救いの手をさしのべた」
『時事年鑑 昭和13年版』(同盟通信社)495頁「文壇近事」〈文壇美事〉より。
https://t.co/HSuSGKaor0
上記の記事により、昭和5年頃から昭和11年12月まで脳病院に入院していたことが判る。歿年未詳。
※平塚明子は平塚らいてう。
02-20 21:19
【中村孤月】
明治14年5月6日東京浅草生れ。本名、中村八郎。早大英文卒。明治、大正期の文芸評論家、小説家。蓬頭垢面、弊衣破帽、擦りへらされた下駄の奇人として知られる。
「〔引用註:昭和十一年〕十二月、六年間脳病院に呻吟して漸く退院した中村孤月氏に荒木十畝、平塚明子等が
02-20 21:13
によれば、上記は大正6年5月2日の出来事のようです(3日ではなく)。
谷崎は秋聲を傍らに泡鳴、孤月、武羅夫らと少時花札に興じた後、勇と秋聲と3人で自笑軒へ繰り出します。山本露葉、無想庵、正宗白鳥らが集まっていて、小山内薫も遅れて合流。「秋聲氏は頻りに此の家の板まへを賞し」たとあります。
02-20 12:43
君をこゝに見出したるこそ幸ひなれ。君は合戦の名手と聞きたれば、君を拉して秋聲氏方に大会を開き他流試合を催さんとて、唯今君の家に立ち寄りしところなり。いざ勝負せよ」云々。
谷崎潤一郎「晩春日記」(『呪はれた戯曲』春陽堂、大正8年)より
https://t.co/XrhsjfjOgR
細江光「上山草人年譜稿」
02-20 12:41
【武林無想庵ら発起「たべる会」】
「この上は森川町なる徳田秋聲老を脅かさんものと、〔引用註:吉井勇と〕相携へて同氏の宅を襲ふ。三十分ばかり話し込むうちに、又どやどやと入り来る三人づれの訪客あり。〔同:岩野〕泡鳴、〔同:中村〕孤月、〔同:中村〕武羅夫の諸氏にて、わが顔を見るや否や、
02-20 12:40
岡本一平が森川町の秋聲宅を訪問したとき、本当にカルピスが出てこういうことを呟いたのか、値札の付いた植木の松が根巻きされたまま放置されて枯れそうになっていたのか、その辺は不明ですが、秋聲ならいかにもありそうな話で面白いです。
02-20 10:45
【秋聲、初恋の味を味はふ】
「徳田秋聲
秋聲ある日何思ひきやカルピスを買はせ味ひみて『これが初恋の味といふのかね。フン』まだ植込まれぬ松の植木、葉を枯らし乍ら『庭道楽は当分中止ですか』」
岡本一平『文芸美術漫画』先進社、昭和5年10月。
https://t.co/SyBunKRwq8
02-20 10:42
すべき運命に在つた人か。
顔に似合はずかすれた笛のやうな若い声を出す。
へゑ!? と思ふ」
岡本一平『文芸美術漫画』(先進社、昭和5年10月)より。
https://t.co/2Ewlktcngc
さすがに慧眼だなと思います。それから秋聲の声についての貴重な証言も。
02-20 10:40
どう考へてもこれより先は割り切れぬといふ桁のところまで行ってる人間。
(中略)
一生を小説に費すべき運命の人であつたらうが、氏の顔を見ると疑はれる。
それぢや何に費すべき人であるかと氏の運命を仔細に検査しても適当なものは一寸見付からぬ。
やつぱり当り前のおやぢさんの顔をして小説を苦練
02-20 10:39
【秋聲の顔】
「徳田秋聲氏
氏の顔を見ると先づ安心する。
印田の煙草入れの革のやうな心丈夫な皮膚。
胃の薬になりさうな苦味と澁味のある顔、それに金柑の砂糖漬のやうなぴりつとした甘さが少しのつてる当り前のおぢさんの顔、この当り前が滅多に無い当り前だ。
人を馬鹿にもせず馬鹿にもされぬ顔。
02-20 10:38
(取調年月)35,10(開業年月)1年前(正味身代)僅少
とあり、すがは前年に嘉吉郎の店舗または住所が茅場町から本材木町に変わったことを元夫から知らされていなかったことがこの資料から判ります。
『四十女』の末尾に
「東京へ帰つてみたが、磯野はもう茅場町には居なかつた」
とある通りです。
02-19 21:07
妾と東京へ高飛びしていました。
徳田秋聲別巻年譜によれば、秋聲が大阪の福島にすがを訪ねたのは明治35年1月で、
明治35年12月発行の『商工信用録』第7版(東京興信所)の笹島嘉吉郎の欄には
https://t.co/ODfRMS5xjW
(姓名)笹島嘉吉郎(職業)砿油、石油(店舗又は住所所在地)日、本材木、二ノ八
02-19 21:05
徳田秋聲の私小説『四十女』(「中央公論」明治42年1月)の四で、語り手が零落したお里(津田すが)を鷺洲村に訪ねたとき、夫の磯野(笹島嘉吉郎)が本所区茅場町で小さい機械油の販売店を開いているので訪ねて欲しいと頼まれます。磯野は神戸に開業していた機械油の製造所が潰れてから、お里を棄てて
02-19 21:04
〈「俺は始終三番だつた、決して一番にはならなかつた、三番であればこそ斯うして今まで続いて来たのだ」と徳田秋聲氏は側近の者に云つてゐたさうだが、その秋聲氏はいつの間にか一番も一番、素晴らしい一番になつて仕舞つた〉
平田禿木「戸川秋骨君」(『禿木遺響 文学界前後』四方木書房、昭和18年)
02-19 21:02
先週と今週の2回に渡ってBS日テレで放送された里見浩太郎主演のテレビドラマ《風林火山》(1992年)の録画を観ました。
https://t.co/mfruN5QKdq
ひどい内容でした。とくに脚本が駄目ですね。
原作は1969年の映画と同じ井上靖ですが、もちろん比較になりません。
02-19 12:47
ながら無意識的にその破壊者として役立つてゐるかを示すものと言つてよいであらう。秋聲氏が立派に発生期のインテリゲンチヤの特質や矛盾を反映しながら、藤村氏と違つてその典型的なものとして取扱はれない所以はこゝにある」
https://t.co/yikIHFXapz
青野季吉『マルクス主義文学闘争』神谷書店、昭和4年12月。
02-18 23:50
【美風の無意識的な破壊者】
「かつて秋聲氏の恋愛問題が世評の的となつてゐる時、或る新聞紙の一隅に、人の子の父としての藤村氏を賞讃し、他方秋聲氏の操行を非難した読者の投書の揭載されてゐたのを私は記憶してゐる。この一些事は、藤村氏がいかに『敦厚な』美風の支持者であり、秋聲氏がさゝやか
02-18 23:49
つて、美醜を問はず深く喰込んで行くと云ふ点の薄いのに対照して、秋聲氏のそれがやゝ粗野で、底の底まで潜入して行く力をもつてゐるのは、そこから来るものであらう。かの『黴』にまで潜入して行く徹底的な行き方は、これを藤村氏に求めることが出来ない」
https://t.co/pj0MAwbgW9
02-18 23:43
【底の底まで潜入して行く力】
「〔引用註:島崎〕藤村氏がいかにも意識的に自分を静かにして、自然や人間生活にたいして鄭重・愛撫の態度を失はないのに反して、〔同:徳田〕秋聲氏は意識的なそう云ふ態度さへ、これを不自然として斥けてゐるやうに見える。藤村氏の人間生活の描写が、飽まで端正であ
02-18 23:35
『鉱山法例 完』(農商務省鉱山局、明治27年11月)
https://t.co/Y2FEQ3S7Bg
404頁~409頁に笹島嘉吉郎の名。
『京浜信用録』(京浜信用録編纂所、明治41年9月)
https://t.co/MiqEUnmN39
562頁に笹島嘉吉郎の名。
笹島は徳田秋聲の母方の従姉津田すがの嫁ぎ先の機械油商。
#備忘録
02-18 23:27
『職員録. 明治35年(乙)』印刷局、明治35年8月
https://t.co/hI9sxEYf1v
「〇北伝法警察署 西成郡伝法村
(中略)
野中分署長 徳田直松」
#徳田秋聲長兄 #備忘録
02-18 23:12
明治28年10月よりも数ヶ月早い時期ということになります。
それらは「記憶に残るやうな句でもなかつた」とのことですが、ほぼ同時期の秋聲堂主人作の漢詩と比較する上でもたいへん興味深いです(これまでに発見されているのかどうか。八木書店の全集には入っていません)。
02-17 11:23
引用した「紅葉先生と私」(「経済往来」昭和8年9月1日)で紅葉に「紫吟社の人達の俳句の運座があるから今度出て見るやうに言はれ」た頃にあたり、「読売新聞」掲載の紫吟社[即吟抄][水無月集]等に俳句を発表し始める明治29年6月よりも約1年、秋聲堂主人が「北辰会雑誌」第5号に漢詩を発表した
02-17 11:22
徳田秋聲は『光を追うて』四十四に、田岡嶺雲の「青年文」に「評論ともつかず感想ともつか」ない文章を発表していた明治28年6月前後に、芭蕉七部集や其角の五元集を読み、蕉風よりも蕪村の俳諧や子規の俳句に多く感心し、「日本新聞」に二度ばかり投句を試みて撰に入ったと書いています。
これは先日
02-17 11:22
得る。秋聲氏の小説には、西洋風の意味での詩的精神がない。しかし俳句を詩と呼ぶ意味での、一種の国粋的の詩的精神がある。その意味に於て、秋聲氏もまた詩人なのだ〉
萩原朔太郎「俳句の本質について」(『郷愁の詩人与謝蕪村』小学館、昭和21年、173頁)。
https://t.co/QP3T3uIoas
02-17 06:53
【国粋的な詩的精神】
〈日本の文学者には、西洋風の意味の詩的精神がなく、西洋風のスタイルをした詩人が居ない。しかし日本風の意味の詩的精神、即ち俳句のポエヂイを所有して居り、その限りに於てまた一種の「詩人」なのである。このことの実証は、徳田秋聲氏などの文学について、最もよく理解され
02-17 06:52
西来寺《八相涅槃図》享保12年。
――鯨のゐる涅槃図
https://t.co/Ef60IbBQ8c
#備忘録
02-16 22:35
から、「云ひました、それに相違ありませんもの。」と答へた。「では徳田君は。」「徳田さんは然う行きません、私には喰はれない人です。」と三人大笑ひをした事がある〉
真山青果「附録」(小栗風葉『天才 前編』隆文館、明治41年3月)
※「竈の下の灰」は全財産の意。
https://t.co/sADju3zV1v
02-16 22:26
【徳田さんは喰えない】
〈秋聲氏が甞て私〔引用註:真山青果〕を前に置き、氏〔同:小栗風葉〕に向つて、「真山君は恐ろしく君をアマク見て居るぜ、全るで小児だ、コツチに悪気があるなら、竈の下の灰まで搔廻して見せると云つて居たぜ。」と笑つた事がある。「全くそんな事を云ふのか。」と尋ねる
02-16 22:26
「元来うそをほんたうらしく感じさせるのには、成るべく簡単に書くのに限る。くどく説明すればするほどうそが一層うそらしくなる。(中略)現代の日本の作家で、ほんたうらしく書く点に於いては徳田秋聲氏を第一とするが、さすがに同氏は此のコツをよく心得てゐる」
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』より。
02-16 17:19
初出の「三田文学」明治43年5月号が出た頃の秋聲は『新世帯』(明治41年、「国民新聞」連載)、短編集『秋聲集』(同)、短編集『出産』(明治42年)等により世評が高まりつつあった頃で、『足迹』の連載より前の話ですね。杢太郎さん、お目が高いです。
02-16 07:21
「僕等はあまり多い粗削りの藝術に倦きて居る。もつと仕上鉋のかかつたものが欲しいのである。予が所謂自然派の作品のうちで徳田秋聲氏を尤も好むのも此純藝術家的の見地からである」
木下杢太郎「京阪見聞録」(『地下一尺集』叢文閣、大正10年3月)62頁。文末に初出、明治43年「三田文学」とあり。
02-16 07:05
「狂風吹き折る滿枝の花、塵土香を埋めて事嗟くべし。若し佳人をして微命を惜しましめば、千秋誰か問はん一袈裟(宇田栗園、戀塜詩)」
https://t.co/pqP11AUsO7
02-15 22:42
【宇田栗園:新婚口占/恋塚詩】
山田美妙編『美人詞林 衣香扇影』(嵩山堂、明治32年8月)
「蕙帳孤眠して幾春を度る。赤繩一たび繫ぐ是前因。當時みづから比す林和靖、多く恐らくは梅花の人を冷笑するを(宇田栗園、新婚口占)」
https://t.co/QnrqHjcFoW
02-15 22:41
@kayanoyasan 乳バンドを売る老人(老女)たちのこぶ(乳房)は絶えず蒸発して(しなびて)いる、という解釈もありうると思いました
02-15 11:49
「老人」が「老女」だとすると、
ラクダ→フタコブラクダ→乳房→絶えず蒸発→しなびる
もありえますね。
「乳バンド売る老人等絶えずラクダ蒸発 崎原風子」
02-15 11:38
乳バンド売る老人等絶えずラクダ蒸発 崎原風子
https://t.co/bOkQbALN5V
ここに評釈(の試み)がありますが、とくに納得はできず……
02-15 08:25
ラクダのシャツ?
https://t.co/oDujCKrxCj
02-15 08:12
兄に千円を返した件は、前金で執筆を催促されることを本当に侮辱と感じた側面と、書き上げる自信がなかったからという消極的な側面との両方があったことでしょう。
02-15 06:48
に反発して駄々をこねるところは蘆花らしいですね。
『爛』が第四十四回辺りから調子が早まっているのは『十年』を載せるために新聞社が早めの打ち切りを要請していたからという野口冨士男『徳田秋聲伝』で紹介されている野川友喜の説が、上記の蘆花の発言からも裏付けられそうです。
02-15 06:47
せた。健次郎は、翌日それを返送した。そして『小説の稿料は、秋聲君、花袋君並にして、月末月末に回数に応じて御計算願ひたく、それ以上は侮辱を感じ申候」と云つて遣つた〉
前田河広一郎『蘆花伝』(興風館、昭和22年11月)559-560頁
https://t.co/WGfgR0VLzP
「国民新聞」の社主は徳富蘇峰で、兄に
02-14 20:43
た。そして、その二十四日には、中止の辞が新聞に発表された。文中に、こんな弁解があつた。――『あらためて内から外へ書くでなければならぬ。』
この打切は読者にとつて、不意打であつた。だが、そのあいだに蟠る内情もあつた。国民新聞社では、小説が出はじめると、千円の小切手を社のものに持参さ
02-14 20:39
に書かれています。
〈〔引用註:蘆花は〕五月十一日に、国民新聞の原稿紙を小包で送つてくれと云つて遣り、当時提〔掲〕載中の徳田秋聲の『爛れ』をそのために打切るは文士にたいする体ではないから、六月六日の紙上から掲載して欲しいと云つた。
(中略)
十一日目で、突如、『十年』は打切られ
02-14 20:37
【『爛』の連載を打切らせるつもりはない】
【小説の稿料は秋聲君花袋君並にしてほしい】
徳田秋聲の『爛』が大正2年3月21日から6月5日まで「国民新聞」に連載された後、6月6日から鳴り物入りで連載が始まった徳冨蘆花の『十年』が11回で打ち切られた経緯について、前田河広一郎の『蘆花伝』に次のよう
02-14 20:36
@shun_akikusa 非売品なので流通していないのですね。
ご教示ありがとうございます。
02-14 12:31
アバイ・クナンバイウル(Абай Кунанбаев 1845-1904)の
『アバイ』(イブラギム クナンバエフ詩集 叙事詩 訓戒の書)花伝社、2020年。
でしょうか。
https://t.co/JBkson6oDj
秋草俊一郎氏のツイートで初めて書影(というか実在)を確認出来ました。
02-14 12:07
の無い方が宜い。突如としてしかも簡に「大いさ」とのみ云つた方がいかにも大きく聞える。「其」が這入ると一寸したとだが説明的になり少し執拗くなつて趣が損じる〉
沼波瓊音、前掲書。
徳田秋聲俳句への評と、詠まれた当時の逸話が面白いです。
※『新古俳諧奇調集』(内外出版協会、明治39年3月)。
02-13 21:31
僕が「俳諧奇調集」を編んだ時巻頭へ写真版で入れる為に秋聲君に使を遣て此句の揮毫を頼んだ、所が使が貰つて来た短冊を見ると「白菊や其大さ月輪の如し」とあつた、其儘写真にして仕舞つたが、後で聞いて見ると全く覚違ひで書いたものださうな。今「大いさ」と「其大いさ」と比較して見ると確に「其」
02-13 21:22
有難がつて居た〉
沼波瓊音『俳句研究』東亜堂、明治40年5月
※薔薇のルビは「しやうび」
〈 白菊や大いさ月輪の如し 秋聲
白菊の大きさが月程ある、と云だけのことだが、此句を誦するといかにも大きく清らかな花の様が眉に迫る。「月輪」と云語が殊に働いて居る。これは「新潮」にある句だ。
02-13 21:21
〈 はらゝゝと薔薇零るゝ月夜かな 秋聲
月下、風無きに薔薇の花瓣がはらゝゝとこぼれると云清い趣。
僕の友人が書画帖を秋聲君の所へ持つて行つて句を請うた、すると君がこの句を書いて「零」の字に「コボ」と片仮名で傍訓を添へた。友人は「ハヽルビ入りの句とは流石に小説家だ」と云て甚く
02-13 21:17
西村賢太の存在は、藤澤清造の存在を世に知らしめたと同時に、余人が新たに清造研究を行う障害にもなっていたでしょうね(下手に関われない)。
遺志を継いでくれる研究者が現れればいいんですけど。
02-13 17:21
【加藤朝鳥の体形】
大泉黒石『山と峡谷』(二松堂書店、昭和6年5月)に
「肥大漢加藤朝鳥」(15頁)
「立正大学の加藤朝鳥といふ法外に肥つた先生」(161頁)
等の記述があり、相当な肥満漢だったらしいことが窺えます。
02-13 16:51
@mizukami_jidai ずっとくだけた文章ですね。仰るとおり、中村武羅夫かも知れません(岡栄一郎の線もなくはないと思います)。
02-13 16:41
@mizukami_jidai 生田長江・森田草平・加藤朝鳥共編ですので、朝鳥が秋聲名義で書いたのかとも思いましたが、朝鳥執筆の項目(3、20、31、33、38、40、57、58、69、107、112、156、以上コマ数)と秋聲名義の項目とを比較すると、明らかに文体が異なるようです。朝鳥署名の文章はやや古風な漢文訓読調で、秋聲名義の項は
02-13 16:39
あっちこっちにばらばらに置いてあった西村賢太関連の書籍を集めてみると、これだけありました(すべて文庫本)。
私の場合、賢太への関心は、あくまで(徳田秋聲との関係から)藤澤清造の研究家としての側面に集中していたようです。
https://t.co/TOOgvTFlcm
02-12 22:42
「「代作」から考える」(『徳田秋聲と「文学」』鼎書房、2021年11月)には「曾根の検証の方が説得力があり加藤朝鳥代作説の信憑性が高い」とあります。
私は過去のツイートでは『日本文章史』とともに岡栄一郎説を採っていました。
02-12 22:22
ません。
ということは、生田長江等編『新文学辞典』の徳田秋聲署名文は代作者の書き下ろしなのでしょうか?
(そうなると、なぜこの2つの項目執筆者を徳田秋聲名義にしたのか判りません)
因みに『明治小説文章変遷史』は岡栄一郎代作説(野口冨士男)と加藤朝鳥代作説(曾根博義)とがあり、大木志門
02-12 22:21
先行する代作『明治小説文章変遷史』(文学普及会、大正3年5月)は内容が異なります。
「だ主義とです主義」
https://t.co/YMZ3Xha5vP
「とさ文体」
https://t.co/00MNLKL7zw
中村武羅夫代作説のある『創作講話』(新潮社、大正3年4月)と『小説の作り方』(新潮社、大正6年2月)にもこの記述はあり
02-12 22:20
生田長江 等編『新文学辞典』新潮社、大正7年3月。
「だ調とです調」の項の筆者が徳田秋聲
https://t.co/baZTHWlP9D
「とさ文体」の項の筆者が徳田秋聲
https://t.co/hqjVQcZ6dK
いずれもこれより後の刊行になる代作『日本文章史』(松陽堂、大正14年4月)63頁と41頁に同文あり。
しかし、それに
02-12 14:11
「〔昭和九年〕七月十一日(日推定)、軽井沢に発つ。家族後日。七月二十二日、立原道造来る。道造、軽井沢は初めて」とあり、犀星の文章には一穂らの訪問の記述に続いて「五日目くらゐに追分の古い駅から出てくる堀辰雄君」が云々とあるので、おそらく昭和9年7月15日の週の前半のことでしょう。
02-12 05:51
楢崎君と相語つて山間の避暑地にも東京の続きの賑やかさを搜るやうな様子であつた」
「文芸時評 一、山中に文学なし」(『慈眼山随筆』竹村書房、昭和10年2月)より。
楢崎勤と徳田一穂が軽井沢の室生犀星を訪れて碓氷峠を登ったのは、室生朝子『室生犀星文学年譜』(明治書院、昭和57年)に
02-12 05:41
【山に登っても都会を想う徳田一穂】
「楢崎勤君と徳田一穂君が来て一しよに碓氷の峠に登つて見たが、この二君も文学の話なぞをしないで戯談と真面目な話とを風景をほめる傍にしやべり、誰々の小説が旨いとか旨くないとかいふ評判はしなかつた。一穂君はやはり都会に心が惹かれるのか、
02-11 22:34
ほどの人は大抵のことは見てゐるし、すぐ眼につくのだよ、と、僕は一穂君も面白いところに眼をつけたものだと、思うた。よその子を見ても決して僕はそんなところが分からなかつた」
室生犀星「呼鈴」(『慈眼山随筆』竹村書房、昭和10年2月)より。
02-11 20:42
【よく気のつく徳田一穂】
「この前に見えたときに、〔徳田〕一穂君が家の女の子のポケツトの鍵裂きのつくろひを見て、これはよくつくらうてありますね、誰ですかお母さんですかと、若い一穂君が言つたさうであつた。あんなことをあの方が気がつくのでせうかと家の者が言つたから、若くても小説を書く
02-11 20:40
尾﨑士郎の『人生読本』(学芸社、昭和12年5月)を読んで、ストリンドベリへの言及がやたら多いのを意外に思いました。当時は大文豪とされ、よく読まれてはいましたが(但し昭和10年代には人気はかなり下火になっていたはず)、尾﨑とはあまり結びつけて考えていませんでした。
02-11 12:14
云々という、「新潮」の「青年作家座談会」(正しくは「青年作家は語る」昭和11年9月)における発言からの引用があります。
02-10 13:36
尾﨑士郎『人生読本』(学芸社、昭和12年5月)「文学者の生活と反道徳性」271頁に、徳田一穂の
「智識があるとかさうした意味でも教養といふものは外面的な装飾的なもので人間生活の内面に喰入つたものではないやうに考へられる」
02-10 13:35
やっぱり秋聲を理解する上でこれほど重要な作品(枯野 古戦場)が全集に入っていないのはおかしいですね。
もし徳田秋聲記念館文庫で俳句集の類を出すことがあったら、これも入れてほしいと思います。
(漢詩は、解説で引用するならありですね)
02-09 21:58
の句と、秋聲の新体詩「古戰塲」の「劍を抜けば百鬼亂れ哭す/征衣を拂ふ風膻く」との類似性も確認できました。
同時期の「断片」や「英雄の言行」を読んでもまだ半信半疑でしたが、私自身そうなることはある程度予想していたことですが、新体詩「枯野 古戦場」を読んでから大分見方が変わりましたね。
02-09 21:43
「日本人」第3次33号に於て悠々と秋聲の詩が並んで掲載されていることは、「北辰会雑誌」第5号で桐生愈虐の連載と並んで掲載された「秋聲堂主人」の漢詩が、別人ではなく徳田秋聲のものである可能性を示している、と言えそうです。
また、秋聲堂主人の漢詩「午睡」に於ける「鼓噪互諍戰。萬兵忽敗走」
02-09 21:32
※偃(せ)かん
※※膻(なまぐさ)く
大杉重男氏のブログ〈「秋聲堂主人」の漢詩〉(2022年2月8日)にもあるように、同号の秋聲の詩の直前に掲載されているのは桐生悠々の詩「柳散る」です(明治31年1月「散る柳」の題で「秋の聲」とともに『新体詩集 山高水長』に再掲)。
https://t.co/h32iM2NWPl
02-09 20:42
枯野 秋聲
一條通ふ水白く
落葉に偃かん音細し
岸邊に尾花枯れ伏して
するどに荒ぶ凩の
たゞ大空を吹き廻はす
古戰塲
落葉を踏めば骨こそ出れ
劍を抜けば百鬼亂れ哭す
征衣を拂ふ風膻く
霜關高く月ぞ傾く
徳田秋聲「枯野 古戦場」(新体詩)(「日本人」第3次33号、明治29年/1896年12月)
https://t.co/0WD9AkECcS
02-09 20:41
@kayanoyasan よく見ると座高が異様に高いですね……
02-09 10:24
@kayanoyasan そうですね、ありがとうございます✨
https://t.co/A840QjiD3u
02-09 09:35
@kayanoyasan 私よりずっと元気です。とくに娘はもう、片時もじっとしていませんね😅
02-09 09:12
@kayanoyasan どの語でフォローされたのかと……
この2つの語でフォローされた訳ではないみたいですね
02-09 08:54
①下半身が冷える
②お尻が痛い
02-09 08:15
なお、大杉重男氏による徳田秋聲の新体詩「枯野」の引用ですが、結びの語は
「吹き飛ばす」
ではなく
「吹き廻はす」
です。
02-08 23:51
最初に口火を切った者として、補足情報と、私なりの考えを記しておきたい。
(中略)
亀井さんの印象とは逆に、内容的にはこの時期の秋聲作であってもおかしくないと思った。〉
02-08 22:46
大杉重男ブログ:「秋聲堂主人」の漢詩(2022.2.8)
https://t.co/UFfYQLIWIK
〈前回の記事の最後に書いた「北辰会雑誌」五号の「秋聲堂主人」の漢詩について、亀井麻美さんと大木志門さんが、ツイッター上で実証的な考証を交えて興味深いやりとりを交している。それはまだ引き続き継続中のようだが、
02-08 22:43
@tonton1965 昭和10年1月です。洋子事件と呼ばれています。
02-07 16:15
勘解由左衛門はこのあと形見の笄を渡して、「互に面かげかわる共是を証拠に廻り逢ん」と再会を約します。ここは「あるべからず」ではなく「あらざるべからず」でないと意味が通らないと思うのですが、如何でしょう?
02-07 15:48
【あるべからず】
「命さへあらば再び廻り逢んこと在べからず」
(清涼井蘇来「古実今物語」巻4「姫君おせんの方の事の始」より)
鎌倉攻めの時、北条氏の若君亀寿君を連れて出羽へ落ち延びる長崎為基(勘解由左衛門)が、自らの許嫁おせんの方との別れ際に言った言葉。
https://t.co/ZLggLbMhg2
02-07 15:48
今後ワーナーでホルライザーの《リエンツィ》を再リマスタリングする際は、マスターテープ本来の形に戻してほしいものです。
02-07 11:40
違う形で録音された音源を不自然に継ぎ接ぎするのは感心しません。
他の不自然な箇所も上記のLP音源を聴くと綺麗に繋がっていることが判ります。CD化したエンジニアの腕が悪かったのでしょうか、残念なことです。
02-07 11:40
RIENZI - 1976 - HEINRICH HOLLREISER - LP SOUND
https://t.co/LhohbobCxk
(1:36:00~1:36:34 辺り)
この箇所は通常は編集し直されたCD音源のように切れ目無く演奏されるので(エドワード・ダウンズによる復元完全盤でも切れ目なしです)、エンジニアは同じようにしたかったのでしょうが、
02-07 11:39
というのは、たとえば第2幕の長大な祝典の場の音楽の終わりが、CDでは最大に盛り上がったところで不自然に後続の音楽に継ぎ接ぎされているのに較べ、LPでは最強音が綺麗に減衰してから次の音楽が始まっていることが、LPレコードを板起ししたと称する下記のYouTubeの音源で確認出来るからです。
02-07 11:38
《リエンツィ》のホルライザー盤は演奏録音ともに素晴らしいものですが、唯一残念なのは、演奏部分にテープの継ぎ目があからさまに判る箇所がいくつかあり、聴いていてドキッとしてしまう点ですね。
しかしこれはCD化の際の編集で発生した不具合で、マスターテープに起因する問題ではないようです。
02-07 11:37
「Schütz, Heil'ge Jungfrau, Romas Söhne!」と祈りを捧げる場面と、第5幕で間もなく訪れるであろう破滅を前にしてのリエンツィとイレーネとのやり取りを聴いて、目頭が熱くなりました。
《リエンツィ》を聴いて泣くことになろうとは!
02-06 23:13
リヒャルト・ワーグナー《リエンツィ》全曲
コロ、ヴェンベルイ、マーティン、アダム、フォーゲル、シュライヤー
ホルライザー指揮シュターツカペレ・ドレスデン、ライプツィヒ放送合唱団、他
第3幕の戦闘の場面でローマの婦人達が
https://t.co/5a5Kgq4pva
02-06 23:11
後白河法皇、トメに西田敏行を表示させ続けるために毎回生き霊で出演させている説
#鎌倉殿の13人
02-06 21:33
『出版年鑑』昭和9年版(東京堂、昭和9年6月)、74頁下段。
https://t.co/st4LbEHuRu
雑誌「阿片」の編輯者の一人に徳田一穂の名が挙がっていますが誤りでしょうね。
02-06 21:05
@tonton1965 小山清『太宰治研究』(筑摩書房、1957)
佐伯彰一『太宰治――現代のエスプリ』(至文堂、1966)
檀一雄『小説 太宰治』(審美社、1973)
などたくさんあります。
最近のものでは
『街の子の風貌 徳田一穂 小説と随想』(龜鳴屋、2021)
の解説ですね。
02-05 21:20
夫とは「そりゃ(あんな生活してたら)死にもするでしょう」と話をしていたのですが…… 何となく50台で亡くなる気はしていました。
好きとまではいえませんが、現代作家の中では割と読んでいた方ですね。文庫本も何冊か持ってますし。
お悔やみ申し上げます。
#西村賢太
02-05 21:03
『鯵ケ沢』は私小説で、徳田一穂が玉の井から娼婦を救い出して新聞種にもなった事件を扱っていますが、この娼婦が太宰治の馴染みでもあったことは太宰研究ではずいぶん早くから指摘されていたものの、私は不明にしてわりと最近に知ったことでした(私が太宰に全く興味がなかった所為でもあります)。
02-05 20:26
現実をも形式をも片輪にさせず、見事な勝負を見せてゐるのは徳田一穂氏の「鰺ケ沢」である。秋聲氏の二代目の名をはづかしめぬ第一流の作品だ。恐らく二十二篇の筆頭に位する作品であらう〉
高見順『文芸的雑談』(昭森社、昭和15年11月)より。
……だそうですよ。
02-05 19:59
徳田一穂『鯵ケ沢』(「新潮」昭和12年1月):
〈「新潮」が吉例(?)の創作特輯をやつてゐる。新進を主とし、中堅作家をも加へて、総勢廿二人といふ賑かさ。いづれも十五枚前後の短篇小説である。それぞれに何等かの意味で面白く、読んでゐて心楽しいものがある。
(中略)
02-05 19:54
大阪発明協会編『帝国発明家名鑑』(昭和11年)
https://t.co/wyRB2e3mZs
に載っている矢島守男は別人と思っていたのですが、住所から同一人物と判って一寸おどろきです。
02-05 19:45
@mizukami_jidai リプライ頂きましてありがとうございます。やはり勘違いか誤記でしょうね。
02-05 19:43
Google books で表示できません。ちなみに叢書の第2巻は本文76頁、価格15銭です。
徳田秋聲は上司小剣への書簡(前掲)で「小石川の方の医者ですが、専門ではありません」と書いているものの、花柳病に罹った小剣に紹介したくらいですから、その方面の治療の心得があったのかも知れません。
02-05 16:49
矢島守男は「陸軍醫學會雜誌」や「藥學雜誌」に短い記事を発表していて、こんな本を出す予定もあったようです(存在は確認出来ず)。
矢島守男『花柳病と其豫防法』家庭醫學叢書1、新橋堂書店
(『新刊図書雑誌月報』大正5年4月、東京堂)
画像の下部には、册數、定價、頁数が書かれている筈ですが、
https://t.co/AXU4z5i6Pc
02-05 16:48
歿年月が昭和7年8月とありますが、死亡から医籍登録抹消まで1年掛かるのは不自然なので、昭和8年8月が正しいのではないかと思われます(それとも1年も掛かるものかしら?)。
02-04 22:46
るので、これを踏襲しておきます。
昭和8年9月12日の官報2011号「医籍登録抹消」欄で、死亡により医籍登録が抹消されたことが判ります。
「官報」1933年09月12日
https://t.co/Tn9Y87YxPY
野口冨士男「徳田秋聲の近親者」所載の林綾子(公正の上の兄・矢島国太郎の長女)の書簡には
02-04 22:41
試験に合格、翌年軍医となり、同四十五年独立、医師を開業、大正八年菊地商会、同十五年山菱機械製作所各代表取締役に就任、今日に至る」
とあり、昭和5年当時の住居は東京市牛込区西五軒町だったようです。
秋聲作品及び野口冨士男の伝記研究では3兄弟とされていますが、当『大衆人事録』には4男とあ
02-04 22:30
下宿しており、夜遊びでともに一夜を明かしたこともあります。
『大衆人事録』第3版 タ-ワ之部 補遺(昭和5年7月)
https://t.co/dCKB2v37s4
によれば(引用者読点付加)、
「長野県人矢島勘兵衛の四男、明治十五年一月十日同県上伊那郡伊那富村に生れ、同四十二年分家す、先是同卅六年内務省医術開業
02-04 22:29
矢島守男(明治15年1月10日生、昭和7年(8年?)8月歿):徳田秋聲『黴』では単行本で削除された第六十八回に登場。同作の欽也/欽一(百瀬公正)の弟(四男)。陸軍二等軍医、従七、勲六(『朝鮮総督府及所属官署職員録 明治44年11月調査』明治45年1月、44頁下段)。
『黴』では笹村(秋聲)宅近くに
02-04 22:29
百瀬公正略歴:
長野県誌編纂所編『躍進長野県誌』昭和14年
https://t.co/xqQWRWCsBF
上記は私の知る限り、公正の略伝としては最も詳しいもの。軍医を退職したのは明治40年4月で、その後は島立村栗林に開業とあるので、大正2年に秋聲が小剣を連れて訪れた小石川の親類の医師は公正ではないですね。
02-04 03:11
百瀬公正(明治10年8月18日生、昭和27年10月歿):『黴』に欽也/欽一として登場する軍医。
秋聲の妻はまの親類(野口冨士男「徳田秋聲の近親者」参照)。
退役後は郷里で開業し、村長も勤めました。
『大日本紳士名鑑』(大5年)の島立村の欄に「村長、正八、勲六」とあり。
https://t.co/Phna2mnNMg
02-04 03:06
全集別巻の年譜にも書かれていません)。
こういう思いがけない小さな発見は楽しいですね。
ちなみに秋聲の親類の医者とは、はま夫人の親類で、『黴』に欽也(欽一)として登場する軍医の百瀬公正と、その弟で同じく軍医の矢島守男(単行本で削除された第六十八回に登場)のうち、後者と思われます。
02-03 21:28
云々とあります。
つまり、小剣が性病に罹ったことを秋聲に相談し、24日消印の秋聲の返信を読んで、26日に森川町の秋聲宅を訪れ、梨子を喰べながら病気の治療や病院のことを話したのちに、一緒に小石川の医者を訪れたことがわかります(秋聲が大正2年9月26日に小剣と一緒に親類の医者を訪れたことは、
02-03 15:17
をうけ、懇切な手紙を書く」とあります。同巻所収のその書簡を確認すると、
「その病気はそんなに心配するほどのことはありませんよ。今のうちに直しさへすれば大丈夫です。小生の親類もゐます。これは小石川の方の医者ですが、専門ではありません。(中略)しかし何なら来て見給へ。一緒に行くから」
02-03 15:06
上司小剣「日記から」(『小ひさき窓より』大同館書店、大正4年3月)、9月26日の日記より。
27日に帝国劇場で近代劇協会の『マクベス』を観たとあるので、大正2年でしょう(この年、9月26日から5日間公演)。
「徳田秋聲全集」別巻年譜によれば、「〔九月〕二十四日、小剣から外聞をはばかる病気で相談
02-03 15:05
【小剣さん、梨を食べながら秋聲と何の相談?】
「二十六日。朝九時、本郷松屋の店頭に立つて原稿紙を買つてゐた。それから其近所の秋聲氏の書斎で、梨子を喰べながら語つてゐた。それから二人で歩いた小石川柳町の通りは、落ち付きのない薄ッぺらな町であつた。下品な飲食店なぞもちよいゝゝ見えた」
02-03 15:04
昭和14年版の『出版年鑑』に「フイルム」誌が徳田一穂の編輯した雑誌とあるので半信半疑で調べてみたら前田一穂の誤植でした。
02-03 11:51
フランスに生れゝば、秋聲氏もモウパスサン以上の作家になつてゐるかも知れぬ。なぞとそんなことをいろゝゝ考へて、日本の文学の容易に世界的にならぬことをも思つた」
上司小剣「恋衣花笠森」(『小ひさき窓より』大同館書店、大正4年3月)
02-03 07:57
【秋聲の肖像写真の額縁を変える】
「生活と藝術社の社長から、写真を挾む立派な額縁を貰つた。早速それにモウパスサンの写真を挾んで、今までモウパスサンの入つてゐた額縁に、徳田秋聲の写真を入れた。秋聲氏を粗末にしたやうな気がするので、更にモウパスサンと入れ代へやうかとも思つてゐる。
02-03 07:56
此処にあげた句の如きは、先づ貝の味を出す方面の句と見做して憚らぬものであらう。
着飾りし老に野水や秋日和 虚子」
飯田蛇笏「高浜虚子の句を拾ふ」(『近代句を語る』交蘭社、昭和10年6月)より。
蛇笏の文章の初出は、末尾の日付によれば大正14年7月。誰の文章に書かれていたかは不明です。
02-02 16:26
【徳田秋聲の創作は貝の味】
「最近或る文学者らしい与太話に、当代の創作家の持味を評した中に、谷崎潤一郞氏の創作を牛肉の味とすれば、この頃の徳田秋聲氏の創作のあるものに貝の味があると云ふやうなことが書かれて居るのに眼をとめた。貝の味を、噛みしめて味の出る地味なよいものとすれば、
02-02 16:16
牧野弥兵衛(日米鉱油合資会社業務担当社員兼支配人)
(『人事興信録』第5版、大正7年)
https://t.co/j7tO9IxYyQ
牧野弥兵衛は徳田直松(秋聲の長兄)の養女・勇の父。項目の末尾(ま84頁上段)に徳田直松の名が記載。
#備忘録
02-02 12:53
上記は、明治40年6月に秋江が内妻大貫ますのために牛込区赤城元町七番地に開店した小間物店のこと。経営は上手く行かず明治42年3月に閉店、家屋は翌43年2月20日に類焼により焼失。
02-02 08:09
アンケート「決戦下の音楽放送に望む」(「音楽之友」昭和17年2月)より、徳田一穂の項。
02-02 03:40
「徳田一穂
なるべく吾が国の作曲家の作品を多く放送されることが望ましいと存じますが、余りとらはれずに古典として傑出したものを広い範囲で放送していただき度いと思ひます。長期戦のことですし、優れた音楽がわれわれの生活感情を潤してくれる事は非常に大切な事だと思ひます」
02-02 03:38
店だと思はせる。若い女の人がぶら下つて居るリボンの間に白い顔を出して居た。二階では主人が何か読書でもして居るだらうと想像される。藤野屋とは主人が備前藤野の生れであるから。〉
水あふひ「文壇風袋」(「文庫」34巻6号、明治40年8月)
02-02 00:16
【徳田(近松)秋江の小間物店】
〈江戸川から一直線に来て、赤城下の坂を殆ど上りつめると、右側に新建の小間物屋がある。暖簾には〇に徳の字、「藤野屋」とも書いてある、是は近頃で開いた徳田秋江氏の店だ、左程大きい方ではないが、仲々立派に飾り立てゝある、色彩から配置から、成程文学者の
02-02 00:15
今日2月1日は秋聲の生誕日
02-01 23:45
俳句でなく漢詩を載せたのは、まだ満足に俳句が詠めなかったから、という説明が一応は成り立ちそうです。
俳句が詠めなければ漢詩でなくとも掌編小説か短文の類でもよかったのではないかとの反論もありえますが、翌29年12月には新体詩さえ発表しているので、漢詩を載せてもおかしくないとは言えます。
02-01 10:50
捻くつた」というのは、真軒三宅少太郎に漢文を学んだ秋聲は読むだけでなく実作も少しはしていたということでしょう。
秋聲が「読売新聞」掲載の紫吟社[即吟抄][水無月集]等に俳句を発表し始めたのは明治29年6月で、仮に秋聲堂主人が徳田秋聲とすれば、明治28年10月発行の「北辰会雑誌」第5号に
02-01 10:50
いくらか其の気になつて、その時、紫吟社の人達の俳句の運座があるから今度出て見るやうに言はれて、出ることにした」
徳田秋聲「紅葉先生と私」(「経済往来」昭和8年9月1日)より。
ここに書かれているのは、秋聲が尾崎紅葉の門下となって間もなくの明治28年夏ごろの話です。「漢文や漢詩なら少し
02-01 10:49
【徳田秋聲と俳句・漢詩】
「田舎にゐる時分、悠々君は既に小春菴といふ師匠に近づいてゐて、俳句を詠んでゐたが、私はその時分から詩的情念に欠けてゐたとみえて、俳句は詠めなかつた。漢文や漢詩なら少し捻くつたが、和歌や俳句には親しめなかった。しかし先生が俳句をやつた方がいゝといふので、
02-01 10:48
この「殘暑招客」がいちばん徳田秋聲の詠みそうな漢詩ではありますね。
詩の内容はともかく、言葉選びだけを見れば「詠史」「午睡」の方がまだしもすっきりしてると思います。
02-01 00:06
新稲法子先生くらい漢詩が読めればいろんなことが見えて来るんでしょうけど、私なんかのレベルから見ても、あんまり上手とは思えないですね、秋聲堂主人の漢詩。とくに言葉選びが生硬な気がします。例えば「更嘉水碧連山碧。又愛松陂与竹陂。」辺りの同語反復とか。 しかし3篇のなかでは、
02-01 00:05
簟(てん):竹や籐などを編んで作った敷き物。たかむしろ。
簾帷(れんい):すだれとひき幕。たれぬの。
陂(ひ):堤。土手。
※白居易「殘暑招客」を下敷きにしていると思われます。
※※読みが間違っていましたら御指摘頂ければ幸いです。
01-31 22:48
更嘉水碧連山碧 水碧ク連山碧キハ更ニ嘉シ
又愛松陂與竹陂 又松陂ト竹陂トヲ愛ヅ
入晚招客無別事 晩ニ入テ客ヲ招カバ別ノ事ナク
欲斟冷酒助吟思 冷酒ヲ斟ミテ吟思ヲ助ケントス
【註】
古榻(ことう):古い腰掛け。
檻:櫺子。格子窓。
緑波:緑色に見える波。
01-31 22:46
殘暑招客 秋聲堂主人
抱琴古榻對蓮池 琴ヲ抱キテ古榻ハ蓮池ニ対ス
檻外綠波望太宜 檻外ノ緑波ヲ望メバ太ダ宜シ
忽使快風生座簟 忽チ快風ヲシテ座簟ニ生ゼシメバ
不敎炎暑冐簾帷 炎暑ヲシテ簾帷ヲ冒サシメズ
01-31 22:44
パパが乳幼児にとって椅子のようなものであるとすれば、私(ママ)はさらに授乳器でもあるでしょう
01-31 17:03
【徳田秋聲俳句】
夜をこめて水落しけり麓村
芋の葉の蟷螂風に蹈張りぬ
芭蕉葉に風集りし御園哉
蟋蟀なくや火影の庭の隈
入相や小径を迷ふ秋の蝶
(「少年文集」明治29年9月10日[初秋即興])
※蹈張(ふんば)りぬ
※※御園(みその)
01-31 16:27
【徳田秋聲俳句】
秋の蝶手向の花に狂ひけり
月の野を狂ふぞ哀れ秋の蝶
足並の橋に揃ふや駒迎
朝風や望月駒の嘶きぬ
大雨に芋の葉しどろとなりに鬼
(「少年文集」明治29年9月10日[初秋即興])
※駒迎(こまむかひ)
01-31 16:23
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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