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徳田秋聲 (徳田秋声) の文学を中心につぶやきます。
― 亀井麻美 (@kameiasami) · Xより転載 ―

亀井麻美 : 2023/06/10のツイートまとめ

kameiasami

矢野良暁と佐伯新一郎については、前掲、水守亀之助「旧友の思ひ出」(「文芸春秋」大正15年6月)に
「一方は狂気し、一方は若死にをしてしまつた。痛ましいことである」
とあります。矢野が発狂したことは加藤武雄、水守亀之助ともに共通の認識だったようです。
06-10 22:59

@mizukami_jidai
その後さらに調べたところ、「佐伯某」は佐伯新一郎でほぼ確定かなと思います。
矢野良暁と佐伯新一郎は、水守亀之助や加藤武雄にとっては徳田秋聲門下としてよく見知った存在だったようですが、その後忘却され、秋聲との関係も判らなくなり、研究でも見過ごされてきた人たちですね。
06-10 17:48

@mizukami_jidai
戦前はまだ麦稈のストローで、主に飲食店で使われていたものですね。冷えたコーヒーということは、秋聲宅では夏に氷を常備していたということでしょうか。
長見義三による徳田秋聲と正宗白鳥の訪問回想記、どちらも情景が眼前に浮かぶようで、味わい深い文章と思います。
06-10 17:44

ばかり云ふ困り者ながら一種の憎めない愛嬌があつた。演劇雑誌などに関係し、京都で一家を構へてゐるときいて間もなく、病気で斃れたといふ噂があがつた〉
加藤武雄「横顔 わが文壇生活回顧」(2)(「文章倶楽部」昭和24年6月)
https://t.co/v1i0NMTiis
#徳田秋聲門下
06-10 14:56

学んだ佐伯新一郎といふのがあつた。なかなかの才人で、小説もかき、脚本も書き、八百屋お七か何かを描いた脚本は、たしか本郷座で久米正雄君の「牧場の兄弟」と共に脚光を浴びた事がある。後の事で、当時、下宿屋の払ひを溜めて追ひされたとかで、我々の梁山伯にころげこんできたやうであるが、うそ
06-10 14:55

【矢野良暁と佐伯新一郎】
〈徳田秋声氏の門下で、一寸異色のある二三篇を発表した事のある矢野といふ男、後に同じ下宿にゐた事もあつたが、ひどく己惚の強い男で、私はどうもしたしめなかつたが、悪病の為めに発狂して後、郷里にかへり、悲惨な死を遂げたときいてゐる。それから、矢張り秋声氏の門に
06-10 14:48

佐伯新一郎は大正6年9月に京都で病死しました。
同年3月に橋田東声らと創刊した歌誌「珊瑚礁」に追悼特集があります。
水守亀之助「佐伯君の思ひ出」(「珊瑚礁」大正6年11月〈佐伯新一郎追悼篇〉)
ほかに加藤武雄「佐伯君を悼む」、上条正人「佐伯君の霊に」等、計18篇。
06-10 14:46

上京してからの代作と見做せそうです。
明治41年10月21日~22日に佐伯櫨香名義で『二老婆』という小説を「山陰日日新聞」に発表しているのが非常に気になります。徳田秋聲の名作として知られている作品(「中央公論」明治41年4月)と同名ですね。内容によっては秋聲作品の流用の可能性もあるかも……
06-10 14:05

【佐伯新一郎作品リスト】
佐野晴夫「生田春月と山陰の詩壇(7)」
「山口大学教養部紀要 人文科学篇」22(1989年2月)
https://t.co/i38DsjKMSA
これによると佐伯新一郎が鳥取から東京へ出たのは明治42年とあります。
『伯父の家』が「新文林」に掲載されたのと同じ年ですから、正確な月日が判れば
06-10 13:58

佐伯新一郎より前田晁(木城)宛書簡
(年不詳)1月9日
「館報駒場野」1991年3月
https://t.co/E4oqXXImPd
田山花袋の怒りに触れ「文章世界」外交記者を馘になったのでお執りなしくださいとあります。
06-10 13:57

悲しまずにはゐられません」
と記していますが、まさにこの文章を書いた同じ月の28日に母タケがコレラで急死するのですね。偶然とはいえ、まさに虫が知らせたとも言うべき内容で、伝記的にも重要な位置を占める文章ではないでしょうか。
06-10 12:22

佐伯新一郎の母の訃報を受けて、秋聲は自身の母について
「母の死と云ふことについては、まだ痛切な実感を経験しませんのでその時の一刻一刻迫りつゝあることを、時々憶ひ出しては胸を刺されるばかりで、逃避的にそれを予悲してゐるに過ぎません。(中略)母に対して利己的な自分を
06-10 12:21

親愛なる
 佐伯新一郎君」
とあります。全集年譜によると秋聲は9月27日から中村武羅夫と修善寺の養気館を訪れていました。
この「序に代る」は全集著作目録に記載が無く、今回新発見の文章と思われます。
非常に親しげな文面から、二人が師弟の間柄であったことがはっきりと窺えますね。
06-10 12:20

【徳田秋聲の序文】
佐伯新一郎『母恋ふ鳥』(ヒロヲ書店、大正5年11月)
https://t.co/9hszvCAFGP
「佐伯君!
 東京の自宅へ宛てたお手紙はこゝで拝見しました。それから君の御母さんが亡なられたことは」
で始まる秋聲の「序に代る」。文末に
「十月一日
  伊豆修善寺にて
   徳田秋聲
06-10 11:57

可能性が高そうです。

佐伯新一郎は前掲、矢野良暁とともに「秋聲先生の玄関にゐた」人達の一人として名前が見られますね。
「秋聲先生の玄関にゐた矢野良暁君、佐伯新一郎君なども時々思ひ出される人達である」
水守亀之助「旧友の思ひ出」(「文芸春秋」大正15年6月)
https://t.co/ueqMWhNbZZ
06-10 07:18

真っ先に思い浮かぶのは『伯父の家』『桎梏』の代作者とされる「佐伯某」ですね。『伯父の家』が「新文林」に掲載された明治42年(1909年)当時数えの20歳で、既に上京し創作も行っていたとすれば(秋聲の玄関番となった正確な年月日は未確認)、松本徹が推定した佐伯有三よりもこの人物の方が代作者の
06-10 06:59

選者だった。新一郎が秋声にみとめられたのは、その欄の投稿者だったからである〉
『倉吉市史』(昭和48年11月)
https://t.co/fyFkyIGdxA
佐伯櫨香/新一郎(1890-1917)の略歴は同書、
https://t.co/tjVx1q8I96
を参照。
佐伯新一郎の名は秋聲の伝記に殆ど出てきませんが、玄関番の佐伯と聞いて
06-10 06:58

したり、小説よりは劇作の方に興味が移って旅役者の群に投じ、その作者になって全国巡業をしたりした。」(『私と窪田空穂先生』佐伯仁三郎)〉
〈……『雲処雑談』(新田興著)に、
「年十八、其天才徳田秋声の知るところとなりて京に入る。〉
〈前にも述べたように、徳田秋声は『秀才文壇』小説欄の
06-10 06:57

【徳田秋聲宅の玄関番、佐伯新一郎】
〈佐伯櫨香として「和歌」のところで触れたが、新一郎は文章の才にもめぐまれていた。「いわゆる当時の軟文学、小説や劇作にのみ興味をもち、二〇代の初めに家を出奔してしまった。二・三年を経て、東京本郷区森川町にお住まいだった小説家徳田秋声宅で玄関番を
06-10 06:57

【徳田秋聲の門弟で読売新聞記者の矢野良暁、秋聲作と騙って原稿を売りつける】
「何故に本社は読売子の怨を買ひしか」(「活動」明治42年4月)
https://t.co/hD4xtNXmwm
「既に秋聲氏よりは破門になり(今は漸く出入を許さる)」
とありますね。
06-10 06:31

  1. 2023/06/11(日) 05:00:59|
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