運命の6月14日となりました。初戦でベルギーと引き分けて、2戦目でロシアに勝利したトルシエジャパンは、決勝トーナメント進出を賭けて、アフリカ代表のチュニジアと対戦しました。GLの中では、チュニジアが、「もっとも力の劣る相手」と思われていましたが、1998年のフランスW杯では、同じように、組み易しと思われたジャマイカに1対2で敗れているので、油断している人はいませんでした。
1勝1分けの日本は、勝てば首位でグループリーグを突破できます。また、1点差負けでも、グループ2位になることが出来ます。ただ、グループHは、決勝トーナメントの1回戦で、グループCを勝ち上がってきたチームと対戦するので、グループCを首位で通過したブラジル代表との対戦を避ける意味でも、首位で通過したいところです。
とは言っても、このときは、首位通過も、2位通過も関係なくて、ほとんどの人は、「GLを突破すること」を最優先に考えていました。幸運なことに、ロシア戦の翌日に行われたベルギーとチュニジアの試合が引き分けに終わったので、チュニジアに1点差で敗れても、2位で通過できるという非常に有利な立場でチュニジア戦を迎えましたが、これは、精神的な余裕をもたらしました。
大一番のチュニジア戦の前に、当時のトルシエ監督は、選手たちに次のように語りかけました。
「今日という日は、本当に素晴らしい1日になるだろう。1つの長い過程の結果だから。そして、ワールドカップの決勝トーナメント進出がかかっている試合だから。それは、みんな子供の時から夢で見てきたことだから。」
フランス人のトルシエ監督は、エキセントリックな人物でしたが、フランス人らしく、言葉を使って、選手を奮い立たせる能力に長けていました。いわゆる、モチベーターとしての能力に優れたものがあったと思います。そして、その言葉どおり、2002年6月14日は、素晴らしい1日となりました。
前半は、膠着状態になりました。日本は、疲れもあったのか、ロシアのようなパフォーマンスはできず、なかなか、チャンスを作れません。15:30キックオフの試合で、暑さとの戦いもあって、体の重い選手が目立ちました。よって、猛攻を期待していたサポーターにとっては、苛立ちの募る前半となりました。
結局、前半は0対0で終了しますが、後半開始から、トルシエ監督は、MF稲本とFW柳沢を下げて、MF市川とMF森島を投入します。「0対0のままでもOK」どころか、「0対1で敗れても大丈夫」という状況なので、ハーフタイムに二人の選手を代えるというのは、相当なギャンブルでしたが、結果的には、この積極的な交代策が実を結びます。
均衡を破ったのは、途中出場した森島寛晃でした。後半3分に相手のクリアボールを拾ったMF森島が右足でシュートを放つと、これが鮮やかにネットを揺らして、待望の制ゴールをマークします。試合後に、MF森島自身が、「あんなの決めたことないよ。」というくらいの見事なシュートでした。
このゴールは、「六月の勝利の歌を忘れない」というDVDの中で、山本昌邦氏が、「ファーストタッチだろう。」とはしゃいだこともあって、ファーストタッチでゴールを決めたと思っている人も多いと思いますが、キックオフのときに、ボールを触っているので、厳密には、ファーストタッチではありません。いわゆる「ガセネタ」ですが、確かに、流れの中ではファーストタッチでした。
そして、このゴールは、MF森島がキャリアの中でマークしたたくさんのゴールの中でも、もっとも重要なゴールであり、もっとも記憶に残るゴールとなりました。言うまでもなく、長居スタジアムは自分のホームグラウンドで、ここで決勝トーナメント進出に大きく近づく先制ゴールを決めるというのは、これ以上ない栄誉です。
MF森島は、「初代・ミスターセレッソ」で、誰からも愛された選手でした。得点力のある選手でしたが、何と言っても、献身的なプレースタイルが特徴で、トルシエ監督にも、ジョーカー役として、高く評価されていました。彼がピッチに入ると、攻撃の流れが良くなるので、ジョーカー役としては最適の選手でした。
この日、彼が、大阪の地でヒーローになりましたが、我の強い人が多い大阪という街で、謙虚なMF森島が活躍したというのも、面白いところです。「もっとも腰の低いJリーガー」と言われましたが、謙虚さはプレースタイルにもよく表れています。人を惹きつける魅力を持った選手で、あれだけゴールを量産した香川真司も、C大阪では、偉大な先輩を超えることはできませんでした。
先制ゴールを奪って、スタジアムはヒートアップしましたが、後半30分に途中出場したMF市川がまたぎフェイントから素晴らしいクロスを供給して、大黒柱のMF中田英にW杯初ゴールが生まれました。このゴールで、MF中田英は、U-17W杯・U-20W杯・五輪・W杯・コンフェデレーションズカップという主要な世界大会の全てでゴールを決めていた初の日本人選手となりました。
見事なアシストを決めたMF市川も、トルシエ監督が大きな期待を抱いた選手の一人で、2002年になって、代表に呼ばれるようになりました。トルシエ監督は、左右のアウトサイドにボランチやゲームメーカータイプの選手を起用することを好みましたが、2002年になって、MF市川とMFアレックスという本格派のサイドアタッカーを代表で試してきましたが、これが実を結びました。
2対0とリードしてからは、目前に迫った歓喜の瞬間を待つまでの、幸福な時間となりました。その過程では、追加点のチャンスもありましたが、決めることはできず、「ダメ押し」はできませんでしたが、そのまま、2対0で日本が勝利して、見事にグループ首位で決勝トーナメント進出を決めました。
この結果を受けて、日本中は大騒ぎになりました。2002年6月というのは、日本国中がお祭り騒ぎになった特別な1か月間でしたが、中でも、6月9日と6月14日の熱狂ぶりは、今でも忘れられません。日本であって、日本でないような不思議な感覚でした。
決勝トーナメント進出を決めた日本は、その後、6月18日に宮城スタジアムでトルコと対戦しましたが、MFアレックスとFW西澤をスタメンで起用するという奇策が成功せず、0対1で敗れてしまいます。「勝ているときはいじらない。」という鉄則を守れなかったことで、トルシエ監督は批判を浴びましたが、さらに上に進むためには、新たな力が必要だったことも事実で、一概には、責められないと思います。
また、決勝トーナメントで、イタリアとスペインを撃破してベスト4に進出した韓国代表と比べる論調も目立ちましたが、あのときの日本には、ベスト4に入る力はなかったと思いますし、いろいろな策を講じて、背伸びをして、ベスト4に進出するよりも、ベスト16という身の丈にあった成績で大会を終えたことは、悪いことでは無かったと思います。
あれから10年が経って、現在の日本代表の主力選手は、北京世代(1985年~1988年生まれ)が中心になっています。彼らは、2002年の頃は、中学生や高校生で、トルシエジャパンから大きな刺激を受けたと想像できます。
Jリーグが誕生して20年が経過しました。そして、W杯で決勝トーナメントに進んでから、10年が経ちました。若い世代には、世界レベルの選手が生まれてきています。
FW三浦知、MFラモス、DF井原の時代は、海外クラブに移籍するだけでも、光栄なことでした。その後、MF中田英が欧州の道を切り開くと、黄金世代の選手が次々に海を渡って、一定の評価を得ることに成功しました。そして、今、MF本田圭、DF長友、MF香川の時代となって、彼らは、欧州のクラブでポジションを確保するだけでなく、リーグ内で大きな存在感を示して、CLに出場するような大きなクラブに引き抜かれるようになりました。
日本サッカー協会は、「2050年までにW杯を制覇する。」という大きな目標を掲げています。その目標を公表したときは、「ちょっと難しいのでは?」と感じましたが、今、少し時間が経過して、「もしかしたらチャンスがあるかもしれない。」と感じるようになってきました。夢のような話だったW杯制覇も、全く無理な話ではないのかもしれません。
Jリーグが誕生してから、日韓W杯までの10年間は、世界でも例がないほど、日本サッカーは、急激な進歩を遂げて、世界中から称賛されましたが、日韓W杯から今までの10年間も、負けず劣らずの進化を見せました。果たして、これからの10年は、どんな10年になるのでしょうか。
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