無理な感じ。
上下の写真を比べてください。上が帰り、下が行き。
私が歩いたせいで、倒れちゃったのかな。ワイルド。
近所のおじさんに伝えたけど、しっかり処理してくれたものか、心配です。
奥の方の旅館に居た車たちが出られないかと心配もしたのですが、台温泉の道路は一回りできることをあとで知りました。
車に戻り出発です。
釜淵の滝というのを見る予定があったのですが、忘却。岩手医大花巻温泉病院のそばでしょうか。
花巻市内を通り抜け、再び4号線へ。また北上に来たかみ。
昼飯はラーメンにすることに。
ラーメン屋「味噌家 がんこ亭」。味噌ラーメンだけで五種類程。
醤油ラーメンにするつもりで入ったのだけれど、結局これ、奥州ねぎ味噌ラーメン白。
ボリュームたっぷりでした。
まだ仙台に帰るには早い。
再び雨が激しくなった中、奥州市に入ります。つづく。
Category: 博物芸術
修復中と、修復待ち
盛岡の朝。せっかく街なかに宿をとったので、散歩を兼ねて朝飯処を探します。
しかし雨。結局アーケード街をウロウロ。
朝ラーも面白いかもと前夜狙いをつけていた末廣は、なんと11時まで臨時休業。
あと、開いているのは、松屋やなか卯、ドトールコーヒーなどのチェーン店だけ。
駅の方でも行けば、他にもあったのかもしれないけど、結局なか卯へ。
豚汁定食+サラダ。
宿に戻り出発です。
当初は小岩井農場へ行き、非公開文化財をめぐるガイド付きバスツアーに参加しようと考えていたのですが、生憎の雨。
履いていったスニーカーは穴が開いてるみたいだし、また行くチャンスはあるので、天気が良い日にとっておくことにしました。
それで向かった先は森林公園みたいですが、岩手大学のキャンパス。
入口の守衛所で、見学をお願いしたら、あっさり車で入れました、訪れたのは農学部のキャンパス。
閉館中でしたがミュージアムや、植物園が広がっています。
朝9:00。北水の池。
郊外といっても市中心部からそれほど離れていない場所にあるため、散歩に来ている市民の姿も。
睡蓮が綺麗に咲いていました。
これも雨の日に絵になる花の一つですね。
しかしわざわざ睡蓮を愛でに来たわけではありません。
これを見に来たのです。(岩手大学農学部HPからの無断借用画像)
そのHPからこちらも無断引用。
農業教育資料館は、1902年(明治35年)にわが国最初の高等農林学校として設置された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(明治45年)5月に起工し、同年(大正元年)11月にしゅん功しました。
この建物は、青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築で、校舎をつなぐ渡り廊下が附属していて、当時、一階は校長室、事務室、会議室などに、二階は大講堂として、諸行事に使われていました。
やはり盛岡には大正時代のモノが多いですね。国の重要文化財。
しかし、残念ながら修理中。
全く、運が悪いですね。(運は宝くじに集中!)
高等農林学校の建物は重文ですが、こちらは隣に建つ普通の建物。
百年記念館、宮沢賢治センター。
賢治も、光原社の創業者も此処で学んだのでした。
重文はもうひとつあります。
門番所。これは可愛いですね。
鹽竈神社にも古い守衛所が残してありましたっけ。いいなぁ。
前部の八角形が執務室、後部の四角い部分が和室になってました。前八角後方型。
天気は生憎でしたが、大学のキャンパスの空気を少しだけ呼吸してきました。
この後給油して、東北道へ。
さすがに南へ向かいます。
盛岡の街を左に見ながら別れを告げつつ、不意に思い出した、ある場所。
矢巾PAにジム兄ィを停めて、iPhoneで検索。あったあった。
カーナビに入力して探そうとしますがヒットしません。名所ではないんだな。
とりあえず、二つ目の紫波ICで高速を降りて、紫波町役場を目指します。
町役場敷地の片隅にありました。4号線からも直接見えるはず。
紫波町HPのGoogleキャッシュからの無断引用。
旧紫波郡役所は明治32年(1899)に建てられた洋風建築で、大正15年まで郡役所として使用されていました。木造2階で寄棟の建物で、外壁は下見板張りで縦長の上げ下げ窓を採用しています。窓の上部は切妻の屋根を模した小庇が付き、洋風を強調しています。玄関ポーチは特にデザインに力を入れていて、屋根も切妻の妻面を正面にする事で印象深いものとしています。
あまり保存状態は良くないようでした。
現存する全国の郡役所と言う、ホームページを発見しました。
興味が有る方(いないと思うけど)、参考にしてください。
Category: 美味いもん
ま 納得 できない?
最後にコメントしようなんて思わないで、思うところ、感じるところがあれば、個々の記事にコメントお願いしますね。
今日はひとやすみ。
今日明日は、仙台市民広場勾当台公園石巻専修大学で、夏まつりが開かれます。
ぜひおいでください。井手綾香ちゃんも来ますよ。
私は、定禅寺通に一番近いあたり(ジャズフェスの時に、ドラフトカーが居るところ)にいるはずです。
勾当台公園側の、復興応援ゾーンで、女川フィッシュや、オクトパス君も買えるはず。
今晩、終了後は、旬菜味いちかな。
口直し。
最近、ごく一部のブログ仲間で妙に流行っている、なっとま。
仲間のブログには、非常に手の込んだ料理の紹介が多くて、なかなか最後まで読む忍耐力がない年になってしまっているのですが、これは出来そう。
生のトマトを一口大に切り、パックの納豆とタレを掛けて混ぜるだけ。
キュウリも入れてみました。
たしかに不思議なのは、納豆特有の匂いが消えること。
どうしても納豆を食べなきゃないけど、匂いがちょっとという方には、良いかも。
だけど納豆好きには、たぶん物足りない。
粘り気は残ってるけど、味的には、これなら煮大豆でもいいじゃんって感じ。
でも美味しくいただけます。
ま、顔と体は肥えてるけど、舌は肥えてない私の意見ですから。
ただ、3つも4つもまとまってる納豆パッケージは、なかなか使いきれないのも確かで、朝食用+酒の肴にも、という使い分けはありがたいかな。
バジルを入れるとか言われてもそんなもん無いし、今度はもみ海苔をかけてみよう。
で、翌晩やってみました。
海苔が合う合わないよりも、一晩置いたなっとまがまるで✘。
置いたことで、納豆の糸引き成分が消滅してしまうんです。
ついでに、行ったことないけど手打ち十割蕎麦の古拙が移転したんですね。
トマト蕎麦だって。う~~~ん。
壱弐参横丁のそばですね。場所はグーーー。