徳田秋聲 トツカピン製造業
前掲「文壇商売見立」(「女人芸術」昭和3年8月)より。
実はトッカピンというものを私は知らず、ググって初めて上記の意図するところを理解しました。山田順子との関係を踏まえているのね。
06-29 20:00
漫画家の杉浦茂が昭和11年からフジハウスに居住し、アパートに1台しかない電話に秋聲への用件が掛かって来ると管理人(小沢武雄夫妻)が母屋に向かって「先生ー、お電話です」と叫ぶのを聞いていた話は私も『自伝と回想』で読んだ記憶があります。岡邦雄の話もありましたね。
https://t.co/brrPjX8kUn
06-29 19:33
「文壇動物園(女人入園無料)」(「女人芸術」昭和4年2月)
ヴイタミン欠乏の鵺 志賀直哉
毛の抜けた孔雀 佐藤春夫
くさつても鯛 島崎藤村
ゴンボ鯨 田山花袋
くん製さけ 徳田秋聲
人道ゴリラ 武者小路実篤
温なしくなつた豹 広津和郎
謡ふ老猫 野口雨情
https://t.co/Tn5ofvaLxe
全部オス😅
06-29 14:40
山本有三 顔の長い女形
谷崎潤一郎 チャブ屋の主人
岡本かの子 やせる薬屋
白井喬二 恩給売買業
林房雄 結婚媒介所長
田村俊子 女琵琶師
里見弴 待合の帳場
宇野浩二 質屋の手代
真杉静枝 美爪術師
室生犀星 タイトル書き
直木三十五 お岩稲荷宮司
https://t.co/PjsKmecyAU
色々ひどいな😅
06-29 14:08
「文壇商売見立」(「女人芸術」昭和3年8月)
田山花袋 町内の顔役
島崎藤村 田舎教師
泉鏡花 箱屋
菊池寛 香具師の親分
加能作次郎 村の藪医者
柳原白蓮 尼僧
藤澤清造 富山の薬売
高橋新吉 牛太郎
新居格 養豚業
岡下一郎 ども又役者
高群逸枝 動物園女看守
徳田秋聲 トツカピン製造業
06-29 14:06
「シエリコフ夫人の翻訳事業」(「早稲田文学」大正6年3月)
https://t.co/fqWY1EksX4
徳田秋聲作品からは『爛』が選ばれる予定だったらしいです。英訳予定の作品一覧を見ると、結構目が高いように思いますね。
06-29 12:47
「大正六年文芸界一覧」)。その時の逸話です。今だとセクハラ発言ですよ。
〖参考〗
「真実の日本を研究に」(「時事通報」大正6年2月)
https://t.co/wxNLFvJ3h2
「日本小説の英訳――米国婦人の計画」(「実力世界」大正6年3月)
https://t.co/aFHJdZZCw2
06-29 12:45
上司小剣「初対面記」(「女性」昭和3年1月)
https://t.co/u1hIrvinGH
大正6年1月に来日したアメリカの富豪シェルコフ夫人は、翌2月に小説作家の主なる人々を帝国ホテルに招待しました。「わが国現代の小説を英語に翻訳してアメリカに伝へんが為なりといふ」(「早稲田文学」大正7年2月所載
06-29 12:44
【いい女だね、キスでもさせるといいな】
「其の翌日は、徳田秋聲氏と岩野泡鳴氏とが招かれたさうで、私は丁度銀座で、葡萄酒の微醺を帯びたホテル帰りの秋聲氏に行き逢つた。『君ツ、シエルコフ夫人ツて、ちよつといゝ女だね、キスでもさせるといゝな』と秋聲氏は戯れた」
06-29 12:43
「愛氷雑記/好話題」(「芸術」昭和3年3月)
https://t.co/1G1H3beIiu
「秋聲氏の取消し」(「読売新聞」昭和3年3月25日)の紹介記事です。
読売が秋聲と藤間静枝との関係について憶測記事を書いたことに対する抗議のやりとりについて(藤間は秋聲と山田順子との関係精算を仲介)。
06-29 12:35
「日本の文学がともすれば退嬰的に芭蕉風の隠遁的消極的心境に遁げ路を見出さうとするやうに、画にも少し大人びてくると、さう云ふ傾向に陥りがちである。」
徳田秋聲「美術院瞥見」(「美術新論」昭和2年10月)
https://t.co/Pvx1Q6REcj
「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に記載あり。
06-29 12:34
2023年6月28日 「新聞」を「国立国会図書館デジタルコレクション」に追加しました
https://t.co/NTY3bqPQfc
ついに来ましたね。
近い将来に「中央新聞」なども期待したいです。
06-29 08:57
そのアパートが徳田秋聲宅裏のフジハウスであったと思うとこれも感慨深いです。
世間から袋叩きに遭って行き場のない岡と桝本に秋聲が快く棲処を提供した形ではないかと想像しますが、実際のところどうなのでしょう。
06-28 18:59
「アパートにゐる岡邦雄氏などのやつてゐる唯物学研究会も解散し」
とありますね(別巻14頁)。これまでまったく読み過ごしていました。
ロシア語翻訳家で政治運動家の桝本セツのWikipediaに「1936年に妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲」とありますが、
06-28 18:59
解散。午前十一時に岡邦雄君と二人で警視庁へゆき、独立作家クラブ解散の申出をした。(中略)岡君のフジハウスを訪うた。枡本女史と生活している。枡本は怜悧そうな女だ。」
とあります。
https://t.co/qmamZgLAa8
「徳田秋聲全集」別巻所収「秋聲日記」昭和13年3月条(日付なし)にも
06-28 17:08
【岡邦雄・桝本セツとフジハウス】
物理学者の岡邦雄も不倫の相手とフジハウスに棲んでいた時期があったのですね。
『雑誌年鑑 昭和15年版』
https://t.co/N8iDrthVnG
『秋田雨雀日記』(第3巻、昭和41年2月)、昭和12年12月31日条に、
「作家クラブのことで警視庁へ。独立作家クラブ解散――強制された
06-28 17:08
【無想庵とフジハウス】
武林無想庵の住所が本郷区森川町124フジハウスになっているのも、こうして年鑑で見ると何だか感慨深い。
『国民年鑑 昭和14年』国民新聞社、昭和13年9月
https://t.co/q1EvunEinz
06-28 17:05
遺伝のように、思い出がたがいに甦り、入りまじった。〉
小中陽太郎「西は夕焼け東は夜明け」(19)(「思想の科学」昭和63年1月)
添付画像に「二女の政子さんは長女が早逝したので」とあるのは「喜代子さん」の単純な誤記ですね。
こんな面白い文章があるのに私はこれまで知りませんでした。
06-28 14:07
かたさがいっぺんにほぐれた。
両家の娘たちは、いずれも「秋声さん」とか「風葉は」「鏡花さんは」と同じ逸話を聞かされ、また、同じスケッチや写真を目にして育った。その育った時代は、昭和の、それも、日中戦争と太平洋戦争という大きな嵐の下だったが、エピソードや両親の思い出を通して、隔世
06-28 14:07
〈たずねて行ったのは、小栗儀造の末の娘である。儀造の孫にあたる子ども連れだった。こちらはももこという名だったが、それが秋声の末っ子の百子と同じで、途中でその名が出ると双方が笑った。
寺崎喜代子夫人は、儀造の娘を見るなり、
「まあ、風葉さんに似ていらっしゃる」
といい、それで初対面の
https://t.co/J6yeviBj2Z
06-28 14:06
払ってください。材木と大工はこちらからさし向けます」
と儀造はいった。
大工の棟梁は、浅野という男で、ちょうど儀造自身が昭和区塩付通にたてつつあった大きな屋敷の普請をしていた。大工たちは、本鹿に小屋掛けして、浅野の母親が賄に上京して住みこんだ。このことも喜代子はおぼえていた。〉
06-28 12:17
五十五歳で住友の総理事になっているから話が合う。(中略)
「それから、安宅さん、安宅産業の」
これは儀造の娘のおぼえている名である。儀造の娘の記憶では、二人を中心に三千円集まった。
帰途、秋声は、名古屋市熱田区旗屋町の小栗儀造の家に立ち寄った。
「結構です。その中から大工の日当だけ
06-28 12:16
〈秋声は、大阪に赴いて、四高時代の同級生に相談した。
喜代子さんはそこのところをよくおぼえている。
「大阪のなんとかさん、いま、思い出します」
別れ際に、
「小倉さん、住友の」
「そうです、そのお名前を聞きました」
と、儀造の娘も。
小倉は、小倉正恒、住友のリーダーだが、昭和五年に
06-28 12:16
小中陽太郎「西は夕焼け東は夜明け」(19)(「思想の科学」昭和63年1月)
徳田秋聲がフジハウスを建てたいきさつが事細かに書かれています(二女喜代子にも聞き取りをしています)。
アパート建築の資金提供をしたのが、四高時代の学友で当時住友の総理事であった小倉正恒であったことなど。
https://t.co/9oVSTMI2gV
06-28 11:35
【徳田秋聲宅前、三四郎】
〈昔の白十字横丁奥の茶寮「三四郎」(徳田秋声翁邸前)は、ボクが二年ばかり道楽半分に共同経営をした懐しい店だが、今は素人の家に変貌して、昔の面影を見ることも出来ない。〉
寺下辰夫『珈琲 飲みある記』柴田書店、昭和37年10月
https://t.co/DsJIQO8T5H
06-28 06:03
徳田秋聲『退京』(「新小説」明治43年1月)
(「実業世界」明治43年1月広告)
https://t.co/o08aZ8JDUm
実際に掲載された作品は『娘』(全集第8巻所収)。
06-28 05:57
なること、等々を得々と興に乗って織田は語り、」
青山光二『青春の賭け 小説織田作之助』(現代社、昭和30年9月)
https://t.co/Y5qrcaSxRd
「『ペガサス』の画家の弟」については43コマに説明あり。
06-28 01:27
訪れる習慣なること、それは恐らく、少女趣味の彼が下の妹に肩入れしている証左なること、中の妹とよろしくやっているのは『ペガサス』の画家の弟であるらしきこと、而して最も牽く手あまたの長姉にいちばん脈があるのは実は、あまり『エルマーナ』へは現れぬ織田であるとは衆説一致するところ
06-28 01:24
【喫茶店エルマーナ】
「仲間の噂から、街歩きの話、彼等のタマリは今や本郷白十字横丁の喫茶店『エルマーナ』であること・エルマーナはスペイン語で姉妹の意、すなわち経営者は美貌の三人姉妹で、長姉はかってダンス場フロリダのナンバーワンであったこと、白崎禮三は日に最低三回『エルマーナ』を
06-28 01:23
何の誇張もなく「縮図」してゐる見事さは、市井事もの作家の武田麟太郎が私淑したのも無理はないと思はれるくらゐで、僕もまたこのやうな文学にふとしたノスタルヂヤを感ずるのだ。〉
06-27 19:40
織田作之助は同誌掲載の「文学的饒舌 1」(「文学雑誌」昭和22年2月)で秋聲の『縮図』について次のように語っています。
https://t.co/P53cIiZ4Yz
〈「縮図」は「あらくれ」ほどの迫力はないが、吉田栄三の芸を想はせる渋い筆致と、自然主義特有の「あるがまま」の人生観照が秋聲ごのみの人生を
06-27 19:40
エルマーナの田中と呼んでゐた。」
瀬川健一郎「解説」(「文学雑誌」昭和24年1月)
https://t.co/3tGvDYB4QK
同誌所載の「青春の自画像――昭和十三年(二十六歳)の日記/織田作之助」への解説です。
06-27 19:38
【喫茶エルマーナ】
「なほ随所にあらはれるF茶房といふのは、長栄館の近くの喫茶エルマーナのことで、三人の姉妹が店を開いてゐた。エルマーナの日本訳は三人姉妹だと、むづかしい辞書を調べたのは杉山平一であつたが、その店へ日夜入りびたつてゐたのは田中儀一であつた。だから織田は田中のことを、
06-27 19:37
(「織田作之助名作選集」11、現代社、昭和31年12月)
https://t.co/IjUqlq412d
昭和14年の話。少し後になぜ徳田秋聲がぎょっとしたのかについての会話があります。
06-27 17:16
誰だろう、あの老人はと考えながら、私は本郷の電車通りの方へ歩いて行った。エルマーナという喫茶店の前まで来て、あ、徳田秋声だったのかと思い当った。私の下宿の向いのフジ・ハウスは徳田秋声が経営しているのだった。」
織田作之助「夫婦善哉後日」〈第1章 落第横丁〉
06-27 17:15
【秋聲とばったり】
「下宿を出ると、寒かった。白い風が白く走り、東京特有の空ッ風だった。思わず二重マントの襟を立てた途端、向い側のフジ・ハウスというアパートから出て来た老人と視線が合った。眼鏡の奥がキラッと光るその眼差しが印象的だった。老人は何かはっとしたようだった。
06-27 17:15
太田菊子「この頃の生活から/「深夜の歌」の会」(「生活と趣味」昭和11年7月)
https://t.co/6Fgi9AssMV
「徳田秋聲全集」別巻年譜に記載なし。
06-27 02:17
昭和11年6月25日午後5時半から、芝の満鉄本社階上のエトアールで、小寺菊子『深夜の歌』の出版記念会が、長谷川時雨「輝く会」主催で開かれました。
「徳田秋聲氏は、病中を特に出席されてゐましたが、病気の故で一言も話されなかつたのが、寧ろ一種の気分を醸し出してゐました。」
06-27 02:16
【柳浪の徳田秋聲評】
〈『あの人の作はあの人の人格です。』と先生は云はれた。〉
「纂録/広津柳浪氏を訪ふ」(「新文林」明治42年8月)
https://t.co/DuDfbnn8u7
06-27 02:14
桑原武夫「おやじ」(「桑原武夫全集」第4巻、朝日新聞、昭和43年11月)
https://t.co/OSJV1Uzmwr
「こんなふしだらな生活をして」ということは、『仮装人物』をはじめとする後期の作品を好んでいたのでしょうか。
06-27 02:12
【桑原隲蔵の好み】
〈文学は父にとっては娯楽であった。鷗外、漱石はほとんど読もうとせず、谷崎潤一郎、佐藤春夫などを好んで読み、また、「こんなふしだらな生活をして」と文句をいいながら、徳田秋声や宇野浩二は好きだったようだ〉
06-27 02:05
徳田秋聲は文壇で評判が良いものよりも代作や翻案の方がよく売れる。
安倍生「十月の出版界/売れる小説、売れない小説」(「慶應義塾学報」明治42年11月)
https://t.co/CV6iTO2Frq
秋聲の代作や翻案で単行本化されたものは通俗作品が主ですから。
06-26 20:44
花袋が女に生まれ変わりたいというのは判る気がします。
泡鳴は訊くまでもないですね。何せ宇宙の帝王ですから。
06-26 18:50
【生まれ変わるなら】
雑誌「趣味」明治41年9月号で、生れ変わるなら男か女のどちらがいいかと文学者諸氏にアンケートを取ったところ、
徳田秋聲、泉鏡花、小栗風葉、三島霜川、岩野泡鳴らは男、
田山花袋、高浜虚子らは女
と答えたとあります。
「郊外生活」明治41年9月
https://t.co/ysJxtFLNAQ
06-26 18:49
@mizukami_jidai
ご指摘ありがとうございます。小栗儀造ですね。この座談では滝口氏に「桐生さん?」と助け船を出されて喜代子さんと百子さんもそれに乗っかった感じですが、百子さんは当時のご年齢からして記憶は殆どなかったろうと思います。
しかし悠々も何らかの関係があったのかと思い、一応呟いてみました。
06-26 18:06
大森特友 屁の花「百花園/文界あら探し」(「中学文壇」明治41年4月)
https://t.co/ItB5XiH90q
ほんとに、一体どんな声だったのかますます気になりますね。たぶん晩年には大分低い声になっていたと想像されますが、若い頃は白木みのるに錆を加えたような声質だったのかしら。
06-26 17:12
【一種異様な声】
「徳田秋聲 背の低い、眼のキツとした、剛情な人である。只可笑しいのは此人の声である。金切声でもなければ、銀切声でもない、一種異様な声である。そして其言葉は又妙で、たまゝゝ『おい、良けねえぢやないか』などと呶鳴りつけることもある」
06-26 16:59
直感でツルゲーネフ『猟人日記』中の一篇「死」(Смерть)の翻案『最期』のことかと思いましたが、明治40年作でした。
死に纏わる作品であれば『二老婆』(「中央公論」明治41年4月)とも考えられますが……
06-26 13:58
〈徳田秋聲氏は「死」と題する創作に執筆すべく目下工夫中の由、尚氏の読売紙上に掲げつゝある長篇「凋落」は後二十回程にて完結すべしと。〉
「文壇近事」(「成蹊」明治41年3月)
https://t.co/pe0Cc6Cqms
「凋落」の連載は同年4月6日まで(105回)。直近に『死』という作品はありません。
06-26 13:57
Band II: Drama-Dscheuti, Ein dämonisches Weib, Die lebende Bank, Bassa, Die Schwestern aus Saida, Richter und Henker, Die Prinzessin Rajewska.
マゾッホ作品の代訳者が種本としたのはこの2冊だろうという話を以前書いたことがありましたね。Band II に »Richter und Henker« も入っています。
06-26 13:40
Leopold Ritter von Sacher Masoch: Grausame Frauen, Hinterlassene Novellen, H. R. Dohrn, Dresden, 1901.
Band I: Lola, Wjera Baranoff, Theodora, Matrena, Die Sclavenhändlerin, Die Despotin von Hatvan, Das Weib des Kosaken.
06-26 13:33
百子 桐生さんの紹介で、名古屋の大工さんがここへ泊まり込んでやってたの。」
というやり取りがあるので一応紹介しておきます。
#小栗風葉の弟
06-26 13:29
フジハウスと小栗風葉(とその弟)との関係については、「徳田秋聲全集」月報38(平成16年1月)所収の「【座談会】父・祖父秋聲を語る(三)」に
「章子 金沢出身の……。
百子 名古屋にいた、誰だっけ。
滝口 桐生悠々?
喜代子 そう、桐生さん。
06-26 13:28
徳田秋聲「流行座談」(「流行」明治41年3月)
https://t.co/99dDhVIywN
「流行」は白木屋呉服店の広報誌ですね。全集未収録、著作目録未登録。
06-25 23:24
Fru Lewandska Af Sacher Masoch
“Illustreret Tidende” Nr. 49, p. 586 (2 September 1888).
https://t.co/vHnbdlmxvX
ザッハー=マゾッホ作。原文、デンマーク語。
ヒロインの名が同じ Lewandska というだけで、»Leben um Leben. Eine Geschichte aus der Bühnenwelt« (1879) とは別の作品でした。
06-25 17:39
„es ist schon zu dunkel, ich sehe schlecht. Kommen Sie morgen, mein Freund und Ihr Wunsch soll erfüllt werden.“
誤読があったらすみません。
06-25 16:01
冒頭の原文をラテン文字に直すと以下の通り。
Alle sahen mit berhaltenem Athem und klopfenden Herzen der aufregenden Scene zu. Aber sie erhitzten sich um
06-25 16:00
【マゾッホ原作『拳銃』(続き)】
Leopold Ritter von Sacher Masoch »Leben um Leben. Eine Geschichte aus der Bühnenwelt« (Schluß)
Teplitz-Schönauer Anzeiger Nr.28, 12 Juli 1879.
https://t.co/AjATqI3Oka
こちらは »Leben um Leben« の Schluß(結末)です。
06-25 15:59
徳田秋聲「▲本号の小説」(「処女」大正3年5月)
https://t.co/5QEd0xjUPf
秋聲肖像(同上)
https://t.co/AmY9hbsvxG
①秋聲の募集小説選評の類は「徳田秋聲全集」未収録のものが数多く存在しますが、特段問題にもされず、実際に私もまともに読んでいません。
②この肖像写真の秋聲は若いですね。
06-24 12:42
なお、仏訳と表題が同義の »Richter und Henker« が
Sacher-Masoch, Grausame Frauen, Bd. V: Richter und Henker, Leipzig 1907.
に収録されています。他にも Lewandoska を主人公とする雑誌掲載のマゾッホ作品を Google Books で確認済ですが、小さい不鮮明な亀の子文字で、読むのに難儀しますね。
06-24 11:09
底本は Teplitz-Schönauer Anzeiger 誌ではなく、単行本か作品集と思いますが、ドイツ語圏ではマゾッホ研究があまり進んでおらず、いい加減な書誌しか発見できないので(ネットで閲覧できるものでは、フランス語訳の書誌の方が充実している)、特定には少し時間が掛かりそうです。
06-24 10:54
さて誰が何語から訳したのか、底本は何か、ということになると話は別ですね。
私はこれまで秋聲名義のマゾッホ訳について幾度か書いたように、代訳者がドイツ語から訳したのだろうと推測します。代訳者はやはり大島蘭秀の可能性が高そうです。
06-24 10:54
ことは夢にも思はぬ位の美人であつた。
年は漸と二十五であるが、其容姿ら、其持つて生れた気地の手伝つた技倆から悲劇女優として、既に第一流の位置を占めて居る。」
原文と訳文とを比較すれば、『拳銃』の原作が Sacher Masoch の »Leben um Leben« であることは疑いを容れない のですが、
06-24 10:48
【マゾッホ原作『拳銃』】
前掲ドイツ語原文と同じ箇所の徳田秋聲名義による訳文は、
「レワンドフスカ夫人は、波蘭ヱル市の劇場裡の星である――と同時に美人沢山の点では四方に響いた当市きつての手弱女(たをやめ)である。清艶な波蘭女も、鳩胸の猶太女と、イダ山上の勝利の林檎を、彼と競合ふなんて
06-24 10:48
ラデイウイルのバルバム Barbara den Raziwil
チヤルナ、ウヲルラ Tscharna Wola
※なお、当作品は「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。
06-23 22:18
hätte ihr auf dem Berge den Apfel streitig machen können. Sie war, obwohl erst 25 Jahre alt, die erste Heldin der
幾つかのカタカナ語の原語は次のとおりです。
レワンドフスカ Lewandoska
スゴピンスキー Sgopinski
ダナエ Danaë
クレーズス Krösus
06-23 21:47
N゚5, 1889)
https://t.co/nznfFeNAy1
冒頭を引用すると、
Frau Lewandoska war die Zierde der polnischen Bühne in L. und zugleich die erste Schönheit der an reizenden
06-23 21:45
残念ながら確認できません。
徳田秋聲名義『拳銃』の原作は、
Leopold Ritter von Sacher Masoch »Leben um Leben. Eine Geschichte aus der Bühnenwelt«
Teplitz-Schönauer Anzeiger Nr.27, 5 Juli 1879.
https://t.co/q9jIgNICMN
仏訳は、« Juge et Bourreau » (Nouvelle revue internationale,
06-23 21:44
【徳田秋聲のマゾッホ】
徳田秋聲『拳銃』(「成蹊」明治41年/1908年1月)
https://t.co/mRUjAPD5Mj
これも徳田秋聲名義のマゾッホの翻訳ですね。私は今回が初見です。
配島亘編『秋聲翻案翻訳小説集 世紀末篇』(徳田秋聲記念館文庫、2023年)では言及されているのでしょうか、私は未入手なので
06-23 17:09
【徳田秋聲俳句】
落葉かけは菌少し裏の山
松風や鱸を荷ふ人の勢ひ
「余韻」(「衛生談話」明治40年10月)
https://t.co/Wyq8IJ303R
既出ですが用字が異なります。「折亭窓小集吟」に三島霜川の句も掲載されています。
06-23 16:58
【徳田秋聲の『焔』】
「▲其他の新聞小説で評判のよいのは国民新聞の『燄』である是は德田秋聲の第一の傑作だらう、と噂さゝれて居る」
黙山人「文界短信」(「明治学報」明治40年7月)
https://t.co/ITE2DcBPJ6
06-23 16:57
本日ツイートした秋聲作品のうち
「余の創作と余の平生」(「学生タイムス」明治39年12月)
『隣の部屋』(同、明治40年1月)
は「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。但し後者は代作ですね。
「尚綱録」(「青春」明治38年7月)
『毒舌』(「はなかご」明治39年4月)
は広告のみ確認。
06-22 20:24
御覧になつたもので何が面白うございましたか。
「徳田秋聲氏夫人と愛児」(「女子文壇」明治42年5月)
https://t.co/uUMCaq2Njh
はま夫人はまだ20代後半ですから、かなり若い頃の写真ですね。私は初見です。
子供は向かって右側が一穂で、はまの膝の上の幼児が襄二ですね。
https://t.co/GctVT6HOqL
06-22 17:28
何とも申されません。
一、長田さんの『霧』や、田山さんの『春雨』なとを面白く拝見いたしました。」
「名流夫人 わが好む作家とその作品」(「処女」大正3年8月)
https://t.co/gBU2CJkx61
質問は、
一、平常文学書をお読みになりますか。
二、現今の作家で誰をお好みになりますか。
三、最近に
06-22 17:04
【徳田秋聲夫人へのアンケート】
「秋聲夫人 徳田はま
一、宅は子供が多うございますし、始終家事にかまけてゐるもんでございますから、小説を拝見する暇なんかは些つともございません。
一、別に誰方が好きと云ふことはありません。ちよいちよい暇な時に、新聞の続き物をしろひ読みする位ですから、
06-22 17:03
徳田秋聲『隣の部屋』(「学生タイムス」明治40年1月)
https://t.co/zCArC8qWTR
「旧小説家志願のある青年が自分に語つた。」
で始まる短篇。
代作かしらね……
06-22 15:25
https://t.co/5Egb8ragFj
徳田秋聲『佐十老爺』(「新小説」明治39年10月)には岡本霊華代作説がありますが、真山青果説は(私は)初見です。
06-22 15:19
〈因にいふ、巷間伝ふる所によれば「行火」は紅緑君の作ではなく、実は徳田秋聲君の名で新小説に掲げられた「佐十爺」?と同じく風葉門下の逸材真山青果の代作であるさうな。素より真偽は保し難いが、若し事実とすれば甚だ以て興覚めた話である〉
「文芸雑感十項」(「慶應義塾学報」明治39年12月)
06-22 15:16
徳田秋聲「余の創作と余の平生」(同、「学生タイムス」)
https://t.co/Knzi9vkdHk
真ん中の写真には秋聲が写っているのでしょうか。目を皿にして探したけれども判らず。全然関係がなさそうでもあります。
06-22 14:21
「徳田秋聲君
君は至って好けぬ方で、一猪口を口にすれば、顔は宛然金時の火事見舞と云ふやうになる。
先づ酒は好けぬ方と云つても良からう。」
筆硯山人「文士の酒量」(「学生タイムス」明治39年12月)
https://t.co/p59K0uvQOz
06-22 14:20
【徳田秋聲肖像】
「本会賛助員/『少華族』著者 徳田秋聲君」(「むさしの」明治38年11月)
「本郷座(十月狂言)『少華族』(大団円)葉山別荘ノ場」
https://t.co/cWFmzx4lUi
きこつ「本郷座の『少華族』十月狂言」
https://t.co/v0o1NUmIMy
本会とは古今文学会のこと。
06-22 14:19
「去二月十一日の紀元節を卜して文士小会を城西の某楼に開いた時、席上風葉、秋聲、眉山、桂月の諸氏がをつた。」
「雑報」(「文之友」明治39年3月)
https://t.co/YTOMRLxmSG
明治39年2月11日の徳田秋聲参加の会合(年譜に記載なし)について。
06-22 14:19
徳田秋聲、小説『毒舌』(「はなかご」明治39年4月)
(「手紙雑誌」明治39年4月広告)
https://t.co/pzY6v8urVJ
#備忘録
06-22 14:18
徳田秋聲「尚綱録」(「青春」明治38年7月)
(「直言」明治38年7月28日広告)
https://t.co/1lm9ANDoRe
#備忘録
06-22 14:17
@AriosoB
私も霜川の句を見付けた時はツイートするようにしましょう。
06-22 08:06
私は「隠れ棲んで青山御所や杜鵑」と「夏草に昼とざしたり湯殿口」の2句が今回初見でした。
三島霜川と田原干子の句も掲載されています。
「青年世界」明治35年6月
https://t.co/kItEx16tSJ
#徳田秋聲俳句
06-21 22:15
【徳田秋聲俳句】
鵑声 秋聲
弗函の居間に牡丹の大なる
隠れ棲んで青山御所や杜鵑
夏草に昼とざしたり湯殿口
野茨さく裏家続きや芥川
はらゝゝと薔薇こぼるゝ月夜哉
(「青年世界」明治35年6月)
06-21 21:14
「或るお午すぎよそから帰つてくると、反対側の道からやつてくる数人連れのまん中に徳田秋聲氏がゐた。私はやはりあわてて道を逸らした。」
稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス』(『悪魔の魅力』若草書房、昭和23年7月)
https://t.co/6CgLr4UVWr
06-21 21:14
後者については、Yのモデルにされた谷崎精二の『放浪の作家 葛西善蔵評伝』(現代社、昭和30年12月)によると、もちろんそんなことはしておらず、葛西の被害妄想だったわけですが。
https://t.co/ChW0zXipHF
06-21 17:04
胸裹に潜め、鉄亜鈴で鍛へた手に禿筆を握って、死灰の文字をほぢくつてゐるのだ」
という文章があったり、葛西善蔵の『子をつれて』(「早稲田文学」大正7年3月)で、Yがお茶の𨫝を鉄亜鈴で殴りつけてから主人公へ送りつけるのも、こうした流行が背景にあるのですね。
06-21 17:04
〖参考〗
「サンダウの鉄亜鈴」(「国民新聞」明治40年6月19日)
『新聞集成明治編年史 第13巻 戦後国勢膨脹期』(昭和11年)
https://t.co/FaR4rSjgyB
正宗白鳥の『塵埃』(明治40年)に
「こんな下らない仕事を男子が勤めてゐて溜るものかと思ひながら、詮方のなさの一日逃れで、撼天動地の抱負を
06-21 17:03
ちなみに「ホトトギス」第16巻第1号(大正元年10月)には黙断子(安藤貞亮)の『鉄亜鈴』という短篇が掲載されていて、サンダーの鉄亜鈴が小道具として出てきます。
https://t.co/72JWuw8RG0
明治40年前後から、サンダーの鉄亜鈴(サンダウ、サンドウとも)というものが日本で大流行しました。
06-21 17:02
「本誌二百号記念文芸家招待能は予定の通り六月二十七日午後四時半より飯田町四丁目三十一番地喜多舞台に於て開催」
(「ホトトギス」大正2年8月)
https://t.co/ZS40cCOYkV
「来会者芳名」に徳田秋聲の名があります。
上記、「徳田秋聲全集」別巻年譜大正2年6月の項に記載なし。
06-21 12:30
「八島の義経の亡霊の面は余程面白いものだと思ひました。一種の羶いやうな執着と、勇気とが、死人の肉の匂のするやうな面に能く現はれてゐたと思ひます」
等々、ユニークな感想が展開されています。
「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録の文章です。
06-20 14:30
書いていますが、1回目は明治41年10月に高浜虚子に誘われて夏目漱石と観た九段の夜能(梅若の「大原御幸」)ですね。
その「大原御幸」に「根ざしの深い非戦論が活きてゐるやうに思われ」、アンドレーエフの『血笑記』を連想したり、
06-20 14:30
【能の感じ】
〈△先日は久振りで又能を見せて頂いて、お礼を申上げます。
△何分能を見たのは、これで漸く二度ですから――(後略)〉
徳田秋聲「能の感じ」(二百号記念催能について(二))
「ホトトギス」(大正2年8月)より
https://t.co/v8nVFZKimF
能を見たのは(幼少期を除いて)2回目と秋聲は
06-20 14:30
【鐵亞鈴】
徳田秋聲『鉄亜鈴』(「文章世界」大正2年10月特別号)
「ホトトギス」(大正2年10月)広告頁掲載
https://t.co/Navftfwgpo
秋聲の鉄亜鈴? 知らんなあ……
06-20 14:29
「過去を語り現在を語り、両方混ぜ合せながら筋を進めて行くことは非常に六ケ敷しく、徳田秋聲氏の得意とするところなのださうだが」
「山会の記」(「ホトトギス」昭和5年3月)
https://t.co/rlVZsZjQBQ
後に「倒叙」と呼ばれる、秋聲作品における時間の叙述の特徴は当時から認識されていたと。
06-20 09:35
なお、「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録の文章です。
06-20 09:34
「ホトトギス」(昭和4年12月)より
https://t.co/nCDkfqfO4q
「江ノ島へ日の出を見に行つて、材木座の氏のお宅へ、秋江、武羅夫、岡の諸氏とお立寄りして、屠蘇を御馳走になり、氏の鼓を拝聴したこともあつた」
等々、高浜虚子や夏目漱石との思い出も記されています。引用文の岡は岡栄一郎でしょう。
06-20 09:28
〈「ホトトギス」は明治の俳諧文学復興期に於ける正統派ともいふべきもので、故子規氏の創刊であつたと思はれる。故子規氏には虚子、碧梧桐両氏の後進(或は同人)があつたが、故鳴雪氏や故漱石氏なども同人株であつた。(後略)〉
徳田秋聲「聊かお祝ひまで」(ホトトギス四百号)
06-20 09:27
上記から昭和4年、文壇でほとんど失業状態だった秋聲が趣味講座のラジオに出ていたことがわかります。
06-19 15:23
「趣味講座の放送に於ける、徳田秋聲なんぞの言葉の一端は、我々川柳家の側からは非常に聞き苦しかつた。曰く我々はパンに追はれてゐますから、充分な物を発表して居ません。とは又情けない事を言つたものではないか」
「波紋」(「川柳きやり」昭和4年4月)
https://t.co/F6RiUZPw22
06-19 15:23
徳田秋聲『焔』には三島霜川の代作説が存在します(「小説代作調べ」明治43年3月)。また、相馬御風は書評「秋聲の『焔』」(「早稲田文学」明治41年3月)の末尾で、
「『焔』の事実があまりにハウプトマンの『孤独なる人々』に似過ぎては居りはせぬか」
とも指摘しています。
https://t.co/ykkXK4pdk4
06-19 14:50
もし『焔』の紙面に半古の挿絵がないとすれば、読売新聞の『雲のゆくへ』のことかも知れませんね。
06-19 13:32
こともあったようですが、前掲「原稿料昔譚」は略々「国民」の話であり、よもや読売と取り違えることはないのではと思いました。
しかし『焔』の連載紙面に梶田半古の挿絵があったかどうかも、すぐには調べられないことなので、今のところ明治40年頃とすればそうだとしか言えないのですが。
06-19 13:31
https://t.co/W4RIc81Rba
田口杏村、本名:聖炯(1879-1965)は明治30年に国民新聞社に入社し、それから
「十四五年の間に再三再四『国民新聞』に入り、再三再四『国民新聞』を逐はれた。出入頻繁を極めた」
『松風草紙』(田口杏村、昭和13年)
https://t.co/gSbDryrjpG
とあり、報知新聞社に居た
06-19 13:31
森鷗外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』 (明治42年7月)の1、2年前に「国民新聞」連載といえば『焔』(明治40年3月~8月)しかないですね。
06-19 11:03
連載した小説は、尾崎紅葉閲『三つ巴』(明治30年6月~7月、挿絵なし)です。おそらく杏村はこの小説を知らなかったでしょう。
連載中に梶田半古の挿絵がほぼ毎回掲載された秋聲作品は『雲のゆくへ』(明治33年8月~11月)や『後の恋』(明治34年10月~12月)ですが「読売新聞」だし、
06-19 11:02
〈「国民」が始めて徳田秋聲氏の小説を掲出した時、特に大奮発で梶田半古氏の挿画を入れたが、半古氏の挿画一枚に対し二円づゝの揮毫料を呈したのは、当時にあつては全く破天荒の試であつた〉
田口杏村「原稿料昔譚」(「愛書趣味」昭和3年2月)
https://t.co/rPUnzYI1Zh
徳田秋聲が初めて「国民」に
06-19 11:01
堪へられなかつたのだ。
平林初之輔「プロレタリア文学運動の理論的及び実践的展開の過程」(『日本社会主義運動史』改造社、昭和3年2月)
https://t.co/cajBnCgAwP
06-19 11:01
〈かへつて煩悶の状態そのものが私にはなつかしまれた。正宗白鳥の「泥人形」や徳田秋聲の「黴」や、チエーホフの「桜の園」などを愛読してゐた私には、暗さ、憂欝、不決断、さういつた種類の気持ちが最も自然な気持ちであつて、その心境を乱されることは、たとひそれが明るい方面への転換であつても、
06-19 11:00
ちなみに同年4月刊の第3号「編輯局より」に
「紅葉門下の逸才徳田秋聲氏の暗黒と題する小説は次号に掲出せられて万緑叢中に一点の紅を添ふべし」
https://t.co/gcHVfLuk96
とありますが、実際には6月刊の第6号に『暗黒』ではなく『夜滊車』が掲載されます。
https://t.co/BOoI8DTovP
06-18 21:24
徳田秋聲「『動脈瘤』序文」(「天鼓」明治38年10月)
https://t.co/2aMEI3gbfJ
全集別巻著作目録に記載があって本文未収録のもの。読みは「どうみやくこぶ」。
06-17 21:00
久米云々とは、無名作家・安藤盛の『暁の鐘は鳴る』が『安南の暁鐘』と表題を変えて久米正雄名義で昭和2年2月の「女性」誌に発表されたことが問題となった件を指します。
山中静也の友人の代作者が誰か気になりますね。
06-18 20:46
「自分の友人で徳田秋聲氏の代作を澤山した男がある。今度、久米正雄氏が或無名作家の作をそのまゝ自分の名で発表した件。これみな詐欺だなんて怒るは(後略)」
山中静也「閑居善(断想)」(「新使命」昭和2年5月)
https://t.co/cJfgHrB7xg
06-18 20:36
文壇噂話「莫連者」(「日本及日本人」昭和2年5月)
https://t.co/7w03m7YG6B
徳田秋聲と山田順子関連の噂話。
「流石の順子も薄苦い微笑を湛へながら、あの銀杏の実の剝き膚のやうな脂つこい指先で、例の葉書を真二つに引裂いた」
という箇所が面白い。
06-18 20:34
演奏は、タネーエフ四重奏団(Northern Flowersレーベル)。
録音は60年代後半から80年代まで長期に渡り、古いものはマスターテープの劣化のせいか高音域がギュルギュルする箇所があります(この感じ判ります?)
ブックレットの裏表紙は趣味のカメラに興じるサルマノフさん。
https://t.co/90Xlmwl9sC
06-18 16:43
ワディム・サルマノフの弦楽四重奏全集。やや折衷的ですが、無調や十二音を駆使した前衛的な作風で、たいへん聴き応えがあります。ソ連時代の作曲家は、ショスタコーヴィチもそうですが、交響曲などと違い弦楽四重奏曲では比較的自由に作曲できたようですね。
https://t.co/327dsyx3t4
06-18 16:41
最初は音を消して観ていたので楽章間の休憩にやってるのかと思ったら、演奏の途中なのね😅
マーラーの交響曲第1番第3楽章。
#山田一雄
https://t.co/s0k8t41wZ2
06-18 16:39
古井由吉の場合は、判明しているだけでも実際に2度に渡ってセクハラ行為をしたことが下劣なわけで、作品に変態が滲み出ているだけであったならば別に問題はなかった。
06-18 16:27
古井由吉の文章は、例えば公園で見かけた女子学生を描いても
「ジーパンにはちきれそうな腰から、全身がリズムに乗って小気味よく振れていた」
みたいに抑えきれない性慾がじとーっと滲み出してくるようで気持ちが悪いですね。ねばつくような、変態的なしつこさを感じます。
06-18 16:22
それから一国には賢明な元老、自分自身を離れてものを見る元老が欲しいですな。どんな国でも必ずあるもので、何等かのかたちで必要だと思ふな。」
徳田秋聲「輿論片鱗」(「我観」大正14年9月)より。最後に(東京日々)とあります。
https://t.co/vwerFJ4190
「徳田秋聲全集」未収録。
06-17 16:08
【賢明な元老が欲しい】
「政変は一目瞭然ですな、新聞に出たのと同じことですよ。唯この政変を機として加藤〔引用註:高明〕が偉らさを見せた、又偉らくなつて来たと思ふですな。(中略)
私自身は加藤は好かなかつたが、あの素気なくて、愛嬌がないところがいゝと思ふね。
06-17 16:08
【川崎長太郎が徳田秋聲に弟子入りした時のこと】
伊藤忞「八ツあたり」(「日本及日本人」大正14年10月)
https://t.co/LXDFZn0YfE
06-17 15:52
二度くらゐ一緒に出る約束にしたこともありますが、何年かのあいだに実行できたのは一度か二度でせう。
(二)郊外通でありませんから、よくはわかりませんが、武蔵野は一体に感じが粗雑で、展望がないうへ、憂欝すぎるので、私は余り好きません。」
https://t.co/nVxU2av0mu
「徳田秋聲全集」未収録。
06-17 15:50
アンケート「(一)日曜(公休日)を如何にご家族と御過しなさいます乎/(二)郊外の行楽散策地は何処が御好きです乎」(「実業」大正14年4月)
「小説家 徳田秋聲
一、職業が職業ですから私には日曜も祭日もありません。子供の方でも都合のつかない時もあつて、一致の行動を取るのが困難です。月に
06-17 15:49
出べき人を引出し、出べからざる人を引込めたいと思ひます。文壇の地位なぞといふことも人と人との関係で決められることが割合に多いやうで、そこに不遇な人もできる訳です。」
https://t.co/ZCDD1dbdxT
「徳田秋聲全集」未収録。
「出べからざる人を引込めたい」とはなかなか凄い発言です。
06-17 15:47
アンケート「一、十三年度に於て私の注目したる新進作家/二、十四年度文壇に対する希望若しくば予想」(「文学界」大正14年1月)
「〇徳田秋聲
一、行わたつて見てゐませんから、軽々しくお返事はできません。
二、十四年の文壇に格別更めて何うといふ希望はありません。人についていへば、
06-17 15:45
しかし又見切りをつけることも出来易いのです。」
https://t.co/5iVKcKc7kS
「徳田秋聲全集」未収録。
06-17 15:40
アンケート「思ふて未だなし得ざる事(上)」(「実業」大正14年1月)
「文士 徳田秋聲
思ふて成し得ざる事だらけです。人間は年を取るに従つて慾求が多くなるものです。色々の意味で生活を豊満にしようと言ふ慾望は熾んになるのですが、
06-17 15:40
とあるのが面白いです。
生涯自身の住居に不満を抱いていた秋聲の夢がここに縷々書かれていますね。
なおこの文章、「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。
06-17 10:06
https://t.co/XRBcsvrnBq
「洋風のものの手のぬいてあるのや、あまり金のかゝつてない建物や調度は、まるでそこらの幽霊事務所と云つた感じがして嫌なものである。それからもう一つ、立つてばかりゐると頭が悪くなると云ふ事である。足の充血すると云ふ事は衛生上から考へてもよくない事だ」
06-17 09:55
するのには、狭い落ちついたらよつと気の利いた庭なぞのある部屋が一番よい。そして此の書斎続きの寬つろいだ洋風の応接間には本箱なぞ置いといて、日本間の書斎で飽きが来たら、又いつでも応接間に行つて、読むなり書くなりしたい」
徳田秋聲「日本室と洋間との間」(「中央建築」大正13年11月)より
06-17 09:53
【秋聲の夢】
「洋服を着たあとでは、ゆつたりとくつろいだ和服を着てみたくなるし、和服ばかりきてゐるとまた恰好のよい洋服が着てみたくなる」
「書斎は、洋風の応接間、それも出来るだけ広くとつた隣りに、六畳とか四畳半の日本間にして続かせたいと思ふ。くつろいで勉強したり、物を考へたり
06-17 09:53
【岸澤式松】
「徳田(秋聲)さんが、『宗清』の間、手を耳にあてゝ聴いて居られたのは心嬉しく思はれました」
井上猛一「音曲の話」(一)(「婦人雑誌」大正5年1月)
#常磐津 #宗清
https://t.co/1dNtuxCdns
06-16 23:54
【「助六」は大阪俄】
「此間、徳田秋聲氏をお訪れしたときも氏は、『助六』は大阪仁和加のやうなものだと云つて居られた」
本間久雄「『助六』の芝居」(「早稲田文学」大正4年5月)
https://t.co/Mx0O8Rm4dO
06-16 23:52
T氏は震災直前まで本郷区向島新花町71番地に居住していた弁護士の鳥越実士ですが、S氏は石塚宗吉なのでしょうか。断定はできませんが「そうきち」から取ってS氏とした可能性はあります。
06-16 17:03
医療機械の店ですね。
徳田秋聲『余震の一夜』(「改造」大正13年1月)に
「棟が別になつてゐる裏の家から(中略)その同じ棟のなかに仕切をして住つてゐる二組の罹災者のT氏夫妻やS氏夫妻も、三尺ばかり切り開いてある別の出入口から遣つて来た」
とあるのを思い出します。
06-16 17:03
【震災類焼立退先】
「本郷区森川町一 徳田秋聲方
石塚器械店」
「医海時報」号外(医海時報社、大正12年9月23日)
https://t.co/cmnq9xOG3S
関東大震災直後、9月23日の「震災類焼立退先」の欄より。
石塚器械店(店主、石塚宗吉)は震災前は本郷区春木町2丁目26番地にあった「いわしや」系列の
06-16 17:02
徳田秋聲「伯爵家の悲劇 人間の劣情のために圧迫された倫理的意識」(「婦人週報」大正6年3月16日)
https://t.co/mKWapYb8fX
大正6年3月7日に起きた芳川鎌子とお抱え運転手との「千葉心中」事件について。「徳田秋聲全集」未収録ですが、別巻著作目録には記載されています。
06-16 17:00
【絃の鳴るような声】
「徳田秋聲氏の字は非常に神経的だ。少し慄ひを帯びた細い線は、絃の鳴るやうなあの氏の声を思はせる。氏の文のかれ切つて居るやうに、氏の字も亦かれ切つてゐる」
「文士とその筆跡」(「新公論」大正5年5月)より。文末に(新潮より)とあります。
https://t.co/kJl3L59ub1
06-16 13:37
私の母の徳がある様に思ふ」
「母は今金沢の兄の方にゐる」
徳田秋聲「名士と其の母」(七)(「婦人週報」大正5年4月21日)
https://t.co/HFyOMCd99q
「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。
06-16 13:37
【母タケのこと】
「私の母は、記録さるべく余りに平凡な女であるかも知れないが、お訊ねにまかせてお話しやう。母は名を竹と云つて今年七十六歳になる」
「武張つた家に生ひ立つたにも拘らず、他人をよく容れる柔らかい感じのする人である」
「自分が寛忍して、他人を責めぬ、其処に
06-16 13:33
疾病小説特集の趣がありますね。
昨日から話題にしている「トヤマ」連載の『傷痕』を、この晩人生という筆者が読んでいるのが驚きです。
06-16 13:33
【疾病小説】
晩人生「漫録 〇現代の小説家はいかに医薬疾患を観察するか」(「芸備医事」大正4年2月)
https://t.co/3TMYOhJAPl
(同、3月)
https://t.co/wErQ9xilLC
徳田秋聲作品からは『出産』『病室』『診察』『膿』『丸薬』『傷痕』『手術』『検疫助手』『わなゝき』が選ばれています。
06-16 13:32
#more #川端丸太町
https://t.co/RAgMnD71WU
06-16 12:28
#ハートフルダイニング #京大病院
https://t.co/aQkjkT34z6
06-16 11:31
@mizukami_jidai
これはたぶん大木様もご存知の作品だろうと思っていました。徳田秋聲全集に未収録の作品、とくに『傷痕』のような良質のものが読めるようになったのは嬉しいことです。
どのような経緯で富山県の新聞に掲載することになったのか興味のあるところです。
06-16 09:47
で間違いないと思います。題材の扱い方、会話の特徴、オノマトペ、倒叙法など、秋聲の作風をよく備えています。
本文は、読点のみで句点のない(行末にも句点がない)、ちょっと特殊な句読法が用いられていますが、これは「トヤマ」紙掲載の他の文章もすべて同様であり、同紙の編集方針なのでしょう。
06-16 07:59
徳田秋聲『傷痕(しょうこん)』(「トヤマ」大正3年6月1日~7月1日、全4回)
人力車から振り落とされ顔に傷を負った四十がらみの芸事の師匠・満津江が、病床でのとりとめのない会話のあと、自らの来し方を振り返るという内容。
秋聲の地方新聞への連載物は代作が多いとされていますが、この作品は真作
06-16 07:59
@mizukami_jidai
こちらこそよろしくお願いいたします。
06-16 06:39
前掲、徳田秋聲『傷痕(しょうこん)』(「トヤマ」大正3年6月1日~7月1日、全4回)
同「夏の婦人」(「家庭パック」明治45年7月)
同「徳田秋聲氏の祝辞」(「実業の世界」昭和12年6月「三宅雪嶺先生喜寿並に花圃夫人古稀祝賀会の記」より)
以上「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。
06-15 20:05
【かわいらしい三毛猫が登場】
徳田秋聲『傷痕』(一)(「トヤマ」大正3年6月1日)
https://t.co/CxxKM2oA8U
(二)(同、6月11日)
https://t.co/vyhz1ijb79
(三)(同、6月21日)
https://t.co/ZfiRocUbUg
(四)(同、7月1日)
https://t.co/XjINs8CZR8
06-15 16:15
「頭髪は束髪の方が軽くて、何処となく粋に思はれる」「丸髷は重苦しくてぶいき」で「旧幕時代の遺物」だというのは、秋聲の好みをよく表していますね。
06-15 15:38
徳田秋聲「夏の婦人」(「家庭パック」明治45年7月)
https://t.co/bJPqu4Zggn
以下、見出し
▲夏は女の美しい時
▲夏向きのお化粧(つくり)
▲清新(フレツシユ)の感を与ふる「いき人柄」
06-15 15:38
「三宅雪嶺先生喜寿並に花圃夫人古稀祝賀会の記」より、「徳田秋聲氏の祝辞」(「実業の世界」昭和12年6月)
https://t.co/wUCi77LhFD
06-15 15:37
【国粋主義今昔】
「〔引用註:私共が青年時代の〕国粋主義といふのは今ハツキリしたことは印象にございませんが。当今流行の国粋主義とは聊か違つたものではなかつたかと思ひます。も少し積極的で、も少し融通のきく、も少し根柢の深い立派な思想的のものではなかつたかと思ひます。」
06-15 15:37
楽しさうに毒舌を吐きちらしてゐた」
尾崎士郎「文芸放舌」第2回(「日本文庫」昭和23年年9月)
https://t.co/b6PafXB0gh
ちなみに藤澤清造が芝公園内で凍死したのは昭和7年1月29日、徳田秋聲の三男三作がカリエスで亡くなったのは昭和6年5月31日です。
06-15 15:35
「彼〔引用註:藤澤清造〕が死ぬひと月ほど前、僕は徳田秋聲先生の御子息がなくなった葬式の日の受付に坐つてゐて、藤澤といつしよに客の応接につとめてゐたが、彼は実にあかるくサバサバとしてゐた。身体も健康で、顔なぞは生気がみなぎるばかりにあぶらぎつてゐたし、人の顔を見ると、
06-15 15:35
@mizukami_jidai
私も今回、飛天夜叉「文士の内幕談」を読み、大木様にご教示頂いて、徳田秋聲が匿名(▲△▲)にしたのは尾崎紅葉と読売新聞との対立が背景にあったことをあらためて認識しました。勉強になりました。
06-15 13:16
@mizukami_jidai
はい、むかつきますね😅
『病恋愛』連載時の署名「▲△▲」については、以前に自分でもツイートしてるんですよね(苦笑)
松本徹さんの「匿名にすることによって読者の関心を呼ぼうという企画」という推測は誤りでしょうか。
https://t.co/GmHYj1H2TM
06-15 13:00
徳田秋聲訳編
ベル・アミー
東京市神田区佐久間町四丁目二十三番地
鈴木常三郎発行」
『出版物検閲通牒綴 大正2年~4年』
https://t.co/pN7ZiLoEUL
「早稲田文学」(大正3年11月)の新刊書案内
https://t.co/AJYFzOqqa3
この梗概作成は同年7月下旬に葛西善蔵が下請けしたとされます。
06-15 12:38
【徳田秋聲訳編『ベル・アミー』発禁】
「官普二六三
左記出版物ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認メ出版法第十九条ニ依リ発売頒布禁止及刻版并印本差押処分相成候旨内務省ヨリ通牒有之候間此段及通知候也
大正三年九月二十八日
(中略)
一現代百科文庫第二編
一梗概叢書第二編
一モオパツサン作、
06-15 12:35
@mizukami_jidai
ご教示ありがとうございます。この筆者は明治40年から4年も前の話をしていたんですね。
以前この『結婚難』に出てくる朝見道太という人を「〇ねばいいのに」などとさんざんネタにしていたんですけれども。。。
06-15 12:32
【徳田秋聲、△△△生の名で読売に小説を発表】
飛天夜叉「文士の内幕談」(二)▲文士の徳義(「新公論」明治40年11月)
https://t.co/AowRj0aZ5y
△△△生の名で発表した小説って何なのでしょうね。同じころ秋聲が「読売新聞」に連載していた小説は長篇『凋落』ですけれど……
06-15 06:15
徳田秋聲『人か鬼か』(『英訳模範 和文と英文』渡辺書店、明治38年11月)
https://t.co/S81OTzIuSZ
全集未収録。著作目録に記載あり。和田垣謙三らによる英訳“Man of Beast?”付き。
日露戦役時に書かれた秋聲の戦争文学の一。
06-15 06:08
誤:昭和24年
正:昭和20年
言い訳するようですが予測変換の所為です。
06-14 18:52
李聖傑の博士論文 「川端康成の「魔界」に関する研究――その生成を中心に――」 (2013)に引用されていることを国会デジタルで知りました。
https://t.co/h9XWD4px0Q
#備忘録
06-14 18:18
【川端康成と赤い靴】
山岡荘八「最後の従軍」(「動向」1994年7月)に書かれている、昭和20年4月23日、電話で海軍省に呼び出されると、そこにいた「川端〔康成〕さんだけが、割合きれいな子供のくつみたいな赤ぐつをはいていた。たしか、徳田秋声氏の遺品だといっていた」という文章が、
06-14 18:17
【大正時代の専業主婦と飲酒】
〈「未解決のまゝに」に出てくる女性関係は、はまさんにも相当のショックだつたらしく、台所で独りでそつと冷酒を呑んでいる姿を見たこともあるという〉
寺崎浩「秋声断片」(「日本文学全集」月報11、新潮社、昭和38年1月)
野口冨士男『徳田秋聲伝』にも引かれています
06-14 17:31
あるのは当時「徳田秋聲氏 住慣れた森川町の住宅を横山大観氏から快く譲られ」(読売新聞)等と報じられた問題ですが、全体的にふざけた記述でどこまで本当か判りません。しかし昼飯は内で食ってはまずいからとこっそり一人で豊国に出掛けるところなど、秋聲らしくて全くの出鱈目とも思えないですね。
06-14 17:19
「□小説家 近松秋江
自分の意に満ちたいゝ小説を作ること」
「文壇の噂さ/朝は不機嫌」(「朝鮮公論」大正10年8月)
https://t.co/qmqQ0BQaOL
大正10年ごろの徳田秋聲が「現在の住宅を横山太観〔ママ〕から譲られて最う転居する心配もなくなつた」などと
06-14 16:28
「大正六年より必ず実行したしと思ふ事」(「朝鮮公論」大正6年1月)
https://t.co/uWRvJ7YzDa
「□小説家 徳田秋聲
年度の変り目になつて、特に思ふことも無之候」
「□小説家 谷崎潤一郎
たゞゝゝ、より善き芸術を作らんと思ふのみ、それより外に御答へ可致事無之候」
06-14 16:27
一般に悦ばれるやうですけれど、私は嫌ひです。」
「小説講談を読みし感想」(「実業の世界」第21巻第8号、大正13年8月1日)
https://t.co/3atJ0ZoSgK
06-13 17:15
【講談は嫌いです】
「小説家
徳田秋聲
故泡鳴君の作品は大抵面白く読めます。あの位の作家は稀有だと思ひます。講談は殺伐なものが面白いやうですが、相撲や闘犬などと同じ程度の興味です、主人公をムヤミとえらくするのが一つの約束ですが、現代の小説にもさう云ふ傾向のものが
06-13 17:15
【高松事件】
「大浦 乃木問題に対する代表輿論 三千名士」(「実業の世界」第12巻第21号、大正4年11月1日)より
https://t.co/jZVKveZI1k
先日、徳田秋聲は「二、乃木問題」にのみ回答と書きましたが、大浦兼武問題(高松事件)についてのアンケート回答はこの号に書かれていました。
06-13 17:09
「予の娯楽」(「明治評論」明治42年3月)
https://t.co/jZVKveZI1k
「▲徳田秋聲君(小説家)
別に娯楽と申すもの無之候。棋と将棊とを除くの外、場合によりては何事にも多少の興味は感じ候。世の中と即かず離れずの境遇にありて、読書の出来る身分ならば、それが何よりの娯楽かと思はれ候。」
06-13 15:56
【安成貞雄遺影】
安成二郎 他編『何か大きな物忘れせし心かな、おもへば兄の死にたるなりけり』(安成三郎、大正13年9月)より
https://t.co/vnB0sdCH3T
目が半開きだし、ちょっと閲覧注意ですね。合掌🙏
06-13 06:48
@mizukami_jidai
事実とすれば師匠(推し)のライバルへのアンチ活動みたいなものだったかもしれませんね。その上で師匠の名も十分に利用すると。想像ですけれど。
06-13 06:41
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
《弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調》作品127
《弦楽四重奏曲 第14番 嬰ハ短調》作品131
タネーエフ四重奏団
前にも書きましたが、当弦楽四重奏曲全集のなかでも優れた演奏です。
#NowPlaying
https://t.co/9gqNDymmHw
06-12 23:38
〖参考〗
矢野良暁「ビーコンスフィルド夫人」(「婦人公論」大正5年9月)
同号には長田幹彦『紅屋の娘』、三宅雪嶺「婦人の典型」 、森田草平『捨児』(第2回)等掲載。
06-12 15:45
【矢野良暁、大正公論社を解雇】
「社告
本社雇員
矢野良暁
右今般解雇致候に就ては同人に対する債権の外自今何等間〔関〕係無之此段及広告候也
大正元年十月五日
大正公論社」
「大正公論」大正元年10月
https://t.co/eJWXUzAxF7
06-12 15:45
月)の「序に代へて」に
https://t.co/y603gychSn
「本書を著すに当つて友人矢野良暁氏の手を煩はしたること甚大なり」
とあるのは何故かと思いましたが、本書は林田の死(昭和2年12月1日)より後の刊行ですね。つまり矢野の手を煩わせたのも大正後期、恐らく矢野が発狂する以前のことなのでしょう。
06-12 13:36
される佐伯新一郎と矢野良暁のうち、歌人としてある程度名を成し著作もある前者とちがって、読売新聞記者の後者に関しては得られる情報が極端に少いですね。
前掲、水守亀之助「旧友の思ひ出」(大正15年6月)に「〔矢野〕は狂気し」とあるのに、
林田亀太郎(雲梯)『芸者の研究』(潮文閣、昭和4年5
06-12 13:32
作品は最も出来がよく他で賞賛しても之をけなす、よほど変つた新聞だ其くせ事実の報道は多く間違て居るのみならず、ウソをよく書く、夫れも其はずだ矢野良暁の如き奴が居るからだろう」
「編輯だより」(「活動」明治42年4月)
https://t.co/Co8CfaoH9W
徳田秋聲の明治期の門人で玄関番をしていたと
06-12 13:32
【矢野良暁】
「▲徳田秋聲氏 の処に元書生をして居た、矢野と云ふ男は読売新聞記者をしてゐる、愚にもつかぬ拙劣な小説を売付に来たが、こんなものは断然排斥した」
「▲読売新聞では所謂戸塚派(小栗風葉氏を周囲とせる創作家一目を指す)の出来事は細大洩らさず紙上へ脚色して掲載する、而して其
06-12 13:31
福井敏雄さん懐かしいな
探偵ナイトスクープで上岡さんの隣に置物みたいににこやかに座ってらした
#さようなら上岡龍太郎さん
06-11 23:39
岡部まりさん、かなり久しぶりに観ました。おきれいですね。
#さようなら上岡龍太郎さん
06-11 23:04
23時からABCテレビで上岡龍太郎さんの追悼番組(55分)がありますね
06-11 23:00
秋聲さんはお留守だつた。おしいことをした〉
林房雄「宇野千代さん」(『文学放談』竹村書房、昭和9年9月)より
https://t.co/nDroqg3typ
「僕」は林房雄、「いゝおぢさん」と言ってるのは宇野千代。一穂の「きれいな妹さん」って誰かしら、次女の喜代子さん?
06-11 19:43
【いゝおぢさん】
〈そんな話をしながら、本郷まできたとき、だしぬけに、徳田秋聲さんの名まへがでた。あの人は、大切にしてあげなければならない人よ、いゝ人だわ、いゝおぢさんだわ。僕も大賛成なので、いつしよに訪問しようといふことになつたが、徳田一穂君と、きれいな妹さんの顔をみたゞけで、
06-11 19:43
ものだが、山岸荷葉が何時の間にか夫を皆引張出して売飛ばして了つた」
と言ったとか言わなかったとか。
しかし師匠のものであろうと自身のものであろうと、秋聲が原稿や書籍の管理に杜撰であったのは確かですね。
06-11 19:17
「徳田秋聲=遺稿の貴さを知る」(『文壇失敗談』大日本新聞学会、大正5年3月)
https://t.co/DJgCEyv5U7
尾崎紅葉の死後、持っていた遺稿を知人朋輩にほとんど頒けてしまった秋聲。紅葉の遺稿の値が高騰していることを知って、
「紅葉の遺稿なら僕が読売新聞に居た時分などは、机の抽出に一杯あつた
06-11 19:17
青年時代に秋聲の「門下生」であったのは明治末ごろと思われ、矢野良暁や佐伯新一郎がいた時期とある程度重なりそうですね。
06-11 06:48
【徳田秋聲門下、鈴木要(千葉警察署長)】
福田祐泉編『房総に躍る人々』昭和9年7月
https://t.co/6oRO5KXyqW
「氏は青年時代小説家たらんとの青雲の志を抱き文壇の老将徳田秋聲氏の門下生として、文芸創作に余念のない多感な青年時代もあり」
この人は大正3年7月に巡査になったとのことですから、
06-11 06:40
「三人兄弟の中、長兄新一郎は早くから父に背いて家を出、徳田秋聲氏の門に身を寄せてゐた」
佐伯仁三郎「巻末記」(『佐伯仁三郎歌集 群竹』砂子屋書房、昭和13年12月)
https://t.co/pvsDlErq1z
仁三郎は三男。
#佐伯新一郎
06-11 06:36
矢野良暁と佐伯新一郎については、前掲、水守亀之助「旧友の思ひ出」(「文芸春秋」大正15年6月)に
「一方は狂気し、一方は若死にをしてしまつた。痛ましいことである」
とあります。矢野が発狂したことは加藤武雄、水守亀之助ともに共通の認識だったようです。
06-10 22:59
@mizukami_jidai
その後さらに調べたところ、「佐伯某」は佐伯新一郎でほぼ確定かなと思います。
矢野良暁と佐伯新一郎は、水守亀之助や加藤武雄にとっては徳田秋聲門下としてよく見知った存在だったようですが、その後忘却され、秋聲との関係も判らなくなり、研究でも見過ごされてきた人たちですね。
06-10 17:48
@mizukami_jidai
戦前はまだ麦稈のストローで、主に飲食店で使われていたものですね。冷えたコーヒーということは、秋聲宅では夏に氷を常備していたということでしょうか。
長見義三による徳田秋聲と正宗白鳥の訪問回想記、どちらも情景が眼前に浮かぶようで、味わい深い文章と思います。
06-10 17:44
ばかり云ふ困り者ながら一種の憎めない愛嬌があつた。演劇雑誌などに関係し、京都で一家を構へてゐるときいて間もなく、病気で斃れたといふ噂があがつた〉
加藤武雄「横顔 わが文壇生活回顧」(2)(「文章倶楽部」昭和24年6月)
https://t.co/v1i0NMTiis
#徳田秋聲門下
06-10 14:56
学んだ佐伯新一郎といふのがあつた。なかなかの才人で、小説もかき、脚本も書き、八百屋お七か何かを描いた脚本は、たしか本郷座で久米正雄君の「牧場の兄弟」と共に脚光を浴びた事がある。後の事で、当時、下宿屋の払ひを溜めて追ひされたとかで、我々の梁山伯にころげこんできたやうであるが、うそ
06-10 14:55
【矢野良暁と佐伯新一郎】
〈徳田秋声氏の門下で、一寸異色のある二三篇を発表した事のある矢野といふ男、後に同じ下宿にゐた事もあつたが、ひどく己惚の強い男で、私はどうもしたしめなかつたが、悪病の為めに発狂して後、郷里にかへり、悲惨な死を遂げたときいてゐる。それから、矢張り秋声氏の門に
06-10 14:48
佐伯新一郎は大正6年9月に京都で病死しました。
同年3月に橋田東声らと創刊した歌誌「珊瑚礁」に追悼特集があります。
水守亀之助「佐伯君の思ひ出」(「珊瑚礁」大正6年11月〈佐伯新一郎追悼篇〉)
ほかに加藤武雄「佐伯君を悼む」、上条正人「佐伯君の霊に」等、計18篇。
06-10 14:46
上京してからの代作と見做せそうです。
明治41年10月21日~22日に佐伯櫨香名義で『二老婆』という小説を「山陰日日新聞」に発表しているのが非常に気になります。徳田秋聲の名作として知られている作品(「中央公論」明治41年4月)と同名ですね。内容によっては秋聲作品の流用の可能性もあるかも……
06-10 14:05
【佐伯新一郎作品リスト】
佐野晴夫「生田春月と山陰の詩壇(7)」
「山口大学教養部紀要 人文科学篇」22(1989年2月)
https://t.co/i38DsjKMSA
これによると佐伯新一郎が鳥取から東京へ出たのは明治42年とあります。
『伯父の家』が「新文林」に掲載されたのと同じ年ですから、正確な月日が判れば
06-10 13:58
佐伯新一郎より前田晁(木城)宛書簡
(年不詳)1月9日
「館報駒場野」1991年3月
https://t.co/E4oqXXImPd
田山花袋の怒りに触れ「文章世界」外交記者を馘になったのでお執りなしくださいとあります。
06-10 13:57
悲しまずにはゐられません」
と記していますが、まさにこの文章を書いた同じ月の28日に母タケがコレラで急死するのですね。偶然とはいえ、まさに虫が知らせたとも言うべき内容で、伝記的にも重要な位置を占める文章ではないでしょうか。
06-10 12:22
佐伯新一郎の母の訃報を受けて、秋聲は自身の母について
「母の死と云ふことについては、まだ痛切な実感を経験しませんのでその時の一刻一刻迫りつゝあることを、時々憶ひ出しては胸を刺されるばかりで、逃避的にそれを予悲してゐるに過ぎません。(中略)母に対して利己的な自分を
06-10 12:21
親愛なる
佐伯新一郎君」
とあります。全集年譜によると秋聲は9月27日から中村武羅夫と修善寺の養気館を訪れていました。
この「序に代る」は全集著作目録に記載が無く、今回新発見の文章と思われます。
非常に親しげな文面から、二人が師弟の間柄であったことがはっきりと窺えますね。
06-10 12:20
【徳田秋聲の序文】
佐伯新一郎『母恋ふ鳥』(ヒロヲ書店、大正5年11月)
https://t.co/9hszvCAFGP
「佐伯君!
東京の自宅へ宛てたお手紙はこゝで拝見しました。それから君の御母さんが亡なられたことは」
で始まる秋聲の「序に代る」。文末に
「十月一日
伊豆修善寺にて
徳田秋聲
06-10 11:57
可能性が高そうです。
佐伯新一郎は前掲、矢野良暁とともに「秋聲先生の玄関にゐた」人達の一人として名前が見られますね。
「秋聲先生の玄関にゐた矢野良暁君、佐伯新一郎君なども時々思ひ出される人達である」
水守亀之助「旧友の思ひ出」(「文芸春秋」大正15年6月)
https://t.co/ueqMWhNbZZ
06-10 07:18
真っ先に思い浮かぶのは『伯父の家』『桎梏』の代作者とされる「佐伯某」ですね。『伯父の家』が「新文林」に掲載された明治
06-10 06:59
選者だった。新一郎が秋声にみとめられたのは、その欄の投稿者だったからである〉
『倉吉市史』(昭和48年11月)
https://t.co/fyFkyIGdxA
佐伯櫨香/新一郎(1890-1917)の略歴は同書、
https://t.co/tjVx1q8I96
を参照。
佐伯新一郎の名は秋聲の伝記に殆ど出てきませんが、玄関番の佐伯と聞いて
06-10 06:58
したり、小説よりは劇作の方に興味が移って旅役者の群に投じ、その作者になって全国巡業をしたりした。」(『私と窪田空穂先生』佐伯仁三郎)〉
〈……『雲処雑談』(新田興著)に、
「年十八、其天才徳田秋声の知るところとなりて京に入る。〉
〈前にも述べたように、徳田秋声は『秀才文壇』小説欄の
06-10 06:57
【徳田秋聲宅の玄関番、佐伯新一郎】
〈佐伯櫨香として「和歌」のところで触れたが、新一郎は文章の才にもめぐまれていた。「いわゆる当時の軟文学、小説や劇作にのみ興味をもち、二〇代の初めに家を出奔してしまった。二・三年を経て、東京本郷区森川町にお住まいだった小説家徳田秋声宅で玄関番を
06-10 06:57
【徳田秋聲の門弟で読売新聞記者の矢野良暁、秋聲作と騙って原稿を売りつける】
「何故に本社は読売子の怨を買ひしか」(「活動」明治42年4月)
https://t.co/hD4xtNXmwm
「既に秋聲氏よりは破門になり(今は漸く出入を許さる)」
とありますね。
06-10 06:31
長見義三「白猿記」(10)(「室蘭文学」昭和35年3月)
https://t.co/ICfspy95E0
徳田秋聲宅の訪問記。アイスコーヒーがストロー付きで出てきたこと、徳田家の先祖について秋聲に訊ねたこと、文芸懇話会のことなど。
06-09 23:59
・レニングラードの弦楽四重奏曲集 第2集 タネーエフ弦楽四重奏団 、レニングラード・フィルハーモニー・カルテット(
06-08 23:59
【読書と音楽】
・『君と私 志賀直哉をめぐる作品集』(中公文庫、2023年5月)
・『対談 日本の文学 わが文学の道程 』(同、2023年5月)
・ユーリイ・ファリク:弦楽四重奏曲 第3・4・5・6番 タネーエフ四重奏団(Northern Flowersレーベル)
https://t.co/40aaruHxDQ
06-08 23:58
蓄音器を聴かされることになります(専らクラシック音楽)。
〖裏表紙〗
大久保永井邸内「断腸亭」(永井荷風撮影)
https://t.co/Ol5rK084UY
06-08 23:23
といふので、しやにむに徳田秋聲君を、富士見町の自宅へ引張つて行つて、幹彦君がこの珍客に蓄音器の馳走をして弱らせたとかいふ話がある〉
反故斉「文芸風聞録」(「文明」大正6年10月)
https://t.co/h0Uy7lvLnv
このあと10年もすると息子の徳田一穂にいやというほど
06-08 23:22
【長田幹彦、徳田秋聲を蓄音器で弱らせる】
〈或人が長田秀雄君を評して、「何しろお坊ちやんだよ」と言つて片づけて了つたのは些か意外であると言つた人がある。ところで、此頃幹彦君の方をも、お坊ちやんなんだと評した人があるのだ。それは兎に角、先達のことであるが、今時蓄音器を聞いて貰ひたい
06-08 23:21
澁川驍『白布の箱』(「日暦」昭和57年7月)
https://t.co/GCc2TeXV40
以前紹介したことのある創作集『ガラス絵』(青桐書房、昭和59年5月)所収の短篇の初出がこれですね。
病床を見舞に行くと浴衣を着て仰臥する秋聲の脛が見えたという文章を私はどこかで読んだ気がしていたのですが、これでした。
06-08 18:11
には秋声さんの白い髪が突き出ているように見えた。蚊帳の細い青い網目を通して眺める秋声さんの頭髪やゆかたをまとった体が、いかにも青く染められたように見え、そのせいも手伝っているにちがいないと思うものの、一昨日会ったときよりは、一段と衰えが感ぜられるように思った」
06-08 17:05
体を伸ばしていなかった。おかしなことには、寝床の方向と直角になるように体を横向けにして寝ていた。そのため両足は寝床から突き出て、その足先は畳の上に着いていた。私はたぶんそのほうが体を楽に休ませることができるか、それとも暑苦しいので足先を畳につけているのかもしれないと思った。私の前
06-08 17:05
【病床の徳田秋聲】
「私は廊下を伝って、六畳の書斎に出かけていった。そこには、奥のほうによせて、三畳ぐらいの青い小さな蚊帳が釣り下げられていた。おそらく庭から襲ってくる蚊を防ぐためだろうと思った。部屋に入って、けげんに思ったのは、秋声さんはその寝床に普通のかっこうのようにまっすぐ
06-08 17:04
といいながらその辺の店はどこも「まづいまづい」と云うところも秋聲らしいです。不味いなら高級な店で、とはならないんですね。
06-08 12:35
「君、かからないやすい飯をくはうぢやないかと、鶏の水焚きをたべにはひ」って、割り勘の申し出を快くうけとるところが私は好きです。先日引用した三宅正太郎の文章で、銀座で邂逅した島崎藤村に秋聲が「その辺の資生堂でもいいじゃないか」とあっさり云った態度にも通じますね。
06-08 12:35
【やすい飯を食おう】
室生犀星「秋聲考」(『誰が屋根の下』村山書店、昭和31年10月)
https://t.co/f1pbyZqfPj
「徳田さんの原稿は小ぢんまりした細字で、どこか顫へてゐるやうなところがあつて」
で始まる味わい深い随筆です。銀座で犀星とばったり会った徳田秋聲が、
06-08 12:34
とあるので、牛田の記述はそのことを指しているのでしょう。
〖参考〗
『宇都野研全集』上巻(勁草社、昭和13年11月)年譜
https://t.co/7msUd7YGkP
06-07 17:30
とは医師で歌人の宇都野研(明治10年生、昭和13年歿)のこと。本郷区東片町22に小児科を開業していました。
徳田秋聲の「大学界隈/病院と名国手」に
「本郷にはその他にも名医がゐる。三浦博士の後継者たる塩谷博士とか、小児科において殆ど神のごとき頭脳をもってゐる宇都野博士などであるが」
06-07 17:28
【技、神の如き】
「本郷の並木道を一高前から東片町へ折れて北側の小児科病院。徳田秋聲氏をして、技、神の如き、と嘆かせた名医。医文ともに絶対的な中道を勁々と歩まれた老先生」
真名井基(牛田留治)「埴輪」(「京都文学 」昭和15年11月)
https://t.co/sBKST7N9QB
ここで語られている「K先生」
06-07 17:28
【奇怪なオノマトペ】
「二婦人の小説評」(「早稲田文学」明治41年11月)
https://t.co/nvv25jwgjX
以前に大木志門さんが紹介なさった記事ですが、「ウソウソ」「ボスボス」「モゾクサ」といった徳田秋聲作品特有のオノマトペが当時の読者にも奇異に感じられたらしいことが分かって面白いです。
06-07 17:26
ホクホク顔だった」
「太稚庵はだか日記」(「高志人」昭和38年1月)より
https://t.co/my0pzdt6Q3
翁久允の日記。昭和37年11月13日条。
「没する半年ほど前」とありますが、徳田秋聲は昭和18年に帰沢していないので、昭和17年2月に石川県文化振興会顧問として金沢で講演した時のことでしょうか。
06-07 17:25
【一穂も一人前になった】
「秋声さんと最後に逢ったのは没する半年ほど前だったと思う。戦争たけなわな頃で、私は富山から東京へ帰る汽車の中で金沢から乗ってこられた氏に出遇し、東京までいろんな話を交わしたのだった。「一穂ももう一人前になりましたよ。なかなかいいものを書くようになった」と
06-07 17:24
「とにかく日本の住所のヤバさをもっと知るべきだと思います」(inuro 2023年6月7日)
https://t.co/bnq6mEnAOg
京都市内の住所についても言及すべきでしたね。
東西南北の通りの名称と上ル・下ル・西入ル・東入ルの組合せなど。
06-07 14:07
【親子写真】
徳田一穂「連絡船」(「文芸」昭和15年10月)
https://t.co/8S4rJMSVo4
付:徳田秋聲、一穂親子写真
※黒つぶれして見にくいです
06-06 17:01
「もんぺい姿で静かにかたる島崎藤村氏」(「河北新報」昭和6年3月5日)
『新聞集成昭和編年史 昭和6年版』(第4刷、2004年8月)
https://t.co/ewMAiciIRe
この当時の秋聲さんは端でみるほど悠々とはしていなかったんですけどね……
06-06 14:46
【島崎藤村、秋聲を羨ましがる】
〈「何所へも出かけません。家の中にばかりゐます、それでも何かと忙しい用事がおきて弱りますよ。僕は徳田君(秋聲氏)なんか羨ましくなります。あゝして悠々としてダンスや何かを楽しんでゐる身分が……」そんな風にしみゞゝといつた。〉
06-06 14:46
陸軍省報道部推薦図書への推薦文で、徳田秋聲、長田幹彦、岡田三郎、丹羽文雄、北原白秋らが手放しの讃辞を寄せています。太平洋戦争直前の文学者たちの戦争協力の一端が窺えますね。
この文章、秋聲全集には入ってない筈ですが、掲載当時目に触れる機会が多かったせいか、知られてはいたようです。
06-06 07:14
安井治兵衛『逞しき世紀』(文苑社、昭和16年12月)巻末広告所収
https://t.co/PpDUDkSQml
「徳田秋聲氏 戦争文学も少なくないが、高邁な国民精神と科学精神との完全な燃焼から生れた此作のやうなものは曾てなかつた。」
同上
「科学思潮」(昭和17年7月)巻頭広告所収
https://t.co/HdKBEA57Qn
06-06 06:07
【衂られし花】
「徳田秋聲氏 戦争といふ現実と取組みつゝそこから獲得した体験を良心的に書かれたもので、高邁な国民精神と科学精神との完全な燃焼から生れた作である。」
陸軍省報道部推薦図書/陸軍軍医中尉 鈴木英夫『衂られし花』(女子文苑社、昭和16年3月)への推薦文
06-06 06:01
本物のように思われ、これが本当の自然主義文学のようで、好きだった〉
と回想しています。
『出隆著作集/第7巻 出隆自伝』(同上、昭和38年11月)
https://t.co/CGh0KVx9i9
06-05 20:23
https://t.co/ySUFaCmqER
出隆と徳田秋聲とのやりとりに興味がありますが、まだその鼎談を特定できていません。
ちなみに出隆は自伝で
〈高校時代の僕には、藤村や花袋の自然主義はまだ甘ったるいロマンチシズムのようで、もっとじめじめした苦労人のような徳田秋声の『黴』や『足跡』の方が
06-05 20:23
ついて、秋声氏が「岡山の辺では不浄口という言葉を使うか」とききただされたことだけ覚えている。この言葉は、僕の普段使う言葉ではないが、(中略)不吉なことを所かまわず口にするのを「不浄口をたたく」という〉
『出隆著作集/第8巻 出隆自伝(続)』(勁草書房、昭和48年12月)
06-05 20:22
【出隆と徳田秋聲】
〈このころ〔引用註:昭和14年5月〕のことではないかと思うが、或る婦人雑誌社から座談会に招かれ、徳田秋声氏と網野菊女史と僕との三人、石切橋附近の小さな料亭で座談をしたのを思い出す。なにを話したか覚えていない。ただ僕が話の途中「不浄口をつく」と言ったその言葉遣いに
06-05 20:21
大正12年12月24日、報知新聞主催により帝国ホテルで行われたビセンテ・ブラスコ・イバニェス(『血と砂』の作者)の招待晩餐会に徳田秋聲が会食者として参加。
笠井鎮夫『スペイン語初学記 一語学教師の人生記録』(昭森社、昭和37年5月)より
https://t.co/PPmGYTVyxs
全集別巻年譜に記載なし。
06-05 17:17
文中には詩集「くちなし」とありますが、もちろん小説ですね。
〖参考〗
西原志保「日本文学Ⅰ(第11回):野溝七生子『山梔』」(2020年7月25日)
https://t.co/Y4UPdX9537
06-05 14:46
翁久允「わが一生」(21)「帰国篇」(「高志人」昭和41年9月)より「北原白秋と徳田秋声」
https://t.co/yktYS67IZd
野溝七生子『山梔』の出版祝賀会(北原白秋も出席)に山田順子を連れた徳田秋聲が現れると「瞬間一座がシーンとした」、酒に酔った加藤一夫が秋聲を罵倒した等々、有名な文章です。
06-05 14:38
「燭取りて夜遊ふなり五月雨 秋聲」
が引かれています。
https://t.co/L0ac0bAZKg
#徳田秋聲俳句
06-05 12:31
【徳田秋聲俳句】
はらゝゝと薔薇零るゝ月夜哉
秉燭夜遊ふなり五月雨 ※
森に来れば森に人あり小六月
(「俳画」大正4年10月)
https://t.co/BQ7JRmiR6J
※は「早稲田文学」(明治41年7月)の「彙報」に、5月27日夜築地瓢亭に開かれた雨声会で読まれた句として、
06-05 12:30
小説家(男性)の枕営業については筒井康隆『大いなる助走』(文芸春秋、1979年3月)やその映画化作品《文学賞殺人事件 大いなる助走》(1989年)で戯画的に描かれていましたね。
#エアリプ
06-05 11:36
なお、「二、乃木問題」の質問項目は、
(イ)復興は是か非か
(ロ)復興の国民道徳に及ぼす影響
(ハ)本問題の責任者は如何にすべきか
の3つです。
秋聲は(ロ)の項目を立てていませんが、回答内容には一部含まれるようです。
06-05 10:15
(ハ)本問題の責任者は、国民的感情の上に立ちて、既成の行為を取消すだけの反省と推量があつて然るべきだと考へられます。」
「大浦 乃木問題に対する代表輿論 三千名士」(「実業の世界」第12巻第23号、大正4年11月15日)より
https://t.co/kS6DDGsTXg
徳田秋聲は「二、乃木問題」にのみ回答。
06-05 10:13
までも、或種の国民性の発露だとは言へませう。とにかく二人の子供を国家に捧げた将軍一己の心事から言へば、断絶は悲壮な理想でせう。毛利氏の如く、栄爵がほしいと云ふ野心からでも、乃木姓を犯したとすれば、此上ない僣越です〔。〕一部政治家の好事的細工から出たとすれば、尚更不當です。
06-05 10:11
アンケート「(二)乃木伯爵家復興問題」
「文学家 徳田秋聲
(イ)私一箇とせば乃木将軍の事については、多少の疑問があるのですが、国民の讃美には将軍の人格的反映の大なることが認められます。これは悲劇的人物の悲壮なる出来事に対する国民の感傷的な感情から来るので、健全なものとは言へない
06-05 10:11
「読売新聞」(3月10日)の「はなしだね」では柏亭と高村光太郎とされており、当時そのように噂されていました。
06-04 14:48
あらうと思ふ。些細なことだが気附いたから曰つて置く〉
石井柏亭「方寸書架」(「方寸」明治43年4月)より
https://t.co/maTcSUr6q6
徳田秋聲『十日過ぎ』は明治43年3月「中央公論」に掲載。ここで重要なのは、二人の青年画家のモデルは「高村真夫君と予」であると当事者が明言していることですね。
06-04 14:20
降りて来た』とあつて、それからさきに『この二人連の美術家がパステルと水彩画と、一枚づゝの新らしい製作を絵挾に加へて、引揚げて来た』とあるのは少し可笑しかつた。パステルと水彩画の何れにもカンヷスの要る筈はない。これは洋画家と云へば直ぐ『函やカンヷス』と云ふのが口癖になつて居た所為で
06-04 14:20
【秋聲にモデルからツッコミ】
〈徳田秋聲君の小説『十日過ぎ』には新春房州に旅行した高村真夫君と予とがモデルにされて居る。予は今此小説の可否を云ふのでもなく、又丸山晩霞君の島崎藤村君に於けるが如く、モデルの不平を訴へんとするのでもない。たゞ『二人連の客が函やカンヷスを提げて二階から
06-04 14:19
【徳田秋聲の渾名】
「高い声では言はれぬけれど、花魁仲間に秋聲君の事を『ムツツリ』さんと云ふ仇名があつた」
イタズラ先生「何でも蚊でも不得要領の徳田秋聲」(『名士文士貴婦人すっぱぬき』サムライ書房、大正6年4月)より
https://t.co/TslOROmQlt
寸々語「芙美子とアジ」のあだ名の話を読んで
06-04 12:38
但し右は必しも其の各芸術品それ自身の価値より見たるにはあらず候」
https://t.co/oQodFam5Le
八木書店版全集23巻未掲載。
06-04 10:56
アンケート「明治年代の著述にして不朽の生命あるもの」(「読書之友」明治45年9月)
「単に小説界のみに就てお答申上候
二葉亭氏の「浮雲」(明治年代に於ける大陸文学の影響を受けたる文芸の最初の曙光として)
田山花袋氏の「蒲団」「生」「妻」など(日本に於ける自然主義宣伝者の作として)
06-04 10:55
アンケート「名士の読書時間」(「読書之友」明治45年11月)
「 徳田秋聲
不規則なる生活に慣れ候ゆえ読書も一定の時間とては無之候。時々の気分次第に任せをり候。」
https://t.co/bF3d41zuhT
八木書店版全集23巻未掲載。
06-04 08:28
にきわめて類似することを確認しました。
ただ、布施の引用は、「太陽」からの勝手な改変流用か 、秋聲の別の文章からの引用か、それとも別個にアンケートを依頼したのか、まだちょっと判断がつきかねます。
06-04 08:27
前掲、布施亮の著作に掲載されている徳田秋聲の文章は、秋聲のアンケート回答「産児調節批判」(「太陽」大正15年10月/八木書店版全集23巻302頁)の
「国民の多数は子女を多くもつたために如何に苦しんでゐるか、又其等の子女が如何に不幸な運命を辿りつゝあるかは、我々が目撃してゐる通りです。」
06-04 08:07
「最も褒むべき我子の行為」(「児童」大正6年5月)より
「〇 徳田秋聲
一寸憶ひつきません。」
https://t.co/Qabh3SSaSo
ひどいな😅(秋聲らしいけれど)
06-03 23:56
却々思ひ切つたことを言つてゐるし、傍観してゐても面白い。余程、文壇などよりは、自由な別天地といふ観がある」〉
https://t.co/FL5ERhrwnZ
「文壇曰く集」(「雄弁」大正7年1月)より
06-03 21:48
〈徳田秋聲氏曰く「何と言つても、小説を書くのは、一番至難な仕事だと思ふね。偶々若い批評家などが飛び出して来て、糞味噌に妄評を下したりなんぞする事があるが、そんな連中の書く小説など、時折見ても、とても読めないやうなのが多いものね。そこへ行くと、美術批評の方は、
06-03 21:48
〈徳田秋聲氏曰く「糖尿病のために、米の飯を禁じられてゐるので、半搗米をやつて居るが、日本人に生れて、普通の日本米が喰べられないといふ程、悲惨なことは無いね……」〉
https://t.co/2jHQlKyZ9e
「文壇曰く集」(「雄弁」大正7年8月)より
06-03 18:19
@mizukami_jidai
はい。短いですが一読してこれは間違いなく秋聲の文章だと判る内容ですね。
06-03 14:50
@mizukami_jidai
巻末広告の推薦文なども全文検索機能がないとなかなか発見が困難ですね。
06-03 14:30
@mizukami_jidai
ここでの秋聲のコメントの主旨は貧困層の多産と女子の芸妓、娼妓への人身売買ですね。
「日本に人身売買の盛んなのは、子供が偶々無産階級の唯一の財産であるからだが」
徳田秋聲「娘の結婚」(「婦人公論」昭和11年5月)
06-03 14:28
初出は「赤い鳥」創刊号(大正7年7月)「通信」欄。上記引用は初出に戻しました。
https://t.co/t7Ut1toSmu
06-03 13:48
徳田雅彦(4歳)の口癖】
「私の家の雅彦(四つ)は、細長いお魚をたべたあとの骨を、検温器だと言ひます。それから唐草模様の萌黄の風呂敷を見て、お獅子だと言ひます。(徳田秋聲氏談)」
『幼児保育講座』第3巻(国民図書刊行会、昭和25年9月)
https://t.co/RHtnzJeGYm
06-03 13:48
徳田秋聲「創作苦心談」
「国民雑誌」第2巻第8号(明治44年8月)所収〈作者評判記〉より。一人目の苦心談なので、追い込み見出しで「〇創作苦心談(一)」とある。原文総ルビ。
https://t.co/7255b2cF2d
「徳田秋聲全集」第19巻に掲載なし。別巻「著作目録」に掲載なし。
06-02 20:24
いてくさゝゝして来るのが当り前ではないか。しかし机に向つてある時間辛抱して頭を鎮めて居れば自づと創作気分も纏まつて興が乗つて来る。一旦其の気分が整つて其処へ入つて行けば外界からどんな事が迫づ〔ママ〕て来ても苦にならない。頭さへ疲れて来ない以上は続いてすらゝゝ書けて来る。」
06-02 17:57
の生活状態といふやうな外来の境遇にも依るだらう。例へば生活が平板単調で新らしい気持ち、爽やかな気分になるといふことがない。始終同じ処に沈(しづ)とぐづゞゝしてゐる。何年も同じ家に住ひ、同じ書斎の同じ机の前に坐つて同じ飯を食つてゐる。これでどうして新らしい気分になれやう。何事にも飽
06-02 17:56
「〇創作苦心談(一) 徳田秋聲氏曰く、近頃は創作をするといふ気分には容易になれない。どんな事件にぶつ附つてもそれが総て唯事のやうに感じられる。興味もなく見方も定まらず、材料に対する創作的の気分が充実して来ないのに何かの事情で無理に筆を取るから出来上つた作品が散漫になる。それは自分
06-02 17:56
は、過去は勿論、今日の文壇、明日の文学を知らうとするに、最も適切な著述であらうと信じます。」
高須芳次郎『明治大正昭和文学講話』(新潮社、昭和8年10月)への推薦文
杉山平助『一日本人』(新潮社、昭和8年12月)巻末広告所収
https://t.co/GjPKevqzVN
徳田秋聲全集未収録。
06-02 17:27
「徳田秋聲氏曰く
明治大正を経て今日に至る文学思潮の歴史は材料を整理するだけでも維新史編纂以上の困難が伴つてゐます。
この仕事は身自ら各時代に生きて見たる潮流の去来を体験すると同時に、透明なる客観性を具へた人でなければ完全を期しがたい。高須君は少くともその人です。従つて本書こそ
06-02 17:26
愛国産児制限相談所、昭和3年6月)
全集未収録。当書と、布施の『最近の姙娠調節』(同前、昭和3年5月)に引かれています。秋聲の既存の文章からの引用なのか、このためにアンケートを取ったのかは不明。
06-02 17:23
「◎徳田秋聲氏曰く=多数の国民は、小供を多く持つ為に如何に苦しんで居るか。また其等の子女が如何に不幸な運命を辿りつゝあるかは、都市の場末や田舎にゆけば、殆ど軒並に目撃する。」
https://t.co/IstoXXgMVA
布施亮「産児制限につきて 諸名士の意見」(『避妊法とは如何なるものか』
06-02 17:18
大正10年3月)への推薦文。椙本『かたばみ更紗』(玄文社、大正10年6月)巻末広告所収。
https://t.co/pRIueiqQLo
『月見草』は大正9年5月、「大阪時事新報」懸賞小説に一等当選。選者は徳田秋聲、田山花袋、佐藤紅緑。上記は選評でしょうか。
06-02 17:15
「モーパッサンの作を見よう
徳田秋聲氏曰く。――月見草は現今の新聞小説の水準から言へば有数のものであらう。作者が極力描写しようとした奈美子と其旦那の骨董屋との関係などもモウパツサンの作品を見るやうな深刻さを以て極度の写実主義を発揮してゐる」
椙本まさを『月見草』(玄文社、
06-02 17:15
@mizukami_jidai
富田家に行けば会えます
06-02 15:21
等々、一見辛辣なようで深いところまで見ていますね。
06-02 14:16
渋くくすぶつてゐる。ちよつと路傍で行きちがへば、そこらの退職小官吏程度にしか踏めないが、相識ること深く、熟視すること久しきに及べば、なるほど、これはそこらにザラにころがつてゐる安手の顔とは、ちつとばかり顔がちがふといふ感銘を深く与へられる」
06-02 14:15
自分などが身辺雑記をかきなぐつてゐるのに、藤村の老いていよいよ本格的な努力をおこたらない点を及び難しとしてゐるやうだが、腹の底まで果してかくの如く素直であり得るやどうかは、容易に判断し難く、その点秋聲の自尊心の異常なことも亦、看取せねばならない」
「秋聲は、彼の小説の如く、顔まで
06-02 14:14
杉山平助「徳田秋聲と島崎藤村」(『文学的自叙伝』中央公論社、昭和11年1月)
https://t.co/nHGkjy0MYU
秋聲について多くの文章を残している杉山ですが、これもなかなか面白いです。両者の比較も概ね正鵠を射ていると思います。秋聲については、
「秋聲は、かくものの上でも藤村に対し、一目おいて、
06-02 14:14
【徳田秋聲肖像】
村松梢風『近代作家伝』上巻(創元社、昭和26年6月)
https://t.co/fS39OoDLv7
これは結構お馴染みの写真、機嫌良さげな秋聲さん。
撮影年不詳
06-02 11:02
@mizukami_jidai
翌年には田山花袋が写真班主任として従軍することで秋聲も心を動かされたりしていますね。身の振り方にかなり悩んでいたのは確かなようです。
あるいは、尾崎紅葉の葬儀や法要で露伴と顔を合わした際に「次は露伴先生に」くらいの軽口をきくことはあったかもしれません。
06-02 10:05
【雨夜の音楽と読書】
セルゲイ・タネーエフの室内楽(タネーエフ四重奏団)とニコライ・ゴーゴリの『ミールゴロド』。
https://t.co/X8lYx32caq
06-01 23:04
と言へば誰がゐる」
塩谷賛『露伴翁家語』(朝日新聞社、昭和23年4月)
https://t.co/i5KSJS6TsF
昭和18年11月25日、徳田秋聲が死んで間もないころの幸田露伴の談話です。
尾崎紅葉が死んだのは明治36年10月30日で、そのころの秋聲が露伴に弟子入りを望むとはちょっと考えにくいですが……
06-01 15:48
「永井荷風はどうしてゐる。徳田(秋聲)といふ人も死にましたか、それは知らなかつた。あの人は尾崎(紅葉)の弟子で、尾崎が死んだ時、私のところに弟子にしてくれと言つて来たこともあるが、六十ですか、――七十になつてゐましたか。島崎(藤村)といふ人のことは聞きました。それでは今小説を書く人
06-01 15:48
大滝秀治さん
#同一人物とは思えない画像を貼れ
https://t.co/yrw80apS9f
06-01 11:28
秋聲の気前の良さは伝わってきます。
(※註)石井の上京は明治40年なので、徳田秋聲の住まいは本郷森川町ということになる。
同じ話が山野辺貴美子『をどるばか 人間石井漠』(宮坂出版社、昭和37年3月)にも書かれています。異同はありますが、こちらの方が詳しいです。
https://t.co/C8IrRGeFim
06-01 07:49
景気直しに馬肉鍋をつついた。
秋聲から借りた分の金は結局返せなかった。秋聲は仕方なく自分で金を都合し、質屋から一張羅を請け出したとのこと。
当事者の回想でなく聞いた話なので、どの程度事実に則しているかは不明ですが、ひどい話ですね(なんで借りた金で景気直しをする?)。でも相変わらず
06-01 07:48
洋服箪笥の中の秋聲の一張羅を借りて、赤門前の関という質屋に走った。そこは秋聲行きつけの質屋で、一目で秋聲の服と判り、いつも流さずきちんと受け出して信用があるので良い値で預かってくれた。石井はその金で吉原の三人を救い出すことができた。
少し金が余ったので、4人は帰りに馬肉鍋屋へ寄り、
06-01 06:49
一同は逃げられないよう行燈部屋に閉じ込められて梯子を外され、石井一人が金策に出された。どこで金を作ろうかと道端で思案するうちに、不断可愛がってくれている徳田秋聲の顔が浮かんだので、弁天町(※註)の秋聲宅へ行き、事情を話すと、苦笑いして「何でもそこら辺のものを持って行け」と言われ、
06-01 06:44
【吉原で遊んだ金を秋聲から借り倒す】
緒野和子「こぼれ話」(「女流」昭和31年9月)
https://t.co/QkuidNLSgK
舞踏家の石井漠から聴いた話。
浅草でぶらぶらしたついでに吉原へ繰り出し愉快に遊んだ三島霜川、中村武羅夫、水守亀之助、石井漠の4人。いざ勘定という段になり金がないことに気付いた。
06-01 06:43
寺崎浩「菊池先生と秋聲」(「風雪」昭和23年6月)
https://t.co/oBUdakdlNx
徳田秋聲の長篇『何処まで』のヒロインのモデルが生んだ双生児を菊池寛も知っており(2人とも芸者をしていた)、
「あれはさう言へば雅彦に似てゐたね」
と語ったことが最後の方に書かれています(雅彦は秋聲四男)。
06-01 06:39
野口冨士男「チョジュツ業」(『徳田秋聲ノート』中央大学出版部、昭和47年6月)111頁にもその時の記述があります。それによれば友人たちの顔触れは青山光二、井上立士、十返一(肇)、船山馨、南川潤、野口の6人。みな同人雑誌「青年芸術派」のメンバーですね。
06-01 06:38
のに逢つた(中略)。秋聲氏は吉屋さんに招かれてその宿屋に泊つているといわれた。夜にでも遊びに来いといわれていたので、一同でゾロゾロ出かけていつた。さすがに吉屋さんだけあつて、ビールも飲めないほど沢山出たし、煙草もいくらでもあつた。僕らはようやく温泉場へ骨休めに来た気になれた」
06-01 06:37
【熱海銀座で徳田秋聲・吉屋信子と出会う】
十返肇「文士と温泉」(「温泉」昭和28年4月)
https://t.co/Oqc7KNNTyc
「戦争中、友人数名でやはり熱海へゆき、知らぬ宿屋へいつたところ、ビールは一人一本づつ、煙草もなしであつた。その昼間、熱海銀座で、徳田秋聲氏が吉屋信子さんと歩いている
06-01 06:37
丸山義二「文芸懇話会賞が決定するまで――徳田秋聲氏との一問一答――」(「文学評論」昭和10年9月)
https://t.co/XcB1r6bini
05-31 21:24
大正時代の新語に分類されています(おそらく大正後期か)。
https://t.co/4Q5SeqPzTQ
ただし「彼氏は順子が作った新語」という俗説が昭和ゼロ年代にある程度流布していたとすれば、それはそれで興味深いことです。
05-31 21:22
【彼氏は山田順子が作った新語か】
米川明彦『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』(三省堂、2002年10月)によれば、山田順子が銀座に出るよりも古い用例があるので、事実ではないようです。
加茂正一『新語の考察』(三省堂、昭和19年7月)では、
https://t.co/iELJuKSEw5
05-31 21:22
ちなみに第1回文芸春秋祭は昭和8年2月15日に大阪ビル地下レインボー・グリルを貸し切って開催されました(「徳田秋聲全集」別巻年譜に出席情報は載っていません)。
05-31 15:21
啖呵を切ったなぞという、真しやかなゴシップもあつた〉
永井龍男「文芸春秋の頃」(『酒徒交伝』四季社、昭和31年2月)
https://t.co/HAXiQw1gQR
けんかをするなら小説でかかってこいという訳でしょう。あくまで「まことしやかなゴシップ」です。
05-31 15:21
【徳田秋聲、泥酔した小林秀雄にからまれる】
〈最初の文芸春秋祭が、この地下室〔引用註:大阪ビル地階のレインボー〕で催されたのは昭和何年であろうか。泥酔した小林秀雄に、執拗に親愛の情を示された下戸の徳田秋声氏が、しなだれかかられるままに転倒し、立腹して、
「おい、小説で来い!」
と、
05-31 15:20
おもしろい人がいるものだと思った。たいして書くほどの問題でもないと考えたし、
「それじゃ、わたしはお会いしなかったことにして帰りましょう」
というと、それはありがとうとはいったが、とくべつありがたそうな顔をするでもなかった。〉
――なんだか、いちいち秋聲さんらしくて微笑ましいです。
05-31 12:37
と思うほど、あけすけに話してくれた。そしてそのあとで、
「これが新聞に出ると困るだろうなア」
と、ボソボソひとりごとみたいにいうから変っていた。べつに、困るから書かないでくれという調子でもない。それならはじめから話さなければよかろうに、なるほど文士というのには
05-31 12:37
門田勲「文士の思い出/苦渋な徳田秋声」(『新聞記者』筑摩書房、昭和38年12月)
https://t.co/3d6b9p1PQh
この回想の前半は面白いですね。朝日新聞記者の門田が山田順子とのことで秋聲にインタビューすると、
〈べつに昂奮するでもなし、つまらなそうな苦渋な顔付で、こんなことまで話していいのか
05-31 12:36
【集合写真/武林無想庵迎送会】
武林無想庵『むさうあん物語 別冊』(無想庵の会、昭和37年7月)
https://t.co/Tp9yrtBuzJ
長谷川如是閑・水島爾保布・島田清次郎・西田長左衛門・徳田秋声・正宗白鳥・加藤謙。
加藤謙編集「鐘がなる」(大正12年7月)より。
05-31 10:26
挙げた〉
ともあります。
徳田秋聲全集を探しましたが見当たらず。私は初めて見る文章ですね。
05-31 09:46
引用されています。初回配本は長田幹彦訳の第5巻「好色五人女 好色一代女」だったようで、五人女の訳文例として
〈秋聲君は意味の取にくい処は、巧に説明的なものに引直してゐる例証として「男は裸が百貫たとへてらしても」といふ原文を「男はどうせ裸一貫、百貫をつかひはたしても」と換言したことを
05-31 09:35
のが、一応も二応もの説明が加へられることなしには、頭脳へ入らないであらうことは当然である〉
〈西鶴なんかを読むと、何か頭脳が古くなるやうに感ずるやうな現代人は、これによつて西鶴に面接した方がいゝだらう〉
『現代語 西鶴全集』(春秋社、昭和6年6月~)について秋聲の推薦文らしきものが
05-31 09:35
胸別亭「徳田秋聲の氏の挑燈文=現代語西鶴全集=」(「日本及日本人」昭和6年7月)
https://t.co/iALQLul9mb
〈現代語に引直す必要があるか否かは疑はしい〉
〈最近では既に紅葉、露伴、一葉を理解し得ない読者が頗る多い位だから、況して西鶴のやうな特殊な物の見方と書き方をした秀でた芸術家のも
05-31 09:35
@mizukami_jidai
芥川との時はお座敷気分だったのかもしれません。醒めた目で見ると詰まらなかった、みたいな。
もし芥川らと見物した時に喜んでいたとの噂を聞き付けて秋聲を誘ったのにこの反応だったとしたら気の毒でしたね(それでも誘われるままについていったのは微笑ましいですが)。
05-31 09:34
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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