はてなキーワード: 原書とは
僕は元来知識を求めるのが好きで、月に10冊ほどのペースで読み続けている。大学に入ってからずっと記録しているのだが、このペースはほとんど崩れていない。記録の一部は2020年以降カテゴリ[読書]でまとめている(ただし別の方のも記事もある)。御覧の通り、文学、自然科学、社会学、歴史学と、ジャンルにこだわりはない。
だが、ここ数か月、知識を増やすことに対する関心が途絶えてかけている。というか、何か新しい知識を得ることに対してうんざりするような感じが出てきた。閉塞感というか、「これ以上何かを知ってどうするんだ?」という懐疑の念だ。
仕方がないので、昨年の年末からは頭を切り替えるために十代にハマった「指輪物語」の原書を読んでしのいでいた。実際、頭の別の場所を使っている実感があり、非常に楽しかったのだが、読み終わった今でも次の知識をどんどん増やそうという熱意が昔ほど出てこない。アファーマティブ・アクションや社会活動についての新書を読もうとしていたのだが、どうもドキドキワクワクしてこない。一応「独学大全」を買って積んであるが、読むかはわからない。
知的な読書をしたいと意識をしてから20年以上経過していて、これだけ続いてきた習慣が変わろうとしているのは、自分の身に何か大きな変化が起きようとしている兆候の可能性がある。まったく読めなくなるというのは大げさだが、明らかにペースダウンしている。
原因を知りたいため、いくつかの仮説を立てて、それぞれを検討してみたい。
実際に真冬には気力が落ちる体質で、特に日の出の時間が遅くなる時期は睡眠時間が延びて布団から出るのに苦労する。弱い季節性感情障害の傾向もある。ただし、読書そのものは継続できているので、冬ゆえのデバフがかかっているにせよ意欲の低下の一因でしかないし、仕事はちゃんとできている。というか、春になっても(最初に原因を考え始めたのは真冬だがこれを書いているのは3月)読書の意欲は完全回復していない。
仕事の内容に変化が少なく、日々を単調に感じている。だから今までの習慣にしがみつくのが嫌になっている。今までの行動パターンと変わったことがしたくなる。実際、土産物を買うために職場近くの駅で和菓子屋を探したときや、会社を早退して美術展に向った時、または食器を買うために乗換駅で下りたときは、頭がすっきりしているし、翌日の仕事のやる気は増えている。
これは中年とはあまり関係ないかもしれない。ルーチン的な日常が好きな割に、一か月に一度は降りたことがない駅で下りたいという願望が元からある。そんな中、今までの読書という時間をかけてきた趣味・ルーチンが相対化され始めており、風穴を開けようとしているか。
パートナーを見つけて引っ越したが、それの伴うゴタゴタや生活の疲れが数か月遅れで出てきた。実際、結婚や転居はストレス指数が高く、仮説としては十分に有効。ただし、日常的な家事や仕事は普通にできており、知識欲だけがピンポイントで失われる理由がわからない。
ただ知識を増やすのはあまり意味がないとうんざりし始めている。多少知りたい分野はまだあるものの、若いころのような焦燥感はない。映画や漫画を大量に読みたいとも思えない。
20代30代は、何者でもない自分を守るため、そして混沌として暴力的にも見える世界を理解するため、あらゆる知識を必死になって吸収しようとしてきた。
今はそこまで鎧で武装しなくても生きていけると実感できるようになった。パートナーがいて、自分の生活をきちんと組み立てている。人間関係が良好になってきて、抽象的な知識よりも生きた人間のほうが面白くなってきている。
社会の不正義に対する感覚も、恐怖や怒りから、人間の弱さへの共感に変わってきた気がする。
確かに趣味に対する関心の消失はうつ病の主要な症状だが、仕事や生活ができない状態ではないし、かなりのエネルギーを使う英語の読解はできている。メンタルの調子をモニタリングするのは大事だが、可能性としては高くない。
徒に知識を集めるだけではなく、昔読んだものを振り返り、より深く読解したくなっているのだろうか。それこそ若いうちには気づかなかった暗示や、知識が不足していた頃には知りえなかった作者の意図がわかるようになる。これは実際に「指輪物語」の原文を読んで感じたことだ。母語でない言語で読むことでペースが強制的に落とされ、精読を強いられる(余談だが、面白いことに、英語で長文を読んだ後、日本語の小説を読むことを考えると、いくばくか気が重くなった)。
人生後半戦、再読を中心に行うことになるだろうか。ただ、「ノスタルジーに浸っているだけってどうなのか」とは思う。だが、再読だけに浸ることもないだろう。ドストエフスキーのように感情を揺さぶるものを好む度合いは減っている。
音楽の趣味にしたって、最新の曲には全然心動かされず、クラシックやオペラのアリア、僕が生まれる前のロックと保守的である。そう、歌詞のない(または理解できない言語の)音楽は、言語に疲れた僕を癒してくれる。あるいは、幼い頃の思い出と結びついた言語の情報は、感情の層に素直に届く(幼少のころ英国に住んでいたのだ)。
「脳の言語と異なるエリアを使いたい」というのは芸術でもそうで、相対的に言語化が容易なタイプの現代アートやマグリットのような言語実験よりは、異質な文化の未知の造形や、インスタレーションのように空間を演出するタイプの作品に関心が向かっている。
ドイツ語をやって、昔読んだ児童書を原文で読みたくなっている。
このドイツ語に関してだが、やってみて今のところ調子がいい。実は今年の目標は①「指輪物語」の原文読破、②ドイツ語の開始だった。①は成功したので②を3月15日(日)から始めているのだが、久しぶりに暗記の勉強をしていると、明確な目標が与えられた気がしてとても気持ちがいい。
それに、大学時代に1年間だけ学習したため、文法は少々覚えている。なので、単語帳と例文を照らし合わせて読解するときも、調べる量が少なくて済む。まだ初歩の初歩だからかもしれないが楽しい。昼休みに小説を読むよりも、単語帳に定冠詞と複数形を書き込んでいるほうが生き生きしている。自由時間をずっと読書にあてるという行動に変化が起きているので楽しんでいる面もあるだろう。
知識を増やすことそのものに対する忌避は、ドイツ語をやっている時には出てこない。あとは未知の都市を歩くことに憧れがあり、春か夏に行こうと持っている場所のガイドブックも読めている。知識というよりもデータベースに近いからかも。つまり、書籍でいろんな知識を学ぶときのように、直接人間が出てこないので、感情を動かさなくて済む。逆に言えば、こういう単純な知識を記憶するときは、哲学や社会学のように新しい概念を頭に入れる必要がない。それを面倒くさがっている面もあるだろう。
(そういう意味では自分の資産の管理方法や医療保険についてもちゃんと勉強したいのだが、実利と程遠いことのほうがやる気が出るのはなぜだろう?)
続きはトラバに。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」★★★
フィリッパ・ペリー「身近な人間関係が変わる 大切な人に読んでほしい本」
宇佐和通「AI時代の都市伝説: 世界をザワつかせる最新ネットロア50」
深津貴之、岩元直久「ChatGPTを使い尽くす! 深津式プロンプト読本」
大宮冬洋「人は死ぬまで結婚できる 晩婚時代の幸せのつかみ方」
飯田一史「「若者の読書離れ」というウソ: 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」
セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ「誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性」★★
恋紙屋「夜にバニーは(ベッドで)跳ねる」
「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」於・松濤美術館。
「新江ノ島水族館」
やっぱりエーリッヒ・フロムはいい。たぶん自分が特に気に入っている思想家だ。
このあたりからスピリチュアリズム、自己啓発の背景にある思想とその明暗をテーマに本を選び始める(陰謀論まで行っちゃったのも含めて)。
多分最後にSF小説を読んだのはこのあたり。SFっぽい漫画は読むことがあっても小説は読んでいない。新人賞を追うのも去年あたりでやめている。
余談だが、自分が好きなSFは科学や技術、それから人間の未来を選ぶ力を信頼したものだった。もちろん、社会学的なものや悲観的なものも大好きだが、それらはどちらかと言えばaquired tasteである。一番深く心が動くのは前者だ。
ところで、わざわざ買った同人誌をメモしてもしょうがないかもしれないが、書かないにもなんだか居心地が悪い(記録魔)。
岡奈津子「新版〈賄賂〉のある暮らし 市場経済化後のカザフスタン」★
アナ・カタリーナ・シャフナー「自己啓発の教科書 禁欲主義からアドラー、引き寄せの法則まで」
ジェイムズ D.スタイン「不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力」★★
尾崎俊介「アメリカは自己啓発本でできている ベストセラーからひもとく」★★★
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 第9部 ザ・ジョジョランズ」六巻
岩宗治生「ウスズミの果て」一巻~三巻
こるせ「伽藍の姫」一巻~二巻
岩宗治生「ウスズミの果て」 四巻
肋骨凹介「宙に参る」五巻
「NHKスペシャル 堺雅人が巡る古代エジプト!ピラミッド透視とツタンカーメンの謎」
「NHKスペシャル 堺雅人が巡る古代エジプト!謎の王ブラックファラオの実像に迫る」
「ニーア・オートマタ End of Yorha edition」(XYエンド以外回収)
「彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術」於・アーティゾン美術館。
「コレクション展 第2期 特集:新収蔵作品のご紹介」@岩手県立美術館
小岩井農場まきば園
八月は読んだ本が少ない。普段通勤時間に本を読んでおり、お盆休みがあったためだ。
代わりにというわけではないが、ちょうどゲームをクリアした。普段ゲームをしないので難易度を下げて楽しんだ。別にやり込みたいわけではなく、ストーリーを終えればそれでいいと感じている。だが、自分の人生でゲームは必須の要素ではない気がする。
ところで、数年ぶりに(十年近い?)アニメを見たのだが、これはたまたまコロナから避難するために泊まったホテルで視聴した。一話完結だし、青春時代を思い出すし、あまり疲れない。テレビ番組が記載されているのは、自分がテレビを見る頻度の少なさを示している。
レト・U. シュナイダー「続 狂気の科学: 真面目な科学者たちの奇態な実験」★★
トーマス・トウェイツ「人間をお休みしてヤギになってみた結果」
中村圭志「亜宗教 オカルト、スピリチュアル、疑似科学から陰謀論まで」★★★
ロジャー&チャーリー・モーティマー「定職をもたない息子への手紙」
烏谷昌幸「となりの陰謀論」
今井むつみ「「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策」
岡瑞起、橋本康弘「AI時代の質問力 プロンプトリテラシー 「問い」と「指示」が生成AIの可能性を最大限に引き出す」
山本栄二、中山雅司「国連入門 ――理念と現場からみる平和と安全」
瀬野反人「ヘテロゲニア リンギスティコ 〜異種族言語学入門〜」一巻。
ヤン・シュヴァンクマイエル「蟲」@シアター・イメージフォーラム
「大長編 タローマン 万博大爆発 TAROMAN」@TOHOシネマズ 渋谷
皇室の文章は結構フランクで楽しい。あと、著者略歴に「二〇一九年、即位」と書かれていて、何も間違っていないのにレア過ぎてちょっと笑ってしまった。
僕は超細密画はあまり評価していないのだが、諏訪敦は結構気に入っている。たぶん作品に取り組む姿勢やモデルに対する丁寧な態度が好きなんだろう。それから、母を亡くして、具象表現ができなくなったらしい。残酷な言い方が許されるならば、芸術家が傷ついたり何かを学んだり、逆に精神が安定してして作風が変わってしまう瞬間に、とても興味がある(藤田嗣治が戦後に人工的な人形のような子供たちばかり書くようになった契機が知りたいし、精神が穏やかになった後のムンクの作品にも関心がある・結婚後にシーレの作品が良識的になってしまったのにも)。
今月は久しぶりに映画が見られてうれしい。シュヴァンクマイエルの作品は自分の過去の作品を解体し、評論するような内容だった。
高野秀行「酒を主食とする人々 エチオピアの科学的秘境を旅する」
島本英明「もっと知りたいモディリアーニ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
新見隆「もっと知りたいイサム・ノグチ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」
末永幸歩「「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考」★★★
今泉忠明 (監修)「おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典」
高野秀行は定期的に読んでいる。アート・ビギナーズ・コレクションも定期的に読みたくなる。次に何を読むか迷ったときに重宝する。ただし、美術館に行く途中で読むと、なんだか美術鑑賞に向けるエネルギーをそこに分けなきゃいけない感じがしてしまう(図書館で借りているので読むタイミング的にそうなることがある)。なお、このシリーズは冊数が多い割には下山観山や英一蝶の巻がない。あと、本によっては作者の思想がすごく偏っている。
松井文恵、安田茂美「写実絵画とは何か? ホキ美術館名作55選で読み解く」
ジョナサン・カラー「文学理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)」
秋月龍珉「無門関を読む」
アンドリュー・スチュワート「情報セキュリティの敗北史: 脆弱性はどこから来たのか」★
尾崎俊介「ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化」★★
六畳「××××の結果で×××する××」(苦手な人がいるだろうと思うので伏字)
「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」於・東京ステーションギャラリー
「CREVIA マチュピチュ展」於・森アーツセンターギャラリー
30周年記念展「ALL OF EVANGELION」於・東京シティビュー
平等院鳳凰堂、鵬翔館、宇治神社、宇治上神社、源氏物語ミュージアム。
「知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? ヒトはなぜ音楽を愛するのか」
自分は欲望をコントロールできず、性欲などに負けてしまう人間の話が好きだ。現実の生活では正しくいるよう求められるのだから、せめて虚構の中では人間のダメさを許してほしい。そうでなければ、現実世界で良識を守れない、とまではいわないが、ダメな人をダメなまま表現されていると、それを読むことで、何か許されたような気持ちになれる。
他には禅問答について読んでいる。
あと、尾崎俊介がロマンス小説について述べているあたりが面白かった。なんでジェンダー平等が叫ばれる時代に、一見するとあえて古典的に見えるストーリーが必要とされているか、一つの知見を得た。
J. R. R. Tolkien「The Hobbit」Harper Collins Publishers。和書文庫換算二冊。★★★
尾崎世界観「祐介・字慰」★
丸谷才一「輝く日の宮」★★
「ファーストコンタクト 窓口基作品集 【電子コミック限定特典付き】」
「落下の王国 4Kデジタルリマスター」於・ル・シネマ 渋谷宮下。
丸谷才一が相変わらず面白かったので(僕はメタフィクションが好きだ。時にはわざとらしくなってしまったり作者の自分語りに堕したりするリスクもあるが、うまくいくとこれは気持ちがいい)ブコメで進められた全集を手に取ろうとしたら、地元の図書館にはなかった(正確には、引っ越す前の自治体のにはあった)。さてどうしよう。
洋書を読み始めた。あらすじは覚えているが細部はよほど印象的なシーンでないと覚えていない。
トールキンの場合、樹木の描写が細かく、いろんな種類の木が出てくるのだが、そもそも僕のほうが樹木の知識に乏しく、和訳を読んでも細かくイメージできない(束教授ごめんなさい)。児童文学とは言え、二世代前の英語なので語彙やスペルが違うし、手加減せずに平気で難しい言葉を使う。
「ナルニア」を読んだときも、例えば身近でない船舶の部品などの語彙で苦労した覚えがある。
窓口基は暴走するテクノロジーや世界観の考察を楽しんだ。SFが好きだったもう一つの理由であり、一番ワクワクするところだ。この人はグロやゴアも書けるらしいのだが(なんにでも科学的な興味がありすぎて、人体を破壊可能な一つの素材として見てしまっているのかもしれない)、「苦手な人はこの先読まないで」と警告できるので、自分の狂気をコントロールできるタイプの人であり、そこが好印象。
ケーブルテレビで「その着せ替え人形は恋をする」をやっていたのだが、感傷マゾを発症しなかったのは、僕の精神が変化したからかもしれない。原作の漫画を買おうかとも思ったが、実はそこまでコスプレに興味がないと思い直した。そもそも年末年始に向けて漫画をセールで買い込んだが、トールキンを読み続けており、全然手を付けていない。
漫画は小説と同じで、長編を読むには訓練がいる。ご覧の通り短編集や一話完結ものばかり読んでいる。
来年は「指輪物語」の原書を読み終えたら、国連や政治学、第二次世界大戦の日本軍、それから依存症のあたりの知識の補足がしたい。あとは意識の科学だなあ。
洋書だとどうしてもペースダウンする。開き直って冊数を気にしないようになれそうだ。あとは、トールキンを読み終えたらドイツ語をやりたい(言うだけならタダ)。
実際にドイツ語をやるかどうかはともかく、読書記録を始めたのは大学に入ってから二十年、知的な本を読もうと志してからはもっと経過している。いたずらに、明確なゴールもなく、知識を得続けようとする行動パターンに変化が欲しい。美術館についても、あまり行かない場所や行ったことのないところに行きたい。(ただしドイツ語をやって何かの原書に挑戦したら一年がかりのプロジェクトになりそうで、そうなると知識の習得には多大な遅れが発生する)
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ただし、全てが自分の物ではありません。
Nisargadatta, Maharajの原書を東大は1つも置いてない。ざっと調べると立命館大学にばかり置いてある。
なんでだろうなあ🤔
(そもそもインド人っぽい人の著書なのに英語の時点で原書なのか?って疑問もあるが)
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA7180018X
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251105170338# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaQsE2wAKCRBwMdsubs4+ SG2KAP94r88C9fTp78jj0YDxE3vkoX9KBL+HtcfZxIlWnurcLwEA8D++weLsrv6M 2BiXMF+Et3+oyEIOB8Vh3cf4J9BGPgc= =UPJJ -----END PGP SIGNATURE-----
読んでないじゃん朗読聞いてんじゃんってとこで
それを聞きながら僕は、静かに笑っている。
凡人だな、と。
僕の番が来る。
「趣味は……死ぬまでに読むべき小説の名作を、原書で読むこと…ですかね」
ざわ……。
食いついた。
「えっ、すごいですね!」
「まぁ、英語が多いですけど、フランス語も少し。バルトとか、フォークナーとか。
彼の文体のリズムって、翻訳じゃどうしても再現できないんですよね」
そう言うと、ふむふむ、と頷く声。
中には「難しそう……」と呟く人もいた。
もちろん、心の中でだけ笑っている。
「あ、あと『1001 Books You Must Read Before You Die』ってご存じですか?
古今東西の名作、世界中の小説が載っていて、僕はそれを全部原書で読破しようと思っているんです」
おお…!と小さな歓声が沸く。
だが話しているうちに、テーブルの空気が少しずつ重くなっていく。
それでも僕は止まらない。
「やはり…翻訳で読むのと原書では“光の反射”が違うんですよ。
司会者が「では次の方」と言う声で我に返る。
隣の女性が少し引いた笑みを浮かべていた。
――それでもいい。
帰り道、ひとりになってイヤホンをつける。
「それなりに読書家だが、英語力はそこそこの日本人」は、英語で何を読むか。何を読むべきなのか。それが問題である。
中学高校の6年間英語を学び(英検2級、センター試験180点)、大学に入ってからはあまり勉強せず、現在の生活で英語を用いることはほとんどない。
大学でフランス哲学を専攻していたので、フランス語は今でもたまに読む。
何か読みたいという気持ちはある。だけど、そう思っていながら、読めていない。
何を読むべきなのか。それが知りたい。
学生の頃に課題でジョージ・オーウェルの『動物農場』を原書で読んだ(あと、哲学の講読でマーサ・ヌスバウムの論文を読んだ)。
映画版にハマり、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』を読んだ。
大学卒業後は、高畑勲のアニメにハマり、『赤毛のアン』を読んだ。
私が読んだことのある英語の本はこの4冊だけだ。
それも、グレタの演説集以外は、日本語の訳書と英和辞典を横に置きながら読んだのである。
また、関心のある国際ニュースで日本語の報道が少ない場合は、ガーディアンやアルジャジーラなどの記事を検索して読む。
しかし、これも一ヶ月に一度くらいの頻度にすぎない。
私のような「それなりに読書家だが、英語力はそこそこの日本人」は、はたして英語で何を読むのか。
何を読むべきなのか。それが知りたい。
よほど面白いとあらかじめ期待できるなら別だが、そうでないなら辞書に首っ引きで洋書を読むのはつらい。
その一方で、日本語訳のある洋書は、邦訳を読めば大概はそれで満足してしまう。
『シャーロック・ホームズ』を読んだ友人もいるし、ラヴクラフトを読んでいる友人もいる。
しかし私は『ハリー・ポッター』にせよ『シャーロック・ホームズ』にせよラヴクラフトにせよ……あるいはシェイクスピアにせよメルヴィルにせよフォークナーにせよ……邦訳で読んだら、それで満足してしまった。
邦訳を読んで、原書「も」読みたくなるような英米文学にはほとんど出会わない。
私のような「それなりに読書家だが、英語力はそこそこの日本人」は、はたして英語で何を読むのか。
何を読むべきなのか。それが知りたい。
トラバもブコメも、ちゃんと「面白かったところ」を回答してあげてすごい優しいな。俺はこれかなり火力高めの煽りだと思ったけど。
・少し話題になってから原書で読んだんだけど(英語はものすごく簡単で読み易かった)
知らんがな!なんだけど、意外にみんなここ突っ込まないのね。
・だがこれほど評判になって、いまだにおもしろいといっている人が多いのはさすがに何かあるのだろうという気もするので、できればどこがどんな風におもしろいのか、自分が気がついていないことを教えてほしい。
この前段で「皆が面白いと言ってるところも当然把握してる」を匂わせつつ「それでも自分の読みきれてないところがあると思うから教えて欲しい」という、謙虚に言ってる風でガッツリマウント取ってくる話法。どう見ても考えを変える気はゼロです本当にありがとうございました案件。
・わりと最近読んだのはジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』だが
・あとウェルベックの『ある島の可能性』あたりもSFといっていいと思うが
ここでホラーやら純文学方面の要素が混ざってる方向性が違う骨太作家を持ってくるあたりが分かってる。ここと対比することで「ウィアーみたいな軽薄なエンタメSFとは違う骨太・ジャンルレスな読書してます」感を出してくる。
この並びにコーマック・マッカーシー「ザ・ロード」あたりも出したら良かったんじゃないすかね。
いやー、俺は好きよ。
少し話題になってから原書で読んだんだけど(英語はものすごく簡単で読み易かった)、世間の評判ほど面白くなかった。イージーに読めてわかりやすい話だから人気は出るだろうなあとは思ったし、「火星の人」っぽくわかりやすい映画にできそうということもよくわかった。だがそれ以上ではないというか、ネタになってるサイエンスもかなり単純だし、意外性もあまりないし、何より人類が存亡の危機に瀕するとか、あるいは異星人と個人のレベルで遭遇し意思を通じるという、いってみれば個人としても集団としても実存にかかわる事件が起こっているわりには何も起こらないのだなあという感想だった。
だがこれほど評判になって、いまだにおもしろいといっている人が多いのはさすがに何かあるのだろうという気もするので、できればどこがどんな風におもしろいのか、自分が気がついていないことを教えてほしい。
なお自分の傾向について書いとくと、もともとSF読みではなく、SFでいえばどちらかといえばバラードとかフィリップ・K・ディックとかの方面を読んできたので、求めるものが違ったのかもしれないという気はしている。SFといえるものでわりと最近読んだのはジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』だが、『プロジェクト……』とどっちが面白いかといわれるとこっちの方がまだ面白かったように思う。どこが?といわれても難しいが(そもそもアレックス・ガーランドの映画が面白かったので読んでみたという経緯)。あとウェルベックの『ある島の可能性』あたりもSFといっていいと思うが、これも『プロジェクト……』よりは十分に面白かった……気がしている。
シュウジがなんの説明もなしに「世界線」って言葉を使いだしたからには、おそらく色んなSF作品に出てきた用語の中でもSTEINS;GATEのそれで、
しかも世間に広まってる「世界線=並行世界」の誤解なんだろうけどその辺も鶴巻の浅さなんだろうな
『航時軍団』では、第6章で科学者ウィル・マクランが本来の物理用語world lineの意味を説明し、世界線の追跡によって「起こり得る未来」へ到達するクロニオン号の原理が説明される
『航時軍団』原書でのgeodesic(測地線)は、「可能性として存在する特定の未来へ到達する経路」を意味する言葉で、歴史の改変によって途切れたり繋がったりする、現在のSF用語「世界線」とほぼ同じ意味の言葉である。
因みに海外SFの世界線の使い方とかをざっと検索したんだけど、「四次元的視座を持つ生物にとって人間は赤ん坊の頃から死ぬまでの手足が連なったムカデのように見える」的な書かれ方してるみたいw
「もしもああしていたら」の意味での「世界線」という言葉、1920年に出たヴァン・ダイン「僧正殺人事件」にあるので、こっちの方が古いかも
(STEINS;GATEにおける世界線はパラレルワールドの意味ではない。パラレルワールドの意味で世界線という言葉は使われていない。その違いは冒頭で説明されている。
「ここを変えたら別の世界線、つまり時間の流れに世界が変わる」という意味で世界線の移動という言葉は使われているが、並行世界を移動しているわけではなく、あくまで世界そのものが変化している。)
「ハイパー化」も巨大化して見えるだけで実際にオーラマシンは巨大化してないし質量も増大してないけどハイパー化させました~って言っちゃう浅さ。
ノーム・チョムスキーとエドワード・ハーマンは、1977年の書評「又聞きの又聞きの又聞きによる歪曲」において、カンボジアに関する三冊の本を評するなかで、フランソワ・ポンショーの『カンボジア・ゼロ年』(フランス語の原書)も検討した。ポンショーには不注意な点があるものの、読むに値する真剣な本だ と評した。この本は、ジャン・ラクチュールのセンセーショナルな書評によって、またたく間に有名になった。しかしラクチュールの書評は歪曲を含む不注意なもので、ポンショーは共産主義者によって現実化される自己虐殺 (ラクチュールの造語) 政策を明らかにしたとか、クメール・ルージュは 二百万人を「殺戮した」と 「豪語した」 とかいう、根拠のない宣伝文句が各種メディアに踊ったのだった。チョムスキーとハーマンは、ポンショーの本すらまともに読まれないまま、報道のなかで雪だるま式に情報が歪められて、だれもカンボジアの現実をまともにみようとしなくなることを問題にしていた。
ところがなぜか翻訳された英国版の著者付記には、チョムスキーたちが大殺戮をなかったといい、難民たちは妥当な情報源ではないという、などと書かれていた。これがポル・ポト擁護説のはじまりのようだ。チョムスキーたちは二巻本『人権の政治経済学』の下巻『激変の後』33のなかで既に反証している。そもそもポンショーの本を読むに値する真剣な本だと評価するのは、かなりの虐殺があったことを前提としている。さらに、「難民たちの報告は深刻にうけとめねばならない、ただし扱いには注意深さと慎重さが欠かせない」というポンショー自身の指摘に同意していた46。
チョムスキーたちが『人権の政治経済学』下巻の『激変の後』でカンボジアの章をたて、詳細にその報道を検証しているのは、そもそもこのように根拠もなくいいかげんな流言飛語が流布する様子をきちんと把握することを目的としていた。またカンボジアの報道に焦点をあてるのは、合衆国による秘密爆撃が看過され、また同時期に同じインドシナ地域で同規模 (人口比ではそれ以上) の殺戮が東チモールで繰り広げられていたにもかかわらず、ほとんど報道されなかったことと比較するためだ。事実を調べもせずに根拠のないポル・ポト擁護説をくりかえすことは、再び東チモールの悲劇から目を逸すことになる。チョムスキー=ポル・ポト擁護説は、『人権の政治経済学』であらかじめ反論されている。
『人権の政治経済学』を出版した翌年の1980年にも、チョムスキーがカンボジアのポル・ポト政権を取り巻く策略に加胆しており、ポル・ポトを擁護しているというような論説が掲載された。これに対しては、数週間のうちに二つの反論が掲載された。その反論は、一部だけしか読んでいないこと、二つの巻にわたる著作全体の要点を見逃したこと、上巻の内容を無視したこと、著者たちの主張を矮小化したこと、事実を歪曲したこと、不正確に伝えたことなどを指摘していた。どちらも、チョムスキーからの反論ではない。しかし、ここに並べられた指摘は、チョムスキーにまつわる流言飛語に共通する特徴をよく示している。
断熱建築の普及で言えば、中国韓国もだし、そろそろ南米も普通に先いってそうな実感
日本人は翻訳した教科書で学べるのがすごいんだとかいまだにいってるやつがいるけど、そんなになんでも翻訳されたのは二十世紀末の一瞬だけで、今は普通に原書当たらないと向こうの学部生程度の知識が入らない分野もある。
その点で、良質な情報に触れられる旧植民地地域より今後もますます差が開けられるのは間違いないよ。
ほんと、驕りがすごいんだよな日本人。そんなアドバンテージはバブルの一時期にしかなかったのに、その前の日本人が必死に外国語覚えて勉強してた時代に戻ることなんてないとなぜか信じ混んでる。
海外では学部生の授業に組み込まれてる常識的な内容を、日本では一部の教授だけがやっと原書輸入して研究してるなんて分野もある。
建築学部のいわゆる「断熱気密」の話だけど。
欧米には建築物理とか建築科学っていう基礎研究の分野があって、断熱による熱の移動とか湿度の移動とかを物理学者が解析して体系化してるけど、日本にはまずそのポジションがない。
あくまで建築学科で「建築工学(温熱も構造もいっしょくた)」の一部で細々と欧米の成果を勉強してる人がいるだけ。
世間はどうも、「大学がレベル低い」ってことを学生の学力低下くらいにしか思ってないみたいだけど、最先端の分野に専門的に取り組むポジションがない、その育成コースがない、教科書すら翻訳されてない。そんな分野が普通にある。まるで明治とか幕末時代にでも戻ったかのよう。
大学って「これを研究してリードするポジションが必要だ」って上の判断がなければ、こんな空洞化が普通に起こっちゃうってことを日本人の大半は知らない。