上記から昭和4年、文壇でほとんど失業状態だった秋聲が趣味講座のラジオに出ていたことがわかります。
06-19 15:23
「趣味講座の放送に於ける、徳田秋聲なんぞの言葉の一端は、我々川柳家の側からは非常に聞き苦しかつた。曰く我々はパンに追はれてゐますから、充分な物を発表して居ません。とは又情けない事を言つたものではないか」
「波紋」(「川柳きやり」昭和4年4月)
https://t.co/F6RiUZPw22
06-19 15:23
徳田秋聲『焔』には三島霜川の代作説が存在します(「小説代作調べ」明治43年3月)。また、相馬御風は書評「秋聲の『焔』」(「早稲田文学」明治41年3月)の末尾で、
「『焔』の事実があまりにハウプトマンの『孤独なる人々』に似過ぎては居りはせぬか」
とも指摘しています。
https://t.co/ykkXK4pdk4
06-19 14:50
もし『焔』の紙面に半古の挿絵がないとすれば、読売新聞の『雲のゆくへ』のことかも知れませんね。
06-19 13:32
こともあったようですが、前掲「原稿料昔譚」は略々「国民」の話であり、よもや読売と取り違えることはないのではと思いました。
しかし『焔』の連載紙面に梶田半古の挿絵があったかどうかも、すぐには調べられないことなので、今のところ明治40年頃とすればそうだとしか言えないのですが。
06-19 13:31
https://t.co/W4RIc81Rba
田口杏村、本名:聖炯(1879-1965)は明治30年に国民新聞社に入社し、それから
「十四五年の間に再三再四『国民新聞』に入り、再三再四『国民新聞』を逐はれた。出入頻繁を極めた」
『松風草紙』(田口杏村、昭和13年)
https://t.co/gSbDryrjpG
とあり、報知新聞社に居た
06-19 13:31
森鷗外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』 (明治42年7月)の1、2年前に「国民新聞」連載といえば『焔』(明治40年3月~8月)しかないですね。
06-19 11:03
連載した小説は、尾崎紅葉閲『三つ巴』(明治30年6月~7月、挿絵なし)です。おそらく杏村はこの小説を知らなかったでしょう。
連載中に梶田半古の挿絵がほぼ毎回掲載された秋聲作品は『雲のゆくへ』(明治33年8月~11月)や『後の恋』(明治34年10月~12月)ですが「読売新聞」だし、
06-19 11:02
〈「国民」が始めて徳田秋聲氏の小説を掲出した時、特に大奮発で梶田半古氏の挿画を入れたが、半古氏の挿画一枚に対し二円づゝの揮毫料を呈したのは、当時にあつては全く破天荒の試であつた〉
田口杏村「原稿料昔譚」(「愛書趣味」昭和3年2月)
https://t.co/rPUnzYI1Zh
徳田秋聲が初めて「国民」に
06-19 11:01
堪へられなかつたのだ。
平林初之輔「プロレタリア文学運動の理論的及び実践的展開の過程」(『日本社会主義運動史』改造社、昭和3年2月)
https://t.co/cajBnCgAwP
06-19 11:01
〈かへつて煩悶の状態そのものが私にはなつかしまれた。正宗白鳥の「泥人形」や徳田秋聲の「黴」や、チエーホフの「桜の園」などを愛読してゐた私には、暗さ、憂欝、不決断、さういつた種類の気持ちが最も自然な気持ちであつて、その心境を乱されることは、たとひそれが明るい方面への転換であつても、
06-19 11:00
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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