はてなキーワード: parallelsとは
――ヒトラーは金融緩和を行っていた。金融緩和を行う日銀はナチスと同じだ。
――男女平等は共産主義者が言い始めた。男女平等を掲げる政治家は共産主義者だ。
――戦中日本は優良多子家庭を奨励していた。少子化対策は戦時体制に回帰している徴だ。
これらが全体的に例証として荒唐無稽なのは言うまでもないでしょう。これは特定の主張と同じ主張をしている別のグループを持ってきて「お前は〇〇だ」と対人論証を行うもので、「連座の誤謬」や「関連付けの誤謬」と呼ばれています。その中でも国際的にも有無を言わさず巨悪とされるナチスは何かを批判する際に引き合いに出されることが多く、些末な共通点だけで同一視するような詭弁が蔓延ったため特に「ヒトラーに例える論証」と特別に名前がついているわけです。本来のヒトラーに例える論証とはそういうものでした。なおこれは論証として不成立であることを批判するもので、侮辱か否かとは少しまた別のレイヤーの議論であることを留意しなければなりません。
そしてヒトラーが持ち出されることが多いのを皮肉ったのが「ゴドウィンの法則」です。議論中にこうなったら大抵建設的でないレッテル貼りになりがちですよね。
しかしつくづく思うのですが、ナチス関連の例えを出した時に”機械的”にゴドウィンの法則を持ち出して論難し始めるのはどうなんでしょうか。元来、「誤謬」に名前を付け「法則」という諧謔を作ったのは非論理的な議論を排し建設的な議論を行うための道しるべを示すためではないのでしょうか。相手の失点を指摘することで点数を稼ぐゲームを行うためのルールなのであれば私の不見識ですが、そういうものではないですよね?現代人が好きな”建設的”な議論をしたいのであれば、紋切り型に言うのではなく相手の論証が不十分である根拠を滔々と説く必要があります。そうすると必然的に根拠を示すだけで議論は成立するので特段誤謬や法則の名前を持ち出す必要も無いものです。
そもそものところ、ヒトラーを出した即ち誤謬・詭弁とするのはあまりに乱暴ではないでしょうか。いや菅直人元首相の発言が連座の誤謬に該当しないと言うつもりはありません。連座の誤謬だと言い切れる自信も自分にはありませんが…。例えばナチスが抱えていた論理的誤謬と同じ誤謬を抱えていると指摘しそれが危険な帰結を導出しかねないと論証できれば連座の誤謬とまでは言えないのではないですか。話を変えて最初に挙げた例に移れば、少子化政策として子供が多い家庭を表彰するという話が出たら戦中の優良多子家庭表彰政策を持ち出し問題点を指摘する程度であれば連座の誤謬とは言えないでしょう。もしくは少子化対策に前のめりになるあまり子供が多い家庭を理想モデルにすることの危険性に注意を促す程度に留まれば個人的には問題無いようにも思います。
こうした区別の判断は「ヒトラーに例える論証」とか「ゴドウィンの法則」とか言って即座に議論を終わらせるのではなく丁寧に反証をしようとすれば、相手の主張が誤謬と言えるものかどうかが見えてきてできるものではないでしょうか。ヒトラーと言うだけで機械的にゴドウィンの法則に該当してお仕舞の世界よりは判断基準が主観的で曖昧になりますが議論とはそういうものではないでしょうか。もちろんそんなに労力をかけられないという意見は分かるのですけれども。
正直なところ、ナチスに関連できることを見つけてすぐヒトラーだと言い出す人とナチス関連の話を持ち出したのを見てすぐゴドウィンの法則だと言い出す人の思考回路は同じようなものじゃないですかね。
と匿名の人間が書いても意味がないでしょうから、権威に訴える論証(詭弁)をしましょう。何を隠そうゴドウィンの法則の発明者であるゴドウィンはオルトライトについてナチスと比較するのを奨励しています。
By all means, compare these shitheads to Nazis. Again and again. I'm with you.― Mike Godwin (@sfmnemonic) August 14, 2017
Since it was released into the wilds of the internet in 1991, Godwin’s Law (which I nowadays abbreviate to “GL”) has been frequently reduced to a blurrier notion: that whenever someone compares anything current to Nazis or Hitler it means the discussion is over, or that that person lost the argument. It’s also sometimes used (reflexively, lazily) to suggest that anyone who invokes a comparison to Nazis or Hitler has somehow “broken” the Law, and thus demonstrated their failure to grasp what made the Holocaust uniquely horrific.
[抄訳]
ゴドウィンの法則はしばしば次のようにまとめられている。ある人が現在の何かをナチスやヒトラーと比較したら議論が終わったか負けたことを意味するのだ、と。またはその人が法を『破った』とされ、ホローコーストの比類ない恐ろしさを理解できてないということを示唆するとして(反射的に、怠惰に)使われている。
反射的に(reflexively)怠惰に(lazily)という修辞句を使うゴドウィン氏の心情を慮りつつ…。いわゆるトランプ政権のゼロ・トレランス政策をヒトラーになぞらえて批判した議員がいたことについてこのように記述されます。
The response has been predictable: Debate for some people has been derailed by the trivial objection that, even if it is terrible to separate children from their parents (and sometimes lose track of them, or make it impossible for their parents contact them, or even deprive them of the comfort of human touch), it’s not as awful as what the Nazis did.
[抄訳]
「ナチスの行いを矮小化しているからこの比較は不適切だ」という反論したことはないですか?それがいつもつまらない反論でしかも議論を脱線させるような非建設的な意見かは知りませんが、この時なされたその類の反論はゴドウィンからすればここまで大上段に切り捨てられて当然のもののようです。辛辣ですね。この後、こうした時にゴドウィンの法則の名前が出てくるという話もしています。
But I do want to stress that the question of evil, understood historically, is bigger than party politics. GL is about remembering history well enough to draw parallels — sometimes with Hitler or with Nazis, sure — that are deeply considered. That matter. Sometimes those comparisons are going to be appropriate, and on those occasions GL should function less as a conversation ender and more as a conversation starter.
[抄訳]
ナチスの問題は政党政治より大きなものであることを強調したい。ゴドウィンの法則は深く考察される類似性(ヒトラーやナチスとのを含む)を描くのに十分なくらいよく歴史を記憶することに関するものだ。時にそうした比較は適切であり、その場合、ゴドウィンの法則は会話の終止符ではなく会話の第一歩となるのである。
要するにナチスが現代の政党政治と比べるべくもないヤバい奴なのは前提ではありつつも、ナチスとの比較は適切な時もあるから「ゴドウィンの法則に該当するからアウト」みたいな単純な使い方はするなよってことです。もちろんゴドウィンの法則の発明者だからと言ってゴドウィンの言うことが全てではありませんが。ただ、ヒトラーに例えることで議論が脱線し行き詰まるのを防ぐためのゴドウィンの法則という言葉が議論を脱線させる一因となるのであればミイラ取りがミイラではないですか。
ネット上では新しい概念が日夜発明されています。大抵の場合は既にある概念が再発見されて流行してるだけなんですけどね。そうするととかく流行概念に合致してると言えれば即何かしらの結論を得られるという思考に陥りがちです。しかも政治においては用語や見方という枠の解釈合戦(フレーミング)が起こるものです。しかし政治家や活動家でなければ必ずしもそういった方向に行かなくてもいいでしょう。結論と同じようにもしくはそれ以上に過程こそが議論にとって重要であるという基本に立ち返りませんか。その時、数多の概念は思考を論理的に展開する際の補助輪になってくれるはずです。そう、概念は結論に直行するものではなくあくまで思考の補助線なのだと考えた方が良いのではないでしょうか。概念に振り回されず、連座の誤謬もヒトラーに例える論証もゴドウィンの法則も上手に付き合えば落とし穴に嵌らないようにしてくれるはずですから。
しかしWindowsユーザーは言う。お前の"PC"にはエロゲがない。
まず訂正しよう。MacはPCではない。Macは地球上にMacという呼称しか存在しない。
ゲームも数が少ないだろなどといいう煽りもど、ど、どこ吹く風だ。
それにMacはセンスが大事だ。Adobeの本拠地はMacだ。WindowsでIndesignを触るやつはいない。
Macにはフリーウェアがないなどと言うものもいる。なぜフリーウェアが必要なのだ。
大金をAppleに貢いでこそMacユーザーではないか。そこにはいささかの揺るぎもない。
何度も言おう。インターネットサーフィンはMacでなくてはならない。
そこに意味を問うてはならないのだ。
ドックが高い? ケースが高い?
ましてアラブの石油王からすればドックの値段など微々たるものに過ぎない。
Windowsを眺める……ためさ。けっして、けして実用などしない。
するはずがない。
Androidなどという雑種は受付けない。いや実際には……接続……できない。
できない。みたいことない。やりたくない。少なくとも俺のMacにはAndroidは接続できない。
汚らわしい。
俺は……Macユーザーだ……これからも……Macユーザー……だ。
不、不便……いや今のは、不便の打ち消しとして不を使ったまでのこと。
かっこいいしクールだし……それが最高だしエクスペリエンスだ。
桃太郎が。
だからParallelsでWindows10を動作させてそこにWindows版のOfficeをインストールして使っている
Mac Office と Windows Office は互換性微妙だから
下は下で「Macを使いたいです」ってMacを買わせておきながら「ParallelsとWindows10が必要です」「Officeも欲しいです」ってなんだよ
Macで仕事している人ってHomebrewとかきちんと会社のシステム部門を通してやってるの?
紹介派遣の人がインストールできないと仕事にならないので裁可をお願いします的なのが回ってきてMacはようわからん
業務使いするのに必須ならデフォルトで入っているべきだろと思うのは時代遅れナノカ
上は「自分たちのわからないものを使わないと業務ができないのならMacを使うの止めてしまえ」っていい出すし
下は下で「Macを使いたいです」ってMacを買わせておきながら「ParallelsとWindows10が必要です」「Officeも欲しいです」ってなんだよ
なんならデフォルトでNumbersとKeynoteが入っているので、これからはOfficeも必要ありませんとか稟議書に書いてなかったか?
八年位前にWindowsからMacに自宅パソコンを変更し、iMacを使い続けてきたのだけど、intel core i5 + 8GBメモリではとうとうパフォーマンスが不満になることが多くなり、昨年年末に思い切ってMacBooKPro 16インチ版(intel core i9 + 16GBメモリ)をポチった。
おおおお、すげぇとまだまだその快適極まりないパフォーマンスに感激する毎日を過ごしているわけだが、それまで無視していたWindows10を思い切って導入してみることにしたのである。
もう10年以上、Windowsなんかインストールしたことないので、まさかのまさか、たったの三千円しかかからないなんて感動だった。もっと安く1000円というのもあったのだけど、ちょっと安過ぎて危険と判断し三千円としたわけである。
いずれにしても、二万円くらいかかると思い込んでいたので導入を躊躇ってきたのが悔やまれた。何故かというと、Microsoft Officeである。そのofficeサブスクリプションを五年くらい前に購入してMacOS上にOffice入れて使っていたのだけれど、これが重いのだ。また、仕事で使っていたVBAに互換性がなく、ファイルを自宅では使えないという問題が頻発した。
まったく、もっと前に気付くべきだった。OfficeのパフォーマンスだけはWindows上が最高であった。
しかし二つの異なった環境とは言え同じパソコン上にあるのに、何故だか最新のBootCampでは互いのディスク上を共有することは出来なくなっているのは結構な不満。
クラウドに置いておけば済むのではあるけど、めんどくさい話でもある。
あと、妙な話なのだが、Windowsの性能は100%出ていると思うのだけど、めっちゃ音質のいいはずのスピーカー音が何故かWindows上では音質が落ちる。MacBookPro2019モデルはめちゃくちゃ音質が良くて、少なくともMacOS上での音楽再生は感動レベルなのだけど…。それに音楽再生していると何分かに一回「ブチっ」と雑音が入るのも不思議。デジタル再生で雑音が入るって聞いたことがないんだけど?
タッチパッドの使い勝手がいくら調整してもMacOSと同等というわけにはいかないのも若干不満。でもWindowsってそんなもんだよな。
仮想環境でWindows10という考えもあったけど、特に必要性は感じなかったので安直にBootCampとした。
追記:
ちなみにこの記事中では少なくともWindows10については値段しか述べてないので悪しからず。
Parallelsはねぇ、その九千円弱って金額が微妙なので躊躇ったんですよ。今でも躊躇ってるんですけど、BootCampで困っているという程ではないので。
Windows機を別に新調するってのも、持ち運ぶのが大前提なのでそれは選択肢にはなかったっす。どこでもどちらも使えないと困るので。でも何が凄いって、MacもWindowsもその両方がcore i9 + 16Mメモリ + AMD Radeon PRO 5500M という比較的ハイスペックで動く事。新調することに比べればこのコスパは比較になりません。
ムカついてたのはMicrosoft Officeだけじゃなくて、ゲームもです。catalina になって32ビット排除をAppleが押し進めたものですから、Macで動作するゲームがガタ減りしたのです。
スターが多い人のコメントで批判している程、めちゃくちゃな事は言ってないと思うよ。提案っぽく書かれているから「余計なお世話だ!」ってMacファンが言うのは仕方ないと思うけど、そんなに極端に事実に反した事を書いている訳でもないし。
デスクトップマシンですら自分でメモリの増設もさせないっていう作りも含めて、ios開発でもやってなきゃ、個人的に率先して欲しいマシンじゃない。好きな人が買う分には構わないけど。
Unixライクなのが欲しければバーチャルマシン上でLinuxでも動かせばいいと思うし。WinいらなきゃLinux単独で入れたっていい。
Windowsのメリットを否定しながら、MacでもWindowsも動くのがウリなのは本当に寂しい。ブートキャンプは使いづらいし、Parallels等ならバーチャルマシンで条件は一緒。リソース合戦ならWindowsマシンに軍配が上がる。
http://snowleopard.wikidot.com/ に載ってるのも試してみた。
ねとらじ用アプリが全滅で残念。
linux (Fedora7) に parallels と vmware 両方入れてみた。
vmware のインストールはめんどくさかった。linux kernel の header ソースファイルが必要らしい。
どこから持ってくるねん、とかめんどくさかった。
最終的には vmware-any-any-update というパッチがあるらしくそちらを使ったほうが楽ということでそちらを使用。
parallels はすんなり。
機能
vmware のほうでは音声デバイスが検出されなかった。マウスのスクロールが利かなかった。
parallels のほうではすんなり。問題なし。