た。」(井伏鱒二『文士の風貌』福武文庫より、「挿話な挿話―谷崎精二氏について―」)
彼等は、このカフェにいる「小説家と結婚するのが一生の願い」という可愛い女給のお紋ちゃんを目当てに、『黴』とか『刺青』とか『子をつれて』などの代表作を懐に日参しているのだとか。
04-29 23:59
「小石川の或るカフェへ、贋の徳田秋聲、贋の谷崎精二、贋の谷崎潤一郎、贋の葛西善蔵が彼等は四人連れで、殆んど毎日コーヒーを飲みに来た。贋の徳田秋聲は、実際の徳田秋聲氏よりも五寸ばかり背が高くて、常に縞の衣物を着てゐた。彼は、四十歳前後の男であつたが、表現派の文学を力説して止まなかつ
04-29 23:57
「戦色玉の井」にある徳田一穂の話は、徳田秋聲『二つの現象』(「婦人之友」昭和10年5月)に於て、玉の井から息子が助け出した娘のために秋聲があちこち奔走した様子がえがかれていますが、新聞の社会面まで賑わしたことは、このエッセイで初めて知りました。
04-29 23:37
いて、竹久夢二の絵のようである。それから半年ほどのち、徳田秋声の長男の一穂と熱烈な恋をして、心中をはかったり、足ぬけししたりして新聞の社会面を賑わしたことがある。(種村季弘編『東京百話 天の巻』ちくま文庫、昭和61年12月刊より、山本嘉次郎「戦色玉の井」)
04-29 22:55
「木村からちょっと入ったところの窓口に、びっくりするような美人がいた。齢は十八歳前後であろうか。水蜜桃のような頬をした清楚可憐な少女であった。とても、こんなところにいるような女とはおもえない。横浜生まれで、フェリス女学校を出たということである。そういえば、どこか異国情緒をもって
04-29 22:50
RT @foujika: ★徳田秋声評メモ:《秋声「足迹」を読む。この頃秋声がひどく好きになつて来たのはなぜだらうなどと考へる。(中略)この立体的に浮彫にする手法のうまさ。過去と現在とのメランジユ、そして文章の素直な味は何とも云へぬ。》、『福永武彦戦後日記』1945年11月30…
04-29 17:28
明治文學全集4「成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集」を読んでいます。このレベルの本だと「広漢和辞典」があると便利。でも「字源」が結構役に立ったりします(先日自分用を買いました)。とはいえ内容も軽いものが多く、撫松などはかなり崩れた変体漢文ですし、全文読下しなので読みやすいですね。
04-29 13:09
長篇『おのが縛』は、フョードル・カラマーゾフを髣髴とさせる父親をはじめ、人物がよくえがかれていて最後までかなりいい線いってたのに、その結末でぶちこわしでしたが、『さか波』のほうは短篇ということもあり、唐突な幕引きも許容範囲で、悪くないと思います。
04-29 00:14
浪子と祖母は子供を里に預け、不義を隠して菊岡と所帯を持つために上京しますが、結局浪子は菊岡に全てを打ち明け、相沢と結ばれます。菊岡は大学をやめ、海外へ渡航します。
女性を取られたあと急展開で海外へ旅立つという幕引きは、『おのが縛』(「万朝報」明治39~40年)にも見られます。
04-28 23:59
徳田秋聲『さか波』(「文芸界」明治37年10月)。幼い頃に両親を亡くし、祖母と金沢に暮らしている浪子には、将来を言い交わした菊岡という法科の大学生がいますが、東京へ勉学に出たまま滅多に会いに来ません。そんな折、浪子は金沢を訪れていた画家の相沢と親しくなり、不義の子をもうけます。
04-28 23:58
こうした、古典詩歌を語りながら次から次へと自然に詩や歌が湧き出てくるような文章は、やはり幼少期から自国の古典に親しんできた者でなければ書けないように思います。私たちとは育ちが違う……
04-28 21:58
への評注など、巨人の古典詩歌への深い学識が感じられます。それらに混じって吉田松陰、久坂玄瑞、生田長江、吉本隆明や柄谷行人まで入っているからその広さにも驚きです。私としては意外な収穫でした。
04-27 16:27
大西巨人は『春秋の花』(光文社、平成8年)に於て、章を春夏秋冬の四部に分け、近代詩人・作家だけでなく、芭蕉、人麻呂、藤原高遠、紀長谷雄、犬筑波集、西行、俊成、菅茶山、田能村竹田など多くの古典を載録しています。例えば、藤原俊成の
むかし思ふ草の庵のよるの雨に涙な添へそ山ほととぎす
04-27 16:22
大杉重男氏《批評時間》の4月3日のブログ「大西巨人について」
http://t.co/coAqUDj1Mp
に、大西巨人選の精華集『春秋の花』に秋聲の『爛』の一節が収められていることへの言及。
このアンソロジー、不明にして知りませんでした。
04-27 15:46
やはり、そういう本を背中に置かなきゃならない理由があったと思いますね。
【同、川崎長太郎×水上勉 対談より】
この話は以前ここで言及したことがありますね。
04-27 13:14
水上 晩年の宇野(引用者註:浩二)先生のご書斎の書棚での全集の置き方でわかるんです。自分の背中に非凡閣の『秋声全集』をピチッとおいてらっしゃいましたね。あれは完璧な全集ではございませんでしたけれども。それに、秋声先生の初版本などは貴重品のように飾っておられました。
04-27 13:10
川崎 それをふっと置くって言うんですよ。
水上 これはすごい。
川崎 そういうことを言うんです。いい言葉ですか。
水上 よくわかる文章論だと思います。
【川崎長太郎×水上勉 対談《「髄」を描く――徳田秋声と宇野浩二》(「海」昭和53年1月)より】
04-27 12:54
ふっと机の上に置く。そうすると、ふくらみが出てくる、裂け目が見えてくる。普通は、しぼっている最中みたいなところで書いているわけだ。
水上 すばらしいなあ、この話は。
川崎 しぼらなくっちゃいけない。
水上 しぼらなきゃいけないけれど……。
04-27 12:49
川崎 (引用者註:秋聲は)ふっと思い出したように、「ものを書くときは、人間の髄を書くんだ」と言ったりする。そういうことをプッツリ言うんです。
水上 なるほど。
川崎 「手拭をしぼって、ふっとテーブルの上に置く」と言うんですよ。「しぼりっ放しじゃいけない」というんだ。しぼって、
04-27 12:47
川崎長太郎といえば、水上勉との対談(「海」昭和53年1月)で、小説を書くことを、絞った手拭いをそっと卓に置いてふくらみが出たところを書く、と譬えた秋聲の言葉を回想しています。あれは良い話でした。
04-27 00:31
目が腫れ塞がるくらい殴打したことが秋聲の短篇に書かれていますが、どうもこの人の場合は元気というよりも、甘やかされて育った子が奇声を上げながら暴力を振るう感じですね。
04-27 00:05
ようだがよオ、一穂君親爺サンの印税たんまり取ってる筈なのに、どうしてるのかネ?」と憤慨した。「秋聲サンが山田順子と同棲している時、一穂君は順子の手にしていた膳をステッキで叩き落したことがあったがよオ、一穂君もあの時分は元気でよかったがネ」
と言っています。徳田一穂が、柘植そよを
04-27 00:01
「私に即して私を抜け出る、つまり自分のしたことを他人のようにみ、且書くということである。この骨法を私は秋聲先生の作品から学び」というのは秋聲文学へのきわめて本質的な指摘ですね。
川崎は小田原市街を紹介しながら秋聲論、私小説論を一頻り述べ立てた後、
「秋聲サンの墓がまだ立たない
04-26 23:36
浅見淵「川崎長太郎会見記」(「群像」昭和31年11月)は、浅見が小田原に川崎長太郎を訪ねた折りのことが語られていて、たいへん面白いです。とくに「だがよオ」「~でよオ」という川崎の語り口には思わず顔がほころんでしまいます。
ここで浅見が川崎の「私小説作家の立場」から引用している、
04-26 23:26
宇野浩二が秋聲宅を訪れたとき、ちょうど山田順子がいて、「宇野君は文学好きだし君も文学好きだから議論するといい」と秋聲に勧められた。宇野は帰ってきて広津和郎に「あほくさ」と言った。この話は広津と江藤淳の対談で語られています。(『江藤淳全対話』2「文学と実生活」)
04-26 22:56
徳田秋聲『さか波』(「文芸界」明治37年10月)を読んでいて、ああ、この娘も嫁入り前にお腹が大きくなるパターンね、と思ってしまいました。舞台は地方で、栄螺山とか出てくるので、金沢でしょう。
04-26 00:54
RT @tonton1965: @kameiasami 1939年2月21日に山水楼で菊池寛賞銓衡委員会が開かれ『仮装人物』が受賞、林房雄が反対した、というのはどこに書いてありましたっけ。
04-26 00:14
RT @tonton1965: @kameiasami 『近古史談全注釈』には『明良洪範』からとあるのですが今のところ見当たりません。
04-26 00:13
@tonton1965 された時、学芸員の豊田和平は図録に「典拠は見いだすことができなかった」と書いています。
『明良洪範』は江戸中期成立ですね。国書刊行会本を探してみます。
04-26 00:07
@tonton1965 「『近古史談全注釈』には『明良洪範』からとある」
調べて下さってありがとうございます。幕末から明治初期の、漢文で書かれた逸話・見聞集は見つかるんですが、それより古いのがなかなか見付からないんですよね。これを題材にした横山大観「千ノ与四郎」が野間記念館に展示
04-26 00:00
@tonton1965 こんばんは。さきほど帰宅したばかりでまだ調べていませんが、その話はどこかで読んだような気がします。一次資料をお探しなんですよね。私も調べてみます。
知ってる方いましたら横から教えて下さいね。
04-25 23:59
@KoseiKuukuu06 フラクトゥーアのノヴァーリス全集ですか。先日ロルツィングのオペラ「ハンス・ザックス」のCDを買ったら、解説小冊子の歌詞がフラクトゥーアで組まれていました。ドイツ人でも読むの辛いと思いますけど。
断腸亭日常の件は考えさせて下さい。ありがとうございます。
04-25 23:58
「アンチキリストたる破壊者」といった表現で非難を書き連ねています。こうした侮辱が雷帝を激怒させ、長文の返信を書かせたのでしょう。クールプスキー公に浴びせられた言葉の一つ一つを取り上げて、より侮辱的な表現で反撃しているところが雷帝らしいですね。
04-25 00:45
もっとも、クールプスキー公とて最初の書簡で雷帝に
「汝の良心は癩病におかされており、神を知らぬ異邦人の間にも見られぬほどだ。わたしはこれ以上すべてを順を追って話すことを自分の舌に許さなかった。」
と言ってその残虐さを一つ一つ挙げながらその罪を詰り、「姦通により生まれた者」
04-25 00:32
蜿々と仰々しい修辞を駆使して己を美化し、相手に罵詈雑言を浴びせかけるイヴァン四世の書簡が見ものです。
「ああ、犬よ、汝はこれほどの悪事を働きながら、何を書き、訴えようとしているのか。排泄物にも増してひどい悪臭を放つ汝の忠告を何にたとえようか。」
といった具合です。
04-24 23:57
今夜の読書は、栗生沢猛夫「イヴァン雷帝とクールプスキー公の往復書簡試訳」(Ⅰ)~(Ⅲ)
(「小樽商科大学人文研究」72:109-156)
http://t.co/d8En4f6W9f 他
試訳と書かれていますが、詳細な解説と脚注のついた、きわめて立派な仕事です。
04-24 23:47
1034号文書(1)図版。
「妙うん院りやうの御ないしよとも、そのほか、色々しやうへん一入候て、ふんけいの御代、東山にはしやくしけく候しころ、しちさう院しゆこうへあつけまいらせられ候ほとに、もんせき又いわくらに候よし」云々とあります。
http://t.co/h4M1tN20wG
04-24 19:37
順序が逆になりましたが、これは
「1034号文書 自年月日未詳至寛正六年四月十六日 聖瑞〔竺英〕寄進状并具書」
の小文書、
「1034号文書(1) 寛正六年四月十六日 聖瑞〔竺英〕寄進状」
です。
http://t.co/WFaqDiCTHm
04-24 19:26
のは、「大日本古文書」だけだと思います。「大日本史料」などではごく一部にしか使用していません。そういう意味で「大日本古文書」は貴重な存在でしょう。
この画像は、「1034号文書(2)」の原本の図版です。
http://t.co/0NKyhj45VW
04-24 19:10
【変体仮名による本文組版】
大日本古文書『大徳寺文書別集 真珠庵文書之七』(東京大学史料編纂所、平成21年3月)
より、「1034号文書(2) 年月日未詳 聖詮〔文渓〕置文案」
現在の印刷物で、本分組版にこんなに変体仮名を多用している
http://t.co/U7qRZUCVc2
04-24 18:57
紹介されていて、岡倉覚三の『茶の本』にも類話があります。しかし、私はまだ、幕末以前の文献上でこの逸話を確認出来ていません。もちろん有名な久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年)にはありません。たぶん元禄頃の作り話だろうと思い、茶道関係の文献をいろいろ探してはいるんですけれども。
04-23 23:56
若き日の田中与四郎(千利休)が武野紹鷗の門を叩いて入門を乞うたとき、紹鷗は綺麗に掃き清められている路地を指差して、掃除せよと命じた。与四郎は少し考えて、傍らの樹木を揺さぶってわざと路地に木の葉を散らした。紹鷗はその風情に感じ入り、入門を許した。この有名な逸話は村井康彦『千利休』に
04-23 23:55
するも高橋光威氏副会長承諾に付き会長に就任の次第」とあります。大日本国粋会の初代会長は磯部で、村野常右衛門はその後任として大正11年から大日本国粋会第2代会長に就任したようです。
04-23 23:08
国立国会図書館のウェブサイトで公開されている「斎藤実関係文書目録 書翰の部 2/国立国会図書館/1999.7/GK123-E100」によれば、「一五〇一、 村野常右衛門」の項に、「大正一一年八月二四日 大日本国粋会総本部後継会長に大木伯より磯部四郎を通して相勤むべき旨相談あり辞退
04-23 23:08
ことが出来たとか(大曲駒村『東京灰燼記』)。
平凡社の「世界大百科事典」第2版で国粋会を引くと、大正8年10月に大日本国粋会が設立された時、以前ここで話題にしたことのある磯部四郎が会長に就任したと書かれています。しかし、Wikipediaには「会長は村野常右衛門」とあります。
04-23 00:00
喜劇役者の曾我廼家五九郎(明治9年生、昭和15年没)は、関東大震災の時「『ビンボーつて棒は、どないな棒かいな』などと納まり込んでゐた」が、「歓楽境から地獄に変じた浅草から火に逐はれて大川端に逃げ、一夜中水の中に這入つて首だけ出して助か」り、その後田端で国粋会の世話により寝床に就く
04-22 23:56
真ん中に見えているCDは、下からツェムリンスキーの歌劇「白墨の輪」(Der Kreidekreis)、歌劇「夢見るゲルゲ(夢想家ゲルゲ)」(Der Traumgörge)とハルトマンの交響曲全集です。ツェムリンスキーはコンロン指揮の管弦楽伴奏付き歌曲集を最近よく聴きます。
04-22 20:50
プーシキン全集の上に見えているノヴァーリス全集はひところ3冊揃いで7~8万もしたそうですが、安かったです。多分ドイツ文学教師の蔵書。私は汚い古本は苦手なので綺麗な岩波の断腸亭日乗(全7巻揃い)を探しています。岩波文庫ではやっぱりだめ。
http://t.co/jvgzMxWze4
04-22 20:24
@ssakkuzzo1110 ええ、主に秋聲の近親者に関することですね。『德田秋聲の文學』の第四編。
04-22 00:48
@ssakkuzzo1110 そうですね。野口冨士男はこの作品読んでないんだな、というのが結構あって、秋聲作品の初出を探し出して読むのがいかに困難だったか、八木版全集のおかげで後世の私たちがいかに恵まれているかが身にしみてわかります。
04-22 00:08
『仮装人物』などは明らかに初出より単行本のほうが磨かれていますし、やっぱり最終稿で読みたい作品が多いですね。もちろん全巻完結しただけでも感謝していますが、ほんとうは初版本を底本にして、初出誌紙との異同を巻末に載せて欲しかった。
04-21 23:57
八木書店版『徳田秋聲全集』は、初出誌紙を底本にして、初版本との異同を巻末に載せていますが、研究目的としてはともかく、作品鑑賞の点からみると、個人的には少々残念なんですよね。秋聲は単行本化にあたって結構書き加えているので、解題に長々と追加分が載せられていたりします。『新世帯』や
04-21 23:51
あ、そういえば八木書店版『徳田秋聲全集』第一期の内容見本の冒頭に江藤淳が「八木書店版『徳田秋聲全集』を推す」という推薦文を書いているのをすっかり失念していました。推薦文を書いているのは、江藤淳、古井由吉、秋山駿、岡保生の4人。
04-21 23:32
調べていたのは、1231号文書「大部荘公文尼覚性三問状」(元亨2年11月)とそれに関連する文書に於て、「欲捧孫女赤女承伏陣〔陳〕状上者、被糺返所盗取実検目六〔録〕取帳并代々御下文」云々と書かれている訴訟に関してで、石井『不動産訴訟法の研究』の71-72頁に明快な解説があります。
04-21 02:33
必要があって大日本古文書「東大寺文書之十九(東大寺図書館架蔵文書之十四)」を調べていたところ、疑義が生じたので、石井良助『中世武家 不動産訴訟法の研究』(弘文堂書房、昭和13年12月)を調べていたら、面白くて止まらない。古いけれど、さすがに良著です。
04-21 01:44
ています。ちょっと古い翻訳でもよく見かける語で、私は中学生の頃「メンフク」と誤読していました。そのころ辞書を引いて妙に感心したのは、対義語が「面起こし(おもておこし)」だということ。古文で習う語ですね。
04-20 16:42
徳田秋聲『愚物』(「新小説」明治38年7月)二に、「面伏(おもぶせ)らしく言い淀んで」という一節があります。辞書を引くと、「おもてぶせ」とも言い、「顔があげられぬほどに面目ないこと。不名誉」の意で、『金色夜叉』『放浪記』(おもぶせ)『つゆのあとさき』(おもてぶせ)から用例が引かれ
04-20 16:30
@tonton1965 @msk_tetsu あの、横からすみません。「処女を破る」「処女破り」という用例はありますし、「処女が破れる」はべつだん「特殊な言い方」ではないと思います。
04-20 15:37
ジャン・パウル、ビューヒナー、クライスト、マラルメ、ランボーの入った棚です。ジャン・パウルの翻訳は、日本語としてちょっと…なのが多くて残念。クライスト全集は収録作が少ない。ランボー全集は挿絵が邪魔ですね。マラルメ全集は素晴らしいです。
http://t.co/WfAbZZjDUD
04-20 03:28
「吾々は、お互に、随分長くやつて来たんですから。考へてみると長い。」
と感傷的に言うと、秋聲は
「うむ、長い。」
と受けます。老作家たちの表情や、当時の銀座の夕暮れが目に浮かぶような味わい深い逸話ですね。
※引用文の読点が抜けていました。
(誤)互に静かな
(正)互に、静かな
04-20 01:00
前後の銀座は怪性の女がいて面白いとか、そんな話をしています。
小一時間ほどして4人の老作家はコロンバンを出、ぶらぶら歩きながら
「この十年ばかりの間に、世の中が、急に変つたやうですねえ」
「全く変わりましたよ。」
などと述懐します。荷風が
04-20 00:57
さらさらとした会話の様子、こちらの三人、もう、そんなことには、枯れ切つたもので、他人が以前の愛人と出会つて言葉を交はしてゐるからとて、それに懸念するでなく、まことに平然たるもの。」
秋聲と順子が話している隣で、荷風たちは、素人娘はやっぱり銭のある年寄りが好きとか、夜中の12時
04-20 00:55
で茶でも飲もうということでコロンバンに入ります。すると、偶然そこに女の子を連れた山田順子が腰掛けていたとのこと。以下引用です。
「さて、コロンバンで、こちらは荷風、葵山、僕の三人でココアか何か飲みながら、話してゐる間、秋声氏は順子と暫らく話してゐた。どんな話か知らぬが、互に、静かな
04-19 22:16
近松秋江「銀座街の四老人」(初出「讀賣新聞」昭和9年8月10日、11日、13日。全集12巻所収)に、同年の初夏、円タクを銀座の尾張町で乗り捨てた秋江・秋聲が、生田葵山・永井荷風の二人連れにばったり出くわした時のことが書かれています。四人は「やあ、やあ」と笑顔で会釈を交わし、どこか
04-19 22:16
高橋敏夫、篠崎秀樹、広江陽子、佐久間保明、遠矢龍之介、金井景子、島崎市誠、丸山宏之、前田真理、広瀬朱実。
高橋敏夫は後年ゴジラなどを論じた人で、この本には「『新世帯』を読む―〈立志〉幻想のゆくえ―」が入っていますが、秋聲に関心がなかったのでしょう、文章を埋めるのに苦心してますね。
04-19 19:51
紅野敏郎の「非凡閣『秋声全集』の「内容見本」と「月報」―秋声研究史の一齣―」が目的で、紅野敏郎編著『論考 徳田秋声』(桜楓社、昭和57年)を買ってきました。布装箱入の立派な装釘の本ですが、実は紅野敏郎のゼミの学生の論文を集めたもので、紅野論文は最後に収められています。論文著者は、
04-19 19:36
たりするわけでなく、古井由吉が『魂の日』所収の「春の旅」で「秋聲特有の、時間の巻き戻しの頻繁で長い運び」と書いているのが最も正鵠を射ています。そういった点は少し気になりますが、この論考は丸谷の『輝く日の宮』のヒロインの架空の論文から意識の流れ小説までうまくまとめて面白いです。
04-19 01:23
ではないだろうか。事実の論理よりも連想の流れによって進む、もう一つのリアリズム小説なのだ。そして、(中略)二十世紀の意識の流れ小説などよりもずっと、二十世紀の支離滅裂な人間の「今」に迫る強力な方法であった」と締めくくります。
秋聲の小説は、実際は「話があっちに飛びこっちに流れ」
04-19 01:22
(中略)為永春水の小説の整序のなさ、話があっちに飛びこっちに流れというでたらめさは、「日本人の伝統的な時間感覚」の反映であり、徳田秋聲の小説もそれを受け継いでいるのだという説である。」
そして論考の最後に、
「彼女の説に便乗して一つ言えば、「秋聲的時間」とは、つまりは連句的時間
04-19 00:47
先述の徳田秋聲全集第33巻月報(月報37、平成15年11月)に、勝又浩「秋聲の「今」」という論考が掲載されていて、その冒頭に次のように書かれています。
「丸谷才一の近作『輝く日の宮』のヒロインは国文学者だが、彼女が学会の賞を貰ったとされている『春水=秋声的時間』という論文がある。
04-19 00:44
の表記を勝手に変更していることへの抗議の手紙を書いているからです。秋聲は明治30年代以降、代作・翻案を含め数多くの長篇小説を新聞雑誌に連載し、大正時代には通俗小説の連載を同時に何本も抱えていたので、作品を勝手にいじられて苦々しい思いをした経験が多々あったのではないでしょうか。
04-18 23:56
新しい読者層である一般大衆や女性を対象にしていることもあり、却って用字・行送りまで事細かに指示しないと、勝手に用字用語を読みやすく変更されたり適当に改段されたりする、という事情があったでしょう。というのは、大正11年に、通俗小説『二つの道』の掲載紙である東京日日新聞に、漢字や仮名
04-18 23:46
秋聲は、用字やルビに非常に細かく気を遣う人で、書きっぱなしと決めつけるのは間違っています。古くは『少華族』のように、単行本化に際して徹底的に手を入れている場合もあります。しかしこの場合は、「真摯さ」というよりも、純文学作品と比較すると、通俗長篇の場合は、掲載紙(誌)が大正以降の
04-18 23:46
秋聲独特の用法だが、〈手容〉に〈てつき〉とルビを振り、欄外に〈突ニアラズ〉と用字に注意をうながすなど細かく気を配っている」
「さらに、行アキや別行の指定も自ら書き入れて指示」しているということで、小林氏はそれを通俗小説だからといって手を抜かない真摯さだと指摘しています。 確かに
04-18 20:14
は〈あらじよたい〉でも〈あらせたい〉でもなく〈しんしよたい〉と振られている。さらに本文中に二ヶ所ある〈新世帯〉もいずれも〈しんしよたい〉である。あるいは〈数奇(さつき)〉は欄外に〈数(すう)ニアラズ数(さつ)ナリ〉と念押しの指示をしている。また、〈目容〉を〈めつき〉と読ませるのが
04-18 20:11
徳田秋聲全集第33巻『闇の花』の小林修氏による解説に面白い報告があるので紹介します。秋聲の通俗小説『闇の花』は、原稿用紙762枚分の自筆原稿が石川近代文学館に保存されていて、「原稿はほぼ総ルビに近い程度に秋聲自身の文字でルビが振られており、(中略)たとえば第十一回の章題「新世帯」
04-18 20:10
秋聲宛字集
恁麼(こんな)
這麼(こんな)
那麼(あんな)
那様(そんな)
甚麼(どんな・どう)
這度(こんど)
加旃(それに)
万望(どうぞ)
有繋(さすが)以上、主に明治時代に使用していた宛字です。意味は若干ずれますが、其儘の表記で現代中国語で通用するものもあります。
04-18 01:20
@tonton1965 田嶋陽子さん個人のことはさておき、「愚~」の意味を誤解している人は結構いますね。「拙著」「拙訳」なんかも著作、翻訳そのものが拙いとか。
04-17 23:44
@tonton1965 あと、田嶋陽子さんがテレビで「愚妻という言葉は女性差別だ」と言ってたことがあるんですが、これも意味を取り違えていますね。愚を大辞林で引くと「自分または自分に関係のある人や事物をさす語につけて謙譲の気持ちを表す」とあります。妻が愚かという意味じゃないんです。
04-17 23:34
@tonton1965 ええ、もともと「障碍」が正しいですものね。
「障害者」ではその人たちに害があるような誤解を与えるから「障がい者」と書こう、と誰かが言い出したのでしょうね。
04-17 23:15
@tonton1965 そうですか。ありがとうございます。
急に話を変えてすみませんが、私は気持ち悪い日本語に「障がい者」をあげたいと思います。最近よく目にしますよね。
04-17 23:09
以上、徳田秋聲『町の踊り場』末尾より。
私は、初読の時から、引用の「彼は陰鬱に爆笑した。」というのは薄気味悪い表現だなとずっと思ってきました。辞書的には間違った用法ということになるのでしょうが、汚い黒服を着た若い男の、青臭いような下品な笑いがよくあらわされています。
04-17 22:58
《彼は受付へ行つて、チケットを買ふと、恭しく女達の前へいつた。そして踊りだした。それは何かエロ味の露骨な、インチキで荒つぽい踊りであつた。
「実に好いところを発見した。こんな好いところが、この町にあるなんて、迚も嬉しくなつてしまつた。」
そして彼は陰鬱に爆笑した。》
04-17 22:50
@tonton1965 山崎正和対談集『劇と批評の精神』(構想社、昭和53年)所収の対談でしょうか。私は未読です。
04-17 22:36
@tonton1965 149頁の「後架」は『吾輩は猫である』に「後架の中で謡をうたつて、近所で後架先生と渾名をつけられてゐ」たとか何回も出てくるので、読書好きなら高校生くらいでも知ってそうですよね(私はたまたま知ってました)。「外後架」と板書したので別の言葉だと思ったのかも。
04-17 01:40
@ISOGAI_1 そうですか。私は全く聞いたことがなくて、辞書を引くまでは水羊羹みたいなお菓子かと思ってました。
最近テレビでは「果物」を「フルーツ」と言うことが多いですね。「果物」と言えばいいと思うんですけど。
04-17 01:12
三谷一馬『江戸庶民風俗図絵』中公文庫。アッリアノス著、大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記』(上下)岩波文庫。久保田淳、吉野朋美校注『西行全歌集』岩波文庫。(以上本の大きさ順)
「新版 ことば遊び辞典」のみ古書店で購入。吉原の勉強に『江戸吉原図聚』。『西行全歌集』は携帯用です。
04-17 00:36
今日買ってきた本です。
鈴木棠三「新版 ことば遊び辞典」東京堂出版。古井由吉『半自叙伝』河出書房新社。小谷野敦『頭の悪い日本語』新潮新書。石井正己『文豪たちの関東大震災体験記』小学館101新書。三谷一馬『江戸吉原図聚』中公文庫。
http://t.co/ETLl3h5vBY
04-17 00:31
『頭の悪い日本語』149頁の「水菓子」も明治~昭和初期の小説ではよく見かける言葉です。むしろ秋聲の小説で「果物」と書いている例はたぶん無いと思います。 例えば『足迹』四十「叔母は冷たい物を欲しがつた。氷や水菓子を、叔父に秘密(ないしよ)でちよくちよくお庄に取りに走らせた。」など。
04-17 00:11
@tonton1965 わかりました。
「無断引用」は、小保方さんの論文コピペ問題で讀賣新聞などが「2011年に提出した博士論文に、無断引用の疑いが見つかった」と書いたせいで、引用に許可が必要なのか、引用元を明記すればよいのでは?と話題になりましたね。
04-17 00:00
@tonton1965 そうですね。
ところで、『頭の悪い日本語』の174頁に「彼女」の項がありますが、明治時代は「かのをんな」と読むほうが多かったんでしょうか。秋聲は昭和まで「かのをんな」を使っていて、「かのじょ」には相当違和感があったのかも知れません。
04-16 21:13
秋聲のよく使う宛字に、「悶腕く/悶踠く(もが‐く)」、「四下(あたり)」などがあります。「あさましい」には大体「浅猿しい」の字を使っています。
04-16 20:46
徳田秋聲は『前夫人』(「新小説」明治37年7月)三で「胃潰瘍」に「胃塊癰(いくわいよう)」という漢字を宛てています。「塊癰」と書かれると何だか癌みたいですね。
04-16 20:31
なので、秋聲の小説に「彼女」という代名詞が出て来たら、ルビが省略されている場合でもつねに「かのをんな」と読むのが正しいと思っています。
04-16 20:28
秋聲は明治30年代から「彼女」という代名詞を小説に使っていますが、晩年に至るまでほぼ全てに「かのをんな」というルビを振っています。
04-16 20:02
した風」で、化粧も上達し顔の印象もやや垢抜けして明るかった。彼女は老婆と喧嘩別れして、今は芸者屋町に近いところに住んでいるということです。
その後、彼女がどうなったかは不明です。
04-15 20:02
(『生活のなかへ』では入院しています)、恢復後にわかに思い立ったように独りで暮すと言いだし、山田とは何かといざこざの絶えないある老婆を頼って、後足で砂を掛けるように家を出てしまいます。
山田はある晩、上野の広小路の人込みのなかに藤江の姿を見出します。「厭に下町風にべちゃゝゝゝ
04-15 19:59
家事手伝いをしていますが、最近は仕事に身が入らず子供たちへの応対も良くありません。何を考えているのか判りませんが、男気もないのに時代遅れの珍妙な盛装に下手な化粧をして度々出歩いています。山田の妻はそんな藤江を陰で嗤います。あるとき、藤江は流行感冒に罹り、暫く寝込みますが
04-15 19:58
4月7日に徳田秋聲の『リボン』(「中央公論」明治42年2月)と『生活のなかへ』(「黒潮」大正7年1月)の女主人公は同じ人がモデルだと書きましたが、その後の消息は『お化粧好き』(「婦人公論」大正8年4月)で知ることができます。藤江は何年かぶりに田舎から出て来て山田(秋聲)宅に居候し
04-15 19:57
http://t.co/2A0GLuzVwJ
には内部の図版が載せてあり「展示水槽はトンネル状のホールの進行方向に向かって右側に配列され、来館者は「汽車窓式」に並ぶ観覧窓を覗きながら」館内をぐるり一巡する仕組みになっていた、と中の様子を説明しています。汽車窓のある隧道みたいです。
04-14 12:35
を土産に買ったり常盤座で立見をしたという話の後で水族館の話題になります。明治時代の水族館内がどうなっていたのか気になりますが、外観の写真はありますが館内の写真は見つけられませんでした。
鈴木克美「浅草公園水族館覚え書」(「海・人・自然(東海大博研報)」2003(5):43-55)
04-14 12:29
徳田秋聲『おとゞひ』(「時好」明治37年6月)に、次のような会話があります。
「でもね、芝居を見るよりか、水族館でも見た方が好いわ。」
「あゝ、水族館も可いんだわね。」
ここで話されているのは、明治32年(1899年)浅草四区に開館した浅草公園水族館のことでしょう。仲見世で紅梅焼
04-14 12:26
消印が金沢市なのでおかしいと思っていると、直ぐ後に取り繕うかのように宮岡の消印の葉書が届く。姑は息子にまた昔の悪い癖が出て商用を口実に女遊びをしているのではと疑い、騒動になると言う話。おすすめです。
この作品に赤襟(あかえり)という言葉が出て来ます。半玉(はんぎよく)のことです。
04-13 15:43
徳田秋聲『世話女房』は、私が好きな短篇の一つです。舞台は金沢。主人公のおりかのモデルは、秋聲の異母姉きんの次女、一三(かずみ)で、当時満で22、3歳でしょうか。
縹緻好しで働き者のおりかは、婚家で可愛がられ大事にされている。ある日亭主の壮吉が商用先の宮岡から葉書を寄越すが、
04-13 15:42
因みに秋聲の小説ではこの病気の話題はあまり出て来ません。かろうじて思い当たるのが、
徳田秋聲『世話女房』(「黒潮」大正6年11月)の「母親は鼻くたになつた人の例まで挙げて、おりかを脅かした」)です。
鼻腐(はなくた)は、鼻の欠け落ちること。また、鼻を損じて声のはっきりしないこと。
04-13 11:42
@tonton1965 ということでこれをキーワードに検索してみると、大正時代の論文もいくつか引っ掛かってきて、「サルバルサン」または「サルワルサン」が黴毒治療薬として当時主流であり、進行麻痺にまで至る症例はすでに著しく減少傾向にあったようです。勉強になりました。
04-13 02:55
@tonton1965 と思ってCiNiiで調べてみると、昭和6年(1931年)の東京女医学会雑誌に「黴毒の治療法に就て」という論文があり
http://t.co/QK9kGPMJR7
パウル・エールリヒと秦佐八郎が開発した「サルワルサン」剤が有効な治療薬として紹介されています。
04-13 02:34
@tonton1965 例えば里見弴の年譜に「大正2年12月11日、志賀宛葉書、千慮の一失、梅毒で毎日医者通い。」とありますね。戦前には水銀療法やマラリア療法しかなかったときいていますが、どうやって治したんでしょう。当時のことなので誤診の可能性もあるでしょうね。
04-13 02:00
@tonton1965 私に訊かれてもとは思いますが、大昔の人物は確証がないですし、明治以後で死亡診断書にはっきりそう書かれている人はいるんでしょうか。進行麻痺で入院した大川周明は昭和23年暮に退院して長生きしましたしね。直接の死因は凍死ですが藤澤清造くらいしか思い当たりません。
04-13 01:32
旦那様の遊蕩の犠牲だといわれた。」とあります。また、大岡は佐藤春夫が『うぬぼれかがみ』で永井荷風が異常な邁進ぶりで猫を追ったのは脳梅毒のせいではないかと書いたことに対し、「猫を熱心に追ったぐらいで、脳梅毒とうたがわれては、たまらないであろう」と皮肉っています。
04-12 13:01
罹ってなくても梅毒認定されることがよくあったようです。
大岡昇平「文士梅毒説批判」(「新潮」昭和36年11月)に、「一体に大正時代は精神病の知識は今日ほど普及していなかったから、人は少し気が変になると、すぐ梅毒が頭へ来たなんて言われたものである。奥さんがノイローゼになれば、必ず
04-12 12:55
19世紀のヨーロッパには梅毒に罹患していた芸術家が数多く存在したので、元々才能のある人物がこの病気によってさらに高い霊感を得られるという、へんな幻想がうまれたのでしょうね。また、 その多くは40歳前後に精神に変調を来して発狂、病死という経路をたどるので、すこし気がおかしくなると、
04-12 12:55
独特な焼き加減、独特な叩き方である。それによって昇華され、いよいよ鋭い効果をあらわす芸術のいかがわしさに、作者の目はさらに及んでいる。」(古井由吉「《神童》をめぐるやるせなさ」)
04-12 12:12
「この文体も、結局、スノビズムとのわたり合いから来るように思われる。作者が市民の感傷に強く惹きつけられているように、文章は文学的な俗に、やはり本心《甘くやるせなく》惹きつけられているようだ。その俗への傾きに、諧謔が焼きを入れて、鉄敷の上でチョンチョンと叩く。
04-12 12:12
「トーマス・マンにしばらくでも耽溺したことのある物書きは、この言葉の使い手から、形容詞の変なひねり癖を覚えこまされたという意識を、長いこと持つようだ。臆面もなく見えるところまで、形容詞の月並な情緒に乗っかって、同時にちょっとヒネリをつける。」(古井由吉、同上)
04-12 11:53
「ああいう作品に十六歳の心が参ったと白状するのは、今でも気恥ずかしい。少年期のスノビズムを甘く揺すられたわけである。しかもそのスノビズムと、それを見ている目とが、どこかでひそかにうなずきかわしている。」(古井由吉「《神童》をめぐるやるせなさ」)
04-12 11:51
@tonton1965 そうでしょうね。この長篇は、他にもアドルノとかシェーンベルクとか、先生のお好きでなさそうな人達からいろいろと知恵を借りています。
04-12 10:53
@KoseiKuukuu06 どうもありがとうございます。私の場合は、なぜ矢場女が女郎と同列に言われているのか、といったごく初歩的なところから辞書を引かなければいけないレベルでお恥ずかしい限りです。もっと勉強します。
04-11 23:40
@syuuigusou 高校生の読解力でもけっこう解るんですよ。
04-11 23:31
@syuuigusou 私が読んだのも高校生の時で、新潮世界文学35巻の円子修平訳です。月報で川村二郎が「どうしてこれだけ、わかったことを細大洩らさず述べ立ててしまうのか、呆然としていぶかる思い」を抱いたと言っているように、マンの小説は何もかも事細かに説明してあって
04-11 23:27
@tonton1965 開花させ、最終的には廃人になります。ニーチェの生涯をモデルにしていることはよく知られていますね。
04-11 23:18
@tonton1965 いま原作を確認したところ、二人の女ローゼンシュティールとナッケダイがアードリアーン・レーヴァーキューンの天才を畏敬しながら競い合うように奉仕するのは、最終的に彼が発狂する以前のことでした。アードリアーンは若い頃、娼家で梅毒に感染し、病気の力を借りて天才を
04-11 23:16
@tonton1965 トーマス・マンの『ファウストゥス博士』では発狂して廃人になったアドリアン・レーヴァーキューンを競い合うように介護する2人の女が出て来ますね。
04-11 21:37
@tonton1965 杳子は離人症のような気がします。
04-11 21:08
@tonton1965 ストリンドベリなんか、作者がほんとに気が狂ってる感じが伝わってきますよね。関係妄想とか、嫉妬妄想とか。でもここで話題になってるのはそういうのではないですね。
04-11 21:04
病んだ青年を書いた作品で私がすぐ思い出すのは、ドストエフスキーの『弱い心』。
04-11 20:41
耳にしたことがあります。意味は判りませんでしたが、悪口な感じは伝わってきましたね。「しゃあつく」もまだどこかで話されているかも知れません。なお内田魯庵『くれの廿八日』(「新著月刊」明治31年3月)其二に「如斯なヅウゝゝしい洒蛙突(しやあつく)な耶蘇なんだもの。」の用例があります。
04-11 20:02
「『ふん、ちやんちやら可笑いや。手前(てめへ)も余程洒突(しやつく)だな。』と鼻頭で笑つた。」(四)
この「洒突」は「しゃあつく」のことですね。図々しくて恥を恥とも思わないこと。また、そのさまをいいます。実際に聞いたことはありませんが、似た言葉で「しゃあこ(洒落乎)」というのは
04-11 19:23
「お前さん又、虎さんに間(しやく)られてお出(いで)のぢやないかい)」(二)
そそのかすことを「しゃくる」と言うのは、今では使われない表現ですよね。
04-11 00:40
九尺二間に過ぎたるものは紅の附いたる火吹竹、というのがあります。
「好い匂がすること。又天斧(てんをん)かい」(二)
上記は八木版全集からの引用ですが、『秋聲叢書』のルビは「てんおの」です。宛字の天斧羅の羅を抜かして「てんおの」と言ったんでしょうか。
04-11 00:38
ちょうど旬ですし。ひょっとしてミル貝かとも考えましたが、どんどん離れて行ってるかも。天麩羅のネタに「バカ」というのがあるんでしょうか。
「からりと九尺二間の我家の格子戸を啓(あ)けた」(二)
九尺二間(くしゃくにけん)は味のある言葉ですね。伝河合継之助作の都々逸に、
04-11 00:32
まわしをしてたのかな?というのを幾つか挙げてみます。
「今通した上天にお銚子のお替は奈何した」(一)
天麩羅の上等なものを「上天」と言うそうですが、今でも通じるんでしょうか。
「大きな莫迦の較白くなつたのを摘んで、ぺろりと食りながら」(一)
莫迦ってバカガイのことでしょうか。
04-11 00:24
徳田秋聲『春の月』(「文芸倶楽部」明治37年4月)
日露戦争開戦直後の作品だけあっていきなり戦争談義から始まります。紅野謙介氏が高く評価していますが、私も良い作品だと思います。そしてこの時期の作品の例に違わず会話が生き生きしているのが好ましい。
当時の東京の話言葉ではこういう言い
04-11 00:21
@ISOGAI_1 ありがとうございます。でもすごい句ですね。
鶏頭に燃えし頭は割られたり 津沢マサ子
04-10 23:14
@ISOGAI_1 はい、恐れ入ります。ものものしい装画なので一寸ネットで調べてみたら、一頁に一首ずつ挿絵に囲まれて組まれているそうですね。
04-10 22:53
@ISOGAI_1 「晝」は「昼」の正字なので「楕円の昼」ですよね。
04-10 22:30
弓箭を伝へしと云ふ養由基の娘
唐人髷で桝花女の矢場女(保)
04-10 20:40
土弓場も美しいのを的におき(天)
楊弓場矢取女を的に来る(化)
小当りの的になつてる矢場娘(保)――小当りに当つて見る的
射る気より張る気で土弓はやるなり(保)
一寸八分的に出る矢場女(政)――観世音尊像の寸
桝花女の出る土弓場は入があり(安)――頼光の夢枕に立ちて
04-10 20:39
@KoseiKuukuu06 面白いですので筆写しておきます(以下、西原柳雨「川柳吉原志」からの引用です)。
方々の神社仏閣などの境内に、土弓場と称する美人を的にどんゝゝと当る娼売が盛に行はれた、土弓は一名楊弓とも称し小さな弓で、太鼓の中央に吊され的を狙つて射る遊戯である。
04-10 20:37
@KoseiKuukuu06 ご教示ありがとうございます。西原柳雨は存じませんでした。あとでゆっくり拝見します。
04-10 08:22
「矢場女」についてはこちらがたいへん参考になりました。
三田村鳶魚『芝と上野浅草』(春陽堂、大正14年)
→国立国会図書館デジタルコレクション
http://t.co/ge9pQm5nwr
04-09 23:42
@ISOGAI_1 拝見しました。「主な作品」の項と重複がちょっと多い気がします。それから、秋聲の単行本は、古い作品が収録作品を若干入れ替えて繰返し刊行される例が多いので、初出を列挙した「主な作品」の項の方が好ましいと個人的には思います。
04-09 23:20
@tonton1965 はい、それは読んでました。私は、「銘酒屋」の項に「それらの矢場が廃れた明治20年頃から、銘酒の酌売を看板にして5、6本のびんを縁起棚に飾り、その裏では数名の私娼を抱える店が流行しはじめた」とあるので、明治20年頃廃れたんだなと思ったんです。
04-09 23:10
@tonton1965 ご教示ありがとうございます。作品に書かれている風俗を調べながら読書するのは楽しい作業ですが、例えばその事柄が明治37年当時隆盛を極めていたのか、それとも廃れかかっていたのかまで調べないと意味は汲取れませんよね。今回はネットの記事を鵜呑みにしてしまいました。
04-09 22:44
十八九年頃の大学生が矢場女を携へて、本郷駒込の草津温泉に浴せんとする時の光景が記述せられて居る。是亦当時の風俗を窺ふ一端となるであらう」とあり、明治20年頃にはまだ盛んであったようです。『みち芝』のは固陋な年配の女性の台詞ですので、すでに時代遅れの僻見の面があるかも知れませんね。
04-09 20:49
『みち芝』は明治37年3月、日露戦争開戦直後の発表ですが、この時代になっても楊弓場で働く女性は売春婦と見做されていたのでしょうか。何となく江戸時代、遅くとも明治前期までのことのように思っていましたが。荷風の「上野」(昭和2年6月記)には「春の家おぼろの当世書生気質第十四回には明治
04-09 20:48
「東京には、正可(まさか)あんな芸者は居りや為ますまいよ。――他(あれ)は何でせう、何処か牛肉店か、上等で西洋料理の女中ぐらゐな者でせうよ。はあ、悪くすると、或は矢場女ぢやないかと思ひますが」
「女郎だか矢場女だか何だか解らないものと、」(徳田秋聲『みち芝』)
04-09 20:47
なお、上記引用は陣痛の方の意味です。
『生活のなかへ』の女主人公は、『リボン』(「中央公論」明治42年2月)の主人公と同じ人がモデルです。彼女は不縁になって帰郷していたのですが、秋聲の長女瑞子の訃報を聞いて手伝いに上京し居候していた際に病気に罹り入院した時のことが書かれています。
04-08 00:28
「虫が齧る」(むしがかぶる)
これも辞典の用例が膝栗毛や川中島から引かれているので、古い江戸言葉なんでしょうね。腹痛が起こる、産気づくという意味です。
徳田秋聲『生活のなかへ』(「黒潮」大正7年1月)三に「虫がかぶつて来て、お腹が痛み出したその苦しさと云ふのは」の用例があります。
04-07 23:55
@tonton1965 ありがとうございます。ブログを拝読して "Lysistrata" "Aristophanes" "(ここに「張形」の英訳)" で検索掛けたりしましたが……昼間からやめときます(^^;)
04-07 13:46
洒落といえば『足袋の底』(「中央公論」大正2年4月)に「おやゝゝ又負けの綱かい」というのがあります。これは渡辺綱のもじりですね。こういうの年配の方はすぐわかるんでしょうか(自分でも実際に言ったことがあるとか、聞いたことがあるとか)。
04-07 12:55
『だから考えて置くと云ふのだ。』
『ほう、師走の蛙で考へる。』(徳田秋聲『みち芝』四)
この「師走の蛙で考へる」は「日本国語大辞典」にも載ってなかった。ネットで検索すると大橋巨泉の口癖ということですが、そんなのは知らない。たぶん「師走の蛙」「寒蛙」「考える」という洒落でしょう。
04-07 12:43
昨日小谷野先生からご教示頂いた「敦圉」ですが、増補「字源」に載っていました(以下引用)。
敦圉【トンギョ】盛んにいきまく、敦は大、圉は強、大いに気が激する。左思、魏都賦「白虎――乎崑崙」
簡野道明の「字源」は持ってないんですよね。綺麗な古本があったら買おうかな。
04-07 12:04
@tonton1965 と思って調べましたが、信長からの書状ばかりですね(当然ですが)。
信長は署名に「弾正忠 信長」とか「信長」と書いてます。
ちなみに少し時代は遡りますが、吉川家文書1483「松永久秀書状」(切紙)永禄十二年では「信長則被馳参候境節」と呼び捨てでした。
04-07 00:09
@tonton1965 そういうのは東京大学史料編纂所の古文書データベースで敵方の文書を引くとわかりそうですね。
04-06 23:39
@tonton1965 そうですね。正二位、右大臣ともなると上総介ではおかしい気もするんですよね。「信長公」がいちばんしっくりするような。
04-06 23:25
@tonton1965 ご教示有難うございます。ところで中国攻めの頃の秀吉は筑前守殿ですが、信長は何と呼べば正しいですか。
04-06 23:16
敦圉く(『小華族』五十六)、敦囲く(『後の恋』(八)其二)という漢字、初見の時は一体どう読むのかと首をかしげたものですが、これは明治大正にはごく普通に新聞などにも使用されていて、「いきま‐く」と読みます。なぜこれが「いきまく」になるんでしょう。
04-06 23:02
@salmo_34_1 ブルッフの交響曲は、私もマズア、ゲヴァントハウス盤の全集を時々聴きます。メンデルスゾーン―シューマン系統の、旋律の豊かなロマンティックな曲ですよね。
04-06 22:54
「私は小野美智子さんの兄さんが、英国からのお土産として、何でも二箱ばかり贈っていただいたアブダラの味が忘られないでゐる時」と書いている兄とは敏夫のことでしょうか。
04-06 22:00
な業務経験に関わることは、他と比較検討したうえで概ね信用が置けるように思います。
『馬込文士村』で小野敏夫が『流るゝまゝに』の扱いに困って相談したという妹の小野美智子の名は「二日会記録」に見られます。本当に妹だとすると、秋聲が「煙草から酒から」(「新潮」昭和8年1月)という随筆で
04-06 22:00
ます。伝記・年譜作成において回想録の類から逸話を採ってくることの難しさを痛感させられますね。
たとえば先日話題にした榊山潤の『馬込文士村』にしても、人物の取り違え等おかしな箇所が結構あって、全部が好い加減なのではないかという疑念にかられるくらいですが、時事新報の記者としての具体的
04-06 21:34
以上、野口冨士男「『縮図』の銀子の家」(昭和42年2月16日「東京新聞」夕刊初出、『德田秋聲ノート』所収)
この話、もし川端自殺後に伝記が出版されていたら訂正する者もいなかったわけですし、川崎長太郎などは晩年の対談でも事実として言及していて、そうとう印象的な逸話であることが窺え
04-06 21:33
思った」と川端さんが語っていたそうだ〉という記述は事実に相違しているらしい。〈私は秋聲先生を白山へお訪ねした事は無く林芙美子さんから聞いた話を三好達治君に話したのかもしれません〉という一節が川端先生の私宛てのご芳書にはみえているので、この際訂正しておく。」
04-06 21:32
昨夜言及した『德田秋聲ノート』の該当箇所を引用しておきます。
「私が拙著に引用した生島遼一氏の〈三好達治君が話してくれたことだが、川端康成氏が秋聲を訪ねて行ったら、秋聲はちょうど晩年の愛人である婦人の家で、肩をぬいで膏薬をはらしていたところで、その様子を見て「らくになってるな、と
04-06 21:31
@tonton1965 「徳田秋聲傳」の515頁です。それが誤りであったことを書いているのは『徳田秋聲ノート』の232-233頁です。
04-06 00:18
@tonton1965 秋聲が置屋で肩脱ぎして膏薬を貼らせている所を川端が目撃したという逸話も、伝記出版後川端自身から覚えがないとの手紙があったそうで(あれは又聞きの又聞きみたいな話ですが)、野口氏は直したいところがいっぱいあったでしょうし、存命中の文庫化は困難だったでしょうね。
04-06 00:14
@tonton1965 4月1日のブログに私のツイートを取り上げて下さって恐縮です。 徳田道子『光陰 亡父近松秋江断想』という書物は存じませんでした。文庫化の話は、たしか中公文庫から分冊で出しませんかという話が野口さんにあったけれども、売れないし迷惑かけるからと断ったそうです。
04-05 23:59
@mameinu888 林芙美子は秋聲はべた褒めなのに、秋江には「ここの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたりしている。まるで二十日鼠のようだ。」とか結構厳しいですよね。
秋江は目に入れても痛くない二人の娘のことを折に触れて随筆に書いていて、面白いものが多いです。
04-02 00:45
の葬儀の席で近松秋江の令嬢徳田道子の嗚咽に耳を奪われたことが印象的に語られて幕引きになります。些細なようですが、伝記の最後に敢えて「徳田道子の嗚咽以外の一切を記憶から取落してしまつた」と書付けた人物が人違いだったとは皮肉です。しかしこれで伝記的事実が一つ訂正されたことになります。
04-02 00:23
モテたことは一々例を並べ立てるまでもないですが、この一文には父親と比較してその魅力がさらりと語られています。
ちなみにこの随筆には、秋聲の告別式に秋江の長女、徳田百合子が参列し、弔辞を聞いているうちに泣いたことが具体的に書かれています。ところが野口冨士男の『德田秋聲傳』では、最後
04-01 06:13
お立ちになった先生は、十三、四歳の少女の目にもとても素敵に見え、自分は美男と思っているうぬぼれ強き男、秋江などとても足許にも及ぶまいと思った。」
何気ない一齣ですが、最後の一文が実の娘が言うだけに山葵が効いていいですね。秋聲が秋江と違って女性を惹きつける魅力を持っていて、要するに
04-01 05:59
が立っておられた。
『秋江君、何だ寒いのにそば屋に置いてきて、どうして家に連れて来ないんだ』と父をなじられた。『二人も連れてるからね』と父は言い訳をしていた。先生はお優しいお顔で私達を交互に見下ろされ、『女学校は何年ですか』と制服を着ていた二人にお尋ねになった。(中略)すらっと
04-01 05:57
昭和13年のある秋の宵、秋聲宅を訪れていた秋江が娘二人を近くの蕎麦屋で待たせていた。秋江が秋聲宅を辞する段になって娘たちに使いを遣り呼び寄せると(以下引用)
「そこにはもう帰り支度をした父と、玄関の上がり框にはウールのグレーのマフラーをくるっと一巻きしてふところ手をされた秋聲先生
04-01 05:55
徳田秋聲全集月報には徳田道子さん(近松秋江次女)が全集刊行当時に執筆した随筆が3編収められていて、いずれもたいへん味わい深いものですが、そのうちの1編「燻銀のような徳田秋聲先生」(月報34、平成15年5月)に次のようなエピソードがあります。
03-31 22:56
つけたという里見弴の話は恐らく事実で、秋聲は明治37年に短篇『おとゞひ』を「時好」辰之第六号に発表してもいますので、若い頃には勉強のためお手本にした事もあったでしょう。このあたりの事情については、瀬崎圭二氏の論文「三越刊行雑誌文芸作品目録」(同志社国文学)が大変参考になりました。
03-31 19:56
そうで(「【座談会】父・祖父秋聲を語る(一)」徳田秋聲全集月報36、平成15年9月)、私小説でも着物については微に入り細に入り記述していることから考えて、少くとも自然主義時代以降は「時好」をあんちょこにする必要は無かったのではと思います。ただ、紅葉が鏡花に「時好」貰ってこいと言い
03-31 19:55
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
- | - | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | - | - | - |