タネーエフ四重奏団がロストロポーヴィチと録音したシューベルトの弦楽五重奏曲ハ長調 D956がなかなかの豪演(メロディア)。とくに終楽章がすごい。
07-24 23:59
X――エックスでネタになりそうなものを探しましたが、うちにはこれしかありませんでした。
ヤニス・クセナキス:《メタスタシス》、《ピトプラクタ》、《エオンタ》
指揮:モーリス・ルルー
管弦楽:フランス国立管弦楽団
ピアノ:高橋悠治
https://t.co/egRLhMScmo
07-24 23:27
初エックスです
07-24 21:43
「卯杖」明治37年10月25日[花野想像]
などは略々それ
(下ばかり見る徳田秋聲)
https://t.co/axuMzymWRH
07-23 22:04
そして世界の風潮に断固抗うように、愛煙家・宮崎駿は健在でした😅
#君たちはどう生きるか
07-23 22:00
血と血縁のイメージは各所に張り巡らされていますね。この世界を継ぐ者は血縁でなければならないというのはかなり危険な思想。
また、おそらく多くの世界のうちの1つである「下の世界」の崩壊は「わらわら」(将来生まれ出る生命)の死滅をも意味していて、地上の世界大戦での大量死を暗示しています。
07-23 16:51
《君たちはどう生きるか》におけるベックリンの引用は、宮崎駿氏がその作品の美とペシミズムに淫しているという側面と、他方では当時ナチスがそれに付与した「血と大地」のイデオロギーや、西洋の没落、世界の終焉といったイメージの暗喩でもあるのでしょうね。
07-23 16:24
宮崎駿監督作品《君たちはどう生きるか》では、ベックリンの《死の島》へのオマージュ作品(例えば、Sven Beckman "The Seventh Sail" 1997, "Dock o' the Bay" 1997)を彷彿とさせる表現(雲間から鋭い月光が射す)もありましたね。
https://t.co/1wz6wFgfUw
07-23 16:17
最近、私の過去のこのツイートが「いいね/リツイート」されることが多く、不思議に思っていたのですが、なるほどそういうことだったんですね。
#君たちはどう生きるか #ベックリン #死の島
https://t.co/nJGnTpJLO5
07-23 06:28
宮崎駿監督作品《君たちはどう生きるか》を観て来ました。たいへん面白く、一瞬も退屈することはありませんでした。良かったです。《千と千尋の神隠し》のテイストに近いですかね。
《風立ちぬ》でもその一端は窺えましたが、宮崎駿監督があそこまでベックリンがお好きとは、意外でした。
https://t.co/ALs4dgGgwm
07-23 06:18
ザツヘルーマゾツホ(ザッハー=マゾッホ)作、徳田秋聲訳(代訳)『復讐』(「読売新聞」明治39年6月10日「日曜附録」)の原作 »Theodora, Eine rumänische Geschichte«.
音楽はショスタコーヴィチ《弦楽四重奏曲第9番変ホ長調作品117》、演奏はタネーエフ四重奏団。
https://t.co/yBkxfUBACi
07-19 23:47
衰弱気味が看取された。現代の若い人々は、これでは駄目だ。逞しさを失ひかけてゐる。豊かな潤ひをあたえたいものだ」とつくゞゝ述懐された〉
小林三郎「在京人の郷土協力方策」(「文化日本」昭和18年4月)
https://t.co/RwvtwuBosY
昭和17年2月に石川県文化振興会顧問として帰沢した時の話ですね。
07-19 19:33
【現代の若い人々は……】
〈徳田秋聲氏は、郷土に対する愛着は別として、積極的な感情をもつて居られなかつたが、昨年本会が金沢市で初の懇談会を開いた際何年振りかで老軀を提げて帰郷、出席され、座談会に放送に活躍された。その際「久し振りで金沢の青年に会つて話を聞いてみたが、なにか神経
07-19 19:33
織田作之助「映画と文学」(「映画評論」昭和19年9月)
https://t.co/uSzAWCftNf
やはり芥川龍之介の「人生は一行のボオドレエルにも若かない」を意識した表現かなと思います。
07-19 19:31
【徳田秋聲の一行にも及ばない】
「良心的な映画作家はリアリズムを追求することによつて、自己の芸術的意欲を満足させて来た。シナリオ作家も自然主義小説のやうな些末主義的描写をものすることに、作家的情熱を傾けた。しかし、(中略)結局それは徳田秋聲の一行にも及ばなかつた」
07-19 19:31
原奎一郎「一途の思ひ」(「日本文学者」昭和19年6月)
https://t.co/5Ln33iGnNS
原の徳田秋聲論。
07-19 19:29
【孽(わざはひ)】
「天の作(なせ)る孽(わざはひ)は猶避けつべし」
林義端「玉箒子」(元禄9年板行)巻3-2「増田入城」より。
07-19 19:26
【新刊書】
道籏泰三編『中上健次短篇集』(岩波文庫、2023年6月)
J・バルトルシャイティス著、西野嘉章訳『新版 幻想の中世 ゴシック美術における古代と異国趣味』(平凡社ライブラリー、
https://t.co/HfwNRB37d4
07-18 17:13
左からだんだん歳を取っていく
(金沢駅観光情報コーナー内の展示コーナー)
https://t.co/SvQkMbHf6q
07-17 21:07
これは私の結婚後の現姓名を入れたら出てきた人(笑)
ちなみに徳田秋聲と入れてみると知らんお兄さんばっかり出てきました。
https://t.co/A2kTIt69kR
07-17 21:04
画像生成AIに私の特徴を読み込ませたら、こんな人が生成されました😅
うーん、確かに文学オタクっぽくはあるし、ちょっと似ていなくもないし、なんとなく親近感を抱きますね。
https://t.co/1fDmyDMt3S
07-17 20:41
ましたが、当時は「渦巻蒲鉾」の方が一般的な呼び名だったんでしょうか。
「渦巻蒲鉾」(『大辞典』第3巻、昭和9年9月)
https://t.co/glM3WVLbz4
「鳴門巻」(『国民百科大辞典』第10巻、昭和11年7月)
https://t.co/r2shPQSIHz
尾崎紅葉は、まあ生粋の江戸っ子ですね(笑)
07-17 14:40
口に持つてゆきかけると、先生が突然『なんだ泉。羊のケツのやうなものを食つて』と云つたので、泉君、さあ困つてね……」
真山青果「風葉先生酔中語」(『真山青果随筆選集』第3巻、大日本雄弁会講談社、昭和27年12月)
https://t.co/rtURIyDvqZ
なんで「鳴門巻」の語が出てこないのか不思議に思い
07-17 14:40
【鳴門巻き】
「泉(鏡花氏)で思出したが……紅葉先生御夫婦の間では、彼を『ネズミ』といふ愛称で呼んでゐたらしい。(中略)泉はきつと、今に知らずにゐますよ。」
「その頃の泉君はうどん党でね、おかめとかいふのを注文した。いざ箸をとる段になつて、泉が何とかいふ蒲鉾の赤い渦巻のあるやつを
07-17 14:39
作品を書かずに(仕事もせずに)怠けていても、もう父親に叱られることはない、父の著作の印税とアパートの収入で生活にも困らないとなると、創作意欲がよほど強くなければ、齷齪書く気にもならなくなるでしょうね。
07-17 13:30
前記「病床の秋聲への配慮」については大木志門氏が別の解釈をされています。また、
〈一穂の「優しさ」は父への依存と裏表で(中略)、やはり父秋聲という鏡がなくなると創作はできなくなってしまった〉
秋聲が一穂の「鏡」とは、なるほどと思いました。
しかし私はもっと意地の悪い見方もしていて、
07-17 13:29
大木志門氏が解説された「堂摺連(どうするれん)」について手っ取り早く知るには、Wikipedia「女義太夫」の解説がよく纏まっています。
〈内容が佳境にさしかかると、客席にいる書生らの熱心な見物から、「どうする、どうする」と声がかかった〉
虚子の竹本小土佐贔屓についても記載がありますね。
07-17 12:53
誤:春陽ら
正:春葉ら
もちろん柳川春葉のことです(なぜ送信する前に誤変換に気付かないか問題)。
07-17 12:42
帰郷した際には必ず倉へはいつて、日記に眼を通してくることなどをお話すると、先生は「ぢやあ、あなたがむかう(私の郷里)へ行つてゐるときに出かけてゆけば、見せてもらへるかな」と、につこり笑ひながらいはれたりした。〉
等々、興味深い話がいろいろと書かれています。
07-17 11:32
〈去年の十一月、先生をお宅にお訪ねしたときにも、先生は又々日記の話をもち出され、こんどは「お父さんの日記を一度見せてもらへんものかな」と、真顔でおつしやつた。私が父の遺言によつてまだ当分は公開出来ないことや、郷里の家の倉庫に保管してあること、
07-17 11:32
その言葉は非常に濫用され、今ではずゐぶん俗化したが、あの言葉の元祖は実は私なのだと、先生は思ひ出話をされた。〉
※「劇的光景」(「時事新報」大正9年3月4日)がその記事。実際は「シーン」ではなく「光景」と書かれています。
③秋聲は奎一郎に「お父さんの日記はなかなか名文ですな」と褒め、
07-17 11:31
おもつてゐる」
と言ってのけたこと。
②秋聲はたいへんな原敬贔屓で、奎一郎と会えば決まって原敬の話をした。秋聲は大正9年2月に第42回帝国議会に普選案が上程された時の傍聴記で、
〈議場の水を打つたやうに鎮まり返つた刹那の光景を「劇的シーン」といふ言葉で表現されたのださうである。爾来、
07-17 11:28
【原敬の日記が見たい】
原奎一郎「秋聲と原敬」(「書物展望」昭和19年1月)
https://t.co/9agF7lWF5F
徳田秋聲の追悼記。
①花袋秋聲誕辰五十年祝賀会(大正9年11月23日)で正宗白鳥が
「田山はあんな頑丈さうな恰好をしてゐるが、実は非常に芯は弱い男で、彼はきつと徳田なんかより先に死ぬと私は
07-17 11:28
やり取りについて書かれていて興味深いです。挿絵に一家言あった秋聲は『灰燼』の連載前に挿絵画家との面会を求めてきたとのことで、青起は
「紙上に於ける文と絵との融和といふことに就いての気構へが違ふ」
と、その意図を汲み取っています。
07-17 11:26
【絵組のやりとり】
細木原青起「挿絵の縁で偲ぶ作家」(「書物展望」昭和19年1月)
https://t.co/Pnl7fwX1tV
青起が挿絵を描いた連載物は、徳田秋聲『灰燼』(「中外商業新報」大正10年11月14日~11年7月3日)。単行本は大正11年11月、金星堂刊。
小説家と挿絵画家との絵組(挿絵の指示書)の
07-17 11:24
「新創作」(豊国社、昭和17年1月)所載。
https://t.co/2f9N2ac7A2
これもまた、ペンがへし折れんばかりの力のこもった推薦文ですね。
07-17 11:21
【世界に誇り得る文学】
「現代日本文学にして世界に誇り得るものがあるとするなら、それは徳田秋聲氏の存在である。氏が『新世帯』以来踏んできた道は文学の大道一途であつた。半世紀に及ぶその巨歩は燎乱たる文学の花園を彷彿せしめる。」
徳田秋聲『和解』広告より。
07-17 11:20
真山青果「風葉先生酔中語」(「書物展望」昭和17年2月)
https://t.co/9nRycX4G66
〖参考〗
「明進軒、プランタン|岩戸町」
https://t.co/UPdxOPklxO
07-17 11:19
【明進軒(めいしんけん)】
「○徳田君(秋聲氏)の独断は昔から有名なものだ。塾の貧乏時代、一所に明進軒(牛込通寺町の西洋料理店)に洋食を食ひにゆくと、翌日は腕の脉どころに指をまはしてみて、うう肥つたたしかに少し肥つた、と感心してゐるのでをかしかつた。」
07-17 11:18
同じ雑誌に父が三月か長くて半年も持たないと書けば、それは当然父親の目に入ったことが想像されるわけで、秋聲がそれを知っていたとしても流石にあんまりですね。次号の続編掲載が見送られたのは、本当に一穂が看病で多忙だったというより、病床の秋聲への配慮が働いたのかなと思わなくもないです。
07-16 22:15
https://t.co/JEms5VxYOC
明治30年前後、箪笥町の紅葉宅裏の崖下の十千万堂塾で風葉、春葉らと棲んでいた頃のことですね。記述に好い加減な点はありますが、「黄色い声で英語交りの話をした」「若いのか年寄かわからない顔をしてゐた」「外は陰気に見えて、中々の陽気もの」等、なるほどと思います。
07-16 21:42
若いのか年寄かわからない顔をしてゐた。山田潤子〔ママ〕などの話を聞いて吃驚したであらうが、彼は、どの点からも、横寺町の玄関の壁の外へ錐の尖を見せて、一時は、小土佐全盛時代の堂摺連だつた。外は陰気に見えて、中々の陽気ものだつた〉
斎藤弔花「明治酒客気質」(「理想日本」昭和19年1月)
07-16 21:41
【若いのか年寄かわからない顔】
〈徳田秋聲はその頃から老実で、森川町〔ママ〕に住んでゐたころは、仲間での学者、エンサイクロベヂアなどを買込んで、黄色い声で英語交りの話をしたり、戯作者気質の硯友社の一派とは一風変つたところを見せてゐた。当時秋聲は二十七八歳であらう。
07-16 21:40
最後に「父」が癌宣告されて、三月、長くて半年も持たないと書かれているので、秋聲の文章と併せて読んだ人は暗澹とした気持ちになったのではないでしょうか。
同号には一穂の『提督の手紙』も掲載。
07-16 21:37
(「新創作」第35号、昭和18年9月)
https://t.co/k6GwiHLW6n
なお、徳田秋聲の絶筆となった「病床より」は当誌の第34号(18年8月)に掲載されましたが、国会図書館本はその部分が切り取られています。
https://t.co/POvBSroVtw
第34号掲載の徳田一穂『旅に寝て』では
07-16 21:36
【旅に寝て】
〈前号に於て好評であつた徳田一穂氏の「旅に寝て」の続篇は、残念ながら本号休載の已むなきに至つた。といふのは、前号に於て既に御案内でもあらうが、御父君徳田秋聲先生の御病気のためである。秋聲先生の一日も早い御本復を心からお祈りする次第である〉
椎名麟三「こうろぎの声」
07-16 21:30
【最晩年の写真】
書斎めぐり(その百十六)「徳田秋聲老」
(「書物展望」昭和18年3月)
https://t.co/XDXM965mLY
正確な撮影日は判りませんが、死の約8ヶ月前。明らかに顔にむくみが来てやや相が変わっていますね。
07-16 21:28
小早川秋聲が小秋聲、徳田秋聲が大秋聲、というあまりにも馬鹿々々しい思い付きも、Twitterが不調の今なら呟けます。
07-15 23:14
「大」まで付けるのはちょっと大袈裟ですが、調べて見ると「大秋聲」という表現は『挿話』(昭和17年2月)の広告文でも使われていますね。どちらも桜井均の桜井書店刊です。
07-15 18:09
【大秋聲】
「変転極りなき都会生活は扨て彼女に何を残したか。大秋聲一流の名描写。果して社会は彼女を淪落の女性として指弾し終す勇気ありや否や?」
徳田秋聲『土に癒ゆる』(昭和16年4月)広告文
「財政」(昭和16年6月)新刊紹介より
https://t.co/ls6OF2lN3g
07-15 18:08
「御手紙拝見。しかし私が医師を石川氏に差向けたという記憶はありません。そんな医師の記憶もありません。多分人違いだろうと思われます」
という、昭和14年1月31日付の徳田秋聲から川並宛ての返書は、残念ながら全集に入っていません。
07-15 18:07
さがある)で、実際にそれを行ったのは江馬修であったことが、
岩城之徳「石川啄木の書簡――最終期の天才を彫塑する試み」(「語文」昭和50年3月)
https://t.co/imiJcvmJzH
で立証されています。
ここで岩城が孫引きしている、
07-15 18:06
余り金持ちでは無かつたらしい〉
以上、川並秀雄「啄木と新言語学」(「書物展望」 昭和16年8月)より。
https://t.co/bpGZOYY30N
石川啄木の最晩年(明治45年1月)に徳田秋聲が啄木を診察してくれる医師を探して奔走し柿本庄六医師を連れてきたという話は、川並の捏造(単に「誤り」とはいえない悪質
07-15 18:00
【徳田秋聲でなく江馬修】
〈或日柿本〔庄六〕氏は、親友畔高定行医師に「徳田秋聲といふ文士が態々訪ねて來た、実は非常に可愛さうで……何処へ頼んで見ても来てくれない、それで先生ならと思つて頼みに来たんだと云ふので·……其時は若干の金を払ふ積りでゐたらしかつたが、其の人(徳田秋聲氏)も
07-15 17:59
この写真は額装して部屋に飾りたいですね
(徳田秋聲記念館企画展「東の旅」チラシ)
https://t.co/eFaPdYe9jE
07-15 16:19
私がこれまで見ていた解像度の低い写真では胸から上の切り抜きで、後ろの窓枠がシルクハットの円筒状のクラウンのように見えていたのですが、こうして全体像が判明してみると旅行中であることが判るので、たぶん中折帽の類でしょうね。
徳田秋聲記念館企画展「東の旅」チラシ
https://t.co/zdbVqfkVDs
07-15 08:10
このあと本所区茅場町一ノ八に転居したのですね。
茅場町から本材木町、そしてまた茅場町へ店を移したと。
『日本信用録』明治44年12月
https://t.co/GSks2p4cCY
つまり笹島平太郎の「オイル商会」(本所区松井町一丁目三十七番地)は兄の屋号を引き継いだと考えられます。
07-14 16:42
【オイル商会】
やはり思った通り、嘉吉郎の本材木町の店は「オイル商会」になってますね。多分「オイル商店」ではなく「商会」の方が正しい。
「笹島嘉吉郎 砿油・石油 オイル商会 9年前 日・本材木・二ノ八」
下欄に
「●笹島嘉吉郎は調査後移転々居先不明」
とあります。
07-14 16:37
フォロイーさんが私のツイートを読んで、タネーエフ四重奏団のショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集(韓国 Aulos 盤)を購入したと呟いておられました。
07-14 15:47
徳田秋聲のこの写真、ずっと以前から知ってはいましたが、こんな高解像度で見るのは初めてです。
https://t.co/2VHMjKXBYz
でも秋聲が被っているのが山高帽なのかシルクハットなのか、やはり黒く潰れていて判りませんね。
07-14 15:36
と直してみました。
要するに秋聲の妹フデにはもともと許嫁の青年がいたのに、笹島嘉吉郎の妻すがの思惑と、自意識の強いフデ自身の野心から、笹島の末弟の平太郎に接近した。平太郎は事情を分かっていながらその行動を許したってことですよね。
07-13 21:20
平太郎と云ふ名が、秋聲の耳にふと嫌悪と懐しさの不思議な刺戟を与へずにはおかなかつた。それは、彼の従姉〔すが〕が自分の実家と笹島の家とを結つけるための政略から、恐らく自意識の強かつた妹自身の小さい野心から、許婚の青年をそつち除けにした秋聲の妹〔フデ〕を許した、笹島の弟の名であつた。
07-13 21:00
https://t.co/EawdhQpeSj
ですが、それでも意味が通りません。文章がおかしいからですね。
「自分の実家S――との家とを結つけるための政略」
は正しくは
「自分の実家とS――の家とを結つけるための政略」
だと思います。ここは全集でも前者のままですが「本文校訂覚書」で断って正すべきですね。
07-13 20:04
徳田秋聲『夜行列車』三より。
https://t.co/5d7mQqqbyn
殆どの人はこれを読んでさっぱり意味が判らないと思いますね。
イニシャルと実名との対応関係は
周三:徳田秋聲
S――:笹島嘉吉郎
芳太郎:笹島平太郎(嘉吉郎末弟)
彼の従姉:津田すが(嘉吉郎妻)
妹:徳田フデ(秋聲実妹)
で、系図を示すと
07-13 19:57
「芳太郎と云ふ名が、周三の耳にふと嫌悪と懐かしさの不思議な刺戟を与へずにはおかなかつた、それが許婚の青年をそつち除けにして、彼の従姉が、自分の実家S――との家とを結つけるための政略から――恐らく自意識の強かつた妹自身の小い野心から――周三の妹を許した、S――の弟の名であつた。」
07-13 19:44
【津田すが、笹島嘉吉郎関連作品】
徳田秋聲『四十女』
https://t.co/1hV4kvGYRx
『無駄道』
https://t.co/UAaKnPF2PM
『夜行列車』
https://t.co/6vUEgnBmuW
『光を追うて』
https://t.co/rtkWdvBIrb
07-13 16:07
確実に焼失しています(ただし竪川以南ですので、命は助かっているかもしれません)。
震災のあった大正12年から浅草山之宿の護謨靴商に、昭和10年代に樺太の本斗郡内幌村村会議員に笹島平太郎の名が見られますが、それぞれ同一人物かは不明です。
07-13 16:01
三十七番地)を経営していたようです。
『大日本帝国商工信用録』(改訂増補27版)博信社出版部、大正8年11月
https://t.co/eFxZTaMusw
店舗名が嘉吉郎の「オイル商店」に似ていますね(どちらかが誤記で同一名ということもあり得そうです)。
本所区は関東大震災でほぼ灰燼に帰したので、この店舗も
07-13 16:00
【笹島平太郎】
笹島嘉吉郎の末弟で徳田秋聲作品に芳太郎(『夜行列車』)、芳さん/芳造(『無駄道』)などの名で登場し、『光を追うて』に「笹島の弟の平太」、明治26年の「無著庵日記」に平太郎と記されている笹島平太郎は、大正8年当時、機械油、諸油一式販売「オイル商会」(本所区松井町一丁目
07-13 15:56
徳田秋聲『四十女』植竹書院、大正3年10月
https://t.co/cskr9ql56V
やはり「安治川橋の広い住家」の住所が北区安治川南二丁目一二一、ということで間違いないだろうと思います。
07-13 10:08
笹島嘉吉郎の安治川の店については、『四十女』に下記の記述がありますね。
「磯野が益其事業を盛立てゝ、安治川橋の広い住家へ引移つたのは、秋の頃であつた。私は其時分、都合で京町堀の寺の二階へ引移つてゐた。月に二度ぐらゐは、磯野の家を訪れた」
※磯野は笹島の作中名
07-13 10:08
ある夜の読書📖👓
https://t.co/P8aGINUJda
07-12 23:48
(交換所名 年月日 振出人氏名 住所 職業 金額 支払先 理由)
「東京 43.7.22 笹島嘉吉郎 所・茅場一ノ八 機械油商 113.00(小切) 本所貯金 貯金不足」
同「不渡手形」の章より
https://t.co/fKbLc6ZGT7
07-12 22:35
【笹島嘉吉郎、参考資料】
(姓名 職業 屋号又ハ商号 開業年号 店舗所在地又ハ住所 資産 収入又ハ商高 借用程度 営業状態)
「笹島嘉吉郎 砿油 オイル商店 10年前 所・茅場一ノ八 ラ 未詳 D D」
『日本信用録』(東京商業興信所、大正元年12月)より
https://t.co/aY276ZbcTN
07-12 22:35
茅場町にいる笹島(作中名、磯野)を訪ねるよう依頼されますが、「磯野はもう茅場町には居なかつた」。その前年から笹島の店舗または住所は本材木町に変わっていたからですが、その後また茅場町に戻ったようです。
07-12 22:32
なお、私は秋聲が寄寓していた頃の笹島の店の屋号を知りたいと予々思っているのですが、なかなか果たせないでいます。
しかし、彼の最後の店の屋号と所在地は判明しています。
本所区茅場町一ノ八 オイル商店
ですね。
秋聲は明治35年1月、笹島に逃げられて大阪福島に逼塞していたすがに面会し、
07-12 22:31
していたと書かれていますし、
「上方風の長火鉢の傍に、菊代〔すが〕の父の庵がゐたが、主人の笹島が外出の仕度をしてゐたらしく」
とあるので、あくまで家主は笹島なのでしょう。
とすれば、北区安治川南二丁目一二一は天満橋筋の家を引き払った後の住居ということでしょうか。
07-12 22:26
住所、大阪市北区天満橋筋一丁目九十一番地(野口冨士男『徳田秋聲伝』によればこの住所はすがの父、津田庵――『加賀藩組分侍帳』によれば津田平之丞重信――の本籍地で「天満橋の津田家」とあります)とは違いますね。
しかし「天満橋の津田家」とはいっても『光を追うて』ではこの家に笹島の店舗も附属
07-12 22:24
【笹島の安治川の店】
「笹島嘉吉郎 北、安治川南二、一二一 機械油製造」
『大日本商工名鑑』商業興信所、明治32年5月
https://t.co/Zxg9wHbDnx
https://t.co/SsV5X3U6gc
明治32年当時の笹島の店舗所在地または住所。
22歳の徳田秋聲が明治25年6月から5ヶ月ほど寄食した、従姉すがのいた天満橋の
07-12 22:22
レファレンス協同データベース
【加賀棒茶について】
加賀棒茶について書かれた本はないか。とくに、明治期に製法を確立した過程が書かれた本はないか。
https://t.co/1ou5pAwH0D
なるほど、考案者が林家茶店の林屋新兵衛、命名し普及に努めたのが丸八製茶場の丸谷誠一郎なのですね。
07-12 19:41
“Zemřel Milan Kundera”
https://t.co/ataOiPmtPq
ミラン・クンデラ死去
07-12 19:31
以前書いたことがありますが、徳田秋聲と林屋辰三郎とは遠縁の間柄になります。
辰三郎は上記、林屋次三郎の養子。実父は次三郎の弟、嘉次郎(新兵衛)。
https://t.co/by4fyRCTE1
07-11 23:44
たしか三十幾つ頃ぢやないんですか?
武田 「爛」か「黴」かどつちですか?
林 三十幾つかでお書きになつたのがあるのですよ。その時から長篇が旨いのは、只の人ではない。
武田 天才ですよ、実に。天才がくすんで見えるから世間では、天才だと思はないけれど、……
07-11 18:06
立派ですよ。
武田 僕は、いつかさういふことを考へて言つたことがあるのですよ。いろいろな全集のうちで、僕たちが勉強に読むに価ひするのは、徳田さんのを除いては、ちよつと無いね。
林 「足跡」「あらくれ」「爛」
武田 その辺は読んで、自分自身が淋しいね。
林 読売新聞にお書きになつたのは
07-11 18:05
【あられもない讃辞】
武田麟太郎、林芙美子「対談 小説の話」(「文芸」昭和16年2月)
https://t.co/bk1jZgOdF3
林 わたしこの間伊豆へ行つてゐて、徳田秋聲先生の作品を全部読みました。驚いてしまつた。もう大変な作品だ。
武田 立派な小説家ですね。
林 慙愧に堪へない気持がしました。
07-11 18:05
見えます。余生を趣味三昧に生きたのでしょうか。『光を追うて』には、義太夫の会で「柳」を語った際にあまりの腕前に座が感動でどよめいたと書かれていますね。
没後の追善能では親族の林屋次三郎が「俊寛」を演じていて、「誓願寺」には笹島伊三郎の名も見られます(「能楽画報」大正5年10月)。
07-11 17:59
能楽鑑賞の会設立
(「謡曲界 」昭和15年9月)
https://t.co/30KsRy6wWN
https://t.co/EOONyLF61z
顧問に野上豊一郎、
賛助員に島崎藤村、志賀直哉、山本有三、徳田秋聲、佐々木茂策ら。
ちなみに秋聲の縁者の笹島嘉吉郎は石脳油の事業に失敗して後は宝生流の素人謡師として「能楽」誌に屢々その名が
07-11 17:57
宇治の八幡で、笹島〔嘉吉郎〕の姉〔まさ〕の片付いてゐる林屋〔新兵衛〕の孫達の世話をしてゐる」とありますが、犀東は秋聲の遠縁が茶商から林屋洋行として大成したことが頭にあって、上記のような発言となったのでしょうか。
もちろん犀東の直話ではないので、単に樋口の記憶違いかも知れません。
07-10 23:08
【秋聲はお茶商】
「それから徳田秋聲老はお茶商であつたから渋い小説をかくのも道理だ」
樋口龍太郎「枲山閣叢話(二)/百万石の三文士――犀星と秋聲と鏡花――」(「書物展望」昭和15年2月)
https://t.co/hlLVkm69eF
上記は国府犀東の談話より。『光を追うて』に、秋聲の母タケの姉まさが「茶園のある
07-10 22:57
(「塔影」昭和14年12月)
https://t.co/w4tN6KFTL0
連載は正確には明治40年9月30日からですね(明治41年4月6日まで)「徳田秋聲全集」第6巻解題(田澤基久)には「挿絵は作者未詳」とあります。
添田達嶺『半古と楓湖』(睦月社、昭和30年10月)に収録。
https://t.co/4VCyJGs5p6
07-10 20:57
「〔梶田半古は〕明治四十年の十月から矢張読売に載つた徳田秋聲の『凋落』にも筆を執つた。がこの挿絵は先生は余り気乗りがしなかつたらしく、読売社に対する義理で余技なく引受けたらしかつた。之が半古先生の新聞挿絵の最後かも知れない。」
添田達嶺「梶田半古先生とその周囲の人々」
07-10 20:57
寺崎浩「かんしやく」(「文芸」昭和14年12月)
https://t.co/LE8j6wmFq8
火野葦平の代表作をめぐるこのやり取りは伊藤整『私の小説研究』(厚生閣、昭和14年12月)にも引用され論じられていますね。
https://t.co/neisWPyls9
07-10 19:19
小説などはおつぽり出して、事実だの真実ばかり追つ駈け廻して有難がつてゐる。まるで小説といふものは自己告白か体験記でなければならぬやうな言ひ方である。そんな馬鹿な話はない。小説は小説として立派に存在してゐるのである。〉
07-10 19:19
あれば、歪曲といふものもある。記録されただけではまだ文学とさへ云へぬ、と云ふ意味の秋聲氏の所論であつた。
それぢや「あらくれ」はどうです? といささか家庭らしい揶揄もまぢへて一穂君が訊ねた。あれなどは事実の記録ぢや少しもない、とむきに答へてゐた。
この時代はおかしなことに、
07-10 19:19
【徳田秋聲と一穂の議論】
〈秋聲氏と一穂君の議論してゐる所へ行き合はせた。秋聲氏は「土と兵隊」はすぐれた文学では決してないといふ。一穂君は「土と兵隊」は兎も角「麦と兵隊」は立派であるといふ。その議論の果てを要約すると、文学といふものには総合といふものもあれば、作為といふものも
07-10 19:18
【銀ブラの往復回数】
〈「銀ブラ」常連は普通五、六回銀座を往復するさうである。(中略)徳田秋聲老は六回やつて、喫茶店で「コーヒー」を一杯飲んで帰つたそうである〉
学界隠士「教授の横顔――明大赤神教授の巻――」(「愛国学生」昭和15年5月)
https://t.co/rKQ4ZZ0aol
07-10 17:11
展望台「怪しげな議論」(「日本薬報」昭和14年9月)
https://t.co/u3kj5Aql2y
硝子は火薬の材料になるからそのうちビール瓶もなくなるそうだとの四方山話に宇野浩二が突然口を開いて「硝子は水晶からこさへるんぢアないのか」と言った。そこでなみ居る徳田秋聲、広津和郎らがクスリと笑った。
07-10 17:03
「備考欄」が「李香蘭」に聞こえてしょうがない
07-10 16:57
完璧であり多種多様である。様式の統一性、作品のドラマトゥルギーのきわだった感受性、作品の形象的発展の論理性は、この団体の演奏スタイルの最も重要な特質である」
と手放しの讃辞を送っているとのことです。この弦楽四重奏団を愛好する者としては、流石にすべてを語ってくれていると感じます。
07-09 17:24
四重奏団について、
「まず第一に高度の演奏修練、敏感でけだかい趣向、深い内容性、非凡な表現力、抑揚の表情の豊かさ、作曲家の楽想に驚くほど浸透することがタネーエフ・カルテットに固有のものとなっている。……各奏者の名技は非の打ちどころがない。アンサンブルのポリフォニックな本質の演奏は
07-09 17:24
前者のノン・ヴィブラート奏法による即物的で鮮烈な演奏よりも(確かにすごいのは判るけど最近はちょっとうるさく感じる)、深い陰影に富んだタネーエフ盤の方が私のお勧めなのですが、現在は入手しにくいのが難ですね。
ブックレットの井上頼豊の解説によると、ショスタコーヴィチはタネーエフ
07-09 17:23
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲全集
タネーエフ四重奏団(ビクター音楽産業国内盤、メロディア原盤)
当四重奏団の代表盤で、これまでにソ連、日本、韓国で計3回CD化されています。
ソ連時代に録音されたボロディン四重奏団の全集と双璧とも言うべき名演奏で、
https://t.co/gOhSSlh6mQ
07-09 17:23
ぴり出てくる位で真の戦争文学ではない」
富安風生の発言より。『通訳官』(「戦争文学」明治37年4月)のことを言ってるんですかね。「秋聲のものが一つきり」とは事実として間違っていますが、そういう認識が存在したということでしょうか。読み飛ばそうかとも思いましたが、ちょっと気になったので。
07-09 11:43
一記者「先輩の気焔を聴く 俳句三昧の富安さん――銃後の護りを説く――」(「保険政策」昭和12年10月)
https://t.co/Zjgaux5PGx
「戦争と文学、わが国には戦争文学といふものはいまゝでないと云つてよい。あるものは徳田秋聲のものが一つきりといふことだ。それも本当の戦争は始めと終りの方にちよつ
07-09 11:42
伊崎宣行「小説と疾病:小説に現はれた疾病統計」(「週刊医界展望」昭和13年6月)
https://t.co/lsAwB5LuoO
昭和10年に発表された小説約150篇のうち医薬に関する文字の現れる67篇を分類したもの。よく調べたものだと感心します。
徳田秋聲作品からは『チビの魂』『裸像』『勲章』が選ばれています。
07-09 11:38
がいた」
紅野敏郎「青蛙房刊 鷲尾洋三の『回想の作家たち』など」(「国文学 解釈と鑑賞」2004年2月)
#備忘録
07-09 11:34
「鷲尾は、慶應義塾の文学部の予科に入学、同年配に普通部よりの沢村三木男(沢村ものち文藝春秋新社の中心人物となる)、新宮出身の竹田龍児、少し年上に徳田一穂や大林清がいたが、いつの間にか学部に進む前に退学していた。別のクラスに北原武夫・小山祐士ら、一級上に蘆原英了・山本健吉・原民喜ら
07-09 11:34
「菊池寛」と打ったつもりが「危機痴漢」に
07-09 11:30
浅田彰は三島由紀夫が好きなんじゃないかというTweetを目にしましたが、島田雅彦との対談本『天使が通る』所収の「ミシマ――模造を模造する」で徹底的に批判していましたね。
07-08 15:50
設問は以下の通り。
「(一)昭和十三年を送るに当つての感想
(二)昭和十四年を迎ふるに当り、地方指導者へ希望したいこと」
秋聲は(二)に回答していません。同年の北支事変を受けての発言で、ここでもなかなかに危ないことを言っています。
07-08 08:17
是から本舞台に入るので、我々子孫の背負された仕事も容易ではないと考へられ、日本の今後の益々多事なるべきを覚悟しつゝ憂心忡々のうちに十三年を送る。」
アンケート「回顧と希望」(「文化日本」昭和13年12月)
https://t.co/g88VkTLuFO
07-08 08:16
【是からが本舞台】
「帝国芸術院会員 徳田秋聲
一、歴史的地理的因縁で、民族的に万事立遅れであつた日本が、ぐつと乗して来たといふ感じです。かゝる現実相は我々の想像も先覚もしなかつたことであり、かゝる力のあることすら考へなかつたのです。しかし今は荒ごなしが出来たばかりで、
07-08 08:15
具体例を挙げて、単に中国への同化政策を進めるだけでなく日本人の性格も「大陸的」に変わっていく(合わせていく)べきとしている点は注目すべきですが、なかなかに危ない文章です 。
07-08 08:06
実は日本人の性格も大陸的にかはつて行かないと、支那へ働きかけることも、単にこせゝゝした形式だけに止るでせう。」
アンケート「対支文化工作として最も重要とされるものは」(「文化日本」昭和13年7月)
https://t.co/3vOOpxuWyy
07-08 08:05
【中国への文化的同化策のすすめ】
「大規模の同化作用
徳田秋聲
相手が相手ですから、文化工作は政治、経済工作〔よ〕り面倒で、金ばかりかゝつてそれほど実蹟はあがらないかも知れませんが矢張り大規模の新聞雑誌、映画、それに学校を作つて同化作用を起すより外ないのではないでせうか。
07-08 08:05
「当連盟募集の標語中
一等 伸びゆく日本 明けゆく世界
二等 日出づる国に秀づる文化
三等 一と槌 一と鍬 文化の礎
右の通り当選いたしました。此の新標語に対する御感想を――。といふ依頼状に対し本連盟評議員参与各位からの回答(到着順)。」
07-08 07:37
「文化日本」は昭和12年8月8日に結成された日本文化中央連盟発行の機関誌(昭和12年11月15日創刊)。
秋聲は、同誌第2巻第12号(昭和13年12月)最終頁5段目に同連盟の「参与」として名を連ねています。
https://t.co/ge4sTVIWgM
アンケート設問は以下の通り。
07-08 07:37
ありません。第二、第三は酒落みたいで意味がないと思ひます。不謹慎かも知れませんが、思つたまゝ申しあげて見ました。」
アンケート「標語感想」(「文化日本」昭和13年6月)
https://t.co/o7mNhHouG6
「文化日本」掲載のアンケートは全て「徳田秋聲全集」未掲載、別巻著作目録に未登録です。
07-08 07:34
【日本文化中央連盟参与として】
「 徳田秋聲
三つとも余り当りまへすぎて何の奇もないやうです。語呂にも弛みがあると思ひます。何ういふのがよいかとなるとちよつと困りますが、もとゝゝ標語がさう云ふものかも知れません。第一のは(伸びよ日本、播けよ文化)とでもしたらと思ひますが、勿論自信は
07-08 07:33
【徳田秋聲俳句】
昭和十一年夏病後
生きのびて又夏草の目に泌みる
この春佐原より潮来に渡りて
水郷の春まだ浅し島隣り
水上にて或夏
稲妻や利根の川筋幾うねり
(「文化日本」昭和13年8月)
https://t.co/dIE0jPzMxH
句はいずれも既出ですが、詞書は初見でした。
07-08 07:29
ついでに先日紹介したザッハー=マゾッホ『残酷な女たち』のドイツ語原書(Sacher-Masoch: Grausame Frauen. Gerhard Dithmar Verlag, Frankfurt, 1960)をカバー付きで写しておきました。
63年前の書籍のカバーにしてはまあ、きれいな方かなと。
07-07 14:33
同四重奏団の録音は私の知る限りほとんど途絶えているので、旧メンバーによる最後期の演奏ということになります。
これまでチャイコフスキーの2番と3番の弦楽四重奏曲はあまり熱心に聴いて来なかったのですが、たいへん充実した演奏により目を開かれる思いをしています(耳を開かれるですかね)。
07-07 14:33
画像のディスクは、
チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第2番ヘ長調作品22/弦楽四重奏曲第3番変ホ短調作品30
演奏、タネーエフ四重奏団(Leningrad Masters レーベル)
ケース裏に1990年録音と書かれています。この記載を信じるならば、ソ連崩壊後、
https://t.co/85Vd1Tlq73
07-07 14:33
https://t.co/MMaIQKp5Jb
似顔絵あり(あんまり似てない)。この筆者は秋聲のことをよく知っている人なのでしょうか、けっこう褒めちぎられています。
以下は同じ人の島崎藤村評。逆に藤村のことはあまり知らず、反感というか先入観が強すぎて皮相な見方に陥っていますね。
https://t.co/pDyKVAdoOQ
07-07 07:15
も予想のつかぬやうな一種のぎこちなさを持つやうでゐて、実は刻みが細かく丁度彼の文章のやうな味があり、その上に音楽上のテムポが完全に正確ださうだ。こんなところにも、彼の非凡な素質が現はれてゐる。〉
荘紙介「今月のパーソナリティー/徳田秋聲」(「明朗」昭和11年6月)
07-07 06:54
【テンポが正確】
〈秋聲は、文壇ダンス・パーテイの会長就任を頼まれた時に、文学の会長ならいやだがダンスならば宜しいと受けたやうである。秋聲の面目が躍如としてゐる。(中略)
踊つてゐる時の秋聲は、実に深刻なを顔をしてゐる。彼と踊つた人の話をきくと、年のせいで胴体が少し震へ、肉体的転換
07-07 06:53
https://t.co/kGkJszTLBF
まあ、尾崎士郎の云いたいことはわからなくもないけれど、私も相撲を芸術とは思わないですね。芸能ならまだしも。
07-06 18:47
しかし、芸術的感覚といふものは一つの限定されたかたちの中にあるのではなくて、奔放無礙なる人生を象徴する情熱を対象とするときにはじめて生じてくる。失礼であるが、私は恩師秋聲先生は相撲の雰囲気を知つて相撲を知らずと思つた。〉
尾崎士郎「相撲は人生なり」(「相撲」昭和11年5月)
07-06 18:42
【相撲は芸術ではない】
〈何時であつたか、多分「あらくれ」の会のあつたときであると思ふが、私が相撲こそ芸術の最高表現であると言つたとき、同座してゐられた徳田秋聲先生が、「相撲は芸術ではない。」と言はれた言葉を覚えてゐる。もちろん、相撲は相撲であつて、音楽でもなければ文学でもない。
07-06 17:27
「晩年」がいい事は、非常な重要事であらうと私も亦常に信じてゐる。〉
三宅周太郎「中車の晩年」(「文芸」昭和11年9月)
https://t.co/g1Eslze2HG
07-06 17:25
【いい晩年を送りたい】
〈徳田秋聲氏であつたか、氏のために催されたあるお祝ひの会の席上で、人間は晩年のいい事こそ望ましい。自分も何とかいい晩年を送りたいと述懐せられた由を私は聞いてゐる。そしてこれは如何にも氏らしい人生哲学だと思ふと共に、誠に人間にとつて
07-06 17:20
徳田一穂「感傷の旅」(「文芸」昭和11年10月)
https://t.co/iCVWBThpGX
のち『受難の芸術』(豊国社、昭和16年9月)に収録。昭和11年8月14日、秋聲が一穂に伴われて子供達が夏休みに泊まりに行っている那古へ出かけた時のことが書かれています。
07-06 17:17
あるいは私の前の持ち主が、赤の他人への献辞が入った扉を嫌がって破り取ったとか……
何人もの手を経た古書ならばそういうこともあり得ますね。
07-06 12:48
上記の書誌はネットで調べたものです。私がドイツのオンライン古書店で入手した本は扉を丁寧に破り取られた形跡があり、出版社名・刊行年等が判りません(だから通常より安かったのかも)。
でも何で扉を破り取ったんでしょう。これよりも状態の良い重版の扉と付け替えて初版に偽装するためとか……
07-06 12:37
画像の書籍は、ザッハー=マゾッホ『残酷な女たち』のドイツ語原書、
Leopold von Sacher-Masoch: Grausame Frauen. Gerhard Dithmar Verlag, Frankfurt / Köppern, 1960.
です。赤いカバー付きですが、布クロス装と金文字を見せたいので外してあります。
https://t.co/G5aIrEbReM
07-06 12:29
徳田秋聲名義のマゾッホ訳の底本と思われる全2巻のうちの第1巻(Band I)です。
『拳銃』(「成蹊」明治41年1月)の原作 »Richter und Henker« は Band II 所収ですが Googleブックスで閲覧できないので、今回は調査に手間取りました。
07-06 11:30
Leopold Ritter von Sacher-Masoch: Grausame Frauen, Hinterlassene Novellen" Bd. 1, H. R. Dohrn, Dresden, 1901.
[Lola / Wjera Baranoff / Theodora / Matrena / Die Sclavenhändlerin / Die Despotin von Hatvan / Das Weib des
https://t.co/1IxYXB7t1T
07-06 11:28
と同一の作品であることを確かめました。
従って翻訳の底本は他の徳田秋聲名義のマゾッホ訳と同様に、
Leopold Ritter von Sacher Masoch: Grausame Frauen, Band I/Band II, Dresden, 1901.
と結論づけておきます。
原作名も正式には初出版でなく、Band II 所収の »Richter und Henker« となります。
07-05 15:04
【徳田秋聲のマゾッホ訳】
徳田秋聲『拳銃』(「成蹊」明治41年/1908年1月)
https://t.co/mRUjAPD5Mj
ザッハー=マゾッホの『残酷な女たち』のドイツ語原書(Grausame Frauen)を確認し、『拳銃』の原作、»Leben um Leben. Eine Geschichte aus der Bühnenwelt« (1879) は、»Richter und Henker«
https://t.co/jgfhIM7Zdc
07-05 14:56
秋聲のこの発言が「挿絵は小説の伴奏である」という定型文として少くとも2人の挿絵画家に記憶されていたということですね。
国立国会図書館デジタルコレクションを調べると、後年「挿絵は小説の伴奏」との発言例が数件見られます。初出は徳田秋聲ということにしておきましょう。
07-05 07:00
独立した芸術であるには違ひないが、その独立性を持つてゐると同時に、其の一面に於ては小説の説明でなくてはならない。更に進んでは又その小説の描写でなくてはならない。その意味からいふと丁度音楽に於ける伴奏みたいなもので、小説の気分とぴつたり合つてゐないと気持ちが悪い。〉
07-05 07:00
旭正秀が見た古雑誌とは、おそらく大正11年8月の「美術画報」でしょうね。
秋聲の件の発言は「人物は二人以上欲しい 小説家から挿絵画家への注文」(「読売新聞」大正10年3月13日、全集第20巻177-178頁所収)で、原文は以下の通り。
〈小説の挿画に就ての意見はこれを広義に解釈すれば挿画も一つの
07-05 07:00
〖文例2〗
〈何かの古雑誌で、徳田秋聲氏かが、挿絵は小説の伴奏であるてなことを云つたといふことを見たが、大正十一年ごろのことである。そのころからもう相当にこの問題は、問題にされてゐたものと見える。〉
旭正秀「現代の挿絵家」(「書窓」昭和10年12月)
https://t.co/qJ47FnxRa4
07-05 06:59
【挿絵は小説の伴奏である】
〖文例1〗
〈さて、徳田秋聲氏は甞て「読売」記者に『挿画は小説の伴奏である』と、さう語られたやうに記憶する。面白い言葉だと思ふ。〉
井元水明「現代の挿画家」(「美術画報」大正11年8月)、文末に(読売新聞より)とあり
https://t.co/7eX2iN3ruu
07-05 06:40
「お友だちが見えてゐますから、入らつしゃいませんか」との言伝があり、訪れると白鳥邸のホールに徳田秋聲と武林無想庵と主人・正宗白鳥とが盛んに煙草の煙を立てていた……
残念ながら文章に一部欠落あり。
07-05 06:05
氏は順子女史とともに来られたことがある。」
2人は岩野泡鳴の思い出話に花を咲かせ、夕食後、程遠からぬ正宗白鳥邸を訪れる……
上司小剣「白鳥と秋聲」(「文芸」昭和10年11月)
https://t.co/5DdmBejbx3
それから間もない或る日の午後、白鳥夫人から
07-05 06:02
上司小剣「文芸賞と泡鳴追憶の日記」(「文芸」昭和10年10月)
https://t.co/CFSbseQ1rP
×月×日、午後、洗足の自宅に外出から帰ると、
「二階で珍らしく静かな話し声が聞える。あがつてみると、徳田秋聲氏だ。家の者がお相手をしてゐる。足かけ八年前、(中略)
07-05 06:01
これは、元来文学に関する放送に乏しかった第二放送で上記が放送されたことは「怪現象」だとして肯定的に評価している文章ですね。
07-05 06:00
【秋聲出演のラジオ放送】
秋山猛「ラヂオは叫ぶ」(「思想国防」昭和10年12月)
https://t.co/MRnBWU9EXG
「最近の例でいふと小林秀雄氏が純粋小説論といふのをやり、その他徳田秋聲氏に物を訊く座談会があつたのは、異とするに足る近来の怪現象である」
07-05 05:56
僕の髯面を頻りに接吻してゐる。眼が醒めて見ると、妻が裸ローソクを持つて、台所から出て来て、――あんた、大きなナメクジですよ、四寸はありますね。――といふ、夜更けて外は豪雨である」
筆者(隔簾坊)は誰か知りませんが、このオチはいいですね。
その続きが次号のこの文章です。
https://t.co/dX193Cq61Y
07-04 15:51
【近松秋江と蝮酒】
隔簾坊「かぐはな/蝮酒」(「大日」昭和10年7月)
https://t.co/vWdS0b1UDa
白黒写真では判りませんが、近松秋江は愛飲するマムシ酒の効能によって、唇が紅く艶々としていたという。「筆者」は秋江に勧められてマムシ酒を飲み、
「その夜の夢に、秋江先生の紅い脣が現はれて、
07-04 15:51
何も彼も分つてゐる親父だけに一寸気の毒である。〉
ここに書かれていること(一穂が丹羽文雄や川端康成から金を送ってもらっていた、「新潮」から稿料を前借りした等々)がどこまで本当か判りませんが、秋聲が一穂の女性関係のことで強いことを云えなかったのは本当でしょうね。
07-04 10:39
「かぐはな/親父手古摺る」(「大日」昭和10年8月)
https://t.co/XC2FhL1P5X
徳田一穂が彼女(おそらく玉の井の娼家から救い出した人)と房州のホテルを転々として宿賃がたまり、父親を困らせているが、
〈「僕には順子とのことがあるから、子達に対しても強いことは云へない」と秋聲は云ふ。
07-04 10:37
徳田一穂「マニフエスト――救出事件に関連して――」(「行動」昭和10年5月)
https://t.co/lJEpFVMYwK
一穂が玉の井の娼家から抱えの村田せつ子を救い出して匿った事件の記事(「東京日日新聞」昭和10年3月4日)について。
07-04 10:36
訪れた際の話です。宿泊は新井旅館。
同年秋(11月27日)に「二七会」で川原湯へ行き上州耶馬渓を見物したことは別巻年譜に記載されていますが、春の方は載っていません。例年通りなら3月後半ですね。
07-04 06:12
【座禅する徳田秋聲】
「坐禅の足がそろそろ痛くなつて来た。向への席には秋聲老が迷惑さうな顔して坐禅を組んで居る。」
水野広徳「修善寺旅行」(「随筆趣味」昭和10年7月)
https://t.co/paYCl8HQDz
「今年の春」に水野広徳が主催する二十七日会が春と秋とに行う一泊旅行で伊豆修善寺を
07-04 06:03
秋聲氏の「あらくれ」なぞは温室的な生活からは生れないやうに思ふ。若い一穂氏にもやがて温室を破る時代が必要なのではないかと思ふ〉
しかし結局温室を破ることはできなかったというのが私の意見。
07-04 06:00
福田晴子「文芸時評(一)」(「婦人文芸」昭和10年6月)
https://t.co/IAwTD9Z1LK
徳田一穂への的確な批評。
〈「僕はまだ、自分の家以外の事は何も知らぬと云つていゝ位の人間なので」と自分で語つてゐるやうな温室的な生活は、作家にとつては望ましくはないと思はれる。
07-04 05:57
徳田秋聲は僕からみればむしろ無ポーズである。言葉を換へて云へば大家的ポーズも老作家的ポーズもない。一般的には損であるかも知れないが、人としての自然さ、作家らしい無晶形が僕等をして親しめるものがある。」
新居格「文壇ポーズ論」(「行動」昭和10年6月)
https://t.co/JNn1UfToEz
07-04 02:15
【ポーズの有無】
「島崎藤村にはポーズがある。少くともあるらしく見える。それが大家らしさを一般的には感じさせる。何事も利幣は伴ふものだ。藤村のポーズは彼を勿体ないもののやうに思はせる所もあるが、あんなポーズはきらひだと云ふものもない訳ではない。
07-04 02:15
他の方面ならこの位の名士になつたら自家用の自動車位持つてゐる身分だが相不変月末の心配ばかりされてゐるらしいのは気の毒だ。」
坂田俊夫「名士印象記」(「伝記」昭和10年4月)
https://t.co/fmtJOI7wbq
07-03 12:40
【素直な老人】
「文壇の名士は、徳田秋聲氏位しか知らない。尤も他に大した名士はゐないが、秋聲氏は全くいゝ人だ。こんな我儘な、又こんな素直な老人は滅多にゐるものぢやない。この文壇の老先生に就ては色々面白い話があるのだが、今は止さう。
07-03 12:36
【文壇漫画】
「徳田父子
秋聲老、楽隠居を楽しむ心境に達す
息子一穂また一段親孝行の妙趣を捉む」
岡本一平「筆推量無意味な春描き」(「文芸」昭和10年1月)
https://t.co/lyA1fKNJ0R
07-03 12:35
凝つとして見詰めてゐた中年の奥さん風の女があつた。」
高田保「文士の顔――街上雑記帳――」(「文芸」昭和9年2月)
https://t.co/CAukEQ06GT
その奥さんは、新聞記事でよく見かける、若い女と浮き名を流すあの好色な老人くらいに思っていた可能性がありますね。
07-03 12:34
【文士の顔】
「やつぱり苦渋な顔をして歩いて来るのが徳田秋聲さんだ。渋い顔には六十年の苦労が日焦けのやうに光つてゐる。この渋さが人をひきつける。いつだつたか、一緒に同勢で資生堂に入つたとき、椅子にかけた徳田さんの横顔を、いつまでもいつまでも、
07-03 12:30
に反した、あれらいろいろな行動をさせるのである。」
林房雄「現代文芸評論家総評」(「文芸」昭和9年1月)
https://t.co/Td2dmnZPZz
この文章、単行本『文学のために』(ナウカ社、昭和9年2月)では「非妥協性」が「非妥当性」となっています。初出の方が正しいでしょうね。
07-03 12:29
【精神の敢為さ】
「ものをしやべらせても、若い文士には巧言令色が多すぎる。たとへば、徳田秋聲といふ人などは、一部には、俗な親爺の典型のやうに思はれてゐるが、どうしてどうして、精神の敢為さは、若い者の十倍である。その非妥協性が、なんといはうか、ニヒリズムの境地に達して、俗世間の常識
07-03 12:28
本日、7月2日は徳田一穂の命日ですね。
(1903年7月生、1981年7月2日歿)
現在入手しやすい著作を並べてみました。
また、今では国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスにより、古書価の非常に高価だった戦前の単行本を読むこともできます。
https://t.co/C19f9Qkk6q
07-02 21:49
@mizukami_jidai
校了後と伺ってダメかもと思っていましたが、間に合って良かったです。
刊行を楽しみにしています。
07-02 14:07
徳田秋聲『十日過ぎ』に描かれている出来事は、時期が未確定だったため全集年譜に記載されていませんが、石井柏亭が「方寸書架」(「方寸」明治43年4月)で「新春」に高村真夫と那古の秋聲を訪ねたことを書き、次号でも十日夜の帰宅について記しているので、明治43年1月の項に追加してよいでしょうね。
07-02 12:55
『十日過ぎ』にH氏(柏亭)の連れが「K氏」と書かれているのは、秋聲が――その時は柏亭に「高村真夫君」と紹介されていたとしても――執筆時には高村光太郎と取り違えていた可能性が高そうすね。
07-02 12:28
明治43年1月、柏亭と高村真夫が写生旅行の途次那古に宿泊していた秋聲を訪れた時のことですね。芸者をあげた話は秋聲の『十日過ぎ』(「中央公論」明治43年3月)にも描かれています。
柏亭の連れが高村真夫であったことは先月触れました。
07-02 12:26
【那古にて】
「小生十日夜無事帰宅、高村と小生とにては相劣らぬコンモンセンス家にて、財政も何もかも、至つて平和に済み申候。(中略)
那古にては徳田秋聲氏と会して那古芸妓を招き打興じ申候。」
石井柏亭「封書/コンモンセンス」(「方寸」明治43年5月)
https://t.co/UclgifmWoQ
07-02 12:18
【徳田秋聲君筆蹟】
「△徳田秋聲君
筆太の癖があるが、慥かに紅葉流を学んだ痕がある、原稿は見た処あまり立派ではない」
青柳白馬「明治文士の筆跡」(「成功」明治43年5月)
https://t.co/WFjquN3BPz
筆蹟の影印あり。
07-02 12:16
【徳田秋聲俳句】
大木志門編『徳田秋聲俳句集』(龜鳴屋、7月下旬刊行予定)
https://t.co/an5A32GhuD
うれしい報せですね。
全集収録の約1.5倍の句が収められているとのこと。
大木氏の解説も読み応えがあるものと期待できます。
(あの2句は間に合ったのかしら……)
07-02 12:15
やうなチヤチな発明狂がゐたのであるが、彼は、海軍将棋を作つてものにならず、遂に当時の好景気に一儲けしようと企らみ、下駄の鼻緒にダイヤモンドを篏め込むといふ発明をして、東奔西走、遂に財産を無くしてしまつたのであつたが」
前掲、徳田秋聲「科学・発明・人生」(「発明」昭和8年8月)より。
07-01 19:15
この文章、科学や発明に対する秋聲の考え方が克明に書かれているとともに、終盤では『あらくれ』に登場する海軍将棋の考案に没頭する木村という職人のモデルと、『光を追うて』にも描かれている谷崎安太郎に関する言及があり、非常に興味深いです。
「私の古い友人で、今考へれば発明狂とも云へない
07-01 19:14
水無月
6月30日
〖お伴〗
徳田秋聲『黴』(岩波文庫)
「ユリイカ 総特集 大江健三郎 1935-2023」(青土社)
『黴』は梅雨時で雨降りだから
「ユリイカ」はちょうど出たから
https://t.co/Or4UoizJsG
07-01 14:52
ここからは素人の勝手な想像ですが、「発明」誌への掲載時期と矢島守男の死の時期とが重なっていることで、その信憑性が高まるのではないかと思います。はまの死後、秋聲と守男との関係が疎遠になっていたとしても、東京市内のことですし、病気であれば見舞いに訪れたこともあったでしょうね。
07-01 11:10
大阪発明協会編『帝国発明家名鑑』(昭和11年)に名が掲載されています。
医師として記載されている矢島守男の住所と上記名鑑のそれとが一致するので、同一人物と判明したのでした。
秋聲と矢島守男とは馬が合って頻繁に行き来していた時期もあるので、その縁かなと思います。
07-01 10:47
【秋聲と発明】
前記の文章、掲載誌を書くのを忘れておりました。
徳田秋聲「科学・発明・人生」(「発明」昭和8年8月)
秋聲と「発明」という雑誌に何の関係があったのか考えてみると、亡妻はまの親族の矢島守男(明治15年1月10日生、昭和8年8月歿)がいわゆる発明家だったのですよね。以前紹介した
07-01 10:46
一体、私位の年配になると、大抵さうだと思ふのであるが、私は、唯心唯物二元論者である。科学の世界を尊重すると同時に、科学にのみ信頼することの出来ない領域の存在をも認めない訳にはゆかない」
これはたいへん面白い文章ですね。
「徳田秋聲全集」未収録、別巻著作目録に未登録です。
07-01 07:25
【秋聲の科学観、発明観】
徳田秋聲「科学・発明・人生」(昭和8年8月)
https://t.co/aqwEvG0Dqa
「科学の世界、殊に発明といふやうな方面に対してはまるきり門外漢の私ではあるが、機会を与へられたのを幸ひ、私の科学観、発明観といふやうなものを少しばかり述べて見よう。
07-01 07:25
「消息」(「冬柏」昭和7年12月※)
※実際には昭和8年1月刊行です。
https://t.co/rhfTbTqNqE
昭和7年11月26日、有島生馬五十回誕辰祝賀会が東京会館において催さる。
「徳田秋聲先生の発声で有島先生に対し万歳を唱へて一同が乾杯」
上記、徳田秋聲全集別巻年譜に記載なし。
07-01 00:26
こちらの「書態」談義も面白いです。
「徳田秋聲氏とは若い頃から長年親くして居るので、短冊の一枚位は所持しなければならないのであるが、何にも持つて居ない。手紙や端書は数あるが、氏の削いだやうな強い文字から受ける印象は一種の寂莫と秋霜のやうな鋭さである」
07-01 00:23
石原源三「原稿漫談」(「書物展望」昭和7年5月)
https://t.co/4ce0LpQeAA
島崎藤村、田山花袋ら作家諸氏の原稿用紙や文字について。
「徳田秋聲氏のはすこし震へてゐるが、まづ鶴のやうな老人といふ形容が当る」
生田葵「文士と書態」(「書道」昭和8年2月)
https://t.co/UiLlCncVDV
07-01 00:22
座談会「新満洲国とはどんなところか?」(「女人芸術」昭和7年4月)
似顔絵あり
https://t.co/zl7eLsoOSI
出席者:徳田秋聲 村松梢風 平林たい子 下村千秋 吉屋信子 平野零二 藤枝丈夫 長谷川利子
数回しか発言のない秋聲さん、最初の一言が
「苦力(クーリー)はどんどん繁殖するのですか。」
07-01 00:21
書き出しは私小説っぽいですが、客観小説です。
「編輯後記に代へて」に
「『最後の旅』をものされた徳田秋聲先生は、文壇の重鎮として編輯子が申上るまでもなく、先刻御承知のことゝ思ふ」
とあります。おそらく当誌の関係者に、秋聲のために小説発表の場を斡旋した人がいたのでしょうね。
06-30 07:07
徳田秋聲『最後の旅』(「マツダ新報」昭和6年3月)
https://t.co/Xiez7KRtRQ
昭和6年、小説家として作品発表の場が殆ど無かった頃の秋聲が東芝の前身企業の一つ東京電気株式会社の機関誌に発表した短篇小説。私は今回初めて目にする作品ですね(八木書店版全集未掲載、別巻著作目録に未登録)。
06-30 06:45
着てゐた。この恋愛の初めに、一度こゝへ来たことがあつたので、彼にも好い印象を縷りつけ、自分の思出も深くしようと思つて、今度もわざと箱根を択んだ。少し新派の芝居じみた背景だとは思つたけれど。
駅前の箱根土産の売店や、休み茶屋や、コオヒ店の並んだ片側道を肩を並べて歩いた。」
06-30 06:44
【全集未収録の短篇小説『最後の旅』】
「強羅へおりたときには、湯烟のやうな薄鼠色のふわゝゝしたものが、そこらの木立に軽く低迷してゐた。何だか雨になりさうな空模様であつた。みさ子は袷の上に、春らしい桃色のシヨールをかけてパラソルをもつてゐたし、米田は勿論薄羅紗のスプリングコオトを
06-30 06:43
「武士の血統
徳田秋聲
個人的に好き嫌ひはありません。唯現代に至る迄も士の血統をひいた人には、比較的づるいところや卑しいところは少ないやうです。伝統は争へないものです。」
アンケート「予の好める武士」(「日本及日本人」昭和5年1月)
https://t.co/CY0LfRMGaS
全集未収録。
06-30 05:39
「最近世相漫談会」(「女人芸術」昭和4年5月)
https://t.co/kDaTMdC15k
全集第25巻所収の座談会。その時の写真が掲載されています。
06-30 05:36
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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