ここで言われている「時好」は、三越が出していた広告雑誌で、お得意さんの家へ無料で送っていたものを貰ってきて小説を書く際の参考にしたのだとか。
そういうこともあったのでしょうが、秋聲はおしゃれで自分の着る和服にうるさく、よく目が利き、娘達に買う反物も秋聲が選んだものは良く似合った
03-30 23:58
「丸谷 昔の小説家は着物のことくわしく書きましたからね。読者がそれみんなわかったのかと思うくらい。
「里見 わからないのが多いだろうねえ。だけど、ほんとに書いたね。
「丸谷 しかし『時好』で調べるのはいい手ですね。安上がりで。」
ここで言われている「時好」は、三越が出していた広
03-30 23:44
上の例はまだ分かりやすいですが、辞書を引いてああそうかと納得することも少なくありません。
昔の人は、日常見慣れている着物であればどんなに事細かに書かれても判ったのでしょうか。例えば里見弴と丸谷才一の対談には次のような一節があります。(「いろんなことするから人生」昭和52年5月)
03-30 23:39
③のお霜は「帯が木綿更紗」「単衣ものが褪げちよろ」「洗晒しの中形の裾」などとも書かれています。
①は女学生の服装ですよね。②は大店の後妻、③は素人じゃあるまい達磨かと噂されている女ですが、私などは、潰島田と聞いて、ああだから陰口を叩かれているのかと気付くまでに少し間が掛かります。
03-30 23:29
秋聲の小説には和服や日本髪の描写がたくさん出て来ます。たとえば、
①立現れたのは、束髪の美人で、宛然東京式の蝦茶式部であつた(『薄るゝ心』)
②仇な半襟に銘仙の袷の黒い襟を脱衣紋に、細くない糸織の袷羽織を着て(『我が身』)
③方角違いに避けたお霜と云ふ潰島田の女は(『みち芝』)
03-30 23:28
@syuuigusou 文庫本は、単行本よりも多めにルビを振る傾向があるため、どうしても版面がゴテゴテと汚くなる傾向があります。古井さんの本はごく最小限のルビしか振らないので見た目にも美しいですよね。
03-30 21:01
序文を寄せています。善麿の序文に新聞社の同僚のO君とあるのは小野敏夫でしょう。
以上を纏めますと、
M―:碧川企救男(三木露風の義父)
O―:小野敏夫
D―:土岐善麿(土を「ど」と音読か?)
A―新聞:東京朝日新聞
03-30 02:49
@kameiasami 調査したところ、どうやら大正13年4月に「東京朝日新聞」学芸部長に昇格したばかりの土岐善麿(哀果)と思われます。善麿が社会部記者から学芸課長就任したのは大正12年10月です。善麿は秋聲、久米正雄、菊池寛らとともに大正14年3月聚芳閣発行の『流るゝまゝに』へ
03-30 02:30
@tonton1965 そうですね。ただ「順子が秋聲をたよる気になったのは(中略)三木露風という紹介者が得られたから」と野口『徳田秋聲の文学』にあり(『白木蓮の咲く頃』ではその義父。秋聲の友人の義父の伝手を頼ったということでしょうか)『馬込文士村』の件もあるので、ややこしいです。
03-29 23:25
紹介状を持ち、原稿『水は溢るる』(後の『流るるままに』)を携えて夫とともに訪ねてくる。才吉の友人が善麿の同僚であった」と書かれています。そうなるとD―は土岐善麿になりますね。
でも私は『白木蓮の咲く頃』を読む限り紹介状は露風の義父碧川企救男のもの、O―は小野敏夫と思っています。
03-29 22:37
@tonton1965 明治10年生まれの碧川企救男は大正13年には47歳なんですよね。作品には露風の義父で40歳そこそことあるので、若く見えたのかもしれませんが、Mのイニシャルを素直に解釈すれば、そうなると思います。
但し、徳田秋聲全集の年譜には、「東京朝日新聞にいた土岐善麿の
03-29 22:25
増川才吉とは東大法科で一緒だった。小樽で増川と暮らしていた順子が、自伝小説『流るるままに』を持って上京した時、最初に小野に頼ったのは、そういう関係による」と書いているので、時事新報で榊山と同僚だった小野敏夫でしょう。 D―はその文藝部の人、ということで、
03-29 13:20
@tonton1965 なるほど、大正10年に「阿武隈心中」を初演したと久米正雄伝にお書きになってましたね。池内氏をI氏とすればわかりやすいです。有難うございます。
Oは榊山潤が「馬込文士村」(昭和45年12月、東都書房)に「政治部に小野敏夫という記者がいた。山田順子が結婚した
03-29 13:05
@tonton1965 ありがとうございます。秋聲は尾崎紅葉を「M先生」(←モミジ)と読んだりするのですが、実際に松竹がマツタケと呼ばれていたとは存じませんでした。
あと、俳優の池内氏(舞台人。映画俳優、震災後蒲田に移住、一座の主脳)と言う人物が出て来ますが、この人は判りません。
03-29 11:40
M―会社:松竹キネマ株式会社(→松を訓読み)
KY―所長:城戸四郎。大正13年8月に蒲田から下加茂撮影所へ移った野村芳亭にかわり所長に就任
有名な男優のM―:諸口十九(たぶん)
女優のS―嬢:五月信子(黄金地獄に出演しているので)
03-29 11:15
出演:新井淳、飯田蝶子、小藤田正一。)
という作品で、東京国立近代美術館フィルムセンターに現存するようです。I―監督はもちろん池田義信で、ほかにイニシャルで書かれた人名等を紹介すると、
K―:久米正雄
KI―:菊池寛
最近出版事業を初(ママ)めた若い友人のK、A:足立欽一
03-29 11:11
ストトン節の映画を撮ったと書かれています。 ネットで調べたことを纏めると、小唄集 第二篇 ストトン(無声映画。大正13年10月1日公開。二村定一が歌って大ヒットした流行歌の歌詞に沿って物語が展開。女房がありながら洋食屋の若い女に入れ込んだ男の悲哀を描く。監督・脚本:池田義信。
03-29 11:05
の文學』)と指摘するにとどめておくのが無難でしょう。
もちろんこれはあくまで小説なわけで、現実そのままと見做すのは誤りですが、野口冨士男の指摘するように、秋聲がいかにも無造作な作家で、その私小説の多くがきわめて事実に忠実なことは認めてよいと思います。 この作品には、I―監督が
03-29 11:03
小説発表の昭和2年から振返った際に訪問時期の記憶が少々曖昧になっていたのではないかと思いますが、確証は得られないので、時期については野口冨士男のように「秋、破産した夫や子供と再上京。田端に一戸を構えて映画女優を志願し、秋聲に紹介された久米正雄と撮影所に同行したが断念」(『德田秋聲
03-29 10:57
監督・脚本:小澤得二。主演:岩田祐吉・五月信子)の撮影風景を見学したことが書かれていることです。1924年10月~12月の東京の平均気温は現在よりも低いですが、「黄金地獄」撮影中に「銀杏が較々黄ばみかけ」ていたというのは少々無理があるようです。秋聲が作品名を取り違えた可能性は低く
03-29 10:29
@kameiasami りかもしれません。秋聲らが蒲田を訪れた日は、「街路樹の銀杏が較々黄ばみかけて、初冬らしい日差しが、ペーブメントの上にこぼれてゐた」とあるので、11月上~中旬頃の感じがしますが、辻褄が合わないのは、その日「黄金地獄」(無声映画。大正13年10月30日公開。
03-29 10:14
@tonton1965 三木露風(本名:三木操)と思います。
03-27 00:59
蒲田撮影所の久米を訪問したのは、八木書店の徳田秋聲年譜によれば、大正13年11月末~12月初め頃。秋聲の私小説(『白木蓮の咲く頃』)では、撮影所の係の人が「先生今日はお珍しいですな。偶にはどうか入らして下さいよ」と言ってるので就任したての雰囲気じゃないし、もうちょっと前、中秋あた
03-27 00:51
女優、松井千枝子。大正14年、「師事していた松山省三や久米正雄に勧められて同年2月に松竹蒲田撮影所へ潤子と共に移り、芸名を『松井千枝子』とする」(Wikipedia「松井千枝子」2014年3月27日0時閲覧)。久米は大正13年末?から松竹蒲田撮影所の顧問ですからね。山田順子が
03-27 00:49
@ISOGAI_1 今日は室生犀星の命日ですね。昭和37年(1962年)3月26日没。
03-26 23:16
@tonton1965 独墺系のクラシック音楽が好きで、ドイツ語は比較的読む機会が多いです。写真は、極度に肥満していた頃のシュティフターと、トンマーゾ・ランドルフィ「ゴーゴリの妻」の一節。
http://t.co/IktHLAHuuN
03-26 22:47
上げていることも多々ありますね。誰それは実はこんな異常な人物だった、といったセンセーショナルな伝記研究が発表されると、特にそれが性的な嗜好であったりすると、ろくに検証もされずに既成事実であるかのように扱われてしまう傾向があります。それで結局は虚像が蔓延することになります。
03-26 01:16
ドイツ語の文章を最近よく見かけます。芸術家の伝記におけるこうした異常性の指摘は、権威に対する暴露趣味という面は確かにありますが、一方で天才と狂気とか、芸術的創造と精神異常といった古めかしいロマン的な幻想が根にあって、些細な伝記的発見を針小棒大に解釈し、異常な芸術家という虚像を作り
03-26 01:09
のも今は昔で、金銭欲が強く、度を超えた大食漢にして大酒飲み、喰っては飲み喰っては飲みで太りかえった自制心の無い人物でそりゃ肝臓も悪くなるでしょう、好きになった女性には手紙攻めでストーカーまがい、情緒不安定で変わった性癖も持合わせていたらしい、といったことなどを面白おかしく暴露した
03-25 19:29
いたのだ、という作り話が小説に書かれたりして、ほんとにそんなことまでしていそうな変態、ということになっているようです。それから、古井由吉の敬愛するアーダルベルト・シュティフターも私の好きな作家ですが、近年祖国ではさんざんな言われようで、手塚富雄が「極度の自制と克己の詩人」と評した
03-25 19:07
この人は存命時から変人扱いはされていましたが、ドストエフスキーらが崇拝し、ソ連時代には社会主義リアリズム文学の祖にして人道主義者として尊敬されていたのに、サイモン・カーリンスキーというゲイの批評家が同性愛者だと言い出したころから雲行きが怪しくなって、実はゴムで出来た等身大の妻が
03-25 18:57
小説家は死後大半が忘れ去られ、批評家は殆どが死ぬと同時に消えてなくなる運命にありますが、忘れられずに残った作家たちも研究の名目で伝記的事実を洗いざらい調べ上げられ、運が悪ければ変質者、異常者ということにされてしまうことが多々あります。 例えば私の大好きな作家のゴーゴリですが、
03-25 18:43
一方、非凡閣版(臨川書店版)の全集は、一の字点、二の字点、くの字点などの踊り字が全て相当する文字に置き換えられているので、引用の際には使いづらいです。研究論文で非凡閣版の本文をそのまま引くのは良くないでしょうね。
03-25 12:12
ついでに一言。八木書店版全集所収の『宇治の一日』では、「中書島(ちゅうしょじま)」がすべて「中青島」になっています。これは新版全集の誤植ですね。ほかの巻でも、この全集は「裹」が「裏」に誤植されている例がきわめて多いです。総ルビの作品の場合は、誤植への注意が特に必要です。
03-25 12:11
「汨」は別の文字で「ベキ」と読むのですが、「汨水」という川の名前のようですし、「泪(=涙)」には「早く流れるさま」の意味はありますが、仮に「泪々」と作るにしても「ルイルイ」としか読みません。 ちなみに原文は「泪々として川幅一杯に碧く流れてゐる早い水勢も比較的荒くて好かつた」です。
03-25 12:09
徳田秋聲『宇治の一日』(「中央公論」大正10年7月)にある「泪々(べきべき)」は「汩々(こつこつ)」の誤植(または誤用)では? 語呂は「べきべき」のほうがいいんですけどね、語義がちょっと。以前からずっと気になってます。
03-25 06:09
@tonton1965 それでは、とりあえずブログには名字の「亀井」だけ載せる、というのではいかがでしょう? 名前は「麻美」ですが、同姓同名の方もいらっしゃるので。私は、「フォロワーの方」とかでもいいとは思うんですけど……
03-25 00:34
@tonton1965 そうですね。こちらは、私が取り溜めているノートにコメントを付けて読んで貰おうという趣旨なんです。前後関係を説明しようとするとどうしても引用が長くなりますね。
03-24 21:26
@tonton1965 ブログは文章をまとめないといけないので、面倒なんです。
03-24 20:22
この会話では「お天道まかせ」の意味で使われていますね。明治の東京言葉ではこういう使われ方したんでしょうか。
03-24 20:14
でなく溝浚(どぶさらい)さ、とまくし立て、「喰べたり喰べなかつたり、丸でお今日様のやうな風さね。」それに較べたらあんたはましよ、と慰める。秋聲はこういう伝法肌の雰囲気の会話が上手いですね。
ところで、「お今日様」という言葉、私は実際に聞いた事はありません。お天道様の意味ですが、
03-24 20:14
いらにあるんだか、余程(よつぽど)気をつけて見なくちや、見着(めつか)らない位でせう。此子なんか、ざらの子供とは、些(ちつ)たあ子柄が違ふんだね。」と赤ん坊を褒め、横町の建具屋の裏の後家さんは亭主に死なれて苦労している、子が六人いるが姉は紡績、弟は車挽、その次は区役所勤めだが小使
03-24 20:14
やって来て、「真箇(まつたく)、こんな可愛い子は、此の近所にや有りやしませんよ。横町の頭(かしら)の子は顔中が腫物(でき)だらけだし、薪屋の子はお前さん、あんな、熊鷹みたいな目つきをして、女の癖に黒い太々(でかでか)した、何のことはない炭団に目鼻さ。車屋の子は車屋の子で、鼻が何処
03-24 20:13
た夫の実家に無心に行きすげなく断わられ、「私も、子が可愛いければこそ、那麼(あんな)奴にお叩頭(じぎ)をして、七重(なゝへ)の腰を八重に折つてまで、低く出れや好い気になつて、ちよツ糞忌々しい、余り人を見劃(みくび)つてるぢやないか。」などと父親相手に歎いていると、塩煎餅屋の女房が
03-24 20:13
徳田秋聲『我が身』(「文学界」明治37年3月)は、この時期の秋聲作品の例に漏れず結末が唐突すぎて失敗していますが、夫が監獄入りし乳飲み子をかかえ苦労しているお金、その舅、生活無能力者の兄、父親、隣の塩煎餅屋の女房らの繰広げる会話が江戸落語みたいで面白いです。たとえばお金が勘当され
03-24 20:13
@tonton1965 ありがとうございます。お役に立てて何よりです。
名前はひらがなで結構ですよ。
私は狭い範囲のことしかわかりませんが、またこれはという文章がお目に留まりましたらお声をかけてくださいませ。
03-24 12:46
したことが書かれています。もちろんS――氏は里見弴、A――氏は有島武郎ですね。「婦人雑誌」は『女性』でしょうか。秋聲の私小説では、筆が鈍るとこんなどうでもいいようなことまでいちいち書く癖があります。
03-24 01:27
さきほど話題にした『白木蓮の咲く頃』(「改造」昭和2年1月)に、秋聲と久米正雄が車中で「或る婦人雑誌に頼まれて、S――氏(流行作家)が恋愛事件で世間的にも有名であるA――氏のことを書くはづだが、S――氏の報酬の申出額が未曾有に高いので、雑誌の方で少し躊躇気味だといふ」との噂話を
03-24 01:27
@tonton1965 『間』の初出は、「大阪毎日新聞(夕刊)」(大正15年(1926)12月13日、昭和2年1月4日、5日、7日、8日、10日、11日、12日、13日、15日)に10回連載。タイトルには「ま」のルビ。以上、八木書店版全集16巻解題(田澤基久)からの引用です。
03-24 00:41
@tonton1965 八木書店版の全集16巻を詳しく調べていて、イニシャルの人物の同定なんかをしているうちに気付いたことです。同巻の『白木蓮の咲く頃』には、蒲田の松竹キネマ撮影所顧問時代の久米正雄が顔パスで撮影所に入る様子がえがかれていますね。
03-24 00:10
@tonton1965 少なくとも私は、指摘した文章は存じません。
03-23 23:29
『危機』(明治39年10月。高橋山風による代作か)をはじめ代作・翻案(『里の女』のモーパッサンなど)を少なからず含む、秋聲らしいとも言える雑然とした本ですね。八木書店版全集別巻の著作目録では、『老骨』(明治39年7月)を「代作か」としていますが、私は翻案と思っています。
03-23 18:24
@ISOGAI_1 徳田秋聲の『秋聲叢書』(博文館、明治44年2月)は、『秋聲集』(明治41年)『出産』『新世帯』(同42年)によって自然主義作家として世に認められ出した秋聲の硯友社時代の作品を後出しで纏めたような作品集ですが、夙に山本健吉が「読んでゐて臭いと感じた」と看破した
03-23 18:20
@ISOGAI_1 秋聲名義で初めて活字になった作品(雑文を除く)で現存するのは『厄払ひ』(明治29年7月「文芸倶楽部」第2巻第9編)です。『藪かうじ』は同年8月「文芸倶楽部」第2巻第10編発表です。それ以前のものでは、啣月楼主人名義の『ふゞき』(明治26年1~3月)があります。
03-22 23:12
必須の資格であると思ふ。」
以上は八木書店「近松秋江全集」の「新編 文壇無駄話」からの引用ですが、秋江は折に触れて秋聲作品に言及していて、その賞翫力には納得させられることが多いですね。秋江の言う「語彙の豊富」と的確さも、秋聲作品を読む際には常々感じることです。
03-22 12:12
はほんの手ほどきくらゐ』といふ言葉には、妙にくどいやうな、重苦しいやうな、野暮ツたい感じがあつて、殊に此の場合にふさはしくないが、『糸道が少しばかりあいてゐたきり』と云へば、言葉がきれいで、而して情趣がある。かういふ言葉を沢山知つてゐるといふ事、即ち語彙の豊富といふ事は、文章家の
03-22 11:58
旅にも携へて、暇がある毎に読んで、読む毎に得るところがあるのを感じた。私は今度『葛城大夫』といふ小説を書いたが、(中略)私が、『三味線はほんの手ほどきくらゐで』とかいたところを、秋声氏は『糸道が少しばかりあいてゐたきりで』と書いてゐる。これを読んで、私は是ある哉と思つた、『三味線
03-22 11:58
糸道が明いてゐるのだからといつて、三味線も教へてくれた」という文章があり、『奔流』の冒頭でも使っています。この言葉について近松秋江は「苦茗を啜つて文章を論ず」(「新潮」大正5年8月)で次のように書いています。
「私は深く秋声氏の文章に私淑してゐる。秋声氏の『奔流』などは、京阪の
03-22 11:57
「糸道があく」という言葉があります。「糸道」は「大辞林 第三版」によれば「いつも琴・三味線などを弾く爪に弦がすれてできたへこみ」という語義があり、「―があく」で「一人前に三味線・琴などが弾けるようになる」(「デジタル大辞泉」)の意になります。秋聲作品では、『足迹』三十三に「少しは
03-22 11:57
一般向きな岡野などのことも書きたいが、藤村のカステラが一種特別な製法であること、岡野が最中で有名なことぐらゐにしておかう」と『大学界隈』にあります。「鯨餅」は主に日本海側各所に見られる郷土菓子ですが、秋聲が言ってるのは鯨の表皮を昆布で作る金沢のものですね。
03-21 19:08
藤村のカステラが好きなのもそのためである。(中略)鯨餅や蓮羊羹などを見ると、つい意地きたなく手が出てしまふのである。蓮羊羹もお茶人向きな郷里の菓子で、風味絶佳な珍菓だと思ふ。」と書いています。「藤村」というのは高級菓子店で、「前田邸前の羊羹で有名な藤村や、少し格は下がるだらうが、
03-21 18:49
「大きな褄楊枝で草色をした牛皮を食べてゐると」(徳田秋声『挿話』一)
この「牛皮(ぎゅうひ)」は、求肥とも書き、餅菓子の一種です。辞書には「求肥糖、求肥飴ともいう」とあります。秋聲はこの菓子が好きで、『大学界隈』に「自分は一体に牛皮のやうな餅気のものが好きなのである。
03-21 18:48
RT @foujika: 古書展にて『新小説』明治36年5月号を手にとり、口絵の道頓堀の写真を見て、明治34年末の大阪行きを綴った徳田秋声の『西の旅』をまざまざと思い出して、ふらっと買った。明治35年1月、紅葉と金尾文淵堂主人の3人で道頓堀を歩いた秋声。田村千歳によるルポルタージュ「滑稽の大坂」が嬉しい。
03-21 18:47
先日引用した、『二老婆』読了後の感想(前田木城・吉江孤雁「茅ケ崎時代」明治41年8月。学習研究社『定本 国木田独歩全集(増訂版)』第10巻所収)から来ているんでしょうね。白鳥はきっと昔読んだか聞いたのを覚えてたんでしょう。
03-20 22:59
「当時の自然主義作家の作品は、陰気でじめじめしてゐるのが多かつたが、秋聲のも大体鬱陶しいものであつた。独歩は茅ヶ崎の病院で、『僕等病人は、秋聲君の小説のやうな陰気なものは読む気になれない。』と云つていたが、」(正宗白鳥『自然主義文学盛衰史』)
ここで白鳥が引いている独歩の発言は、
03-20 22:45
RT @foujika: →宮戸座の源之助。電気館のアゴなしの木戸番。珍世界の真っ赤な服を着て太鼓を叩いていた猿の人形。十二階。松井源水。常陸山、梅ヶ谷、荒岩、駒ヶ岳、太刀山。旅順口陥落。旗行列。交番焼打。露営の夢。吉原の大火。竹屋の渡し。割下水。
03-20 18:46
RT @foujika: 久保田万太郎が『東京の子供たち』(「改造」昭和10年12月)で、明治41年に東京の下町の中学を卒業した同級生たちが《くんでもつきないうまざけに酔い痴れる》ようにする昔話として挙げている事項をメモ:常盤木倶楽部の落語研究会。円喬、円右、小さん。東京座でやった芝翫の「乳姉妹」。→
03-20 18:46
@ISOGAI_1 > 誰かの評にあったような記憶があるが、徳田秋聲の短篇はたしかに読み手を沈ませる
というのはもしかしてこの評でしょうか。
「德田秋聲君の『二老婆』は實によく書いてある、併し矢張り沈鬱で讀むに耐へない。吾々病院に入つて居るものには殊に其の感が深い」(國木田獨歩)
03-20 00:56
>>Wie diese Rosen abgeblüht sind, so ist unser Glück abgeblüht<<
>>Es ist nicht abgeblüht, es hat nur eine andere Gestalt.<<
-Der Nachsommer
03-20 00:12
「さうなのよ。私あすこで芸者に叩きあげられたんですの」という会話があります。一目でそれと見抜くのもすごいですが、では人形町の芸妓の雰囲気って何?とまた疑問がわいてきます。
03-19 21:42
判る、と言うことですから、当時の霊岸島の色町とはそういう雰囲気の土地柄だったのかな?と何となくイメージが湧くような気がします。
ところで『一つの好み』(「中央公論」昭和9年4月)には、白山で働く芸者正子(小林政子)との間で「この土地の気分ぢやないな。人形町あたりの人のやうだ」
03-19 21:41
船旅に出ています。
さて蒟蒻島の芸妓は「新川芸者」とも呼ばれていましたが、『間』に登場する芸者は、いかにもそれらしい、「古い江戸気分の」「どこか堅気な家のお神さんのような女」であり、古い芝居や役者の話ばかりし、「この女達の世界がまるで今の世のなかと懸離れたものである」ことがよく
03-19 21:41
中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった」とあります。秋聲の短篇『夜行船』(「新潮」明治39年9月)は、霊岸島を出て房州に至る航路上での出来事を題材にしていますし、明治43年の『十日過ぎ』(「中央公論」)でもここから
03-19 21:40
@kameiasami した土地で、正しくは霊岸島ですが、地盤が軟弱なため俗にそのように呼ばれていました。後に新川が開削され、水運の便もあって江戸後期には酒問屋が軒を連ね左岸には芸者町が広がりました。「江戸港発祥跡」碑には、「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸港を築港してより、水運の
03-19 21:39
@ISOGAI_1 そういうかたは結構いらっしゃるようですね。吉田秀和も同じようなこと言ってます。宇野浩二などは逆のタイプで、彼の書斎には非凡閣の秋聲全集が背面にきっちりと並べられていたそうです。私も後者のタイプです。
03-19 21:18
@ISOGAI_1 第13巻から図版・解説を除いたもの、18巻は雪華社版第12巻の「光を追うて」に「灰皿(249~260頁に錯簡があります)」「解説・作品年表」(徳田一穂)「年譜」(吉田精一、『現代日本文学館8 徳田秋声』文藝春秋、昭和44年からの流用)を加えたものです。
03-18 20:19
@ISOGAI_1 寄せ集めは⑥のみで、他はオリジナル編集です。⑥臨川版の内訳は、第1~14巻は非凡閣版の原装復刻、15巻は非凡閣版別巻から著作目録・自筆年譜を除いたもの、16巻は雪華社版第2巻から図版・解説(吉田精一)・「三篇の校閲」(徳田一穂)を除いたもの、17巻は雪華社版
03-18 20:19
@ISOGAI_1 2,4,7巻中絶、⑤「秋聲全集」雪華社、昭和36~39年、2,4,5,7,12,13巻中絶、⑥「秋聲全集」臨川書店、昭和49年、復刻版平成元~3年、全18巻、⑦「徳田秋聲全集」八木書店、平成9~18年、全42巻別巻1、の7種あります。このうち既存全集の復刻の
03-18 20:19
@ISOGAI_1 秋聲の全集・選集は、①「秋聲傑作集」新潮社、大正9~10年、1,2巻中絶、②「秋聲全集」非凡閣、昭和11~12年、全14巻別巻1、③「徳田秋聲選集」文藝春秋新社、昭和23~24年、1,2,3,7,11巻中絶、④「徳田秋聲選集」乾元社、昭和27~28年、
03-18 20:18
RT @foujika: 久保田万太郎の戯曲『弥太五郎源七』(昭和4年9月)を精読。気になった言葉を大辞林で引くと、そのたびに例文に興味津々。たとえば、「とっこに取る」は一葉『にごりえ』、「文目も分かず」は逍遙『自由太刀余波鋭鋒』、「たじれる」は円朝『真景累ヶ淵』。明治の東京言葉の風合いがいつも大好き。
03-18 18:57
以前、波多野春房と大隅れい子のことが書かれている徳田秋聲の短篇『間(ま)』(大正15年12月)を引用したことがありますが、この小説に「古い江戸気分の、先づ蒟蒻島あたりでも見るやうな、色合の燻んだ年増」というのが登場します。蒟蒻島というのは江戸初期に亀島川周辺の低湿地を埋立てて造成
03-18 01:19
@tonton1965 そうです。関東では今でも使われているのでしょうか。
03-17 23:05
@kameiasami 「古谷野敦」ではなく「小谷野敦」です。お詫びして訂正します。
03-17 22:57
二葉亭四迷の『平凡』は高校生の時に岩波文庫で読みましたが、判らない言葉は素通りしていたようです。
03-17 22:40
ているのは大正6年『新小説』第22年第10号に発表した『不安な男』。家族で伊香保に避暑に訪れた折のことを書いた私小説です。学校の先生を自称する同宿の男が急に姿を消した。宿では「けれど何を言ふか解りません。いづれちやらぽこでせう」と噂されますが、ある日ひょっこり戻ってきたという話。
03-17 22:32
人のことだそうです。「ちやらぽこ」は膝栗毛から、「ちゃらっぽこ」は二葉亭四迷の『平凡』から「好い加減な―を真に受けて」が例文に挙げられているので、古い言葉なのでしょう。古谷野敦『里見弴伝』には、「ちゃらッぽこ」が「トン語」の一つとして挙げられています。秋聲の作品でこの言葉が使われ
03-17 22:30
徳田秋聲の通俗小説『妹思い』の「こつきらこ」の語意が判らなかったという話を前にしましたが、別の短篇で「ちやらぽこ」というのが出て来て、これも初めて聞く言葉でした。「大辞林 第三版」を引くと、「ちゃら」が出鱈目の意で、それに「ぽこ」あるいは「っぽこ」を付けて、出鱈目またはそれを言う
03-17 22:29
である。」
なおこの小説にはコロンバンのこともちょっと出てくるので引いておきます。昭和6年の話です。
「先生(秋聲)が帰ってき、丹前の合せ目をひっぱりながら、
『コロンバンに行って定食でも喰おうね。』
『あすこの定食値段の割にたっぷりしていますわ。遅番の日に時々行きます』」
03-16 19:10
「玄関へ上り、小川(川崎長太郎)は二重廻をぬぎ捨て、S先生が多年にわたり書斎兼客間に使って、今は紫檀の小さな机など床の間寄りに置いてある、天井板のくすぶった暗い座敷を横切り、うすべり敷く三尺廊下を突き当る手前で右に曲ると、濡縁つきの茶室風に仕立てた、木口もまだ新しい六畳のはなれ
03-16 19:08
しかし『二つの失敗』ではすっぽかされたのではなく秋聲が曜日を間違えていたことになっています。
秋聲の私小説を読んでいても住家の間取がどうなっているのかよく判らないのですが、『埴輪の目』には昭和6年頃の秋聲宅の様子が詳しくえがかれています。
03-16 19:03
川崎長太郎の短篇『埴輪の目』(昭和47年『海』4巻7号)に、S先生(秋聲)が「ナンバー・ワンのダンサーと会食を約束し、その時刻に料亭へ行ってみて、見事先方にすっぽかしを喰わされた」とあるのは、秋聲の『二つの失敗』(昭和6年「創造」11月号)に書かれている一つ目の失敗のことです。
03-16 19:02
RT @tonton1965: 川端康成の親族戸籍など不正請求 兵庫の弁護士処分 - 朝日新聞デジタル (http://t.co/FLMclDPN16)
http://t.co/KvpYm9MaK8
03-16 12:55
ちがひないと思ふ。ひとかどの男は、何をやつても大丈夫なのだ。
ちなみに、あの五万円は昭和三十年代初期の五万円。当時、わたしの月給は一万になるやならずであつた。
以上が該当する箇所です。このあと古井由吉『槿』谷崎賞贈呈式での祝辞が続きます。
03-16 01:14
あの五万円はいつごろの五万円なのかと訊ねた。これはわたしが長いあひだ、誰かが問題にしてくれないかと思つてゐたことだつた。この五万円をどの時代に取るかによつて、あの句の解釈が大きく変るのである。それを質問してくれた古井由吉といふ男は、国文学者になつたつて、やはり一流の存在になれたに
03-16 01:08
丸谷才一「月光浴の楽しみ」(『挨拶はむづかしい』朝日新聞社、昭和60)
これも何かのパーティの席のこと。古井由吉さんが近づいて来て、
「一つ、伺ひたいことがあるんですが……」
どうぞどうぞと応じると、
「実は……」
と言つて、前にもあげた「モンローの伝記下訳五万円」といふ句の、
03-16 01:07
@tonton1965 「月光浴の楽しみ」はtwitterに引用しておきます。もしご興味がおありでしたらご一読ください。
03-16 01:03
@tonton1965 私が読んだ文章を見つけました。ご存じかと思いますが、丸谷才一「月光浴の楽しみ」(『挨拶はむづかしい』朝日新聞社、昭60) という文章です。先日申し上げた「もしモンローの伝記を下訳するとしたら、といった話」という記憶は誤りなので撤回します。すみませんでした。
03-16 00:58
@Msowmay ありがとうございます。論文にするにはあまりに些細だけれどもずっと気になっている事柄について呟いて行こうと思っています。
03-16 00:17
@tonton1965 ご本人が、親から本当の出生年月日と戸籍との違いを聞かされていなかった場合でも、川端のように父親の手紙のような証拠のある場合もありますね。徳田一穂の場合は、戸籍の記載だと計算が合わないということで、野口冨士男が主に「黴」を元に実生年月日を推定しています。
03-15 21:38
@tonton1965 自筆年譜とか自叙伝に書いてある生年月日が、戸籍の記述と違っていますよ、ということだと思います。宙外や蘆花がそうですね。川崎長太郎や和田芳惠は未確認ですが、似たような話ではないでしょうか。
03-15 21:21
@tonton1965 例えば野口冨士男は、山田順子の自称生年月日の真偽を確かめるために秋田県本荘市役所に戸籍簿を確認し「本荘市役所の好意で順子の家族全員の生歿年月日を教示されたので(中略)筆写」しています(『德田秋聲の文學』筑摩書房)。昔は簡単に個人情報を教えてくれたんですね。
03-15 20:44
ついでに秋聲ゆかりの人の生年月日を書いておくと、川崎長太郎は明治34年11月26日生、戸籍上は12月5日生。和田芳惠は明治39年3月30日生、戸籍上は4月6日生。やっぱり出生届は遅れる傾向にあるようです(蘆花は逆ですが)。
03-15 19:53
徳富蘆花も「明治文学全集」42巻の稲村徹元編の年譜によると、明治元年10月25日、熊本県葦北郡水俣(古くは水俟)に生まれた。――後年、自らもこの日を誕生の日としているが、戸籍簿の記載では10月20日となっているという、と書かれていますね。
03-15 19:32
の「誕生日」ないし「生年月日」に対する感覚は、現代人とは少し違う(場合がある)のかも知れません。慶応生まれの後藤宙外などは、戸籍上では慶応2年12月22日生、明治19年に覚書として書いた自叙略伝では同24日、昭和11年にさる受賞をした際の履歴書には同23日、という適当さです。
03-15 19:15
徳田一穂(旧仮名遣で「かずほ」ですが実際は「かずお」と読んだんでしょうね)の生年月日は、野口冨士男の『徳田秋聲傳』によれば明治36年7月とほぼ断定されていますが、出生届の記載は明治37年(1904年)3月20日だそうです。最近話題になった大西巨人に限らず、明治大正以前に生まれた人
03-15 19:05
この「古賀液」ですが、有島武郎の妻・安子の結核治療のため大正4年7月頃から使用され、一時は効果が現れたかに見えましたが、病状が再び悪化したため翌年3月に17回目で投与を中止したとか。有島武郎『小さき者へ』(「新潮」大正7年1月)では、不注意な投与で人が死んだ話が語られています。
03-15 17:10
徳田秋聲『穴』(大正7年)に古賀液(こがえき)という薬品名が出てくるので調べたところ、古賀玄三郎(1879-1920)が結核新治療剤として世に出した「チアノクプロール」のことだそうです。登場人物のけい子はこれを注射して貰うため入退院を繰返しますが効果はなく、精神を病んでいきます。
03-15 14:04
ない真作で、しかも『四十女』『大祭日』『日向ぼっこ』『晩酌』は名作と言ってよく、その筆力に驚かされます。次月発表の『雨みち』(『新文林』)も私の好きな作品です。初読の時「私は多少(いくらか)枝漏(えもり)のする番傘を差して」の枝漏という表現が綺麗だなと妙に感心した覚えがあります。
03-14 23:39
いますが、『牧師』(『女子文壇』)は恐らく翻案、『自滅』(『日本及日本人』)は代作でしょう。とくに『自滅』の文章は生硬な観念語や詠歎調が目立ち、この時期の秋聲とは異質ですし、姉の流産した胎児を袋に詰めて弟が処分する場面なども秋聲らしくないグロテスクさです。しかしそれ以外はまぎれも
03-14 23:38
秋聲は明治42年1月1日付で『四十女』『或る日』『自滅』『大祭日』『日向ぼっこ』『晩酌』『牧師』『餌』『鶏』の9編、同3日に『ふる年』の計10篇の短篇を発表しています。このうち『餌』(『活動之友』)と『鶏』(『新小説』)は代作で、後者は中村武羅夫(泣花)の作であることが知られて
03-14 23:38
私の机の横の書棚。ほとんど徳田秋聲ばかりです。
http://t.co/4CeLOU4AI9
03-14 00:35
RT @foujika: ちくま学芸文庫の新刊、ユーリー・ボリソフ著/宮澤淳一訳『リヒテルは語る』をふらりと立ち読みしたとたん夢中、そのまま会計に直行。音楽とそこから連想する文学、美術、建築、映画…等々、リヒテルの「意識の流れ」が文章化しているさまは美しい散文詩のような、いや音楽そのもののような心地よさ。
03-13 23:03
@tonton1965 過分なお言葉を頂いて恐縮です。 私は国文学専攻ですがまだまだ勉強不足です。 どうぞよろしくお願いします。
03-13 23:02
@Harrisaya 白鳥の全著作中の第一作目と勘違いしてしまいました。ハリス綾さんが「本格的に戯曲執筆に手を染めはじめたのは大正13年の『影法師』から」と仰っているとおりです。先ず年譜か全集を確認してTwitterに書き込むべきでしたね。誤りを指摘して下さって有難うございます。
03-13 20:59
@Harrisaya 阿部由香子氏の文章を再確認したところ、「白鳥の戯曲執筆集中期が始まった大正十三年の第一作目『影法師』を取り上げた『第十回新潮合評会 二月の創作」(『新潮』大正13年3月)では冒頭から出席者が口々に「分からない」を連発している。」と書かれています。私はこれを
03-13 20:59
@Harrisaya ご指摘ありがとうございます。阿部先生の文章では、震災後の第一作というニュアンスだったと思います。手許に月報がないので帰ったら確認します。このあたりの事情については阿部先生の「大正十三年の正宗白鳥」 https://t.co/gtMZQS4i03 が詳しいです。
03-13 14:15
@tonton1965 川端の評論を確認したかったのですが、新潮社の川端全集第29巻に「恐るべし天才白鳥」の標題で収録されている当該評論は、図書館貸出中で確認出来ませんでした。いずれ別の図書館にでも当たってみます。
03-13 14:06
@tonton1965 ご教示ありがとうございます。『川端康成伝』の151頁に「川端は、帝国ホテル演芸場で新劇協会が上演した劇を観に行って、正宗白鳥の『人生の幸福』に衝撃を受け、『恐るべき天才白鳥』を書いている。しかし川端は、生涯、戯曲は書かなかった」とありますね。
03-13 14:03
@tonton1965 『久米正雄伝』の303-304頁に、例の秋聲の皮肉や、里見弴「久米君はどんどん片をつけて行くね、面白いな」、田中純「読まないで喋舌つてやがる」が引かれていますね。久米は「世間の話を聞いてりや、そのくらゐの事は言へる。(中略)あつは、あつは」という反応です。
03-13 14:02
阿部由香子「大正十三年の白鳥戯曲と秋聲」(徳田秋聲全集月報29、八木書店)で紹介されています。そこで私は笑ってしまったのですが、その後、第十三回新潮合評会(『新潮』大正13年5月)では、出席者たちがこぞって白鳥の『人生の幸福』に否定的な評価を下す中で秋聲一人が「いいね」「面白い」
03-13 01:28
第十回新潮合評会(『新潮』大正13年3月)において正宗白鳥の戯曲第1作「影法師」が話題になったとき、読んでいないのにあれこれと批評する久米正雄に向かって、徳田秋聲が
「わからん。―久米君は讀まずにそれだけ批評するんだから、えらいねえ。」
とチクリと皮肉をお見舞いしたという話が、
03-13 01:14
『守貞漫稿』には「浴室を設け酒客を入れ余肴を折に納め夜の帰路に提灯を出す事毎度然り」 と書かれているそうです。これは平凡社の『世界大百科事典』(林達夫編集版)の「料理店」の項(竹内利美執筆)からの孫引きです。風呂を使わせる料理屋がいつ頃まで一般的だったのか調べてみようと思います。
03-13 01:04
昨夜(3月11日)は高名な批評家の方から話しかけて下さって恐縮しました。でも丸谷才一のエッセーの件は調子に乗って曖昧な記憶をお伝えしてしまったような気がします。丸谷の本は里見弴との対談が載っている『文学ときどき酒』(中公文庫)以外は殆ど手放したので、再度手に入れて調べてみます。
03-13 00:44
@tonton1965 こちらの文章は以前に拝読しています。確か丸谷才一自身がこの付句を引用して下訳の報酬について書いたエッセーがあったはずです。もしモンローの伝記を下訳するとしたら、といった話だったと記憶しています。
03-11 19:44
@tonton1965 石川淳の死後です。確か、石川淳の全集はつまらないから段ボールに詰めて売り払った、というような内容のエッセーでしたよ。
03-11 19:28
少し紹介しますと、
島ぐるみ住替る世と便來て 流火
引くに引かれぬ邯鄲の足 夷斎
モンローの傳記下譯五萬圓 才一
どさりと落ちる軒の殘雪 信
丸谷の付けが初折の裏ですが、「邯鄲の足」だから「モンロー・ウォーク」だそうで、この発想は振るってますね。大岡
03-11 19:23
石川淳対談集『夷斎座談』下(昭和52年、中央公論社)に安東次男、丸谷才一、大岡信、石川淳による「歌仙の世界」という歌仙が収められています。これを読んだ金井美恵子が「石川淳の取巻き連中」と揶揄しましたが、丸谷の「モンローの傳記」の付句でよく知られた面白い歌仙で私は気に入っています。
03-11 19:09
@kameiasami こちらの推薦文、『遊び時間2』(大和書房、昭和55年)の Ⅳ「引札一束」に収録されていました。ごめんなさい。
03-11 18:45
あつた。夕飯時に行くと、入れかはり立ちかはり、入浴客がいつも一杯であつた。」
徳田秋聲『売り買ひ』(昭和2年「女性」第11巻第2号)
03-09 13:40
すが、その間湯殿が使えなくなり、料理屋の風呂を利用していたそうです。
「融は普請中、好子にさそはれて洗湯へは一度行つたきりで、あとは方々の飲食店などで入浴してゐた。鳥屋だとか、鰻屋だとか。行きつけの山下の大きい鳥屋の風呂場は、震災後では、東京一ではないかと思はれるほど洒落たもので
03-09 13:30
徳田秋聲の『町の踊り場』(昭和8年)で、主人公が鮎を食べに料亭に入って真っ先に「風呂はあるね。」と訊ねる場面があります。現在は料理屋で風呂に入ることは殆どありませんが、この頃はまだ客に風呂へ入らせる料亭は珍しくなかったようですね。秋聲は妻の死後しばらくしてから家の増築を始めるので
03-09 13:29
しかし「紫陽花の窓」は徳田秋聲名義の代作とみてよさそうです。
03-08 20:20
発見の経緯と梗概が報告されています。
「秋聲入門講座 第3回『紫陽花の窓』」(3月15日開催)
http://t.co/DORQXn1Ng2
「テキストを配布しております」ということは「台湾愛国婦人」第62巻のコピーが貰えるんでしょうか。私も近くに住んでたら絶対行くんですけど……
03-08 20:16
徳田秋聲記念館による「秋聲入門講座」の最終回(3月15日開催)は、短編小説「紫陽花の窓」(大正3年1月「台湾愛国婦人」62巻初出、八木書店版全集未収録)を取上げるようですね。これは近年新たに発見された作品で、徳田秋聲記念館館報「夢香山」5号(平成25年3月)に上田正行氏により
03-08 20:09
この『ゴーゴリ全集』の内容見本には丸谷才一の「ゴーゴリを読んではいけない」という推薦文が載っていて、これが結構振るっています。確か単行本未収録の文章のはず。
http://t.co/z4erIS34Kp
03-08 00:10
昭和40~50年代に河出書房新社が出したロシア物の個人全集は立派な業績ですね。古書で手に入れたこのゴーゴリ全集は私の愛読書です。翻訳は優れていますが、残念ながら解説は、青山太郎氏のものを除き執筆当時としても相当古色蒼然としたものです。
http://t.co/cCri0JVU2P
03-07 23:38
しまつたのであつた。
『この頃は私お墓詣りばかりしてるのよ。気が鬱々するとお詣りに行つてよ。』彼女は自惚を言つてゐた。」(徳田秋聲『水ぎわの家』より)
これで『情人の頓死』中絶後の顚末がおおよそわかりますね。それにしても「頓死」の語で直ぐそれと気がつくべきでした。
03-07 19:27
兎に角関係をつゞけてゐる間も、男が不意に死んでから後も余り幸福ではなかつた。(中略)彼女はその男と別れてから再びお座敷へ出ることになつた。そして其の男と久しぶりで逢つた或晩、その男は遽かに胃が病み出して頓死してしまつた。何うした加減でか、不断健康であつた彼の胃袋が其時破れて
03-07 16:29
一流の花柳界にいる女と差向かいに坐って、好子(山田順子)の噂話をしています。その友達の経歴について以下のように書かれています。
「ちやうど遊びに来てゐた主婦〔おかみ〕の友達の其の女がゐた。(中略)彼女は余り好遇されなかつたし寧ろ薄情に取扱はれた其の旦那とも良人とも決まらない男と、
03-07 16:28
今朝、徳田秋聲の『水ぎわの家』(昭和2年「中央公論」第42巻第3号初出)を読み返していたところ、以前ここで話題にしたことのある『情人の頓死』(昭和2年8月、中絶)の女主人公のモデルはこの人では?とはたと気付きました。彼(秋聲)は、行きつけの待合いで、主婦(柘植そよ)とその友達で
03-07 16:26
磯部四郎(嘉永4年5月26日生、大正12年9月1日没)と言えば、大逆事件の筆頭弁護人だったということで、その伝記や著作を少し調べたことがありました。大変な秀才で、また度を超えた花札好きらしく、明治25年の弄花事件で花札賭博が発覚し、依願免本官しています。逸話が多く面白い人物です。
03-07 14:34
宮武外骨『震災画報』(ちくま学芸文庫)を読んでいたらこんな挿絵があったので驚きました。関東大地震の際「谷中天王寺の五重塔下」に磯部四郎の尋ね人の貼紙が掲示されたのですが、被服廠跡で焼死したことを知った誰かが逝去の文字を書き加えたと。
http://t.co/UU5xlhvhrB
03-07 01:45
30-12 道端にかがんで ← 道端にしゃがんで
以上が、古井由吉『窓の内』の雑誌初出と『鐘の渡り』所収本文の異同です。この中で最も重要なのは、小説の終盤近くの場面で「年頃になりかかった娘」を、たぶんその母親たちと思われる「ふっくらとした女性がふたり」に変更したことでしょう。
03-06 23:32
27-7 成り立たなくなる ← なくなる
27-18 はまだ中年の ← は、まだ中年の
29-5 息子の知らぬ ← 知らぬ
29-7 三叉(みつまた) ← 三差
29-11 覚まし、 ← 覚ましかけ、
30-2 ふっくらとした女性がふたり ← 年頃になりかかった娘が
03-06 22:58
24-10 内廊下を ← 内廊下をひっそりと
25-3 息を ← つとめて息を
26-6 間の一線 ← 間のこと
26-11 内とは ← 内のこととは
27-4 ところである。 ← ところであるらしい。
27-6 いるかもしれず、 ← いるかもしれないので、
03-06 22:56
23-3 行かぬことと ← 行かぬことのように
23-12 癖があった。 ← 癖があった。家族の顔ならなおさらだった。
23-13 開け閉て ← 開け閉(た)て
24-5 鋭く ← きっと鋭く
24-9 ときたま ← まだまだ達者なものだったが、ときたま
03-06 19:48
18-12 晦(くら)んだ ← 晦んだ
18-17 低い窓 ← 窓
19-16 溝(どぶ) ← 溝
19-17 青味 ← 汚い青味
20-4 よくも ← 湿地とは言いながらよくも
20-18 自分を夢に ← 自分を、いま現在の自分を、夢に
22-2 手水(ちょうず)場 ← 手水場
03-06 19:47
16-2 わからないもないものだ。 ← わからないもない。
16-16 死者(ほとけ)の家に思わず ← 思わず
17-11 周囲から夜の ← 夜の
17-13 用を足す ← しゃがむ
18-9 女は後から ← 後から
18-9 どちらが先になるか後になるかは、 ← 先と後とは、
03-06 19:46
11-2 梟のような ← 陰気な梟のような
11-9 ということが前提になるはずだ。 ← ということになるはずだ。
12-16 回りかける ← 回る
14-15 兆(きざ)し ← 兆し
15-2 思わせながら、 ← 思わせ、
15-14 匂いにかかわること ← 匂いのこと
03-06 19:45
頁-行 (『鐘の渡り』所収 ← 『新潮』第109巻第5号)
9-2 立っているとある。窓はよほど高いところについているのか。 ← 立っているとある。
9-9 かるく頭をさげて、 ← 頭をさげて、
10-6 通じそうにもない瞑想に ← 通じそうにもないことに思い
03-06 19:44
にみられるように、加筆して文意を明確にしたり、それとは逆にイメージの固定化を避けるために修飾語等を省いたり、といった推敲の迹がうかがえます。以下は主な異同です。
03-06 19:42
かれるような不思議な牽引力を感じることが出来ます。さらにわたくしにとって、その創造の一端を窺い知るための手がかりとして、古井由吉作品の雑誌連載と単行本の文章を読み比べることは、単行本上梓にあたっての大きな楽しみの一つになっています。たとえば巻頭の『窓の内』では、冒頭二行目の追加文
03-05 21:53
さて、古井由吉氏はご自身で秋聲より「ある意味では私の文章の方が精密です」と仰っていますが、それは秋聲の『黴』や『爛』とは全く違った意味でぎりぎりまで切り詰められた文章であって、読者はその文章を「読む」という体験そのものによって、非常に深い充実感と、身を削られる苦行に避けがたく惹
03-05 21:35
文章の練達の士の推敲の後を追うのは、私にとって個人全集を読む主な目的の一つです。秋聲のように「書きっぱなし」と思われている作家でも、例えば『仮装人物』の校異表を見れば、雑誌連載から単行本化にあたって、いかに念入りな推敲が施されているかがよく判ります。
03-05 21:04
女のやうに京子さんに甘へるのよ。余りお安い代物ぢやないんですけれど、私が買つてあげましたけれどもね。」(徳田秋聲『間』より)
この短編、凡作で一般にも全く知られていないと思うので、参考までに引用してみました。
03-05 16:44
『知つてますとも。それあ好い男よ。髪をオールバツクにして、赤いネクタイなんか締て、銀座辺をよくあるいてゐますがね、ちよつと目に立つ男振よ。或時なんか私あの人達と銀座をあるいてゐたところ、好いネクタイを見つけて、(中略)H―さんが、ようよう、買つてちやうだいよ、つていつた調子で、
03-05 16:42
社会的にいくらか地位のある人と結婚したいと思つてゐたところへ、H―さんにあつて、まあちよつと悪くなかつたものですから、親く交際してゐたのです。ところでA―子さんがA―さんと心中したものですから、それを機会に結婚したやうなことなんです。』
『ぢや貴方はH―も知つてゐるの?』
03-05 16:38
つた。そのづつと前に或る宴会の席上で見知つてからお互に思ひを寄せ合つたのであつた。
『ぢや、A―子がA―氏と心中したので、京子がH―に同情して結婚を申込んだといふのは嘘なんだね。』
『え、さうですとも。京子さんは私お友達ですけれど、西洋人の遺産をもらつて、お金はもつてゐたんです。
03-05 16:38
という話になり、次のような会話が交わされます。(括弧内は引用者註)。
「A―氏(有島武郎)とA―子(波多野秋子)との心中騒ぎがあつてから間もなく、A―子の夫H―氏(波多野春房)と京子(大隅れい子)が結婚したのであるが、しかしH―と京子との交際はその時から初(ママ)まつた訳ではなか
03-05 16:37
もそのことが紹介されています。ところが、徳田秋聲の私小説『間(ま)』(大正15年12月、大阪毎日新聞夕刊連載)を読むと、初老の男、融(秋聲)がごく親しい女友達でもあるお神(柘植そよ)の開店した清洲橋近くの待合いに幾度か通ううち、お神がその芸者と友達なのでぜひ融に引き合わせたい、
03-05 16:36
有島武郎と波多野秋子の心中事件の後、大隅れい子という芸者が、ひとり残された夫の波多野春房のことを新聞で読んで同情し、人を介して結婚を申込んだ、という話は事件当時から報道されていたようで、小谷野敦氏のブログの記事「有島武郎情死事件(波多野春房は烏峰なり)」(平成21年5月11日)に
03-05 16:36
しかもさらに念入りに調べてみると『鐘の渡り』は漢字がやや肉太の秀英明朝、仮名が細身のイワタ明朝体オールドという、合成フォントでした。凝ってますね。その意図は、仮名も秀英明朝だと全体の印象が重くなりすぎるから、仮名だけ変えて風通しを良くした、ということでしょうか。何となくですけど。
03-04 21:09
ついでに調べてみたら、『古井由吉作品』と『詩への小路』は活版活字の岩田明朝、『陽気な夜まわり』は写植の岩田明朝(以上現在の明朝体オールド)、箱入り単行本の『仮往生伝試文』と『神秘の人々』は本蘭明朝、『古井由吉自撰作品』『ロベルト・ムジール』『漱石の漢詩を読む』はリュウミンでした。
03-04 20:56
あ、でも新潮社の『人生の色気』の本文書体はモリサワの「リュウミン」という、ごくありふれたフォントでしたね。読みやすさ優先でしょうか。こうしたところにも本作りに携わる人のこだわりが感じられて面白いです。と言いながら、ずっと読もうと思っていたフクスの作品から読み始めてます。
03-04 19:57
活版活字時代に最も広く使われていた書体で、本作の作風にもよく合っていると思います。ちなみに講談社から出した単行本の書体は、『夜明けの家』『聖耳』以来、ほぼ全て「精興社明朝」で、こちらは非常に繊細な筆づかいの仮名が特徴。群像連載の作風にしっくり合ってる気がするから不思議なものです。
03-04 19:48
古井由吉の新著を開いて真っ先に気付いたこと:これまで新潮社から上梓してきた単行本と本文書体が違う! 今まではずっと、月刊誌「新潮」の本文書体と同じ「秀英明朝」という、やや肉太で腰の強い感じの書体でしたが(福武書店の単行本も全てこれ)、『鐘の渡り』のは、イワタ明朝体オールドという、
03-04 19:35
今日買ってきた本。古井由吉『鐘の渡り』(新潮社)と、ラジスラフ・フクス著、阿部賢一訳『火葬人』(松籟社)の2冊。
03-04 19:17
@ashihara2009 『白木蓮の咲く頃』(臨川書店『秋聲全集』第7巻所収)に、「失望の色を浮べてどこか逡巡(たぢろ)いだやうに後へ身をひいてゐた」という文章がありました。踟蹰≒逡巡ですので、やはり「踟蹰いだ」は「たぢろいだ」で間違いないと思います。ありがとうございました。
03-04 12:43
と、ここまで書いて成瀬巳喜男監督、奈良真養、筑波雪子、岡田嘉子ほか出演の無声映画「生さぬ仲」(松竹キネマ、昭和7年)を観だしてやめられなくなったのでまた後ほど。
03-03 23:10
今日はひな祭りということで、ケーキなどを食べながら、戦前の日本映画の話をしているうちに、私がこないだ見た「マダムと女房」と「隣の八重ちゃん」のあらすじと感想をひとしきり喋って、後者の出戻りの姉役は岡田嘉子だけど、秋聲の『女流作家』に出てくるO・Y子という女優は彼女のことなのよ、
03-03 22:23
日曜は徳田秋聲関連の論文を読みまくりでした。そのつど原典に帰って読み返してみると、今まで気付かなかった新たな発見があって面白いものです。
03-03 00:10
ここで語られているのは長屋の憚りで、厠の側面が戸袋になっていて、障子を閉めているときは、竪框がちょこっと背後に見えているだけだけど、誰かが障子を開けるとざぁ~っと破れ障子が用を足している人の横面へ飛び出して来る感じですかね。ひとしきり想像してしまいました。ひどい生活が偲ばれます。
03-02 13:38
これ、なんか笑っちゃう。
「便所の羽目がなくて、戸袋に成つてゐるから、背後に戸が見えてゐて、若し誰かゞ、座敷の障子を開けようものなら、気味の悪い音がして、風と共に、破れ障子が便所の中へ闖入して来ないわけにはいかぬのである」(徳田秋聲『二日間』二、明治42年7月「新声」20巻6号)
03-02 13:17
いま引用した件りと、「夢応の鯉魚」の興義琵琶湖回遊の一節は諳誦できるんですよね。
雨月物語の注釈書は鵜月洋『雨月物語評釈』という大著がありまして、これを雨月物語の注釈書の筆頭に挙げてよいと思います。その他の注釈は重友毅、中村幸彦などが著名で、旺文社文庫の大輪靖宏も優れています。
03-02 12:22
だ盡ず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一周を待ば。重盛が命數既に盡なん。他死せば一族の幸福此時に亡べし。院手を拍て怡ばせ玉ひ。かの讐敵ことゞゝく此前の海に盡すべしと。御聲谷峯に響て凄しさいふべくもあらず。
上田秋成『雨月物語』より「白峰」の一節
03-02 11:59
いたうすゝびたるに。手足の爪は獸のごとく生のびて。さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむかひて相模ゝゝと叫せ給ふ。あと答へて。鳶のごとくの化鳥翔來り。前に伏て詔をまつ。院かの化鳥にむかひ給ひ。何ぞはやく重盛が命を奪て。雅仁清盛をくるしめざる。化鳥こたへていふ。上皇の幸福いま
03-02 11:58
時に峯谷ゆすり動きて。風叢林を僵すがごとく。沙石を空に卷上る。見るゝゝ一段の陰火君が膝の下より燃上りて。山も谷も晝のごとくあきらかなり。光の中につらゝゝ御景色を見たてまつるに。朱をそゝぎたる竜顏に。荊の髮膝にかゝるまで亂れ。白眼を吊あげ。熱き嘘をくるしげにつがせ玉ふ。御衣は柿色の
03-02 11:57
今日は、上田秋成の『雨月物語』と『春雨物語』を読みました。『雨月』はもう何10回も通読しています。笠間の影印本で読むのも好きです。『雨月物語』のなかでは、「浅茅が宿」の人気が女性の間ではひじょうに高いですが、私は「白峯」の、とくに文章が凄いと思っています。
03-01 22:45
学生気分の抜けないくらいの年齢の人たちの間でよく使われた隠語だと思います。原文は
『君は芸者(エス)の方は、腕に覚のある方なんだらう。』
『芸者(エス)つて……むゝ、芸者(げいしゃ)か。そりゃ満更覚のないことも無いな』
(徳田秋聲『奈落』八の四、明治40年3月5日「中央新聞」)
03-01 22:22
@takekuwa 学生が芸者をジンゲル(独:Singer)と呼ぶ慣習は明治大正から昭和前期に及んだ、と野口冨士男の『私のなかの東京』にあるとおり、ジンゲルという隠語は戦前の文学作品にもよく出て来ますが、さらにその頭文字を取って「エス」と呼ぶこともあったようですね。 いずれ学生か
03-01 22:16
求め、そうした「正しい習俗への背きのうち」にも「逃れた非常の先」での制約として正しいステップという決まりごとを重んじ、それを追求するという、一種のダンディズムが見られる、という指摘は卓見でしょう。
03-01 00:39
『二つの失敗』『町の踊り場』『死に親しむ』『仮装人物』『巷塵』が挙げられています。この小論では、「秋聲作品の主人公がダンスをするのは、日常の縛りからの脱却である」が、敢えて健全なスポーツではなく、「エロティシズムあふれる享楽の場としてのダンスホール」のなかでの「筋肉運動」に活路を
03-01 00:21
女性社会評論家とそのボーイフレンドのデートに、誘われるまま付いて行ったが、KYだったようだ、という2つのエピソードが淡々と語られる私小説です。
高橋真理『正しいステップ』(八木書店版全集月報21所収)によると、秋聲の作品でダンスやダンスホールが登場する主なものとして、『老苦』
02-28 23:47
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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