京都時代の近松秋江が定宿にしていた葉村家(四条縄手大和橋上ル。玉の家とも)のあった付近。長田幹彦は「近松氏のゐられた葉村家の二階座敷は、鴨川の東河原にあるので、夏の夕方は殊に暑かつた」と書いています。
2枚目写真の桜並木の左手(北側)の川端通寄り(西日の方角)、料亭新山付近ですね。
https://t.co/3cJzTvIOzE
03-30 23:57
夕方、大和橋を見て来ました。近松秋江の『痴狂』(『二人の独り者』)八十七~八十八を読むと、葉村家は大和橋から縄手通を少し上がったところにあって、当時地上(現:川端通)を走っていた京阪電車の東側を流れていた疎水が座敷のすぐ目の前にあった、というから、いま料亭新山なんかがある辺り…
03-30 23:56
筋肉痛…
03-30 23:04
小説はそこまで描かず、森山の偽善が明らかになり彼を崇拝していた純一が疑念を抱き始めるところで幕を引きます。
栄子も小野田も純一も森山も、若い登場人物たちはみな上昇志向を抱き、頭を擡げようとする「萌出るもの」だけれど、もう一つ伸びきれずにいます。挫折はすぐ目前に迫っているようです。
03-30 13:00
後半の方がいいです。
森山の厄介になっている弟の純一が盲腸炎になったので、栄子は複雑な思いを抱きながら見舞に訪れ、しばらく弟に付き添うことになります。栄子がそこで目にした出版社の経営は、表向きは派手ですが、どう見ても放漫で、金主の蓮沼も姿を晦ましており、早晩瓦解しそうです。
しかし
03-30 12:54
小野田が苦心して書いた芝居が採用されず、栄子夫婦が失意の中にいる時、森山が蓮沼というパトロンを得て緑蔭書房という出版社を興し、意気揚々とやっているらしいと知り、夫婦は嘲笑するような、失敗を待ち望むような複雑な感情を抱きます。この辺の感情の描き方は上手いと思います。『萌出るもの』は
03-30 12:53
かけるとAVのエロ教師みたいになるとズッキーが言ってたメガネが壊れました👓
03-30 11:15
@tonton1965 Googleマップを確認すると、岡山県赤磐郡瀬戸町万富のご住居の辺りが更地になっているようにも見えます。
03-30 08:11
@tonton1965 2014年7月に徳田秋聲記念館の学芸員の方にお訊きしたところ、岡山の吉備路文学館に問合わせて下さって、徳田道子さんは「昨年頃」(つまり2013年)にお亡くなりになったとのご連絡を頂き、そのことをTwitterでもつぶやいたことがあります。
正確な日付は判りません。
03-30 08:10
幸せな夜でした✨
03-30 07:04
嬉し泣きしちゃった😂
ありがとう😆💕✨
私も負けないくらい愛してるよ💓
https://t.co/twguV6Laht
03-29 20:55
中村友「宇野浩二書簡2通」学苑 (578), p24-32, 1988-02
https://t.co/cCtNSzwcXV
03-29 17:13
さくら、さくら🎶
満開です🌸
https://t.co/NgWI72zrTh
03-29 12:21
「お父さんとゴーゴリ?の全集を買ってきた時のこと書いてあったね。ほんまあんたは変わった子やったね」と言ってました😄
娘のことがいろいろ書いてある(しかも悪く書かれてない)から嬉しかったんでしょうね。
それで今度幻戯書房から出た『東十条の女』も読みたいから読み終わったら貸してくれと…
03-29 02:39
『とちおとめのババロア』は、母には「文學界」三月号を一冊プレゼントして読んでもらい、姉夫婦は自分たちで買って読み、たいそう気に入ってくれました。母は元々文学好きなので、殊に喜んでたみたい。ズッキーは、3回も読んだって。
でも『東十条の女』(の表題作)はちょっと読ませられないかなぁ…
03-29 02:03
「素子さんは、私のセックスがうまい、と言い、三十歳まで童貞だったのが不思議だと言うから、それは家にこもって軍学の机上勉強をしていた諸葛孔明が、いったん出廬するとたちまち戦に勝利するみたいなもんじゃないかな、と言った。」
小谷野敦『東十条の女』より。
ここ、笑うところですよ😉
03-29 01:40
亀井麻美さんは落ち込んでいるとすぐ気がつくような人でお尻の筋肉が発達しているような人が好きでしょう
#あなたの好きなタイプ当てったー
https://t.co/hA30lH0Qvr
それって、もしかして下ネタですか😄
03-29 00:15
これって、《イントレランス》のことかしら。日本公開は大正8年。秋聲の『萌出るもの』は、大正10年連載。
03-29 00:02
「活動はアメリカものゝ現代と古代とを比較して、巧妙に一人の少い女の運命を描きだしたものであつた。少女の貞操を弄ぶ、昔の暴君と今の資本家と云ふ風に、それが如何にもアメリカ式の通俗的著想であつたにしても、栄子は何となしにはらゝゝさせられた。」
徳田秋聲『萌出るもの』十二。
03-28 23:57
@tonton1965 牧野信一が生前、中央公論社に入社した事実もないですね。牧野武夫ならまだわかりますが。
しかし、牧野武夫は昭和14年に中央公論社をやめて牧野書店を設立しています。14年の何月まで中央公論社にいたのかはちょっとわかりません。
03-28 23:55
ちょっと夜桜見に行こ💖
のつもりがもうこんな時間になってしまいました💑
楽しかったからね😉
これから帰ります✨
03-28 22:05
これからちょっとデート💑です(*^^*)
https://t.co/ioqQALmQ4d
03-28 17:31
あの人、野獣先輩っていうんだ…
誰やねんこの人?ってずっと思ってました😅
#今知った
03-28 12:14
池田菊苗の父は春苗だけれど、息子たちは諄一、眞吾、兼六で苗の字なし。
『人事興信録』5版、大正7年9月:
https://t.co/4NFNRmmXbV
ちなみに、菊苗の異母弟の名は、夏苗、冬苗だそうです。
(父)春苗(子)菊苗〔←秋〕、夏苗、冬苗
で四季が揃ってます(*^^*)
03-28 11:05
ところで昭和10年のカレンダー
https://t.co/ht9bJ6DfD0
をみると8月10日は土曜日なので、徳田秋聲年譜の「十日(水)、午後、秋江が電話をかけて来たので」云々も、カレンダーを確認して7月10日(水)のことと分からなきゃいけなかったわけですね。
03-28 10:12
@tonton1965 ほんとですね! 八月九日(金)午前十一時上野発列車で群馬県に向ふ。田口医学博士、川原教授、近松秋江氏、云々と『松本学日記』にあります。これは徳田秋聲研究者も気付いてないかも。
03-28 10:11
徳田秋聲「春の三座」(「演芸画報」大正5年2月)の〈片岡少年劇〉によれば、この時の有楽座における片岡少年劇の出し物は、「曽我対面」、「吉田屋」、「弁天小僧」の三演目。
長十郎、太郎、薫、当蔵、登美三郎、千栄三、千代之助といった少年役者の名が劇評に上がっています。
03-27 23:51
【ずるんずるん】
「みよ子は相変らずずるんゝゝした風をして、下にごろついてゐた」(徳田秋聲『萌出るもの』六)
「ずるんずるん」は、「ずるずる」から派生した表現でしょうか。だらしなく、ごろごろしてる風は伝わってきます。
03-27 22:56
@tonton1965 徳田秋聲全集別巻年譜も昭和10年8月の出来事になってますね(年譜93頁)。
どこで7月とお判りになりましたか?
03-27 22:03
@ebaranakanobu81 @tonton1965 銀座モナミでなくて「新宿のモナミ」です。すみません。
03-27 21:54
@ebaranakanobu81 @tonton1965 三宅やす子の告別式の帰りに新宿モナミに寄った件は、秋江全集第12巻169~170頁にありました(「読売新聞」昭和7年4月27日)。
ちゃんと「青山から新宿のモナミへ廻つて」と書かれてます(^^;)
こちら解決です。
03-27 21:47
長は、その多くは、国家本位、民族主義を基調とする傾向に転化して来たものであると語つた」
近松秋江「文芸漫談」より〈私の転向者観〉(「新潮」昭和10年2月、全集第12巻261頁3段目)
沢豊彦『近松秋江と「昭和」』年譜653頁の「転向問題を糺す」という表現はおかしい。糺問ではなく単なる質問。
03-27 21:25
「去る十一月二十九日、例の文芸懇話会の席上、中里警保局検閲課長の座談によれば、現下審理中の赤化思想家等の獄中に於ける転向は殆ど皆確実なものらしい、又、左翼作家中の転向者も概して、本心からの転向らしいといふ話であつた。
(中略)どうして、さうなつたかといふ、私の訊ひに答へて、中里課
03-27 21:25
@tonton1965 見付けました。昭和10年2月、秋江自身が書いてます(全集第12巻261頁3段目)。
ちなみに櫻本富雄ではなく、和田利夫ですよね。この本も一応確認しましたが、確かに無かったです。
03-27 21:24
あー気持ちいい✨
03-27 21:03
そろそろ満開…かな?
https://t.co/fiHy2MfnO5
03-27 17:41
@tonton1965 帰ったら見てみます。
巻末索引に中里喜一の名はありませんか?
03-27 13:00
@tonton1965 @ebaranakanobu81 沢さんは「青山」と書いたつもりが、ああなってこうなって「生田山」と誤植されるに至ったのかも、です。
縦書きすると「青」と「生田」は似てなくもないですし。
03-27 12:40
今日は通院でした。「醒睡笑」を持って診察に臨みました(徳田秋聲は常備)。
血液検査の結果がよくて、もしかして私はこのまま治ってしまいそうであります。
嬉しくてつい甘いものを食べてしまいました😅
https://t.co/36vLwqo3iu
03-27 12:31
東大卒の丸山ぬめりさん(twitterのハンドル名)と私とがモデルだろうと書いてた人がいましたが、私は苗字の読みが同じというだけで、たぶん入っていないと思いますよ。
ぬめりさんのツイートは開けっぴろげで面白くて好きだったんですが、2年前の6月前頃アカウントが消えてしまいました。
#東十条の女
03-27 12:18
館員の何とかさんが千葉に異動するから図書館小説を書く意欲を失いつつあるとTwitterで作者が呟いていたのを覚えているので、モデルがいらっしゃるんでしょうね。
作家の宇留野氏も面白いです。ほとんど作者そのまんま、かな?😅
それから、甕居亜紀という里沙の友人が出てくるんですが、以前Twitterで
03-27 01:27
小谷野敦さんの『細雨』のヒロイン倉持里沙には好感が持てます。今度出た作品集ではこの作品がいちばん好き。大きな出来事といえば大学の元同級生の男が里沙の部屋に侵入して来るところですが、股間を蹴飛ばして撃退するところがいいですね。
出色の図書館小説だと思いますよ。
2年前の4月末ごろ、図書
03-27 01:23
@tonton1965 そうですね、同族とか、そういう。
門人はおかしいですね。
03-27 01:19
@tonton1965 一門ならまだわかりますね。
03-27 01:14
「彼の本姓は(徳田)であるから、徳田秋江では徳田秋聲の縁者であるか、門人であるか、何かと紛らはしいので、かねて崇拝してゐた近松を持つて来て、自分の雅号の頭にくっ附けることにしたのであつた。これは私の推察だが、この推察は断じて間違ひないのである。」
正宗白鳥『自然主義文学盛衰史』四
03-27 00:35
若い男女が旅館の同じ部屋に長期間泊まってるってだけでどういう関係になってるか勘付きそうなものなのに、女が朝っぱらに「伊達捲のまゝのしどけない風」で男の部屋から出て来るのを見るまで分らないなんて、栄子の前夫の芳野っていうのはよっぽど間が抜けてます。
(徳田秋聲『萌出るもの』二十一)
03-26 12:59
栄子と小野田は関係が出来てから、熱海の海岸で「手と手を繋ぎあつて」歩いたりしてるんですが(大正時代!)、小野田は一向に仕事が捗らず、栄子は私生活でお尻に火がつきかけてるのに、一日、二日、一週間と、怠惰な日々が過ぎていきます。こういうところになると描写が細やかなんですよね、秋聲は。
03-26 12:57
@tonton1965 三宅やす子の葬儀の司会が田川大吉郎で、片岡鉄兵、吉屋信子、平塚雷鳥、徳田秋聲、近松秋江らが参列したことは『秋田雨雀日記』第2巻にも書かれていることで、秋江が来ていたことは間違いないでしょうが、そこからなぜ生田山まで行って新宿に帰ってくるのか謎です。沢さんの誤記かも知れませんね。
03-26 10:28
@tonton1965 あっ、「久米正雄詳細年譜」に「(昭和7年1月)22日、青山斎場の三宅やす子葬儀に出る」とありました。
03-26 09:59
は珍しい。箱入りの上製本が少なくなりつつある今のご時世に、南雲堂さん頑張ってる!
ホーソーンは、若き日の徳田秋聲が最も数多く翻案に利用した作家の一人です。私がまだ気付いていない種本が、この中から見付かるかも知れません!
03-26 01:45
て。
第Ⅰ巻は私が買って、第Ⅲ巻はズッキーからのプレゼントです。ありがとう💖
2015年に出た第Ⅰ巻と第Ⅲ巻を見ると、15年前に出た第Ⅱ巻より造本が立派です(箱の紙質が上等になってます)。ふつう再刊時には布装が紙装になったりして、装釘造本が粗末になることが多いのですが、前より立派になるの
03-26 01:39
退院後も気になりながらずっとそのままにしていたら、第Ⅰ巻がhontoで入手不可になっていたので、慌てて別の書店で第Ⅰ巻と第Ⅲ巻を買うことにしました。
1999年10月25日刊の第Ⅱ巻を私が2000年代の中頃に買った頃には、第Ⅰ巻はすでに入手できなくなっていました。また買えなくなったら悔しい…と思っ
03-26 01:35
國重純二訳「ナサニエル・ホーソーン短編全集」(南雲堂)の第Ⅲ巻が、訳者の死後2015年10月15日に刊行され、それまで長らく絶版だった第Ⅰ巻が同日に再刊されていることは、去年私が入院する前に知ったのですが、
https://t.co/Mh7gtSpajZ
03-26 01:33
徳田秋聲を徳田秋聾と書いているサイトがありました👀
03-26 00:23
@tonton1965 三宅やす子は砧村(現:成城)に居住していて、自宅で急死しました。吉屋信子『自伝的女流文壇史』によれば通夜は「成城」の居宅で行われたとのこと。告別式場は今ちょっと判りませんが、普通に考えれば同地ですよね。墓は多磨墓地(現:多磨霊園)にあります。
03-26 00:02
@kwaidan_yoo リプライありがとうございます!(*^^*)!
03-25 15:53
あーもう😠💨
ビリビリビリッ(←破く音)
03-25 15:44
「ニシナダ〔西洋〕コトキ〔小説き(小説)〕をケン〔見〕してゐないとセキ〔寂(さみしい。みたされない)〕どすさかい 」
近松秋江、長田幹彦宛書簡(葉書)大正9年7月14日。
または、
セキ〔惜〕:惜しい
こちら第二案。
03-25 15:43
今更ですが、徳田秋聲全集未収録の「屋上の怪音 赤い木の実を頰張つて」が東雅夫編『文豪妖怪名作選』(創元推理文庫、2017年8月)に入っていることを知って、買ってきました。
去年の8月頃は私、入院とかで大変だったから、気付かなかった😅
https://t.co/uUPizjiecS
03-25 03:56
@tonton1965 セキ〔寂〕:寂しい。心が満たされず、物足りない。
ですかね。
03-25 03:38
@tonton1965 秋江書簡の原文は、「ニシフミ」ではなく「ニシナダ」ですね。
ニシナダ〔西洋〕コ〔小〕トキ〔説き〕、つまり西洋小説のことでしょう。「セキ」は、
03-25 02:59
「コリキのキノメン、メンパクにドクしてゐます」
は初めは何のこっちゃ?でしたが、読点の後ろが「面白く読んでいます」のことだとわかったので、本だ、長田幹彦の本かしら思ったけど、該当しそうなものがなく、ああ、コリキじゃなくコッキかも、谷崎だ、と判りました。
でも、ほんま腹立つ手紙やわ😥
03-24 21:14
ニシヅルナサケバナシ〔西鶴情話〕書ですか。
(中略)
コリキ〔谷崎(潤一郎)※2〕のキノメン〔鬼の面〕、メンパク〔面白〕にドク〔読〕してゐます。
【註】
※1 どの柳田が観戦していたかは不詳。国男か。
※2 谷崎の『鬼の面』は1月15日から「東京朝日新聞」に連載された。
03-24 20:54
(近松秋江、長田幹彦宛書簡(大正5年1月18日)続き)
その後何処へも不行。昨十七日は久振に外出。上院傍聴(一人にて)午后は電車で両国に廻り 相撲を見です。リュウデン〔柳田※1〕氏毎日続行。夏目〔漱石〕氏 友人の中村是公氏の桟敷に毎日欠かさず続行。
京都の模様お洩らし下され度候。
03-24 20:53
@tonton1965 実際に前田晁は鰶生(か鮗生だったか今確認できませんが)のペンネームで「文章世界」に文芸月評を書いていました。
徳田秋聲の『絶望』評(明治40年12月)、『二老婆』評(明治41年4月)などもそうですね。
03-24 14:25
@tonton1965 〈鰶生の名を以てしてゐた、前田〔晁〕氏の「文章世界」の月評欄に〉
近松秋江「『別れた妻』を出した頃の文壇」(「文章倶楽部」大正15年7月)
前田晁の号が木城だから、鰶(このしろ)なのでは。
03-24 13:34
吉井をトロセイと読むのは吉原遊廓をトロゲンと言うのと同じ方式ですね。近松秋江だけが吉井をそう呼んだ訳でなく、
吉井勇はトロセイ・マダン〔土ロ井(セイ)・マ男(ダン)〕、
久保田万太郎はキューホーデン・ヨロズフトイラッコ、またはキュウホデン・ヨロズフトリラッコ
とも呼ばれたそうです。
03-24 11:57
秋江は5月19日夕方、滞在中の大金から一時帰京していた秋聲と歌舞伎座でばったり合い、一緒に観劇して、そのあと秋聲と大金へ行き、そこで島田の件を聞きました。島田は15日頃から大金に来合わせ、花髀遊びに興じた後、強姦未遂事件を起こし、一足先に引揚げたとのこと。色々と問題を起こす人ですね。
03-24 11:36
【島田清次郎の強姦未遂】
「島田清次郎は又、柔術の手にて、例の、私に付き添ひしお浪といふメナカ(引用註:女中)を強姦せんとして、大問題となり、秋声氏の口利きにて、大金の方でも沙汰止みにせしよし。島田は直ちに引揚げかへりしよし。」
近松秋江、長田幹彦宛書簡(葉書)大正10年5月22日。
03-24 00:24
氏に誘はれ有楽座に片岡少年劇をケン〔見〕。その時はジヤリヨウ〔?〕、メマサ〔女将〕に切符を売られたのです。
以上、近松秋江、長田幹彦宛書簡(大正5年1月18日)より。
ほんとにイラっとしてきます😅
03-23 21:47
@tonton1965 謝了ではないかと思うんですが、いかがでしょう?
03-23 19:51
京都でも大阪でもカンゲン〔(長田)幹彦〕氏には暖かい日が照つてゐるでありませうが、併し、あまり長くかへつて来ないと、少しカヘリカン〔帰還〕ジジ〔時〕デス〔です〕。相変らず何処へも行かず引込んでゐます。先日トロセイ〔吉井(勇)〕氏一寸来訪でした。
八日にはシユウユウ〔(長田)秀雄〕
03-23 17:36
栄子には森山を拒否したい事情があるにしても、そんなアホな、展開が軽すぎ😅 これは栄子が特に性的にだらしないというより(むしろ「家庭婦」という感じの平凡な女性とされています)、この作品は物事の細かい事情を端折りがちなので、とかく人物の行動が唐突に見えてしまうのです。
03-23 17:31
森山の紹介で、劇作家の小野田の元に働くことになったのですが、思い込みの激しい森山が結婚話を勝手に進めていることを知ってから、森山を避けるようになり、芸術家肌の小野田に惹かれていったのでした。
それにしても、さして親しくもない小野田の宿に飛び込んで行って、その夜にセックスとは…
03-23 12:46
徳田秋聲『萌え出るもの』十五。
栄子は割りとあっさり小野田に体を許したわね…。避暑地で肉体関係ができるというパターンはここでも健在(今作では湯河原)。
栄子にご執心で勝手に結婚まで妄想してるのに手も触れさせて貰えない森山がちょっと可哀想。
元々栄子は、DVの夫と別れる交渉をしてくれた
03-23 12:43
キッスは花柳界では「おさしみ」とも言う。。。
(同書より)
なんで刺身なの?
03-23 12:39
@tonton1965 「メマサ」は「女将(おかみ)」ですよね。
03-23 00:05
なんのこっちゃ…
もし男からこんなハガキ貰ったら、イラっとして破ってしまいそう(^^;
https://t.co/7Fm6ghCHOo
03-22 22:58
@tonton1965 帰宅して徳田秋聲全集25巻410頁の里見弴発言を確認すると、「あの時の相談会の寄合が、相談会はそつちのけで文学論が始まつちゃつた。岩野泡鳴、室伏高信の二人が大いに議論してね」とあり、『里見弴伝』128-9頁にある、大正9年7月30日の「相談会」での出来事、ということのようですね。
03-22 20:37
@tonton1965 「文壇あれこれ座談会」は昭和10年5月4日開催、「文芸春秋」同年6月号掲載です。泡鳴が死んだのが大正9年5月9日、花袋・秋声誕生五十年記念祝賀会が同年11月23日なので里見弴の記憶違いですが、15年も前のことで周りの出席者の誰も間違いに気付かなかったようです。
03-22 13:22
久しぶりに近松秋江の『狂乱』を読んだのですが、お園が「私(秋江)」に脅迫されたせいで精神に異状を来したと言っているという話を聞いて「私が嚇かしたためにそんな病気になつたといふ苦情があるなら私の方で悦んで引取つて癒してやりませう」と答えているのを見てあーこりゃダメだわと思いました😅
03-22 12:56
@tonton1965 里見弴の発言です。
03-22 12:34
@tonton1965 それは私も考えましたが、「タマ」が「〇」だとすると最低でも10円になります。大正9年の大卒初任給が40円だそうで、当時の秋江が洋書に10円(ダルの意味によってはそれ以上)も使うのは結構キツかったのではと思いました。
03-22 12:10
@tonton1965 「中西屋で洋書トルストイ、ゾラ、ツルゲーネフなど、ダルタマヱンほど買つて来ました」(近松秋江、長田幹彦宛書簡(葉書)大正9年7月14日)
洋書の値段のことだと思いますけど。「ヱン」は円。「タマ」は「玉」(硬貨)。「ダル」は……
03-21 23:55
「もう少しインフレにしてもいゝんぢやないかな、今デフレぢやないかな。もう少しお札が流布したつていゝんぢやないか、お札をもう少し発行したらいゝ。(笑声)」
「文壇あれこれ座談会」(「文芸春秋」昭和10年6月)より、近松秋江の発言。
03-21 23:30
十一番。戦前の学生用語で、接吻のこと。キッスのKはアルファベットの11番目だから。
アイスクリーム。継母のこと。甘くてもなかなか冷たい意。
『社会ユーモア・モダン語辞典』(鈴響社、昭和7年)より。
https://t.co/sN8rJwVK2T
03-21 23:29
「京都市街全圖」(大正2年)
https://t.co/uN2L4Dfjxo
03-21 23:27
安井金比羅絵馬館(旧絵馬堂)の裏手の、葵ホテル(今は更地)やホテル・リバージュやらんたん祇園のある区画(5~7枚目の写真の左手の建物のある辺り)が、近松秋江『狂乱』にある「絵馬堂に沿うたそこの横町」に当たるのでしょうね。
03-21 19:20
③更に石畳みにした小綺麗な路次の中に入つて
④三軒つゞきの、小さい平家がある(中略)その三軒の平屋の中央の家がそれだといふ
(近松秋江『狂乱』三)
https://t.co/Hsyw0ihPFe
03-21 18:18
①金毘羅様の境内を北から南に突き抜けて
②絵馬堂に沿うたそこの横町を、少し往つて
(近松秋江『狂乱』三)
https://t.co/D7m2JlaVsG
03-21 18:11
葵ホテルは、更地になってるんですけど、この付近に近松秋江『狂乱』三の三軒長屋があったことは間違いないと思います。
https://t.co/N1RA4SzKVx https://t.co/bGsvc0lcad
03-21 18:05
@tonton1965 ここに書いたことがあります。
https://t.co/yNVHkL6ii9
南寄りで合ってると思います。
03-21 12:44
@tonton1965 今外出中で作品を確認出来ないのですが、以前ここと
https://t.co/LVAsGse43f
03-21 12:44
@tonton1965 そうだと思います。揚名舎桃李が生きているので大正8年でしょうね。
03-20 20:46
@tonton1965 『近松秋江と「昭和」』625頁「(大正8年)10月下旬、帰京中、徳田秋声と会食、その後、寄席若竹へ行く。」
徳田秋聲全集別巻年譜55頁「(大正8年)10月下旬、一時帰京の秋江と秋聲のおごりで食事し、寄席若竹に入る」
書簡に「先日は(中略)なほ若竹まで御馳走にあづかり恐縮しました」とあります。
03-20 20:31
@nekoneko_juku もうバックナンバーになっちゃった(;_;)
03-20 19:39
@tonton1965 牛込亭で天保水滸伝のつゞきを演じたという揚名舎桃李は大正9年に亡くなっているので、大正8年で合っていると思います。
03-20 19:25
@tonton1965 これです。
『痴狂』(新潮社現代小説全集第12巻『近松秋江集』大正14年11月)
前田じうの件は62頁から
https://t.co/ugZpyv4lHI
03-20 13:08
@tonton1965 金光教の教師は『痴狂』に出てきますね。
03-20 12:44
ここは貧乳のほうがが面白かったのに……いや、体つきはふくよかだけど微乳なのかも(それって寸胴ってことだけど……😅)
03-20 01:17
林芙美子の徳田秋聲宛書簡が大正5年8月21日とかいうのも可笑しいですよね(徳田秋聲全集別巻218頁)。大正5年といえば、芙美子はまだ13歳でしょう。ちょっと考えれば昭和と判りそうなものです。
03-20 00:55
@tonton1965 昭和8年7月24日から日光西町大藤屋別荘に滞在したとの沢年譜の記述が、葉書の消印「8.8.5」及び差出人住所「日光、西町、大藤屋別荘」と合致しますね。大正8年8月5日頃秋江は比叡山に滞在していました。
令夫人は仰るとおり小林政子ですね。
03-20 00:54
「ヨウコの体はふくよかでなめらかだった。」
(『とちおとめのババロア』)
ふくよか🍓
03-19 23:14
@tonton1965 大正7年12月10日のほうは、沢さんの勘違いですね。
03-19 21:13
@tonton1965 『旧恋』の八(全集第4巻349頁)に「十二月の九日か十日」に笠取山脈を探索したと書いているので、そのことじゃないかな?と思います。
03-19 21:08
@tonton1965 12月29日のほうは、
「十二月のもう二十九日といふ日に、わざわざそちらの方へ出かけていつた」(狂乱)
「去年の暮のしかも二十九日に押し迫つて、それも母親のいふ通りを信じて、わざわざ汽車に乗つて、南山城の山の中に入つて行かうとした」(霜凍る宵)
このへんかと思います。10日のほうは…
03-19 20:31
@tonton1965 帰ったら確認します😃
03-19 13:03
それに比べると、近松秋江『霜凍る宵』の用例、
〈さうして吟々いつてゐる母親と私とのまん中に突つ立つたまま、「まあまあ、どちらも静かにおしやす」と、両手の掌で抑へる形をして、〉
はちょっと怪しい。擬音的に使ってる感じ。
03-19 13:00
「吟々」は、笑うさま、ですって。用例をみると、
「息子の次郎も吟々(ぎんゞゝ)として笑ひ居たり」(幸田露伴『新浦島』其三)
「吟々として笑ふ可き哉」(土田杏村「お稲荷さんと聖天さん」(『思慕の春』所収))
流石、露伴も杏村も正しく使ってる!
https://t.co/QcJEysfra9
03-19 12:53
朝チュン🐤🐦🎶
03-18 06:03
いろんな人が、明治以来の長篇から一つとれと言われて暗夜行路をあげたという「大岡の発言」を引用していますが、中村光夫の文章をそのまま引いているのは明らかですね。
03-18 04:48
大岡昇平が『暗夜行路』を「近代文学の最高峰」と言ったとかいう、ウィキペディアに書いてある風説は、中村光夫が『志賀直哉』(五月書房、昭和33年)に「大岡昇平も明治以来の長篇で何かひとつとれといふ問ひにたいして、『暗夜行路』をあげてゐます」と書いたことに尾鰭が付いたんじゃないかしら。
03-18 04:26
が正岡忠三郎宛書簡(大正11年11月28日)で『暗夜行路』を「全くたすかる本だ。今日も拾ひよみしていゝことばかりにぶつかつた」と書いていることを指す。中原中也や富永など「日本文学に背を向けていた若者が、志賀直哉だけには興味を持っていた事情」については『朝の歌』(全集18巻142~146頁)参照
03-18 02:53
「『暗夜行路』は全篇作者の好悪の感情で貫かれている作品である。これを感情の叙事詩と見做すことが許されるなら、それを拾い読みして「助かった」と思う富永もまた、感情一途に凝り固まった生活を送り始めたことになる」
大岡昇平「富永太郎―書簡を通して見た生涯と作品」(全集17巻109頁)
富永太郎
03-18 02:50
「安物買い」の意味は引用のあとの一行でわかりました。
03-18 02:05
「志賀直哉も中学時代から読んだが、特に感銘はなかった。むしろ国木田独歩の方に強い感銘を受けた。もっとも『暗夜行路』を読んだ時には、淋しくなって、自分の出生について考えたりしたものである。いわゆる安物買いを教えられたのも『暗夜行路』だった」
大岡昇平「作家に聴く」(全集14巻144頁)。
03-18 02:04
茶はそれ以前から飲まれていて、『光を追うて』の等(秋聲)は、明治33年5月頃毎晩のように神田の「フルウツ・パアラとも喫茶店ともつかない泉屋といふ店と、洋食屋の多米楼(たべろう)」で「コーヒーや紅茶やミルクセイキを呑むことを覚え、パイナツプルやバナナのやうな新果にも食慾が唆られ」たと書いています。
03-18 01:45
「森山は湯のたぎつた鉄瓶と、リプトンス紅茶や砂糖壺や土瓶をもつて上つて来た栄子を見ると」(徳田秋聲『萌出るもの』一)。解説でも指摘されていますが、冒頭でリプトン紅茶を沸かして飲むまでが順を追って描かれています。リプトン紅茶の輸入を明治屋が開始したのは明治39年とのこと。
もちろん紅
03-18 01:41
「森山も何か自分の弱点を見透かされたやうな焦目を感じた」(徳田秋聲『萌出るもの』二)
初版(近代名著文庫刊行会、大正12年2月)では焦目に「ひけめ」のルビが振ってありますが、昭和22年4月刊の風雪社版では「負目(ひけめ)」となっています。おそらく誤植と見做した一穂が訂正したのでしょう。
03-18 01:17
「蹂躙する」でなくて「蹂躙る(ふみにじ‐る)」でした。すみません。
「新しい自然の力が、そこにも此処にも磅礴してゐた」(徳田秋聲『萌出るもの』三)
ここでの「磅礴(ぼうはく)」は、広がり満ちる、満ちふさがる意。
03-18 01:03
「鬱勃としてゐる少年の慾望を圧潰さなければならないほど、残酷なことはありませんね。僕もさう云ふ目にあはされた一人ですからね。」
「え、萌出さうとする若草を、蹂躙するやうなものね。」
徳田秋聲『萌出るもの』(「婦人之友」大正10年6月~12月)より、三。いきなり核心的な台詞😉
03-18 00:41
近松秋江「雑感」(「読売新聞」大正6年3月3日。近松秋江全集10巻327頁)。徳田秋聲の通俗小説『誘惑』を褒めまくる文章😄
03-18 00:36
あー、よかった💓
03-17 23:56
@tonton1965 書簡の消印(4.8.3)と「日光、山内禅智院」「三十日にこちらにまゐりました」云々の記述が、沢年譜の「(昭和4年7月)30日から、日光へ避暑に行く。山内禅智院に滞在」と合致しますね。
03-17 18:35
@tonton1965 明治43年から店があったとは知りませんでした。
大正8年2月25日と3月2日の秋江書簡に「縄手通 葉村家方」とあるので、おそらく「葉村家」が大正8年時点での正式な店名と思いますが、前述のように「玉の家」と書いていたり、「葉村屋」(これが嵐和三郎の屋号ですね)と書いている資料もありますね。
03-17 17:02
@tonton1965 秋江書簡の見出しが秋江全集では「大正6年9月13日」で消印が「神奈川箱根町6・9・1 前0-9/本郷6・9・15 □0-1」となっているのが先日から気になっていました。秋聲宅に10日より前に届いていたとすると、秋江全集の書誌情報の誤りでしょうか。
秋聲年譜に「10月13日付」とあるのもおかしいですね。
03-17 16:45
@tonton1965 『近松秋江と「昭和」』613頁(大正3年5月19日)には「四条縄手大和橋上ル玉の家に投宿」とあります。しかし後には秋江も幹彦も「葉村家」とだけ書いているので(滞在時は手紙の差出人住所にも葉村家方と書いている)、旅館としての実名も玉の家から葉村家に変わったのだろうと思います。
03-17 11:52
て京都の俳優です」とあります。
沢豊彦の『近松秋江と「昭和」』、『近松秋江私論』の年譜にある「玉の葉村家」は、上記の「玉の家」と「葉村家」とを混ぜていると思われます。
「玉の家」の屋号がこの後「葉村家」に変わったのでしょう。
03-17 02:15
近松秋江「秋声氏と久雄氏とに」(「読売新聞」大正4年5月9日。全集10巻235頁)に「私の今泊つてゐる祇園縄手通りの玉の家といふ家は(中略)宿屋とはいひながらも看板もかけてゐない寂然とした家で、文楽座の人形つかひの名人故桐竹紋十郎の後です。(中略)今はその倅の代です。長男は嵐和三郎といつ
03-17 01:08
@tonton1965 秋江の交友関係から考えると、その3人ですね。
最後の方にある「遠方のT」が引っ掛かりますけど。
03-16 23:04
@tonton1965 はい、そうです。近松秋江全集に翻刻されていない長文の書簡もありますよ。
03-16 22:59
ただ、「遠方にゐるT氏」という秋江の記述を信じれば、秋聲の住んでいる本郷森川町1は牛込区赤城元町16からそんなに遠方でもないので、「冬の日かげ」のT氏が秋聲という見立てはちょっと苦しいかな。
03-16 22:24
「冬の日かげ」(近松秋江全集第7巻309頁中段7行目)の「折から十月十二日の月は」が「十一月十三日」の誤記と考えれば、この葉書を投函したすぐ後(1時間後)に秋聲とNが再度訪ねてきたと…
近松秋江、徳田秋聲宛書簡(葉書)大正6年11月13日。
牛込区赤城元町十六 徳田秋江
十一月十三日夜
https://t.co/c9KkvFULus
03-16 22:10
@tonton1965 これは、秋江の牛込区赤城元町の居宅にTとNが訪ねてきたように読めるのですが。
03-16 21:32
@tonton1965 徳田秋聲全集別巻年譜には、そのころ彼が奈良へ行ったという記述がないんですよね。「冬の日かげ」を見てみます。
03-16 21:12
@tonton1965 それは、どこに書いてありますか?
03-16 21:03
この書簡、徳田秋聲全集別巻年譜51頁には「〔大正6年10月〕13日付で箱根芦ノ湖滞在中の秋江から、秋聲と中村武羅夫と両人宛の手紙、この後もしばしば来る」とありますが、近松秋江全集第13巻書簡集31頁所収の当該書簡は「9月13日」付とあります。徳田秋聲全集年譜の誤記か。
03-16 21:03
姜尚中さんは、座席の端っこに端然と座って、誰からも話しかけられないようじっと瞑目しておられました。
(話しかけるなオーラがすごかった)
#生で見たことある有名人
03-16 14:50
@tonton1965 そうですね、新聞や、京都で出ている小冊子などでわりとよく写真をお見掛けしました。
03-16 14:11
@tonton1965 中公文庫『大田垣蓮月』のカバー見返しに顔写真が載ってましたし、京都の文化人としてはそこそこ有名人だったと思います。
03-16 13:56
本上まなみ(京都市内)
熊澤枝里子(渋谷)
石平(京都駅構内)
森本忠夫(京都府庁前)
島木譲二(梅田地下街)
そのまんま東(烏丸丸太町)
志賀廣太郎(四条寺町)
ホラン千秋(茶屋町)
市田ひろみ(京都市内)
以上、街で偶然見かけた人限定です(辻立の政治家除外)
#生で見たことある有名人
03-16 13:40
加藤周一(京都駅構内)
杉本秀太郎(京都市内)
塚本邦雄(ジュンク堂京都店)
浅田彰(ジュンク堂京都店・河原町等)←一番よく見かける
パンツェッタ・ジローラモ(渋谷)
平幹二朗(河原町)
明石康(東京駅構内)
姜尚中(京阪電車車両内)
堀井令以知(京阪電車車両内)
#生で見たことある有名人
03-16 12:37
近松秋江、徳田秋聲宛書簡(葉書)大正8年3月2日。
京都 縄手通り 葉村家方 徳田秋江
三月二日
https://t.co/mUjJicBIir
03-16 00:21
近松秋江、徳田秋聲宛書簡(葉書)大正8年2月25日。
京都 縄手通 葉村家方 近松秋江
二月廿五丶
https://t.co/qEK4ZDh4Yv
03-16 00:05
沢豊彦『近松秋江と「昭和」』434頁に「徳田秋声の作品「卒業問題」」とありますが、『卒業間際』(「中央公論」大正15年1月)の誤りです。
同じ頁で2箇所間違えてるので、誤植ではなく筆者の勘違いですね。
03-15 23:01
@tonton1965 そんな出典は存在しないかも知れませんし(沢豊彦さんの誤記)。
03-15 22:22
@tonton1965 わかりません。屋号の一部(「玉の葉村家」で店名)か、東西南北のように場所・方角を示す文字の誤記、誤植か、いずれにせよ「玉の葉村家」と書かれた出典が明らかにならないことには何とも言えませんね。
03-15 22:19
@tonton1965 私は「北」かも知れないと思い、稲臣等編『帝国旅館全集』(交通社出版部、大正2年)、全国同盟旅館協会編『全国旅館名簿』(神田屋商店出版部、大正15年)を調べましたが(念のため「全国旅館名簿」昭和16年版も)、「葉村家」の記載はありませんでした。
03-15 21:48
ババロアじゃないけど一緒に記念撮影しておきました。
あっさり甘酸っぱくて、とても美味しかったです❤
#とちおとめのババロア
https://t.co/cq3yGsxHOy
03-15 20:22
@tonton1965 別のところに纏めましたが、沢豊彦本の大正4年4月6日の項にのみ「葉村家」の前に「玉の」が付いてますね。
長田幹彦も「近松氏のゐられた葉村家の二階座敷」(「長田幹彦・岡本綺堂集」月報)と書いていますし。出典にそういう記述がある、あるいは種本の誤植かもしれません。よく分からないです。
03-15 20:11
秋江私論――青春の終焉――』301頁)
「二月廿七日京都縄手葉村家にて」(「一日一信」(「読売新聞」大正8年3月1日)全集第13巻111頁)
「京都市繩手通り葉村家の二階座敷に転宿する」(沢『近松秋江私論』306頁)
沢豊彦本の大正4年4月6日の項にのみ「葉村家」の前になぜか「玉の」が付いてますね。
03-15 16:29
【葉村家】
「大正4年4月6日、長田幹彦と流寓(中略)、祇園縄手通り大和橋玉の葉村家(歌舞伎嵐和三郎の屋号)の二階六畳の小間に投宿」(沢豊彦『近松秋江と「昭和」』615頁)
「4月6日、京都へ。長田幹彦と流寓、祇園繩手通り大和橋玉の葉村家(歌舞伎嵐和三郎の屋号)に投宿する」(沢豊彦『近松
03-15 16:28
ホワイトデー💑
https://t.co/E0BFWihB5c
03-14 21:51
のせいではないか? 浦子自身が朝之助に身を任せたのは、やはりあの淫奔な母の子だからか…。それらはみな思い過ごしかも知れないのですが、あらゆる不運に母の影がちらつき、浦子を苦しめます。
表題の『呪咀』とは、浦子が母親から背負わされた(と思われる)全ての不運を指すということでしょう。
03-14 17:36
浦子の母は周囲からふしだらな女性と見做されていて、浦子はずっとそのことを気に病んでいました。母が贔屓にした役者の息子の顔が、どうやら浦子に似ている。そして浦子の前夫・俊吉が妻を捨てた理由の一つは、浦子の実父がその贔屓の役者かも知れぬという疑いを抱いたため。店が傾いたのも母の乱脈さ
03-14 17:20
週刊読書人ウェブ:〈小説(語り)が抱える悪意 本谷有希子「静かに、ねえ、静かに」/木村紅美「羽衣子」〉
坂口周(福岡女子大学講師)
https://t.co/vbqJKuC9mZ
〈小谷野敦「とちおとめのババロア」(文學界)。フランス文学を専門とする三八歳の大学教員である純次が「ネットお見合い」を通じ…〉
03-14 15:11
自分にとって誰よりも大切な存在であることに気付き、夫婦らしい愛情が芽生えた、というのはありがちな結末ですね。私は浦子の感情の変化をすんなり受け入れられました。
全集巻末の紅野敏郎解説は、ボロクソに近い評価ですが、そこまで悪くない。紅野さんの批判は幾分ない物ねだりです。
03-14 12:45
マシな方では…。秋聲の通俗小説のヒロインの相手役といえば、とかく怠惰で薄情で傍観的な人が多い中で、彼は働き者で愛情が深く優しい誠実な人物だと思いました。自分の悪いところもちゃんと自覚して謝ってますし。ずっと朝之助の愛情を受け止めようとしなかった浦子が、彼が死病に憑り付かれて初めて
03-14 12:44
徳田秋聲の通俗小説『呪咀』はなかなか良い小説でしたよ。男女の関係がああでもない、こうでもない、と煮え切らず腐ったように続いていくところが秋聲らしいです。それから私は、浦子の二度目の夫・朝之助に好感を持ちました。ちょっと浮気はしましたが、まあ大正時代の商人で、この程度の女遊びなら
03-14 12:44
「浦子は悶はしげに」(『呪咀』四四)
「悶ふ」は「わずら‐ふ」
03-14 12:24
【押つ皮(おしっかわ)】
「僕ももう少し熱情があつて、悪く言えば押つ皮が強ければ」(徳田秋聲『呪咀』四三)
「大抵頭の悪い、押つ皮の厚い人間ばかりですからね」(『道尽きず』「面会者」)
「押つ皮が強い」「押つ皮の厚い」は「面の皮が厚い」くらいの意味かしら。
03-14 12:14
TLに「つらい」「しにたい」等々、不景気な言葉が飛び交っているので、
「あ~幸せ😌🌸💓 満たされてる~」
とつぶやいてみる(*^^*)
03-14 08:22
【メートルを揚げる】
「浅井夫人はメートルを揚げるのであつた」(徳田秋聲『呪咀』四一)
「メートルを上げる」は、酒を飲んで気炎をあげる。勢いがよくなる。メーターが回る〔日国〕。この場合、浅井夫人は酒を飲んでないので、単に「気焔を上げる」意。
03-13 17:11
【尾】【交合ふ】
「その尾についてちよつと訪ねてみた」(徳田秋聲『呪咀』四〇)
「尾」の読みはたぶん「さき」かしら。
「力めて交合ふことにして」(『呪咀』四一)
「交合ふ」の読みは「つきあ‐ふ」。為永春水「春色梅美婦禰」巻之八に「以来はその気でお交合(つきあ)ひ申しやせう」
03-13 17:09
#このタグ見た人は2文字で自己紹介する
貧乳
03-13 14:00
「シュウマンが「タンホイザア」に作者の天稟を認めつつも旋律に不満をもらしてゐるのも、たとへばかういふところではなからうか」と指摘するなど、わりと批判的。
昭和26年当時の日本でのヴァーグナー評価をある程度反映してもいるでしょうね。今からは想像できないほど知られていなかった。
03-13 01:51
ワアグナア『さすらいのオランダ人・タンホイザア』(岩波文庫、1951年)の高木卓の解説は、「ワアグナア音楽に無条件に没入しえない一理由」を羅列し、ワアグナアには「耳にさからふいやな音楽」があり、
https://t.co/YUsBp8Hecf
03-13 01:43
先日のスコアは、セザール・フランク《交響曲ニ短調》の第一楽章でした。私がゾクゾクすると言ったのは249小節(カラヤン&パリ管弦楽団の演奏で11分36秒あたり)から。
このカラヤンのCDは私が物心つく前から家にあったものです。右側はザンデルリンク盤。 https://t.co/5S6NdATpj5
03-13 01:19
寝込んでたとき、ズッキーすごく優しかった。
でも、トイレまで送ってくれなくても (*^^*)
(夜のことね🌃)
03-13 00:46
昨日(3月12日)は初キス記念日でした💋
なのに私の風邪のせいでキスが、うう…
03-13 00:29
@tonton1965 以上は、中尾務「『疑惑』系列作品の成立とその構図――〈理想化〉としての秋江私小説――」(「日本近代文学」第28集、昭和56年9月。93-105頁)に詳述されています。
03-12 20:51
@tonton1965 近松秋江「飯にした女難」(「新潮」昭和2年7月。全集11巻495頁2~3段目)に、大正元年8月20日過ぎに「その女敵討ちのやうな気持ち」で東京を出発し、オー市を訪ねたが「九月初であつたか」「手がゝりはなかつた」とあります。
03-12 20:45
小谷野敦さんの『忘れられたベストセラー作家』の本文に島田雅彦の名が出てくるのは、この一か所のみですね😄
戦前の「顔写真付き男流作家」といえば、岡田三郎とかかしら?
03-12 16:35
〈最近、文藝評論家の大杉重男が、川上未映子を「顔写真付き女流作家」とブログに書いたら、(中略)川上がそのことを怒って、こういう言い方は女だからされる、と差別であるかのように言っていた。しかし島田雅彦などは「顔写真付き男流作家」だろう。〉
小谷野敦『忘れられたベストセラー作家』
03-12 16:29
「芳子は道端の赤のおまんまや、名もない黄色い花などを摘みながら、それから夫へと敏捷に動いてゐた。」
徳田秋聲『呪咀』三八。
赤まんま(赤まま)は犬蓼のことですよね。小さい女の子がおままごとで、犬蓼の花を扱いてお椀にあつめて、お赤飯にみたてて遊ぶから赤まんま。
03-12 12:35
「私を触ったあとは、よく手を洗ってね」
「洗ってばっかりになっちゃうね」
03-12 04:32
私は風邪のあと咳喘息になる傾向があるので、咳が癖にならないようお喋りも控えめにしています。でもつい話しかけて咳き込んでしまいます。
風邪をうつさないように、寝るときも私はマスクしてます。でも目が覚めるといつも外れています。
キス禁止です😅
03-12 04:00
先週、Twitterを3日間更新しなかったのは、8度以上の熱が出て臥せっていたからです。
その間ズッキーはお仕事でしたが、ご飯を作り置きしてくれたり夜診に連れてってくれたり優しかったです。
今は体温は6度台に戻りましたが、喋ると咳が出ます。
03-12 03:58
@tonton1965 以上は「近松秋江全集」第1巻の中島国彦解説(巻末4頁)に書いてあります。
03-12 03:14
@tonton1965 明治44年5月24日の「読売新聞」の「よみうり抄」に、「徳田秋江氏は両三日前出発故郷岡山に赴きたる由」と書かれているので5月21日頃と推定できます。同6月8日のよみうり抄には「両三日前帰京す」とあります。そのあと漱石を訪ねて旅の経緯をペラペラ喋るわけですね(漱石日記、明治44年6月7日条)。
03-12 03:13
70頁に徳田秋聲のアパートの話が出てきます。
秋聲は円本の収入でアパートを建てたと言われております。
#忘れられたベストセラー作家
03-12 01:04
小谷野敦『忘れられたベストセラー作家』(イースト・プレス)、買ってきました。ヨレヨレ、クシャクシャの紙に見えた表紙カバーはどうなってるのかと思ったら、そういう紙の画像をカバーに印刷してたんですね。
https://t.co/1iyyB4CVEV
03-12 01:00
反対した2人と棄権した3人(らとその一族)の運命が気にかかります。
https://t.co/RuEIQl8xn2
03-11 22:33
@tonton1965 そうすると、白鳥がおきみのもとにおりおり通っていた時期、ということになるでしょうか。
書き上げたのはもっと前かもしれませんけど。
03-11 21:24
@tonton1965 「その地獄も丁度三月の初め頃からその土地にゐなくなつて了つた。――尤も後に間もなく、長田が何処かへ隠してゐるといふことだけは分かつた」
『執着』の終わりの方ですね。
正宗白鳥『動揺』は明治43年4月号の「中央公論」発表ですが、当時の原稿の締切日はいつ頃でしょう。
03-11 21:12
@tonton1965 沢豊彦氏作成年譜のように「三月上旬」と見做しても、ちょっと辻褄があわないですね。『流浪の人』にはおきみを田原町に住わせて「をりゝゝ」そこへ通った、とありますし。
03-11 14:27
@tonton1965 島田論文の言うように明治43年「3月末」に「浅草田原町の知人の家に二階借りして住まわせるようにな」り、「そのあと」4月13日の「サンデー」72号で「先日拘留二十日といふ灸をすゑられた太田きみ子」と報じられ、ということですと、ちょっとおかしい気がします。
03-11 14:08
@tonton1965 「サンデー」72号(明治43年4月13日)のゴシップ記事「正宗白鳥『動揺』の実説…女主人公は蛎殻町の淫売…」にある、蛎殻町の高等淫売で、先日拘留二十日といふきついお灸をすゑられた太田きみ子、云々のことですね。
03-11 13:58
島田論文(「国文学研究」第78巻)の引用は年譜形式で、「三月、初旬、お君姿を消す」に続けて「白鳥、部屋代を出し」お君を住まわす、と書き、『流浪の人』を註に引いていますが、姿を消したのが初旬で、白鳥が田原町に住まわせたのが月末と取れば、島田論文の間での辻褄は合います。
03-11 12:17
『流浪の人』八で白鳥が「僕も櫻の咲くころ、久しぶりに郷里に行つてこようと思つてゐる」と語っているのは、きみ子を浅草田原町の二階に住まわせてから「しばらくの間」が経過した3月下旬と思われるので、「三月、初旬」のほうが納得は出来るのですが…
03-11 01:43
を浅草田原町の知人の家に二階借りして住まわせるようになったのは、三月末であり」となっていて、どちらが正しいか今のところ即断しかねます。
https://t.co/6j7lpUlJ8y
03-11 01:24
島田昭男「近松秋江私論――初期の小説を中心に――」(「国文学研究」第78巻、昭和57年)87頁には「三月、初旬、お君姿を消す」とあり、
https://t.co/pIcmyV2rp9
それより後に書かれた「近松秋江私論――「うつり香」について――」(「恵泉女学園大学人文学部紀要」第4号、平成4年)12頁では「白鳥がおきみ
03-11 01:16
「彼女おきみ(引用註:太田きみ子)は淺草田原町の知合ひの家に二階借りして、將来何をするつもりか、せいゝゝした態度でそこで過すやうになつてゐた。それでその部屋代は私のふところから出る事になつた。私は物珍しい氣持でをりゝゝ其處へ通つてゐた」
正宗白鳥『流浪の人』(初出『近松秋江』)八
03-11 01:15
@davu0628 「文藝春秋社出版部」でしょうか。
03-10 23:29
アイスクリームを「飲む(呑む)」と書いてあるからといって、固まっていない液状のアイスクリームをごくごく飲んだわけではなく、口に入れても噛まずに舌の上で溶けて飲み下せるから「のむ」という表現になったのでしょうね。
現代の語感だとちょっと違和感がありますけど。
03-10 17:32
@pouvoirmagique ありがとうございます。昔はアイスクリームを食べることを「飲む(呑む)」という場合もあったようですね。
03-10 17:14
夏目漱石は日記に
「アイスクリームを一杯呑む」(明治43年8月7日条)
「氷屋でアイスクリームを呑む」(明治44年7月11日条)
と書いていますし、竹久夢二の『砂がき』には
「ゆつくりアイス・クリームを呑む気にもなれない」
とありますね。
03-10 17:07
@tonton1965 『別れたる妻に送る手紙』の「忘れもせぬ十一月の七日の雨のバラヾヽと降つてゐた晩であつた」に依るのでは、と思います。
03-10 12:50
谷崎潤一郎『柳湯の事件』(『小さな王国』天佑社、大正8年6月、所収)に「御馳走に出されたアイスクリームをすゝりながら」「私が手にして居たアイスクリームの飲みかけのコップ」等の記述があります。
03-10 11:41
徳田秋聲『呪咀』三六。夏の盛り、臨月が近付いた浦子は、「アイスクリームばかり飲んでゐた」
「アイスクリームのコップなどが其処に残つてゐた」
飲むアイス? クーリッシュみたいな感じかしら。
03-10 11:08
中腹【ちゅうっぱら】(怒りを発散できないで、むかむかしていること。*徳田秋声『呪咀』全集92頁下「朝之助は中腹で言ふのであつた」)
小腹が立つ<中っ腹<立腹の順に怒りは大きくなる?
悦しい【うれし‐い】(*同、94頁下「朝之助は悦しいのか、不安なのかわからないやうな表情をしてゐた)
03-10 02:30
栗原裕一郎「文芸最前線に異状あり」〈天皇制の諸問題に意表を突くやり方で切り込んだ出色作〉(「週刊新潮」3月15日号、136頁)の『とちおとめのババロア』書評より。
「徳田秋聲を研究しているとプロフに書く女・雍子に出会す」云々。
https://t.co/KqPrd4ThbW
03-10 01:38
「隠険とか奸[女+矞]とか云つては語弊があるけれども、いくらかいぢけた気分をもつてゐた」
徳田秋聲『呪咀』二四。
奸譎(カンキツ/カンケツ)は、よこしまで心にいつわりが多いこと。またそのさま。中島敦『文字禍』に「奸譎な文字の霊の復讐」とありますね。秋聲はここで譎に女偏を用いています。
03-06 23:34
「彼は中国の方の、磽确(ゆうかく)な上地の或寒村に産まれた」
徳田秋聲『呪咀』二四。
磽确(コウカク/ギョウカク)は、小石などが多く、地味がやせた土地。また、そのようなさま。ルビの「ゆうかく」は「げうかく」の誤植か。
03-06 22:43
@tonton1965 秋聲が「長田君の「永遠の謎」は近来嘱目(ママ)の作と思ひます。貴兄も御熟視のことと思ひます。」と褒めているので、秋江が長田幹彦に譲ったのでしょうね。
03-06 21:19
平川祐弘「今の皇太子と皇太子妃殿下に、摂政としてあるいは天皇皇后としてのお務めは無理。適応障害なら、それを理由に皇室典範には、適応障害の皇族は臣籍降下の記載を付け加えても良い。」
(「Will」2016年10月号)
『とちおとめのババロア』212頁下段18行目。
03-06 20:59
陛下の「退位」専門家へのヒアリング開始(日テレNEWS24 2016.11.7)
https://t.co/Ra0tT4iqB8
平川祐弘「(陛下が)ご自分で定義された拡大された役割を果たせないから退位したいというのは、そのお考えはちょっとおかしいんじゃないかと私は感じました」
『とちおとめのババロア』212頁下段13行目。
03-06 20:58
@tonton1965 ①大正2年6月〔日不明〕(絵葉書。徳田家所蔵、消印・切手なし。未投函か)
②大正9年9月6日(葉書。日本近代文学館蔵)
③大正11年7月15日(葉書。村松美代子所蔵)
の3通だけです。秋江の秋聲宛書簡はCD収録分を含めると67通もあるのに。やっぱり秋江が所持していた書簡は焼けちゃったんでしょうね。
03-06 20:11
だって、なま物とか腐ってきそうなんですもの…
(無茶苦茶言ってます😁 冗談ですよ)
03-06 18:51
18時からBS-TBSでやってる時代劇が今週の月曜から武田鉄矢の水戸黄門に替わったお蔭で、同じ時間帯にBS-日テレでやってる桃太郎侍の視聴率が上がったりしてないかしら…
私は今週から桃太郎侍をつけて晩ごはん作ってますけど😅
03-06 18:42
とりあえず、私が付けている徳田秋聲ノートには
「泌む(はぐ-む)」『路傍の花』「男の心」(四)←「沮む(はゞ-む)」の誤植か。
と書いておきます。
03-06 13:03
そうか、徳田秋聲『路傍の花』「男の心」(四)にある「泌む」のルビ「はぐ-む」はたぶん「はゞ-む」(はば-む:気持ちがくじける。ひるむ)の誤植だわ。『呪咀』二四に「妙に気が沮んで(はゞ-んで)為方がなかつた」とあるので分かりました。
親字の「泌」も誤植かもしれませんが、即断は控えます。
03-06 13:03
@oldpicture1900 @ameba_official 古井由吉原作、伴睦人監督作品《杳子》は、杳子役が石原初音、その恋人の青年役が後藤和夫、杳子の姉が山口小夜子ですが、知名度の高い山口がキャストの筆頭に書かれていたせいか、映画.comを始め標題役を取り違えている例が散見されます。映画では「杳子の姉」は演ずる山口と同じトップモデルの設定。
03-06 11:22
@oldpicture1900 @ameba_official これは杳子役の石原初音さんです。リンク先のブログは間違っています。
山口小夜子は伴睦人監督作品《杳子》に「杳子の姉」役で出ていますが、写真は山口さんではありません。
03-06 11:12
徳田秋聲「紅葉先生と私」(「経済往来」昭和8年7月)に、「私が初めて先生の牛込の玄関を訪づれたのは、私が徴兵検査に落第した、多分翌年の三月末か四月初旬頃のことで」とありますので、秋聲の記憶が確かなら、明治24年、21歳の時に徴兵検査を受けたことになります。
https://t.co/5tWxU3svrz
03-06 09:21
加筆訂正しました。
おかしいところ、「要出典」なところがあればご指摘下さい。
03-06 06:41
私がTwitterに書いた発見を、論文で出典(Twitterからblogに自動保存された方)のurlを明記して言及して下さった紅野謙介さんってすごい、とずっと思ってます。
03-05 23:34
東さん怒ってる。
あんまり低レベルのリプライは相手になさらなければいいのに、といつも思います…
03-05 23:04
徳田秋声のウィキペディアに「親族」の見出し追加した人、最近徳田秋聲を囓り始めた学部生くらいの人かしら。読んでてなんかムズムズしてくる。
加筆訂正してあげますか…
https://t.co/b4zLovghJT
03-05 22:28
@tonton1965 ありがとうございます✨
03-05 14:14
また風邪ひいてしまいました。
体温38.4度😵
03-05 00:42
ポモ以降の、主に男性の日本近代文学研究者たちが、やれ柄谷がどうしたの、フーコーやデリダがどう云ったのと、不毛な論文を量産したことを思えば、よっぽど好ましい傾向と思います。
https://t.co/RBtVls2J6Q
03-04 04:06
先日、世評の高いジュリーニ&ベルリン・フィルによるこの曲の演奏(CD)を初めて聴いたのですが、あんまり感心しませんでした。ちょっと平板な感じ(足取りも重すぎるし)。
これだったら、私がよく聴くザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏の方がずっといいと思いました。
03-04 01:31
このへんを聴くと、身体じゅうがゾクゾクッとして官能的な表情になる私(いわゆる演奏家のアヘ顔というやつです)……
ホント大好き (*^^*)
https://t.co/8eZEkXRM4H
03-04 00:49
それから13年後、ずっと探し求めていた運命の人にめぐりあうという出来事があったわけですけど
はい、はい、ごめんなさい、分かってます(^^;
03-03 23:54
私が本格的に徳田秋聲を読み始めたのは 大学3回生の20歳の時に古井由吉の『魂の日』を読んでからなので(それまで『あらくれ』等を手に取ったことは何度もあったのですが)、10代から好きでしたと言えないのはザンネン。
でも、私がずっと求めていた文学作品に巡りあった、という感激がありましたね✨
03-03 23:07
〈長野県から訪れた10代の女性は、「きょうからゲームのイベントが始まると聞いて来た。徳田秋声がとても好きです。楽しみたい」と話していました。〉
美少年ゲームは10代女性にさえ「徳田秋聲がとても好き」と言わしめるのかと感慨一入です。
https://t.co/80eESAk6rT
#文アル #文豪とアルケミスト
03-03 21:32
ひなまつり🎎
お寿司とケーキ買ってきました💑
https://t.co/YHKCRjrimY
03-03 20:27
金沢の文豪記念館スタンプラリー|NHK 石川県のニュース(03月03日)
https://t.co/atLREmhDhx
徳田秋聲記念館前に並んでるの、大学生くらいの女子ばっかりやわ (^_^;)
#文アル #文豪とアルケミスト #徳田秋声
03-03 18:55
ふぅ😵💨
03-03 00:32
文芸雑誌「文學界」3月号に載ってる小谷野敦さんの『とちおとめのババロア』という小説に徳田秋声を愛読する「🙊ピーッ⚡ピッピーッ⚡🙊」の女性が登場しますよおもしろいですよと私がここに書いたところで何の影響力もないけれど一応書いてみる
#文アル #文豪とアルケミスト #徳田秋声
03-02 17:28
ブラ忘れてブラブラ
https://t.co/QXbqIwLtJR
ごめんなさい(^^;
03-02 17:11
手を繋いで歩いてる20歳前後の女子2人連れを河原町で見かけたけれど、そんなにめずらしい光景じゃないですよね。特に若い頃は同性と身体を密着させることにさほど違和感のない女性が多いかも。
だからといって女性の何割かは潜在的にLとかBの素質があると言い切るのはかなり飛躍があると思いますけど。
03-02 17:08
あまおうのタルトですみません😅
(とちおとめのババロア)
https://t.co/mMdysD2cKt
03-02 12:38
まあ、その前の一七章に「朝之助が一時の出来心で為たことでないことは、昨夜の彼の言葉でも判つてゐた」とあることで、身体の関係があったことは明らかなんですけど。
03-02 12:22
「浦子はうつとりした目をしながら閾ぎわのところに身を崩して坐つてゐた。」
徳田秋聲『呪咀』一八。女が男の前で身を崩すということは、すでに身体の関係ができていることを示している、と野口冨士男なら書きそうなところですね(笑)
03-02 12:19
@tonton1965 はい。でも二人で相談して日取りは決めてあります(*^^*)
03-02 12:17
でも、もうすぐ初キス1周年記念日、そしてそのしばらく先には初〇〇〇1周年記念日というのが控えていますので、よくよく心づもりをしておかなくてはなるまい(笑)
ちなみに、同棲記念日は2017年10月17日(火)なので、本日2018年3月2日は、私たちが一緒に暮らし始めてから137日目になります。
03-02 02:24
この日(2017年2月25日(土))にズッキーと初デートしました。それでドキドキしてるのです(*^^*)
https://t.co/mA8Ss5RosE
つまり先月の2月25日(日)は初デート1周年記念日だった訳ですが、私が風邪で寝込んでいたためにご飯を食べに行くことができませんでした😢
03-02 02:07
where all this dust comes from.
(Sarah's quote from "The whales of August")
03-02 01:32
FB、旧石器時代の裸像を検閲 ウィーン博物館が批判
https://t.co/KOit7snQrB
検閲した人はきっと貧乳で、爆乳をみて正気を失ったんだと思います
03-01 20:32
やっぱり、早乙女 2位でした (*^^*)
早乙女麻美って、語呂もいいでしょ♪
あ、今だったら栃乙女麻美でもいいよ🍓
03-01 20:15
私は子供のころ早乙女という名字に憧れました (*^^*)
#日本人のおなまえっ #おなまえっ総選挙
03-01 20:02
「行く所まで行く」←Cまで
03-01 17:32
浦子はおそらく母と同じ過失を犯してしまったことで、自らの罪悪と、淫蕩な母親の血筋と、出生の呪いとを思って苦しんでいるようです。
03-01 17:14
〈「私はやつぱりあの御母さんの子だつたのだ。」浦子はさう思ふと、浅猿しかつた。出生の醜さが、不快さが、忽ち彼女の頭脳を濁らせた。
幸若や、その父のことも思浮べられた。〉
徳田秋聲『呪咀』一六。
03-01 17:13
店を取り仕切っている朝之助と、修善寺の宿でこういうことになったわけですが、引用のあと改行が一つあって、翌朝の描写に切替わります。
2人が前夜どこまで行ったか何も書いてないんですが、翌朝の浦子の後悔ぶりから察するに、やっぱり行くところまで行ちゃったのかしらね。
03-01 17:11
眞子さんのことでしょ
#あと2年
03-01 13:27
〈「わたしもう駄目。」浦子はコツプを下におかうとした。
朝之助は、するとこれも殆んど発作的に、その手首を捉えて、何か云ひながら、コツプを燃ゆるやうな自分の口へもつて行つた。そして残つたその一口が、また浦子の口へ注ぎこまれた。〉
徳田秋聲『呪咀』一六
夫に理不尽に棄てられた浦子が、
03-01 12:53
@shuseimuseum 開幕おめでとうございます。
今更ですが、「磯多」でなく「礒多」です。
03-01 09:40
2月23日(金)と24日(土)は風邪で体温が7度5分以上あったので、数値は入力してるのにグラフには表示されません。そういう仕様なのね。
https://t.co/7TVPWn1iNU
03-01 01:32
Кент Нагано — мировой дирижер
https://t.co/Q6enZudXDS
02-28 21:17
ケント・ナガノ (Kent George Nagano) さん。
撮影:Владимир Вяткин.
Музыка Вагнера на лице выдающегося американского дирижёра Кента Нагано. Фото Владимира Вяткина.https://t.co/UZvUkDAkBz
https://t.co/xkz3a4y2k9
02-28 21:05
「朝之介は先刻雫をしたんだ猪口を取あげてゐた」
徳田秋聲『呪咀』一四。
したむ (湑む・ 釃む):水分が残らないように、しずくを垂らし切る。
傾けたりひっくり返して雫を切るから、漢字で「下む」と書くのかと思ってました😅
きれいな表現ですね。
02-28 17:39
『呪咀』一四章に描かれている鯉のたくさんいる池は、修善寺の新井旅館(秋聲がそれまで幾度も訪れた名旅館)の「華の池」でしょうね。
浦子が娘の芳子と子守を連れて山上の遊園地や頼家の廟、梅屋敷や旭滝に行楽したことにも、さらりと触れられています。
02-28 17:36
浦子が湯治に訪れている修善寺の宿の池の鯉の描写。これ好き(*^^*) 情景が目に浮かびます。
秋聲の通俗小説では、ヒロインが必ずといっていいほど避暑や湯治に訪れるんですが、行先は酒匂とか三島とか修善寺とか、伊豆近辺が多いですね。執筆のためしょちゅう訪れてるから、取材も不要ですしね😉
02-28 13:02
〈日はもう翳りかけて、先刻から芳子が投与へてゐる麩の片を追ひながら、うよゝゝ群をなしてゐる緋鯉や真鯉の脊が、西日に綾を織つてゐた。池のなかにある小島に簇生した松の新葉が鮮やかに脂ぎつたやうに光つて、その影が水に倒(さか)さに映つてゐた。
「大変な鯉ですな。」〉
徳田秋聲『呪咀』一四
02-28 12:43
RT @cjackano: @tonton1965 @kameiasami TV動画アプリで確認しました! 複素数平面を用いて解いています。 岡潔は2種類以上の文字(変数)を含む複素函数論の理論を構築していくわけですが、背景にはリーマンに端を発する1種類の文字のみの複素函数論があり、さらに遡るとガウスが大成した複素数平面があるため、題材としても悪くないかな、と
02-28 06:48
割り出せる。
K_1 = -1 + i + iS
K_2 = 1 + i - iS
(K_1 + K_2) × \frac{2}{1} = 2i × \frac{2}{1} = i
i = 遺産
#天才を育てた女房
https://t.co/FxRPdGitNJ
02-28 00:46
其処に2つめの杭を打て。
遺産は、2つの杭の真ん中に埋まってる。
【潔】井戸を-1として、同じ歩数だけ直角右に行った地点が1つ目の杭、それをK_1とする。お稲荷さんを+1として、同じ歩数だけ直角左に行った地点をK_2として計算する。この計算でたとえお地蔵さんの位置がどこでも千両箱を埋めた場所を
02-28 00:39
ドラマ「天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~」より、埋められた千両箱の話。
【みち】地蔵の前に立ち、井戸に向かって歩数を数えながら歩け。それと同じ分だけ井戸と直角右に進んで其処に杭を打て。(註:地蔵は既にない)
今度は地蔵からお稲荷さんまで歩き、同じ歩数だけ直角左に歩いて
02-28 00:38
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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