@niina_noriko さっそく使ってみたらバグってますね。「かめいあさみ」が「かめいあさべ」になります。
11-29 17:45
なお、"The Reward of Justice" は Parley's Magazine 誌のオリジナルではなくて、原話があるだろうと思います。
11-29 17:19
ある夜、暗殺者たちの密談をあばら屋の中で窓越しに耳にした老婆は、急いで御所に通報し、王の命は救われます。王が周りの反対を押し切ってまで一人の老婆に掛けた慈悲が自身に酬いた、というお話。前掲原書(1855年)の最後を掲げておきます。
https://t.co/wSZXamppYw
11-29 17:16
徳田秋聲『波斯王の御所』。ペルシャの王様が領内を四方八方巡って新しい御所を建てるのに相応しい土地を探し当てたところ、そこに住む一人の老婆だけがここで死ぬまで暮らしたいと言って立ち退こうとしません。情け深い王様は老婆を罰することもせず、そのあばら屋の隣りに立派な宮殿を建てました。
11-29 17:13
@kaguragawa すばらしいです。地図まで載せて下さって感激です。この地図(『東京市及接続郡部地籍地図』上卷(大正1年)〔本郷区18〕)は私も近デジで見た憶えがありますが、「亘理医院」は見逃していました。
どうもありがとうございます。
11-28 23:55
るので、『波斯王の御所』の底本はもっと後の刊行のものかも知れません。画像は、Parley's Household Library; A Perpetual Fund of Instruction, New York, 1855.
https://t.co/QloULUh8HF
11-28 23:43
Whole No.10. Saturday, July 20, 1833. Part 2, No.3., pp. 40-42., Lilly, Wait & Co. Boston) です。
アメリカの子供向け雑誌に載ったおとぎ話ですが、同じ文章がその後いろんな書籍に再掲載されてい
11-28 23:43
徳田秋聲『波斯王の御所』(「幼年世界」明治33年11月)。この作品も全集第27巻解題・別巻著作目録に原作が明記されていませんが、原典は "The Reward of Justice" (Parley's Magazine. For Children and Youth.
11-28 19:13
@tonton1965 船上での思索はヘルダー『旅日記』、船室からの思慕はハイネの詩「夜の船室にて」(など)、回想形式はヴィルヘルム・ラーベ、テオドール・シュトルムらの影響も考えられますが、直接模倣したような作品はちょっと思い浮かびません。お役に立てず、すみません。
11-28 18:42
徳田秋聲は「八釜敷」という宛字を使いません(たぶん)。漱石(や門下)がよく使うほか、露伴や鏡花にも用例があるんですが。
秋聲の『多恨』(明治42年4月)『濁流』(明治42年6月)には「八釜しい」の用例が散見されますが、これらは代作。代作はこうした用字の癖の違いで馬脚を現すことも。
11-27 01:04
徳田秋聲は『日本文章史』で「八釜敷」なんて字を使っていますが(「その当時の様な乱訳時代にあつては、もとより誰も今日の様に誤訳問題など八釜敷持ち出すものはない」)あれは岡栄一郎の代作ですからね。
https://t.co/HSsKA7RCyu
そして岡栄一郎は漱石門下。
11-27 01:02
@yasu_kum @atoreides 徳田秋聲の一連のマゾッホ翻訳の中ではこの作品(『夜叉』Ein dämonisches Weib, 1901)がいちばん優れていると思います。もし未見でしたらどうぞ。
https://t.co/8uWRRWeIJe
11-27 00:56
この『大実験』の終わりの方で、入れ違いになっていた霊魂が元に戻った甲賀青年が「チヱースト!」と喜びの声を連呼する場面があります。
短篇『風前虹』七の一「チヱースト」、フランク・バーレットの翻案『旧悪塚』㈣の三「ちえすと!」に続き、徳田秋聲の作品と翻案で見付けた3例目のチェースト。
11-27 00:42
徳田秋聲『大実験』(「学窓余談」明治32年7、9月、33年1月)。
全集第27巻解題・別巻著作目録に言及がありませんが、ドイルの作品の舞台を日本に置き換えた翻案です。
関矢悦子《カインプラッツ市における大実験》の内容紹介と解説・感想
https://t.co/jH8xuTYdfZ
11-26 22:56
村上濁浪は明治39年5月に「探検世界」なんて雑誌を発刊したくらいだから、お手本格の "The Wide World Magazine" は購読していたでしょうし(明治41年5月には「殖民世界」を発刊)。
11-26 19:36
ヘレン・アルドリッチ・デクロイフト(1818–1915)の「デ」は「de」じゃなくて「De」なんですよね(Helen Aldrich De Kroyft)。一等最初のツイートでは書き間違えました。
https://t.co/HcEQAk7IjG
些細なことですが訂正しておきます。
11-26 19:20
徳田秋聲がThe Wide World Magazineなんて雑誌を読んでたかしら。
『猛虎大蛇格闘実話』を秋聲が訳したとしても、原作は「探検世界」の村上俊蔵(濁浪)あたりの持ち込みか、または名義を貸しただけかも知れません。
濁浪の成功雑誌社とは三島霜川が結構縁が深いんですよね。
11-26 18:54
@yuukakubu 「八釜敷」はともかく、「普段」は後世のあて字で、「不断」のほうが正しいのです。日国も「不断」で立項しています。
https://t.co/pDdlnKi65F
11-26 13:51
当時倫敦で刊行された一般誌が日本に届くまでの日数(例えば明治42年の日本郵船欧洲航路で片道58日、シアトル線で27~8日、加奈陀線23日)と「探検世界」誌の締切(遅くとも10月上旬くらい?)を考え合わせれば、訳者が新刊を手にして原稿を収めるまであまり間がない感じです。
11-26 12:30
西田谷洋「消費される児童像―徳田秋声の少年少女小説」
富山大学人間発達科学部紀要, 2015;10(1):175-180.
https://t.co/GPu7by4sRd
徳田秋聲の少年少女小説に関する珍しい論考。
先日原典を紹介した『目なし児』についても言及されています。
11-26 10:55
芥川賞受賞者、落選者より長生き 直木賞は逆 阪大研究:朝日新聞デジタル
https://t.co/UHnkMYGd3y
11-26 09:18
RT @nhk_news: 【速報 JUST IN 】映画界で活躍 元女優の原節子さん死去
https://t.co/hSoXmPpF6B #nhk_news
11-26 08:18
Three in a tree: My Adventure in Ceylon, 1906 の掲載誌面です。原典が1906年8月号掲載、徳田秋聲訳『猛虎大蛇格闘実話』が載った「探検世界」が同年(明治39年)11月5日刊ですから、
https://t.co/9Wnde5EtM0
11-25 20:27
体験記ですね。"The Wide World Magazine"は「事実は小説より奇なり」の標語のもとに、世界各国の英国植民地から集められた旅と冒険の物語を掲載していた雑誌ですが、相当嘘っぽい体験談も多々あって、この『猛虎大蛇格闘実話』もホントなんですかねーという気がします。
11-25 20:00
late Church of England missionary in Ceylon.
"The Wide World Magazine" Vol. XVII, August, 1906. Gorge Newness, Ltd., London.
です。英国国教会の元宣教師の
11-25 19:32
通読一番、読者必ず手に汗するものあるべし。」とあります。これも徳田秋聲全集第27巻解題と別巻著作目録に原典が明記されていませんが、原典は、
Three in a tree: My Adventure in Ceylon.
by the Rev. E. L. C. Wilson,
11-25 19:23
徳田秋聲『猛虎大蛇格闘実話』(「探検世界」明治39年11月)。
なんかすごい題名ですね。本文標題横に「英国より錫蘭島に派遣せられたる牧師ウイルソン師は、一日同島の深林に於て狩猟中に猛虎と大蛇とに挟撃され、殆ど危機一髪の命を天幸によりて免るゝを得たり。次に記すところの物は即ちそれ。
11-25 19:15
など。
画像は1997年製作のアメリカ映画"Passion in the Desert"より。ラヴィニア・クリエー(Lavinia Currier)監督。ベン・ダニエルズ(Ben Daniels)主演。
https://t.co/JwJMQyR0eK
11-24 23:42
英訳は、明治34年より前に"A passion in the desert"の題名で幾つか出ています。
例えば
Honoré de Balzac "The Duchesse de Langeais" George Routledge & Sons, New York, 1885.
11-24 23:24
多くの方がお気づきでしょうが、この『猛獣の愛』の原作は、バルザックの『砂漠の情熱』(Une passion dans le désert, 1832)です。岩波文庫(『知られざる傑作 他五篇』)にも入っています。なぜか徳田秋聲全集第27巻解題にはバルザックのバの字も出てきません。
11-24 22:17
徳田秋聲 訳『猛獣の愛』(「少年世界」明治34年1月)。
モウグラビン種族(訳文ママ)の捕虜の身となったフランスの埃及遠征軍の一兵士が、彼等の手を逃れて砂漠を彷徨うなかで一頭の雌豹に遭遇します。食い殺されるかと思いきや、豹は猫のように兵士に懐き、その愛撫に身を任せるのでした。。。
11-24 22:17
@JjYop @Artssoy 「千鳥が淵」という、その特定の名称……浮遊する意味、イマージュ群は……一種の象徴的現実空間を成立させ……等々、たぶんArtssoyさんや1987年のリスボンさん好みの思索が展開されます。ぜひ御一読下さい。
11-24 20:08
「名も懷しき梅津の里を過ぎ、大堰川の邊を沿ひ行けば、河風寒く身に染みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に打蕭れつ、霞める眼に見渡せば、嵯峨野も何時しか奧になりて、小倉山の峰の紅葉、月に黒みて、釋迦堂の山門、木立の間に鮮なり。」
高山樗牛『瀧口入道』第十八。
11-24 01:50
〈丸山公園から清水あたり、昼間は、墓参の家族連れが住き交って、その翌日の夕暮れ時には、家々の門先で、精霊迎えの迎え火が焚かれるだろう、というような、そんな日、(中略)はじめて、そして不意に、「千鳥が淵」あたりを見た。〉
井筒豊子、同上。
11-24 01:37
〈祇園祭りは過ぎ、大文字焼きには数日早いという頃、今年も京都に出かけた。京都は折からの盂蘭盆で、加茂川の四条大橋(略)から三条にかけて、河岸に夜店が出て、暗い河面と夜店の灯かげの連なりにそって、賑やかな人波が続いていた。〉
井筒豊子「千鳥が淵」(「新潮」昭和58年11月)
11-24 01:37
後に奴隷となった「私」の故郷は、the kingdoms of the Muslemin(マツサルマン王国)からは余程あるMbudikum(ブデカム)国のBahom(バホム)という村と書かれています。マッサルマン(王国または帝国)という呼称は戦前の本にはよく見かけます。
11-23 23:39
私(主人公)の「阿母さんは美しい女で」(徳田秋聲訳『奴隷の生立』)とあるように、原作(The History of a Slave)の挿絵でも母親は非常に美しく描かれています。
おっぱいがちょっと垂れすぎな気もしますけど。
https://t.co/qFWcuGE9EE
11-22 00:26
原作の第二章の段階では第一夫人はまだ死んでないのですが、得田麻水名義でその死(第四章)までを訳したので、『奴隷の生立』ではネバが「妖術を使った」ことで死刑に処されたことに簡単に触れるだけで済ましています。徳田秋聲と得田麻水が同一人物である証左ですね。
11-21 23:59
したもので、言文一致体の訳文は原文からは随分かけ離れていますが、非常にこなれたものです。
https://t.co/h5jFDDhPHs
11-21 23:40
得田麻水名義の『蛮人の惨刑』は、掲載誌に「(風俗談)」との記述があり、榎本隆司が「翻訳紹介の域を出ないと思われる」と指摘したように、原作の四章までの内容を短く纏めたものです。
徳田秋聲『奴隷の生立』は、第一夫人の死後から始まります。原作の第二章から「私」が奴隷に売られるまでを抄訳
11-21 23:22
挿絵は、Sir Harry Hamilton Johnston "The History of a Slave" Kegan Paul, Trench, & Company, London, 1889.
より。
11-21 23:17
食べさせて吐き出せば有罪、という無茶苦茶な方法で罪が確定します。ネバは木に縛り付けられ、猛獣鷙鳥に突かれながら死ぬまで放置されます。その様子が右の挿絵。左は魔術師ヱプフユモー。
https://t.co/buRT3s6uQn
11-20 23:44
スーダン西部、クハー(Kufar、以下地名・人名は麻水の訳文ママ)地方のとある村の酋長の第二夫人の子が、象狩りの折りに牙で突き殺される事件が起こりました。村の魔術師ヱプフユモー(Epfumo)は、第一夫人ネバ(Ndeba)が象に化けて子を殺したと決めつけ、漿液に浸した死児の肉片を
11-20 23:44
て其肉を啖ひ、酋長は其獲たる髑髏を庭前に飾りて其猛勇を傲る例なるが、今此に行はるゝ刑罰の惨毒なる一例を挙げて、之を叙せんと欲す。」
以上が得田麻水『蛮人の惨刑』冒頭です。この部分の原文は添付の画像のとおりです(2頁7行目から)。
https://t.co/jmVVaD2fqr
11-20 22:34
「亜弗利加の大沙漠を踰えグレート、リバーを横截りてマツサルマン王国よりしてクハーと呼べる地方に入れば、フールなる黒人種の棲息するを知らん、此地方の蛮野なる、未だ白人種の足跡普く致らざる処なりと雖も、数人の探険者は迅く既に其の状を覗ひたり。
此地方にても亦他の蛮国の如く、敵国と戦ひ
11-20 22:32
『蛮人の惨刑』『奴隷の生立』の原作は、
Sir Harry Hamilton Johnston "The History of a Slave" (1889).
です。
11-20 19:22
得田麻水『蛮人の惨刑』(「少年世界」明治32年8月)。雅俗折衷体。
徳田秋聲『奴隷の生立』(「中学世界」明治33年3月)。言文一致体。
この2作、同じ原作小説からの続き物の翻訳です。調査に数日かかりましたが、原作を発見しました。間違いなさそうですが、過去に発見済みだったら泣ける。
11-20 19:22
専売局 編『煙草展覧会図録』専売局、昭和8年
https://t.co/36XK9Wnzhz
主催:大東京煙草小売人組合聯合会
日時:昭和8年10月21日~29日
会場:日本橋三越
11-20 12:00
堂本彌太郞 号寒星。明治廿年八月八日、京都市に生る 当三十七歳。〔関係先〕京都松竹合名社宣伝部長〔家庭〕夫妻〔趣味〕演藝
〔略伝〕京阪の新聞社に、記者生活を経て松竹合名社に入社。宣伝部を担任す
◇現住所 京都市下京区堺町三条南入
(揚幕社編『現代俳優名鑑』八宏社、大正12年)
11-19 20:17
大森痴雪、武林無想庵、堂本寒星らがいた京都新聞は現在の「京都新聞」とは別物です。
11-19 19:52
から「どうです無想庵にしては」と提案され、「よろしく」と答えたらその後ずっとそれで通ってしまったそうです。
堂本彌太郞もおそらく新聞社に入ってから寒星なんて号を付けたんでしょうね。
ついでに。無想庵の月給は20円で、主筆の25円と較べてもさして遜色がないほどの高給取りだったとか。
11-19 01:21
ところで大森痴雪に署名を求められた磐雄が本名を書くと「本名はいけない。雅号にして下さい」と言われ、雅号は当時すでに古くさかったけれど新聞ではまだ雅号でないと通用しない、大森痴雪、中島半狂、槇岡蘆舟みな雅号だというので、じゃあ再出発のつもりで「無念無想」と署名したら、それはおかしい
11-19 01:21
かけの小説『木乃伊採』を同紙に連載することを勧め、無想庵という雅号を付けてやったのは当時京都新聞にいた大森痴雪でした。
ずっと後の昭和11年7月、その年の5月に亡くなった痴雪を偲ぶ会が京都の四条大橋菊水で行われた際、武林無想庵と堂本寒星はともに会の発起人として顔を合わせています。
11-19 00:01
武林磐雄(無想庵)が一年ほど京都新聞社に勤めていたことを思い出しましたが、芝居茶屋の女将の妹と駆け落ちした磐雄が京都に腰を落着け、角田浩々歌客の紹介で京都新聞社に入社したのは明治39年ですから、明治20年生れでその時まだ19歳の堂本彌太郞が出会うことはなかったでしょう。磐雄の書き
11-19 00:01
『大正四年 新聞総覧』(日本電報通信社、大正4年9月)
「京都新聞編輯長 堂本寒星」
https://t.co/BTtks8Mctr
堂本寒星(彌太郞)が京都新聞の編集長をしていたとは知りませんでした。
11-18 23:52
ます。「ことか。」ということはよく分からないのかしら。
私は、吸い込んだ煙を口を膨らましてうがいをするように吹き出すことかと思った。
11-17 19:26
徳田秋聲『足迹』七十四「お庄は帯の間から莨入を取出して、含嗽莨(うがひたばこ)を吐しながら言出した。」
『黴』五十一「お銀は軟かい初毛の見える腕を延して、含嗽莨などをふかした。」
『明治の文学 徳田秋声』(筑摩書房)の脚註には、含嗽莨とは「メンソールたばこのことか。」と書かれてい
11-17 19:23
コンビニのおにぎりの海苔で唇切って血が出た。
11-17 08:07
@tonton1965 そうですね。婦人科で妊娠がわかった場合は、産科に転院することになると思います。
11-16 19:58
@tonton1965 どうも恐れ入ります。もう一つ見落としがあったのですが、本名は山田田鶴子ではなく山本田鶴子ではないでしょうか(前者のほうが正しいのであれば、どうぞお忘れ下さい)。
婦人病専門で分娩を扱わない病院はありますよ。
11-16 19:22
@tonton1965 こちらの「Hatena Keyword 常安田鶴子」拝見しました。
https://t.co/yqyay5uHx8
「自宅で産婦人科医を開業」の「産婦人科」は私の転記ミスで、正しくは「婦人科」でした(画像参照)。お手数ですが訂正して頂ければ幸いです。
11-16 16:22
時事ドットコム:幻のオペラ録音発見=三島由紀夫原作-「あやめ」ラジオ初演 https://t.co/WxawdcB7sB @jijicomさんから
11-16 15:57
なお、『出版年鑑 1958』には「肺結核のため東京女子医大病院で死去」とあります。
11-16 12:09
@tonton1965 (『日本女性人名辞典』日本図書センター、平成5年、712頁)。「四四歳で死没」は新聞記事がソースのようですが、生年は明治44年(1911年)との本人発言があるので、ひょっとしたら記者が明治44年と44歳を取り違えたかもしれません。
11-16 12:07
@tonton1965 出身地と学歴を調べました。常安田鶴子(つねやす・たずこ)昭和期の医師。本名山本田鶴子。広島県出身。東京女子医学専門学校を卒業し、順天堂病院産婦人科に勤務。のち自宅で産婦人科医を開業、とあります
https://t.co/4A9piLFlp7
11-16 12:06
@tonton1965 谷口雅春『新女性讀本』(昭和37年)に「常安田鶴子女史なども女子医専学生であつたとき」とあります。ドクトル・チエコと常安との問答が引用されていて、常安が生れは「明治四十四年です」と発言しています。だとすると1911年生になりますね。出身校も調べてみます。
11-15 23:55
古井由吉の書斎の本棚の写真で時おり目にするリルケ全集。
Rainer Maria Rilke Sämtliche Werke, Insel Verlag
https://t.co/WXwdTatnAf
中身は以下のシリーズが6冊。
https://t.co/8fScT6PgWl
11-15 17:54
だから露伴の甥ではなくて甥孫でした。
11-14 13:19
幸田成康は幸田成常(露伴の兄)の庶子政吉の長男で、その下に次男成幸、三男成義、四男成信がいる、と『人事興信録』第5版(大正7年9月)にあります。その後さらに弟が出来たかも知れませんが、そこまで調べてません。「血縁関係にあり」と曖昧な書かれ方をしたのはそういうことでしょう。
11-14 13:11
@tonton1965 わかりました。
『人事興信録』第5版(大正7年9月)の幸田成常の項に
「前記の外 孫成康(明治四〇、一生、庶子男政吉長男)」とあります。
https://t.co/csESLjV6aj
11-14 12:53
@tonton1965 後藤悦良『鷹野つぎ 人と文学』(浜松市立高等学校同窓会、昭和56年)があるようですね。
11-14 11:46
@tonton1965 どこかで甥と書かれてるのを読んだ記憶がありますが、調べてみます。
11-14 11:38
Jacques-Louis David, "Académie dite Patrocle" 1780. に翅を付けたカバー画なんですけど、気持ち悪いけど惹かれます。店頭にあったら衝動買いしそう。
プラトンの『パイドロス』(仏訳版)。
https://t.co/K2UFLUouJv
11-14 01:41
が刊行した婦人雑誌「処女地」の庶務をしていた加藤きぬ子のペンネームです。
参考文献:
永渕朋枝「藤村「処女地」の執筆者―補遺、素川絹子―」神女大国文2011;22:33-48.
https://t.co/PDTmcghOWD
11-13 23:59
(女人芸術の)「創刊の頃について尋ねた私に当時の編集者であり、実務一切を受け持っていた素川絹子(加藤絹子、現在猪俣絹子)は次のように手紙で答えてくれた。」
尾形明子『女人芸術の世界―長谷川時雨とその周辺』(ドメス出版、昭和55年)より。
「素川絹子」は、大正11年4月から島崎藤村
11-13 23:59
植田一夫(うえだ・かずお)近世文学研究者。1936年(昭和11年)大阪生。同志社大学文学部卒業。関西学院大学大学院文学研究科博士課程修了(文学博士)。同志社女子大学教授。1988年(昭和63年)歿。著作:『西鶴文芸の研究』(昭和54年)、『雨月物語の研究』(昭和63年)。
11-13 23:58
RT @Hans_gor: 徳田秋声の縮図のスウェーデン語版が出来上がりました。
https://t.co/FIFrM7LSHx
11-13 08:05
当然、邦訳の会話はダーシではなく鉤括弧で囲まれています。
この箇所の会話は、Gdje ste ga našli? とクレシミルに訊かれて警官がU vašem je prtljažnikuと受けるところが可笑しいんですが。そういえば服にも血が付いてた。
11-13 00:55
― 1996に訂正します。早稲田文学に掲載されている翻訳の底本は2001年刊の単行本で、比較すると会話の引用符が異なります(添付画像参照)。
https://t.co/nqrURT4mn7
11-13 00:18
亀田真澄さんが訳されたアンテ・トミッチの短篇「どこに駐車したか忘れた」をクロアチア語wikipediaで調べて原題をZaboravio sam gdje sam parkirao 1997と書きましたが、初出はMogućnosti 1996;43:98-102.のようなので、
11-13 00:14
@a_i_jp この番組は関東ローカルなので、関西在住の私は視聴出来ないのです。
関東広域圏のTBS以外では、日時は若干異なりますが、北海道放送、テレビ山梨、CBCテレビ、山陽放送、RKB毎日放送、大分放送、長崎放送で放送されるようです。
11-12 19:36
アンテ・トミッチ「どこに駐車したか忘れた(Zaboravio sam gdje sam parkirao 1997)」亀田真澄訳・解説、「早稲田文学」2015年冬号。
https://t.co/52qZ8z4uuI
11-12 01:08
『ヴィトカツィの戯曲四篇』関口時正訳、未知谷。11月下旬発売予定。
収録作品「小さなお屋敷で(W małym dworku 1921)」「水鶏(Kurka Wodna 1921)」「狂人と尼僧(Wariat i zakonnica 1923)」「母(Matka 1924)」。
11-12 00:54
@yokoyama_hiroto お目に留めていただき恐縮です。勉強のつもりでやっておりますので、お時間がおありの時にでも一瞥いただければ大変うれしく存じます。
11-11 19:39
原典"The Cool Couple"と翻案『内と外』の冒頭も並べてみました。
こちらの翻案のほうが原文に近いですね。
https://t.co/yJcsh2XY06
11-11 19:06
いっぽう、徳田秋聲の翻案『内と外』(「少年文集」明治29年3月)の原作は、ディケンズの同じ短編集
Charles Dickens "Sketches of Young Couples" (1840) のなかの一編、"The Cool Couple"です。
11-11 12:08
です。
添付画像で原典と翻案の冒頭を並べてみました。いかがでしょうか。豪傑訳とはうまく言ったものですね。
https://t.co/U7gQ7Avxhx
11-11 12:06
全集解題に原題が明記されていませんが、ディケンズの短篇ですので労せずして判ります。徳田秋聲の翻案『自惚鏡』の原作は
Charles Dickens "Sketches of Young Couples" (1840) のなかの一編、"The Egotistical Couple"
11-11 12:06
徳田秋聲の翻案『自惚鏡』(「文芸倶楽部」明治29年4月)は本文タイトル下に「(でいつけんす)」との記載がありますが、原典は特定されてたんでしたっけ。
同時期の翻案『内と外』(「少年文集」明治29年3月)も「デイツケンス」(ママ)の原作。
11-10 23:55
最近はそういう人少なくなってきたけど、走行中に席から立って移動する乗客がいたりすると長々と説教をはじめる年配の運転手とかがまだいるからな。一言あぶないですよと言えば済むことなのに、以前こういうことがあったとか何とか、マイクでず~っとしゃべってんの。うるさいわ(と口では言えない)。
11-10 21:01
修学旅行かしら、今日は京都の市バスにレンタルの着物を着てる女子高生がいっぱいいて可愛かった。男子は制服が多かったけど着流しの子もちらほら。でも運転手がちょっと横柄で腹が立った。騒がしくて苛々するんだろうか。もちろん親切な運転手さんの方が圧倒的に多数ではあるんですけど。
11-10 20:59
@nurieya2015 大正12年11月7日から三嘉旅館に泊まって「名古屋新聞」に連載中の『掻き乱すもの』を執筆しています。名古屋には12日まで滞在して桐生悠々と会ったりもしていますね。
11-10 16:43
「故に紅葉山本には、王朝時代末期の乎古止点が附いており、有職よみの傍訓が所々に施されている。」(『譯註日本律令』三、律本文篇下卷、昭和50年)
ほかに、『折口信夫全集 ノート編』第12巻所収「古今和歌集かな序」(昭和46年)にも「有職よみ」の用例がありました。
11-10 01:26
「読み」の部分を仮名書きにした「有職よみ」の用例は、
「『拾芥抄』は洞院公賢の著であるが、これを増補して雑部に収められ、むずかしい有職よみの正しい訓み方を指南した書として、江戸時代の有職故実家の間に珍重せられた。」(瀧川政次郎『元號考證』昭和49年)
11-10 01:25
7月31日)より。
埼玉県の百万円事件とは、埼玉県庁の会計課長が越ヶ谷町長と連んで7年間に122万円を銀行から引出して相場と遊興費に使ったという事件で、昭和11年12月に全国一斉に報じられました。お定の事件とは昭和11年5月の阿部定事件のことです。
11-10 00:04
「埼玉県の百万円事件などは、今日の世智辛い世の中にしては嘘のやうな話で、悪事は悪事なりに聊か朗らかな感じがないこともない。(中略)お定の事件があれほど非常識でありながら世間からヒユモラスに受け取られたと同じ理由でもあらうか。」
徳田秋聲「ギャング」(「東京朝日新聞」昭和12年
11-10 00:03
@yuukakubu 田辺誠一さんの進行、当時の写真とナレーション、再現ビデオ、要所要所で前坂俊之氏のコメント、という進行でしたので、実質的に前坂氏監修でしょうね。精神科医の鑑定もありましたが、これは不要でした。あまりこの事件に詳しくはないですが、無難に纏まっていたと思います。
11-09 23:44
@yuukakubu 10時から遊郭部さんの興味ありそうな「阿部定は悪女だったのか」という番組がBS-TBS(Ch.6)で放送されますよ
11-09 21:47
これは通俗書ですが、黒岩万次郎 編「通俗教育資料 玄堂雑纂」(昭和4年)より。
https://t.co/ibwdkYvxg1
11-09 16:39
ざっと調べたところ、「有職読み」の昭和までの用例は、江馬務(「有職故実」著作集10)、角田文衛(『日本の女性名』昭和55年)、山川菊栄(『明治維新のころ』昭和43年)、有吉佐和子(『出雲阿国』昭和42年~)のほか、国文系の論文でも幾つか見付かりました。
11-09 16:37
採録せられてをるのに拠つて大体を知ることが出来」るとあるように、「有職読み」の呼称はどちらかといえば俗称で、学問的な用語としては「故実読み」「名目読み」のほうがよく使われます。
11-09 16:27
右衛門内侍を「ヨモノナイシ」と読むような伝統的な公家の読み癖のことですね。
出雲路通次郎の『有職故実』(昭和8年)に「有職の研究に就いてなほ心得ておくことは、俗に有職読と称する読例があることで、多くは平安朝時代の発音に出たものであらうが、特例も少くない。これは洞院実熙の名目抄に
11-09 16:26
有吉佐和子『出雲阿国』に、白江善五郎という秀吉の右筆が出てくるのですが、彼は「秀吉が持っている年代記に秀吉が読めるように振り仮名をつけ」るのが役目で、「彼には手のつけようのない有職読みの部分」は山科言経をしげしげと訪れては教えを請うていた、とあります。ここでいう「有職読み」とは、
11-09 13:29
下橋敬長 述『幕末ノ宮廷』図書寮、大正11年。
〈右衛門内侍(是は「右衛門内侍」と書いて「ヨモノナイシ」と読むのが有職読でございます)〉
https://t.co/EiQdMjGlbh
「よものないし」ですか。
11-09 12:57
@kaguragawa 昭和4年に慶應の医学部助手で所属が「慶應義塾大学医学部整形接骨科学教室内」ですから、おっしゃるようにこの亘理祐邦という人が亘理祐次郎の実子の可能性が高いですね。原籍が宮城ですので、父親の亘理医師は本籍を東京に移していなかったということでしょうか。
11-09 01:19
徳田秋聲記念館のブログ『寸々語』
11月8日の記事は「秋聲忌2015」について。
https://t.co/2LQBY8K4DG
記念講演「林芙美子と徳田秋聲〈作家・林芙美子〉」の講師は尾形明子氏。
11-09 01:03
一昨日命日だったエドガー・アラン・ポーの子孫だそうです。ヤク中の偽医者の虚言?、それともポーに子供がいたんでしょうかね。
https://t.co/zzAHcnkg10
11-09 00:55
「ネグリのおっさん」と聞いてネグリジェを着てるおっさんを連想(アントニオ・ネグリのことでした)。
11-09 00:51
@kaguragawa 「旧森川町を訪れて徳田邸から映世神社の前を通って亘理邸とおぼしきところまで何度も歩いてみました。」
それは素晴らしいですね。もし差し支えなければ、当時の地図付きでご紹介していただけると助かります。
11-09 00:40
@kaguragawa 貴重な情報をありがとうございます。こちらによりますと、
『慶応義塾塾員名簿』昭和4年版
『慶応義塾塾員名簿』昭和17年版
昭和4年には慶應の医学部助手、昭和17年には宮城県亘理町で開業していたようですね。
https://t.co/GEEfxtFlUP
11-09 00:35
@tonton1965 猪俣礼二は社会運動家の永嶋暢子と別れたあと素川絹子と結婚し、その後離婚はしていないようですね。尾形明子さんの『女人芸術の世界―長谷川時雨とその周辺』に「現在の」猪俣絹子から手紙で回答があった云々とありますので。このへんの記憶は曖昧でした。すみません。
11-08 17:27
@tonton1965 ここに載ってます。在野の人で、永嶋暢子と同棲。素川絹子の夫(のちに離婚)だったようです。
原正敏・依田有弘「治安維持法下の技術運動(一)」千葉大学教育学部研究紀要Ⅲ 自然科学編 1996;44:87-103.
https://t.co/471Jzmkd4V
11-08 16:07
三木清や羽仁五郎は著作で「京都哲学派」なんて呼び方を屢々していましたね。高山岩男あたりも。
西山正夫(法政大学講師、池島重臣のペンネーム)「京都哲學派彈壓の經緯」(「太平」昭和21年2月)なんて論文もあった。
11-08 01:35
桂吉朝〈地獄八景亡者戯〉のCD(東芝EMI)は、平成9年1月27日、和歌山県民文化会館小ホールでの口演記録で、若い女性の笑い声が多く聞かれます(観客の半分以上が女性かも)。和歌山まで追っかけで聴きに行ったファンが大勢いたのでしょうか。私も一度生で聴いてみたかった。
11-08 00:47
でもこのサイトの診断は日替りなので、私の診断結果はすでに「ジントニック」に変わっている。今度はぜんぜん当たってない。
11-08 00:26
今日は、桂吉朝の歿後10年です(2005年11月8日歿)。
〈地獄八景亡者戯〉の
山井養仙「畏れながら大王様。(…)私さようなこと、とんと憶えがございませんな。(…)ぁ何のことやらさっぱりと、寝耳に水でございます。」
閻魔大王「おうおうおうおうおう山井養仙!」
のくすぐりに笑う。
11-08 00:13
マッコリもジントニックも飲んだことないですけどね。「頼まれたことを断れず、押しに弱い。」のは当たってる。
11-07 23:43
kamei asamiはマッコリ。優しく癒し担当。頼まれたことを断れず、押しに弱い。真面目こつこつ努力するタイプ。仲のいい人からいじられることが多い。たまに周りをびっくりさせる発言をする。ジントニックの人とは恋人関係。
https://t.co/OKNjBu0SYM
11-07 23:33
周りがそんなですから、秋聲も無意識に左側を上げる癖が付いてしまったのかも。それが後年、内臓にまで影響するのかどうかはわかりませんが。
ところで私は電車の座席でウトウトすると左へ傾いてゆく癖があります。なぜか右側へは傾きません。
11-07 23:32
ったのでしょうね。
侍が左に二本差して左肩をいからせるように歩いていた名残でしょうか、明治の初めは「左の肩が隆々と聳え立つてゐ」(遠藤秀景のこと。『光を追うて』より。)るような人物が結構いて、秋聲の友人にも「左の肩を意気軒昂と聳かし、足を妙に爪立てゝ歩く癖のあつた」人がいました。
11-07 23:26
洋服の腕も右が短かくなるのは、右より昂つた左の肩で引張るからだ。〉
広津和郎も〈「丁度『死に親しむ』を拝見したところです」と私は云つた。秋聲はちよいと立止り、小柄の左の肩を少し上げるやうにして、「どうですか。少し急ぎ過ぎてやしませんか」と訊き返した。〉と書いていますし、秋聲の癖だ
11-07 23:20
徳田秋聲は「右顔」(「改造」昭和15年1月)で次のように書いています。
〈顔の右が左より低下してゐる。生際もよくないし目尻も下つてゐる。顔のみならず総てが右の方で低下してゐる。呼吸器も右が悪いし、胃も此頃潰瘍で痛むのは右であり、脚も右の方が心持詰つてゐるやうな感じである。
11-07 23:17
過分なお褒めの言葉を頂きました。
https://t.co/qFftsN9GcU
ぜんぜん超えてないので恐縮しましたが、嬉しいので掲げます。
11-07 22:49
慶應義塾の同窓生だった波木井皓三の「大正・吉原私記」(青蛙房、昭和53年)に
「淵田君の父君(引用註:源蔵)は鼓のお師匠さん」。
とあります。
11-07 14:02
淵田一雄(ふちだ・かずお)ドイツ文学者。明治39年(1906年)3月12日、滋賀県生。昭和4年、慶應義塾大学文学部独文卒。藤原工業大学予科教員、慶應外語講師などを経て、昭和26年慶應義塾大学工学部教授。のち商学部教授。昭和47年3月定年退職。平成11年(1999年)1月24日歿。
11-07 14:01
@tonton1965 平成11年(1999年)1月24日歿です。典拠は「第41回文化ゼミナール報告」ドイツ文學 1999;103:265-268.の「学会からのお知らせ」。
11-07 13:42
@tonton1965 何度もすみません、「東京薬科専門学校」ではなくて「東京薬学専門学校」(旧制:1917年~1951年)です。
11-06 23:11
古井由吉・又吉直樹出演、TBS「ゴロウ・デラックス」(11月12日(木)深夜0時26分~)
確認したところ、関西では放送されない。
https://t.co/nx13klQl4f
11-06 21:06
「私の机の上は私の頭と同じで滅茶苦茶である。若い時分には無秩序で混乱してゐる方が気持ちがよかつたが、年をとつてみるとやつぱり余り乱雑になつてゐると苛々してくる。然しどうも私には机の上を整理する頭がないやうだ。」
徳田秋聲「机上雑然」(「読売新聞」昭和15年6月14日)
11-06 20:34
それから電気スタンドも置いてあつたから君も電気で書くのかと云つて笑つたことがある。行燈でも置きさうな男だつたから。紅葉さんは少し大き目な机で布がかけてあつた。」
徳田秋聲「机上雑然」(「読売新聞」昭和15年6月14日)
11-06 20:25
「泉(引用註:鏡花)君と芥川君は机の小さいこととその狭い机の上にごたゝゝと物を置かない点がよく似てゐた。泉君の机の上には御神酒徳利が置いてあり、その中には水が入つてゐたが泉君のことだから原稿紙を浄めるつもりだつたのだらう。
11-06 20:25
Ante Tomić (1970- ) "Što je muškarac bez brkova"; roman, Zagreb 2000.
(en: What is a man without a moustache?)
https://t.co/3TZwWs54Nm
11-06 20:14
@tonton1965 こちらの「Hatena Keyword」
https://t.co/gQfo44pVpq
には「薬科専門学校卒」とありますが、「著作権台帳 文化人名録 2001」の1218頁に飯島友治は「東京薬学専門学校卒」だと明記されています。
11-06 13:49
「戦争前に独逸がソ聯に行つたことは日本に取つて天祐といふにふさはしいものでせう。余裕もないだらうし、中立を守るべきでせう。余計なおせつかいは無用です。ヒツトラのナチズムが結局国を誤るでせう」
徳田秋聲「欧洲大戦を如何に見るか―日本は如何なる立場をとるべきか?」(昭和14年10月)
11-05 23:54
「㈠ 出来得べくば時々の旅行と読書。
㈡ 創作慾がほんとにむくれ上るまで筆を取らずにゐられるやうな境遇にありたい事。」
徳田秋聲「私の望み」(「婦人之友」大正6年1月)
11-05 23:41
@tonton1965 すみません、縮刷版は未確認です。
11-05 12:44
@tonton1965 (136頁)と言ってるように、彼は東京の薬学の専門学校を出た人らしく、「日本薬報」1934;9(6):8-9に「改正度量衡法註解」を寄稿した飯島友治はおそらく同一人物じゃないかしら、と。
11-05 08:34
@tonton1965 戦後の落語復興に貢献した云々としか書いていないようです。
間違っているかも知れませんが、昨夜小谷野さんのツイートを拝見してからざっと調べて大体の目星をつけたことを書いておきます。
立川談志が『現代落語論』で「落語博士といわれた飯島友治という薬屋さん」
11-05 08:33
落語研究家の飯島友治は1997年(平成9年)6月11日、98歳没(読売年鑑 1998、286頁)。生年は1898年(明治31年)11月18日。 ←間違っていたら訂正して下さい。
11-05 00:26
養子を探していた林芙美子が、娘さんが二人もいらっしゃるんですから小さい方を養女に下さい、と徳田一穂に申入れて断られたそうなんですが。。。
11-04 20:45
やっぱり『ファニーとアレクサンデル』ではカールがいちばん面白い。
この落差!
https://t.co/HAVfNxbU9f
11-04 20:27
@gomaffy105 @niina_noriko 私はタブレットを再起動したら♡に変わりました。
11-04 01:41
@niina_noriko 日付が変わってからこんな感じになってます。
https://t.co/KZ9zApzFpu
11-04 01:25
「一、人種的偏見
一、富裕――貧乏
一、死刑、売淫
一、軍備」
徳田秋聲「世界からなくしたいもの」(「婦人之友」昭和8年1月)
11-04 01:21
百々子(三女、大正7年12月22日生・猪口冨士雄と婚姻・平成15年9月歿・年84※※※)。
※野口冨士男によれば、明治36年7月生。※※歿年未確認。※※※徳田秋聲全集第33巻月報に「九月の末」に逝去とあります。
※※徳田秋聲記念館展示によれば、襄二の歿年は昭和49年。
*のちに雅彦の歿年は平成14年(2002年)が正しいと判明(2021年12月24日付ツイート参照)。
11-04 00:55
喜代(次女、明治44年3月25日生・寺崎浩と婚姻・平成18年10月8日歿・年96)、三作(三男、大正2年2月5日生・昭和6年5月31日カリエスにて歿・年16)、雅彦(四男、大正4年3月23日生・岩永敏江と婚姻・平成13年平成14年3月24日歿・年87*)、
11-04 00:52
秋聲の子女の生歿年は下記の通りです。
一穂(長男。明治37年3月20日生※・池尻政子と婚姻・昭和56年7月2日歿・年77)、瑞子(長女、明治38年12月10日生・大正5年7月17日疫痢にて歿・年12)、襄二(次男、明治41年9月20日生・松橋リウと婚姻※※)、
11-04 00:51
「子供の名前は何の意味もありません。多少姓に聯絡をもたせたまでです。一穂、瑞子、襄二、喜代、三作、雅彦、百子ですが、この雅彦だけは友人が姓名判断から命名したものです。(中略)その友人の話によると私のつけた名は皆ないけないさうです」
徳田秋聲「愛児命名録」(「婦人公論」大14.6)
11-03 22:58
「妙な習慣で困るのですが、私の寝床へ入るのは大抵朝方です。夜中に読書や執筆を初めるものですから、ついさうなつてしまふんです。早く寝に就いても矢張り眠れないのです。」
徳田秋聲「私の睡眠時間」(「実業之日本」昭和11年3月1日)
11-03 22:46
の最後に"The orderly"という訳題で入っていて、これが『大精神』の底本の可能性が高いと思います。
ついでに言うと『夜叉』の訳文について「トヾの終局(つまり)」のような書き方を秋聲はしません」と書いたことを私は忘れたわけではありません。『大精神』にも似た用字がありますね。
11-03 00:12
アラルコンの"El Asistente"の英訳は、
―Moors and christians, and other tales. From the Spanish by Mary J. Serrano. N.Y. [c 1891]
https://t.co/6I0XRZnbwy
11-02 23:15
ブレスター、ジヨン葡萄牙のドン、セバステヤン、その他物故した諸名士達を品評して居つたのであつたが、どんな道筋を通つて転じたのやら、いつの間にか犬、猿、ポツテントツト人、それからトヾのつまり、伝令の談に移つて了つたのである。」
11-01 22:27
す(添付画像参照)。Historietas nacionales (1881) が初版のようですが未確認。29頁上段の「秋聲訳」は次の通りです。
「自分たちは、多くの人物、その内にライヒスタツトの公爵、ルイ十七世、法王ジヨアン、
https://t.co/UADDXLsr4Y
11-01 22:19
徳田秋聲の翻訳『大精神』(「日本」明治39年4月)は、全集第26巻解題に作者名のみで原題が明記されていませんが、スペイン語原題は Pedro Antonio de Alarcón "El Asistente"(Novelas cortas escogidas, 1905 所収)で
11-01 21:53
徳田秋声 肉筆短冊。
https://t.co/yI2sCaJjNy
これも筆蹟が違います。
11-01 02:11
徳田秋声 短冊。
https://t.co/k5tZGbooc5
贋物。
11-01 02:06
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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