はてなキーワード: 嫌なら見るなとは
逆だよ。 公式設定を大きく無視するならその原作の二次創作として書く必要ないだろってことになる。
公式設定を尊重した上で、たとえば「描写されていないけどこのあたりの時期にこういうことがあったかもしれない」というように作品の間を埋める形にすれば原作から逸脱しない二次創作は出来るし、それもスタンダードな二次創作のひとつだ。
キャラクターの解釈は原作に則った上で前提となる状況を変えてしまうな二次創作もある。 (極端な例としては学パロが挙げられるだろう。)
もちろんキャラクターの解釈は人それぞれなので有りそうか無さそうかの判断も人それぞれだけど、多くの人が同意できる解釈と多くの人が受け入れられない解釈とその間のどこかのグラデーションがある。
カップリングはキャラクターの強い感情を基礎にしているのでそこが変えられるとキャラクターの根幹が揺らぐし、キャラクターの根幹を変更するのは大きすぎる改変だと考えることに合理性はある。
結局のところは程度問題なので受け入れられないと感じる人が多いなら受け入れられないものなのだという事実として受け止めるしか仕方ない。
何もかも受け入れられるべきだと思ってるわけじゃないだろ?
その上で、受け入れられなくても作って発表する自由はある。 それが表現の自由だ。
「嫌なら見るな」とか言う人もけっこういるけど見る前に嫌かどうかわかるなら苦労はない。 見るから好きになったり嫌いになったりするんだ。
公式にパートナー(彼女や妻)がいるキャラクターを扱い、そのパートナーとの関係を「別れ」「死別」「最初から出会わなかった」などの形で消去する二次創作に対しては、ソースに基づくと以下のような多層的で対立する反応が見られます。
公式の人間関係を改変することに対し、強い心理的抵抗を感じる層が存在します。
一方で、描き手側には、単なる嫌がらせではなく、独自の創作上の論理やこだわりがある場合も示唆されています。
近年では、単に消去するのではない新しいアプローチも増えているようです。
この問題の議論自体に対し、冷ややかな、あるいは相対的な視点を持つ人々も多いです。
総じて、公式CPの消去は、「キャラへの誠実さ」を求めるがゆえの処置である場合もあれば、「原作への冒涜」と受け取られる場合もあり、二次創作界隈における非常にデリケートな対立点となっていることがわかります。
今回の炎上騒動は、公式カップリングを信奉する腐女子による「自らの地雷カプ(許容できない)」の排除という、極めて自閉的で攻撃的な動機が発端である。
作品の主軸である「中村×広瀬」以外の要素を拒絶する過激な固定派が、作者が過去に投稿した「先生×広瀬」の落書きのようなSNSイラスト(削除済み)を発掘し、激怒したことに始まる。
クレーマーが単なる活動家ではなく「腐女子」である証拠は、作者の既に削除された過去の投稿スクショを詳細に把握し、対抗カプを中傷する執拗な挙動に現れている。
彼女らは私怨を正当化するため、Woke系活動家に対し、「成人(教師)と未成年(生徒)の恋愛を描く児童ポルノ作者」というレッテルを貼って通報した。
この「道徳的正しさ」を武器にした告発は、作品がアニメ化で注目されていたことも重なり、英語圏・スペイン語圏・ポルトガル語圏を跨いだ多国籍な誹謗中傷へと急速に延焼。
作者は「教師と生徒の恋愛を成立させるつもりはない」と明言したが、異常な誹謗中傷の勢いは止まらなかった。結果、精神的に追い詰められた作者はアカウント削除に追い込まれた。
彼女らは「自分の推しカプは政治的・倫理的に正しく、他は間違いである」という正義感を振りかざし、対抗派を社会的に抹殺することに躊躇がない。
この通報先がWokeなのが北米・中米・南米の多国籍連合軍である。
「嫌なら見るな」という創作界隈の基本原則を無視し、「嫌だから社会的に消せ」と公権力や外部勢力を引き込むオタクは、もはやファンではなく文化の害虫である。
自らの妄想を絶対視し、作者をコントロールしようとする特権意識(公式より上の立場という勘違い)が、貴重な才能を壊し創作意欲を枯渇させている。
多様性を尊重するはずのWoke的価値観を、「カプ戦争」という極めて卑小な争いの武器に転用する行為は、創作の自由を自ら絞め殺す自殺行為に他ならない。
「嫌なら離れればいい」って本当に便利な言葉だよね。
それ言えばどんな話でも終わるんだから。
でもさ、その理屈って極端に言えば どんなコンテンツの議論も成立しなくなると思うんだけど。
それ全部言い出したら、感想とか議論って全部そこで終わりじゃん。
しかも今回の話って「コンテンツがつまらないから嫌だ」とかじゃなくて、
見てる中で 推しがメンタル削られてるように見えるのがしんどいって話なんだよ。
それに対して「じゃあ見るのやめろ」って返しは、正直脳死で回答してるだけじゃねって感想。
長く見てる人ほど、配信者の人間関係とか空気とかも含めて見てるわけで、そこで何かしんどいことが起きたときに「じゃあ離れろ」で全部処理するのは、さすがに雑すぎる。
あともう一個言うと、「嫌なら離れろ」って言う人って、結局 コンテンツ側の問題を一切考えなくていい立場に逃げてるだけにも見えるんだよね。
それ言い出したら、配信文化の問題とか、視聴者との距離感とか、そういう話って一切できなくなる。
だから別に「配信やめろ」って命令してるわけでもないし、界隈を断罪してるわけでもない。
ただ、見ていてしんどい状況があるって話をしてるだけ。
それに対して「嫌なら離れろ」で話終わらせるのは、ちょっと単純にすぎるんじゃないの?
最近、新作ゲーム実況配信をいくつか見ていて、どうしても小さな違和感が消えなかった。
配信の概要欄や固定コメント、画面の端にさりげなく書かれている「ネタバレ禁止」の一文。
最初は何も思わなかった。初見リアクションは面白いし、それを壊されたくない気持ちも分かる。
でも、あの一文が“前提”として置かれている感じに、どこか引っかかった。あれは単なる注意書きのはずだ。
それでも、そこに書かれているだけで、コメント欄の空気が少しだけ引き締まる。
誰かが破れば即座に指摘されるだろうし、守る側に回る人も自然に現れる。
その反応の速さを見ていると、
あれは単なるマナーというより、空間の前提になっているのではないか、と感じた。
前提になったものは、疑われにくくなる。
そして疑われにくくなったものは、
けれど、そこでふと立ち止まる。
配信者自身は、そのゲームの物語を何千、何万人にもリアルタイムで広めている。
一方で「嫌なら見るな」「視聴は自己責任」という原理も同時に語られる。
公開空間では情報は流れる。踏むかどうかは受け手の問題だ、という立場だ。
でもコメントのネタバレは勝手に流れてきて避けられないから別だ」という反論だ。
しかし、配信もサムネやおすすめ、切り抜きで不意に流れてくることはあるし、コメントも非表示や遅延、モデレーションで一定程度は管理できる。
それでもコメントだけが強く問題視されるのは、単に避けにくいからではなく、「配信者が制御できない他者の情報」だからではないか。
制御できる未来はコンテンツになり、制御できない未来は違反になる。
ここで論点は、情報の内容ではなく、「誰が物語の時間を決めるか」に移る。
実際に起きているのは、「情報は流れる。嫌なら自己責任」という原理から、
「この種類の情報だけは流す側が倫理的に禁止されるべきだ」という原理への切り替えでもある。
この転換を支えている前提が何なのかは、本来もっと説明されてよいはずだ。
配信者がストーリーの展開を自分の進行に合わせて見せるのは演出だ。
コメントで先の展開を書き込むのは、その進行への割り込みになる。
ここまでは理解できる。
だが、本当に問うべきなのは、その先に何が起きているのかだ。
けれど、それが「守らないのはどうなのか」という含みを帯び始めたとき、質が変わる。
「空気を読めない」「常識がない」「そういう人なんだ」といった言い回しが重なれば、
論点は行為の是非から、その人の性格や態度の評価へと静かにずれていく。
もちろん、そこまで強い言葉を使っているつもりはない、という人もいるだろう。
だが問題は、誰が何を言ったかよりも、どういう空気が出来上がっているかだ。
観賞マナーが必要なのは当然だ。他の視聴者や演者の体験を壊さない配慮は、どんな公共空間にもある。
だが、ルール違反を指摘することと、その人の人格まで評価することは、本来は同じ次元の話ではない。
その飛躍が曖昧なまま、道徳だけが強くなるとき、そこに構造が立ち上がる。
その構造を支える言葉として、しばしば持ち出されるのが「推しを守る」だ。
この言葉は強い。
好きな存在が不快な思いをしないようにしたい、空間を荒らされたくない――その感情は自然だ。
だが、その“守る”を分解すれば、
進行を乱さないこと、
それが「守るのが正しい」「守らないのはどうなのか」という語りに変わったとき、
そして道徳になった瞬間、それは前提になり、疑問は態度の問題として処理される。
正しさが共有されると、守る人は善になり、乱す人は悪になる。
構造は単純だ。
守る人が正しい側になる(善)。
破る人は非難される(悪)。
疑問を言う人は周縁に押し出される(異端)。
守る人たち(信徒)、
この構図が宗教的に見えるのは偶然ではない。
教義があり、守る対象があり、善悪が明確で、疑問は異端になる。
重要なのは、それが単なる雰囲気ではなく機能を持っている点だ。
この道徳は、物語や空間の主導権を握る側の立場を“自然なもの”として固定し、それを揺らす行為を倫理の問題に置き換える。
善悪がはっきりすると、自分が正しい側にいるという安心感が生まれる。
それはときに、
「考えなくていい免罪符」にもなる。
推しを守ることは配慮であると同時に、「自分は正しい側だ」と示す行為にもなりうる。
違反を断じることは秩序の維持であると同時に、立場の確認でもある。
だからこそ、この構造は外から強制されなくても回り続ける。内側の人間が自ら支え、自ら強化する。
推しの失言や規約問題が曖昧に処理される一方で、空間を乱す行為だけが強く断罪されるとき。
他配信者の名前出しへの即時注意や、内輪ネタの持ち込みへの強い拒否反応も同じ延長線上にある。
本来はローカルなマナーだったものが、いつの間にか「守らない人はおかしい」という語りに変わる。
ネタバレ禁止は、その構造がもっとも分かりやすく表面化した例にすぎない。
気になっているのは、配慮やマナーとして始まったものが、「疑う余地のない正しさ」に変わる瞬間だ。
だが、それが「守る人は正しい」「守らない人は人格に問題がある」という図式にまで拡張されるなら、それは秩序維持ではない。
推しを中心にした空間では、正しさが共有され、守ることが忠誠の証明になる。
そのとき、善悪の基準は「何が正しいか」ではなく、「その場にとって都合がいいかどうか」にすり替わっていないか。
もしその区別を問うこと自体が“空気を壊す態度”と処理されるなら──
それとも、空間の主導権を守るために
それとも、「疑わなくていい」という心地よさから来ているのか。
それを考えずに倫理だと言い切るのは、
正しさというより、ただの思考停止に近い。
そして、その問いを封じるなら──
それはもうマナーではない。
最近さ、自分がちょっとでも気になってるコンテンツとか、昔好きだった作品に「Vtuberコラボ!」とか告知が出るたびに胃がキリキリするんだけど。
「世界観をぶっ壊すな」って、これまで何万回言わせれば気が済むんだよ。
あのVtuber特有の身内ノリというか、軽薄な空気を本編にねじ込む意味ある?
企業として「数字が出れば中身なんて何でもいい」「流行りもの乗っけときゃいい」って思ってるのが透けて見えるのが、本当に地獄。
しかも一番キツいのが、V信者たち。 あいつらがマジで最悪。「嫌なら見るな」「新しいものを受け入れられないのは老害」みたいなテンプレ返しで、思考停止して叩き潰しにくるじゃん。
そのせいで、コンテンツ側が批判されてても全然まともな議論にならない。建設的な意見も全部アンチ扱いで封殺される。
空気が荒れるのが分かってるのに、どうして公式はわざわざ火薬庫に火をつけるのか。
はっきり言うけど、Vtuberなんてまともな社会生活送ってる人はみんな嫌ってるだろ。
まともな感性持ってる層ほど距離置いてるから、コラボすればするほど一般層がドン引きして離れていく構造になってるのに、なぜ学ばないのか謎すぎる。
今のニコニコの問題について見る機会があり、今これを書き殴っている。
ニコニコ動画の良さに「コメントが画面を流れる仕組み」を挙げる人は多いだろうが、
自分は、今のニコニコ動画が抱えている問題は、その「コメントが画面を流れる仕組み」にあると思っている。
自分は現在、動画の収益で家賃を払っている。主戦場はYouTubeだ。
昔はニコニコにも動画を上げていたが、今はもうやめている。理由は単純、労力と見返りが釣り合わなかったからだ。
金や視聴数の問題ではない。よく誤解されるが、ニコニコでも収益化はできる。金だけを考えるなら、同時投稿した方が得なのは事実だ。でもやめた。
ニコニコに、初心者に優しいとかタグ検索が強いとかYouTubeより居心地がいい部分があるのも事実だと思う。
アルゴリズムに関して言えば、YouTubeは本当に出来が悪い。
正直、今でもニコニコ動画は好きで、盛り上がってほしいと思っている。
だが、今のニコニコの一番の問題はやはり「流れるコメント」だ。
視聴者がジジイばかりで、その結果として流れてくるコメントの質がひどい。結局これに尽きる。
ニコニコが好きな人は「YouTubeほど荒れてない」と言うだろう。確かに治安だけを比べればそうかもしれない。
知識を誇示したがる人、延々と自分語りを始める人、何かにつけて「〇〇に似てる」と言い出す人、連想ゲームを始める人。
こういうコメントが多すぎる。
「これ〇〇って作品に似てる」
知らん。何十年前の話だよ。
「〇〇さんの動画っぽい」
で?それを今ここで言う意味は何だ?
「〇〇とも解釈できるけどね」
だからどうした。今その話してない。
「俺の時はこうだった」
誰だよ。
「ここ誤字」「××じゃなくて〇〇だね」「〇〇だぞ」「××→〇〇」
誤字はごめん。でも指摘は一個でいいだろ。
「ここちょっと切れてるw」
黙れ!!
それをわざわざ画面に流す必要が本当にあるのか?
上から目線で細かい粗を探しては得意げに指摘する連中ばかりで本当にうんざりする。
しかもそういうコメントがあるとそれに反応するコメントが増えて連鎖していく。
脈絡のない自分語りや、関係のない作品の名や、その場にそぐわない雑学を書き込む行為も、はっきり言って意味が分からない。
これが積み重なり、気持ちが折れた。
投稿のモチベが維持できなかった。これで「もういいか」と思ってしまうのは自然だと思う。
「そんなことで?」と思う人もいるだろう。
でも、コメントって来るとつい全部見に行くんだ。小さな不快が積み重なるとちゃんと効いてくるんだよ。
自分は収益も再生数もYouTubeの方が上だったからYouTubeに移った。
同じ理由でニコニコを離れていった投稿者は、自分だけじゃないはずだ。
YouTubeにも変なコメントはあるが、あそこは動画と距離がある。目に入らないし無視も削除も容易だ。おそらく、同じコメントをされても、ニコニコ動画ほど腹が立ちはしない。
それに、少なくとも自分のチャンネルでは、編集ミスを探して上から目線で指摘してくる視聴者はいない。
ニコニコは違う。「ここちょっと切れてるw」が流れた瞬間、どうしても目が編集ミスに持っていかれる。で、1の指摘コメントが、10に増える。
……ここまで言うのは、世話になった場所に唾を吐くようなものだ。
念のため言っておくが、嬉しいコメントも多かった。
「うぽつ」「おつ」「ここすき」は今でも好きだ。考察や感想を書いてくれる人には本当に救われた。
コメントの仕様か、視聴者か。どちらかを直さない限り、人は入ってこないと思う。
嫌なら見るな?それはその通りだ。
はてブを開くと、毎日のようにホッテントリが男女論やジェンダー論で埋め尽くされている。
同じような顔ぶれが、同じような論争をして、何年も何年も占拠し続けてる。
正直、目に入るだけで不快だ。
見たくない人にも強制的に押しつけてるという自覚はないんだろうか。
当人たちは「議論してる」つもりかもしれないが、外から見れば中毒みたいに同じ話を繰り返しているだけ。
何年経っても新しい知見もなく、ただ他者を攻撃し、盛りあってるだけだ。
これに対し、嫌なら見るなという声が上がってきそうだが、逆だ。
延々と同じ話を続けたい人同士で閉じた空間にこもればいい。
そうすれば少なくとも、公共の場を汚すことはなくなる。
昨日、THE Wを見た
"客の質が悪い。もっとウケていい"、だの、「それはお前の好みなのでは?」とか「そのお笑いをわかってない素人も含めて舞台やテレビを見てくれるお客さんなのでは?」思ったが、まあそれはいったん置いておこう
"もっと強く突っ込んだ方がいい"とか「確かに一理あるな」って関心しながら聞いていた部分もあったが、それもいったん置いておこう
話が長いんだよ!
こっちはただなんとなく、ショーレースで勝ち上がってきた人のネタを見れると思って配信開いたんだよ!
お前の素晴らしい芸人論を長々と語られるのを見たかったわけじゃないんだよ!
ショーレースだから審査も番組の一部ってのはわかるし、歯に衣着せぬ物言いみたいなのが好きな人も多いのだろうけど、俺は単純に見てて楽しくなかった…
そもそも人が長々と説教されているところなんて見たくないんだよ…
別に批判的なコメントをするなとかは言わんけどさ、恵美ちゃんですらあんな長々やってなかったし、もっと掛け合いとかしてたぞ
最近さ、好きだったコンテンツに「Vtuberコラボ!」とか告知が出るたびに胃がキリキリするんだけど。
世界観をぶっ壊すなって何回言わせるんだよ。
企業として「数字が出れば何でもいい」って思ってるのが透けて見えるのが本当に地獄。
あいつらが最悪。「嫌なら見るな」「文句言ってるのは老害」みたいなテンプレ返しで叩き潰しにくるから、コンテンツ側が批判されてても全然議論にならない。
空気が荒れるのが分かってるのに、どうして公式はわざわざ火薬庫に火をつけるのか。
はっきり言うけど、Vtuberなんてまともな人はみんな嫌ってるだろ。
まともな層ほど距離置いてるから、コラボすればするほど一般層が離れていく構造になってるのに、なぜ学ばないのか謎すぎる。
あれ大炎上したせいで「駄作扱い」までされるようになったじゃん。
全部Vtuberのせいだろ。
作品の質とか演出とか以前に、コラボ発表の時点で空気が最悪になって、まともに評価される土俵すら用意できてなかった。
あれで冷めたファンどれだけいたと思ってんだ。
もしVtuberが関わってなかったら、たぶん今頃は「近年の名作」としてもっと高く評価されてたはずなんだよ。
余計なノイズさえ乗らなければ。
絶賛されてるこれ。
経産省、アニメ・エンタメ支援で「作品に口出ししない」など5原則を提案 国民の声や反省活かし新方針 | オタク総研
「誰であろうと、作品の中身に口出ししてはならない」
ナインティナインの岡村隆史をはじめ、多くの芸人が誤解している。
電波は有限の天然資源であり、国家が管理する公共のインフラだ。
にもかかわらず、彼らは「嫌なら見るな」と言い放つ。
電波法は、電波利用の目的を「公共の福祉の増進」と明記している。
放送法第一条も同様に、「放送を公共の福祉に適合させ、その健全な発達を図る」と定める。
つまり、電波は芸人の“表現の自由”を保証する道具ではなく、国民の共有財産なのだ。
娯楽はあくまで補助的要素であり、民間放送の経済的持続性を保つための“免罪符”にすぎない。
お笑いの悪ふざけを垂れ流すために電波を貸しているわけではない。
かつては新聞や掲示板しか情報伝達の手段がなく、テレビの電波は“神の道具”だった。
だがいまやインターネットがある。
もし「公共の福祉」を本気で考えるなら、テレビ放送の帯域を縮小し、携帯通信など社会基盤に再配分すべきだろう。
「嫌なら見るな」に対して、私はこう返したい。
「貴重な電波で鬱陶しいものを流すな。やりたければYouTubeや舞台でやれ。」
現状のPixivはAIによる粗製濫造に侵されている。いや、AI投稿作品は棲み分けされてるでしょ?と思うかもしれないが、普通に「AI生成作品」にチェックを入れずに投稿されているにも関わらず、その実AIのポンだしというものが少なくない。というかかなり多い。
※ここでいうイラストとは少なくともAIによるポン出しは含めない
これは我々がインターネットをする上で心情としている「嫌なら見るな」に反するものだ。嫌なのに見せつけられている例のAAのような状況だ。
これは(AI絵を投稿するユーザー以外の)全てのユーザーにとって不利益だ。ではなぜPixivは厳格に規制せずユーザーのモラルに甘える(と言っても崩壊しているのだが)態度を貫くのか。
現状のAI絵はわかりやすい。t2iかi2iのポン出しか、良くて微修正したくらいだ。細部を見れば溶けている画像は絵というより絵っぽいものだ。
いわゆる「AI絵師」を自称する人にはそれなりの主張があるかもしれないが、描くという工程を得ていない画像はイラストとも言えない出来のものだ。
まぁそういう絵を規制するのは簡単だ。「下絵すら描かずにAIで作成した作品はAI生成作品とします。AI生成作品は投稿しないでください」とするだけでいい。
じゃあ「下絵(線画)は自分で描きました。塗りはAIに任せました」という作品はどうなるのだろうか。まぁこれも塗りという一番厄介な工程をすっ飛ばしてるのでAI生成作品に含まれるかもしれない。
少なくとも全ての工程で手描きしてる絵師からすれば自分と同じ列に同じ作品として展示されるのは「ふざけんな」と思うだろう。
じゃあ定義を広げて「作成過程における大半をAIに依存して作成した作品をAI生成作品とする」という基準に改める。…というかこれが現状のPixivの規制なのだが。
まぁこんな曖昧な基準じゃ「いや、t2i/i2iで画像を生成するのもプロンプトという技術とガチャという試行錯誤が必要で〜」と訳のわからん理屈で「手間をかけたからこれはイラスト!」という主張で投稿する奴が現れているのが現状。
じゃあやっぱり「制作過程の一瞬にでもAIが関わっていたらAI生成作品です」とすると、疑いの余地なくAIの関わりを断つことができる。できるが……
例えば「塗るといい感じに影を着色できるブラシ」とか「環境に適応していい感じに光を表現できるブラシ」というのが現れるとする。
現実的な悩ましい色の選択と難しいレイヤーの合成方法をすっ飛ばして『ビル街の中にある街路樹から漏れる淡い光を表現できるブラシを作成して』というだけで望ましいブラシと色を簡単に作成してくれるツールが現れたら?
アンチAI過激派なら「機械学習によって生成されたブラシによる着色なんて味がない」というだろう。
しかしこれから現れるAIネイティブ世代にとっては「いや、ブラシが生成されてもそれでうまく描けるかは結局力量だから」となる可能性は高い。あくまでブラシはツールで、最適解のブラシを手に入れたとして最高の絵が描けるわけではない。
というかこれは現状でも議論できる話で、例え完成品のイラストに1ピクセルも反映されていないとしても、AIによって生成された画像を参考に構図を決めたり着色してたりしてたら?
お気持ちの話をするなら「そういう楽はすべきではない、芸術とは自分の魂を込めることで手間を省いたものに魂は込められない」という人もいるかもしれない。
が、それは紙と違って簡単にRedo/Undoができるツールを使ってる人が言うべきではない。パソコンで絵を描いていない人だけが彼に石を投げなさい。
我々がコンピューターという便利なツールで描かれたイラストを当たり前に受け入れている以上、AIという便利なツールによって描かれたイラストを受け入れるのもまた時間の問題なのだ。
話を戻すとPixivがそういう「少しでもAIが関わってたらダメ!」という表明をすると、短期的にはいいが長期的にはユーザーが離れていく。
Stable Diffusionの登場はかなりの驚きだったが、既に歴史の中で似たようなことが起こってるのは承知だと思う。世界史で習ったイギリスの産業革命しかり、あるいはこの文脈でよく語られる「コンピューターが登場したことによって生まれたデジタルイラストには味がないと過去には言われていた」とかそういうのだ。
我々が今どんなに「AIはクソ」と主張しても10年後にはみんな使って当たり前のツールになっている。
想像の話だが、パソコンが生まれる前に存在していた「イラスト投稿雑誌」なるものがあったとする(※私はWindowsが生まれてから産まれているので、ガチでここら辺は私の想像)
そのイラスト投稿雑誌が「コンピューターイラストは誰でも簡単に描けて味がない!紙のイラストのみ受け入れます!」という主張をし、実践していたら簡単に時代の波に埋もれるのは想像がつくと思う。現実はパソコンで作成したイラストも受け入れる雑誌が現れて、そっちが生き残ると思う。
もちろんそれを現状のPixivにまんま当てはめることができるとは思えない。AIによるポン出し絵を投稿する人間にファンがつくとは思えない。ただ、AIを活用したブラシなどを使って描かれた絵なら、普通にファンはつくと思う。
まぁ結局、「AI絵は一律排斥しろ」というのは難しい。線引きが難しいからだ。またそうなった場合、厳格にAIを排斥するサービスは投稿者・閲覧者共に減っていくのは間違いない。
だからPixivは(現状では否定意見が多い)AIをある程度受け入れつつ、将来のAIネイティブ世代を受け入れる体制を作り続けないといけない。
そうじゃないと、AIを活用するイラストレーターがPixivから離れていくからだ(AI絵師(笑)ではなく)
そしてChatGPTから始まったAIサービスが普通の人間でも使えるようになった以上、AIに対して抵抗がある人間が減ることはあれど、増えることはない(まさしく産業革命に対するラッダイト運動のようなことは起きるかもしれないが、望むと望まないとに限らず、我々が機械に反発なく生活しているように、もはやAIを避けて生きていくのは無理なのだ……)
これが「AI絵は一律、厳格に対応しろ」と言う声にできない理由だと私は考える。もろちん、人的リソースの限界もあるだろうけど。
これはPixivに限った話じゃなくて、全ての芸術(音楽とか小説とか、あるいは動画とか)に及ぶ話だ。望むと望まないと、AIは使われてゆく……
「いや技術的な話じゃなくて、自分が描いた絵が無断で学習されて、それを使ったものが投稿されてるのが嫌なんだが」という人には『それはそう!!!!!!』と声を大にして賛同しておく。
しかし残念ながら、みんな大好きChatGPTですら著作権に対しては舐めた態度を取っている(Sora2とか…)ので、もうまじで残念ながら諦める以外の選択肢は極めて少ない。
だからこれを書いている私のスタンスは『』 もう時代の流れに身を任せて全てを諦め、そして自分の益になることは人から怒られない程度にAIから掠め取っていこう』だ。今の私の業務はChatGPTで成り立っている。
だからこの文章も別に「だからPixivはこうしろ!」とか主張するつもりはない。
「PixivはさっさとAI絵じゃないと偽ってAI絵の投稿するやつをどうにかしろ」という程度のことは常々思ってるが、それ以上のことを望むのは難しいんじゃないか、という考察をただ垂れ流しただけ。